海神と迷子 3※キャプション必読です。読まなかった場合の苦情は受け付けておりません。
「その人間、お前さんの城に迎え入れてしまえばええじゃろ」
いきなりやって来て、事情は全て分かっているという顔をしながら、ゼウスはそんなことを言ってきた。海神ポセイドンが一人の人間の女を扱いあぐねて困っている。しかも、その女が何故彼の城に毎日来るのか、全く分からない。こんな不思議で面白い話に陽気な性質のゼウスが飛び付かない訳も無く、ヘルメスから話を聞いて飛んできたという訳だ。
城に迎え入れるとはどのような立場であれ、下界から魂を切り離し、傍に置いておくということを指す。つまり、早い話が殺して我が物にするということだ。こうした神による人類の選別は、不当な殺生には当てはまらない。しかし、それはあくまでも神側が決めたことであり、人類にとっては結局単なる死でしかない。
ポセイドンは何も答えず、手元の本のページに目を落としたままで、ゼウスはその向かいの席でヘルメスが淹れた紅茶を楽しんでいた。千栄理が毎回来ることになっているあの広間に縦長の大きなテーブルがいつの間にか備え付けられていた。
「のう、ヘルメス。お前も見たんじゃろ? その人間。どうじゃった? 可愛いんか?」
「そうですねぇ……。顔は正直に言って平凡な印象ですが、愛嬌のある人間でしたよ。ポセイドン様にも随分、懐いていたようですし」
「おお。そりゃあ、ええのう」
「あの女は、下界に帰るために余に媚びを売っているまでのこと。くだらん話をするな」
「え、でも、毎回いちいち帰すのも手間じゃろ? だったら、傍に置いて小間使いにでもしてやれば良いと思うんじゃが」
ゼウスの意見にポセイドンは少々不機嫌そうに眉を寄せるも、本を閉じて考え始めたようだった。人間を迎え入れる行為自体は至って簡単だ。己の武器で対象の人間の肉体と魂を結び付けている糸のような繋がりを絶ってしまえばいい。
「じゃが、ヘラクレスの時と違って、その時は下界以上の扱いをしてやらねば、すぐに壊れてしまうからのう。案外難しいもんじゃわい」
ゼウスの言う通り、半神半人であるヘラクレスのように自ら望んで天界に来るのならば、何も問題は無い。だが、神の手によって無理矢理下界と断絶させられた者の末路は、いずれも目も当てられない最期を迎えている。どうせ迎え入れるのなら、その辺りをはっきりさせておかねば、死が早まるだけで何の実りも無い。
「して、その人間はいつもどんな風に来るんかのう? ヘルメス」
「それは私よりもポセイドン様が一番お詳しいかと。私も彼女と遭遇したのは、二回程度なので……」
そっとゼウスとヘルメスがポセイドンに注目するが、肝心のポセイドン本人はだんまりを決め込んでいる。暫く期待の沈黙が流れたが、耐えきれなくなったゼウスが席を立ち、駄々を捏ねだした。
「ケチ〜! ポセイドンちゃんのケチ〜! 教えてくれてもええじゃろうが〜!」
「うるさい」
再度、本を開こうとしたポセイドンは、ふと止まり、本を閉じて徐に立ち上がる。
「来たか」
彼の視線の先には、いつの間にか千栄理がいた。体を縮こまらせるようにして丸くなり、眠っている。今日もすぐには起きる気配は無く、むにゃむにゃと寝言のようなものも口の中で言っている。ゼウスは彼女を指しながら、目で「この人間?」とヘルメスに訊く。それに頷いてヘルメスは主の手前、いつまでも彼女を寝かせておく訳にもいかず、体を揺り動かす。
「千栄理さん、起きてください」
いつものように「むむぅ〜」とか「う〜」とか言いながら、千栄理はもたもたと起き上がる。暫く床に座って呆けていたが、ヘルメスの顔を見ると、これまたいつものように「こんにちは」と朗らかな挨拶をした。
「はい、こんにちは。実は千栄理さんにご紹介したい方がいらっしゃいまして……」
「ワシじゃよ」
「ぴゃぁあああああっ!?」
ぬっとヘルメスの肩越しに現れたゼウスの顔に、千栄理は驚いて悲鳴を上げ、滑って後頭部を床に強かに打ち付けてしまった。そのあまりにも隙だらけで間の抜けた姿に、ヘルメスとゼウスは愉快そうに笑う。痛みに何も言えず、頭を抱えて縮こまる千栄理。その姿に、ポセイドンは呆れて溜息を吐いた。
「大丈夫ですか? 千栄理さん」
「思いっきり行ったのう」
ヘルメスに助け起こされ、千栄理は微かに頬を赤らめながら、立ち上がる。余程恥ずかしかったのか、そのまま両手で顔を覆い、ぷるぷると震えて耐えているようだった。
「うぅ……さっきのは忘れてください……」
「うーん……難しいですねぇ」
「面白かったからのう」
「あ、あの、ヘルメスさん。私に紹介したい方って……」
「あ、そうそう。申し遅れました。こちら、我が主にして、全知全能の神ゼウス様にございます」
至って普通にさらりと紹介され、思わずそのまま普通の挨拶を返しかけた千栄理は、遅れてやって来た驚きにまた叫んだ。その際、「うるさい」とポセイドンに言われ、すぐに口を噤む。少し落ち着いた後、未だ信じられない彼女は再度ヘルメスに確認した。
「ぜ、ゼウス、様?」
「はい」
「ポセイドンさんの弟さん?」
「はい」
「あのギリシャ神話の最高神の?」
「はい」
「えぇ〜……」
「何じゃ、信じられんのか?」
ぴり、とゼウスの雰囲気が一変し、豊かな眉に隠されていた瞳孔が千栄理を捉える。その眼の奥に宿る鋭い光には底知れぬ得体の知れないものを覚え、自然と千栄理は自身の体が震えるのを感じた。
「ご……ごめんなさ……」
ポセイドンに次いで彼女が泣かされる羽目になるかと思われた矢先、ゼウスの視線を遮るようにして見覚えのある矛が突き出された。
見ると、ポセイドンが無表情で二人の間に佇んでいた。
「遊ぶな、稚魚め」
暫し、ゼウスとポセイドンの睨み合いが続き、先に視線を外したのは、ゼウスの方だった。
「おお、そうじゃな。女の子には優しく、じゃ。ほっほっほ」
やっと緊張が解け、へろへろとまた座り込みそうになったところを千栄理は咄嗟に隣にあった温かく、柔らかいものを掴んだ。掴んだそれに温度があることに気付いた彼女は、不思議に思ってそちらを見る。彼女が今正に掴んでいるそれは、ポセイドンの手だった。ばっと弾かれたように顔を上げると、そこには眉間に僅かに皺を寄せて、不機嫌とも困惑とも取れる表情をしている彼がいた。
「わぁああっ。ごめんなさいっ」
慌てて手を離し、少し距離を取る千栄理。何を思ったのか、さっきまで繋いでいた手をじっと見つめるポセイドン。そんな二人を見て、ゼウスとヘルメスは互いに顔を見合わせてから、ゼウスが本題に入る。
「で、じゃ。千栄理……と言ったかのう?」
「は、はい。春川千栄理です」
「早速で残念じゃが、おぬし、もうすぐ死ぬぞ」
静かに告げられた一言に最初千栄理は全く理解できず、少しの間ぽかんと口を半開きにして黙りこくっていた。かと思うと、「え?」とだけ発することができた。念を押すようにゼウスがもう一度言う。
「いや、だからね。お前さん、もうすぐ死ぬの」
「………………え、でも……だって、私…………」
「まぁ、信じられんじゃろうなぁ。今も元気いっぱいじゃしのう……。しかし、そもそもここに人間が一人で来ること自体、本来は有り得んことなんじゃよ」
「…………どういう、こと、ですか?」
ゼウスの説明によると、今千栄理がいる世界、天界に関してこういった事情がある。ここは本来、死後に辿り着く場所であり、その中でも各地の神々の居城となっている建物の中。ここは人間の魂は立ち入ることを禁止されている。しかし、千栄理は死期が近く、本人も無意識に死を受け入れているらしく、魂が天界に惹かれるのだそうだ。そこまでは別に不思議なことでも何でもない。ポセイドンは未だ死んでいない魂をただ下界に帰していただけのこと。おかしいのはここからだ。何故か彼女の魂は天界に来ると同時にポセイドンの許にやって来ては、下界へ帰って行く。ただそれを繰り返すだけだ。それ以上のことはゼウスの力でもってしても何も分からないのだそうだ。
「ん~……もしかしたら、お前さんの中の何かがポセイドンに惹かれたのかのう」
「私の中の何か、ですか……」
「そうじゃそうじゃ。例えば、『愛』とかのう」
「あっ、愛……っ!?」
「くだらん」
『愛』と聞いて、分かりやすく頬を染めて恥ずかしがる千栄理と興味を無くしたように視線を外すポセイドン。全く正反対の両者の反応に、表情に全く出さないゼウスとヘルメスは内心、「面白いなこいつら」と思っていた。
「で、もうすぐ死んでしまうお前さんには二つ、選択肢がある」
この一言に千栄理ははっと我に返って背筋を伸ばした。
「一つは、このままポセイドンと契りを交わし、ここに住むか。もう一つは下界へ帰り、寿命を待って冥界へ行くか。どちらかじゃ。お前さんはどちらを選ぶ?」
「あの……契りというのは?」
「おお、契りというのはな。ポセイドンとお前さんが魂の契約を交わして特別な関係になることじゃ。お前さん達人間の世界で言うところのぉ、親友や主従、恋人とか、契約を結ぶ神によりけりじゃが、そういう関係になる。その場合、下界との繋がりはここで断たれる。まぁ、悪いようにはせんじゃろう。ただ、お前さんにその意思があるかどうか、じゃ」
「え? 私の意思って、ポセイドンさんは……?」
恐る恐るだが、不思議そうな顔で隣の彼を見上げる千栄理。それとほぼ同時にポセイドンも横目で彼女を見ていた。
「まだ聞いとらんが、どうじゃ? ポセイドン」
「……好きにしろ」
すぐにふい、と目を逸らすポセイドン。その様子を見て、千栄理は複雑な表情を浮かべて悩み出すが、ふとあることが気になった。
「あの、もう一つ質問してもいいですか?」
「うむ。気になることはここで訊いていった方が良いじゃろうな。ヘルメス、椅子を」
「はい、こちらに」
ゼウスは元の自分の席に戻り、その隣に恐らく千栄理のであろう椅子をヘルメスが置く。ポセイドンも自分の席に戻るのを見て千栄理も倣い、ヘルメスに一礼してから有り難くその椅子に座った。
「して、質問は何じゃ?」
「はい。私は、その……どんな風に死ぬんでしょう」
「……死ぬのは怖いか?」
「はい……怖いです」
ゼウスは少し考えた後、彼女の死について、ありのままを教えることにした。
「ワシの知ってる限りだと……お前さんはな、近々電車に轢かれて死ぬ。何の理由も無い、ただどこかの誰かの憂さ晴らしのような理由で殺されるんじゃ」
「……無差別殺人、ってことですか?」
そういえば、一週間後に友人達と旅行に行こうと計画を立てていたと千栄理は思い出した。現地には電車で行こうと決めていたのだ。ゼウスはそうだと肯定し、「どうする?」と再度訊いてきた。
このまま一週間が過ぎれば、千栄理は電車に轢かれて死に、冥界へ行く。ここでポセイドンと契りを結べば、下界との縁は切れ、ここに永住することになる。ポセイドンのことは嫌いではないが、いきなり家族や友人達と永遠に別れて移住することは否が応でも不安が残る。かといって、このまま帰って死ぬまでの一週間を過ごすことなど、千栄理には到底できそうもない。恐怖で気が狂いそうになるだろう。何とか回避できる術は無いかとゼウスに訊いたが、返ってきた答えは「無い」だった。彼女が死ぬことは運命によって決まっており、どう足掻こうが、死に方が変わるだけで結果は変わらないのだそうだ。
俯き、黙り込んでしまった彼女にゼウスは努めて優しく「今決めなくともいい」と言ったが、彼女は徐に顔を上げ、覚悟を決めたように一度だけ頷いた。
「一日だけ、時間を頂けませんか? 家族と友人にお別れを言いたいんです」
「……ということは、ポセイドンと契りを結ぶのかのう?」
「はい」
千栄理の表情にもう迷いは無い。それを見て取ると、ゼウスは話をまとめ、ポセイドンにいつものようにするよう言うと、「言われなくともそうする」と直ぐ様返答が来た。話がまとまったところでゼウスは帰ると言い、ヘルメスと共に瞬きする間もなく、姿を消した。未だ神々の御業に慣れず、目を白黒させる千栄理にポセイドンはただ一言問う。
「何故だ」
「……え?」
「何故、余と契りを交わす」
どうにも納得がいかないと言いたげな彼に、千栄理は当たり前のように答えた。
「確かに、死ぬのは怖いです。そういう気持ちも少なからずありました。でも、ポセイドンさんなら、良いと思ったんです。あなたは、優しいですから」
そう言って微笑む千栄理をポセイドンは心底理解できなかった。原初より完全な存在である筈の神を、何者の侵害をも許さぬ神を、他の神々に避けられているような神を捕まえて『優しい』などと表現するのは、どうしても納得ができなかった。人間とはここまで馬鹿になってしまったのかと彼は呆れた。
「愚か過ぎる」
「私がそう感じただけですから、気にしないでください」
「初めから気にしてなどいない。お前のような雑魚の言葉など……」
「そう、ですよね……」
しゅん、と明らかに意気消沈した様子の千栄理に、ポセイドンは視線を逸らそうとしたが、彼女の体が未だ僅かに震えていることに気付いた。扱い難い。彼女は今まで彼の周りにいたどの女性とも違う性格で、会う度にそう感じる。ふと、先程のことを思い返し、ポセイドンは再度自分の手を見た。武人らしく、ごつごつした無骨で大きな手には、まだ彼女の小さな手の感触があるような気がした。仕方ないと、彼はその手を千栄理の前に差し出す。不安げな顔をしながらも彼の意図を汲もうとする彼女に、ポセイドンは声を掛けた。
「手を出せ」
「で、でも……」
「許す」
千栄理は差し出された手とポセイドンの顔を交互に見、そっと遠慮がちに手を乗せて繋いだ。初めて他人と手を繋いだポセイドンだが、今だけはそんなことを頭から追い出して、とにかくこの娘を帰すことだけを考えた。
手を繋いでいるせいか、いつもより遅く歩いてくれるポセイドンに、千栄理はやっぱり優しい神様だと内心嬉しく思った。そのまま大広間を出て中庭を通り、あの井戸へ続く建物に入った時、千栄理が口を開いた。
「ポセイドンさん、明日からよろしくお願いしますね」
自分は果たして上手く笑えているのだろうか。千栄理はそう思ったが、ポセイドンの相変わらずの無表情と無反応から判断が難しい。でも、いつの間にか彼は千栄理と目を合わせるようになったと、彼女はそこで初めて気が付いた。ポセイドンはその後も特に反応を返すことは無く、繋いでいた手を離し、いつものように井戸の水位を上げて水で彼女を包む直前、ただ一言送った。
「余と契りを交わすなら、覚悟を決めろ」
「……はいっ」
彼の意図は千栄理には分からなかったが、彼なりに励ましてくれたのだろうと良い方に受け取って、彼女は最後の下界での一日を過ごすべく、意識を手放した。
目が覚めると、千栄理はベッドから出てまず、母に電話をすることにした。母だけは早朝でも電話に出てくれるだろうと踏んでのことだった。スマートフォンで電話を掛けると、予想通り、すぐに母が出た。
「どうしたの、千栄理。こんな朝早く」
「……ちょっと、お母さんの声が聞きたくなって」
「……どうしたの? 何かあったの?」
「ううん、何でもないの。変わったことも無いし。……お母さん、いつもありがとうね。……大好きだよ」
「どうしたの? 本当に。大丈夫なの? 千栄理」
「うん……うん……」
暫く聞いていなかった母の声に千栄理の両目からは、はらはらと静かにいくつもの涙がこぼれ落ちていった。