ライオン
背中に気配を感じると、明神がコーヒーカップを手にして突っ立っていた。オレが見ていたテレビを知らぬうちに一緒に見ていたらしい。自分の家なのになんとなく居所の無さそうな感じに吹き出しそうになった。
「なに突っ立ってんだよ、明神」
「いや、なあ、エージ」
改めて言われたので、なにを言われるのかと思って、一応そちらを向く。
「チャンネル変えていい?」
それだけかよ。
明神はオレがテレビを好きだと思っているようだった。
きっと、今も番組が途中だったからCMまで待っていたんだろう。
そんなもの関係ないのに。
というか、別に好きだなんて言ってない。特にすることがないからこうしてダラダラしているだけだ。
なにもすることがないっていうのは実はとても苦痛で、いつも修行だなんだとギャーギャーやっているのだって、やることを自分で作りだしていかないとこの身体は確かに苦行そのものだった。
まあ、死んでるんだから、すでに苦行の一部なんだろうけど。本当はすることがあるし、やりたいこともあるし、やらなくてはならないことがある。でも、それをするための時期ではまだない。時期早々、ってヤツだ(こないだヒメノに教わった)。だから、やっぱりまだオレは「修行」を続けないといけない。あの暗闇に一人、もう一度戻らないといけない。
「天気予報って、今だと何チャン?」
「知らねーよ。オレ自分でチャンネルいじってねーもん。ついてるやつしか見てねーしな」
「ったく、いちいち素っ気無いガキだな。教えてくれたっていーじゃねーか」
「いや、だからそもそも教えられるようなことを知らないんだって」
明神はオレの横に座って、コーヒーをすすりながらチャンネルを変えていく。ニュース、バラエティ、ドキュメント、まだ天気予報は始まらない。仕方なしにニュースに合わせて、新聞を広げた姿は実際の年よりも上に見える。
オレがじっと見ているのを横目で確認しながら明神はローカル面の話題をボツボツと振ってきては、いつものように人の答えは気にしていなかった。
でも、オレがテレビを見ているよりも、ずっと集中していることに、きっと明神は気づいている。少し眠くなってきたらしい明神のかすれてきた声をゴロンと転がって聞き流しながら、そのくせ後ろから流れる天気予報のほうに比重を合わせた振りして聞いていた。
「エージ」
また、なにか、聞かれるのだろう。
「明日、どこか行くの?」
なんで、わかっちまうんだろうなあ。
「人の話聞かねーで、テレビばっかり見やがって。こうして同じ家に住んでるんだからな、顔を突き合わせたときくらいは人の話を聞きなさいよ」
「うるせーぞ、半人前大家め」
「なんだと、ちびっ子プレーヤーめ。悔しかったらカーブくらい打ってみろ」
「ノーコンに言われたくないなー」
コイツはきっとオレのことなんて手に取るようにわかっているに違いないのに明神を見ると、弱ったように笑っていた。
明日、なにかあっただろうか。
「なんかあんの? 明日」
「なにも」
「ふうん」
「返事は?」
「でかけるよ」
オレ、修行に行くんだ。
そうとは言わないけれど、きっと気づいている。
ほんの少し肌寒くって、天気予報を見てはその日の寝巻き代わりのTシャツを半袖にしたり長袖にしたりしていた時期。
ボロいアパートの窓から青々と見えていた葉が少しずつ散り始めていたのに、冬悟は朝コーヒーを入れてから窓を見ても葉の様子に気づいたことはなく、その日のゴミの回収がすでに終わっていたことに気がついてとりあえず明神を蹴っ飛ばしていた。変化に疎い少年はいつだって目に見えるものしか認められない。
目に見えているものが他人と違うことに気づいたのが最近だということは、すでに忘れられていた。
「おい! もうゴミ行っちまったぞ!!」
「なんだって!?」
毛布に丸まっていた明神がガバリと起き上がると、先ほど冬悟が見ていたガラスを大きく勢いよく開けた。明神の行動の多くがそうやって大げさで、広げられた窓からはビュウと今度は冷たいのか生暖かいのが瞬時に判断しかねる風が狭い部屋を簡単に通り抜けていく。入ってくるのも、出て行くのも簡単な部屋である。
寝起きに言われたわりには頭が冴えていたというか、一気に目が覚めたらしい明神はがっくりと肩を落としてやっぱりミュージカルのような仕草だ。
「あああああ、またやっちまった……。くそ、仕方ねえか……。
冬悟、俺にもコーヒー」
「自分で入れれば?」
「そんな冷たいこと言うなよ。父ちゃん着替えてくっからよ」
そういってスタスタと自分のタンスの前に行って、デートみたいにあれやらこれやら服を広げ始めた。広げているのは昨日洗濯物だったはずだ。
なにもかもが、冬悟に朝食の支度をさせたいがためであることを、そろそろ冬悟は気づき始めている。どうせ明神が身支度を終えてちゃぶ台につくときにはいつもとあまり変わらない格好なのだし。冬悟は適当なTシャツにパーカー姿で、自分のコーヒーを置いた。少し冷めている。
ちょっとだけ、自分みたいだ。
*
「どうだい、気分は」
「最低」
小物だけだと聞いていた陰魄たちの荒らし場に一人放り込まれ、奮闘すること朝方まで。朝日と共に陰魄たちは影の中に消えていった。
残ったのは、ボロボロの少年一人。
腕には噛まれた後があって、ズボンはすすけている。真っ白な髪の毛にはホコリがいっぱいついていて、今明神が笑いを耐えながらはたいていた。
「そうブー垂れんなよ。よくやった。一晩持てば十分だ」
「ざけんな。倒せてないじゃないか。それじゃあ、ダメだ」
「そうかな」
立たされて背中をシャンとしろ!とスパンと音がして背中にヒビでも入るかというくらいに力強くて、反り返るように背中が伸びる。空気は冷たく冴えて、背中に一本通った筋にひやりとした風を感じた。汗をかいていたようだ。まだ緊張が取れていないのだろう。
顔を両手でぬぐうと、汗がべっとりついてきた。
「あいつらの何割かは、意識がもう無い。なんのために戦うとか、襲うとか、存在するとか、そんなの関係ない。
戦えば、それで満足するんだ。
ここに残るために必要な思いを戦闘で使い果たして、影と一緒に見えなくなる。
すぐに消さなくても、大丈夫なんだ。
生きている人間がストレス発散でも趣味でも身体を動かすのが好きなヤツがいるように、霊だって、なにをすればいいのかわからなければとりあえず動こうとする。
つまり動かしてやれば、そういう霊は消されるのではなく、消えるんだ」
むう、と渡されたタオルで顔・首・腕と拭いていた冬悟が、靴をひっくり返しながら、疑問を呈する。ボタボタと靴の中から小石が落ちた。
「消えるのと、消されるのと、どう違うんだよ。
ここからいなくなってしまうんだろ?
いなくなったら、本当に、おしまいだ」
そういって目を向ける姿に明神はやっぱり笑ってしまう。
「お前、自分のこと棚に上げすぎ」
この狂犬が。
そういってやると、冬悟はフンとそっぽを向いた。
よくやるその仕草はガキっぽいと何度注意しても少年は直らない。きっと子どものころからやってたんだろうなあ、と実の親にも注意されてないのかと思うとその仕草は愛されていたんだと明神は勝手に解釈していつもしんみりする。
「オレは違うぜ。
オレは戦いたかったんだ」
「だって、あのままじゃなにも変わらなかったし、することがあった。ていうかしなくちゃいけないことがあったけどしてなかった。 でも、やりたくなかったんだ。やりたくねーこと、したくねーし。
でも、こいつらは違うじゃないか。
何もすることがないってなんで嫌なんだ?
やっと自由になれたのに?」
「生きるって、窮屈じゃないか」
「だから、生きてねーっつーの」
ペシンと頭をはたいて、場所を変えることにする。これ以上は危険だ。
冬悟はまた、深く闇に引っ張られている。
体力は消耗しているのに、ひどく感情を動かされ、余計にエネルギーを使用している。帰ったら即寝だな。
だが一応今は、大人しく付いてきているようだ。
「なんで戦うんだ。捨てるものも、守るものもないのに、命を削るわけでもないのに、なんで戦うんだ。奪うことが楽しいんならこんなところに用はないだろ。人間がいっぱいいるところにいったほうが悪いことはたくさん出来る。
なあ、明神。
教えてくれよ」
歩きながら、延々と冬悟は話し続ける。朝焼けに焼かれて少しは頭を冷やせばいいものを、話し続けることでヒートアップしているようだった。明神は寝不足でだんだん足取りが重くなってきたのに、隣の冬悟は軽々と、天国にも行ってしまいそうなくらいに底が抜けたような雰囲気だった。
つまり、ハイであると。
「わかんねーのはな、テメーが生きてるからだ」
「アイツらはな、自分が誰かわからなくなるんだよ。お前は自分のことがキライだろ? キライってのはお前は自分のことよーく知ってる、覚えてるってこった。
その白髪が、その能力がお前をお前たらしめる」
「何、たらしめるって」
「いいから聞いてろ。あとで辞書でも引きなさい。
俺ら案内屋はな、ただ見てるだけがほとんどなんだよ」
手を貸すことは無いに等しい。自分の意思すら忘れてしまった霊たちになにが出来る?
言葉を知らないならば教えてやればいい。行きたいところがわかるのならばそこへの行き方を案内してやれる。誰かを殺したいほど憎んでしまった陰魄なら目の前に突っ立って追い返して合法的に空に還してやれる。そのはけ口の代わりにすらなってやれる。
だが、さっきみたいな命は。
この手に握ったのは命じゃない。命の燃えカスだったろう?」
そうして、明神につかまれた冬悟の手のひらにすでに陰魄の影など当然どこにもない。ただ、生き残った残像が見えるようだが、それは確かにもう生きては無いものだった。
生きてなく、そして死んでも溶けずに、この世にこびりついている。
だけどそれをそぎ落とすのは、容易なことではなくて、剥がす人間が傷つけられていくらしい。
明神は、嫌に怯えた目線の冬悟を見て、やっぱりため息をつきたくなった。
ついさっきまで、この子のホコリをはたく間は楽しかったはずなのに。
「それをどうする?
振り上げた拳を振り下ろした先にあるのが命の残像だとして、お前はそれを握りつぶすか?」
フルリと首が振られた。
冬悟の手が、握ってパッと開かれる。
先ほどの陰魄の残像は、蛍のような光となって、空へと昇っていった。一瞬、それを二人ともぼうっと見つめる。目に見えるものは、嘘ばかりなのに、自分たちには確かにそのとき、見えていた。
「悪い心すら持つことも忘れてしまった、疲れた霊魂たちなんだ」
かすれた明神の声が、聞こえる。
「疲れたら、眠るのが一番だ。闇に解けて、空に還せる。
そういう方法もある」
ふう、と明神の顔を見て、見えない息を吐いた冬悟は、また目をそらした。
「やっぱり、いいことなんて、一つもねえよな」
ポツンと冬悟がつぶやいた。
「やっぱり人生なんて不平等だ」
オレの髪はこうなりたいって白くなったんじゃないし、アンタだって好きで見えてるわけじゃないんだろ?みんなそうなんだろ?
この力があるからこんな不毛なことしてる。こんなことをやりたくて力を手に入れたんじゃない。
霊たちだって、オレは知らねえけど人間だったんだろ?大体は」
普通の人間だったのに、よくわからないままに陰魄に食われたらこんな姿になっちまったヤツもいる。欲のままに悪いことしてる悪人は死なないのに、死ぬってことすらわからないガキが先に死んでる。
なんで、思いを果たして死ねるヤツがいるのに、なんで死んだ後もそんな風に逃げたり怯えたり、自分のことも忘れなくちゃいけないんだよ。それじゃあ、どうして生きていたんだ。
死んでも、終われないなんて、おかしい。
生きてても、死んでいても、どうすれば、いいんだよ。
ツライことを、ツライっていってもなにも出来ないで、見てるだけって、なにも出来ないって、どっちも、どうにもならないじゃないか」
明神が、冬悟を見た。哀れむのでも、悲しむのでも、怒るのでもなくて。
「じゃあ、お前、なんで『自分だけ』って、恨んでるか?」
挑むように、冬悟は即答する。
「恨んでは、いた」
その過去は、いつのことなのかな。
それじゃあ今は、そうなくなったのはなんでなんだよ。
「なら、ちったぁ答えが見えてきたってもんだ」
明神が、まさに苦がく吐き出すような笑い顔を見せて、ことさら明るい声で話し始める。
「不治の病も、戦争も憎しみもなくならない。
俺たちに出来るのは愛することだけだ」
「はあ?」
「お前が生まれてきた全てを俺は愛してる。
この世界の不条理全てを俺は愛する」
「でもな。
ただ、願うんだよ。
いつか無くなるように。
そう思い続けるんだよ。
そうするとな、俺の想いはこうして今、お前に伝わってお前がきっとまた別の誰かに伝わっていくんだ」
「バカか? 伝言ゲームじゃあるまいし」
「魂ってのは、そんなもんだろ?
魂ってのは、在ることが難しい。
この世は全て、 愛 で成立しているのだよ、冬悟くん」
バカか、とまた吐き捨てるように言う。
さきほどまでのハイながら重い意識は愛によって溶かされたように空に消えていった。だが、冬悟は気づかない。
彼が気づくのは、いつだって葉っぱの色が変わってからで、葉っぱが全部落ちてからで、町のゴミ収集車は出てしまった後である。
思い出すように気がつくのだ。
思い出に埋もれて、思い出して、ようやく言える言葉になった。
「そんなお前をたまには占ってやろうか」
「似非くさいから遠慮しておく」
それから、『オレ』は願い続けている。
明日の天気予報は晴れ。
今日と同じくらいに暖かいそうだ。雨の確立は20%。それはつまり、降らないってことなんじゃないのか、といったら、明神は降ったらテレビ局は怒られるからもしかしたら降るかもしれないといっておくんだ、と言った。
バカバカしいが、一理あると納得した。
怒られるといえば、オレは一度だけ明神に本気で怒られたことがある。
本気で怒ってアイツはうっかり本気でどうにかしようとしたらしくこっちは案内される直前だった。バカだバカだと思っていたが、そんなことで梵されてはたまらない。
それでもいつもは絶対に見れないはずの、おそらく陰魄に向けているのだろう軽蔑の眼差しにぞっとしたのは、それが怖かったり嫌だったというよりも、コイツが喜怒哀楽の4種類以外の感情を他人に向けられるのかと驚いたことのほうが大きい。想像もしたことがなかったのは、やっぱりそれが向けられたことがないからだ。
ガキのくせに生意気なんだ、といったアイツのほうが、よっぽど人生とか生とか死者とかそういった理不尽なものに怒っているみたいだった。
オレはもう怒るとか、呆れるとか、そういうのは忘れていて、きっとオレは明神よりもときどき感情が抜けている。
それでアイツを笑うのだから仕様が無い。
気がつくと、明神はすでにテレビを見ていなくて、ヒメノが水に浸けていたなにかの苗というか草というか、葉を見つめていた。
怒られたからといってコイツとオレの関係が変わったかというと、まったくなにも変わらず、そして怒られた理由も一切解決しないでここまできている。
思えば、その話は二人の間で出されたことはなかった。なにも怒られるようなことを掘り返すほどバカじゃない。
生きていることを諦め、活きていることもやめようとして、死んでいることを受け入れてしまいそうになったとき、容赦なく、明神の叱咤が飛んだ。
そのとき、陰魄に狙われていたオレは、もうどうにもならない状況だと判断した結果が、それだったのだが、明神は怒ってオレは大人しく怒られて、反動で大きな声でバカ野郎とか嫌だとかツライだとか叫んでみたり八つ当たっても、結局なにも変わらない。
でも、明神は、それを受け入れて、やっぱりツライと同じ言葉を返すばかりだ。
知っている。気づいている。明神がオレと同じようにツライことだってわかってる。
だからこそ、コイツにはそれをいえたのに、やっぱり残っているのは自分の中の痛みだけ。
自分の存在証明は痛みだけ。
なにをすればいいかわからない。
叫びたくとも叫べない。
その理由がわからない。
コイツと居て、ここにいて、言えないことが増えてきた。
オレがここにいるのは何のためだ?
オレはどこにいるんだ?
どうすれば、クールにサイキョーになれるんだ。
アンタみたいに、間抜けに、笑えるんだよ。
もうわからないんだ。明神、助けてくれよ。
だけど、その声は、出たことがない。
「何してんだよ」
見つめていただけの明神が、気づけば葉の入っているパイナップルの缶詰だったものを包むようにして握っていた。思わず声をかける。
「少しは元気になるだろ?」
「水の梵術か。いい実験台だな」
「死にゃあ、しねえよ」
おーよしよし、といって、確かに精魂果てたというくらいに色が薄く下にだらしなくさがっていた葉を撫でた。
その大きな手に包まれてからはなんとなく葉の色づきもいいようであながち嘘ではないようだ。そうだな、確かに霊たちに触れられるよりも、活きのいい生者に触られているほうがいいだろう。
なんにでも、手を出すんだな、とうっかり口に出そうになったけど。
「エージ」
「なんだよ」
することもないし、テレビは明神が気づけば消してしまっていた。明日は出かけるんだ。寝ておこうと思った矢先に、明神に声をかけられる。
「もう寝るの?」
「寝るよ」
「じゃあ、コイツどうしようかな」
「部屋持っていくなよ。アズミが明日の朝ここにないとまた大騒ぎするからな」
「それは知ってるよ」
そして缶を持って、きょろきょろすると、結局オレの前に立って、それを突き出した。
「じゃあ、当番」
「意味わからん!!」
「アズミと一緒に観察してくれ。俺がコイツにちゃんと元気をわけられてるか実験だからな」
「そんなの自分で見ておけよ」
「俺もでかけるんだ」
「……オレ、帰ってこないかもしれないぜ?」
挑むように言ってやると、明神はまたバカみたいに笑う。
「帰ってくるだろ?」
「なに当然みたいな顔してやがる……」
「なにさっきから難しい顔ばかりしてんだよ。ガキのくせに」
「ガキガキ言うな!!」
「まったくいちいち怒鳴るなって。上でみんな寝てるんだぞ」
そして簡単に頭に乗せられた手。コイツがこういう態度をとるからいけないんだ。いつだってそうだ。オレを生きているみたいに扱いやがって。オレは死んでるのに、話しかけてきて毎日を過ごしてるみたいに笑いかけて、やめてくれよ。
オレの記憶はもう大体がここの記憶で、結局オレが大事にしているのは生きていた頃のものじゃなくて、こうやってここにいるときからのものにほとんど上塗りされてしまった。思い出の中にはいつもこのボロアパートがあって、この男がいる。
「乗せんなよ、手」
ぺいっとはたくと、苦く笑った。
「ったく、かわいくねーの」
「かわいくなくて、結構だ」
傷ついた振りをして、オレの気を引こうったってダメなんだぜ。
お前の手は、今はその草っ葉に夢中じゃないか。
その葉っぱだって、今にも死にそうで、なんでお前はそうやって手を伸ばすんだ。もう死んでいるのかもしれない。届かないのかもしれない。間に合わないことだってある。やらなければ、きっと後悔することはない。
明日になってみて、その葉がもっと枯れていたら、きっとコイツは傷つくんだ。いいや、きっと傷ついた振りをする。
コイツはもう、傷なんてあちこちにあって、そんなの慣れたって言うだけだから、もう本人も周りも傷なんて気づきゃしない。
無駄なことばかりだ。
死んでいるのも、こうしてここに居残っているのも。
なんのためにここに残ってるんだっけ?と忘れてしまう前に、なんとかしなければいけないのに、力不足で同じところにとどまっているのも。
「そうか」
またグリグリと頭を触られて、今度は放っておいた。
「明神」
「おう」
「なんで、お前は、こんな不毛なことしてんだよ。
霊なんて、消えるしかねーし、気づいたら、なにもわからなくなりそうで、自分から勝手に消えちまいそうで、置いていかれるのはてめーの方じゃねーかよ。
なんで、こんないつまでも、無駄なことしてんだよ」
違うんだ、こんなことが言いたかったんじゃないんだ。
「その葉っぱなんてただの雑草だ。ヒメノがアズミをかわいそうに思って水に浸けているだけなんだ。もしかしてもう死んでいるかもしれない。
お前の手が力を分けても無駄かもしれない。
やるだけやっても、間に合わないことばっかりじゃないか。
だってお前が出会うやつはみんな死んでるんだから」
「ああ、不毛だな。俺もそう思うな」
やめろ、そういう顔が一番キライだっていってんだろ。
でもそういうことがコイツにはいつも伝わっていないし、オレはきっと伝えたこともないのにそういうことを思うのが子どもで意地悪で、コイツに敵わない。
「なんなんだよ、本当に! オレなんか、いつ消えたって、おかしくないのに!!」
本当に、ひどいかんしゃくを起こしたアズミみたいに、バタバタとしてやりたい気持ちでいっぱいだ。明神はオレの頭をずっと押さえていて、それだけでオレは動けない。バカ野郎! 少しはかがめ!! オレだってお前を一発ぶん殴ってやりたい!
「やっぱり、この葉、元気ないよな」
「そういうことを言ってるんじゃない」
呆れたようなオレの声。
「でも、仕方ねーよな。見つけちゃったんだもん」
またチロチロと葉っぱを撫でる。ヘラヘラと笑っていて、葉は揺られるがままに揺れていた。
「使命! とか運命! とかっていうんじゃなくってさ、俺は案内屋だからな。仕事だもん。やらなくちゃ。
出会ったときからそりゃあ死人ばかりだよ」
悪かねえぜ、刺激的で面白いし。
案内屋は、医者と同じでさ、自分の仕事をなくすために仕事してんだ。目的はたった一つ。願い事は一つだけ。
願っているんだよ。
お前たちみたいな霊がいなくなればいいのにって。
安心しろよ。
俺にはまだまだ、お前が見えてる。
ちゃんといなくなるって、知ってるからさ。
いなくなることがいいことなんだ。生者がいつか死者になるように、魂がいつか空に還るのも知っている。きっと、みんないなくなる。それまでは、一緒にいてもいいじゃないか。
一人ぼっちじゃなくってさ、みんなに見送られて、置いていくほうがずっといい。
俺は待っているからさ。
お前が俺を置いていくのを。
この世界の霊たちが全部いなくなる世界になればいいのにな」
そうすれば、多分、もうオレたちは出会わないな。
大体、勝手に死んだヤツらが居残ってるのに、お前悪くねーじゃん。
なに言ってんだよ、明神。
でも、霊たちが、空にたくさん還っていく。それを見送る案内屋たち。
そんな映像は、いいかもな。
たくさんの霊が居残る世界。思い出じゃなくて、未練なんて。
「なくなればいいのにな」
そう返すと、少し、笑えた。
そう思ってくれるなら、オレは消えることをまた望める。
自分の願いを、信じていられる。
でも、待っててくれるなら、帰ってきてやってもいいんだぜ。
目が覚めたら、最初から外にいた。
顔を覗き込んでいるものがある。
「みょーじーん、あさ!!」
「アズミ、ちょ、首に乗っからないで! 危ないから!!」
「だらしがねーな、頭領!」
エージが横からヒョイとアズミを抱えたらしい。急激に軽くなって首をさすりながら目を開けると、想像どおりで、あくびをしながら笑った。
「おはよう」
「おはよー!」
「はよーさん」
そういうと、エージはすぐにアズミを地面に置いた。
代わりといってはなんだが、俺が抱えて立ち上がる。
「早いな。もう出かけるのか?」
「おう」
「みょーじん、見て! ヒメノが埋めたの!」
俺の半分にも満たない小さな手の先へと視線をずらすと昨日俺が実験に使った葉だ。まだヒョロヒョロしているけれど、一人で立っている。
よかったな、というと、エージがその草を飛び越えるようにジャンプした。
「あっぶねーな、踏むなよ!」
「踏まねーよ!!」
アイツの考えることは、俺の考えることよりも、いつも大人っぽい。その年の自分と比べればという意味で。
いつか俺が通ってきた道と同じような気もするが、アイツ独自の理論に裏打ちされている。俺が明神に救われたように、俺はアイツを守ってやれるのかな。
俺にはアイツの理解してやれない部分が多すぎる。
でも、待っててやるくらい、いいじゃないか。
いつか、俺が、世界の理をぶっ壊してきてやっからよ。
「気ぃつけてな!」
アズミが大きく手を振っている。
俺も一緒に手を振った。
「行ってらっしゃい!!」
「行ってきます!!」
少年が、手を振りかえした。
小さな嘘と、大きな傷を抱えて、外へ吼えに、今日もいくのだろう。