#3 邂逅 それはマーチ家の歴史に残る姉妹喧嘩となった。
事の発端はリョウが町で評判の舞台にミドリとリコを誘ったことに起因する。ミドリとモネ、リョウとアサオカ氏の四人で出かけることになっていたのだが、当日になってミイが自分も行きたいと言い出した。いきなりそんなこと言ってもチケットは四枚しかないから無理、とリコは言い放ったがそれでもミイは諦めなかった。そのあまりのしつこさに見かねたミドリが、じゃあ私の代わりにミイを、と言い出したがリコはそれも絶対にダメだと譲らなかった。今夜のお出かけにミドリは絶対参加してもらわねばならなかったからだ。しかしその理由は言えなかった。
要はアサオカ氏のミドリへの好意に気付いたリョウが、この四人でのお出かけならミドリもリラックスしてアサオカと話せるのではないかとおせっかいを焼いたのである。アサオカの気持ちはリコもうっすら気付いてはいたのでそう驚く話ではない。とはいえリコにはアサオカに協力する義理は何もないわけで、そもそもアサオカに限らずミドリに恋人ができるのは嫌だった。だが今回はこの計画にすっかり興奮しているリョウに、一度だけだからと説き伏せられてしぶしぶ協力を了承したのである。
だからミイの我儘は受け入れられなかったし、かと言って自分のためのチケットを譲るなんて気持ちもさらさらなかった。リコもこの話題の舞台は絶対に見たかったからである。しかしミイから見ればこのリコの振舞いは大変な理不尽であった。
「絶対許さないから……」
そう言ってミイが踵を返して自分の部屋に戻ったのがリョウたちが来る前でよかったと、リコは胸を撫で下ろした。
が、話はそこでは終わらなかった。
翌日、いつもの場所にあるはずの原稿がそこにないことに気付いたリコが大騒ぎして探し回っていると、同じように探してくれるミドリとモネとは違って、我関せずとソファに座ったまま本を読んでいるミイにリコは詰め寄った。
「……あんた、私の原稿どうしたの」
ミイは無言で暖炉を指さした。叫び声を上げたリコはミイを一発引っ叩いてから大泣きした。
リコの嘆きように本気で反省したミイは心から何度も謝ったが一晩明けてもリコは許さなかった。いつも暖かいマーチ家にぎこちない空気が流れていた。
数日後、リョウがリコをスケートに誘いにきた。暦の上ではもう春に近かったが今年一番の寒波がやってきたせいで近くの池が凍っているという。鬱々していたリコは喜んでスケート靴を掴んで飛び出した。
リコと同じくらいスケートの大好きなミイがその様子を黙ってじっと見ていたが、二人が出ていくとミドリがミイに優しく声をかけた。
「そろそろ許してくれる頃合いだと思うよ。一緒にスケートしてきたら」
ミイはしばらく視線を彷徨わせていたが、意を決して立ち上がるとスケート靴を持って二人を追いかけた。
リコはミイが追いかけてきていることはとうに気付いていたが、それは無視して先に滑り出したリョウの後を追った。池の真ん中は氷が薄いから端のほうを回ってきて!とリョウが叫んだのも聞こえただろうかとちらりと振り向くと、まだ池の端でもたもたとスケート靴を履いている。
仲直りのタイミングを探していたのはリコも同じだったが、自分から話しかけたくはなかった。追いかけてきて何か話しかけてくるから返事をしてやってもいい。
(リョウがきっと気を利かせて取り持ってくれるだろうし……)
そう考えながらひたすらに足を動かしていると、突然背後からパリパリっと氷の割れる音がした。振り返ると、叫び声を出す間も無く冷たい池に呑まれて空を掴もうとするミイの両手だけが見えた。
切り裂くような叫び声を上げたのはリコだった。
その声を聞いて戻ってきたリョウが状況を把握し、あっという間にミイの溺れる氷の裂け目の側まで寄って腹這いになる。
そこからはもう必死だった。
リョウの指示で池周りにあった柵を引っこ抜き、差し伸べられたその長い板をミイの手が何とか掴んだ。冷たい池からミイの体を必死でずるずると引き出し、陸地まで連れて行ってなんとか横たえた。ずぶ濡れで真っ白なミイの顔を見てリコの手がガタガタと震え出した。
と、そこへ突然、長身の男性が現れた。
「濡れた服を脱がせてください!」
男がそう言いながらミイのコート、セーター、と衣服を勝手に剥ぎ取っていくのに、えっちょっと!と声をかけるも、
「僕は医者です! それよりスケート靴を脱がせて!」
と指示され、リョウとずぶ濡れのスケート靴を片足ずつ難儀しながら外す。諸々脱がされたミイを男は自分の脱いだコートでまるっと包みこみ、抱き上げた。
「ご自宅は近くですか」
こちらですとリョウが走り出し、ミイを抱えたその男も走り出した。リコも数秒遅れてその背中を追いかけた。
リコが家の中に飛び込むと男はすでに暖炉の前でミイを座らせ、あちらこちらに指示を出している。
「乾いたタオルをありったけ、あと毛布を2枚ほど持ってきてください。それからお湯を沸かしてください。たらいにぬるま湯を張って足を温めます。あと温かい飲み物を。君、申し訳ありませんが池のそばに倒した自転車のカゴに黒いバッグが入ってるから持ってきてもらえませんか。医療用具が入っているので」
わかりました、とリョウがまた家から飛び出していく。ミドリとナツも慌ててリネン室と台所に向かった。
それと君、と男はすぐ側で半泣きでミイの手を取っていたモネに話しかけた。
「手を強く摩ってあげてください。それから大きな声で名前を呼んであげて」
ショックで棒立ちだったリコもようやく我に帰ってミイの側に駆け寄って座り込んだ。蒼白な顔色で人形のように静まり返ったミイを見てまた寒気と涙がぶり返す。
「先生、ミイは」
「いいから手足を摩ってください!」
苛立たしげな指示を受け、リコは泣きながらミイの足を摩った。
(あの時ちゃんと気を付けてあげればよかった。ミイは大事な妹なのに、私はなんて酷いことを…!)
近くの椅子を引き寄せてミイの背の支えとした男は、前に回り込んで、ミイさん!と大声で呼びかけながらその頬を張る。何度か強めに平手が頬に打たれたのち、ハッと目を開いたミイがひゅうっと息を大きく吸った。と同時にミイの体が激しく震え出した。
「先生!」
何か良くないことが起きたのではと一気に緊張した面々とは正反対に、はあっとため息をついて肩を落とした男を全員が見つめる。
「……もう大丈夫です。あとは体の震えが止まるまで温めてあげてください」
とは言ったものの、結局たらいの温度を確かめたり、熱すぎない白湯を飲ませたりと細々とした世話を焼き、最後に黒いバッグから取り出した聴診器でミイの胸の音を確かめ、ようやく男は立ち上がって辞意を示した。
全員がミイにかかりきりななか、母親であるアヤコが不在の状況で、自分が家長として振る舞うべきであることに気付いたミドリが男の後を追って玄関まで来た。
「あの、お医者様でいらっしゃるとか」
「ああ、はい、申し遅れました。スガナミといいます。Dr.ナカムラはご存じで…?」
「ええ! 何度か来ていただきました」
「Dr.ナカムラの代理でしばらくこの町にいます。住所は同じなので、もし妹さんの容体に不安があればいつでもご連絡ください。それでは」
そう言って踵を返したが医師はすぐ振り返って眉を寄せた。
「あの……いくらこの数日が寒かったとはいえもう3月です。池に氷が張ったとしてもその氷は薄いはずだ。スケート遊びは真冬だけにしたほうがいいかと。あっでも1月や2月だからといって確実に安全ということもなく、やはり気温のチェックと氷の目視が重要なのですが、日照時間によってはまさに今回のように池の一部だけ氷が薄くなってる場合も多々あります。つまり池に張った氷の上でのスケート遊びは常に危険が伴うということを今一度、妹さんたちにもお話ししてもらったほうがいいと思います」
ミドリが目をパチパチさせながら黙って聞いていると、あ、とにかくお気をつけて、と慌てたようにそう付け加えてスガナミが再び踵を返して帰っていった。
(ずいぶん真面目なお医者さまだわ…)とミドリはクスリと笑って見送った。
翌日、昼前にスガナミがマーチ家の扉をノックした時、家にいたのはモネとミイだけだった。ミイはベッドにいたので必然的にモネが出てそこにいたスガナミと対面することとなった。
「……あの、昨日こちらに」
「あっはい、……昨日は本当にありがとうございました」
モネは深々と頭を下げた。昨日はミイの顔ばかり見ていたので医師の顔を初めて見るような気がする。モネはそう思って改めて顔を見つめていると少し居心地悪そうにスガナミが視線を逸らした。
「あ、ミイさんのご様子は……」
「今日はまだベッドで寝たり起きたりしてるんですけど、顔色が良いので大丈夫だろうと、母が」
「それはよかった。……ところで昨日僕、こちらにコートを忘れていきませんでしたか」
「あっはい。少々お待ちください」
モネは部屋にとって返し、扉にかけていたハンガーから医師のコートを取ってまた玄関に戻った。
「ありがとうございます。あっ……もしかして、綺麗にしてもらったりしてます? あ、ボタンも」
早速コートに袖を通したスガナミは裾や袖口の変化に直ぐに気付いた。昨夜はずっと暖炉の前のソファで寝ていたミイの様子を見ながら、モネは医師の忘れていったコートの目立つ汚れを落としたりとれかけのボタンを付け直したりと細々とした手仕事をしていたのだった。そもそもずぶ濡れのミイを包んでいたせいでかなり濡れて皺になっていたので、せめてもの恩返しの気持ちでできる限りのメンテナンスをした。
「……すみません、勝手に」
「いえ、助かります。ありがとうございます」
医師が照れくさそうに少し笑ったので、モネもホッとして笑った。
「あ、申し遅れました。医師のスガナミと言います。ナカムラの代理でしばらくこの村にいます」
「モネです」
今さらながらスガナミが頭を下げたのでモネももう一度深々と頭を下げて挨拶した。それでは、と去ろうとしたスガナミが振り返った。
「あぁそうだ、ピアノを弾かれてるのはどなたですか?」
「………あ、姉、です」
「そうですか。前を通りかかるときに時々自転車を止めて聴かせてもらってます。とてもお上手ですね。いや僕は音楽のことは何も詳しくないのですが」
あ、それは別に伝えなくていいです、とスガナミは恥ずかしそうに言って、それでは、と再度言って本当に去っていった。
門の前に立てかけていた黒い自転車に乗って、慣れないのかどこか不安定な様子でキコキコと漕いでいく背中をモネはずっと見ていた。
モネは自転車を見るのも初めてだったし、自転車に乗っている人を見るのも初めてで物珍しかった。
(いつか私も乗れるかな…)
そんなことを思ってふふっと笑った。
その夜、モネはふとスガナミのことを思い出して首を捻った。
(わたし、あの人とお喋りするのに緊張しなかったわ。知らない人と話すのは今でもまだ苦手なのに。ミイを助けてくれたからかしら…)
ピアノを褒めてもらったことも思い出し、面はゆい気持ちになる。練習もっと頑張らなくちゃと久しぶりに気持ちが浮き立っていた。