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    われの神なるやも知れぬ 背負った身体が徐々に冷えていくのを感じていた。血を失いすぎたのだ。首筋にかかる呼気は小さく早い。それも弱くなっているように感じられた。
     グランテールはアンジョルラスの身体を背負いなおした。一瞬、黒い帳が視界を覆う。軽く頭を振って紗を払った。倒れるわけにはいかなかった。暑くもないのにこめかみから汗が落ちる。心臓はうるさいほど鳴っているのに、四肢からは力が抜けていく。アンジョルラスの腕を掴んでいなければ今すぐにでも崩れ落ちていただろう。
     低い庇の間を身を屈めて進む。意識のない身体は泥のように重く、じわじわとグランテールの体力を奪っていく。廃材のような木を滅茶苦茶に組み合わせた家々が乱立している。低すぎたり、高すぎて垂れ落ちる軒先がグランテールの行く手を阻んだ。時折、風にのってむっとした臭気が昇ってくる。木材の間、大地に染み付いたかのような汚物の臭いだ。
     あとは川を渡れば良い。川を渡ればパリ屈指の貧民窟だ。官警も手出しはできない。もっとも、ジャベールほどの男になれば貧民窟を総浚いして残党狩りをしかねないが。
     地面に埋まった石に足を取られ、身体の平衡を失う。背中のアンジョルラスをかばい、左肩をしたたか壁にぶつけた。
    「……う……、あ」
     かみ締めた歯列の隙間から喘鳴が漏れた。激痛がグランテールを苛む。肩か、あるいは腹部に食い込んだ銃弾か、判断が付きかねた。
     背中からずるずると落ちかかるアンジョルラスを決死の思いで引き止める。意識が遠のく中で彼を離すまいとする気持ちだけが強かった。
     彼はおそらく救われることを望まない。絶望的な思いで確信しながら、グランテールは必死に足を踏みしめた。グランテール自身にも、自分のやっていることの意味が捉えかねた。あのままでいればきっと、二人とも死んでいただろう。それで構わないと思っていたはずだった。
     銃弾を受けた衝撃で気を失っていたグランテールが目を覚ましたとき、たまたま、そこに官警の姿がなかった。傍の死体に手を伸ばして触れたとき、たまたま、息があった。それだけだった。
     あるいはこう言っても良い。アンジョルラスが死んでいくことに、グランテールは耐えられなかったのだ。
     自己満足であろうが傲慢であろうがどうだって良かった。理想に殉じる英雄は美しい。その偉大なる姿に慄きながら、グランテールは惚れ惚れと彼に見蕩れていた。それは虚しい美しい幻想だった。
     人間は儚い。しかし人体は人間が望むよりも遥かに逞しい。美しい刹那の死を迎えられなかったならば後は驚くべき凡庸さがあるばかりだ。グランテールは、彼の天使が凡庸な死を迎えることに耐えかねたのだ。
     グランテールには堕落した人間だという自覚があった。ひとつ堕ちるごとに感じる絶望の奈落と安寧の寝所、それをアンジョルラスの高潔に触れるたびにもまた感じていたのだった。どこまでも果てなく堕ちていけるほど人間は強くはあれない。堕ちれば堕ちるだけ、心性では清らかなものを欲する。グランテールにとってそれはアンジョルラスだった。
     あの場からアンジョルラスを助け出したこと、それ自体に意味などなかった。アンジョルラスにとっては災厄でさえあるのかもしれない。すべてグランテールのエゴイズムなのだった。
     壁に凭れてしばらく呼吸を止めていると、痛みの波が引いていくのが分かった。麻痺し始めているのかもしれない。今はそれどころではなかった。冷え切ったアンジョルラスの手を握る。わずかな呼気が希望のすべてだった。思うより先に足が動いた。震える膝を叱咤する。目的など、意味などどうだっていいのだ。そんなもののために、グランテールはアンジョルラスの傍にいることを願ったわけではなかった。
     次の角を曲がれば川が見えるというときだった。
    「そこにいるのは誰だ」
     行く手から低く、しかし威圧する声が聞こえた。引き返すには遅く、またグランテールの足は萎えていた。どうすることもできずに立ち尽くす。規則正しい靴音が迫り、そして角を曲がった。
     霞む目にも丸い銃口が見えた。これで終わりだ、瞼を閉じた瞬間、掌に脈が触れた。あるかなきかの微かな脈動が、そのとき確かにグランテールの身体に力を与えたのだ。
     目を開けて銃後の将校を見る。彼は何か驚いたように硬直していた。その顔に覚えがあった。バリケードを攻撃する先頭にあった、目の丸い髭の将校だった。
     少しの間、グランテールは考えをまとめる余裕ができた。一呼吸ののち、口を開く。
    「……見逃してくれ」
     声は掠れて覇気がなかった。くじけそうになる心を、アンジョルラスの手を握って励ます。
    「見逃してくれ。お願いだ。……僕たちは負けた。確かに僕たちは叛徒であったかもしれない。だが、僕たちが戦ったのは民衆のためだった。民衆を苦しみから救うためだ。……すべては、祖国のために」
     将校は瞠目し、呆然としてグランテールらを眺めていた。銃口が惑った。その瞳に混乱と迷いとが行きかった。僅かに開かれた唇が震える。彼は小さく何かを呟いたが、グランテールの耳には届かなかった。
     グランテールは祈るような気持ちで将校を見返した。グランテールの運命も、アンジョルラスの運命も、この将校の判断ひとつに掛かっていた。
     機械的に挙げられていた手は、機械的に下ろされた。将校は規則的な動きで銃を腰のホルスターに収める。帽子を目深に被りなおした。
    「……本官は、何も見なかった」
     それだけを素早く言うと、将校は背中を向けて、元来た道へと引き返していく。
     グランテールは息をついた。助かった、少なくともこの瞬間だけは命が繋がった。
     グランテールはアンジョルラスを抱えなおした。重い足を引き摺るように一歩一歩進む。角を曲がると川があった。夜の底に銀の鱗を光らせて、昨日も今日も何事もなかったかのように横たわっている。
     この川の向こう、貧民窟の最も貧しい場所を通り抜けた先に、グランテールの目的地はあった。
    ユバ Link Message Mute
    2019/11/27 10:37:45

    われの神なるやも知れぬ

    グランテールがアンジョルラスを助けて逃げる話。オフィサーハドリー

    われの神なるやも知れぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る/寺山修司

    #レ・ミゼラブル #アンジョルラス #グランテール

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