胸のふかき死海に浮くあかき百合「僕にブォナパルテになれと言うのか」
アンジョルラスは瞳に怒りを漲らせてそう言った。
対するこちらの肌がひりつくような彼の覇気に気圧されて、背後で仲間たちが一歩下がる。
掴み掛らないのは彼の性格なのか、理性なのか。
どこか冷めた視点で彼を眺めながら、コンブフェールは口を開いた。
「そうじゃない。むしろそうならないために必要なんだ」
予想よりも平然とした声だった。我ながら安堵する。ここでコンブフェールが圧し負ければすべてが水の泡だ。
バルコニーには陽光が燦燦と降り注いでいた。革命前は打ち捨てられていたこの離宮を手入れさせたのはコンブフェールだ。
瀟洒な細工を凝らした大理石の欄干を背に、アンジョルラスは絵のように美しかった。彼の向こうには緑溢れる庭園が見えた。季節の花々が入り乱れ、一年中花が絶えない。噴水の水は澄んで光が撒き散らされている。コンブフェールに詳しいことは分からないが、細部まで粋を凝らした宮殿はイタリアから建築家を呼び寄せて建てたものだという。中でもファサードの美しさは抜きん出ている。
王朝が残した遺産の中でも、もっとも清廉な美しさを持つ宮殿だ。アンジョルラスに似合うに違いないと、コンブフェールが選んだ。
──君は、政治の現場から離れるべきだ。
コンブフェールの言葉に、やはりアンジョルラスは激昂した。だが、これは皆で決めたことだ。アンジョルラス以外の皆で。
「君がいれば、誰もが君に従うだろう。だが、それではブォナパルテと同じ轍を踏むだけだ」
「そんなことはない」
「あるんだ。君は君の望むと望まざるとに関わらず絶対者になる。……君は強すぎる」
「……もしそうして僕が旧体制に戻そうとしたなら、君たちが止めるだろう」
コンブフェールは首を振った。
「僕たちだけで政治は動かせない。革命の英雄を慕う民衆や兵士たちの気持ちをどうして無視できる? 始めは美しい気持ちでも、行き着くところは皆同じさ。革命は必ず堕落するんだよ、アンジョルラス」
「そのための共和制だ」
断言する彼の声に心が揺れる。これが彼の力だ。彼には人を従わさずにいられない天賦の才がある。彼の言葉にコンブフェールは幾度も思考を奪われ、救われてきた。
「……お願いだ」
口をついて出たのは情けない声だった。
「君の言葉は絶対だ。君がそのつもりなどなくても、絶対の響きを持つ。その力をもっと自覚したほうがいい。……僕たちに仲間殺しをさせないでくれ」
──そのとき彼がひどく傷ついた顔をしたのを、僕は見ないふりをした。
失礼するよ、と一声かけて、コンブフェールは寝室のドアを開いた。──むせるような甘い匂いがする。
御用伺いに出た召使が、おずおずと「寝室のほうへと」と言ったので、恐らく構わないのだろう。コンブフェールは襟についた水滴を軽くぬぐった。夜半から降り出した雨は朝になっても止まず、日がようよう高くなるころに霧雨に変わっていた。
広い空間にベッド、そしてサイドテーブル、簡単な書き物用の机、小筥が並んでいる。ラピスラズリの青が目に付いた。繊細なレースの細工の天蓋が日の光に透けている。
「……コンブフェール?」
天蓋の向こうから聞こえた声は枯れていた。
「うん。……悪いね、休んでいるところに」
「構わない」
アンジョルラスは淡々と言って天蓋を避けてベッドから降りた。その彼の様子にコンブフェールは思わず言葉を呑んだ。
シャツはひとつふたつボタンがとめてあるだけだった。寝乱れた髪が額にかかっている。瞳にはうっすら紗がかかっているようで定まらない。
「……どうした?」
枯れた声に我に返った。
「アンジョルラス、具合でも悪いのかい。それなら出直しても……」
「いや、いい」
彼は不思議そうにコンブフェールを見る。そのとき、大きく開いた襟からアンジョルラスの胸元が目に入った。──白い肌の上に、点々と散る鬱血痕。
すべてが氷解した。
「……グランテールは?」
訊くと、アンジョルラスは何でもないことのように「まだ寝ている」と言った。
コンブフェールはアンジョルラスの胸元から目を反らす。
アンジョルラスはコンブフェールに椅子を勧めた。
「水を飲んでも?」
「どうぞ」
アンジョルラスが水差しからコップに水を注いだ。コンブフェールは霧煙る窓の外を眺める。濡れた窓ガラスのすぐ近くに背の高い、白い百合の花が咲いていた。ああ、甘い匂いはここからなのか。
百合は宮殿のかつての持ち主の紋章だった。聖母マリアの処女懐胎を見つめていた白い百合は純潔の象徴だ。きっとアンジョルラスに似合うだろうと思っていた。
「それで、用件はなんだ」
水を飲み干したアンジョルラスはコンブフェールを見つめる。少し彼の声が戻ってきている。
「褒賞のことだ」
うん、とアンジョルラスは頷いた。
アンジョルラスとグランテールの関係がいつごろからなのか、コンブフェールには分からない。あれほどグランテールを軽蔑していたアンジョルラスが、どうして身を任せるようになったのかも分からない。
グランテールに宮殿の管理をさせたのがいけなかったのだろうか。宮殿の隅々に手勢を忍び込ませているコンブフェールでも、閨にまでは気が回らなかった。気がついたときには二人の関係ができていた。
グランテールを追放するだとか、虚偽の罪をでっち上げるだとかの手段を講じることも可能だった。だがコンブフェールにはどうしてもそれができなかったのだ。
──これは、きっと罰なのだろう。
あのとき、君が傷ついた顔をしたのを見ないふりした僕への。
アンジョルラスは、現在がどうあれ革命の英雄だった。端正な彼の姿は革命の象徴であり、国民の賞賛と憧憬の的であり、輝かしいフランスの未来を示しているかのようだった。
革命の英雄の「愛人」の存在が外に漏れてはならない。
「愛人」のことは、この宮殿、そしてかつての仲間たちだけの秘密になった。
回廊には光が満ちていた。
日当たりをよく考えて建築されたらしい、冷たい石の床にぬめるように光が渡り、反射している。モザイクは這い回る蔓を中心に可憐な瑠璃色の花の文様、かつてはこの場所をかの太陽王も歩いたのだろう。
──そこを、貴族でもなんでもない僕が歩いている。
王朝は滅び、千年の栄えを願い建てられた王宮に革命者が闊歩している。
グランテールは見るともなしに庭を眺める。眼下には百合の花弁が散り敷いている。百合は枯れゆくと共に噎せ返るような香りを放つ。植物の中でも一際背が高く凛と咲き誇っていた百合が、花弁の端のほうから茶色く枯れ、やがて生殖器を突き出して崩れていく姿はひどく淫猥だ。
王宮は離宮よりも季節が早い。グランテールが一日の大半を過ごす離宮ではゆっくりと時間が流れているようだった。
あそこでは時間の感覚は必要ない。
一晩中交わって日が高くなるまで眠っていることも、昼間から交わることも珍しくなくなっていた。
アンジョルラスはもう語ることをしなかった。語るべき理想を奪われたアンジョルラスは鳴けないカナリアのようだと思った。
「……グランテール」
背後から呼ばれて足を止める。顧みればそこにはかつての仲間がいた。
コンブフェールは目を丸くしてグランテールに歩み寄った。
「君がここにいるとは思わなかった。どうしたんだ」
笑みを浮かべる彼はすっきりとした身なりをして、革命政府の首脳らしい貫禄と共に書生臭さを残している。
「アンジョルラスから君に言付けを預かったんだ。会議中だというから、君の使いに任せてきた」
「そうか。……君、」
コンブフェールは急に眉をひそめた。
「また昼間から飲んでいるのか」
彼は低く言って溜息をついた。グランテールは笑う。
「もちろんさ。酒はこの世の憂いを除いてくれる、根本的な解決策だ」
「馬鹿なことを」
こういう潔癖なところが、《彼ら》は双子のようによく似ていた。
コンブフェールはグランテールを上から下まで検分するように眺めた。
「……君には、自覚が足りない」
「自覚だって?」
「革命政府の一員としての自覚だ」
グランテールは思わず笑う。言うに事欠いてこの僕に、革命政府と。
「それはこの身なりについて? 昼間から飲んでることについて? それともアンジョルラスとの関係についてかい?」
コンブフェールは顔をしかめて吐き捨てた。
「その全てだ」
グランテールは笑みを深くした。
「全てか。そうか、君は僕の何もかもが気に入らないんだな。ああ、分かっていたとも、君は昔から僕が嫌いだった」
不意にグランテールはコンブフェールから離れる。
「僕を嫌うのは結構だ。けれどコンブフェール、精神の拠り所がないのは苦しくはないかい」
グランテールは喉の奥で笑いながらコンブフェールを振り返る。長い回廊の奥、光の届かない闇の前に、コンブフェールはひとり残されていた。