海神と恋人 32※※ご注意※※
・この連載シリーズはポセイドン夢です。始皇帝夢ではありません。
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
「千栄理、他に怪我は!? 大事無いか?」
男が川に落ちた姿を見て、すぐこの場を離れようと、始皇帝は千栄理の様子を見る。幸か不幸か、千栄理の怪我は足首の切り傷だけで、他には何も無かった。すぐ彼女を抱き上げようとした始皇帝を彼女自身が止める。
「大丈夫です。自分で治せますよ」
そう言うと千栄理はあの本を開き、呪文を唱えるが、魔法は発動しない。
「あれ?」
「治っていないではないか」
「自分の傷は治せないみたいです。……あ、痛っ」
「無理をするな。朕に任せよ」
立ち上がろうとしたが、傷が痛んで叶わなかった千栄理を始皇帝は再び抱き上げる。このまま街歩きを続ける訳にもいかなくなった二人は、仕方なく宮殿へ戻ることにした。
宮殿に戻ると、始皇帝へ客人があるらしく、千栄理の手当が終わるまで待ってもらい、王の間へ通された。千栄理は宮殿の医師から手当を受けてやはり始皇帝の隣に座している。間もなく客人として通されたのはヘラクレスで、千栄理は思わず立ち上がりかけたが、傷が痛むので彼に駆け寄ることはできなかった。ヘラクレスは深々と一礼してから用件を告げる。
「突然、押しかける形になってしまってすまない。始皇帝、といったか。今日、ここに来たのはお前達が女神と呼んでいる女性を返してもらうためだ。彼女は人間だが、ポセイドン様の伴侶でもある。共に神々の元へ帰らなければ、この国に災いが降りかかるかもしれない。どうか、千栄理を返してもらえないだろうか?」
神自ら千栄理を返せと請うてくるとは思わず、始皇帝の側近は卒倒しそうになったが、次の主君の言葉に今度こそ卒倒した。
「断る。朕は誰の指図も受けぬ。ポセイドンとやらにもそう伝えよ」
それきり始皇帝は話すつもりは無いようで、ヘラクレスに上層へ帰るよう言って、千栄理を宮殿の奥へ連れて行ってしまった。残されたヘラクレスは予想外の返答に暫し思い悩み、一度上層へ戻ってゼウスに報告しようと宮殿を出て行った。
「皇帝陛下、どうしてですか?」
千栄理が疑問を口にしても始皇帝は答えない。ずっと押し黙ったまま、どこかへと連れて行かれることに、彼女は少し恐怖を覚えていた。船の中ではっきり断らなかったのがいけなかったのかと考えているうちに彼はある一室に入る。
そこは白い壁に赤い腰壁と稲妻紋で優美に飾られた、広々とした部屋だった。奥には始皇帝一人ではまだ余りある程、大きなベッドに赤いカーテンの天蓋が付いていて、手前には何故か洋風の赤いクッションと金細工で作られたソファが鎮座し、部屋の左側を向いている。その先には、壁に埋め込まれた大きな液晶テレビがあった。そのあまりの大きさにテレビにしか目が向かなかった千栄理は思わず「テレビ……」と呟いてしまう程だ。その呟きを聞き逃さなかった始皇帝は嬉しそうに口を開く。
「朕は新しい物が好きだからな。初めてこれを見た時、遠くに居ても世界中のことが分かると聞き、一番大きい物を買った」
言いつつ、始皇帝はソファを素通りし、何故かベッドに千栄理を座らせる。てっきりソファに座らせられるものだと思っていた彼女は、不思議そうな顔をして始皇帝を見上げた。
「あの、陛下……?」
一度、千栄理から離れた始皇帝は部屋の扉を閉めて戻って来る。千栄理の隣に座ると、彼はその手を取った。千栄理と目が合うと、彼ははっきりと宣言する。
「千栄理。済まぬが、お前を神の許へ帰すつもりはない」
「……え?」
ポセイドンは非常に苛々した様子で部屋の中をうろうろしていた。主に自分のデスク周辺を何度も行き来し、プロテウスすら容易に話しかけられない状況だ。窓の外は夕陽が差し、もう間も無く夜になろうとしている。なのに、千栄理が帰ってこないことにポセイドンは苛立って仕方なかった。
「遅い。遅すぎる。千栄理はいつまであの穢れた地にいるつもりだ」
何か宥める言葉をかけようものなら、殺されかねない様子の主人に、プロテウスは何も言えない。そこへ水の召使いによるゼウス来訪の報せに、これ幸いと彼はそちらの応対へ向かった。
部屋に通されたゼウスはハデス、ヘルメス、アレスを伴って、開口一番言い放った。
「ポセイドン。千栄理ちゃんのことじゃが、ちと面倒なことになった」
「……なに?」
更に険しくなった主人の顔を見て、プロテウスはお茶の準備という逃避に走った。
何故か部屋に連れて来られたこと、何故か部屋の扉を閉められたこと。そして、何故かベッドに座らせられたことで、千栄理はある予感を持っていた。ポセイドンとの間にも一度だけ感じたことのある空気に、体が強張る。初めて彼女は他人を怖い、と思った。
始皇帝は目隠しを取っており、熱を持った眼差しで千栄理を見つめている。不意に彼が自分の頬に触れて、千栄理は恐怖に身を竦めた。
「朕が怖いか?」
「……はい」
「――そなたに決まった相手がいるのは分かっていた。だが、それでも、朕はそなたを傍に置いておきたい。先程も言ったが、朕はそなたに心から惹かれている。どうか、朕と共にこの国を救ってくれぬか?」
眼差しは優しいのに、言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
「なに? 見えぬだと?」
ゼウスの意識が下層から戻って来ると、千栄理の姿がどこにも見当たらないと言う。全知全能の神であるゼウスは意識を集中して自分の視界を飛ばし、思い通りに様々な光景が見える。しかし、その能力をもってしても、千栄理の姿を見つけることはできなかった。傍らに居たヘラクレスがそんな馬鹿なと零す。
「千栄理は確かに中国の皇帝に……」
「恐らく、何かの術を使っておるのじゃろう。人間が使う術にワシの視界を妨げる程の物があるとは思えんが、それが意思の力が直接働くものなら、相当千栄理ちゃんに思い入れがあるようじゃな」
「何故だ。其奴も千栄理と会ったのは今日が初めてなのだろう?」
「その筈なんじゃがのう…………ああ、でも、これが恋のなせる術ならば、可能性は大いにあり、じゃ。ワシも若い頃、覚えあるもん」
「末弟よ。お前の色事はどうでも良い。ヘラクレス、確かにその、始皇帝とやらか? 千栄理を攫ったのは」
「ええ、確かです。オレはこの目ではっきりと見ました」
「滅ぼしてくれよう、あのような国。初めからそうしておれば、良かったのだ」
「それはできんよ、ポセイドン。あの国が無くては魂魄を保管しておく場所が無くなってしまう。今後の人類繁栄の為のプラントじゃのに」
「ならば、どうする? 何か罰を与えるか?」
「しかし、それで千栄理が帰ってくればいいが、もし、それでも帰さぬ場合はどうする?」
「いっそ皆殺しにするか?」と投げかけるハデスの目は、ポセイドンと同じく殺意に満ちてぎらぎらと輝いて見えた。そんな二柱を宥めたのは、意外にもゼウスだった。
「ほっほっほ。まぁまぁ、そうカッカすることも無いじゃろ。のう? ヘルメス。何か良い案は無いかのう?」
「……そうですねぇ」
ちら、と隣にいるアレスに視線を送るヘルメス。何度かそれを繰り返し、やっと気が付いたアレスは「え?」と呆けた表情で問うたが、ヘルメスはそれを無視して、にっこりと微笑む。
「僭越ながら、私に良い考えがございます。ですが、この計画はハデス様、ポセイドン様。そして、アレスお兄様のご協力が無ければ、成立いたしません」
「え? オレ?」
芝居がかった仕草でお辞儀をしたヘルメスはハデスとポセイドンに向けてもう一度笑った。
「ご協力頂けますか? お二方」