#4 電報と2ドル モノクロームのようだった海辺の町の景色がうっすら色づき始めた春先のことだった。
町の本屋から出てきたリョウが、よく見知ったコート姿を見かけてあれっと目を止めた。よく見知った、というかそれはリョウ自身のコートでそれを着ているのはリコである。ボーイッシュな格好を好むリコと最近は服を交換して着るのが二人だけのブームだった。
小さなビルジングから出てきたリコは肩を落とし、はあとため息をついている。いつもは弾むようなその足取りが珍しく重い。
後ろから追いついたリョウがポンとリコの肩を叩くと、振り返ったリコが目を見開いて驚いた。
「リョウ! どうしたのこんなところで」
「僕は本屋。君こそどうしたの」
「あー……えっと………」
珍しく何か言い淀んでいる様子を訝しんでリコが出てきたビルジングをリョウが見上げると、二階にはデンタルクリニックの看板がかかっている。
「……虫歯?」
「違う。私が行ったのは二階じゃなくて三階。……あぁリョウ、これ話さなきゃダメ?」
「もちろん、君が話したくなければ無理には聞かないよ。でも……」
少し唇を尖らせたリョウの顔には素直に「聞きたい」と書いてある。リョウの腕をとったリコは苦笑しながら観念した。
「そうね、親友である私たちの間に秘密は無しだわ。でも他の人には秘密よ。守れる?」
「もちろん!」
並んで歩き出しながらリコが話し始めた。
「今行ってきたのはね、新聞社。私が書いた原稿を二本、預かってもらったの。掲載してくれるかどうかはまた改めて返事してくれるって」
驚いて立ち止まったリョウは大袈裟な仕草でリコを抱きしめた。
「リコ! 凄いじゃないか! 君の書いた物語は面白いから絶対に掲載されるにきまってる! 小説家、リコ・マーチの誕生だ!」
すっかり浮かれたリョウが道の真ん中で今にも踊り出しそうなのにリコは呆れてその腕を軽く叩いた。
「落ち着きなさいよ。まだわからないって。……でもね、今日は私の第一歩なの。私はやっぱり小説で稼いで家族を支えたい。だからこれからも、何度だって原稿を持ち込むわ。この町の新聞社だけじゃなく、いつかはボストンの出版社にも。こんなのダメだ、下手くそだって、何回突き返されたとしても、絶対に絶対に諦めない」
リコの決意表明にリョウも感銘を受け、君は素晴らしいよともう一度抱きしめた。
「はー! なんかホッとしたしテンション上がってきちゃったー! ね、家まで競争する? よーいどん!」
あっという間に走り出したリコに、ズルだ!と叫びながらリョウが追いかけた。二人は笑いながら走りまくり、髪振り乱して汗だくでマーチ家に辿り着くとその酷い有様にミドリから叱責を受けることになった。
それから二週間後、リコの物語はリコ・マーチの名前とともに町の新聞に掲載され、その新聞を見て初めてリコとリョウがソワソワしていた理由を知ったマーチ家とローレンス家は喜びに沸いた。
「最初に載せる原稿は原稿料なしなんですって。でも2本目からはいくらか支払ってもらえるそうよ。たくさん書いて、たくさん稼ぐからね」
リコは誇らしげにそう宣言した。
実際のところ、2本目の原稿に支払われたのはたったの2ドルぽっちで、家計の助けになればとやっている家庭教師の真似事や針仕事なんかよりずっと少ない金額であった。でもその初めての2ドルはリコの大事な宝物となった。
その恐ろしい電報が届いたのは、リコが初めて原稿料を稼いだ日からすぐのことだった。
ワシントンの病院から届いたその電報は、牧師として従軍しているマーチ家の主、コージーが重い病に倒れているという知らせであった。立ちくらみを起こしたアヤコ夫人をリョウが慌てて側に駆け寄って支えた。
しばらくして落ち着いたアヤコは娘たちを側に呼び寄せて語りかけた。
「明日から私はワシントンに向かわなければなりません。お父様の看病に必要なものを手分けして手に入れてちょうだい」
細々とした指示を受けた姉妹は早速自分のすべきことに取り掛かり、リョウもマダム・サヤカに事の次第を報告に行った。
ミドリは少し休みたいと言うアヤコをベッドルームまで連れ添って細々と世話を焼き、それから急にがらんとした階下に戻ったが、耐えきれず玄関から外に出た。
(どうして、あんなにお優しいお父様が…!それにお母様まで行ってしまわれるなんて……)
もう会えないのではないか。突然の不安に思わずしゃがみ込みそうになったところを両腕を掴まれた。
「……あ、」
「大丈夫ですか?……いや、こんなときに口に出すべき言葉じゃなかったな……」
ミドリを支えていたのはアサオカだった。いつもと違った険しい表情に、ことの次第が伝わっているのを理解する。
「マダム・サヤカに言いつかって、お母様をワシントンまでお送りすることになりました。向こうでも可能な限りお母様を手助けしますので」
「……ほんとう、ですか? あぁ、なんと心強いんでしょう!」
ミドリの瞳からポロポロと安堵の涙が流れ出した。
「とりあえず明日からのスケジュールをお母様と打ち合わせたいです。いいでしょうか?……あ、すみません」
そう言ってアサオカは支えるように掴んでいたミドリの腕を解放した。
いつもは揶揄うような笑みと同時にどうぞと腕を差し出してくるのに、……そして今なら抱きすくめられても抵抗しないのに、こういう時は適切な距離をを重んじてくれるのだなと、アサオカの意外な誠実さにミドリは心が救われた気がした。
マーチ家にとって長すぎた一日の、日も暮れて宵の入りの頃だった。
翌朝早くからの出立に向け、マーチ家とナツ、サヤカとリョウとMr.アサオカがマーチ家のリビングに集まっていた。が、そこに一人だけ欠けている人物がいる。
「リコはどこいったの」
サヤカが苛立ちを含んだ声で問うと、ボストンの知り合いに電報を頼んだのだけど…とアヤコが首を傾げた。
「まあいいわ、とりあえず明日からのことだけど、」
とサヤカが取り仕切って話し始めたその瞬間、ガタンと玄関扉が開いてリコが飛び込んできた。
「あぁ、ごめんなさい遅くなっちゃって!これでも走ってきたのよ。皆さんお揃いね」
見渡してニコっと笑ったリコがアヤコのもとに駆け寄った。
「お母さま、これお役に立てて」
そう言ってリコが押し付けてきたお金を見てアヤコが驚く。
「これ…! 25ドルもあるじゃない、リコ、どうしたのこれ」
得意げに面々を見ていたリコが、じゃーん!と帽子を外して見せた。そこにいたのはまるで少年のようなショート・ヘアのリコ。
「髪を売ってきたの。でもね、最初は私の髪の色は流行じゃないからって、向こうも買うの渋ってたのよ。でも床屋の奥様に事情を話したら、買っておあげなよって味方してくださって」
ふふっと笑って見せるも、相変わらず場が固まっているのにリコは天を仰ぐ。
「……そんなに似合わない? 自信なくしちゃう」
一番に動いたのはリョウだった。リコをぎゅうっと抱きすくめて言った。
「君が誇らしい。そしてこの髪型、君にとっても似合ってる」
「でしょ?」
少し体を離して目を合わせた二人は額を合わせてふふっと笑った。それから姉妹たちと母も駆け寄ってリコを抱きしめた。
その夜、リコは一人ベッドで泣いた。
髪が惜しかったのではない。
今の自分がそれなりのお金を準備しようとした時、頭を下げて人に借りるか、さもなくば髪を売るしかないという事実が、あまりに悔しくて泣いた。
先日初めてもらった原稿料の2ドルを入れた空き瓶を暗がりの中でじっと見つめる。
大丈夫。書きたい物語は頭の中に詰まっている。私はもっと書けるはず。もっともっと稼げるはず。
お母さまとお父さまが戻られる頃には、この空き瓶を原稿料で一杯にしてやる、と胸に固く誓って目をぎゅっと閉じた。
アヤコ夫人とアサオカ氏が出立してから数日後の夕方、日を暮れかかる頃にスガナミがマーチ家の前を通りかかると、門のところにモネが俯いて立っているのに気付いて自転車を止めた。ハッと顔を上げたモネがスガナミの顔を見てちょっとガッカリとした表情を浮かべた。
「モネさん、でしたよね。こんな時間に何してるんですか」
「……郵便が来ないか待ってるんです」
牧師として従軍している父が重い病にかかったこと、その看病のため母が現地に行ってしまっていること、父の病状を知らせる手紙が来ないか毎日首を長くして待っていることをモネはポツポツと話した。
「なるほど、それは心配ですね…。ですが今日はもうこんな時間ですし、郵便は来ないのではないでしょうか。少し冷えてきましたし、あまり長いこと外にいると風邪を引いてしまいますよ」
モネはため息を一つついて、ハイと頷いた。そして顔を上げるとそこにスガナミがいることを今さら不思議に思ったようだった。
「先生はこんな時間にどちらへ?」
「あぁ、急遽家庭教師を頼まれまして。お隣のローレンスさんのところです。仕事が忙しいので無理だと断ったのですが、来れる日だけでいいからと押し切られまして……」
サヤカさんですねと、モネがクスリと笑った。
「リョウの家庭教師の方はご親切に今うちの母に付き添ってワシントンまで行ってくれてるんです」
「ああ……それで」
そういう事情ならば無下に断らなくてよかったと菅波は思った。間接的にではあっても何らかの関わりが助けになるなら良い。そう思うほどには目の前のモネの心許ない様子が少し心配であった。
「手紙、早く来るといいですね」
そう言うとモネは少し嬉しそうにハイと頷き、そのまま視線はスガナミの自転車に降りた。
「……あの、これ、自転車って言うんですよね」
「そうです。新し物好きなDr.ナカムラが買ったものなんですが、本人はやっぱり馬の方が早いからと言って僕に押し付けてきたんです。まあ、僕はあまり馬と相性が良くないので、ありがたく使わせてもらってますが……」
モネはよほど興味があるのか、物珍しそうに目を輝かせて自転車を見ていた。
「……あの、乗ってみますか」
「え!?……そんな、無理です無理です」
モネはスガナミの言葉に飛び上がって驚き慌てて顔の前で手を振る。
「ああいや、運転ではなく、後ろに乗ってみますか、という意味です」
スガナミはそう言って自転車の荷台を指差した。
「町で子供たちに乞われて時々後ろに乗せてあげるんです。みんな喜びますよ。馬ほど危なくないですし。そんなに乗り心地は良くないですけど」
「……ほんとうに、いいんですか?」
いいですよ、とスガナミがなんでもないように言うのでモネも勇気を出し、それじゃあ、と頷いてみせる。
「あっスカートだと跨るのは難しいかな…横向きでそのまま腰掛けるように座れますか?そう、そうです。揺れるので僕の腰の辺り持っててください」
モネの細い手がちょこんと腰あたりに置かれたのを見て、いきますよーと声をかけたスガナミがぐいとペダルを踏み込んだ。予想より揺れるのに驚いたのか、ひゃあと小さな叫び声が聞こえて後ろから抱きつかれるような体勢になった。
「大丈夫ですかー?」
「は、はい! 怖くて目を瞑ってます!」
後ろは見えないが想像したスガナミがハハッと笑う。少しだけ振動に慣れたモネがおそるおそる目を開くと、馬車とは違う高さで景色が流れて行くのがなんとも不思議な感じだった。細いタイヤ二つで二人もの人間を乗せて走っている仕組みもよくわからない。だけど頬に当たる風の気持ちよさは格別だった。そのときになって自分がスガナミにべったり引っ付いていたことに気付いたモネが慌てて上半身を引いて腕を離した、その瞬間。
「うわっ!!」
道の真ん中にあった石にタイヤが突っかかって車体のバランスが勢いよく崩れた。モネがスガナミの身体から手を離してたのは良かったのか悪かったのか、モネの体は背中からポーンと勢いよく自転車の荷台から投げ出された。
モネが空に投げ出された瞬間に見えたのはオレンジ色に染まった空だけで、次に背中に衝撃を受けて反射的に目を閉じた。それからそろそろと目を開くとそこにあったのはたくさんの野草と花。……そうか、野草が群生してるところに落ちたのか、としばらくすると落ち着いた頭で理解できた。
「モネさん!」
とスガナミが草花の間から慌てた様子で顔を出した。
「大丈夫ですか、あっいやすぐ動かない方がいい。頭は打ちましたか。どこか痛みますか」
「……あの、大丈夫です。頭はちょうど柔らかいところに落ちたみたいで、背中が少し痛いですけど」
スガナミが背中に腕を差し込んで支えてくれたのでモネは上半身をゆっくりと起こした。どのあたりが痛いのかと背中を触りながらスガナミが確認するが、全体的にとしか答えようがなく、そもそもそんなに痛みは強くないと言うとスガナミはほっとため息をついた。
「医者に怪我させられたなんて洒落にならない。……本当にすいませんでした」
座ったまま深々と頭を下げたスガナミの髪に葉っぱが付いていたのでモネが手を伸ばして取ってあげると、ありがとうございます、とスガナミが照れたように笑った。スガナミもまたモネの髪を見て何か言いそうだったが結局は何も言わず、帰りましょうかと促して立ち上がった。
「先生、わたし初めて空を飛びました」
「は?」
「ポーンと」
モネが笑いながらそう言って荷台から指先で弧を描いてさっき落下したあたりを指し示すと、スガナミはなるほどと苦笑したのち真面目な顔に戻って、本当に怪我がなくてよかった、としみじみと言った。帰り道は自転車には乗らず、歩いて帰ることにした。頬を赤らめ少し興奮気味に初めての自転車について話すモネが楽しそうで、ほんの少しの間でも気が紛れたならよかったとスガナミは思った。
家に戻ったモネを見てミドリが目を細めた。
「まあモネ、可愛い。髪にお花つけて」
え?とモネが鏡を覗くと、さっき突っ込んだ場所に生えていた小さな黄色の花が左右に一つずつ髪を飾るように絡んでいた。
(さっき先生が私の髪を見て何か言いたそうだったの、これのことなんだわ……。子供みたいって思われたかしら。)
モネは恥ずかしくなって外した花を小さなグラスに飾った。それにしても、とさっき自分の身に起きたことを思い出すと信じられなくてクスクスと笑う。初めて自転車に乗った。初めて空を飛んだ。ここ最近ずっと沈みっぱなしだった心が柔らかく弾んでいた。久しぶりに弾こうかな、とモネの足がピアノに向かっていった。