海神と迷子 15※ご注意※
・キャラ崩壊
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
プロテウスが持って来た蜂蜜水を飲み、アスクレピオスからもらった塩飴を口に含む。彼に言われた通りにしている千栄理の隣で、ポセイドンは静かに読書をしていた。
「それを食べたら、後は寝ていろ」
「はぁい。……ポセイドンさん」
「なんだ」
「今日はもう出かけないんですか?」
「…………今日はもういい。出かけん」
それを聞くと、どこか嬉しそうに微笑む千栄理の腰に腕を回し、ポセイドンはそのままベッドに横になる。まだ口の中に飴がある千栄理はポセイドンの行動に少し驚き、「危ないですよ」と注意した。
「ならば、余が食してやろう」
そう言って顔を近付けて来るポセイドンの唇を、千栄理は人差し指でふにりと止めた。何が不服だと言いたげな彼に、千栄理は少し頬を膨らませてまた注意した。
「そういうのは好きな人とするものですよ、ポセイドンさん」
「初めてだったら、大事にしないといけませんよ」と言う彼女に、何か言いたそうに唇をもごもごさせていたポセイドンだが、興が削がれたという様子で仰向けになった。不機嫌顔になった彼を不思議に思い、どうしたのかと訊いても、「いいから寝ろ」とだけしか返ってこない。とうとうごろんとこちらに背を向けてしまった彼の逞しいその背に、千栄理は額をくっつけて「おやすみなさい」と呟いた。次第に少し前と同じように寝息が聞こえてきて、ポセイドンは彼女の方へ静かに向いて、包むようにそっと千栄理を腕の中に収めた。起きる気配の無い彼女の寝顔をじっと見つめ、暫く黙っていたかと思うと、ゆっくりと口を開いた。
「千栄理。余は——」
その後に紡いだ言葉を、追加の蜂蜜水を持って来た時に聞いたプロテウスは驚愕に瞠目し、複雑そうな表情のまま目を閉じた。
翌日になって、アスクレピオスの言った通り、千栄理の熱は下がり、顔色もだいぶ良くなった。もう大丈夫だと言う彼女に、ポセイドンはまだ体力が戻っていないのだから休んでいろと言ったが、当の本人はまた彼の言う事も聞かずにプロテウスの手伝いをすると言い張る。
「駄目だと言っている。お前は病み上がりだろう」
「もう。いつからそんなに心配性になったんですか? 大丈夫ですよ。ポセイドンさんもプロテウスさんも働いているのに、私だけいつまでも寝てなんていられません」
「お嬢様じゃないですから」とやる気満々に言う千栄理に、ポセイドンとプロテウスはどうしたものかと互いに顔を見合わせた。言うことを聞かずにまた無理をして体調を崩すのではと心配する主人に、プロテウスは何か思い付いたのか、ポセイドンに耳打ちする。
「ポセイドン様、ここは私にお任せ頂きたく存じます」
「……何か策があるのか? プロテウス」
「はい。決して千栄理さんにご無理はさせませんので、どうか」
少し考え、ポセイドンは信頼の置けるこの老人に任せることにした。彼としても城に誰かいてくれた方が少しは安心して見回りの仕事に行けるからだった。「任せる」と返事をして、ポセイドンは早く仕事を終えてしまおうと地下へ向かうため、自室の扉を開けて出て行こうとした。その後を当然のように付いて行こうとする千栄理をポセイドンとプロテウス二人掛かりで止める。
「学習せん奴だな、お前は。あそこに行ったから熱を出したようなものを……!」
「で、でも、ポセイドンさんが行くなら、お見送りを……」
「すぐ戻る。だから、お前はここにいろ。プロテウス、此奴を地下に近寄らせるな」
「はっ。千栄理さん、お見送りはここで致しましょう。ポセイドン様のお手を煩わせるのは、あなたとて本意ではないでしょう」
「……はい」
明らかに落胆する千栄理に、ポセイドンは溜め息を一つして、彼女の頬に触れる。
「帰ったら、書類を片付ける。それまでここで待っていろ。いいな?」
「一緒に、いてくれますか?」
頷くポセイドンに、千栄理は表情を輝かせて「待ってますね」と言って彼を送り出した。
ポセイドンが行ってしまってから、プロテウスは千栄理を伴って厨房へ向かう。彼は千栄理でもできそうな仕事を与えようと食器棚の前まで来ると、彼女へ向き直った。
「では、千栄理さん。本日、あなたにやって頂く仕事はワイングラスの手入れです。やり方は分かりますか?」
「えっと……ごめんなさい。やったことが無くて……」
ふむ、と少し考えてからプロテウスは丁寧に一連の流れを教える。グラス自体は非常に薄く、蛇口やシンクの縁などにぶつけたり、力を入れ過ぎてしまうと割れてしまうので、そこにだけ注意するように言うと、千栄理は「分かりました。ありがとうございます」と教示への礼を言う。彼女のお礼の言葉に、プロテウスは不思議そうに口を開いた。
「何故、礼を?」
「え、何かして頂いたら、お礼を言うのは当たり前なので……」
何か変なことを言っただろうかと、今度は千栄理が不思議そうな顔をする。その様子にプロテウスは内心なんてお人好しな人間なのだろうと呆れた。同時に少し扱いにくいものだなとも感じる。今までポセイドンに仕えてきた彼としては、このように改めて礼を言われるようなことはあまり無く、浮かべた複雑そうな顔が、彼がどれだけ人間と関わったことが無いかを如実に示していた。言葉に表し難い感情にもやもやと彼が考えている間にも、千栄理は丁寧にグラスを洗い、布巾で拭いていく。その丁寧な所作にプロテウスは思ったよりは役に立つかもしれないと、彼女への評価を改めた。最初に会った時の彼女は熱で弱っていることもあって、かなり弱々しく、主人の足を引っ張りそうな女という印象しか無かった。
彼女の作業は丁寧だが、てきぱきとしていて割と手際が良い。そのことを指摘すると、「下界では一人暮らしで、家事は得意な方なんです」と照れたように笑って言う。その笑顔に、プロテウスは一瞬、可愛らしいという印象を持ったが、すぐに振り払う。この人間に対して個人的に思うところは全く無く、むしろ彼にとっては邪魔な存在であり、あくまでも仕事の上で接しているだけだと言い聞かせた。しかし、にこにこと浮かべている能天気な笑顔を見ていると、何だか胸の辺りが温かいようなむず痒いような心持ちがしてきて、それを誤魔化すため、プロテウスは作業に集中した。
グラス磨きと食器棚の掃除が終わり、ポセイドンの部屋の掃除をしている途中で、彼が帰って来た。ソファ席のテーブルを拭いていた千栄理は、彼が入って来るとぱっと立ち上がり、「お帰りなさい」と笑顔で出迎える。それにポセイドンはふ、と笑みを返し、すぐ書類を片付けてしまおうと、執務机に就いた。机の上にはゼウスから彼の管轄内の海について実に様々な稟議書が多く届いており、それら全てに目を通して許可と不許可の判断を下したり、回答を作成したりしていく。時折、「これは一体何の意味がある」と悪態を吐きつつ、次々と書類を捌いていく。その速さに千栄理はぽかんと口を開けて呆然と見ていた。書類別・期間別に振り分けた束をプロテウスに渡し、「終わったぞ」と千栄理に言った。あっという間に仕事を片付けてしまった彼に、千栄理は「凄いですね、ポセイドンさん」と素直に褒める。それに「神ならば、この程度造作も無い」と口では言っているが、その口元には確かに笑みが浮かんでいる。こんなに柔らかな主人の表情は見たことが無いと傍らに控えるプロテウスは胸中で驚いていた。
仕事を早々に終えた彼は千栄理と共にソファに座り、「お前は何をしていた」と訊く。彼女が嬉しそうにプロテウスと共にワイングラスの手入れや食器棚の掃除などの話をしている中、プロテウスは書類をゼウスの宮殿へ届けに行くため、そっと部屋を出た。主人が何故、あの人間に優しく接するのか、彼には少し分かった気がした。