夏の秘密の物語1.
数分歩いただけで額から汗が流れる不快感に菅波はため息を吐きながら足を動かした。熱を照り返すアスファルトの上をゴロゴロとスーツケースを引きながら歩く自分は未だこの町の異邦人であると菅波は諦めたように思う。歩いている人間などそもそもいない、通りがかる車さえいない。七月でありながら真夏日を記録した日曜日であった。
BRTの停留所から宿所であるアパートまで歩いて10分程の距離だった。都会と違って途中にコンビニなどあるはずもなく、そもそも日陰が全くない、真夏の徒歩10分はなかなかに辛い。外科医は体力あってこそ!という暑苦しい上司の基本方針のせいで筋トレは習慣の一部となっているが、その筋力が真夏の野外を歩くことには何の役にも立っていないどころか代謝の良さのせいでますます汗が噴き出す気がしてならない。諸行無常を感じながらも歩き続けるしかない菅波の視界に、見覚えのある自転車がぽつねんと道路の端に停められているのが見えた。
近付いて自転車の後部のフレームを見れば大きく「新田」と書いてある。やはり。これは永浦百音が新田サヤカに借りて使用している自転車だった。しかしなぜこんなところに? あたりを見渡すも当たり前のように人っ子一人いない。
ふと数ヶ月前の出来事を思い出して菅波は眉を寄せた。あの日は大学病院で入った緊急の手術が大幅に長引き、予定より遅れて登米に着いた夜のことだった。まだ肌寒い三月の夜で雨まで降っていて、カッパ代わりのウインドブレーカーを着て早足で登米夢想に向かっていると、雨音にかき消されそうな助けを呼ぶ声が聞こえた気がして、菅波は立ち止まって耳を澄ました。その声の出所を探して彷徨き、やっと探し当てた側道の溝で座り込んだまま立てない新田サヤカを発見したのだった。
まさか同じようなことがあるとは思わないが、あり得ないとも言えない。菅波は転がしていたスーツケースを自転車の真横に置いてからもう一度あたりを見渡した。先ほどと同じく、誰もいない。ただ自転車が停められた場所はガードレールに少しの隙間があった。見ればそこから降りていく、苔むした石段がある。さらにその先を見れば、北見川から分流しているのであろう、小さな川が見えた。
道路脇に植えられた木が青々と茂っているせいでよく見えないが、その小川のそばで永浦百音らしき後ろ姿がちらりと見えた。安全を確認できれば良いと、呼びかけてみることにした。
「永浦さーん! 大丈夫ですか!?」
風が揺らす葉のせいで見えたり見えなかったりする百音が振り向き、笑顔でこちらに大きく手を振るのが一瞬見えた。
「せんせーい!」
突然風が止んで、彼女がいた場所が全く見えなくなってしまった。怪我をして動けないとか、そういった類の問題はなさそうなのでこのまま帰っても良い。だがここまで来れば乗りかかった船のようなものだ。こんなところで一人で何をしているのか、確認しておきたかった。菅波は苔むした下り階段に足を踏み入れた。
下まで降りてみれば伸び放題の雑草で鬱蒼とした川縁の、日陰になっているところに一人で座っている百音の背中が見えてそちらに足を向けた。草を踏み締める足音を聞いて振り返った百音はそのままの体勢でいつもの笑顔を見せた。側には脱いだ靴下を雑に突っ込んだ運動靴が並んでいる。その素足は小川に浸されていた。
「こんなところで何してるんですか」
「足を冷やしてました」
「それはまあ、見ればわかりますけど…」
「サヤカさんに頼まれた用事があったんで自転車で町まで行ったんです。でも帰りの坂道が暑くて暑くて、そしたらこの木陰の川が見えて、つい」
「まあ大丈夫ならいいんですけど、あんなところに自転車だけ残されてたのでちょっと心配しました」
「すいません、……あっ先生! お急ぎじゃなかったら先生も一緒にどうですか? ほんっとーに気持ちいいんですよ!」
「ええ?」
無邪気そのものな永浦百音に笑顔で隣を指し示されて菅波は困惑した。暑いから少しでも涼みたい、というのはわかる。だがここで多少涼んだところでまた暑い道を自転車漕ぐなり歩くなりしなければならないのだ。それなら我慢してさっさと家路につき、部屋に入って冷房のスイッチを入れる方がずっと効率的だろう。
……と、そこまで考えてから菅波は馬鹿馬鹿しくなってため息を吐いた。こんなにも牧歌的な状況下で効率云々言ってもしょうがない気がする。念のため自分が降りてきた道を見上げるとやはり木々の緑が邪魔していてほとんど道路からは見えなかった。
座って靴を脱ぎ始めると、隣で百音が目を丸くしている気配がした。自分で誘っておいて、と内心で気を悪くしながらも菅波は何も言わずに座り込んで靴、靴下と脱ぎ、暑苦しいチノパンを膝まで折り上げた。そろそろと下ろした足が川に入ると、その冷たさに、おお、と素直に驚きの声が漏れた。
「冷たい、ですね」
「でしょう? こんな暑い日なのに屋外でこんなに涼しくてホッとできる場所があるなんて、いいですよね。山のいいところです」
「海は違うんですか」
「夏の日中は海の水温も高いし浜も日影なくてひたすら暑いです」
「なるほど」
菅波はポケットに入れていたタオルハンカチを出して川に浸し、ぎゅっと絞ってから額や首を拭いた。川の水で足は冷やされ、木陰のせいか拭く風も涼やかだった。目の前には遮るものなく圧倒的な山の、夏の濃い緑があって、さらにその上には入道雲と青い空があった。あまりに力強い、自然そのものの光景を菅波はしばらく無言で眺めていた。
「……ギャップがすごい」
「え? ギャップ?」
独り言のような菅波の一言を聞き逃さず聞き返してきた百音の方を見て小さく笑い、また前を向いて菅波は話し出した。
「今朝まで丸三日、大学病院に詰めっぱなしだったんです。あ、うちの病院大きくて、コンビニも食堂もシャワーも仮眠室もあるんで、帰らない限りは一歩も外に出なくて済むんです。だから外が晴れてるのか曇ってるのか、どのくらい暑いのかとかも気にすることなく、ただ仕事と仮眠の繰り返しで。それで今朝やっと病院を出て自宅に荷物だけ取りに戻って、そこから4時間かけて移動して、そして今、何をするでもなく川で足を冷やしている」
「ほんとですね……! すごい、うん、すごいギャップです。なんと言うか、都会と田舎の落差、いや、距離感?」
何かを必死に言語化しようとしている百音をちらりと視界に収めてから菅波は目を閉じた。風と水の流れをますます鮮明に感じる。
効率よく時間を切り回すことは学生時代から染み付いた、もはや菅波の生き方そのものであった。しかし登米に来て、少しずつではあるがそれまでの菅波が無駄と切り捨ててきた時間の過ごし方にもなんらかの意味があるのだと学ぶことがあった。今となっては、例えそれが本当に無駄な時間になったとしても別に良いではないかとまで思っていた。
目を開くと視線を感じて隣を見た。百音が興味津々、といった様子でこっちを見ている。
「先生は、こっちにいる方がリラックスできたりしますか」
「んー……どうですかねぇ。東京の方が激務は激務なんですけど、医者はたくさんいるんで自分一人で重大な決断を下すことはないんです。こっちはまあ一人で診療所預かってて責任が大きいので、また違うプレッシャーがありますね」
「なるほど。どっちでも大変ってことですね。お医者様ってほんっとーに大変ですよね。おつかれさまです」
「……まあ、自分で選んだ道ですから」
「自分で選んだ道……先生、カッコいいです」
「え?」
訝しげに隣を見れば、他意はないらしく、真面目な顔で自分の言葉にうんうんと頷いている。
こういうところだよな、と含み笑いしながらまた正面に広がる景色を見た。
「まあでも今は、気が休まってますね」
それはどうしようもなく事実であった。パソコンのモニターではなく目の前の濃い自然の色をぼんやりと眺めながら、足はせせらぎで冷やされ、肌は心地よい風を感じている。その心地良さに気が緩んで、普段しないような話をしている自覚はあった。両肘を地面に付いて、上半身を仰向けに傾けた。ざっと風が吹く。本当に気持ちがいいな。そう思って瞼を閉じた次の瞬間から菅波の意識は途絶えた。
「先生、早く!」
ぐいぐいと腕を引かれて歩いている。北見川沿いの見慣れた道だった。見たことのない濃紺のワンピースを着た彼女が時間に追われて急かしてくる。
「そんなに急がなくても」
「だめです! 間に合わないですよ!」
何に間に合わないのかわからないまま、言われた通りに足を早めて隣に並ぶと彼女は満足そうに笑い、腕を解きながらその手は下がってそのまま今度は手を繋いで指先を絡め取られた。
「いいんですか、こんなとこ誰かに見られたら」
「……誰もいないから大丈夫」
そう言って悪戯っぽく見上げて笑う彼女を見ると、ドク、と心臓が高鳴った。待って、と指先に力を込めて彼女を引き寄せる。もう片方の手でその頬に触れようとした瞬間、トン、と胸を押された。今度は一転、唇を尖らせた彼女が不服そうな表情でこちらを見上げた。
「急いでるって言ってるじゃない」
「……ごめん」
もう!と言って不機嫌になった彼女は手も放して駆け出した。慌ててその背を追う。
「ごめん、待って、……モネ!」
その名を呼んだ瞬間、その強烈な違和感にすっと意識が戻り、同時に開いた視界に目を閉じた永浦百音がいたので反射的にガバッと起き上がった。辺りを見回して状況を把握し、腕時計を見る。うっかり寝てしまったようだがおそらく20分程度のこと。もう一度恐る恐る見れば、隣で座っていたはずの百音も横になって眠っている。
(なんださっきの夢……)
夢に出てきたのは間違いなく永浦百音だった。だが微妙に違った。もっと大人っぽかった。何が違ったんだろうと、無防備に寝ている百音を見てしばらくして思い当たった。前髪だ。夢の中の彼女に前髪はなく額を出していた。それだけでそんなに大人っぽく見えるものなのか。それよりも夢から覚めた菅波を動揺させたのは、夢の中の二人が明らかに当たり前のように恋人である設定であったということだった。
(違う、そんなこと、考えたことないのに)
ぶるりと頭を振った菅波は浸しっぱなしだった足を川底に着けて立ち上がり、川の中を数歩歩いた。屈んで両手で流れる川の水を掬い、パシャパシャと顔を洗った。夢の記憶も洗い流したいのに鮮明に脳に焼き付いていた。
(あんなふうに、恋人には甘えた顔を見せるんだろうか)
悪戯っぽい瞳や尖らせた唇を思い出してしまって、菅波はもう一度大きくかぶりを振った。そのせいで目が眩んだので慌てて川岸に戻って腰を下ろした。夢はただの夢だとわかってはいても、そんな夢を見てしまったことへの罪悪感に菅波は眉を寄せてため息をつく。
しばらくしてすっかり体が冷えていることに気付いた。冷たい川に足を浸しておそらく30分は過ぎている。またここから出て歩き出せばすぐに体温は戻るだろうが、冷やし過ぎも良くはない。そろそろ起こそうと百音に再度目をやると、その頬に蚊が止まっている。叩くわけにもいかず、そっと寄って指先を伸ばした。指を近づければすぐ逃げると思った蚊は居座ったままなので、しょうがなく指先で弾く。蚊は逃げたが、弾いた指が肌に触れたようで百音がパッと目を覚ました。菅波はほぼ百音の顔の真上にいて、百音の頬に指を伸ばした状態だった。驚いた百音が突然起き上がって——
ガツッ!!!
「いった……」
百音の激しい頭突きにあった菅波は顎を押さえて痛みに耐えた。
「あ、す、すみません、びっくり、してしまって…!」
「……だ、大丈夫なので、釈明させてください。あの今、あなたの頬に蚊がいたのでそれを払おうと」
「え!?」
慌てて顔をペチペチと触っている百音を見てやっと痛みの引いてきた菅波が顎をさすりながら苦笑いする。
「今はもういませんよ。……あ、でもやっぱり刺されてますね」
「あ…」
患部に触れている百音に、触らないで、とお願いしながら菅波は自分のリュックから虫刺され用の薬を取り出し、少し迷ったが自分の指で掬って、すでに小さく腫れ始めている箇所にさっと塗ってあげた。恥ずかしそうに礼を言った百音が顔を上げると菅波の顔をじっと見た。夢の中の距離を急に思い出しそうになって慌てて離れようとしたそのとき、
「あ、」
「え?」
百音の指が伸びて菅波の頬に触れた。
「先生もここ、噛まれてますよ」
そう言って百音が笑った。自分でも触れてみると確かに小さく腫れている。つられて笑いながら自分の頬にも薬を塗った。
「顔を蚊に刺されるなんて子供みたいだな……恥ずかしい」
「大丈夫ですよ先生、秘密にしといてあげます」
そう言った百音の悪戯っぽい瞳から慌てて菅波は目を逸らし、そろそろ帰りましょうと声をかけて自分も帰り支度を始めた。
(あんな夢を見たせいだ——変な動悸がしてしまうのは)
多分いつも通りの彼女の表情が、甘えを含んだものに見えた、なんて。
「いやいやいや!」
「先生?」
「いや、違います、大丈夫です」
「大丈夫……なら、よかったですけど……?」
不審げな彼女を置き去りに、何度目か確認するように元いた道路を見上げ、ほとんど見えないことに安堵し、なぜ安堵するのかは無視することにする。
準備を済ませた百音に、先に行ってくださいと促し、その後をついて行きながら菅波は立ち止まって振り返った。二人でたった半刻ほどの時間を過ごした場所を。その痕跡を吹き流すかの如くざっと強い風が吹いて菅波は目を細めた。
心も体も癒されてしまったのは、この場の自然の持つ力だけじゃなく、隣に彼女がいたからだということはわかっていた。
多分もうここには来ない、そう思った。だから目に焼き付けるようにじっと見た。その不思議な場所を。
「せんせーい!」
振り返ると石段の中頃まで登った彼女が焦れたように呼んでいる。今行きます!と答えて彼女の方に向かって歩き出した。
名残惜しさを、その不思議な場所に残して。
その、秘密の場所に。
2.
菅波は年度が変わっても変わらず登米と東京を往復する生活を続けていた。
そしてまた夏である。
日の高い時間帯に登米のバス停に降り立ったときほど、夏が来たと思うことはない。この暑さに慣れることはきっと永遠にないんだろう。そう思いながら菅波は汗を流して歩いていたそのとき。ふと、思い出した。そうだ、今日みたいな暑い日だった。
(……このあたりだったはず)
立ち止まって辺りを見渡したが、あるはずのものがない。ガードレールの隙間。苔むした石段。
不審に思ってガードレールから身を乗り出して下の方を見れば、やはり木があって見えづらくはあるものの例の小川が見える。なのに、降りて行く道がない。
そんな馬鹿なと、暑い中その道を行きつ戻りつしながら調べた。しかし、ない。あの日降りて行った道がない。ガードレールだって年季の入った代物で新しくなってはない。小さな石段を埋めてしまった工事の跡も何もない。
ふとあの日の記憶が心許なくなった。
暑さが思考までも溶かしていく。全部夢だったんじゃないか。じゃないと説明がつかない。おかしい。
気付けばスマートフォンを取り出してアドレス帳をスクロールしていた。「永浦百音」を見つけて指でタップする寸前、思い止まった。
何をどう、確かめるつもりなのか。
一緒に川で足を冷やしましたよねって? うっかり寝てしまって顔を蚊に刺されましたよねって?
スマホをポケットに突っ込んで額の汗を拭った。あまりの暑さにおかしな行動を取るところだったと自分自身に呆れる。
ガードレールの隙間なんてどうだっていい。苔むした石段だって幻だったとしても構わない。
もしそれが目の前にあったとして、一人で足を冷やして休憩しようなんて思わないから。
だからそれがあってもなくても最早同じだった。
久しぶりに見た「永浦百音」の四文字。
元気にしているだろうか。
四ヶ月、か。
東京じゃのんびり足を冷やす場所も時間もきっとないだろう。大丈夫だろうか、とは思わなかった。彼女の逞しさはよく知っているから。
あの木陰で笑い合ったのはやっぱり夢だったような気がする。それでもよかった。自分だけが覚えていれば。暑い夏が来るたびに思い出す、飴玉のような記憶。だけどもし、いつかまた彼女と会うことがあったら聞いてみてもいい。
——あの日のことを、覚えていますかと。
3.
「あっついな……」
歩き始めて数分で出た弱音に、隣を歩く永浦百音が笑った。
「だから言いましたよ。タクシーで行こうって」
「久しぶりだからあなたと歩くのもいいかなと思ったんです。でも忘れてたな、この暑さ」
額の汗を拭いながら雲一つない青空を見上げて菅波は苦笑した。
登米に来るのも二年半ぶりだった。
昨日は気仙沼で百音とその家族に歓待を受け、今日は登米でサヤカたちに挨拶をしてそのまま登米市のホテルに泊まる予定である。気仙沼から登米までは百音の運転する車で来たが、挨拶と言ってもどうせ登米夢想で酒を飲むことになるのだろうからと、先にホテルに車と荷物だけ置かせてもらい、暑いからタクシーで行きましょうと百音が言ったのに、まだ時間はあるから市バスで行こうと言ったのは菅波だった。
「先生、荷物私が持ちましょうか」
「あのねえ、多少衰えたとしてもあなたよりは体力ありますよ」
両手に分けて持っていた紙袋を右手にまとめ、左手でくすくす笑う彼女の手を取った。
紙袋には大学病院の同じ科のスタッフが選んだ土産物がたくさん入っている。この二年半というもの、登米夢想から大学病院に、中村と菅波の連名を宛先に定期的に地元の食べ物が送られてきていた。それはそのまま職場で配られ、外食もままならないスタッフたちを大いに喜ばせていた。今回菅波が登米に挨拶に行くと聞いたスタッフたちは少しでもお礼がしたいとあれこれ買って菅波に託したのだった。
「縁というものは不思議なものですね」
「え?」
「最初は中村先生が東北のどこだがに診療所作ったって聞いて、またスタンドプレーで変なことやってるな、巻き込まれないようにしよう、というのが僕も含めた大学病院のスタッフの総意だったはずなんだけど」
「先生はばっちり巻き込まれちゃいましたね」
「僕はまあ不本意ながらそうだね。でもこの二年半でうちのスタッフもすっかり宮城のファンになってるよ。行ってみたい旅行先ナンバーワンだそうです」
「わっ嬉しい!」
「こっちを手伝ってみたいというスタッフもいます。今後もよねま診療所は安泰だと思いますよ」
よかったと微笑む百音を見て、それこそ彼女と自分の縁もここで始まったのだと菅波は感慨深く思わずにはいられなかった。
と、その時、あ、と何かを見つけた百音が手を離れて二、三歩先を行った。そして振り返り笑ってその先を指差した。
「先生! 覚えてます?」
「え? ……あ!」
ガードレールの隙間。
苔むした石段。
登米を離れてからはすっかり忘れていたあの小さな思い出。いつか会えたら聞こうと思ってそのひと月後には再会したのにこっちの記憶からもすっかり抜け落ちていた。
あの日あんなに探しても見つからなかったのにそれは当たり前のように目の前にある。
見つからなかったあの日の方が幻だったのか?
……まったくもって、納得がいかない。
「あの、あなた覚えてるんですか?」
「……? 私が聞いたんですけど……」
不審げな百音を置き去りに菅波はガードレールに手をかけて下の方を見下ろした。苔むした石段を降りた先に小川が流れているのがちらりと見える。
やっぱりあれは、幻じゃなかったんだ。
「降りてみますか?」
隣で悪戯っぽく見上げて笑う百音を見て、あの日見た夢の中身まで見透かされたような気がして菅波は内心で慌てた。
「あっでも、みなさん待ってるだろうし」
「そうですよね。じゃあ、またいつか」
残念そうにそう言った百音と見つめあって小さく頷き、再び歩き出した。
が、数歩歩いたのち立ち止まったのは菅波だった。
「先生……?」
「あ、いや。うん。なんか、またいつかって言うのが、ちょっと、」
……嫌だな、という言葉は口にできなかった。
辞めていくスタッフに労いの言葉をかけ、助けられなかった患者を見送って、『いつか』を心の支えにしながら『いつか』は本当はもう訪れないんじゃないかという不安が常に頭のどこかにあり続けた二年半。疲れ果て充電の切れたスマホの暗い画面を見ながら、全部幻だったんじゃないかと思ったこともある。出会ったことも、思いが通じたことも、結婚の約束も、全部。
だから今は『またいつか』なんて曖昧な願いを心に残しておきたくなかった。できることは何でもやっておきたい。『またいつか』を信じられる余裕が、感染病の最前線で闘い続けた菅波にはもうなかった。
そんな気持ちを唐突に自覚し、さてどう話そうかと言葉を探し視線を散らしていると、ポンと百音が目の前に飛び込んできた。
「……やっぱり5分だけならいいんじゃないですか?」
そう言ってガードレールの隙間を指差す。まるで考えを読まれたようだった。どうしてわかってくれるんだろうと思ってすぐにその答えを知る。
——きっと同じ怖さを知っているから。
いつの間にこんなに強くなったんだろうと思うほどに支えられてばかりの二年半だった。だけど彼女だって、『いつか』を待ち続けることに疲れたり、『いつか』なんて本当は来ないんじゃないかと不安に思うことがなかったはずはない。
なのに彼女はこの二年半、僕の手を離そうとはしなかった。一度も。
ふと堪らなくなって引き寄せ、ぎゅうと抱きしめた。持ったままの紙袋がガサガサと音を立ててなんとも格好が悪い。情緒不安定な自覚はあった。腕の中で百音が笑って、あやすように背を抱き返してくれる。
「……光太郎さん、どうしたの。誰かに見られちゃったらどうするんですか」
「こんな暑い日なんて誰も歩いてない。……それに万が一、誰かに見られても問題ないはずです」
「それはそうですけど、……でも、暑いです」
「それは、確かに」
その苦情は正当なものだったので、彼女の首元に埋めていた頭を上げ、見つめ合って笑う。
「じゃあ、涼みに行きましょうか」
「はい、5分だけですよ」
手を取り合ってまたあの石段に足を踏み入れる。降りていけば、もう来ることはないと思った、あの秘密の場所がある。
もう幻ではないと確かめたくて、階段を後ろからついてくる人と繋いだ手に力を込めた。
永浦百音とここ登米で出会ったことも、気象予報士試験の勉強に付き合ったことも、彼女を登米から送り出したことも、東京で再会したことも、そして彼女に恋したことも、その恋が叶ったことも全部、幻じゃなかった。
それでも結局、モネ、と呼ぶことはなかったなと、唐突に夢の最後を思い出して菅波は一人で小さく笑った。