夕陽の向こうの顔
大学二年目の前期の時間割もほぼほぼ決まりかけた頃、ちょうどいい具合に大型連休がやってくる。新入生たちのざわめきもまだ落ち着かない学内も、連休明けにはどこか冷めたように静かになるのが例年のことだった。
「ゴールデンウィークはどこか行くの?」
「うちは特には」
「ヒメノんところはいっつもそうだよね。彼氏とどっか行けばいいのに」
「ううん、私も彼も人混みがあんまり好きじゃないし、いつ仕事が入るかわからないからね」
「社会人の彼氏も大変だねえ」
なんて会話をして、心のうちでため息をついた。
社会人なんていう立派なものではなく、自由業で、お金がないだけだが、別に出かけたいと思っているわけでもないし、人混みが苦手なのも正しい。
ただ、どこか、いつまでも普通の恋人同士のような気楽さが伴わないのは、単にこういう会話が苦手なだけだろうか。
友人同士で旅行に行ってもいいのだが、心配性な明神やエージ、母がいるのであんまり気軽に遠方に長時間出かけるのも気が進まない。親友ならば事情も知っているので澪や案内屋の仲間たちと一緒に出掛けることが出来るだろうが、親友は今年の春先から免許を取りに忙しくしていて最近は一緒にいる時間が減っていた。正確には、春休みで終わるはずだったのが長引いている。
「私も免許でも取ろうかなぁ」
「卒業までには取っておきたいよね。時間がある学生の時に取っとけって、私もお父さんに言われたもん」
「だよねー。はー、通うのと、合宿どっちがいいんだろうね」
こんなくだらないことを言い合いながら帰宅する平和な毎日があるだけでも、私は幸せだ。
それ以上なんて、望めない。
それは、心から思っていることで、嘘でも偽りでもなかった、はずだった。
「ねえ、すごい人いる」
大学から隣の駅から少し歩いたところに新しい喫茶店が出来たから行こうといってテイクアウトのコーヒーをダラダラと飲みながら一駅先まで天気がいいから歩こうとなった時だった。
すぐに思ったことは口に出てしまう友人は、さすがに相手には聞こえない距離でだが指をさしてヒメノたちにつぶやいた。
もう一人と一緒にさっきの喫茶店にあったチラシを見ていたヒメノたちはその声に指の先に視線を送る。
そこにいたのは、真っ白い髪の毛に、頭上に黒いサングラス、大柄とまではいかないがそこそこ立派な体格をした黒いコートの男が大きな声でしゃべっている姿だった。
「誰もいないのに喋ってるよ、あの人」
「え、うわ、ほんとだ」
道路の脇の余った空間を公園のようにしている小さなスペースの中で、彼はベンチに座ってブランコの方向に向かって「いやいやそんなことないって」「オレならそうは言わないな」「あー、そういう考えもあるよね」など、一人で相槌を打っている。
公園脇の歩道を避けるように反対側にこそこそと渡り、三人は身をすくめるようにして速足で歩いた。
「まあ、春だしね」
なにか良くないものを見たときの、悪いものにふたをするような仕草が、ヒメノの心に古い傷をほじくり返すようにして柔らかい部分を掬った。
その男はよく見知った、いや、毎日一緒に寝食を共にしている、彼女の恋人なのだから。
一言も発することが出来ず、目を向けることも出来ずに黙っているヒメノの手を友人が取った。
「行こう、ヒメノ」
明神は独りではなかった。ヒメノには見えている。そのブランコには年若いスーツ姿の男がいたことに。
私は、どうして、彼に近づけないのだろう。
その自問自答は、ずっとヒメノを傷つけている。
***
あれはまだ付き合う前。大学に入学する直前だった。
大学も無事に決まり、高校最後の春休みを堪能していたある日、夕食後自分の部屋に戻ってから肌寒さを感じ、暖かいものでも飲もうと思って台所に向かうと、ちょうど明神が緑茶を入れていたところだった。
「それ、さっき夕食後に飲んだやつですか? 茶葉取り換えました?」
「え? ダメなの?」
「あー、もー、相変わらず無精して。何回目ですかそれ使うの。取り替えてあげるから新しいの淹れますね」
「え、いいよ、オレこれで」
「一人も二人も一緒です」
そういって強引に急須を奪うと、狭い台所になにをすればいいかわからない男が突っ立っていることになった。
「淹れたら持っていきますよ」
「え、いいよ。待ってる」
「はあ」
少し前、ヒメノは明神に告白をしたばかりだったが、彼からの返事は「わからない」というものだった。
とりあえずなにかしらの好意があることはわかっているが、どことなく緊張感が漂う関係になってしまった二人はただ黙ってお湯が再び沸かされるのを待つ。
「あのさあ」
「はい」
「これから先、大学に入ったり、会社に入ったりした時にさ」
「はあ」
「外でオレが“仕事”をしているときに見かけても、近づいたり、話しかけたりしちゃ駄目だよ」
「え、なんで」
単純な疑問で、反射的に口から出ていた。それを見て明神はその場を取り繕うように、「明神」の顔をして笑った。
「高校はここから近かったし、エッちゃんもいたし、お母さんもいて、ここが有名なお化け屋敷のボロアパートで、頭のおかしい管理人がいるって知られてた。
でも、新しい学校ではそうじゃない。そりゃ電車に乗っても三十分以内に着くし、そう遠くないけど、もう高校の時みたいにすぐに駆けつけられるところじゃない。それに初めて出会う人たちばかりだし、これから先も色んな人と出会うだろう。優しい人もいれば、そうでない人もいる。悪意が服を着てるようなやつも、正直すぎてバカを見てるやつもね。
ひめのんには、普通の、当たり前の生活を過ごしてほしい。
だから、外で、仕事をしている時のオレには、話しかけたりしちゃ駄目だ。わかるだろ? 変わった人間と知り合いだってだけで、君に興味関心を持つどんな人間がいるかわからない。だから君の「普通」を守るために不要なタイミングでオレと関わらない。
それは約束してほしい」
「エッちゃんがいたらいいの?」
「ううん、二人っきりならいいよ」
「仕事してないところで会ったら?」
「まあ、よくはないけど、それならいいかな」
お湯が沸いて、新しい茶葉を入れてあった急須に注いで、蓋をした。
明神は、首の後ろを掻いて、口にするかしまいかと迷ったけれども、という雰囲気で、そのくせずっと考えていたことを話すようにスラスラと話し出す。
「本当は、外でこんな怪しい男と知人だなんて思われないほうがいいんだけど」
相変わらず、そういう低い自己評価は肯定されることがない。社会的には事実だけれど。
「じゃあ、私に変な虫がついてもいいんですか? 一緒に男の人がいるほうが悪い虫がついてこないって言ったのは明神さんでしょ」
「いや、変な虫っていうか、まあ、ひめのんがそういうのでいいっていうなら……。君が幸せだっていうならそれはそれで仕方ないというか……」
その返答にはさすがにフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
乱暴に明神が用意していた二人分のマグカップに緑茶を注ぐ。
「じゃあ、いいです!」
私が好きだといったのはあなたなのに!
なんてデリカシーのない男だ! と憤ったのに、その約束を、ヒメノは今でも頑なに守っている。
***
ボンヤリとして帰宅の途につく。
夕焼けが伸びて自分の影を踏みながら歩いた。
明日から連休で、休みで、学校もないし、バイトも新しい人が入って別にたくさん入る必要もなく、特にしなくてはいけないこともない。うたかた荘のみんなといつも通りおしゃべりしてゆっくりして過ごす。それだけだ。
それなのに、心は浮かない。
自分のことが、キライになりそうだった。
本当に彼のことが好きだったら、どう思われようと明神に近づいてそばにいるべきなのではないか。
きっと、そうだ。
明神は明らかに一線を引いている。それは自分が幼いから、頼りないからではないのか。彼と同い年なら、彼と同じ力があったら、よかったのだろうか。ただ守られるだけの今の形に満足なんてとても出来ない。
ただ彼が生きていて、自分と同じ気持ちでいてくれるという事実だけで満足しきれない。そんな傲慢さを、彼が仕事をしているところを他人の目で見て知らされた気がした。
明神にそんな画策など存在しないことなんて分かりきっているけれど、自分の無力さは、彼のことをもっと知りたい、彼ともっと親密になりたい、というヒメノの想いを遮ろうとしてくる。
彼がヒメノに触れてくるのは手と頭と、頰だけ。夜中にこっそり一緒にコンビニに行く時に、時々ウッカリというように触れるだけのキスをする。
それだけでは、ヒメノの欲望は、高まるばかりで逆効果なのに、彼は、完全にそこまでと決めているような感を漂わせてその先を止めてくる。
自分だけが求めているようなもどかしさと虚しさが、結局外で声をかけることが出来ない自分の弱さを明神に突きつけられたようで、そう思うことで結局明神のせいにしていることが自己嫌悪をより強めた。
「ひめのん」
夕陽で逆光になっているけれど、明らかに微笑んでいるような声だった。
そちらを振り向くともうすぐ近くに明神が来ていた。
いつもなら、一緒に住んでいてもすれ違うことも多いので家の中でも会えただけで良かったと思うのに、今日は出来ればもう顔を合わせたくなかった。
「今日通りすぎたろ」
そして、そのことに触れてほしくなかった。やっぱり、彼は気付いていた。なんでもないことのように、そうして話題にしないでほしい。
「うん」
「えらい。よくやった。ちゃんと約束守ってるじゃないか」
そういって、出会った頃と変わらず自分をほめる。子ども扱いしているように。
「えらくない」
「はははは、すっごい暗い顔」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「知ってる。オレのせい」
夜じゃないとこの人は決して手を握らない。
その悪びれない態度にも、子どもと変わらない対応にもイライラした。
「まだ暗くないし、明神さんがいるからいいですよね」
そういって、その男の手を握ってうたかた荘とは反対側に歩き出した。
「え、」
「少しお散歩付き合って」
戸惑っている手はなかなか握り返してくれなくて、またヒメノのイライラは高まった。
「こんな暗い顔でお母さんに会えないので!」
川っぺりを二人で歩く。いつの間にか手は離れて、前を歩いているのは明神になっている。
散歩をするにはいい陽気で、少しだけ風が強い。ジョギングをしている人や犬の散歩の人は、それぞれ自分にしか関心がないような素振りで、ヒメノは少しだけ安心した。時々すれ違う人が、明神の白い頭を二度見していくくらいだった。
「今日のお仕事は?」
「上々だよ」
「そう」
「知ってるだろ? いつものことだから別にひめのんが気にすることなんてなんにもないんだよ」
「全部聞こえてたくせに。私たち以外にもあそこを通る人たちがいたんでしょう? みんなああやって遠巻きにしていくの?」
「慣れてるよ」
「慣れちゃ駄目だよ、そんなの」
もうこの理不尽な約束は、一方的に言われただけなのに、いつの間にかヒメノが守ることになっていて、そして、実際に「仕事」をしている彼となんの前触れもなく出会ったのは初めてだった。澪やプラチナ、雪乃がいれば仕事だろうがなんだろうが声もかけるし、なにか役に立てないか、と自らその場に行くのに、どうしても、ヒメノ一人に対しての明神の「やさしさ」という膜に覆われた理不尽を納得出来ない。
周辺の人から向けられる嫌悪や疑惑や好奇心や疑心暗鬼な瞳にさらされることに対して「慣れた」と言ってしまうことにヒメノの胸は苦しくなった。その慣れは、彼女の知らないところで、常に引き起こされてきたからだ。そうだ、彼が、周囲の人々が、ヒメノをずっと、そんな視線から守ってくれていたからだ。
その時ようやく明神がヒメノの顔を見た。
正しくは、逆だ。ヒメノが男の顔を見なかったのだ。
泣きそうな、いや、少し怒っているような、不愛想な表情。しかし、本当は、そういう複雑な時こそ、なにも考えていないのだということを、ヒメノは知っていた。それが、やっぱり、彼女の心の空洞に強い風を通した。
「もう、手遅れだよ」
それが、「慣れ」への答えなのだと気付いたときには、一瞬外されていたサングラスが、再び彼の目を覆った。そこにも意味なんてなくて、夕陽が眩しかっただけでしかない。本当に、そこになんの負担も負荷も、気負いもないことを証明していた。
手遅れ、なんて言いながら、半笑いで片頬だけを引き上げる不器用な笑い方をした。
それが「明神」の癖だ。
二人でいる時は「冬悟」だって言ったのは男のほうなのに。
「まだ歩くの? もう早く帰ろうよ。お母さん、心配するよ」
横に並んで、ヒメノの顔を覗き込む。
ヒメノはムキになってさらにズンズン歩いていく。彼は犬のように従順についてきた。
「あのね、ひめのんが傷つく理由は一つもないんだ。
オレの言い方が悪かったなら謝るよ」
ええ、本当に。
それは、拒否されているような断絶に他ならない。なのに、彼は無意識で、そんなこと、微塵もわかっていないのだ。
「でも、私は」
「君は、普通の女子高生から、普通の女子大生になった。その幸福はお願いだから手放さないでよ」
それを言えば、ヒメノが黙ると知っている。それが卑怯だ。
「でも、やっぱり嫌だ」
「君までこんな業を背負う必要はない」
「冬悟さんは、前に私に言ったよね。
わがまま言っていいって、言った。
冬悟さんは、わがままを言わないの?」
「だから、コレがオレのわがままだよ」
周囲が薄暗くなって、オレンジよりも、薄い紫から濃紺に空が占められる率が高くなってきた。
街灯がジジッとなんらかの音を複数回立てて付く。小さな羽虫が飛んでいる。すれ違う人も、明神の髪の色など気にならないくらいの暗さで、二人だけしかこの道を歩いていないような、そんな空間に押し込められたようだった。
「君がこっちに来たがるのを、必死に止めようとしてる。
ひめのんの意思を無視して否定すらしている。大の大人がやるようなことじゃない。
ひめのんの意見を聞くまでもない。これは、オレの人生最大のわがままだからだ」
「やだ!」
「でしょうね」
「私は嫌」
「うん。知ってる」
顔が見えなくて、今度は明神から繋がれた手に少しだけキュッと力が入った。
「やっぱりなにもかも知ってるもの。冬悟さんが苦しんでるのも、本当はさみしいのも、辛いと思ってるのも、普通になりたいのも、当たり前に生きたいと本当は思ってるのも、全部知ってるもの。
やっぱり冬悟さんズルいよ。
そんなのわがままじゃないでしょ?
私のことを一生かけても守ってくれるって、言った。
なのに、肝心な時にそばにいない時があるなんて、そんなのおかしいじゃない。
逆も同じなのよ。私だって、あなたが大変な時にはそばにいたい」
「いつでも駆けつけるよ。文字通りに」
「来てもらうだけじゃなくて! 私も駆けつけたいの!
本当のわがままっていうのは、私が「嫌」って言っても、そばにいてほしいとかっていうことじゃないの?
大切な時にそばにいないのに恋人とか、好きだとか、彼氏とか彼女とか、なの? おかしいじゃない」
「うん、ごめんね」
「すぐそうやって謝る。
そうじゃない。違う。私が言いたいのは、そうじゃない」
「うん、そうだね」
こんな時ばかり大人ぶっている彼が憎い。
サングラスをかけていても、夜目が利くし、視力もいい明神には、きっと見えているのだろう。
ヒメノが泣いていることなんてとっくに。
もっと、手を伸ばしてほしい。
そう思うことは、私だけのわがままなんだろうか。
「じゃあ、全然私に手を出してこないのもソレなの?
明神さんのわがままの一環?」
「ん?」
ギョッとした明神の生返事が、急に現実味を帯びて歩きながら振り返った。
「え、急に、なんの話……?」
「そういう話!!」
「い、いや、それは、その、場所とか、時間とか、こう、しかるべき時が来れば……」
「いつ!?」
「ええ?」
「ずっとそんなことばっかり言って!
私、もう二十歳になったよ! 子どもには手を出せないなんて言ってたの、明神さんじゃない!」
「ああ、うん、まあ、そうなんだけど……」
片手で顔面を覆いながら明神がしどろもどろに言葉を紡ぐ。
もうここまで来たらやけっぱちだ。
繋がれていた手を無理矢理ほどいて、明神の前に立ちはだかる。
「冬悟さんは、私がたとえば別れようって言ったらどうするの?」
「え?」
「別れたい! って言ったら、どうするの!」
「え、ほかに好きな男が出来たとか?」
「シチュエーションの問題じゃなくて!」
「ああ、よかった。愛想尽かしたってたとえじゃなくて……」
「そこじゃない!」
「君が望むなら、そうする」
「は?」
「ひめのんが幸せになるために、それが最善だっていうなら、オレは君のことを信じてるし、それをいつでも受け入れるよ」
「やだ、別れないから」
「オレも嫌だよ」
「だったら、そう言って引き留めてよ」
「だって、「別れたい」って言われた時点でもう君の心は別れたいんだろ? それならもうオレにはどうすることも出来ないじゃないか」
「もう、本っ当に、なんにもわかってない!」
今度はヒメノが明神の手を再び引っ張って、うたかた荘への道を戻る。薄暗い街灯は、足元もおぼつかない。時折、速足で歩くヒメノの足元で砂利が滑る。
「そばにいられないのも、引き留められないのも、全部あなたの都合じゃない!」
「そうだよ」
「そうじゃなくて、心が思うままに動いてよ!
冬悟さんは、どうしたいの? それを教えて!」
時々する本当に考えている時の仕草をした。ゆっくりと目を閉じて、開ける。その閉じている瞬間だけ考えているようだった。口元は穏やかで、ずっとずっと、今ヒメノとこんな禅問答みたいな会話をしていても、なにも変わっていなかった。
いつもそうだ。ヒメノがなにを言っても怒ることがなくて、悲しむこともなくて、彼の悲しみや苦しみはいつだって彼だけのものだ。それは正しいことだけど、そうではない。
その全てを分かち合う、分かり合う、そんな関係になりたいとヒメノは望んでいるのに、全部のれんに腕押しなのだ。それが悔しい。
「昔言ったことが全部だ。
君がオレを嫌うことはあるかもしれないけど、オレが君を嫌うことは絶対にない。
君がいやだと言ったら、この関係は終わりだ。でも、そんなことがあっても、オレは君をこの命に代えても守る。
君に、誓った通り、それがオレの、本心だ」
「なんにもしてこないのは?」
「なんにもしてないわけじゃないよ……。まあ、その、いやほんと時間や場所の都合もあるし。
でも、君がオレから離れてしまう可能性が微塵でも残っているのなら、オレは先には進めない。
もしかして、君の一番が変わるかもしれないから。
君の一番が変わってしまうことが怖い。
君に向けられる周囲の目線が変わってしまうことは絶対に避けたい。
こんな思いをするのはオレだけでいい。苦痛をわざわざ君に味合わせたくない。
でも、オレだって一人じゃない。もうそんなこともわかってるよ。
案内屋の仲間だっているし、うたかた荘がある。誰にも見えないけれど、オレには見える大切な、守らなければならないものがある。
その事実がオレを強くしているんだ。知ってるだろう?
だから、君は、姫乃は、姫乃の気持ちを大事にしてほしい。
全部、オレの都合だ。
君を好きでいることを、許してほしいと心から願った気持ちに一寸たりとも嘘も偽りもない。
駄目かな」
「ダメに決まってるでしょ!」
「ええ」
ヒメノが泣くと、明神は戸惑う。
だけど、今日は明神が完全に悪い。人通りの少ない川沿いで、男が女の子を泣かせている様子など、職質されても仕方がない。
恋仲になってからの二人の共通認識で、ヒメノが泣けば、明神は自然とその手を頬に寄せるようになった。そんなに彼の前でなんて泣かないけれど、それでも恋は少女を不安定にさせた。明神はなんにも変わった様子がないのに、ヒメノは一人でも泣いてしまうようなことがある。それほどまでに思っているのに、この男は愚鈍が服を着て歩いている。
「私が同じこと言ったらどう思うの!」
「悲しい」
「それ!」
「うん、そうなんだけど……」
「そうやって、いっつも自分のこと棚に上げて!
本当にバカなんだから! そうじゃないでしょ。わかってよ!
私のほうが、先に好きになったんだから! 自分ばっかり好きみたいに言わないでよ!
私の気持ちを勝手に変えないで! 私の気持ちを勝手に想像して、勝手に別れるなんてこと言わないで!
明神さんが嫌って言っても別れないのは、私のほうなんだから!」
「でも……」
「でもじゃないでしょ!」
「はい……」
「そうやって、自分ばっかり苦しむことばかり覚えて、そうじゃないでしょ!
私にも分けてよ! 私の一番のわがままのためにあんなに苦しめたのに、私にはそれをさせてくれないの?
私はそんなに頼りない? 私じゃ明神さんの苦しみとか辛さを理解したり一緒に持つことは出来ないの?
最初っから、それが大変なことだってわかってたわよ! それでも一緒に居たいって思って、そう決めたのは私なのよ!
私の初めては全部明神さんなんだから、最後までさっさと覚悟決めてくださいよ!」
「え……」
ああ、またやってしまった。
彼に恋をするまで、今まで、こんなことなんてなかった。恋なんてしなきゃよかったって心底思うのはこれで何度目だろう。
彼のことを考えるだけで苦しい。
一緒にいても、離れていても彼のことばかり考えて、バカみたいに一途に思っている。
いつかの遠い未来にも二人で一緒にいることしか見えていない。
そうだ、いつか、明神は先に逝ってしまうかもしれないし、ヒメノよりも大切ななにかと出会ってしまうかもしれない。こんな風に「絶対」なんて言っていることを信じてしまっていいのだろうか。自分ばかりが甘えているようで、そこに甘んじている自分もキライだし、結局ヒメノの気持ちを「絶対」的に信じていない明神にも腹が立つ。
けれど、それは全部愛情の裏返しで、絶対的な愛情を恒常的に捧げられたことがなかった彼がそれを信じるなんて出来るわけがないことも想像出来る。全部ヒメノが悪い。こうやって、子どもみたいに、すぐに気持ちをぶつけて、彼が困ることを知っているのに、もう何度目かわからない爆発を起こしている。
そう、彼は悪くない。
彼を好きになってしまった、自分が悪いのに。
なんて、バカなことを、言ってしまったんだ。
そう思って、また泣きそうになって泣くのを我慢して頭痛が始まる頃、身体が衝撃を感じたが、痛みはどこにもなくてただ身体が強く絞めつけられた。周囲が真っ黒に染まった。
「覚悟するのは、ひめのんのほうでしょ」
その声は、あまりにも近い耳元で聞こえた。
身体は全部包み込まれるように全身で抱きしめられていて、ヒメノの首元にひしゃげるように顔を押し付けている明神の吐息すら聞こえる。
もう外はほとんど夜に近い暗闇になったけど、街灯が逆にさっきより明るく感じるくらいなのに、照れ屋で恥ずかしがり屋でシャイな男が、こんな道の真っ只中で、少女を強く抱きしめていた。
「え、明神さん……?」
「冬悟」
「あ、はい、冬悟さん……」
言い直されると、逆に冷静になった頭は、急激に熱を感じる。
かつて「もはやプロポーズ」とエッちゃんに笑われた公園での最初の返答の時に、抱きしめられた以来ではないだろうか。こんなに強く、いつもみたいに優しい暖かい包むようなものではなくて、「男の人」に抱きしめられたという状況への免疫のなさに、さっきまでの勢いを全部失ったヒメノは力を抜いて硬直した。
「オレとずっと一緒にいたって、本当に、いいことなんて、なんにもないよ。
つらいのも、悲しいのも、分けたって、いいことないんだ」
「うん」
「でも、君がつらいことがあったら全部代わってあげたいって思うから、君の気持ちもわかる。
それは、オレが悪かった。ごめんなさい」
「なら、よし」
「でも、君だってなんにもわかってない。おじさんだって、色々、こう、気にしてるんだ。
オレだって、もっと、その、君と一緒にいたいし、我慢だってしてる」
「うん……うん?」
「オレのための逃げ道だけど、それは、君のための逃げ道でもあったんだよ?」
「嘘。私は逃げないよ。逃げるのは冬悟さんでしょ」
「いや、そうかもしれないけど。
でも、人の気持ちはわからない。
君に裏切られるとかじゃなくて、なにが起こるかわからない。
これ以上、姫乃が特別になることが怖い。今だって、いつどこでなにをしてしまうかわからないくらい一緒に居たら大切すぎて触れられないのに、これ以上特別なことが起きたら、どうなってしまうのかがわからない。
もしそんなことの後に君を失ってしまったら、もう、今度こそ、立ち直れない。立ち直る自信がない。
ひめのんは、自分ばっかりっていうけど、君こそわかってない。
絶対に、オレのほうが君をもっともっと愛してる。
オレの愛のほうが、絶対に重たい。
なのに、君が急に、不意に、いっつも、そんなことばっかり言うから、もう、オレだってどうしたらいいのか、わかんないよ」
「大人なのに?」
「うるさいな。どうせ、オレは大人の図体した子どもだよ」
「そこがかわいいのに」
そして、ゆっくりと身体が離れた。
ずーっと長い時間をかけて抱きしめられたように感じたけれど、三分にも満たなかったかもしれない。
明神の耳が赤い。そして、呆けた顔でボンヤリと呟いた。
「びっくりした」
「え?」
「身体が勝手に動いた。そんなつもりじゃなかったのに。外だし。あー、恥ずかしい。なにこれ、辛い」
そういって、彼はサングラスを外した。顔面を両手で覆う。少し鼻水をすする音がして、目元を拭う。
「嘘でしょ? どこにそんな泣くほどの言葉があったの?!」
「全部だよ! もう、全部!! こんないい子がオレの彼女とか、夢というか、嘘みたいだよ!
あんまりかわいいこと言わないでくれよ! 自制が効かなくなるじゃないか! これで同じ家に帰らなきゃいけないとか拷問か!」
「もう効いてないじゃない」
「仕方ないだろ! 君が、あんまり、うれしいこと言ってくれるから」
「あのね、いっつもそうだけど、ねえ、私は怒ってたんだけど」
「はい……それはわかってます」
「でも、今日は許してあげる」
「いいの?」
「いいよ」
私も、うれしかったし。
そう言ったら、ヒメノの目元からもポロリと涙がこぼれた。
*
「ねえ、ゴールデンウィーク、どこか行こうよ」
「え、珍しい。人混みキライなのに」
「今日すれ違ったところの先の喫茶店。美味しかったよ。コーヒーはよくわからないけど」
「ええ、ひめのんの大学の近くじゃん。それはちょっと……」
「じゃあ、とりあえず今日のことは澪さんにでも報告しようかなぁ……」
「おっと、なにがご希望かな、お嬢さん」
「今言ったじゃない」
明神の小指を握っていたヒメノの手の平を、明神の手が包みなおした。
もうすぐうたかた荘で、いつもその曲がり角で手の平は離されるのに。
「あのさ」
「うん」
「確かに、覚悟が出来てないのは、オレのほうかもしれないけどさ」
「え」
「いつ、とか断言は出来ないけど、本人から許可が出たことだし、必ず全部奪いに行く」
「え、は、はい!」
二人でいる時は穏やかな表情が多いのに、一瞬垣間見えた戦っている時のようなギラリとした瞳に今まで彼がヒメノに見せたことのない熱があって、ああ、本当に、彼が言っていたことは、事実だったんだと痛感した。
しかし、同時に、それは、確かになにも考えずに「先に進みたい」と思っていた自分には刺激が強かった。きっと首まで赤くなっているだろう。
やっぱり、言わなければよかった!
明神はうたかた荘まで手を繋いでご機嫌で帰宅したが、ヒメノのほうはしばらく顔を上げることも出来なかった。