トムさんの海 こちらですと看護師の案内した部屋の扉をスライドさせると窓からの光が白い部屋に反射して眩しく、一瞬目を細めた。
「モネちゃん!若先生!」
目が慣れて弾んだ声のほうに目を向けるとベッドの上からぶんぶんと手を振っている。
「トムさーん、ご無沙汰してすみません!」
「何言ってんのよー。来てくれただけでほんっと嬉しいよ。モネちゃん、今東京にいるんだって?こないだほら、コージーとあやちゃん来てくれたから。あ、座ってね。先生も!」
「ここすっごくいい部屋ですね。海が見えて」
高台にあるこの病院からは海が見渡せる。雲一つない青天であることも相まって窓からの眺めは格別だった。
「そうだろ、人生初のオーシャンビューだよ」
「羨ましいですー」
「向かいのベッド空いてるよ!なんつってな!」
ハハハと高笑いして随分はしゃいでいる。少し痩せたようだがこれだけ元気があるのは良かったと、菅波は幾分安心した。
いつものコインランドリーで顔を合わせた百音から、トムさん、という言葉を聞いて驚いたのが二週間前のことだった。田中の旧知の友人である彼女の両親が彼の転院したホスピスに見舞いに行ったそうで、その話を聞くと自分も久しぶりにトムさんに会いたくなった、という。
「あの、トムさん、大丈夫ですよね…?」
「……実は僕も近いうちに様子を見に行こうかと考えてて……あの、良かったら一緒に行きますか、見舞い」
紹介した仙台の病院では経過次第でまた登米に戻ってくることもあるだろうと定期的に主治医と連絡を取っていたが、そこからさらにホスピスに転院した以上、医者として自分にできることはもう何もなかった。
だが田中智久は菅波にとって少し特別な患者だった。
一度様子を見に行こうと考えていたのは本当で、だから百音の口からトムさんという言葉が出てきた偶然に驚いたのだった。突然の菅波の誘いに一瞬目を丸くした百音はすぐに、行きます、と二つ返事で答えた。
海をバックに二人の写真を撮りたいというので散歩がてら病院の庭に出てお望み通り写真を撮られたりしていると、菅波先生でいらっしゃいますか、と背後から看護師に声をかけられた。
二人に断って案内されるがままに付いていくと2階の広いベランダに出た。現在の田中の主治医でありこの医院の院長でもある医師はすでにそこにいて、まだ庭にいる田中と百音をにこやかに見おろしている。院長、と看護師が声をかけると振り返って笑顔のまま軽く頭を下げた。
「田中さん、面白い方ですね。茶飲み友達なんですよ。だから私も今日、菅波先生にお会いするのを楽しみにしてました」
「……え、僕ですか?」
「田中さんがね、菅波先生のことを何度も話してくれて。若いのにやたら真面目で、面白くもおかしくも無いって顔してるのに心根が優しいんだって。……迷っていいって言ってもらって肩の荷が降りたって言ってましたよ」
自分を奮い立たせて田中の店を訪れたことを思い出す。ここで何もできなければ自分は変われないだろうと思った。彼のためでもあったが自分のためでもあった。
「……今でもよくわからないんです。どこまで踏み込むべきか。……以前、大きく間違えたことがあって。もう踏み込むのはやめようと思っていた時期でした。でも……」
初対面の相手に思わず溢してしまったのは、親子ほど歳は離れているだろうキャリアの差がありながらフラットに丁寧に話しかけてくれるその知性が好ましかったからだった。言葉を探す菅波の意を汲むように話を続けてくれる。
「田中さんは当時ご家族とも疎遠で心細かったそうなんです。菅波先生の言葉に誠意を感じて嬉しかったんだと思いますよ。難しいですよね。こんな歳になっても毎回、悩むし考えますよ。……でも毎回、悩んで考えなきゃいけないと思うんです」
菅波は噛み締めて、はい、と頷いた。
それから二人は在宅医療や終末期医療についていくつか話をした。院長はすっかり菅波が気に入った様子で、質問や相談があればいつでも連絡してきてほしいと社交辞令ではない口調で言い、二人の医師は握手をしてにこやかに別れた。
病室に戻ると田中はベッドのリクライニングを倒して窓の外を見ていた。
「田中さん、大丈夫ですか。疲れましたか」
「……ちょっとね。でも大丈夫。あ、今モネちゃん、コーヒー淹れに行ってくれてるんだ。椎の実のコーヒーだって」
傍のパイプ椅子に腰を下ろすと田中がニヤニヤと笑ってこっちを見ている。
「先生さぁ、モネちゃんと付き合ってんの?」
「は……? 付き合ってませんけど」
「何でよー。他に彼女いるの?」
「……いませんけど。ていうか何なんですか。急に踏み込んでこないでください」
「生きてる間に聞けることは聞いておかないとなって」
「大丈夫です。そんなに元気なんだからまだまだ死にませんよ」
「命短し恋せよ若者。モタモタしてると他の男に持ってかれちゃうよ。あんなに可愛いんだから」
「………わかってますよ」
しつこさに眉を寄せ思わず本音を吐くと目を丸くした田中がひゃひゃと笑う。
「わかってんならいいや。……大丈夫。きっとうまくいくよ。先生とモネちゃん、似てるから」
「えっ」
うまくいくの根拠は、似てるとは何が、と慌てて聞き質そうとしたタイミングで百音が戻ってきて菅波は天を仰いだ。
仙台駅に着くと登米に向かう高速バスはあと15分ほどで出るようだった。
先生を見送ってから東京帰ります、と後ろをついてくる百音は病院を出てからずっと言葉が少ない。見送りなど不要だが、何か話し足りないような気がして付いてくるままにさせていた。バス停に着くとまだバスは来ておらず、とりあえず並んでベンチに座った。
「……わたし、実は先生に隠し事があって」
ん?と首を傾けて見ると申し訳なさそうに口をもごもごと動かしている。
「先生がトムさんのお店に来たことあったでしょう?……わたし、あのとき奥にいました」
「……それはつまり、立ち聞きをしていたと」
「すいません。……あのとき先生と、その、」
あぁ、と声にも出して頷いた。気不味くて避けていたのはむしろこっちだったことを思い出して居た堪れない気持ちになる。わざわざ訪ねたあの日も言うだけ言って逃げるように店を出た。本当にこの人には碌でもないところばかり見られている。
「最近、娘さんが時々面会に来られるそうなんです。お孫さん連れて。トムさんすごく嬉しそうに話してくださって。……よかったなって」
「そうですね」
「だから先生、ありがとうございます」
隣で頭を下げた百音が顔を上げてこちらを真面目な顔で見ていた。
どうしてそんなに他人のことまで抱え込んでしまうんだろう。自分だって色々あるのに。いつか壊れてしまわないかと不安になる。
「あ、いや、私がお礼いうのも変なんですけど、でもやっぱり先生があの日、トムさんにお話ししてくれたから今があるんじゃないかなって。それは私とトムさんしか知らないから。だから改めてお礼が言いたくなって、それだけです」
それは結果論だとか、仕事なのだから礼を言われる必要はないとか、返す凡庸な言葉がないわけではなかった。だけど返したくなったのは別の言葉だった。ずっと言いそびれていたこと。
「……僕もあの頃、あなたに言われたことが支えになってます。ありがとうございます」
軽く頭を下げてから見ると、予想通り鳩が豆鉄砲を食ったようような顔になった百音を見て笑う。ちょうど良いタイミングで待っていたバスがロータリーに入って来たので立ち上がった。
「あの、先生、何ですか、私が言ったことって」
「忘れたならいいです。大したことじゃないので」
「大したことじゃないって、だって、気になります、教えてください」
「教えません」
「え、なんで」
「……立ち聞きの仕返しです」
続きを言えなくなった彼女に、気をつけて帰ってください、また東京で、とだけ言って背を向けそのままバスに乗り込んだ。
窓際に座って窓の外を見ると案の定、眉を寄せ口をへの字に曲げてこちらを睨む、絵に描いたような不満を表現してる彼女に笑う。
百音はスマホを取り出し何やら操作した後、スマホを振ってみせる。同時に自分のスマホが震えてメッセージの到着を知らせた。開いて見ると、
─────────────────
これじゃ気になって眠れません。
教えてください!
─────────────────
とある。もう一度外を見るとまだ眉を寄せてこっちを見ている。スマホに視線を戻して返事を入力し始める。
─────────────────
眠れないならちょうど良かったです。こちらに来る道中はぐっすり眠ってらっしゃいましたが帰りは一人なので迂闊に寝ないようにしてください。前々から気になってたのですが永浦さんは警戒心が足りないと思います。コインランドリーでもよく寝ているでしょう。不特定の人間が出入りする場所ですよ。盗難はもちろん、盗撮や痴漢の危険性もゼロではありません。今度寝てるのを見かけたら叱りますよ。それでは気をつけて帰ってください。
─────────────────
それだけ書いて送信ボタンを押した瞬間、バスが動き出した。窓の外を見てスマホを振る。慌ててスマホを見る彼女を置き去りにバスはロータリーから出た。読み終わってますます怒っただろう彼女が見られなかったのは残念だが想像してまた笑った。
わざと長文で送ったのはヒントのつもりだった。思い出しても思い出さなくても良い。思い出したところで拍子抜けするだけだろう。
『……先生が患者さんのこと考えてないっていうのは、違うと思います』
自分の良くないところだと思っていたところを、そうではないと否定された。たったそれだけのこと。
そのときは、意外なことを言われた、くらいの受け止めだったが、やがてそれは何度も繰り返し思い返すことになる。彼女の思う「先生」でありたいと、それはいつしか心の中の指針となって医者としての迷いを晴らしていた。
「あなたのおかげで」あの日々から抜け出せたと、いつか伝えることはできるだろうか。
やっぱり「うまくいく」の根拠を聞いておくべきだったなと自分の意気地のなさに小さく笑った。
後日。
菅波はよねま診療所に自分宛に私信が届いているのに驚いて手に取り、封を裏返すと田中の名前があった。中をあらためると写真が数枚と一筆箋が一枚入っている。
─────────────────
菅波先生、先日はお見舞いに来てくれてありがとう!
写真を送ります。
2枚ずつ入れたので1枚はモネちゃんに渡してください。
うまくやんなよ!
─────────────────
最後の一行に、余計なお世話、と呟いて菅波の口元が緩んだ。と、その次の瞬間、隣からニュッと手が出てきて写真が奪われる。
「え、」
奪った佐々木が写真を見ながら、へ〜え?は〜あ?なるほど〜〜???とわざとらしい声を出しながら診療所から出ていくのにわっと森林組合およびいつもそのあたりにいる人々が飛びつく。
「あの、違うんです、病院に、お見舞いに」
追い縋る菅波の声は「これ、デートでしょう」「完全にアベックだべ」「海をバックに記念写真なんてかわえぇなぁ〜」「掲示板に貼っでおごうかねぇ」という人々の声に完全に無視されていた。
同じ頃、田中は二枚の写真を両手に持って眺めていた。一枚は耕治と亜矢子、もう一枚は菅波と百音がまったく同じ場所で写っている。
ぴたりと寄り添った耕治たちと違って、微妙な距離を空けて写っている若いカップルを見て口元がにやけた。
「……ニコイチってのは、どっか似るもんなのかねぇ」
若いんだからもっと我儘に生きればいいのにと田中は思うが、クソ真面目で人のことばかり心配しているこの二人のことが好きだった。
わかってますよと眉を顰めてそう言った菅波を思い出し、若いねぇと内心で思ってくっくと笑う。きっと大丈夫だよ、先生。
写真から目を離して窓の向こうの青い空と海を見る。若い二人の未来の幸せを無言で祈った。