ステバキワンライまとめ3(20180901-1222)20180901 お題:夏の終わりに
夏の氷
理由は三つあった。一つ、バッキーに許嫁がいたこと。二つ、僕は身体が弱く、きっと長くないだろうと何となく二人とも察していたこと。三つ、男同士で生涯を誓い合うには障壁が多い世の中だったこと。
バッキーがその年の三番目の彼女にフラれた夜、お互いが相手に対して特別な感情を持っていると認めた僕らは、諦めが良いのか悪いのか、奇妙な約束ごとをした。毎年、八月の暖かい季節の間だけ恋人のように過ごそう、と。それ以外は今まで通り、親友のまま。バッキーが一九、僕が一八の、八月の終わりのことだ。その年のたった一週間、僕らは夏の残り香さえも貪るように愛し合った。二人の時間が増えたことを怪しむ人間はいなかった。僕の部屋にひっそりと閉じ籠り、好きだという想いを吐き出し続けた。知らなかったバッキーの表情を、身体を見て、僕自身の知らなかった欲を思い知らされて。バッキーに抱いてもらえるのかと思っていたら、何故か逆だった。バッキー曰く、僕の身体への負担が少ないようにとのことだったが、僕はあまりそれに納得できなかった。とは言え、深い理由を聞く必要はなかった。バッキーの耳朶は赤く、黒目は泳ぎ続けていたからだ。
そして九月一日の朝、僕らは親友に戻った。バッキーは何事もなかった顔をして、僕と肩を組んで、最近できたカフェで働いている女の子の話をしたり、ボクシングの大会の話をした。夏は、蜃気楼と反対で、まだ近くにあるはずなのに遠い存在に思えた。
翌年の八月一日。懐かしいキスをした。二〇歳になったバッキーはうっとりと目を細め、僕の唇を食みながら言った。「去年みたいにしたい」と。もはや幻だったのではないかと疑っていた思い出を蘇らせるには十分な一言だった。去年の一週間に比べたら一ヶ月なんて贅沢だと思っていたのに、実際過ごしてみるとあっという間だった。
毎年そんな関係を繰り返すなんて、滑稽だったかもしれない。けれど止め時なんてなかった。バッキーの許嫁である女性が、親から結婚を認められる年齢になろうという頃、アメリカが第二次世界大戦に参戦し、彼らの結婚は延びた。具体的に話したことはなかったけれど、もしかしたら僕らは、バッキーが結婚しても同じことを続けていたかもしれない。今となっては何もかもが「もしかしたら」の話になる。いずれにしろ、どんな想像も現実には敵わない。一九四二年、最後に恋人として過ごした夏、僕らは自分達がさらに数奇な運命に巻き込まれるだなんて知る由もなかった。翌年、八月が来る少し前にバッキーはイングランドへ向かった。
◆
俺たちの約束ごとは基本的に守られたが、一度だけ例外があったことを覚えている。一九四四年はどうしたってそれまでのように恋人らしいことをするのは無理だった。軍の同じ部隊の中で過ごし、スティーブと俺は上司と部下という関係でもあった。任務をこなしながら、完全に誰の目や耳からも逃れられる場所なんてなかった。俺より背が高くなり、すっかり男前が上がったスティーブは女に困りそうにないどころか隠れた男のファンもいたけれど、俺はあくまで親友の顔をしていた。
八月一日の朝、スティーブと二人になる瞬間があった。二人、と言っても、周りには朝食の皿を持ったファルスワース達がいて、毎朝こうしてみんなと過ごしていることを思い返し、今年は無理だなと気付いた。無意識に漏れていた溜め息をスティーブはしっかりと聞き取り、朝の挨拶をしながら俺の肩をぽんと叩いた。心なしか、手が離れていく時、親指が名残惜しそうに襟を撫でていった気がした。
ああ、来年にはこの戦争が終わっていたら良いな。できれば春には終わってほしい。そしたらまた、夏だけ、スティーブと──。そんな願いも虚しく、長い長い冬が訪れた。
◆
「……今月はもう戻らないなって諦めてたところだった」
バッキーが僕の顔を見てそう言ったので、僕はようやく、バッキーが僕らの関係を正しく覚えていると確証を得ることができた。ワカンダの時間で八月三一日が終わる数分前だった。今回は、もっと早く帰ってくるはずだった。予定がずれ込む度に、八月の内に帰れるのかと心配でたまらなかった。同時に、八月の内に帰れたとしても、七〇年以上前と同じようにバッキーは恋人の顔をしてくれるのかという不安もあった。
「覚えてたんだな。八月の、その……」
バッキーはどさりとベッドに腰掛け、頭をがしがし掻く。
「ややこしい記憶だから、俺の妄想だったらどうしようかと。八月が来るまではお前にも聞けないし」
「僕も、聞けなかった」
「今日が終わったら、来年までまた、もやもやして過ごすとこだった」
はあ、と溜め息をついたバッキーが、ずっと昔の彼と重なった。僕は彼の左肩にぺたりと触れ、軽く抱き寄せる。親友同士のハグとは違う。妙な緊張感があって、手には汗をかいていた。
「待たせてすまない」
「いいよ、もう。……なあ、もう時間がない。どうするんだ、今年は」
バッキーは焦っているのか、それとも僕らの関係を構築し直すことに恐れでもあるのか、唇を噛んだ。
「……そのことで、相談があって」
「何だよ」
「お前の……その、許嫁の方って、ご存命だろうか」
「……」
バッキーは薄く口を開けて、すぐ閉じた。
僕の身体は丈夫になった。そして、世の中もいつの間にやら大きく変わっていた。残すはバッキーの答え次第だった。長い沈黙の後、バッキーは一度よそ見してから僕の頬に触れた。
「……それは知らないけど、一つ言えることがある」
「何?」
「夏はもう終わりだ」
バッキーが勢い良く抱きついてきて、二人でベッドに倒れ込んでキスをした。溶けてしまいそうな熱さの中、視界の片隅に映った時計の長針は、もう真上を通り過ぎていた。
20180915 お題:黒歴史
NYより我が家の平和を守る方が難しい
「スパイダーマン、またお手柄! ……って、すごいじゃないか。今日も新聞の一面だぞ」
「た、大したことじゃないよ……」
感謝されることにはなかなか慣れない。「ありがとう! スパイダーマン!」って街の人に言われると、「いえいえ、これくらいならいつでも親愛なる隣人にお任せを!」って答えることができるのだけど、実のところマスクの下では全然笑えてない。これはカレンしか知らない秘密だ。
でも感謝されるよりもっともっと慣れないのが、今みたいに誉められることだ。何だか照れちゃうし、「ありがとう」って答えるのも変かなって思うとすごく焦る。かっこいいスパイダーマンの顔は成りを潜めて、ただただオタクの僕がパニックになる。そりゃ、いつだって、スタークさんに誉められたらなって思ってるさ。もちろん誉められなくたってニューヨークの平和は僕が守るけどね。スタークさんは僕に甘くないし、たぶん僕以外に対しても「よくやった」なんて滅多に言わない。だからこそ言われた時はものすごく嬉しいんだ。けど世の中には、スタークさんとは違って、簡単に人を誉める言葉を本心から言えてしまう人もいる。そう、例えば、朝御飯そっちのけで新聞を広げてるバッキーもその一人だ。彼はにこりと、テーブルの斜め向かいにいる僕を見て微笑む。僕はレタスの刺さったフォークを取り落としそうになった。バッキーっていい人だけど、それ以前に顔がすごく整ってるから、こうやって笑いかけられるとドキドキする。変だよね、友達の笑顔を見てドキドキするのって。バッキーはそんな僕の動揺にも気付かず、記事に目を通している。バッキーは朝御飯をいつもゆっくり食べる。珈琲からのぼる湯気はもう消えてしまったし、ゆで玉子も半分残ってる。
「こんな大きなトラックを止めたのか。すごいな」
「う、うん。ビルにぶつかりそうだったから。たまたま通りかかったというか何か起こる気がして見回りしてたんだ。そしたらトラックが変な動きをしてて、運転手のおじさんが胸をぐっとおさえて苦しそうにしてて。心筋梗塞だったみたい。近くにいた人が救急車を呼んでくれて病院に運ばれたみたいだけど、……大丈夫だったかな」
うわあ、すごく早口になっちゃった。心なしか、目玉焼きをカットする手つきまで慌ただしくなる。
「ん、……それも書いてるぞ。命に別状なし、入院して経過を見るそうだ」
「ああ、良かった」
そこで、キャプテンがロビーにやって来た。今日は起きるのが遅かったみたいだけれど、肩にタオルをかけているから、いつも通りこれからランニングに行くんだろう。僕とバッキーのところにやってきて、バッキーに一言断ってから珈琲を奪ってしまう。そういうのを自然にやってのけるところを目の当たりにすると、ああやっぱり彼らは恋人同士なんだな、ってそわそわする。
「おはようございます、キャプテン」
「おはよう、ピーター。……何か事件でもあったのか?」
「ん? ああ、違う違う。ほら、一面にスパイダーマンが載ってるのさ」
「本当だ。すごいじゃないか」
キャプテンも躊躇いなく人を誉めるタイプだ。でも何か、バッキーの褒め方が友達とかお兄さん、だとすると、キャプテンのは上官、って感じがする。ので、僕は照れて頬を掻くのではなく、頭を下げた。
「スティーブってトラック止められるか?」
バッキーの突拍子もない質問にキャプテンは苦笑する。
「スピードによるけど……。どちらにしろ僕は盾で止めるから、ピーターのようにネットでふんわり、とはいかないな」
「あー、かもな。お前、昔はバイクとか美女を持ち上げてたろ。だからトラックもいけるかと」
「っ、あれは……、……」
キャプテンは、ちら、と僕を見た。僕はハムを食べながら「話を半分しか聞いていませんでしたよ、どうしたの?」という顔で視線を返した。けど、バイクとか美女って何だろう、という好奇心はどうも隠しきれなかったみたいだ。バッキーがくすくす笑って、キャプテンはそんな彼の髪をぐしゃぐしゃっと乱して、眉を寄せた。
「忘れろ」
「何でだよ。久しぶりに見ないか。記録映像がネットに転がってるかも」
「勘弁してくれ」
キャプテンは深い溜め息を吐いて、足早にロビーを去っていった。バッキーはゆで玉子の残りを口にしながら、わざとらしく僕に「気になる?」と聞いた。気になるように話していたのは彼なので、素直に頷いておく。
「面白いのがあるんだ。キャプテン・アメリカが初めてあのコスチューム着て舞台で仕事してた映像」
「舞台?」
「ああ。懐かしいなあ。あれを見て、ハウリング・コマンドーズのみんなで爆笑した」
どんな映像かは知らないけど、よっぽど面白いらしい。思い出し笑いをしている内は、珈琲を口に含まない方が良さそうだ。ところで、キャプテンの映像、というとひとつ思い浮かぶものがあった。あれってまだ使われているのだろうか。真面目に見たことがなかったけど、何だか、思い出すとまた見たくなってきた。あれもネットに転がってるのかな。それとも、高校に行かないと見れないものなんだろうか。
「ねえ、バッキー」
「ん?」
「キャプテンの教育ビデオって見たことある?」
「……何だそれ?」
結論から言うとあの教育ビデオはネットに転がっていた。キャプテンは一週間、僕と口をきいてくれなかった。あれがそんなに見られたくないものだなんて思わなかった。だって僕にとってあれは本当に、ただの、教育ビデオだったから。キャプテンに嫌われたかと焦った僕をバッキーは「ピーターに怒ってるんじゃなくて、恥ずかしくて仕方ないだけだから気にすんな」と慰めてくれた。けれど、「今度、直接高校に行って校長先生と一緒に見る」なんて恐ろしいことも言ってたから、今度はバッキーが口をきいてもらえなくなるんじゃないかと、僕は内心でハラハラしてる。
20180929 お題:秋の夜長
時計の要らない生活
夜は嫌いだ。
それと、陽が落ちるのが早い、というのは何ともつまらないものだ。バッキーのその意見には、どうやら子どもも同感らしい。「今日はもう帰ろうか」と言うと、ティシカは、つんと唇を尖らせて眉を寄せた。せっかく、不思議な花の形をした髪飾りがよく似合っているのに、そんな顔をしては台無しだ。
「もう終わり?」
「ああ。暗くなってきたから」
丘の方角はまだ橙の空が広がっているが、そこから東の空へと視線を動かせば、だんだんと藍の色が滲む。陽はもう沈みきったし、大きな月がぽかりと浮かんでいる。じきに真っ暗になるだろう。それまでに彼女を家まで送り届けねば。
「つまんない」
「また明日遊ぼう」
「絶対だよ。明日は、フアンが川で魚を捕まえたいんだって」
「ああ。じゃあ、濡れても大丈夫なようにタオルを持ってきて」
そう言いながら、きっと忘れてしまうだろうなと想像する。バッキーが余分に持って行けば良いだけの話だ。ティシカがおんぶをねだったので、お姫様扱いしてあげた。左腕がない分、バランスは彼女頼みな部分があるがさほど危険ではない。村の子どものほとんどはバッキーの背中に飛び付いたり右腕にぶら下がったりを経験済みである。慣れたものだった。
お姫様を王様と女王様と夕飯の待つお城まで送り、小屋に一人で帰り着く頃、思った通り辺りは夕闇に包まれていた。上を向けば星々が瞬いていて、けれどバッキーはそれらに対して恍惚とした吐息を溢したりしなかった。代わりに疲れきった溜め息を腹の底から吐き出し、小屋に入った。
夜は、孤独で、時が進むのがひどく遅い時間帯だ。秋は特にそうだ。ルーマニアにいた頃は夜も稼ぎのために出歩くことがあり、睡眠時間も整っていなかった。そのためか、二年間も過ごしたにも関わらず、季節や時が流れる早さを気にすることなどなかった。この国で改めて人間らしい規則正しい生活を与えられて初めて、贅沢にも「陽が落ちるのが早くてつまらない」なんて落胆するようになった。待つ者が在ると夜が永遠のように感じられると知った。
ティ・チャラ王がこの村で過ごすバッキーに望むのは、穏やかな心持ちでいることだ。シュリが行う治療や経過観察に影響するストレスを与えないために、平和に包まれていること。だから、困ったことや望みがあれば大抵を聞き届けてくれた。その望みとして、一人で過ごす時に時間を潰せるものが欲しいと言い始めたのは最近の話ではない。バッキーの狭い小屋の隅にある小さな本棚は、一〇冊程度の本が納められており、ラインナップが頻繁に変わる。
夕食を食べ終えても眠るにはまだ早い。今のバッキーの生活は朝が早いので、夏の始まり頃であれば、シャワーを浴びてきたらすぐに眠っていたのに。
端末をチェックしても、スティーブからの連絡はない。スカイプという機能で最後に話したのは二週間前だった。来週に戻ってくるらしいが、明日の朝でさえ遠いのに、来週なんていつ訪れるのやら。──そんな風に思いながら本棚をあさる。文学書以外のもの取り揃えているので読むものは広範囲にわたるが、コンピューターの本は訳が分からなかったのでできればもう読みたくない。人文、思想に関するものも、よく本文中に「四〇代以降は」と年齢の話が出てくるので苦手だ。先月読んだ経済の本は面白かった。文学書だと、ワカンダ語と英語の対訳本が読みやすい。悩んだ末、今夜は子ども向けのファンタジー小説を読むことにした。魔法学校が舞台らしい。タイトルは見たことがあった。ずいぶん厚く、なのに表紙の隅に「1」とある。何巻まであるのか、シュリに聞いておかないと。
スティーブが本棚を見つめていた。小さな窓に西陽がかろうじて射し込むような時間だった。すぐに暗くなるだろうが、まだ腹は減っていない。
「どうした?」
「いや、何でも……」
気になる本があるならたぶん持って行ってもいい、とは言わなかった。スティーブは鋭い。スティーブが前に来た時に並んでいた本は一冊残らず読破して返却済みだ。バッキーが読書家になったことに気付いただろうが、何も言わない。
「最近よく村の子どもと遊んでるんだって、陛下が」
「ああ、うん……。最近はよく川に行く。寒くないのかって思うけど、あんまり気にならないみたいだ」
「元気な子が多いな。楽しそうだ」
「楽しいよ。それに、時間が経つのもあっという間だ。みんなを帰らせた後の夜は……長くて」
スティーブは、俯いたバッキーの前髪を横に分けた。顔を上げる。スティーブは眉を下げて申し訳なさそうな顔をしていたけれど、「すまない」と口に出される前にキスして塞いでやる。待ち焦がれていた大嫌いな夜が訪れる。
「スティーブ。待ち遠しかった」
「ああ、僕も……。……なあ、夜は長いんだろう?」
スティーブにしては悪戯っぽい一言だった。口調もどこか軽やかで、きっと、バッキーを元気付けようとしてくれたのだろう。スティーブの耳元で笑いを堪えきれなくなる。
「そうさ。馬鹿みたいに長いから、きっちり楽しませてくれよ」
「望むところだ」
実のところ、この夜というやつは、スティーブがいる時だけ信じられないくらい早く過ぎ去ってしまう。子どもたちと遊ぶ昼間よりもずっと早くだ。いつものようにのろのろと滞っていればいいものを、あまりにも自分勝手に。バッキーが夜を嫌う一番の理由がそれだったが、スティーブには言えなかった。
あのファンタジー小説は七巻まであるらしい。読み終えるまでに、時間をゆっくり進める呪文が出てきたらいいのにと願う。
20181117 お題:ポートレイト
黒鉛の瞳の片想い
ナイフが木を削る小気味良い音が響く。時々、しゃりしゃりと聞こえるのは芯の部分を削っているのだろう。思えば、大人になってから鉛筆を扱うことはあっても、ナイフで先を尖らせたことなどないかもしれない。サムは十数年分の記憶を遡る。
「お待たせ」
スティーブは、ふーっ、と整えた鉛筆の先端に息を吹き掛ける。ことりと机の上に五本の鉛筆が並べられている。折れてしまった時の替えだけでなく、描きたい線の太さによって使い分けるのだという。
「もう描くのか」
聞くと、スティーブはぷっと吹き出した。
「そうだよ。心の準備はできた?」
「できたできた。まあ、途中で照れ臭くなっちゃうかもしれないけどさ」
そりゃあ、絵の練習をしたいからモデルになってくれと言われて部屋に来たのだから、「もう描くのか」なんて確認は馬鹿らしいものだったかもしれない。でも流れを知らないので仕方ない。よくよく考えてみると、スティーブの絵のモデルに選ばれるだなんて光栄だと思って二つ返事で受けた頼みだけれど、サムは生まれてこの方絵のモデルなどやったことがなかった。それで、イメージしてみて、もしかしたらものすごく難しいことを引き受けてしまったのではないかとちょっぴり怖くなったのだった。動かないでいるのは平気だが、絵描きの方を見て、黙ったまま一時間いるだなんて、何だかカウンセリングを受けるよりも勇気がいるのではないかと思って。ナターシャやワンダならこういう仕事をあっさりこなしてみせるのかもしれない。そして彼女たちよりも慣れているのが、今はアフリカで眠っているあの男のはずだ。彼は、教室のど真ん中でポーズを取り、大勢に囲まれてモデルを務めたことが何度もあるらしい。
「モデルをリラックスさせるのも、絵描きの仕事の一部だ。まあ、知っての通り、僕も知らない人とすぐに上手くやれるようなタイプじゃない……。だから、絵描きのスティーブじゃなくて、君の友人のスティーブだと思ってくれればいい。お互いいつも通りでいよう、サム」
「そう言ってくれると助かる」
「でも何だか面白いな。サムが緊張してるのって」
「おいおい、お手柔らかに頼むよ」
はいはい、と、分かってくれたんだかまだ面白がっているのか分からない返事をしたかと思ったら、スティーブが少し首を傾げながらこちらを見た。何となく、ポーズを考えているのだと分かって、言ったそばから「友人のスティーブ」の顔ではなくなったように見えた。姿勢を正すと、木製の椅子がサムの緊張を受け継いだかのように軋んだ。
「疲れちゃうだろうから、背凭れに寄りかかっていい。右手は肘掛けに。そう。表情は……笑っていた方がいいかなと思ったけど、できそう?」
「うーん、笑えって言われると難しいもんだな」
「そうだなあ、ファルコンのファンの子どもに、写真を撮ろうよって頼まれたところを想像してみるんだ」
「はは。それは、笑っとかないとな」
「その意気だ。そのままで……あ、もちろん、喋っちゃダメというわけではないし、体を伸ばしたいとか、喉が渇いたとか、そういうのは気軽に言ってくれ」
スティーブは鉛筆を手に取り、画用紙に線を引き始めた。
◆
バーンズが眠っている間に、スティーブは友人たちの絵を描いていたらしい。机の上では鉛筆で描かれた美女や鳥男が笑っている。スティーブがまだ絵を続けていたことに、バーンズは少なからず安心した。特に人物画は、自分の記憶が正しければほとんど描いていなかったはずだ。
スティーブは窓に薄い布をかけ、狭い部屋に入る光量を調節した。外から子どもたちの声がする。朝早くから元気なことだ。
「俺ばっかり描いてただろう? 昔は」
「むしろ、バッキーだけだった。お前の目が覚めたらこうして久々に描きたいと思ったけれど、下手くそになっていたら笑われるなって思って」
「笑うかよ、そんなので」
「どうかな。だって僕は人物画は苦手というか……僕が描くバッキーって、他の人から見たらバッキーっぽくないって不評だったし」
「……、……あー……、そうだっけ?」
バーンズは、そう言われていたことを今思い出した。ついでに言うと、スティーブの部屋で絵を描いてもらっていた時の気持ちも。教師に頼まれて、授業の中でモデルを頼まれる時とは訳が違った。報酬が発生する、表情を作るのに慣れたバイトでもなんでもなく、好きな相手に一対一で描かれるのは緊張したし、嬉しかった。表情を作る余裕もなかった。
今はもう、妙な緊張をすることはないだろう。あの頃とは違う。スティーブへの想いを隠す必要もないのだから、リラックスできるはずだ。きっと、「バッキーっぽくない」と評される絵にはならない。ただ、できればこれから描かれる絵は誰にも見てほしくない気持ちがあった。だって、どんな顔をしてしまうか分からないから。そこまで望むのは我が儘だろうか。
スティーブが鉛筆をナイフで削る音がする。その懐かしさに、意識が七〇年前に引き戻されそうになった。
「ポーズ、どうする?」
「それなんだけど。ええっと、ひとまず、上着を着てもらっていいか……?」
「あ、うん」
耳が赤くなっていく横顔を眺めながら、片腕でティーシャツを羽織る。せっかく恋人同士になれたのに、ヌードモデルを頼まれるのは少し先になりそうだ。
20181215 お題:クリスマスシーズン
二十四の御馳走
初日は蜘蛛の絵が描かれた包み紙に入ったキャンディだった。三日前は魔方陣の形のチョコレート。二日前は雷の形のジンジャークッキー。昨日は赤色のジェリービーンズ。今日は何だろうか。僕の帰りがあんまり遅いと、バッキーが我慢できずに開けてしまうだろう。まあ、昨日までのように、僕が開けても、結局のところ食べるのはバッキーだからそれでも良いけど。……いや、やっぱ良くないな。
名前は忘れたけど、ヒーロー達のフィギュアやらお菓子やらを作っている会社が、アベンジャーズファンに向けて発売したアドベントカレンダー。流行りに乗っただけだと侮ることなかれ、趣向を凝らしていて、ヒーローにちなんだお菓子が入っているタイプのものと、ミニツリーが付属していてオーナメントが入っているタイプのものとの二種類がある。先週、完成品を持ってきた人に「皆様にもどちらか差し上げますよ」と言われた時、ピーターが「僕、ツリーが付いてる方がいい!」と勢い良く言ったので、僕はお菓子の方を貰った。結果的に正解だったみたいだ。家に持ち帰るなり、まだ十二月一日じゃないのにアドベントカレンダーそのものの包み紙を盛大に破ったバッキー曰く、「ツリーの方は、最終日は天辺に飾る星としてキャプテン・アメリカの盾が入ってるって簡単に分かるから、楽しみが減る」らしい。
十二月に入ってからは、毎朝開けるんだろうかと思いきや、一日のご褒美だと称して夜に僕に開けさせて中身を食べてる。一から二十四までの数字が振られた四角い小さな引き出しがランダムに並んでいるボックスは、お菓子を取り出してから引き出しを反対にして差し込むと、だんだんと絵が完成するようになっているらしい。バッキーはお菓子、僕はこの絵の完成を楽しみにしてる。ジェリービーンズの引き出しの裏側にはアイアンマンの腕らしきものが描かれていた。
アベンジャーズの基地で作業を終わらせた帰りがけ、ピーターとすれ違った。
「やあ。ツリーはどんな感じ?」
「毎日写真撮ってるんだ、見てよこれ」
ピーターが見せてくれたスマートフォンには、バッキーの言う通り、天辺の星の無いモミの木のミニチュアが写っている。ミニ、とは言っても、その隣に写るマグカップと比較すると三十センチくらいはあるようだ。ツリーのあちこちにはオーナメントがぶら下がっている。スパイダーマンのドローンに見立てた蜘蛛に、トニーのアークリアクター、ホークアイの弓。陛下のネックレスはモールみたいに飾られてる。紫の四角いのはハルクのパンツ。ソーのハンマーはツリーの横に置かれている。
「すごいな。ハンマーはつけないのか?」
「だってすごく重いんでしょ? だから、こっちの方がそれらしいかなって」
「はは、なるほど」
「キャプテンは? お菓子、どんなの入ってる? 美味しい?」
「あー……実は、食べてないんだ」
僕はボックスの絵を楽しむだけで、お菓子はバッキーが食べていることを説明すると、ピーターは「えー」と落胆した。
「バーンズさんってお菓子好きなの?」
「そうみたいだ。雷の形のジンジャークッキーも入ってたよ。ジンジャーの味がしっかりした。……ってバッキーが言ってた」
「美味しそうだね、キャプテンも分けてもらえばいいのに」
キャプテンも、と言いながら、ピーター本人が食べたそうな口振りだ。
「僕は……、……」
「?」
少し悩んだけれど、結局、「そうだな、せめて自分がモチーフのものは自分で食べるよ」と答えた。「僕は、バッキーがお菓子を食べてる顔を見るのが好きだから」と言ったって、ピーターはリアクションに困るだろうし。それに、実を言うと、僕もお菓子の味を全然知らない訳じゃない。
「えっ、……何?」
訝しげに眉を寄せたバッキーの口の元には僕の盾をかたどったグミ。口の中に放り込まれる寸前でスマートフォンを向けたら、バッキーは固まってしまった。
「何って、写真を撮ろうと思って」
「……何で? 食いづらい」
「お菓子が食べられないから、写真だけでもと思って」
「欲しいならあげるのに。……っていうか元はと言えばお前が貰ってきたんだし」
「いいよ。バッキーが食べてくれ」
「……?」
バッキーは不思議そうな顔をしてたけれど、一口でグミを食べてしまった。もごもごと口を動かしているところでシャッターを切る。しまった、これだとお菓子自体が写っていないな。明日からは食べる寸前で撮ろう。いっそのこと、動画を撮ってしまおうか。
「美味しい?」
「うまいよ。ソーダ味かな」
バッキーがキスしてくれると、甘くて爽やかな香りが漂ってきた。お菓子の取り出された引き出しを反対にして差し込むのは明日にして、バッキーの体を抱きかかえた。絵が出来ていく過程も気になるけど、それより先に味わうべきものがある。
20181222 お題:クリスマスプレゼント
※以前アップした「
ゆるやかな秘密」の続きとなっておりますので、そちらからお読みいただけますと幸いです。
時は愛なり
キャプテン・アメリカがニューヨークの街で目撃されるのは珍しいことではない。悲しむべきか、私は休日のキャプテンを見掛けたことがない。おそらく、そんな風に不意打ちで街で彼を見掛けてしまっても悲鳴をあげてしまうか氷みたいに固まってしまう変質者ができあがるだけなので、このままでも良いと思っている。例え、私が今後、仕事の上でも彼に会えなかったとしても、だ──。話が逸れたが、キャプテンはよく街のカフェのテラス席で絵を描いているらしい。ここ最近は彼の夫となったバッキー・バーンズ軍曹と一緒にいることも多い。彼らは結婚直後はパパラッチを警戒して姿を見せなかったが、冬が近付くにつれ、外出してデートすることも増えたようだ。「ネットフリックスは見飽きたのだろうか」とネットは賑わっている。しかし、私は知っている。彼らが今でもネットフリックスを楽しんでいることを。ええっと、本来の意味か、スラングとしての意味か、両方なのかは明かさないでおこう。彼らのプライバシーのために。
──友人に付き合ってもらって、クリスマスプレゼントを買ってきた。実を言うと、家族にプレゼントを買うのはとても久しぶりだ。彼には去年もプレゼントをあげたのに、今年は選ぶのにすごく時間がかかった。喜んでくれるだろうか。
クリスマス直前の、ミスター・クソ野郎の投稿に添えられた文章。学習ノートサイズの薄い箱と、ペンダントの化粧箱のような長方形の箱の写真。どちらも中身は分からない。赤と緑のチェックの包み紙に金色のリボンが巻かれているのだ。私は、「いいね」を押しながら、中身は何だろうかと考えた。それと、友人とは誰だろう、と。サム・ウィルソンかナターシャ・ロマノフのどちらかであるに違いない。
ミスター・クソ野郎のアカウントに鍵がかけられたのは、間抜けとクソ野郎が──失礼、キャプテンとバーンズ軍曹が──結婚式を挙げた日だった。私は偶然にも、決して邪な気持ちなどなく、彼らの式の数日前に勇気を出して彼をフォローしていたので、鍵がかかったからと言って何も問題はなかった。おそらく彼は自身の正体が一部の人間にバレていると察したのだろう。それでも「クソ野郎」というアカウント名を変えないのは笑える。
彼は最近、インスタグラム初心者というレッテルを自分から引き剥がした。というのも、ハッシュタグを使い始めたのだ。手紙の追伸のような使い方をするのが彼のブームらしい。先の投稿には、「彼は何をプレゼントしてくれるだろう?」というタグがついていた。
相変わらず、私は絵を描き続けていた。ミスター・クソ野郎のパートナーであるキャプテンの絵を。彼からは相変わらず「いいね」が飛んでくる。彼の正体を知ってからというもの、私は絵を投稿する時にひどく緊張するようになった。あのバーンズ軍曹に、キャプテンの絵を見られている。もしかしたらキャプテンご自身も見たことがあるかもしれない。そう考えると、落ち着ける訳がなかった。たまに、バーンズ軍曹もセットで描くので、そういう時はより一層緊張し、震える指で投稿ボタンを押すのだった。クリスマス前に描いたのは、彼らがそれぞれの背中にプレゼントボックスを隠し持ち、さぁどちらから渡そうかと悩んでいるところだった。畏れ多くも、彼らへのささやかなプレゼントのつもりで気合いを入れて書いた。色鉛筆が切れていたのもあって、ちょっと二人の頬に朱を入れすぎたのだが、それが功を成したのか、「いいね」がいつもよりもたくさん飛んできた。彼からはコメントもいただいた。「いい絵だ。表情がリアルで笑ったよ」と。ああ、彼は、彼の正体を私が察していると分かっているようだ。笑えばいいのか照れればいいのか分からず、とりあえずそのコメント自体に「いいね」をした。もうこんな複雑な想いは味わいたくない。自分へのクリスマスプレゼントは色鉛筆セットにしようと心に決めた。
彼がキャプテンに贈ったプレゼントの中身が分かったのは二五日。やはり、彼の投稿からそれを知ることができた。
──すごく喜んでくれたよ。スケッチブックのカバーと、ペンケースをあげたんだ。スケッチブックはいつも角がボロボロだし、ペンケースはジッパーが壊れかけてるのをずっと使ってたから。
写真に写る、革でできたそれらはまだ新品で艶々と輝いていた。が、きっとこれから何年もかけて、テラス席のテーブルと擦れたり、陽に当たったりして味が出てくるだろうということを予感させた。その一方で、ハッシュタグもついていた。「俺はバックパックと靴下セットを貰った」「よく分からない組み合わせだけどどちらも実用的で助かる」とのことだ。何となく、彼ららしいなと思った。きっと、キャプテンは彼の日常を観察して、彼自身ですら気付かないような不便を見抜いてプレゼントを選んだのだろう。彼がキャプテンのペンケース事情をよく知っているのと同じように。
来年も彼らはこうしてプレゼントを贈り合うはずだ。親友という肩書きだけが存在していた時代があって、そこに恋人という関係が加わって、そして家族になって。相手を想い、プレゼントに悩む時間が増えていくばかりで、それ以外は何一つ変わらない。
ところで私は、アマゾンで注文した色鉛筆セットをキャンセルするか悩んでいた。気付いたら、スケッチブックカバーとペンケースをカートに入れてしまっていた。スケッチブックカバーを、「こんなグッズがあるのか、便利そうだな」という純粋な気持ちでカートに入れたのだったらどれだけ良かったことか。私は「これを手に入れたらキャプテンとお揃いだ」ということしか考えていなかった。しかし、これはさすがにファンの行動として行きすぎていやしないか。いや、でも、自分へのクリスマスプレゼントなんだ、いいじゃないかこのくらい……。私のそんな葛藤は半日続いた。お恥ずかしいことだが、おそらく、彼が画材屋でキャプテンへのプレゼントに悩んだ時間よりも長いだろうと思う。
数日後。宅配ボックスにアマゾンからの荷物が届いた。申し訳ないが、今日描く予定のキャプテンの頬もちょっと赤くなる予定だ。