海神と迷子 16※ご注意※
・またオリキャラ扱いの神様登場
・キャラ崩壊
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
千栄理がポセイドンの城に来て一ヶ月が経った頃、彼女は突如として働きに出たいと言い出した。しかし、当然ポセイドンの許可が降りる筈も無かった。
「必要無い」
「でも、私、もっと皆さんのお役に立ちたいです!」
ソファテーブルを挟んで睨む千栄理に、ポセイドンはたった一言で一蹴してしまう。が、彼女も持ち前の頑固さで珍しく引かなかった。拒否をすればする程、物理的な距離を縮めてくる千栄理に、ポセイドンは少しわざと拒否をしている部分もあった。
「何故だ。お前が奉仕する理由も無いだろう」
「それは、そうなんですけど……でも、もっと私にできることがあるんじゃないかと思ってですね……。それに、動いていると気が紛れるんです。母のことや友達のこと、考えなくてよくなる、ので……」
その話を持ち出されると、ポセイドンは正直弱かった。彼女をここに住まわせたことに後悔は全く無いが、彼女を下界から無理矢理な形で天界に連れて来たこともまた事実なのだ。家族や友人達と永遠に別れる状況を作った原因である自覚がある彼としては、許可してやりたい気持ちと自分から離れてしまうことでどうしても心配に思う気持ちが天秤に掛けられる。どう答えれば、この娘は納得して引き下がってくれるのか、考えているところに、千栄理の泣きそうな表情が目に入る。急に黙り込んでしまったポセイドンに、怒っているのだろうかと思ったらしく、彼女は八の字眉の不安げな表情を浮かべていた。ここで泣かせるのは本意ではないが、泣かせれば諦めるだろうかとも思う。最善の回答を導き出そうとしている間にも、千栄理は話を進める。
「あの……実は、もう働く先は決まってるんです」
「……なに?」
「余の許可無く決めたのか?」と威圧感を醸し出すポセイドンに、千栄理は遠慮がちにだが、「ゼウス様のご紹介で」と続ける。
「ヘスティア様のパン屋さんで、パンの配達をすることになってます」
ヘスティアは人間の街と神域でパン屋を開いている竈の女神だ。心優しく穏やかな性格で、彼女に好意を持っている神や人間は非常に多い。ヘスティアの許なら人間関係での悩みの心配は無いだろうが、彼女に言い寄る男がいないとも限らない。何故ならば、ここ一ヶ月で神と同じ物を口にしている彼女は、愛らしく可憐に育ってしまったからだった。神の食事を人間が食べるという行為は一食なら尽きかけた体力を全回復する程度だが、食事の期間が長いと、健康でその人らしく美しくなるという特徴がある。体型が大幅に変わることは無いが、肌が美しくなったり若返ったりするので、千栄理のように元から若い年齢の人間は尚更効果は絶大だ。彼女の愛嬌の良さなら、他人に嫌われるということは無いだろうが、ポセイドンはそこだけが心配だった。それに加え、パンの配達などは他人と接する時間こそ短いものの、とにかく大勢と会うことになってしまう。不満を露わにするポセイドンは怒り心頭という様子で千栄理に迫る。
「貴様は余の全てを知りたいと言ったな。あれは余を欺くための妄言か? 己の欲を満たす為だけに、余を利用するか?」
槍を構え、答えを迫るポセイドンに、千栄理は悲しげに呟いた。
「どうしてそんな哀しいことを言うんですか?」
「質問に質問で返すな。答えよ」
「それは……」
槍を下ろす気配の無い彼に、千栄理は少し考えてから言葉を発する。どうしたらこの神にちゃんと伝わるだろうという顔だった。
「私、ここに来てから色んな神様に助けられてきました。けれど、私から皆さんに返せるものはまだ凄く少なくて……少しでも良くしてくれた皆さんにお返しがしたいんです。……それに、ヘスティア様のパン屋さんを選んだのは、朝早く仕事を済ませれば、ポセイドンさんと一緒にいられる時間が多く取れるから、って思った、んですけど……」
「だめ、ですか……?」と恐る恐る訊く彼女に、ポセイドンはそれ以上、何も言えなかった。予想外の返答に、彼は口を引き結び、槍を下ろして手元から消す。そんなことを言われて嬉しく思わない者がこの世にいるだろうか。それは孤高の海神ポセイドンですら例外ではなかった。自分もこの一ヶ月で随分と甘くなったものだと自嘲的な笑みを浮かべ、彼はとうとう折れることにした。
「お前は一度言い出すと聞かんからな。出ても良いが、危険な場所への配達だけは避けろ。ヘスティアに言っておく」
「い、いいえっ。大丈夫です。私、自分でヘスティア様に言います!」
問題ないと彼の助力を断る千栄理に、ポセイドンは特に追及することなく、会話を一時切る。いつから働き始めるのかと訊くと、明日からだと返ってきた。その答えに彼は内心で最悪自分には秘密にして行くつもりだったのかと戦慄にも似た感覚を覚えると同時に、やはりまだどこか納得していない気持ちがあって、罰として千栄理を呼び寄せ、膝の上に乗せて抱き締めるポセイドンだった。
翌朝、慣れない早起きに眠そうな目を擦りながらもポセイドンを起こさないように千栄理は起き出して、出かける準備をする。動きやすい服装に着替え、そっと部屋を出ると、プロテウスとばったり出くわした。今日から仕事へ行くと言うと、彼は正門まで見送りに来てくれると言う。少し悪いような気がした千栄理だが、ここは素直に甘えることにした。初仕事ということもあって、少し不安だったのは否めない。その気持ちを素直に彼に吐露すると、彼は普段通りの千栄理でいれば、大丈夫だと言ってくれる。彼はこの一ヶ月で彼女の人となりを知り、彼女のことはそれなりに好意的に受け取っていた。
「いつも通りに、ですね。分かりました!」
「千栄理様、どうかポセイドン様にご心配をお掛けになるようなことはなさらぬよう、お願いいたします」
「大丈夫ですよ、プロテウスさん。私、頑張ります!」
最後にそう念を押すプロテウスに、千栄理は微笑んで元気良く城を出て行った。プロテウスは走り去る小さな後ろ姿を、見えなくなるまでいつまでも見つめていた。
プロテウスに渡された地図を見ながら、千栄理はヘスティアが経営するパン屋へ向かう。ここからはそう遠くないが、早朝ということもあって辺りには霧が出ていて視界が悪い。周りに気を付けて進もうと少し歩く速度を緩めた時だった。前から誰かが歩いて来る気配と足音が聞こえてきて、千栄理は足を止めた。この辺りはまだポセイドンの領域であり、彼女に危害を加えるような輩はいないとポセイドンは言っていたが、それでも天界で無力な彼女は少し警戒してしまう。前方からやって来るのは一体、誰なのか。姿を確認してから進もうと彼女は霧の向こうへ目を凝らす。しかし、凝視したとて、正体がすぐに分かる筈も無く、ゆっくりと大きな影が現れた。予想よりずっと大きな人影だったので、彼女は恐怖から一歩後ろに下がった。
霧の中から現れたのは、大きな体躯に棍棒を肩に担いだヘラクレスだった。思わぬ知った顔の登場に千栄理は喜色満面になる。
「ヘラクレスさん!」
「千栄理、やっぱりもう出ていたか。おはよう。ゼウス様に言われてお前を迎えに来た。この霧では先が不安だろう? ヘスティア様のところまでオレが同行しよう」
「ありがとうございます! あ、おはようございます」
少し遅れて朝の挨拶をしても、ヘラクレスは当たり前のように明るい表情でもう一度返してくれた。彼が一緒にいてくれれば、これ程心強いことはない。先程よりずっと足取りは軽く、千栄理とヘラクレスは他愛のない会話を交わしながら先に進む。
「すまない。人間達の街に連れて行ってやると言ったのに、ここのところ、何かと忙しくてポセイドン様の城へ行けなかった」
「そんな、いいんですよ。私もお城の生活に慣れるのに少しお時間を頂きたかったので」
お互いの近況やヘスティアのパン屋について話しているうちに、あっという間に着いてしまった。今日は初日ということもあって、一日ヘラクレスが付いていてくれるらしい。ゼウスはちょっと過保護なのではと思った千栄理だったが、口には出さないようにした。
ヘスティアのパン屋は彼女の城の中にあるらしく、ヘラクレスは迷いなく、城内へ入って行き、近くのニンフに話しかける。
「ヘスティア様へ件の娘のことで参上した。直接御目通り願いたい」
「これはこれは、ヘラクレス様。どうも御親切にありがとうございます。ヘスティア様なら、もうパンを焼き始めていますから、こちらへ」
そのニンフは全身が真っ赤に燃えており、髪の先はゆらゆらと揺らめき、彼女の周りだけ景色が僅かに歪んで見えた。正に炎そのものという出で立ちの彼女に、千栄理は少し驚いたが、よくよく考えてみれば、ポセイドンの城の召使い達とあまり変わらないなと思い、密かに改めた。それと同時に初めて訪れる他の神様の城に気分が高揚していた。ニンフの案内で城の奥へ案内され、食堂へ入る。食堂では既に成形された色々なパン生地が並び、焼いてもらうのを今か今かと待っている。まだ誰も来ていないようで食堂は静まり返っていた。パン生地の間を抜け、二人はヘスティアがいるという厨房の中へ通された。