隣室の明石くんとソハヤくん①隣の部屋の明石くんとソハヤくん
ざわざわとした空気が、明石国行がゴロゴロと転がっているカーペットにも響いてきて、一緒に寝っ転がっていた愛染国俊が半身を起こした。
「誰か来たのかな?」
「そうかもなぁ」
この来派部屋の隣はまだ空き部屋である。ここ最近はすでに部屋を与えられいる刀派の者や縁のある者と同室に引き取られることが多くて、新規の部屋として用意されていた隣室がいまだに埋まらないのだ。
明石としては静かだし、多少被保護者たちがバタバタ遊んでも文句を言われることもなくて、とても助かっているのだが。
「国俊ー!」
「蛍だ」
ガラっと勢いよく障子を開けたのは来派きっての武闘派蛍丸で、今も連隊戦に行っていたはずなのに走って帰ってきたようだった。
「見て!」
「ん?」
二人して蛍丸の言葉に立ち上がって蛍丸の前に立つ。
すると、ようやく気が付いた。
蛍丸の後ろに壁のように立っている男がいることに。
「うおっ!?」
「大典太さん?」
「そ! 連れてきたよー!」
「愛染……か」
「わー! 大典太さん久しぶり! ついにうちの本丸にも来たんだな!」
強面の、明石よりも頭一個分とまでは言わないが大太刀や槍並みの大男の腰元に元気いっぱいに飛びついた。何に対しても分け隔てなく愛想を振りまく愛染にはたまに辟易するが、今回もヒヤヒヤとした。部屋の中からは表情が見えず下から覗き込むようにして見た顔は、お世辞にも愛想があるとは言えない明石とは違う意味で比べ物にならない鉄面皮である。
しかし、飛びついた愛染を壊れないようにそっと支えてオロオロとして、蛍丸を見つめた。
「そうそう! 隣の部屋が三池の部屋になるんだって。ここだよ、大典太さん。俺と国俊で本丸案内してあげるね」
「蛍、もう今日は出陣いいのか?」
「うん。大典太さん来たから歓迎会だって。あとはもう一人、同じ刀派の刀がいるんだよね?」
「……ソハヤノツルキ、だな」
「明日からはそこが目標だってさ。ねえ、その装束、どうやって脱ぐの? 手伝う?」
「いやいやいや、待ち待ち待ちぃ。それは自分やるから、蛍丸も内番着に着替えてきぃ。国俊、主はんに大典太はんの内番着やら私物入れやら貰ってきいや」
「はーい」
「珍しいな、国行が率先して動くの」
「さっさと行く!」
「へーい。大典太さん、ちょっと待っててな! 前田や信濃たちも喜ぶぜ! みんなにすぐ会わせてやるから!」
そういうと、ピャッと走り出した愛染を合図に蛍丸も来派部屋に飛び込んだ。
長いため息をついて、大典太と一緒に三池部屋と命名された隣室に入る。
「……これからどうすればいいんだ?」
「今国俊が着替え持ってきはるからまずはそれに着替えましょ。で、本体はそこ」
どの部屋にも常設で用意されている刀掛けを指さす。
まだなにも私物のない殺風景な部屋をぐるりと見回した。
「で、ジャケットはそこ」
刀掛けの隣が大体衣類の保管が出来るスペースになっている。一つハンガーを渡す。
もたもたと手探りでハンガーにジャケットをかける大典太を見て明石はもう一度ため息をついた。
「あんさん、その紐毎回結わえるんか?」
「さあ……」
とりあえずちびっ子たちが戻ってくる前になんとなく堂々と見せられない結び目をなんとかして解いてやった。
*
「来たよーー!」
元気いっぱいの蛍丸の声に、カーペットと子ども用のブランケットに挟まれていた明石は目を覚ました。
ここ数日、やってきたばかりの大典太の世話をしようと前田家由来の刀たちがやってきては「大典太さん、大典太さん」と楽しげである。まだ連隊戦の最中で、私物を買えるほど情緒も小遣いもないので、来派部屋で茶を入れてどこぞの部屋で余っていたちゃぶ台を貰ってきて短刀たちが大典太を囲っている。
そこに突然の大声と一緒にまたあの障子が開かれる音が耳に響いて隣室を覗き込んだ。
「蛍丸……、障子は静かに開け閉めなさい……」
「お、でっかい刀もいるんじゃねえか!」
ついこないだ見た大典太は、ちょっと暗くてじめっとしていて、陰気な空気がある。
その兄弟刀と聞いていたので同じような、たとえば左文字みたいな同じ空気感の刀がくると勝手に明石は思っていた。
別に食堂の前の掲示板をちゃんと見ていれば今回やってくる男士の姿なぞ簡単にわかるのに。
突然発された声の強さと、目に入った金髪に思わず目を瞬いた。
「ソハヤノツルキ、ウツスナリ。
まあ、長いからソハヤとでも呼んでくれ」
「はあ、よろしゅう」
思わずソハヤの首元を見たが、先日の大典太のように子どもの目に毒な要素は無さそうだ。見目が小さいだけで実際には子どもではないのだが、なんとなく配慮してしまう。
「ソハヤさん!」
「ソハヤ!」
パタパタと軽い足音がして、物吉と包丁がソハヤに向かって駆けてきた。今度はこちらの縁の者たちらしいと理解する。
「こらこら、廊下は走ったらあかんで。あんさんとこのこわ〜いお兄さんがお怒りになるやろ」
「いち兄に見つかったら大変ですね」
真面目にそう呟く平野にくすりと笑う。すると、同じように少しだけ口元を緩めている大典太と目が合った。
先ほど、全く似ていないと感じた三池の刀たち。
だが、包丁を抱え上げ、物吉と笑い合っているソハヤの顔を見て気付いた。
瞳が、近い。
そして、短刀やらなんやらに好かれるのは同じ性分なのだろう。
小さき物たちがわらわらと寄り集まっているその真ん中にいる三池の二振を見て、これなら夜中に謎の寝相の悪さで煩くても、文句は言われなそうだと明石はこっそりほくそ笑んだのだった。
②重さなどない
ソハヤが出陣から戻ってきた。風呂から上がり他の仲間たちと別れる。まだまだ顕現したばかりの新参者なので戦では肩身が狭い思いをしているが、古参の獅子王たちには「今だけだぜ」などと笑われた。新しい刀はどんどん顕現してくる。負けてなど、いられない。
同時期に顕現した兄弟がメキメキと頭角を表すのを横目で見ながら日々鍛錬に勤しむ。俺はもっと強くならなければ、と気持ちを新たにして自室に向かった。
自室に入る直前手前の来派部屋の様子が目に入り、思わず立ち止まった。
「……重くないのか」
「んなわけないやろ」
いつもより少しだけ声に疲れが滲んでいる気がする。まあ、もとより明石は元気いっぱいなハリのある声を出すわけではないのだが。
座布団を枕にしてゴロンと仰向けになって文庫本を読んでいるが、その腹の上には蛍丸が健やかそうな寝息を立てながら全身の力を抜き切っていた。明石の細い身体には蛍丸はそれなりの重さに思えるが。
強がりな保護者の様子に微笑ましいものがないわけではないが、呆れたため息をついてその場を離れようとした。
その時蛍丸が動いて、一緒に明石もつられてゴロンと転がる。明石の身体から落ちた蛍丸の身体に毛布を改めてかけてやると、思いっきり伸びをして明石が立ち上がった。身体中から折れたかというような威勢の良い骨の鳴る音が聞こえた。
「身体バキバキじゃねーか」
「そらそうやろ。はあ〜、今日のおやつなんでした?」
「愛染が持ってくるんじゃないか? どら焼きだって言ってたぜ」
「そんなら……」
「国行ー! 蛍丸いるかー!?」
大声で大切な仲間の名前を呼びながら愛染国俊が頭の上に重を掲げて走ってきた。
「こら、廊下は走るもんやないで」
「愛染、静かに。蛍丸、寝てるぞ」
「あ! ま〜た、昼寝してる!」
コトリとちゃぶ台に重を置いて、蛍丸を揺すった。その躊躇のない行動に明石とソハヤが吹き出した。
「めちゃくちゃ起こすやん」
「なぁにぃ、くにとしぃ」
「おやつ! どら焼きだぜ! 早く食おう!」
「え! どら焼き!」
ピョコンと跳ね起きた蛍丸を受け止めて愛染が笑う。
「あ! 茶の準備する! 国行も食うだろ!」
「せやな」
「俺も一緒に行く!」
「ほないってらっしゃい」
まるで嵐だ。
明石を中心に二人が犬のようにぐるっと回って、元きた廊下をまた駆けていった。途中で誰かの怒号が「走るな」と言っていた。
「全く、小さな嵐だな」
「かわええやろ。やらんで」
「間に合ってる」
「なあ、」
昼寝の痕跡を片付けだした明石がソハヤに投げかける。
「重たくないわけやないんや」
「そりゃぁ、そうだろうな」
「せやかて、愛の重さっちゅうんが、あるんやで」
反論してやろうと思ったけど、明石はソハヤの反応をもう必要としていないようなので、長いため息と一緒に「バーカ」と無意味な暴言だけを残してきた。
よく考えなくてもただの惚気ではないか。
*
自室に戻ると兄弟が先程の明石と同じように本を読んでいた。ただし、こちらはちゃんと座布団に座っていたが。ソハヤをチラッと見て「おかえり」と声をかけられ、ようやく「ただいま」と応えた。本体を刀掛けにかけて、大典太の向かいに座ったものの、位置を変える。
ようやくなにをしているんだ、という兄弟の不思議そうな視線がソハヤを追った。
「よいしょ」
わざわざ移動して選んだのは、兄弟の背中である。
全身の力を抜いて寄りかかる。ピクリとも動かない安定感だ。部屋に入った時より少しふわふわとした霊力がもっと身近に感じる。これは慌てているのか、なんなのか判別がつかなくて困っているのか、とにかく落ち着かないなにか。言葉にされなくともわかる。
困っている。
「……一体、なんだ」
「いや、別に」
「はあ……」
「なあ、重い?」
それに一瞬言い淀んで、首を傾げたのが背中のほんの少しの動きでわかる。
「いや、別に」
「あっそ」
なんとなく満足してしまった。
その後、愛染と蛍丸がおやつに誘いにきてくれるほんの数分間だけ、背中に寄りかかったままにしておいた。
③中に入ればあたたかい
「明石〜、明日の当番の変更だ」
「どうぞ」
もうかなり聴き慣れた隣人の声に、布団を敷いていた手を止めた。
もう夕飯も終わってそれぞれ自室に引き返したり、ゆっくり風呂に向かったり、趣味の活動や仲間内で集まったりする自由な時間である。ただし、夜戦の刀たちを除いて。
そろそろ冬布団を仕舞おうかなんて今朝ちょうど蛍丸と話していたばかりなのに、そういうことをいうと突然寒の戻りがある季節、障子であっても開けると寒気が入ってくるのであまり開けたくないが、確か本日の近侍だったソハヤを無下に追い返すことなど当たり前だが出来ないので、大きめのため息をついて障子を開けた。
「お前、マジでそういうところ失礼だよな」
「お、聴こえてました?」
「うるせえ」
「全く、こんな遅くまでお仕事大変やねんなあ」
「お前みたいのがいるから遅れるんだろ」
「なんでや、一番後回しにしてはるくせに」
「当たり前だろ、俺の部屋隣なんだから」
話しながら寒いので中に入るように促し、相手も見慣れた部屋で勝手に座布団を出して座っている。客用の湯飲みに茶を淹れてから「そんなに長居するつもりか?」と今更気付いた。
「で、なんの御用で?」
「先日の総会の後にでた月間表の訂正だ。
お前と蛍丸の遠征予定があるから、変更のあったやつには連絡している。よく確認しておけよ」
「は〜、わざわざすんまへんなぁ。はあ、また遠征かいな」
「仕方ないだろう。もう修行に行ってないのは太刀くらいなんだろ?」
「せやねえ。蛍丸も行ってもうたし」
自分の分の出涸らしを飲みながら、ザッと予定を見ていく。
来派の部屋の三人の予定を書き込んでいるカレンダーは確かに修正しなくては。夜戦と昼戦、遠征は日中や夜間を含むものなど、それぞれの予定を把握しておきたいので始めたが、審神者が気を遣ってくれているのか、作成しているその時の近侍たちの計らいなのか、それなりに付かず離れずの予定になっていることが多い。
ふと、ソハヤが室内を見回していることに気付いた。三池部屋に遊びに来る包丁や物吉が顔を出したり、前田や平野がこっちで待っていたりと、それなりに客人が来るため、三池二人もこちらの部屋への出入りはよくあるので、今更この部屋に目新しいものなどないはずだ。
「なんかありました?」
「いや、今、愛染は出陣だろう? 帰りは明け方じゃないのか? 仮眠室もあるのに」
ソハヤの単純な疑問だったのだろうが、それを聞いて己の口元がほんの少し曲がったのがわかった。まるで、不機嫌そうに見えることだろう。かつて加州清光には「いつもそんな顔じゃん」なんて笑われたが。
「全く、情緒のないお方やな」
「なんだよ」
さすがに少しバツの悪そうな顔をこちらも隠さずに、冷めかけた茶を飲み干す。
「あない、何にもないとこ、冷たいやろ。
あの子が帰ってくるんは、こん部屋や。
仮眠やのうて、自分の部屋で寝るくらいさせたるわ」
三池兄弟は二人ともガタイのいい太刀だ。
夜戦はないし、二人とも同じ出陣や遠征に組まれることが多い。日中はそれぞれ別行動でも食事と睡眠は一緒に取っている様子なのは知っていたが、こういう「一人」の夜の経験はまだないのかもしれない。
全くないわけではないはずだ。
そこで、明石はようやく気付いた。
違う。手入れ部屋に入るのは、ソハヤのほうが、多いのだ。
一人で室内で待っているのは、大典太のほうだ。きっと、大典太は静かに待っているのだろう。
仮眠室でも、手入れ部屋でもない、自分の部屋で、療養を、睡眠を、安眠をとる、ということに、まだ気持ちがないのだ。
「そういう、もんか?」
「そういうもんや」
空になった湯飲み二つを持ち上げる。さっさと出ろ、という意思表示で。すんなりそれに従ったソハヤが立ち上がる。
「今度」
「ん?」
「遠征で大典太はんだけが遅くなった時、布団引いたってあげなや」
「アイツ、いつも仮眠室行くのに?」
「ええんや。なんかの気まぐれで戻ってくるかもしれんやろ」
「そういう、もんか」
「せやで」
「あんたかて、待ってるんやろ。同じ部屋の、兄弟なんやから」
「まあ」
湯飲みを洗いに明石は厨に向かおうとする。ソハヤは反対側の自室だろう。
「お前は」
「ん?」
「すげえ綺麗にシーツ引くよな」
少しだけ照れ笑いのようなソハヤの表情にわけもなく引きずられて笑ってしまった。
「褒めてもなんも出えへんで」
あとで月間表を確認しよう。大典太の予定が遅い日に、布団のシーツを綺麗にするコツくらいなら伝授してやっていい。これは元々、堀川国広から受け継いだものだ。脇差が、みんなの布団を綺麗に引いてくれていた、昔の頃の名残り。疲れて帰ってきた国俊が、明石には見えない暗いところもすんなりと自分の布団に潜る。その中に湯たんぽを入れてやったり、日中干してやったおひさまの匂いを感じて、なんの不安もない夜を、たとえ明け方だとしても居場所を作ってやる。
それが、夜戦に行けない明石と蛍丸のなるべきことだからだ。
「あれ、国行。布団引き終わった?」
ちょうど湯たんぽの準備をしていた蛍丸が明石に気付く。
「ソハヤはんが最後のお仕事で予定変更のお知らせに来たんで中断したわ。戻ったら引く」
「ああ、じゃあ、先にできたやつ持ってって。それ国行の」
「お、ぬくいぬくい」
「湯飲み、ちゃんと洗った?」
「洗ったわ。全く、国俊じゃあるまいし」
じゃーね、と冷たい蛍丸の態度と裏腹に熱いくらいの湯たんぽを抱えてまた来派部屋に戻った。
さあ、布団を敷く。そこに湯たんぽを置いて、たとえ使われなくとも、敷いてあることに、意味がある。
④木漏れ日の川面
「なあ! ソハヤの兄ちゃんも鮎釣りに行こうぜ!」
「鮎?」
今日はなにもない非番。特に約束も予定もなく、兄弟は畑仕事で早々に朝食を摂ったら畑に行ってしまったが、ソハヤはやることがなくとりあえず自室に戻る途中、自分たちの部屋の手前にある来派部屋で来派のちびっ子二人が和気藹々と出かける準備をしているのでどこに行くのかと声をかけたところ、元気いっぱいに誘われた。蛍丸もニコニコとしているので、異論は特にないらしい。
「え、どこに?」
「ほら、裏山の裏のほう。どこから入ってくるのか知らないけど、川が通ってて今時期だと鮎とかイワナが釣れるんだ。さすがに全振り分は釣れないから、おやつ代わりにそこで食って終わりなんだけど」
「海釣りに行くには主さんの許可がいるけど川釣りなら本丸の敷地内だから日中は自由に行っていいんだよ。まあ、大体釣りやる刀は決まってるけど」
「へえ」
「やったことないだろ、ソッハヤさん!」
「うお、浦島」
「今日非番だろ? 初めてのこと、挑戦してみない?」
まあ、そういう日があってもいいだろう。
ソハヤが「じゃあ」と言うよりも早く、三振りに腕を引っ張られ、背中を押されて玄関までつれられていった。
「明石や虎徹の連中は行かないのか?」
「来るよ。国行と長曽祢さんはお弁当作ってる。蜂須賀さんは道具の用意してるから、ソハヤさんの分も増やしてもらいにいこ」
「明石、弁当作ってんの!? マジで? めっちゃ働いてるじゃん!」
「ふふふ、知らなかったでしょ。来派が行くときにしか作ってくれないから得したね」
バタバタと今度は置いて行かれそうになって、慌ててサンダルをつっかけるとソハヤも本館の裏の倉庫前に駆けて行った。
言っていた通り蜂須賀が竿の様子を確認したり、餌の用意をしてくれていた。
「浦島、今日は6人分でいい……、1名追加だね」
「へへへ、そう」
「悪いな、直前になって」
「全く。人数は多いほうが楽しいよ。今度は君の兄弟も連れてくるといい」
「兄弟、来るかな……」
「じゃあそん時は前田と平野も呼んでおくよ」
「あの二人、釣りなんてやるのか?」
「短刀は一度はやってるよ。いい隠蔽や偵察の訓練になるんだ。まあ、浦島は趣味だけど」
「蜂須賀兄ちゃんだってそうだろ!」
「今日の餌はこれ?」
「これで足りる?」
「後は釣った魚の内臓も使うから。余るよりは使い切ってしまいたいからね」
「は~い」
網やカゴ、炭、七輪にバケツ水筒、と多くの荷物をみんなで振り分ける。これは確かに大き目の刀が来て案外ちょうどよかったのかもしれない。そこでようやく荷物持ちにされたのだと気づいて思わずひっそりと苦笑した。
「そこの集団~。おべんとの登場やで~」
「待たせたな」
「遅いよ! 国行! 置いてっちゃうところだったじゃん!」
「いや、それならそれで……」
「今日は一緒に行くって約束だろ!」
「はいはい……」
愛染と蛍丸に弁当を渡して自室に戻ろうとしたところを両腕引っ張られているのを長曽祢が笑っている。そこでようやくソハヤと目が合った。
「なんや、うちの子らに巻き込まれはったな?」
「ご明察」
「なんだよー、楽しそうだろ?」
はいはい、とぶーと顔を膨らます浦島を鼻で笑って玄関に置いてあった大きなカバンを持ってきた。
「なんだそのでっかい荷物?」
「後でわかりますわ」
「じゃあ、みんな行くよ~」
「は~い!」
蜂須賀を先頭にぞろぞろと出発すると本館のあちこちから「いってらっしゃーい」「気を付けてな」などと声がかけられる。なるほど、これは確かに恒例行事のようだ。
*
「っしゃ!」
「お、調子いいやんけ、国俊~」
「ちょ! 国行! 網網!」
「あぁ、あぁ! ほらほら!」
寝っ転がって缶ビールを飲んでいる明石に助けを求めたものの全く動く気配のない様子に蜂須賀が駆け寄って吊り上げた魚を捕獲した。その様子に呆れた様子をしたものの、誰も明石を責めたりはしない。
「あいつ、一体なにしに来たんだ?」
「ビール飲みに来てる」
蛍丸は当然のようにそういうと、慣れた仕草で餌をつけて川面に投げた。隣の浦島は動かない竿をじっと見つめていた。
「みんな、いったん休憩にしないか?」
頓着した空気を換えたのは長曽祢の声だった。
「うわ~~~~! やった! 出汁まき卵!」
「ミートボール!」
「からあげ!!」
わっと、小さい刀たちが集まって、顔を寄せ合い小躍りする雰囲気だ。
みんなに茶を紙コップに入れて渡しながら長曽祢が穏やかにそれを見つめている。
「おにぎりはおれだが、おかずは大体明石だ。味は安心していいぞ」
「じゃあ、いっただきま~~~す!」
ソハヤは一瞬目を見張った。これを、あの、いっつも「働きまへ~ん」と審神者にも言っている男が? 作った? 下準備だけでも面倒なのに?
「めちゃくちゃ失礼な顔で見てきはるやん……。ほんま失礼なやっちゃな……」
「はははは、最初は驚くだろうよ。ソハヤもまさか明石が料理が出来るとは思ってなかったのではないかな?」
「ほんとそれ。すげーじゃん。これなら厨番も出来るだろ」
「いややわ、あんなそれこそ戦争みたいなん、やりとうないです」
「一応、明石の名誉のために言っておくよ。さっきから飲んでるコレ。アルコール度数、すごく低いんだ。普通に酒は飲めるから、まあ、ただの気分で飲んでるだけなんだよね」
「いや、ほんま余計なこと言わんでくれはります?!」
「かわいいところがあるよなあ、明石も」
ははははは、とそこに長曽祢が加わると、途端に蜂須賀が黙り、今度は明石とソハヤが長い溜息をついたのだった。
きっと、朝から準備していたのだろう弁当は正直一瞬でなくなった。明石はそれでもまあよくよく見ると満足げな表情のように勝手に読み取れたのでもうそれでいいかと思って、ソハヤもノンアルコール飲料の缶を開けた。
「あ! ソハヤの兄ちゃんまで! 缶開けたら竿持っちゃダメなんだぞ!」
「あ、そうなの?」
まあ、いいか、と子どもらが残したパセリを摘まみにちみちみと缶を煽った。
わいわいと騒ぐ子どもらの声と、ゆるやかに流れる時間を表すような雲をぼんやり眺めつつ、夏に差し掛かって眩しかった陽射しがほんの少しの陰りを見せた。
「楽しいか?」
長曽祢もいつの間にか缶を開けている。少し赤くなっている明石とは違い、顔色が微塵も変わっていない。そういえば新選組の連中とはまだ飲んだことがない。今度誘ってみてもいいかもしれない。
「楽しいな」
「戦争をしていることを忘れそうだ」
「ほんま」
「しっかりしてくれ。俺たちは刀だぞ」
本日絶好調な愛染の三匹目の鮎を七輪で焼いているシラフの蜂須賀が苦い顔をしている。刀が七輪で魚を焼くとは、きっと刀工たちも思ったことはなかっただろう。
「あ!」
そこへ明らかに異質な誰かが上げた声が響いた。
ずるっと、川の少し中まで蛍丸の針が引っかかったところを外そうとしていた愛染が足を滑らせた。一緒にいた浦島の腕が掴もうとしたが、一瞬遅い。すぐ後ろから川幅が狭くなり流れが速くなって深くなっているところだった。太刀連中の身長ならひざ下だが、短刀の身長では膝上だ。流されるか! と全員が立ち上がろうとした瞬間、すでに動き終わっている者がいた。
「あっぶな……」
「わり……」
明石が、飲んでいた缶を放り投げ、靴も履かず、裸足のままで、愛染を抱え上げていた。ビショビショになった愛染を抱えた明石も、全身水まみれで。
「ヒヤヒヤしたわ」
「国俊~! ごめんね! 大丈夫だった?」
「平気平気」
「ほら、愛染、タオル。着替えも。明石、これでいいんだろ?」
「どうも。助かります。自分のも取ってくれはります?」
「ほら、お前の分」
一瞬だった。
機動の速さで言えば太刀の中では群を抜いている。それでも。あんなに気を抜いてる振りして、実際はちゃんと愛染と蛍丸を見ていたのだろう。足を滑らせる、と思った瞬間には彼は駆け出していた。
ソハヤは正直、明石を見くびっていた。見くびっていた、というより、「働かない」と言っているので働かないのだと思っていた。
どうやら少し勘違いしていたようだ。
あの大荷物の中身も、大判のタオル三つに二人の着替えが即座に出てきたので、いつものことなのだろう。それを、ちゃんと用意して、自分が持っていく、という意志の表れ。
どうやら、悪い奴では、ないのだろう。来派のことに関してだけ。
明石が放り投げた缶を拾い、着替え終わった明石に見せると、普通に残りを飲み干していた。
「え、普通飲む!?」
「え、もったいないやろ……」
「国行、着替えた」
「着替え、ビニールに入れたか? ほら貸してみ。あかんわ、まだ口緩いで」
「はーい」
「あ! 国俊の引いてるよ!」
「え!? ほんと!? 今行く!」
「あー、あー、元気だなあ」
「せやろ」
二人を見つめる、明石の横顔は、実に穏やかだった。
*
結局浦島は今日は付いてなくてイワナ一匹。
愛染が四匹の鮎と一匹のヤマメ。蛍丸もヤマメと鮎二匹ずつ。ソハヤはイワナ一匹。明石と長曾祢が小さなカニを見つけたが、蜂須賀によってリリースされた。
みんなで随時焼いて食べた魚は、本丸の夕食に出るものとは味わいが明らかに違った。ただ塩を振って焼いただけなのに、なにがこんなに違うのだろうか。
思わず首をかしげていると蜂須賀がニコニコと笑っていた。
「美味しいかい?」
「うまいな」
「これが、釣りの醍醐味だよ。真夏になったら海釣りも企画するからぜひ来てほしいな」
「うん、兄弟も誘ってみよう」
「ああ!」
少し、とっつきにくいと思っていた蜂須賀が、こんな無邪気に笑って、騒いで魚を無心で捌くとは知らなかった。長曽祢はどちらかというと弟二人の趣味に付き合っている雰囲気はあるが、邪険にされてもこんな顔を垣間見えるのなら早起きの弁当作りもきっと苦ではないだろう。
うちの兄弟は、釣りにつれ出したら、どんな顔をするだろうか。
「面白いだろう、釣りは」
全部の道具を片付けるという長曽祢に付き合い最後の片付けまでやって今度は本物のビールをお駄賃に貰ったら、兄のほうにまでそんなことを言われる。まさか御宅の弟が良い顔をしますね、なんて言えるはずもなく、「そうだな」と返した。
「知らない一面を、みんな見せてくれる。もう何度も一緒に行っている浦島や蜂須賀ですらそうだ。あんた、来派と隣室だろう?
愛染たちはきっと、あんたと仲良くなりたかったんだろうな」
あ、そうか。
愛染は、大典太光世とは旧知の仲だ。ソハヤがいない時には一緒におやつを食べたり、食事を共にしたりとなんだかんだ仲良くしているらしい。
ソハヤとは、まだあまり馴染んでいない。
今更、急に恥ずかしくなってきて、ビールを煽った。
「酔いが回ったか? 顔が赤いぞ」
ふざけた口調の長曽祢の足を軽く蹴とばして、今日あったことを兄弟に早く報告したくてたまらなくなった。次はこっちから来派をなにかに誘ってやりたい。
なあ、兄弟、どう思う? そう聞こうと思って。
⑤螢火
真夏の暑さも盛りをすぎて、現実の審神者の出身地と同じ気候を維持しているというこの本丸の中も夜はだいぶ過ごしやすくなってきた。
暑い盛りであっても連隊戦がある以上戦に明け暮れているものだが、夜は暑さに項垂れて気絶するように寝てしまっていた初夏の始めとは違い、本丸のあちこちで暑さに慣れきった身体を持て余した連中たちが静かな酒盛りを催している。
来派の部屋の辺りはなんだかんだ寝るのが好きなため早寝を促す明石国行共々眠りにつくのが早いので、周囲も気遣ってか亥の刻にはすでに静かだ。愛染国俊も蛍丸も一度寝たらなかなか起きないのが長所で、暑さにうなされて何度も目を覚ますのは明石だけである。
遠く、まるで別世界から神々の夜遊びを覗き見るような心地で自室の廊下から本館の方へと続く廊下をぼんやりと見つめる。自身もまた神と呼ばれる身であっても、明石は自身がなにも出来ないことを知っている。過去さえ変えることもままならない末端の神であると、顕現してからいつもこの季節になると思い知らされるのだから。
「明石?」
誰もいないと思っていた廊下の奥から、浮かび上がるように金色の髪色だけが目に入った。こちらに近づく足音とようやく足元のセンサーライトが着いて隣室のソハヤノツルキだとハッキリとわかる。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「暑うて寝苦しゅうて目ぇ覚めただけですわ」
「お前そんなガリガリの睡眠不足で明日まともに動けんのかよ?」
「動けますわ、鶴丸はん見てみぃ」
「あれは特別だろ」
そう言って、なぜか隣に座った。
いやいやいや、早よ部屋戻りなはれ、と思ったのに、彼の視線は明石が見ていたものと同じものをきっと見ている。
「何見てたんだ?」
「見たまんまですわ」
「あんなにいっぱい捕まえたのに、ここに見えるのはほんの少しなんだな」
「あんな何万の蛍おっても気持ち悪いだけやで」
「そうだな」
ヘラリと笑ったソハヤの顔は普段よりも首筋まで赤いのがこの薄暗い中、目の弱い太刀にまでわかる。
「ずいぶんお楽しみやったんやなぁ。あんた、兄弟どないしたん?」
「あっちはザルだぞ? おんなじペースで飲んでたら手入れ部屋行きになっちまうよ」
けらけらと笑いながら、こちらに飛んできたホタルに腕を伸ばした。捕まるはずもなく、するりと抜けていく。
当たり前だ。なにもかも、幻なのだから。
「明石、とっとと寝ろよ」
脈絡なく、酔っていたとは思えない足取りでスタンっと立ち上がると、明石の膝の上にポンと投げられたものがある。少しの重さを感じて見ると、炭酸飲料だ。
「なんこれ?」
「コーラ」
「いや、そうやないねん」
「甘いもんでも飲んで寝ちまいな。
夢で、蛍がきっと寄ってくるぜ」
ははは、と来派部屋には聞こえないような笑い声に、あの意地悪そうな笑みを浮かべているのかと思ったら、少しだけ優しさの滲み出る手の振り方をひらりとして、静かに障子が閉められた。
ほー、ほー、ほーたるこい。
声には出さずに、そう口元だけを動かす。
まあ、せっかく貰ったんだから、と一口飲んで、ゲホゲホとむせ込んだ。
「っはは! 炭酸抜けとるやんか!」
甘すぎる。きっと蛍だって寄ってこない。
それでいいのだ。今は隣に、いるのだから。
とりあえず、国俊と蛍丸にバレたくなくて飲みきったものの、気持ち悪くてもう一度歯磨きをして空いたペットボトルを捨てた頃に二人が起き出してきてしまったのだった。
⑥真夜中の桃缶
「うわ、珍しい時間にいるな」
「うっわ、酒くさ……」
厨の中でぶつかりそうになったのをそれぞれ持ち前の機動で音もなくぶつからないように体をズラす。
適当なグラスを取って水を一気に飲み干したソハヤは普段早寝であるのに日付も変わろうかという時間に鍋と向かい合っている明石の手元を覗き込んだ。
「いい出汁の匂いすんなぁ」
「そら歌仙はんの丹精込めたたまご粥やもん。あげまへんで」
「いらねーよ。蛍丸のだろ? 起きたのか?」
「まあ、ぼちぼち」
昨日から来派部屋がいやに静かでどうしたのかと思っていたら、兄弟の大典太が元から密やかな声をさらに心配のためかますます潜ませて「風邪」だと教えてくれた。
ここの蛍丸は季節の変わり目にはいつも発熱するという。いつも元気いっぱいな愛染の挨拶が聞こえず、それに追随する蛍丸の声もないのはすっかり隣室生活が馴染んだソハヤにもどこか物足りなさを感じさせたのだ。
「しかし、一振り分にしちゃあ多くないか?」
「これ自体は元一人分や。歌仙はんが作ってくれはった時はよう寝てたから起こさんかったんやけど、寝て起きたたらピンピンし始めたわ。ついでに国俊も腹ぁ減った言うもんやから、これは二人分」
カチリとコンロの火を消して、盆を出し、箸を用意し、器を揃えて、と来派の二人に関してだけは小まめであると評判の明石の動きをなんとなしに眺めながらソハヤはふと思い付く。
「デザートは、いらねえか?」
「は?」
食材の保管庫は振り数が三十を超えた時に限界を迎え増設したという外付けの物置である。そのため元々食材の保管に使われていた厨の戸棚の中は今では刀派やら結託した仲間内の夜食やおやつやへそくりたちでいつもギュウギュウだ。その中から太刀たちで共同利用している一角から桃缶を取り出してパカリと開けると、みずみずしい黄桃がつるりとした姿を現した。
「大盤振る舞いやんか」
「ほら、あーん」
「は? 自分?」
「お前だって全然食ってないだろ? 何でもいいから腹に入れとけよ。愛染だって心配するぜ」
「いや、別になんも食うてへんわけや……」
「いいから」
鼻先に黄桃が着くかという距離まで持ってこられて思わず明石が口を開けた瞬間に、丸ごと押し込む。同じように一つまるっと口に入れると舌先でも柔らかく形を変えていく桃から滲み出るシロップの甘さが口内いっぱいに広がった。
「あま……」
「久しぶりに食うと甘いな……」
「ソハヤ……俺の桃缶……」
「うわ! 兄弟!」
おそらくソハヤを追って酒のつまみか追加の酒を取りに来たのだろう大典太が、向かい合って桃缶を握りしめている二人を見て、兄弟刀の名を呟いて去っていった。
「いや、待て待て待て待て! 誤解だ! これは高いほうの桃缶じゃない! 兄弟の高級缶は取ってあるって!」
慌てて明石に缶ごと押し付けて兄弟を追いかけようとしたが、ジャージの後ろをひっぱられて思わずたたらを踏んだ。
「おい! ジャージ伸びるだろ!」
「どうせ同じ方向帰るんやから、荷物持ちくらいしてもろてもええやろ」
両手塞がって障子開けられへんし、と言われるとさすがに「まあ確かに」と思ったが、結局桃缶の準備して行くと言われて先に戻って部屋の直前で明石と合流したら、きちんと五人分の豆皿に桃が小さく切られてヨーグルトまでかけられていた。相変わらず、恩を売られっぱなしは絶対に嫌らしい。
ちびっ子二人の様子見もかねて来派部屋に三池兄弟揃って邪魔していたがモシャモシャと二人とも寝起きの子犬みたいに粥をかき込む。時々明石が茶を促さないと誰かに取られるみたいに急いで食べているのがおかしかった。
たった一口しかない桃は、ヨーグルトのおかげか、先程よりもずっと爽やかに感じた。ついでにいい酔い覚ましである。
デザートまで食べ終わると、二人ともぽてりと布団に倒れ込んだ。いそいそと小さな身体ふたつを布団に仕舞い込んで厨に食器を戻しに行く明石に見守りを頼まれて引き続き兄弟で小さな来派の子を見つめた。まだ少し熱があるのかぽぽっと赤みのある頰をした蛍丸とその隣に寄り添う愛染を見ていたら、こちらまで手入れ部屋から出る時の少しぼんやりした気持ちに陥った。帰ってきた明石と入れ替わりに部屋に戻る。最後まで明石はクマのある顔を隠さなかったが、あくび一つもしなかった。
そういえばと結局丑三つ時になろうかという時間に自室で横になって兄弟に桃缶を勝手に開けたことを謝罪すると、そうではないという。
「俺は、食わせて貰ったことはない」
「お前は一人で食えるだろうが」
すでに眠気のほうが勝っているソハヤと違い、こちらはまだ酔っているせいかハッキリとわかるように不貞腐れているらしい兄弟に「あんたが風邪を引いたらな」と約束をしてこの話は終わった。
ただし、今のところ、どちらも体調を崩すことは二日酔い以外無いのだが。
⑦隣に立つもの
明石国行が修行に行って、そして帰ってきた。
明石が帰ってきても、来派は特になにも変わることはなかった。目に見える範囲では。来派の二振りはすでに修行を終えてそれなりに経っている。かつて愛染国俊の修行に慌てふためいてほとんど眠れずに帰還の日を迎え、耐えきれずに寝てしまっていたところに帰ってきた国俊が苦笑いをした、というのは明石にとって苦いが悪くない思い出である。
どんな姿で、どんな態度で帰ってくるのか。
寂しくなかったか? 自分たちはその小さい体に似合わぬ大きな心の糧となり、辛さを少しでも和らげることが出来ただろうか。お腹は空いていなかったか? どこでも眠れるだろうけれど隣にいつもの体温がない日々でも本当にちゃんと心と身体を休めることが出来たのか? 一人で泣いてはいないか? 愛され、愛することが出来る来の刀だから本当に、本当に心配というか、そんなことをする必要がないことなんて自分が一番よくわかっているのだと知っているのに、それでも自分の手の届かない見えないところに行ってしまったことに、またいつか来る離別の時を勝手に感じていることに、それを「恐怖」と呼ぶことを、そんな恐怖を自分が感じているのだと明石は当初気が付かなかった。ただぼんやりとなにもかもフラフラとしながら三日間をすごした。そんな明石が真横に居たから、蛍丸は平静でいられたのだと、正直ホッと胸を撫で下ろしたことは未だに明石には内緒である。
身体を揺すられ蛍丸が「国行ってば!」と訴えかける。その声に目覚めぬわけにはいかない。重すぎて拷問か? というほどの瞼を力技でなんとかこじ開けてその目に映ったのは蛍丸ではなく愛染国俊だった。
「ただいま、国行。こんな時まで寝てんなよな!」
きっともう、事情は蛍丸から聞いていただろうに、それでも国俊はそんなことを言う。少し目元と耳元が赤くなって、滅多に見せないあからさまに自身を大事だと現す明石国行の態度を照れ臭いと突き放すことなどもう出来ないと、修行の成果を早速見せてくれたのだった。
思わず国俊と蛍丸を両腕に掻き抱いて、声にならない感情が爆発した。
ただ、無事に帰ってきてくれれば、それでいいのだ。
ここに、この本丸に、いいや自分の元に、帰ってきてくれたら、そのためならなんでもしよう。なにがなんでもこの本丸を、お前たちの居場所を守ってみせる。決して声に実際に出したわけではないけれど己の存在全てを懸けて戦い続ける理由はそこにある。
それだけでよかった。この二振が健やかに、ただ、隣にいてくれるのなら。
そんな明石はもちろん蛍丸の修行の時も同じことを繰り返した。心配で心配でたまらなくて、あの子の帰る場所はここなんだと明石のほうが思い詰める有様だった。国俊が少しだけ普段より蛍丸がいない間は静かにそばにいてくれることが多かったけど概ねいつも通りで、それは明石の知らない二振りなりの約束らしかった。そういえば蛍丸も食事の量は少し減ったが普段通り短刀たちと遊んだり大太刀連中と模擬戦などで存分に刀を振るっていた。普段の生活を保てないほどに憔悴したのは明石だけだ。ありがたかったのは、本丸でそんな明石をバカにするものがいなかったことである。恥も外聞も関係ないと思っているタイプではあるが、やはり後から冷静に考えると穴があったら入りたい。だが、二人が修行に行っている間の明石を弄れるのは、来派の二振りだけに許されている特権だった。
そんな明石国行の修行帰還後も、来派は三人それなりに大小喧嘩をしつつも、基本的には仲良く過ごしている。と、明石は思っている。
明石が修行に行く、となったら少しは国俊の小生意気な態度もしおらしさを見せてくれるかと期待したのだがそんなことはなく、蛍丸も変わらずの塩対応でそうなるとこちらもしおしおと普段通りの態度を貫くしかなくて、シクシクと心で半泣きになりながら修行に出立した。もちろん見送りには来てくれたけど「サボるなよ!」「ちゃんと手紙くらい書きなよ、主さんに」とのことで最後まで普段通りだった。少しくらいデレてくれても良かったのに。
帰還後の楽しみはそればかりで、二人に会ったら何をしようということばかり考えていたのに、帰ったらまた元通りの生活がきちんと規則正しく始まっただけだった。
ああ、全く! かわいくない! そういうところがかわいいのだけど!
審神者だけが明石の修行を喜んでくれ、そのおかげで修行後は連日働き通しで毎日ヘロヘロだ。
しかしきちんと働くにも理由がある。
当たり前だ。愛染国俊と、蛍丸はとっくに早々簡単に追いつけるような練度ではないからだ。
だから明石は出陣する。毎日毎日文句を言いながらも、少しでも早く練度だけでも、近づけるように。
*
気配を感じたので瞳を開けると、眼鏡のレンズ越しに少しボヤけた金髪が見えた。見慣れた色合いだけで判別する。
「ソハヤはん?」
「よう、久しぶりに一緒の出陣だな」
聞いていた部隊メンバーではないソハヤの登場に思わず声が出た。ソハヤはさも当然という顔をして出陣の支度に取り掛かっている。
「もしかして」
「そ。兄弟の代わりだよ。今日主が兄弟出陣って言ってたのにうっかり畑当番入れちまったからな。今更呼び戻すのもかわいそうだろ」
「今日桑名はんと江雪はんやろ? 出陣のが楽だったんちゃうか?」
「ははは、まあ兄弟はお前さんと違って真面目にやるからな。そんなどっちが楽とかしんどいとか考えたことねえだろ」
「嘘や! み〜んなそう言わはるけどあの二人、絶対自分らの力過分に見積もり過ぎなんやて!」
どうでもいい話に花が咲くのは久しぶりな気がする。ここ最近限定解放された戦地では、それこそこんな軽口を叩けるような空気ではない。連日の出陣で明石も疲れてはいたが、口だけはよく動くのだ。こういうところは国俊と自分が似ている、とハッキリと感じる。
「他の奴らは?」
「あとはみんな定刻通りですわ」
「お前はずいぶん準備が早いんだな。誰かいれば事情伝えなきゃと思って早く来たけど損した気分だ」
「なんでや。精神統一中やで。邪魔せんといて」
「いや、俺入って来るまで寝てただろ」
結局どうでもいい話の応酬が続き、ぽてぽてとノンビリ入ってきた蛍丸やすでに修行に行った鶴丸、太郎太刀、物吉たちが入ってきて全員揃った。
「では、参りましょうか」
隊長の太郎太刀がその身体をゆっくりと持ち上げる。明石もその後に続いた。鶴丸がその場を和ませるようなことを言って、物吉が穏やかに笑い、ソハヤがそれを混ぜ返す。時々蛍丸が突っ込むと太郎までもが小さくふふっと笑う。
ここに最近は部隊の調整で色々な太刀が出入りを繰り返している。一昨日までは打刀だったが一旦太刀で統一するとのことだった。ソハヤとの出陣は本人が言うように久しぶりだ。
どことなく明石は胸騒ぎを感じた。元々戦いたいわけではない。なにより今取り掛かっている戦場は完全に解放されてもない途中までの道行なのに、あまりに敵が強すぎる。こんなところを解放した政府の意図はなんなのか。ずっとそれが分からずに審神者が頭を抱えているのも知っている。行くたびに一振り二振りと重傷をかかえる。疲れているのはそんな地獄絵図にだ。練度のある大太刀ですら重傷になる中、明石も何度も手入れ部屋を出入りしている。札を使えば一瞬で治る身体を痛ましそうに見る審神者の視線のほうが痛い。
この戦いの意義は、一体どこにあるのか。
この穏やかな空気は今だけだ。すぐに戦場に入れば誰もかれもピリピリとしたトゲのような気配に包まれる。
「国行?」
「ん?」
「もうピリピリしてるよ」
「なんでもあらへん」
「心配しすぎ。大丈夫だよ。俺が守ってあげるから」
「はいはい。どうも」
それでもこちらを元気づけようとする健気さには、涙が出そうになった。
「一戦目はまだマシなんだがなぁ」
「そうですね」
誉を取った物吉が弓兵たちを褒めている。「よぉ〜し、次々」と鶴丸が続く。ふと、明石の視線にソハヤが映った。
「どないしたん」
「霊力が、震えてる……」
己の手のひらをじっと見つめて小刻みに動く手のひらを、そっと太郎が包んだ。
「行きましょう。この戦さ場にいつまでもいるのは危険です。お分かりでしょう」
コクリと護り刀が頷いた。なんの霊力もない明石ですら異常だとわかるのだ。霊刀と呼ばれる刀たちが感じているものは一体なんなのだろうか。それは、恐怖なのか、憎悪か、悲哀なのか。ここにいると気持ちが乱され、腹の底を無遠慮に引っ掻き回されているような気持ち悪さが重低音のようにずっとまとわりついている。内臓を引き摺り出されるほうがよっぽどマシだ。
「明石、行くぞ」
「せやな」
二人に呼ばれ、さらに先へと進んだ。
「よいしょっと!」
蛍丸の斬撃でも最後まで倒れない。残った敵の槍が、明石の腹を貫いた。
「っく!」
「国行!」
「前! 余所見せえへんで!」
溢れそうになった血を右手で押さえ持ち替えた本体を振り下ろす。その後ろから続け様に鶴丸が飛び込んだ。
「残念! こっちだ!」
「ソハヤさん!」
「っしゃ!」
ソハヤの攻撃を最後に、敵を殲滅した。全員肩で息をしている。全員による総攻撃であっても、最後まで倒しきれない時がある。こんな戦は、久しぶりだった。ピクリと動いた敵短刀の頭を、鶴丸が踏み潰した。念入りにいつまでもグリグリと足を動かし続ける仕草は彼らしくは到底無かった。
太郎太刀が冷静に状況を判断している。明石は先程の槍によって中傷。しかし刀装はあとほんの僅か残っている。ソハヤと蛍丸、物吉は刀装を全て失っている。そして明石と太郎を除いて中傷寄りの軽傷である。
「ここは、いったん……」
「何言うとんの、前進一択やろ」
鶴丸が明石の腹を止血していたが、笑い出す。その瞬間、力が入りすぎて明石が「ぐえ」と鳴いた。
「はははは! 明石は案外負けず嫌いだよなぁ」
「やかましい」
「しかし、全体の疲労度を考えると……」
「俺も明石に賛成だ。あと一戦だろ。兄弟もボロボロにされた奴らの面は俺も拝んでおきたいんでな」
「ソハヤさん、お礼参りに来たんじゃないんですから」
「そうか? 包丁の仇も取ってやらねえとな」
「まだ折れてませんよ」
「ソハヤ、一期にそんなこと言うと天誅下されるぞ、気を付けろよ」
「言わねーよ、アンタじゃあるまいし」
「蛍丸、あなたはどう思いますか」
「俺は」
ちら、と蛍丸が明石を見る。少しだけため息をつく。
「行く。国行も、こういう時絶対意見曲げないし」
「ほら、頑固者、身内も認めてるじゃないか」
「ちゃうわ。無駄足になるんが勘弁言うてんのや」
ジャケットを肩に引っ掛け、刀を抜く。それが合図だった。太郎太刀が今までで一番長いため息をついた。
「全員、お守りは持っていますね」
「おう」「ああ」「はい」「うん」「もちろん」
「誰一人として、決して折られることのないように。主の願いは、ただそれだけ。
さあ、辛勝で結構です。総員、突撃します!」
突き上げられた拳と雄たけびは明石の空いた腹にも低く唸りを響かせた。
まるでスローモーションのようだった。
いざ、と最終戦に向かえば即座に撃ち抜かれる銃兵たちに残っていた刀装は根こそぎ持っていかれ、物吉が一気に中傷までダメージを喰らう。
「まだ、まだですよ!」
一番最初に動いたのは明石で、敵打刀の頭を狙うが、刀装を剥しきれない。畳みかけるように蛍丸が続いて削いだ刀装のところを物吉が隙間を狙う。
「そのまま行け! 物吉貞宗!」
「はいっ!」
鶴丸の声に力を得て軽い体重をなんとか押し込む間に後ろを支えてくれていた太郎太刀が押し出された。
「太郎!」
「まだ、平気です」
「援護する!」
ソハヤが向かおうとしたが、敵の槍が再び太刀を貫いた。
「ぐ、はっ!」
「ソハヤさん!」
「やばいな! さすがにあれは明石の時より深いぞ!」
だが、鶴丸も物吉も他の遡行軍に阻害されソハヤのそばに行くことが出来ない。蛍丸がもう一度一閃を振り下ろす。
「邪魔! 国行!」
「しゃあないなっ!」
明石がソハヤと太郎太刀の援護に向かう。薙刀に最後の刀装を連れていかれ、身ぐるみ剥されてもうたやんか、なんて内心ボヤきながら、痛覚は腹になく、どこが痛いのかわからないけれど、ずっとなにかが痛かった。それでも足は動くし、腕もしっかりと刀を握っている。まだ、戦える。なんとかこちらと合流した太郎とソハヤを庇うように明石が再度の槍の攻撃を抑えた。もう一度薙刀が来る。
物吉が一歩前に出た。脇差特有の、攻撃を弾く構えだと思ったら、横から来た短刀に足元を掬われる。
全員が薙刀の一撃を覚悟した時、ソハヤがそれを受け止めていた。彼は、物吉を助けたのだ。鶴丸と明石が動いたのは同時だった。
「よくやったソハヤ!」
「これで、終いや!」
太刀筋が薙刀を、バッサリと半壊にした。
「これで、終わり……?」
蛍丸がゆらりと構えたところに、物吉が飛び込む。
「蛍丸くん!」
半壊した薙刀の後ろに隠れた敵短刀が、物吉を貫こうとした。物吉はすでに中傷。これ以上は危険だ。蛍丸が刀を振り下ろすよりも先に、ソハヤが短刀を掴んでいた。
「これ以上、させるかよっ!」
「みなさん! 伏せてください!」
太郎の声に、ソハヤだけが間に合わなかった。
追加で現れた大太刀の一振りにソハヤが吹き飛ばされる。それを、自然と追って、明石がソハヤの腕を掴んだ。
「明石! その腕を離すなよ!」
鶴丸の声が、すぐに遠くなっていく。
「国行!」「ソハヤさん!」
蛍丸と物吉の悲痛な叫びが、こだまのようになって、二人は平野と思っていたところのふいの崖から落ちていった。
*
全く、たまったものではない。どうしてこんなことになったんだか。
部隊は分断され、夜の気配は明けないまま、明石はソハヤを背中に背負い左足を引きずりながら泥水を踏みしめながら歩いていく。
霊力はないので、この男のように仲間の居場所がわかるわけではない。それでも蛍丸なら、という思考を追いながら歩き続けていた。もうどれくらい歩いただろうか。眼鏡は割れてるし、服はボロボロだし、背中の男は重たいし、どういうことだ? 身長は自分と同程度くらいではなかったか? まあ、明らかに重そうな武具を付けているのもあるが、邪魔なので捨ててきてやろうかと思ったが、せめてもの温情で胴丸だけ投げ捨てて足の装備はちゃんとそのままにしてやった。
とっとと起きろ、と念じていたらようやく目を覚ましたらしい。生暖かい背中が、流血しているからなのか、人間の体温だからなのかわからない。それでも明石のシャツの袖を無理くりに腹に押し込んで止血にした程度なのでまあ生暖かくても仕方ないなと思っている。
「ようやくお目覚めかいな?」
「ここは、どこだ」
「自分の背中の上ですわ」
「おろせ。自分で歩ける」
「嘘つき。ほんまもんの足手まといなんで大人しゅう乗っといてください」
「お前だって無理だろ。足引きずってんじゃねーか」
「誰のせいやと思うてんの。どっかの誰かさんに押し潰されて足動かへんのやけど!?」
「お前が一緒に落ちてきたんだろ」
「……アンタ、あないなんやめなはれ」
そう言った瞬間、背中の気配から殺気が出る。いまだにこんな気配を出せるとは、相当元気だな、やっぱり自分で歩かせてやろうか? と思うものの、明石はソハヤを背中に乗せて片足を引きずりながら歩き続けた。
「お前が口を出すことじゃない」
「いややわ、目の前であんなんされて、物吉くんがかわいそうやろ」
「お前だって大してやってること変わらないだろ」
「やかましいわ」
ガツン、と肘鉄を脇腹に向けてぶつけてやる。悶絶する声だけが聞こえて、おとなしくなった。
そのまましばらく、二人とも黙ったまま、びちゃびちゃとした泥沼を歩く。ここはどこなんだろうか。もういい加減平地に出たいのだが。なあ、背中の。霊力で行先教えてくれへんか。そう言ってやろうと思ったけれど、背中の男は気がつけば生暖かさが引いて、冷たくなってきていた。あれ、おかしい。どうしてだ。
「ちょ、ソハヤはん?」
「……めいわく、を、かけたな、あかし」
「やめやめ!! 待ち待ち待ち、まだ! まだやで!」
「兄弟によろしく頼む……」
「うるさ! 言いたいことあるんなら自分で言いなはれ! 起きろ!」
全身を揺らしてソハヤの瞳を開かせようとする。たが背中にいるので目が開いているのか閉じているのか明石からはわからない。なんとか口を開かせようとするが、明石も思考がまとまらない。
だが、結局口を開いたのは、ソハヤのほうだった。
「なあ、なんで、おれは、どうして、修行にいけない」
「は」
「俺は、おれは、ただ、つよ…くなりたい、だけなのに、おれは、並び、立たねばならない、というのに……」
背中の吐息が浅い。意識が朦朧とし始めているらしい。
歩くスピードを上げた。ただ、明石も疲れが貯まっている。腹に穴が開いているのだ。今更気付いた。めちゃくちゃに痛い。こんな重たい男を背負ってこんなに長く歩けるものか。もう自分たちは二振りとも死んでいるのかもしれない。死んでもなお腹は痛いのか。そんなの納得がいかん。明石もまた息絶え絶えに何度も躓いては立ち上がる。
「アンタは弱かないで」
「そうじゃない」
「せやけど」
「おれは、強く、ならねば、ならない」
それは、きっと、本心だ。ソハヤノツルキの、本当の心だと思った。
かつて2スロ太刀の会が開かれていた。まだ太刀の修行解禁前のことだ。早く修行に行きたいと言う山伏や、もっと戦に行きたいという獅子王の言葉は明石の耳を素通りしていた。そういう声をきちんと聞いて返答しつつ、決してソハヤは自身の気持ちを言うことはなかった。基本的に飲み方がうまくて、己を失うことのない強い理性の、日光大権現の佩刀したという愛刀。決して弱音を吐かず、愚痴をこぼさず、穏やかでありつつ、気迫があり、しかし確実に最後の一歩は踏み込ませない。獅子王などはそんなソハヤを心配していろいろ気晴らしに行っているうちにかなり仲良くなっていたが、それも結局太刀の修行が解禁されてからは自然集まりはなくなってしまった。鶴丸や江雪ですら修行に行けたのに、ソハヤノツルキはいまだに特のまま。すべては本人の意思ではなく、政府のスケジュールの都合によっている。
本当は、我慢の、限界だったのかもしれない。
弱みに付け込むようで心苦しいかったが、そんなソハヤの様子はもう死にかけているのに、明石に少しだけ共感をもたらした。
また足を持ち上げる。右足を、左足を、一歩ずつ、ゆっくりと、それでも、きっと、蛍丸がいるほうに。仲間たちにもう一度出会うため。
最後に「手を離すな」と言った鶴丸の言葉は、物理の話ではなかったのかもしれない。そういう少し、先を見せるあの男も、若干気に食わないが、仲間としてはいいやつだ。
眠らせない。ソハヤを。意識を失わせない。だから、聞け。こんな話、誰にもしたことがないけれど、ずっとずっと、自問自答していたからいくらでも湧き出てくる。
ああ、全く似ていないと思っていた自分たちは、もしかして、少し、近かったのかもしれない。いや、よう知らんけど。
「なあ、ソハヤはん。自分の預かり知らんうちに現存せえへん刀になってもうたのに顕現したらちんちくりんな恰好なってあっちゅーまに自分越えて強うなってもうた小さな大太刀のこと、知ってはります?
短刀は守らなあかん思うとったのに、いつのまにかすっかり背中みてばっかりになってもうたんはいつからやったろうなあ。首の皮一枚で助けてもろうたことが何べんあったかしれまへん。
なあ、自分らしくもなく、なりふり構わず修行になんてもんに行ってまでそれでもやっぱり遅すぎたんと違うやろかとずっとずっと思っとったんや。まだまだ錬度も下、極めてからの身体の使い方も後追いばかり、じゃあ、どないしたらええんや、なあ。自分らはいつになったら強うなれる? 強うなりたいやろ。
修行行ったって、そんなもんや。
なあ、強う、なりましょ。
自分ら守らなあかんもんが、隣に立たなあかん相手がおるんやで。まだ諦めるわけには、いかんのや」
「そ、うだな」
返事が来た。少しだけ長く息をついた。ほんの少しの安堵の気持ちで。
「なあ明石」
「なんや」
「お前がいない間」
「ん?」
「あいぜ、んと、蛍まるは、毎日、お前の」
「は? なに? よう聞こえへん! もっとハッキリ!」
「お前の布団、毎日、ひいて、まってた」
奥歯を噛んだ。
知らん。
そんなことは、なんにも知らん。
あの子たちは、立派な刀だから、世話を焼くのはこちらの、自分のためのエゴだから、あの最後まで塩対応で帰ってからも塩だったあの子たちが、きちんと自分の帰りを、毎日、待ってくれていたのか。当たり前なような気もするが、頭を殴られたような衝撃で、頭は痛くなかったはずなのに目玉の奥が痛い。強く瞳を閉じてやり過ごす。
帰らなければ。
きっとこの男の兄弟も、それを知ってる。
そしてその兄弟もまた、待つもの待たれるものの苦しさをわかっている。
帰してやらなければ。なんとしても。
「ほら、ソハヤはん、寝たらあかん。ほんまに死んでまう。起きろ! 寝るな! 必ず! 本丸に、連れて帰ったるさかい、兄弟に死に顔さらすなや!」
弓が二人の足元に刺さった。ソハヤが右手の人差し指を北に向ける。自分の戯言よりも、敵の気配に確実に反応をするとは、コイツも生粋の戦闘狂なのでは?
「なんそれ」
「来る」
「なにが!」
聞くまでもない。明石が大きくずり下がった瞬間、二人がついさっきまでいたところには大太刀の刃がめり込んでいた。
「あかんあかんあかん。無理やて、無理。ほんまあかんて」
ソハヤの腕が不思議な動きをした。明石の目線がすぐに気がつく。ついさっきまで、死にかけていたくせに。こいつは、刀を探している。
仕方ない。自分たちは、刀なのだから。
受け止められて一撃、差し違える覚悟で、抜くほか道はない。明石がそう心を決めた時だった。
「国行!」
先ほど、ソハヤが指さした方角だった。全身切り傷だらけになって木々の間から駆け抜けてきたのは蛍丸だ。
「お二人とも、こちらにどうぞ!」
続け様に物吉が馬に乗って現れ、太刀二振りに馬を譲る。
「でも、」
「いいから! ここは俺に任せて!」
蛍丸が抜刀するより先に太郎と鶴丸が立ちふさがった。
「それはこっちの台詞だ。あとは帰還だけだ。先に行け」
「物吉、蛍丸、二人をよろしく頼みますよ」
「はい!」「……わかった!」
物吉と一緒になんとかソハヤを馬に乗せると、物吉がその馬を駆けだした。明石と蛍丸も隠れていた馬に乗って先に移動する。おそらく最後の相手があの大太刀なのだろう。
蛍丸と一緒に馬に乗って、片足が使えないので、馬を蹴れない。蛍丸がうまく誘導してなんとかゲートまで辿りついた。
「帰りましょう、ソハヤさん」
物吉と明石で、なんとかソハヤを本丸まで移動させると、ゲート前に待ち構えていたらしい大典太が駆け寄りソハヤをすぐに抱え上げた。
「待っていた。二人とも、感謝する」
「早う手入れ、に」
「国行!」
膝をついた明石を支えようときっと大典太と一緒に待っていたのだろう愛染国俊が、明石の身体を支えた。膝をついたからこんなことが出来る。身体が大きくなりたいとしょっちゅう言っているけれど、明石はこのサイズ差が気に入っていた。膝をついて、ちょうどいい。そのまま全身の力を抜いた。愛染が審神者を全力で呼ぶ声と、蛍丸が御手杵を呼んでいる声が脳内に響く。後ろのゲートが開く音がして、どうやら太郎太刀と鶴丸も帰還したようだった。
明石の記憶はここで途絶えた。
*
「ったく、笑っちまうな。部屋だけじゃなく、こんなところでも隣かよ」
「全くやわ」
手入れ部屋で、目を覚ましたら隣の寝台にソハヤがいた。当たり前だろう。あの白を通り越して土色になっていた肌はかなり血色を取り戻したようだった。きっとそれは自分もだろうが。
鶴丸や他の刀たちもケガを負っていたはずだが、穴が貫通して重傷まで至っていたのは結局自分たちだけだったようだ。夜中に帰還したのもあり、自分たちには札が使われなかったのだろう。実際時計を見ると泥のように眠っていたのがわかる。いや、戻ってきた時間は知らんが。
「明石」
「うん」
名前を呼ばれたので返事をした。
続きを待つが、ないので、相手を見返す。お互い、横になったまま、障子のうすぼんやりとした灯りだけで、太刀同士、ろくに表情も見えていない。
それでも、赤い瞳の力が戻っているのを見て、胸につかえていたものが取れた気がした。
「助かった」
そりゃ、どうも。
なんて返そうとしたのに、返事はなんとなくふにゃりと笑ってすましてしまったのだった。
強くなろう。自分たちも。守るために、並び立つために。
そのためになら、恥も外聞を捨ててでも、こんな風に地べたを這って、血まみれになっても、ここに帰ってくれば、兄弟が、子どもらがいるから。
明石の返事がなかったのに、ソハヤは同じように、笑い返したのだった。