#8 手袋と恋の行方 グレイの分厚い雲に覆われた空を見上げてミドリはため息を付いた。せめて青空であったならよかったのに、と窓越しに見る空を恨めしく思う。手元に目を落とせば両親への手紙は最初の挨拶で止まってしまっている。どうにも考えがまとまらずため息ばかりが出た。
ミドリを悩ませているものは二つあって、そのどちらもがサトル・アサオカに関わることであった。
一つは失くした手袋のことだった。
およそ一ヶ月前、いつものメンバーで浜辺まで行ってピクニックをした日にメグは手袋を片方失くしてしまっていた。普段用の手袋は一つしか持っていなかったこともあり、みんなにも手伝ってもらってよく探したが結局その日は見つからなかった。
ところが翌日遊びに来たリョウが、うちのバスケットに紛れ込んでいたよ、と手袋は持たずに報告だけしてきたのである。なんでもそれを見つけたのはアサオカだったそうで、僕が返しておきます、と言ったので彼が持っているという。
それから数度アサオカに会う機会はあったが、失くした手袋が話題に出ることはなかった。どこかに置いたまま失念しているのではないかと思ってはいるのだが、何とはなしに手袋の行方を聞くに聞けないまま、今に至っているのが心に引っかかっていた。
そしてもう一つは、同じく海辺のピクニックの日から少しアサオカの態度が変わったような気がすることだった。会えばいつものように機嫌良く礼儀正しく、こちらを楽しませようとしてくれた。だけどなぜか、二人きりになるのを避けられているようにミドリは感じていた。
そしてそれはあの日、二人で海岸沿いを歩きながら話したことに原因があるように思うのだった。
「サトルさんはどちらのお生まれなんですの」
「生まれはワシントンです。早くに親が亡くなったのですが、ご親切に学費を出してくれる親戚がいまして、イギリスに渡って寄宿学校で育ちました」
ワシントンまで付き添ってもらった母はすっかりアサオカへの信頼を深め、彼をサトルさん、と呼ぶのにいつしか姉妹もそれに倣っていた。
ミドリも以前ほどの警戒心はなく、もっとアサオカのことを知りたいと思っていた。
「家族とは縁がないもので、いつもマーチ家のみなさんが仲良くされているのを羨ましいと思ってますよ」
「まあそんな。いつもくだらない話ばかりしてるんですよ。外では言えないような、不謹慎なことや愚痴なんかを」
へえ、とアサオカが笑ってくれる。
「でも、そうですね……くだらないことでも、そういう本音を言える場があるから毎日を過ごせているような気がします。ありがたい、大事な場所ですね……」
しみじみそう語ってしまってからアサオカへの配慮がなかったことに気づき、すみません、と慌てて謝った。アサオカは、羨ましいです、といつもの笑みで返してくれた。そして、ああほら、と海面近くを飛ぶ鳥を指差し、会話はそこで途絶えたのだった。
それからしばらくしたある日の夕方、ミドリとリコがソファに座って繕い物をしていると、リョウがやってきて二人の側をぐるぐると歩き回っていた。しばらくしてリコが、
「ねえ、いい加減にしてよ! なにか言いたいことがあるなら言って!」
と軽く睨みつけると、リョウが口をむずむずとさせながらミドリの前に立って小さな箱を渡した。ブラウンのその箱には深い緑色のリボンがかかっている。
「……アサオカ氏から。明日渡してほしいと頼まれたんだ」
小首を傾げたミドリがリボンを解いて箱を開けると、そこには薄いグレイの手袋があった。ミドリが失くしたものではない、真新しいものだ。
それを見たリコは眉を顰めて立ち上がった。
「どういうこと、リョウ」
「僕もよくわからない。ハーバード大の恩師のところにしばらく行ってくるって、少し前に発ったんだ。これを、明日ミドリさんに渡してくれって頼まれて」
「いつ帰ってくるの?」
「わからないんだ。数日で帰ってくるかもしれないし、もっと長くなるかもって。でも、こんな風にミドリに何も言わずにプレゼントを残すなんて、しばらく帰ってこないつもりなんじゃないかって、そんな気がして……」
リョウも悩んだらしく、不安気に視線が揺れていた。リコがさらに問い詰める。
「いつ家出たの?」
「30分くらい前。マダム・サヤカも一緒に馬車に乗って」
「ああもう! どうしてもっと早く話さないのよ!」
リコがカッカしながら床を踏み鳴らしていると、玄関に控えめなノックの音が鳴った。顔を出したのはスガナミであった。
「どうも、こんにちは」
この家にも来慣れたものでいつものようにモネを呼んでもらおうとしたそのとき、スガナミの腕にリコが飛び付いた。
「先生、自転車貸して!」
「……え? 別にいいですけどあまりお天気が」
「行くよ、ミドリ!」
二人分の上着を掴んだリコはまだ座ったままのミドリの片腕も掴んでソファから引っぺがした。
「このまま行かせていいの!?」
ハッと息を飲んだミドリは頭を振った。そして二人は駆け出すように家から出ていった。
「あー! もー! ミドリ重い!」
ミドリも自転車くらい練習しておくべきだったとか、だいたい何でサトルさんはとか、リョウが悪いとか、まるで不平不満を口に出すことがエンジンかのようにリコはぐいぐいペダルを踏んだ。明日はきっと筋肉痛だろう。それでもペダルを踏む力を弱めたり休んだりするつもりはなかった。
ミドリには結婚なんてしてほしくない。
だけど同じくらい、後悔もしてほしくなかった。
そんな引き裂かれる気持ちで少し泣きそうになりながらもペダルを踏み続けるリコの後ろで、揺られるばかりのミドリが情けない声で呟く。
「会えたからって何を言えばいいのかわかんないよ……」
「そんなの自分で考えて!」
「ね、リコも一緒に考えてくれない?」
「見てわかんない!? わたし今すっごい忙しいの!」
流石にそこまで付き合ってられないと、ペダルを踏むのにさらに集中して自転車の速度が上がる。駅まであともう少しだった。
ホームまで見送ったサヤカは軽くアサオカの腕叩いて別れを告げ、踵を返した。出身校であるハーバード大の教授の元で最新の知識を吸収してきたい、それをこちらの仕事にも役立てたい、という言葉には嘘はなさそうだったが、唐突な出立の申し出には別の理由がありそうだとサヤカは踏んでいた。
一代で名を挙げた海運会社の社長の愛人の息子だと噂で知っていた。その才を見込まれて幼少より潤沢な教育を受けていたが、いざ会社に入るタイミングで社長が亡くなり、本妻の息子、つまり正当な後継に疎まれて放逐されたそうだった。
何だって頼めば期待以上の仕事をこなすが、どうにも心の読めない男だった。このところは秘書のような仕事もさせていたが、そもそもは顔見知り程度の関係だったのだから何の義理もない。戻ってこなくてもおかしくはなかった。
それでも戻ってきてくれたらとサヤカは願っている。生来の根無草のようなアサオカの中にある寂しさや人恋しさをサヤカは感じ取っていた。
何の義理はなくとも縁の一つになれたらよい。
そんなことを思いながら駅舎を抜けて行こうとすると見知った顔がこっちに向かって駆けてきて、そのままサヤカの存在には気付かず駆け抜けて行った。
それはミドリだった。
あのマーチ家の長女らしく落ち着きと慈愛に満ちたあのミドリが、あんなに脇目もふらず必死になって。
あれまあと、あんぐりと口を開けてその背中を見送る。しばらくして駅舎を出ると、そこにいたのは自転車のハンドルに上半身を伏せてハアハアと今にも死にそうな表情のリコだったからサヤカは大笑いした。
ホームに出たミドリは慌てて辺りを見渡した。別れを惜しんでる様子があちらこちらに見受けられ、汽車が出るまでにもう少しの猶予がありそうであった。そしてホームの端っこに見知った背中を見つけた瞬間、ミドリは初めて出すような大きな声でその名を呼んだ。
「サトルさーーーん!!!」
振り返ったアサオカが呆然とこっちを見ているうちに、ミドリはそこまで走った。
アサオカの前に立ってミドリははあはあと荒い息を吐いた。
「ミドリさん、どうして」
「……どうしてって、どうしてじゃないです。どうして何も言わずに行くんですか」
アサオカを射抜く瞳は欠けることのない月のようにまん丸で美しかった。
「この手袋は何なんですか。理由なく渡されても受け取れません。わたしが失くした手袋はどこにあるんですか」
握りしめていたままだった茶色の小箱をアサオカの胸に押し付ける。ミドリが本当に知りたいのは、あの手袋の行方だった。
「……それとあの日、海辺でわたしが話したことでサトルさんは何か気に障ったんじゃないかと思ってるんです。……違いますか」
アサオカは感情の抜け落ちた表情でミドリを見ていた。二人が立ち尽くしてる間に列車は出発した。
ホームにポツリポツリと雨が降り出す。
それに気付いてやっとミドリから空に視線を動かしたアサオカは、ステッキのように持っていた傘を開いてミドリに差し掛けた。
とりあえず帰りましょうとアサオカが促し、二人は傘を分け合って駅舎を出た。急な雨ゆえか待合の馬車も既に出払っている。もとより歩くつもりであったのか躊躇なく外に出ていくアサオカに遅れないよう、ミドリも慌てて横に並んだ。
「すみません、あの、乗るはずだった列車を、その」
「大丈夫です。今日行かなければならないわけではなかったので」
そう言って、アサオカは今日初めて柔らかい表情でミドリを見た。
だがそこから言葉が続くこともなく、しばらく並んで無言で歩き続けた。
雨脚は強まることも弱まることもなく、ぽつぽつと降り続けた。静かな雨音が二人の沈黙をより際立たせていた。
「僕は大人の顔色ばかり伺ってきた子供でした」
歩きながら不意にアサオカは話し出した。
自分の学費を出してくれていたのは母を囲っていた男だった。自分の子でもないにも関わらず母の死後も変わらず学費を援助してくれたことには掛け値なしに感謝している。
だが家族ではないので会いにも来てくれないし手紙の一本もなかった。同級生たちが帰省したりサマーキャンプに行ったりする長期休みも、アサオカはずっと寮にいた。先生や寮母、料理人、掃除夫など身の回りの大人たちは概ね良い人が多かったがそうでない人間も少なからずいる。大人たちの機嫌を損ねないように生きるのにもコツがいった。
「だから、ミドリさんから家族には本当のことを話すのだと聞いたとき、あぁそうなのかと。もちろん気に障ったわけじゃわけじゃない。……そうだな、あえて言葉にするならショックだった、というところでしょうか。あまりにも僕たちは見てきた景色が違うのだと」
家族がいるということはどういうことなのか、アサオカは想像したこともなかった。否、しないようにしていた、が、正解かもしれない。記憶の中の母はとうの昔に薄れていた。
どうも話がとっ散らかってしまいますね、とここまでぼんやりと前を向いて話していたアサオカの視線が初めてミドリの横顔を捉え、視線に気付いたミドリが顔を上げて二人の視線が絡んだ。一つの傘に入っているせいで距離が近い。
「白状すると、僕は、あなたのような人が家族になってくれたら幸せだろうなと思ったんです。……でもあなたを知れば知るほど、自分の歪さばかりが見えてくる。僕は本当の意味で誰かに心を許したことがない。そういうふうに生きてこなかった。あなたの前でも猫をかぶっているだけだ。そしてそんな人間はきっと誰も幸せにできない」
突き返されてボストンバッグに仕舞った茶色の箱を思い出して苦笑いし、コートのポケットからあるものを出した。それはミドリの失くした手袋だった。
「……なのに、こんな子供っぽいことをしてあなたを困らせてしまった。本当にすみません。お返しします」
そう言って差し出された手袋をミドリは見たが、受け取るための手は差し出さなかった。
アサオカの言葉が胸に刺さって抜けない。
なんて悲しいことを言うんだろう。そんなこと言ってほしくない。家族に縁がなかったことも、大人の顔色を伺わなければ生きていけない子供時代も、何ひとつ彼のせいではない。
初めて聞くアサオカの打ち明け話に、ミドリの胸は高鳴って気持ちがかき乱される。
わたしは、この人に幸せになってほしいのだ。
立ち止まって体ごとアサオカに向き合った。
「サトルさん、誰も幸せにできないなんて、そんなことおっしゃらないで。まるでご自分が幸せになることも諦めてるみたい。そんなの嫌です。わたしはサトルさんにも幸せになってほしい」
それから手を伸ばして、傘を持ったアサオカの手を両手で包んだ。
「今、お話ししてくださったことはサトルさんにとって、本当の気持ちでしょう? それを話してくださることは、心を許すということと同じなんじゃないでしょうか」
ミドリは考え考え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから私は今、嬉しいんです。サトルさんの本当の気持ち、もっと聞きたいんです。私はちゃんと受け止められると思います」
そうかな、と俯いたアサオカの表情に不安げな少年の姿が重なった気がして、ミドリは掴んだ手に力を込めた。
「それから、わたしの幸せはわたしが決めます。……本当のサトルさんを知って、幻滅したら幻滅したってちゃんと言いますからね」
最期はふざけたようにそう言ったミドリに、驚いて顔を上げたアサオカは情けない顔でハハッと笑った。
「これは手厳しい。じゃあやっぱりミドリさんの前では猫をかぶっていよう。……あなたに嫌われるのは耐えられないから」
「一生猫をかぶっていられるのなら、それは本当のサトルさんだってことだと思います」
ミドリが唇を尖らせてそう言い返すと、それを見たアサオカはふっと真顔に戻って傘もボストンバッグも地面に放る。
驚く間もなくミドリはアサオカの腕に包まれてきつく抱きすくめられていた。冷たい雨を跳ね返すように二人の体温は高い。
「ごめん、ちょっとだけ。……ミドリさん、僕はあなたを愛してます」
「……わたしはサトルさんを幸せにできると思います。わたしも、サトルさんと一緒だったら幸せになれます。きっと」
まるでプロポーズみたいだとアサオカが耳元でそう言うと、ミドリはハッと息を呑みながらアサオカから逃れようとするのにアサオカの腕がそれを許さない。
逃れようとしたことで二人の間に隙間が生じたことはむしろアサオカにとって都合がいい。
恥ずかしそうに頬を染めて困った顔をしているのが本当に可愛い、そう思ってアサオカはミドリの頬に手を当てて顔を近づけた。
「正式なプロポーズは、ちゃんと僕から言います。……キスしてもいいですか?」
近すぎる距離で囁くようにそう言うと、ミドリは頬染めたまま小さく頷く。
雨に濡れた二人はもう互いしか見えなかった。
「どうして傘を持ってたのに二人とも頭からびしょ濡れなの!?」とリコに怒られるのはおよそ半刻後の話。
それより少し前のマーチ家の出来事。
ミドリとリコの二人が大騒ぎで出て行ってから残ったメンバーで和やかにカードゲームなどに興じていると、玄関がバン!と開いて帰ってきたのはリコ一人だった。
ツカツカと四人が座るダイニングにやってきたリコは不機嫌そうにスガナミを見遣る。
「先生、自転車はローレンス家の馬車に入れてます。今日は雨が止まなそうなのでうちに泊まってくださいとマダム・サヤカからの伝言です」
リコはツンと顔を背けたまま二階へ上がっていき、リョウが慌ててその後を追った。
「あの、僕が何か、気に触ることをしてしまったんでしょうか……?」
怯えた口調のスガナミに、ミイがあははと笑って答えた。
「いいのいいの、気にしなくて。あれは多分ミドリがサトルさんに取られそうでご機嫌斜めなだけだから」
理解したらしいスガナミが、なるほどと訳知り顔で眉を寄せて頷いた。
「どこも同じですね。僕も姉が三人いるのですが、一番上の姉が結婚が決まった時、二番目の姉の機嫌が悪くて大変でした……八つ当たりが酷かった」
そう言ってため息をつくスガナミを見てモネとミイが面白そうに話に食いつく。
「先生、お姉さん三人いるんだ。……え、で、その二番目のお姉さんはどうなったんですか」
「どうもしませんよ。結婚式が終わったら憑き物が落ちたようにいつも通りに戻りました。なぜあんなに理不尽に八つ当たりされたのか、今考えても意味不明です」
眉を寄せてまったく納得できないと言うスガナミを見てモネとミイはくすくすと笑う。
それからスガナミとミイは、二言目にはあんたは甘やかされてるからと嫌味を言われる、何か言うとあんたは子供で何もわかってないのだから黙ってろと言われる、などなど末っ子あるあるで盛り上がり、いつまでもモネを笑わせていた。