女は愛嬌、男も愛嬌(1)「何をしてるんですかっ⁉」
俺と部下が、ちょっとした言い争いをやっていたら、通りすがりらしい知らない女が、そう叫んだ。
会社の帰りらしい三十過ぎの女だ。
何だ、この変な女は? お前は何様だ?
「あんたには関係ないだろっ‼」
会社の外でこんな言い争いをしていた俺達にも問題は有るかも知れないが……何だ、その犯罪者でも見るような目付き……おい……どうした?
その女は、俺の顔を見た途端……電車の中で「この人、痴漢です」と叫んでる時みたいな表情は……いや、そんな光景を目にした事が有る訳じゃないが、あくまで喩えで……幽霊か化物でも見たような顔に変った。
その変な女は絶叫と共に逃げ出し……一体全体、何なんだ?
だが……俺の目の前に居る部下の顔にも……。(2) 笑美寿神社と書いて「えびすじんじゃ」と読む。
都内のある私鉄の駅の近くに有る神社だ。
言わばビジネス街の中に場違いな古風な神社が有ると云う奇妙な場所。
神社の背後に高層ビルが見える、と云う不思議な光景をスマホで撮影している人も、たまに見かける事が有る。
会社の帰りに、その神社の側を通りかかると、境内から大声がした。
激昂した男の声。
私は気になって神社の境内に入った。
男は背中しか見えない。そして、若い女性が1人……。男に両腕を掴まれている。
両方とも、いわゆるビジネススーツ。仕事帰りのサラリーマンだろう。
若い女性は……多分、まだ、二十代前半。怯えた顔をしていた。
ひょっとしたら、性犯罪かも知れないと思い……私は大声を出した。
「何をしてるんですかっ⁉」
男は振り向き、ブチ切れた声で叫んだ。
「あんたには関係ないだろっ‼」
だが……。
何なの……これは?
理解出来ないモノを見た時に感じる種類の恐怖が私の心を満した。
私は叫びをあげて逃げ出した……。
あの男は……怒りに満ちた声をあげながら……顔には……この神社の御神体のエビス像のようなにこやかな笑みを浮かべていたのだ。(3) 新人研修を終えてすぐ、客先常駐になった。
客は大手都銀で、私達はSEとして、障害対応やシステムの更新・保守を行なっている。
だが、それから間もなくして……直属の上司である係長からのセクハラが始まった。
本人はセクハラと認識してはいまい。しかし、それだけにタチが悪い。
新人教育ではセクハラに該当するから絶対にやるな、と言われた事だ。
恋人は居るのか……結婚する気は有るのか……カミングアウトしていない同性愛者である私には、聞かれるだけで、うんざりする質問だ。
良く有る事だから、我慢しろ、と考える人も居るだろう……。しかし、私には我慢しない勇気が欠けていた……。
耐えている内に事態はエスカレートし……。女ってのは、もっと男に愛想良くするもんだ、と言われ、それに従い職場では無理にでも笑顔を浮かべる内に……。
そして、その日の仕事が終った後……帰りの電車は逆方向の筈なのに、係長は私の背後に居た。
「おい? 会社の寮、ここじゃないだろ?」
電車から降りて逃げ出そうとしたが、追ってきた。
逃げてどうなるのか? と云うのは自分でも判っていた。
ここで逃げられても、明日の朝になれば、この男がまた居るのだ。(4) なんだ、一体?
何故、俺から逃げるんだ?
この女は俺に気が有ったんじゃないのか?
職場では、いつも俺に笑いかけてくれてるのに、何故、今になって……?
周囲の客の中には、俺を痴漢か何かを見るような目で見てるヤツも居る。
おいおい、勘弁してくれよ。まぁ、俺も、怯えてる女の背後に……まぁ、体が大きい方の男が一人居りゃ、そう云う勘違いをするかも知れねぇが。
電車が止まると同時に、あいつは、慌ててドアに向かった。俺から逃げ出したようにしか見えねぇじゃねえか。
どうなってんだ?
会社の先輩を痴漢冤罪で刑務所にブチ込む気か?
「おい? 会社の寮、ここじゃないだろ?」
俺は、あの娘を追い掛けて、そう言った。
だが、あの娘は俺を無視。
駅を出る。
何故、走ってる?
それに何か妙だ。
あの娘自身が、どこに行くつもりか判ってないようだ。(5) 東京の真ん中に、こんな場所が有ったのか……。
会社の後輩に追い付いたのは……古風な神社の中だった。
「おい……どう言うつもりだ?」
「先輩こそ……何のつもりですか?」
「はぁ?」
「私……もう我慢するのやめます……。先輩は何か勘違いしてるみたいですけど……私、先輩の事を好きでも何でもないですから……」
「はぁっ? ふざけんな‼ なら、なんでいつも、あんな愛想笑いを浮かべてたんだよ‼」
「それは、先輩が……」
「ああ? 俺がどうした? 逆ギレか? 全部、お前が悪いんだろうがっ‼」
何だ、この女?
俺は、こんな我儘な女に惚れてたのか?
困ったヤツだ。会社の先輩として、少し教育してやる必要が有るようだ。
「何をしてるんですかっ⁉」
その時、背後から知らない女の声がした。(6) あの女が病気……何かおかしいと思ったら、要は心の病気だったらしい……で休職してから数ヶ月。
俺は、伯父の葬式の為に急に帰省する事になった。
盆と正月にしか会わないような仲だったので、何で葬式に出なきゃいけないとは思ったが……場が場なので、神妙な顔をしとくか……。
だが、何故か、参列者が俺の顔を見ながら……。
おい、何だ……失礼な奴らばかり……いや……家族や親戚も俺を見ながら……最初は怪訝そうな……やがて、段々とイラついた表情になっていった。
何だ一体?
「兄ちゃん……いい加減にしてくれよ。何のつもりだ?」
とうとう、弟がそう言い出した。
おい、どう言う事だ?
「えっ……?」
「葬式だよ。その変なニヤニヤ笑いやめてくれないか?」
どうなってんだ、と思って、トイレに入ると……洗面台の鏡に映る俺の顔は……そう……弟が言う通り変なニヤニヤ笑いが貼り付いていた。(7)「先日の障害につきましては、誠に申し訳ありませんでした。これより原因と対応の詳細および再発防止策を説明させていただきます」
家族・親類から総スカンを食らう羽目になった葬式から1ヶ月強。
今度は、客先の新システムの環境構築の際にウチの会社の手順ミスで作業が予定より2〜3日遅れる、と云うとんだ失態が起きてしまった。
「では……配布しました資料の1ページ目を御覧下さい……」
だが……やっぱり……あの葬式の時と同じように、会議室に集まった面々は……1人残らず俺に怪訝そうな表情を向けた。
「以上が直接の原因ですが、動機的要因といたしましては……」
「まぁ、別に貴方達に謝罪してもらおうとは思ってませんよ。二度と同じ失敗をやらなければ、我々としては、それで良いんですがね」
客の上級調査役……ウチの会社で言うなら課長と部長の間ぐらいの役職の人が、機嫌の悪そうな声でそう言った。
「ですが、いくら何でも……礼儀ってものが有るでしょう? 違いますか?」
「えっ?……えっと……」
「あの……さっきから、ずっと気になってたんですが……一体、貴方は、何がそんなに楽しいんですか?」(8) たった1年で俺の給料は大幅に下がった。
成果は出せなくなった。
そもそも、何かの成果を出せるような仕事を割り当ててもらえなくなったのだ。
客先や他の部署や協力会社・親会社との折衝や打ち合わせには、俺を出す訳にはいかなくなったのだ。
結局、俺は、自分の会社で……何でも屋みたいな事をやる羽目になった。
人手が足りない仕事を一時的に手伝う事の繰り返し。
前の年の三分の二までに下がったボーナスの明細を見た時には……本気で吐き気がしてトイレに駆け込んだ……。
だが……トイレの鏡に写っている俺の顔は……涙を流しながら笑っていた……どこか薄気味悪い笑みが……顔に貼り付いていた。
これから……どうなるんだ? そう思った瞬間……鏡の中では……俺の口元は更に緩み、目元は更に垂れ下がり……まるで昔話の福の神のような顔になっていった……。