沼るな天津甕星
よっと壁を駆け上がり、瓦の端を掴む。揃えた脚を振り上げて、その勢いで体を宙に浮かせる。着地の際にかちゃりと音を立てたことで下から視線を感じたが、流石に屋根の上に居るとは気付いていないのかすぐに消えた。
瓦の下の木組みの位置からあまり音が立たない道を選んで飛び移るように小走りになる。目的の部屋の周りに居る忍び達は存在を示すように一瞬だけ気配を見せる。職務を粛々とこなす彼らに挨拶代わりの微笑みを見せた家康は、城の中腹より少し上にある大窓の前で立ち止まる。
今日は天気が良いせいか窓が開け放たれていた。家康は中に居る人物に向けて片手を振る。反応が無い。無視されているのかとも思ったものの気付いていないだけかも知れないと、両手を振る。そこでようやく部屋の主は筆を置いて家康を見た。
「何用か徳川。」
「特に用と言う訳ではないんだがな、ちょっと匿ってくれ。」
準備していた答えを返し、毛靴を脱いで部屋に入る。いつもと変わらない調子ににこにことしながら、家康は吉継の近くに尻を落ち着けずに座り込む。
聞いた声に不調は無い。書状の処理をしている所を見ると、今日は手や目の調子も悪くないらしい。すぐさま顔を背ける吉継の一瞥を受けながらもそう看た家康は、安堵のような感情を抱きながら尚も笑っていた。
「見ての通りわれは忙しい。ぬしに構う暇は無い。」
「ああ、分かってるよ。だから今日はこれを持ってきた。」
家康は背中側の腰紐に挟んでいた本を取り出す。両手で小口と背を持って見せた表紙を、吉継は横目でちらりとだけ見て鼻で笑う。
「和剤か、やれ熱心なことよな。」
吉継の反応に家康は内心でほんの少しだけ残念に感じる。この反応からすれば過去にもう読んでしまっているのだろう。彼の病の進行が気になる家康はそれでも気を取り直して何ともないように話す。
「怪我に関する薬は諳んじられるぐらい読み込んでるんだが、病の方はまだでな。こんな時期でもなければゆっくり読めないだろうし。」
「そんなもの匙に任せておけば良かろ。ぬしが読まねばならぬのは太閤殿下のゴキゲンよ。」
せせら笑うような声と言葉が続く。普段の自分の言動を分かっていながらそうした皮肉を真正面から言ってくる吉継に、家康は困ったとも仕方ないとも取れる笑みを浮かべる。
「それこそワシが読むものでもないだろう。半兵衛殿も三成も居ることだし。」
それで一通りの会話が終わったとしたらしく、吉継は再度筆を持ち書状に集中する。もう少しだけ話したかったなとは思いつつも、家康は邪魔をしないようにそっと視界から外れた。
吉継から相手にされなくなった家康は、いつものように部屋の奥にある箪笥の前で両膝を立てて座り込んだ。太腿を書見台にして本を開きながら前を見る。
秋の鮮やかな陽光が朗らかに、そして柔らかく部屋の隅々までもを明るく照らし出していた。整理整頓は行き届いているとは言え、その収納量を超える各種資料や報告書が文机を中心に山となっている。いつもの、何も変哲も無い執務室。家康は立てた膝の上に両腕を渡らせるように並べ置き、顎を乗せて目の前の景色を尚も眺める。
紙の漉いた白の中に弁柄の羽織がぽつりとある。人の声は遠くにしかなく、あるのは墨の香りと鳥が空高く鳴く声だけ。時折吹く秋風は書の端を揺らし、その度に小さな光がちかちかと吉継の体を瞬かせる。主故に来訪する客も少なく、場所故に人の声は届かない。静穏を愛しながらもこれまで愛されることがなかった家康は、その穏やかさの中で感じているものに無自覚なまま口元の筋肉を緩ませた。
しかしながら建前上読書にやってきた家康はいかんいかんと頭を振ると、膝の上から腕を退けた。最後にもう一度だけと思いながら吉継を見ると、今度は書状に目を落としたまま墨を擦っていた。甘い香りがふわりと部屋中に漂い、その心地良さに思わず身を委ねたくなる。吉継には分からないように口元だけで笑ってから、家康は持参した本を開いた。何でもない日の、何でもないこの時だけが、今の家康にとっての平穏であった。
「おっ、今日の分は終わったみたいだな。」
視界の端で伸び上がった白身の体に気付いた家康は、常のように吉継が振り返るのを待ってから声を掛けた。大谷吉継という男は人の扱いが雑な部分があるが、根の部分では誠実だった。それを口に出せば露骨に嫌な顔をされるのは分かり切っていたので表沙汰にしたことは無かったが、家康は彼のそんな部分も慕っていた。
吉継が書き上げた書類を片付ける様を眺めながら、家康は持ってきた薬学書をまた背中に仕舞う。几帳面で真面目な吉継らしく、書棚の一つ一つにきちんと紙を入れて布を掛ける。周囲に忍びを配しているのだからそこまでしなくともいいのではとは思いつつも、根本的に他人を信用できないことの表れとして見れば、家康はそんな部分も好ましく感じていた。
人を信用しないのに、こうして近付いてくる人間を受け入れてみせる。無論安全策を敷いた上での行為であり、端的に言えば罠に過ぎないが、掛からなければどうということはない。慣れても尚警戒を怠らないのは軍師の鑑だろう。良いことだ、と思ったのは一度や二度ではない。
やがて吉継が片付け終わる。家康は隣に座り、然程重要でないことを話し始めた。家康が投げた言葉に対して、吉継は辛辣ながらも過分のない返答をする。内政のことであろうが城下のことであろうが薬学のことであろうが、おおよそ知らない事は無いといった風な吉継に家康は密かに感心していた。
得ている知識を生かすだけの知恵があり、達観と余裕がある。少々他を害することに躊躇いがないきらいはあるが、彼の身を食い荒らす病のことを思えばそう考えてしまうようになるのも納得が行った。
不自然に見えない程度に会話をしながら、もし刑部が、と家康は何度も頭を巡る言葉をまたもや考える。もし刑部が徳川に来てくれればどれほど心強いだろうか。病にも負けずその身一つで豊臣で名を成した男の強靭さは、一体どれほどの人々を救うだろうか。そう考えながらも同時に、それが叶わぬ夢物語に過ぎないことも家康は理解していた。
大谷吉継という男は、善悪を操るほどに知るが故に、何処までも誠実な男でもあった。虚飾を不毛と断じ、結果のみこそが評価であるとする三成の副官を務めて長く、また殆ど無条件な信頼を勝ち得ていることからもそれはよく分かる。豊臣に下ってようやく一年程度の短い付き合いではあるが、それでも充分過ぎるほどの二人のやり取りを見てきた家康は確信していた。
あの手の人間は一度信頼した人間を何処までも信じ抜く。例え相手が地の底に落ちるような外道に成り果てても、その後ろを粛々と共に行く。配下である忠勝の存在でそれを思い知らされている家康は、夢を夢として諦めるだけの分別を持ち合わせている自覚があった。
陽が落ちて、夕焼けが空を火の色に染める。全身に巻かれている吉継の包帯も同じ色に塗り潰される。こんな時は太陽が羨ましいと家康は思っていた。
中天の太陽では彼を染めることが出来ない。影すらもその身に作ることが出来ない。地の向こうに日が落ちてようやく成るその光景は、家康が望んでも手に入れられない願いそのものでもあった。
「ああ、もうこんな時間か。そろそろ屋敷に戻るとしよう。」
「そういえばぬし、今日は『匿え』と来たが、それの用件は良かったのか? とばっちりを受けるのは御免被りたいが。」
思わぬ返答に家康はついきょとんとした顔になってしまう。
秋の昼から夜に至るまでの長い時間を経ても、自分が言った細かい言葉を吉継が覚えていることについ驚いてしまった。だが、人の揚げ足を取ることがすっかり生業と化している彼からするときっと当然のことなのだろう。それがあまり人として良い傾向で無いと分かっていながらも、家康の胸にはじわじわと温い何かが込み上げてくる。
「へ? んん、ああ……そうだったな。いや、そんな大したものではないんだが……。」
「子から媼翁、果てはけものにも慕われるぬしをわれが縄ったと思われることだけは心外ゆえな。」
それについての答えを用意していなかった為、家康はさも何かありそうな言い回しで茶を濁す。すると吉継は別に正答を求めている訳ではないという空気で続ける。求めている結論が明確なのは豊臣に長く居るからなのか、吉継自身がそういう性質なのかは家康には分からなかったが余計な気を回さなくても良い分楽だった。
「ははは、確かにお前はワシを放っておくだけしかしてないからな。大丈夫だ、別に何かに追われて来た訳じゃない。誰かが探しに城へ上がってきたら匿って貰おうと思って言っただけだ。」
要は『特に急ぐことはないので休みに来た』と言いたいのだが、相手の職務を邪魔している意識のある家康は上手く言葉を繋げられない。むむむ、と思いつつちらりと吉継の顔を見ると、いかにも興味が無さそうな目で流されるに終わった。出会った頃から変わらない吉継の態度に家康は胸を撫で下ろしながら、気を取り直して立ち上がる。
「じゃあまた明日な、刑部。」
「明日は三河に戻るのではなかったのか?」
つい口に出た言葉にも正確な疑問が返ってくる。前に少しだけ話した内容もきちんと覚えている吉継に家康は思わず機嫌の良い笑みになってしまう。
「いや、明後日になった。ちょっと半兵衛殿から頼まれたことがあってな。」
「左様か。ならば明後日は一つ月見酒と洒落こむか、鬱陶しい狸が一先ず不在になる前祝いよ。」
「相変わらずだな、お前は。」
面と向かってからかいを投げ付けてくる吉継に家康は目を細めて笑う。最初は面食らったものの、こうして交流を重ねた今となっては吉継なりの友情の表れというものだろうと家康は理解していた。
幼い頃から年長の家臣達に囲まれて育った家康にとって、元親や三成のように何の気兼ねもなく話せる相手は珍しく、それでいて話す内容や趣味まで合うのは吉継が初めてだった。勿論吉継がそこまで自分に気を許していないというのは三成に対応している様子と比較すれば容易に知れたが、それでも家康は吉継を慕っていた。
自分に対する関心が薄く、警戒心が厚く、常に一線を置いて接してくる。さりとてそれを意識させるよう不自然さは無く、ごく普通の反応として自分と己を分ける。独立した個としての人間の存在を何よりも愛する家康にとって、時に主君である秀吉や半兵衛にすら嘆息を吐いてみせるような精神性を持つ吉継の存在は心強いものだった。
それだけに名残惜しいと毎回のように思いながら、家康は部屋から出る間際にいつも吉継へ振り返る。灯を点けていない宵闇の中で、吉継の長布と瞳が白く光っている。それらを陽の当たる場所へ招いて暖かさを知って欲しいというのは自己満足に過ぎないのだろう。憐憫にも似たこの感情を悟られる前に、家康は吉継から視線を外して窓から降りた。
毛靴を履きながら見上げた空には一つだけ星があった。月や日が無くとも煌々とした光を放つ凛とした美しさは最早言葉にすることが出来ない。家康は眩しそうにそれをしばらく眺めてから、目を逸らしてその場を去った。
「ワシは豊臣を出て行こうと思う。」
淀みのない筆運びが止まり、些か不自然な深呼吸が聞こえた。流石に動揺するかとは考えていたものの、実際目の当たりにすると不思議な気分だった。家康は自分の胸に湧き上がった熱を高揚だと理解しながらも、それを意識しないように努めた。
「聞き間違えとするなら今の内よ。」
考えていなかった訳ではないが、出てくるとは思わなかった引き止めの台詞にああと家康は思う。だからこそ慕っていたのだろうなとも同時に感じながら目を閉じる。
「ワシは豊臣を出て行くと言ったんだ。」
「ぬしの堪忍袋の緒がそこまで短いとは知らなんだ。」
「そうか? むしろ今では時を掛け過ぎたとまで思っているが。」
「否、今こそ好機であろ。既に豊臣の治世は悪しきものと民らが思いつつある。ぬしに賛同するかは分からぬが、東はまだまだ余力がある。」
「お前は結局どっちの味方なんだ刑部……。」
最初の一言から声に動揺はなく、揶揄にも皮肉にも嘲る以外の目的が無い。程良く人らしい感情が滲んでいてそれでいてさっぱりとした言は、離反の根回しで張り詰めていた家康の神経に深く染み込んでいく。恐らくあの頃に誰かが隣で笛を聞かせてくれていたのなら同じようなことを思ったのだろうと、瞼の裏で家康はぼんやり考える。
やがて吉継が筆を置き振り返る音が聞こえた。普段と何ら変わらない仕草と行動。平然を装うのも策の内とはよく言ったものだと感心した。
「われのは傍目の痴れ言よ。ぬしこそ何の、何処の、誰の味方よ。」
「ワシは今も昔も力無き者達の味方だ。」
「はて。現況に至る元凶はぬしにも責があるというに、それでもなお自身は民の味方と宣うか?」
吉継の言葉に家康はゆっくり目を開いた。そうだ、と肯定したつもりであったが、積雪の昼に見るその顔は僅かに歪んでいた。その苦々しい表情に家康は柔らかく微笑みかける。
「ああ。だからこそワシがやらねばならないんだ。」
「何ゆえぬしがやらねばならぬ?」
「ワシでなければ出来ないからだ。戦無き世を望み、泰平の次代を作れるのはワシしかいない。」
乱世の一端を担い、多くの者に不幸を齎したこと。そしてそれでもその先の幸の為に力を奮うと決めたこと。まるで鏡のようだ、と家康は感じていた。吉継からの問いは決心の日から絶えず家康が己自身に問いかけてきたものと同じであった。
故にするすると口から流れ出た答えに、吉継は皮肉さを隠さない笑みで応じる。きっと彼にとっては自分のこの答えもただの建前に過ぎないのだろうと、家康は自嘲を口の端に乗せた。
「何とも拙い自画自賛よな。今のぬしなら画餅も食せよう。」
彼は他人の言葉を信じているが信じていない。明確な言葉として他者から発せられたものよりも、客観的な事実がどうであるかを重要視する。その冷徹さは彼の師譲りのものであったが、彼はその視点に何の願望を抱かない時点で他の誰とも違っていた。
「ワシが何でお前や三成の居室に入り浸っていたのか分かるか?」
だからこそ、家康はこと吉継に対しては嘘をつかなかった。彼にとって自分の言葉が嘘かどうかなどどうでもいいことに過ぎない。何故それを自分へ言ったのか。自分へ何の変化を求めているのか。言葉の裏にある真意を意識せずとも読み取ってしまう性質は、家康にもよく覚えがあった。
家康の告白に吉継は一瞬だけ口を噤むが、それだけで意図を理解したらしく、すっと目を細めていつもの口調に戻る。信じているが信じていない。背に負う重圧の正体に勘付いている家康にとってはその態度こそが救いに他ならなかった。
「アレは知らぬが、われがぬしに授けたものなど何も無かったであろ?」
「ああ、お前はその辺り厳しかったな。いくら集中していてもワシがここから一つでも動こうものなら、即座に振り向いて何事か確認した。三成のように度々呼ばれて席を外すことも無い。ワシに出来たのは精々本を読む程度のことだ。」
「ナルホド。領主まで間者の真似事とせねばならぬとは、三河とは余程臣に貧しておるとみえる。」
「ははは、一応ここは大坂城だからな。忍びが裏から入るより、ワシが正面から入った方が余程動きやすい。」
「ぬしのその判断がぬしの好きな民を殺すことにならねば良いが。」
ぴたりと会話が止まる。吉継は離れた場所に居る家康を少し遠い目で見つめていた。家康はそれから視線を外して、床を漠然と眺めていた。
自分は殺すだろう。日ノ本のほぼ全域を支配している秀吉を殺し、その後継たる三成を殺し、その首を以って天下を統べるだろう。そしてこれまでの者とは違い、温かい絆の繋がりで人々が互いを支え合う泰平の世を築く。それこそが己の果たすべき使命であり、その為にここまで生かされてきたのだと家康は理解していた。
殺すことでようやく辿り着ける場所があると昔の自分が聞いたら、何と言うだろうか。寒い、と家康は思った。しんしんと積もる雪は外気に放り出している右腕を鈍らせる。先まで感じなかった筈の冷たさが五臓の全てを重く感じさせていた。家康はいつの間にか握りこんでしまっていた右手の先を解すように袴に擦り付ける。
その時、自分以外の布擦れの音がして家康は思わず顔を上げた。話が済んだのかと立ち上がりかけた吉継へ、思わず追い縋るような声で名前を呼んでしまう。刑部、と呼ぶと何の感情も宿していない白眼と目が合う。その瞬間、家康は本心の蓋がぱきりと割れた音を耳にした。
「お前は……お前は、誰の、何処の、何の味方なんだ?」
この男だけは殺したくない。割れた隙間から俄に自分の中で巻き起こった感情を胸の奥で押さえつけながら、家康は真っ直ぐ吉継を見つめた。
殺したくない。病にも負けずに立ち上がり続けた男を、誰よりも絆を知る男を、自分を静穏の中に招き入れてくれた男を、殺したくない。死なせたくない。
たった一言。たった一言だけ告げてくれれば、手を伸ばすことができる。それがただの自己満足であることを知りながらも、それでも家康は吉継の口から自分が求める『正解』が溢れることを願っていた。
しかしその答えが選ばれることはないということも家康は分かってしまっていた。何もかもを見透かすような半眼が家康の体を通り抜けた向こう側を眺めている。久方ぶりの居心地の悪さを奥歯で噛み締めながら耐え、その目を見返す。きっと自分のこの感情もこの願望も、吉継はすっかり見抜いてしまっているのだろうと家康は信じていた。
やがてヒヒッという底意地の悪い笑い声がして、目を逸らされる。心底楽しそうな声色で続いた解答は家康の予想通りのものだった。
「ぬしの味方にだけはならぬ。」
お膳立てさせられた正答を蹴飛ばして笑う吉継の様は、家康が知ってる当人そのものの『正解』だった。そこまで分かっていて、そこまで分かっているのに、と家康は思わず苦々しい表情になりかけるが、上下の歯を噛み締めてどうにか堪える。
口の両端を上げて、柔らかく目を細める。何年も繰り返してきた顔の動かし方に違和感は無い。家康は落胆しつつも、慣れたようにそれを隠してみせる。ああ、殺さなければならないのか。しかし、殺さなければならないのであれば致し方ない。それが自分がこれまで生かされてきた意味であるのならば、果たさなければならない。嘆きと共に生まれた覚悟を隠すように、家康は右手の親指と人差し指だけで小さく袴を掴んだ。
せめて、と思いかけたところに、がちゃりと近くで大きな音がした。家康は思わず身構えてしまうが、自分の少し前にある棚の上から何かがふらふらと宙を漂っている様子で悟った。
家康が現状を把握したところで、とくがわ、と焼けながらも張りのある声で名前を呼ばれる。呼んだ当人は湯を持ってくるように家康に告げながら、空を飛んでいた茶道具を自分の前に置いて中身を取り出していた。いつもとは違う行動に気付いた家康は顔を見られていないことをいいことに、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「ぬしの離反を賀して茶を立ててやろ。」
「毒でも入れる気か?」
気が緩んだせいか若干の険を含んでしまった口元を家康は右手で覆う。相変わらず興味がないといった風の吉継は片手でこめかみを掻きながら、棗の中を覗いている。
「人聞きの悪いことよ。まあわれの立てる茶が毒であるならばそうであろうな。」
「まさか。いつも三成から聞かされて羨ましいと思っていたぐらいだ。」
「ぬしはほんに調子の良い。狸とはまさにぬしのことよな。」
「狸は茶なんて飲まないだろ。」
「そうよな、狸は釜に化けて火にかけられるが定の目よ。」
愉快そうに毒の籠もった冗談を嘯く吉継に、家康は安堵する。刑部らしい、とは理解しながらも言葉にし難い感情を抱かずにはいられない。自分の中に生じたその熱から逃れるように、家康は立ち上がる。
「湯を取ってくる。」
「オォ、手間掛けるな。」
ひらひらと手首に流した包帯が揺れ、いかにも作った笑いで見送られる。家康はそれに目を細めて応えてから部屋を出た。
次の間に人は居ない。障子越しでも分かるほどの衾雪が冬の短い昼を静かに照らし出している。その光は真夏にも負けないほどの鋭さと、真冬にしか存在し得ない冷たさで部屋の空白を埋めていた。家康は深い深い溜息を吐く。そして己の手を見た。
武器を捨てた両手は骨が曲がり肉が削げ、どこもかしこも歪んでいる。誰かはこれを痛々しいと悲しみ、誰かは名誉の勲章だと熱く語った。この手が証するものは己が手に掛けた者の傷痍と死に他ならないのに。それを言外に告げる白い眼を自分が閉じさせる光景を夢想しながら、家康は強く両手を握り込んだ。
そして、もう一度だけ長く息を吐いた。
ばたばたと旗が強く煽られる音と、叩きつけるような水音が混ざり、十三夜月の光が反射した海面を通り過ぎる。家康は船縁に身をもたらせながら、風と波を突き破りながら夜闇を進むその様をぼんやりと眺めていた。
月は大分傾いていて、夜が深いことが知れる。もう大丈夫かと家康が懐に入れていた物を取り出そうとした時、どちらかの方向からコツコツと硬い音が聞こえてきた。
直ぐ様家康は懐に入れようとしていた手を左袖に入れる。気配がする方を見れば、誰かが明かりを片手にこちらに向かっていた。家康は少し目を細め、大体の見当を付ける。
「どうした徳川、さしものお前でも船では眠れないか?」
「いいや、少し目が覚めてしまっただけだ。まあ眠りが浅かったかと言えばそうはなるんだろうが……。」
胸の高さにまで掲げられた鉄製の手行灯の上で緩やかな巻髪が揺れる。かつて傭兵として戦場に名を轟かせた雑賀衆の三代目孫市が涼やかな顔で家康の近くまで歩み寄った。
「それならいい。お前もあのカラス達のように興奮して眠れないと宣うのであればどうしたものかと思ったが。」
「ははは、まあ元親達は仕方ないだろうな。七年掛けてようやく完成した船を走らせてるんだから、心配も興奮もするだろう。」
「喜ぶのは無事に土佐へ着いてからにしてほしいものだ。天下人たるお前に何かあれば、我らも四国も只では済まないという認識が薄いのは困る。」
「ふふふ……相変わらず手厳しいな、孫市。」
「手厳しい? 慣れない船旅の護衛を我らに頼んできたのはお前の家臣達だろう。お前もその意識を持て。」
まるで過保護だとも言いたげな色を声に滲ませている孫市に、家康は苦笑を浮かべながらぽりぽりと側頭部を掻く。それを見た孫市は表情を変えないまま家康の隣に並ぶ。段差が付けられた縁と同じ幅の脚が付けられた手行灯は家康と孫市の間にぴたりと収まり、周囲をほのかに朱に染めた。
「それは変えないのか。」
家康の左目をじっと見つめながら孫市が問う。これか、と家康は確認するように相槌を打ってからその上にある白布を擦る。
「一応これに乗る前の日には変えたから大丈夫だと思うが……心配か?」
「そうではない。眼帯にはしないのか。戦は無くなったとは言え、一々変えるのは手間だろう。」
質問を取り違えていた家康は誤魔化すように笑いながら、両腕を船縁へ戻す。それからどう返答したものかと目を伏せて考えながら、右指の先で唇を触る。ざざんざざんと繰り返す波間に答えは無い。
「……慣れれば眼帯を付けるのとそんなに変わらないさ。それに、」
言いかけて言葉を切った家康に孫市は僅かに頭を横に傾けた。家康は今から言う言葉を口の中で反芻しながら、おかしな部分がないかを確かめる。
「あの頃を忘れずに済むからな。そう悪いものじゃない。」
孫市の表情は変わらない。そうか、とだけ呟くと家康と同じように海へ体を向ける。風除けの硝子に囲まれた小さな火がその横顔に陰影を付けている。雑賀の名に相応しい赤毛は吹き荒ぶ風の中にあっても悠然と揺蕩い、毅然とした眼差しは以前よりも柔らかいものに感じられた。一先ず取り繕えたかと家康は内心で深く息を吐く。
「孫市の方はどうなんだ?」
「何がだ。」
「戦が無くなってからお前たちの暮らし向きはどうなったのか、ちょっと気になってな。」
「お前ともあろう者が我らの動向を知らないとは思わない。故にお前が配下に聞いている通りの現況だ。お陰様でな。」
話を変えてみるが、孫市の淡々とした無駄の無い口調は七年前から変わらない。自軍へ参じていた時の忠勝とのやり取りを思い出し、家康は声に出さず笑う。何故家康が笑っているのか思い当たる節が無さそうな孫市は横目でだけそれを見るが、またすぐに海面へ視線を戻した。
「それなら良いんだ。余計なことを聞いたな。」
「構わん。こうして直接尋ねるのも一つの情報収集だろう。お前も変わらないようで何よりだ徳川。」
「変わらない、か……。」
家康は密かに笑いながら、胸の下の辺りにある手摺に身を預けた。押さえられた腹へ寝間着の麻越しに固い物が当たる。その感触に家康は海面に向けている目を更に伏せるが、孫市は気付いていないようだった。
そうして会話を何往復か繰り返した後、孫市は灯りを手に持ち直してから「日が昇る前にもう少し寝ておけ」と言って、船尾の方向へと歩き去っていった。どうやら定時の見回りだったらしい。家康は孫市の背の向こうにある火が夜の中に埋もれてしまうまで微笑んでいたが、やがて見えなくなると常のように胸の中に溜まった息を長く吐き出した。
再び家康の周囲に夜が満ちる。先よりも暗く感じているのは、小さくても明かりがあったせいだろうか。踏みしめている甲板の木の感触と、月光の照り返しで白く見えるほどの波が無ければ、闇の中で立ち尽くしてしまっているように家康には感じられた。
それからしばらく海を眺めていた家康は五回ほど溜息を吐くと、船尾にある船長室に戻ることにした。安全の為些か緩やかになったとはいえ、まるで横風が強く吹く日のように、船は速度を落とすことなく西へ進んでいる。波の揺れよりも内蔵の機関の振動を感じる甲板は、長曾我部元親という男と彼の手足となってこの船を作り上げた長曾我部軍の非凡さを改めて知らしめている。無数の絡繰を覆っている高い壁を見上げながら、家康は感心すると共に罪悪感のある平穏を抱いた。
幼き日の出会いから今に至るまで、元親は家康を友として対等に接し、大切にしてくれていた。家康もそれは同じであった。だが互いが互いを重んじることで、踏み込めない領域が生じるのもそれは当然のことだった。
元親であれば自国である四国と、長年の因縁があった毛利について、家康は踏み込めずまた踏み込むこともない。対して元親は大抵の物事におおらかであり、一度気を許した相手にはどこまでも懐に広く収める傾向がある。家康が何であったとしても、自由と仲間を大事にするという彼の信念に反しないのであれば、むしろ暖かく受け入れてくれることだろう。現に前の戦では三成が同様の扱いを受けていたと彼の配下から伝え聞いている。また彼の古い馴染みだという孫市も似たところがあり、世話を焼きがちな彼とはまた違った深い配慮で接してくれる。
関ヶ原での対立から七年。四国復興を含めた人や物の交流を以前よりも密にしたことで、互いも互いの配下たちにもわだかまりが無くなり、また前のような気軽さで酒を酌み交わせるようになった。伊豆で造っていたこの船の実験航海にわざわざ護衛付きで乗せてくれたのも、自由を尊び友を慈しむ彼と主君思いの配下達が毎日東奔西走している自分の為に用意してくれた贈り物のようなものだ。家康はまだ真新しい滑らかさが残っている壁に手を触れ、形と行いとして現れた絆を思う。
その時だった。突然家康の左目に激痛が走る。目を抉り取られるかのような痛みはここ最近頻繁に起きているものと同じだった。家康は瞼で眼球を押し潰すように強く瞑りながら、左手を当てて呼吸で痛みを逸らす。
近くの扉から甲板の中に入り、家康は懐の物を握り締めながら、壁伝いに進んでいく。厚い木の向こうから響く機動音に懐かしさを感じながらも、痛みは尚も同じ高さの波となって襲いかかってくる。は、と短い息を吐きながら、家康は真っ暗な通路を一人きりで進んでいく。
ずきりずきりと目の奥を槍で刺すような痛みの理由が何であるのか。家康はそれを薄々把握していながらも、良心が理解することを拒んでいた。自分が実際そうであることと、そうでないことを願う感情は別物であると家康は信じていたかった。その反面、自分が負うべき罪に対する罰としては何よりも相応しいものであるとも認識していた。
一番広いからと皆に勧められて寝床を借りることになった船長室へようやく辿り着いた家康は扉を閉めると、力のない足取りで部屋の中に転がり入る。運が良いことに部屋の主である元親は船の何処かに居るらしく不在であった。脂汗を額に滲ませながら家康は持ち込んだ長羽織がある片隅に寄り、その近くにあった船行灯に火を入れた。
硝子越しの直接的なそれとは違い、何かしらの歌が読まれている障子を通しての光は輪郭をぼんやりと明るくさせるに留まる。羽織を頭から被った家康は部屋の隅に収まるように置いた行李の隣に躙り寄り、扉と行灯に背を向けて座った。
そうして作った影の中で、家康は懐に手を入れる。そして手の平と同程度の大きさがある角型の香合を取り出す。そして蓋を親指でゆっくり撫でてから開けると、中には塗香ではなく、彫り抜かれた如来像があった。
しばらくそれを見つめていた家康は、いつの間にか先までの痛みがするりと消えていることに気付き、安堵したように口元を緩ませる。宝冠を被り、ゆるりと組まれた脚の上で法界定印を結んでいる御姿はひどく小さな香合の中とは思えないほどに精巧であり、また雄大かつ泰然とした態度であった。
しばらく飾り気の無いそれを見つめていた家康は、その内行李の蓋の上に像が見えるように立てて置いた。光を遮っている自分の体から落ちる薄墨が、白木の御身に曖昧な翳りを映し出す。それから家康は一度如来像に合掌すると、再び手の中に収めた。そして表裏を返し、香合の蓋の噛み合わせ部分に設けていた紙一枚ほどの隙間に親指の爪を差し込んだ。
そのまま梃子の原理で二、三度爪を上下に動かし、像の部分を外す。中には滑り止めの綿と、指先程度の白い塊がいくつか収められていた。家康はそれも親指で擦ろうとして、脆くなっていた部分が崩れたであろう小さな欠片が綿の中に埋まっていることに気付いてやめた。
思えば随分小さくなってしまったかも知れない。将軍の座を命じられて以降、日ノ本各地を転々とする日々の伴として作ったのは良いが、香合の綿の中でも思いの外削られてしまうらしい。どうしたものかと考えつつも、家康は口元の笑みを抑え切れない。
ああ、こうなってしまってもお前はワシを理解してくれている。家康は両手で香合を握り締め、重ねた指先を唇に当てた。家鳴りのように船が軋み、床が僅かに傾く。最早祈ることすら無意味な身であると知りながらも、それでも家康は祈りの形を崩すことは無かった。