笑わせたい彼と知りたい彼女side.S
自分たちの何がそう見えさせているのだろうと心から疑問に思いながら菅波は案内されたソファを見た。大きなソファひとつにテーブルが一つあるだけの席で、いわゆるカップル向けの席であると判断できる。あたりを見回すといたって普通のカフェで向かい合わせの席が多い。ただしそれらの席のほとんどは埋まっていた。他の席が空いてないならしょうがないし、他でもない百音は何も気にしてない様子ですでに着席してメニューを見ているので何か言うのは藪蛇のような気がする。できるだけ距離を置いてソファの端に座った。椎の実のソファよりずいぶん大きいので熱伝導の心配はなさそうだった。
目当てのミルクレープを食べ終えた綺麗な唇がおいしかったと口角を上げるのを見て、自分は食べてないのに奇妙な満足を覚えた。ほんとに今日はありがとうございます、とこっちに何度目かの礼を言ってからさっき図書館で借りてきたばかりの本数冊を鞄から取り出してパラパラと見ている。
いつものようにコインランドリーで顔を合わせた昼下がり、中継コーナーで使う気象にまつわるネタを探すのが毎日のことなので行き詰まってるのだという百音の話を聞き、しばらく考えたのち、図書館に行ってみてはどうかと提案した。僕も久しぶりに本を借りたいからと、取ってつけたような言い訳をして連れ立って来た。
「今まで本を探すって書店ばかりだったからびっくりしました。図書館にあんなにたくさん気候に関する本があるなんて」
「書店は新刊がメインだから売れ行きのいいもの以外の古い本は淘汰されてしまいます。専門分野の本をざっとあたるときは図書館の方がいいんですよ」
「レファレンスサービスも凄かったです。とても自分ではあんなに探せません」
「プロの仕事でしたね。さすがにあんなにたくさん出てくるとは思わなかったけど」
図書館員が次々と運んでくる本の山から借りる本を選び出すこと、次回以降に借りたい本をメモするだけで1時間強かかった。どれもこれも読みたいと目を輝かせたその興奮めいた喜びは自分もよく知っているものだったので微笑ましく見守った。
パラパラと見ているうちにいつしか書物に引き込まれた百音を見て、菅波も自分の借りた本を取り出して読み始めた。やたら大きなソファの居心地は意外と良い。
違うな、ソファじゃなくて、と菅波は思い直した。登米での勉強会も後半は互いに黙って勉強している時間の方が長かった。この居心地の良さはずっと前に手に入れていたもので、一度は失ったものだった。忘れていたはずなのに、もう一度手にすると執着が湧くなんてことがあるんだろうか。真剣な表情で読書している彼女の横顔をそっと盗み見る。
「先生、こご、よぐわがんないです」
突然懐かしい言葉で話しかけられて目を丸くすると、百音がこっちを見て首を傾げた。
「いや、あなたが方言使ってるの久しぶりに聞いたなと思って」
あ、と百音は口元に手をやる。
「あまり出ないように気をつけてるんですけど、先生と話してたらつい」
居心地悪そうな顔をしている百音に、別にいいですよ、と口元を緩めて返した。かわいいから、と内心で付け加えてしまったことに少しの罪悪感を覚えながら。
「で、どごがわがんないんですって?」
「先生、へたくそ」
百音がケタケタと笑うので釣られて菅波も笑う。彼女が笑ってくれるならいい。ただそれだけを思う。痛みを背負ってる人だから、せめてそばにいる時は何も考えずに笑っていてほしい。笑わせるのは下手だけど。
貸して、と手を伸ばすとこちらに本を渡しながら、ここです、と白く細い指が見出しを差しながら座り直して距離が近づく。それは微妙に熱伝導しそうな近さだったので慌てて文章に集中した。
「……まず自律神経について説明します」
教えるのは得意なほうだから。
side.M
視線は手元の本に落としたまま、手に取ったグラスの中をストローで吸おうとすると、ズッと間の抜けた音とともにほんの少しの水分と空気だけが吸い込まれた。もう飲み切っていたのか。グラスをテーブルに戻したとき、ストローの飲み口が薄く色づいているのに気付いた。
菅波先生と図書館……?完全に意味がわからないと表情で全てを伝えたすーちゃんと、とりあえずこないだ買ったリップグロスしていきな、そんなんじゃないからいい、と押し問答の末に負けてリップを塗ることで穏便に送り出してもらったのだった。
ちらりと隣の人を見ると自分が借りた本をいつもの真面目な顔で読んでいる。少しの罪悪感を覚えてストローに付着した色を指で拭った。
帰り道、店の手前で窓ガラスに貼ってあったミルクレープの写真に釘付けになったのは百音で、食べたいなら入りましょうか、僕も喉が渇いたからと、こちらを伺うように聞いたのは菅波だった。お茶くらいしておいでよ!と階段の上から言われたのを聞かれていた可能性もゼロじゃなかった。
最近やたらと揶揄われるのに、違うよ、そうじゃない、といちいち否定しているが本当に違うのか、そうじゃないのか、自信が持てずにいる。正確に言えば考えることから逃げていた。
先生と生徒がいい。久しぶりに一緒に時間を過ごした今日、確認するようにそう思った。先生と生徒でいることに何の迷いもない。心が落ち着く。でももしこれが先生と生徒じゃなくなったら。
さっき図書館で、本の背を眺めながら書棚の間をゆったりと移動している先生を少し離れたところから見て、学生みたいだな、図書館が似合う、と思ったことを思い出した。そして少し寂しくなったことを。
私は先生のことを何も知らない。
どうして急にそんなふうに思ってしまったのかわからない。登米にいたころはそんなこと思わなかったのに。先生は先生だったから。
何かを期待したり傷ついたりするのは怖かった。誰かを傷つけることも。いつかは怖くなくなるんだろうか。先生のことをもっと知れば怖くなくなるんだろうか。
答えの出ない問いを振り切るように手元の本にまた意識を戻す。それは今日借りてきた気象病についての本だった。天気のことはわかるが自律神経のことはまだわからない。私にはまだわからないことがたくさんあるから、
「先生、こご、よぐわがんないです」
教えて、先生。
おまけ
「やば、間違えた」
ソファ席を背後から見てそう言うとバイト仲間のマキちゃんが通りがかりに聞き止めて、なに、オーダーミス?と聞くのでゆるく首を振った。
「絶対カップルだと思ったのに違ったわ。申し訳ない」
視線の先を見てマキちゃんも、あー、と頷いて吹き出した。
「違うっぽいねー。ま、今日混んでるからしゃーないって」
さっき来店した男女の二人客は自分の案内したソファ席、いわゆるカップルシートと呼ばれるような大きなソファでわざわざ一人分は空けて座っている。
このソファ席はアルバイトの店員たちにすこぶる評判が悪い。明らかなカップルでないと通しづらいし、満席になってここしか空いてない場合、ここでいいですかと客に確認しなければならない(当然断られる場合もある)。忙しい店なので客と席の組み合わせについてまで考えたくないのが隠すこともないバイトたちの本音だ。そもそもこのソファを退かせば6席は増やせる。明らかに経営的にもマイナスだ。
それでもこのソファを退かそうとしないのはこの店のオーナーだった。ずいぶん思い入れがあるらしい。ソファから生まれる恋もあるの、と笑って存在意義を力説する。ハルはもうこの店で2年働いているがソファから生まれる恋はまだ確認できていない。
その二人組が入店してしばらくしてからざっと客が引け空席が目立つようになった。もしそうしてほしければ席替えてあげられるんだけどな、と思いながらハルはソファ席を見る。二人は同じ距離を保ってそれぞれに何か本を読んでいるようだった。ますます関係性がわからない。なんとなく背後から見ていると、男の方が顔を横に向けて彼女の方を見つめて、その横顔の口元がふっと緩んだ。……んん、これは。
ポットを持ってすっかり空になっている水のコップにお代わりを入れてあげようと近づいた時だった。
「こご、よぐわがんないです」
「……方言使ってるの久しぶりに聞いた」
待って、かわいい。
彼女さん東北、かな?久しぶりってことは突然方言混ぜられた感じ?いやーーーそれは可愛い。
東京生まれであることが関係するのかどうかはわからないが、方言に弱い自覚はハルにはあった。それにしてもこれはなかなかの衝撃だ。ハッと気づいて男の方を見ると完全に口元がニヤけている。
いやそれはそうだろうこれは可愛い……。
衝撃を隠して二人のコップに水を注いだ。ありがとうございます、と彼女が小さくお礼を言ってくれたがお礼を言いたいのはこっちだった。
それからまた忙しくなってバタついた。そういえばあの二人まだ帰ってないなとソファ席を確認してまた衝撃を受ける。さっきまで律儀に間を開けていたのがいつの間にか寄り添うように隣に座っている。オーナーの言葉を思い出してこれ以上ないほど他人なのに私まで口元がニヤけてしまう。
件の二人客がレジに向かうのに気付いて慌ててハルもレジに入った。二人は結局もう一杯ずつドリンクを頼み、回転の早いこの店にしては長居の客となった。
ところが二人はレジの側まで来て、どっちが払うかで揉め出した。立ち上がる前に決めておいてくれよと心から思いながら待っていると、結局彼女が勝利したらしく満足気に伝票を差し出した。
それでも男の方は満足できないらしく何か言ってるのに振り返って彼女は言った。
「今日は私が先生の時間ひとりじめしちゃったからいいんです。先生といるとあっという間に時間が過ぎちゃう」
え………?と内心の動揺を隠して現金を受け取り、ちらりと男の顔を見る。
うわ─────彼女さん、彼女じゃないかもしれないけどちょっと振り返って見たほうがいいかも。彼氏じゃないかもしれないけど彼氏さん、すっごい照れてて可愛いから。手で隠した口元は絶対ニヤけてるし、耳まで赤いし。
こっちまで赤くなりそうだと、丁寧にお釣りを数えてレシートと共に渡した。真ん中で一人、まったく動揺してない彼女がニコリと笑って、ごちそうさまでした、おいしかったです、と笑いかけてくれる。スタンプカードお渡しします、と少し時間を稼いだのはまだ顔の赤い男のためだった。ミルクレープ美味しかったから絶対また来ます、と相変わらず一人白い顔でニコニコと笑っている。
ありがとうございました、の声と共に店の外に出た二人をガラス越しに見る。少し重そうな荷物をどっちが持つで少し揉めて、結局男の方が持って二人は歩き出した。二人は手を繋ぐこともなく不必要に近寄ることもなく、それなりの距離を保って歩き出した。彼女が何か言い、男が何か返し、しばらくして二人は互いを見つめあって笑いだした。そこで店のウインドウから二人が見切れる。
「はあ、良いものを見た………」
ぼんやりしていると、ハル!6番片付けて!とマキちゃんの声が飛んできて慌てて仕事に戻る。あとでマキちゃんにわたしもソファ存続派に寝返ったと伝えたら目を丸くするだろう。オーナーには今度会った時にじっくり話してあげよう。あのソファが恋を手助けしてましたよと。