#2 マダム・サヤカと四姉妹 ガーディナー邸のパーティーからすぐにマーチ家とローレンス家の交流が始まった。
誰に対しても優しく腰の低いリョウはマーチ家の面々にあっという間に気に入られた。リョウはリョウで年の近い姉妹たちとの会話が楽しく、アヤコへは失った母の情景が重なるようで最大限の敬愛の情を示し、毎日のように訪問してはマーチ家に自分の居場所を作って居心地が良さそうにしている。
マーチ家の娘たちも折を見てローレンス家を訪れ、マダム・サヤカにお目通りをした。マダム・サヤカはミドリもリコもミイも大変気に入った様子で隣人の娘たちの自由な出入りを許可した。何より、この家に来てからというものずっと物憂げだったリョウが人が変わったように明るくなったのを見て、(この子に必要だったのは友達だったのだ)とサヤカは内心でホッと胸を撫で下ろしていた。
ローレンス邸には本の虫であるサヤカが集めた本を並べた壁一面の書棚のある図書室があり、好きに借りていいと言われたリコは卒倒しそうなほど喜んでサヤカを笑わせた。ミイはミイで、サヤカが温室で育てている珍しい植物に興味津々で温室に入り浸っている。
ミドリは少々様相が異なっていた。贅沢な生活に憧れのあるミドリはもちろんお隣に遊びに行きたいのだが、行けばある人物に構われることに困惑してだんだん足が遠のいていた。ある人物とは、リョウの家庭教師であり、ガーディナー邸のパーティで出会ったアサオカ氏である。ミドリがローレンス邸に出向かなくなると、今度はアサオカがリョウと連れ添ってマーチ家にやって来るようになった。アサオカはリョウを上回るホスピタリティであっという間にミドリ以外のマーチ家とナツから全幅の信頼を得てしまった。
何かを言われたわけではない。ただ好意を向けられていることはわかる。しかしアサオカはこの町の人間ではないし、そのスマートな物腰はいかにも“都会の人”な感じがした。その笑顔とダンスでガーディナー邸のパーティーでも彼は一番人気だった。
(何を好き好んで私なんか…きっと揶揄われてるんだわ…ひどい人)
そう思って、心を許さぬようミドリは気を引き締めていた。
そんな姉妹たちの中でローレンス邸を未だ訪れていないのはモネだけだった。
もとより人見知りであるのに、わざわざ自分から訪ねて行って挨拶するのはあまりにハードルが高い。マダム・サヤカは時折マーチ家を訪れてお茶をご馳走になっていたが、その時も恥ずかしくてモネは部屋に篭っていた。
しかしそこまで避けられると逆に揶揄いたくなるのがサヤカという人間である。
何度目かマーチ家を訪れたサヤカはモネが珍しく自室に篭らずにダイニングに続くキッチンに逃げ込んでいるのを確認し、アヤコといつものように子供たちの話をしながら、ふっと会話が途絶えた時に少し声量を上げて話し出した。
「そういえば最近はリョウもちっともピアノを弾かなくなってしまって、毎月ちゃあんと調律してもらってるのに使われてないのが何だか申し訳なくてねぇ。おたくの娘さんたちにピアノを弾ける子はいなかったですよねぇ」
ガタリ、とキッチンの方から何やら音が聞こえた。
「私はピアノの音好きなんですけどねぇ。だーれも弾かないピアノならどっかに寄付してもいいんじゃないかって、」
その時、転がるようにキッチンから飛び出してきたのはモネだった。頬を真っ赤に染めている。わかりやすく餌にかかったのを笑い出さないよう、サヤカが唇をキツく結んだ。
「……あの、私は、モネ、といいます。……立ち聞きしてしまって本当に申し訳ないんですけど、その、もし、ピアノをどこかに寄付されるのでしたら、その前に一度、弾かせていただけないでしょうか……!」
今にも泣き出しそうなキラキラした瞳でそう言ったモネは深々と頭を下げた。
サヤカはアヤコと目を合わせてニヤリと笑った。モネについて二人で話し合ったことはないが、アヤコも何かきっかけがあればと思っていたようで、サヤカの笑みに追従するように黙って口角を上げる。
「……朝の9時から夕方の5時までは出入り自由。挨拶もいらないよ。ピアノのある部屋からは私の部屋もリョウの部屋も離れてて誰にも聞こえないから、好きに使って」
そう言ってサヤカが立ち上がると、ハッとモネが顔を上げた。じゃあね、とサヤカが優しく笑って背を向けた。あ、あ、とモネが追い縋ろうとした時にはすでに扉は閉じていた。
翌日からモネはローレンス邸に静かに入って美しいグランドピアノを鳴らした。ピアノの上には楽譜がたくさん置かれていたので飽きることはない。しばらくした頃、するりと部屋に入ってきたリョウが同じ部屋の中にあるレコード棚とプレイヤーの使い方を教え、モネはますます多彩な音楽の世界にのめり込んでいった。
モネは知らなかった。時折こっそりサヤカがドアを開け放ってモネのピアノを楽しんでいることを。
それからしばらくして、マダム・サヤカに感謝して何かプレゼントをしたい、というモネの申し出に他の姉妹も諸手を挙げて大賛成した。あれやこれやと話し合ったのちに、プレゼントは刺繍入りのスリッパに決まった。リコとミイがデザインを決め、ミドリが材料を買いに行き、モネが心を込めて刺繍した。数日後にそれは完成し、リョウによってそのプレゼントはサヤカの枕元に運ばれた。
その数日後、サヤカから何のリアクションもないことにモネは内心でがっかりしながら、ご迷惑だったかもしれないという不安が増してきた夕方だった。
近くにお使いに行っていたモネが戻ってくると窓からミイが大きく手を振っている。早く早く、と必死に手招かれるのに驚き、少し小走りになって家に戻った。
「あぁ、もう、モネ、気を失わないで」
「余計なこと言わないのミイ、大丈夫だから」
「モネ、いったん深呼吸して」
大騒ぎの姉妹に笑いながら、言われた通り深呼吸をする。次の瞬間、姉妹が道を開けて見せてくれたのは、このマーチ家に運び込まれた、小さなアップライトピアノだった。あ、と息を止めたままおそるおそるピアノに近付く。ポーンと音を鳴らした瞬間、崩れ落ちそうになったのを姉妹たちが慌てて支えた。
「マダム・サヤカからお手紙よ」
そう言って渡された手紙を、モネは震える手で開いた。
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Dear.モネ
素敵なプレゼントありがとう!
こんな気持ちのこもったプレゼントはいつ以来でしょう。
とても暖かく、サイズもぴったりです。
刺繍してくれたのは薔薇の花でしょうか。
私の一番好きな花です。
お返しに、孫娘が子供時分に使っていたピアノを贈ります。
あなたが気に入ってくれますように。
サヤカ
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モネは手紙を読んでしばらく呆然としていたが、ハッと顔を上げると慌てて家から出て、雪に足を取られながらも必死に足を動かしてローレンス邸に向かった。中へ入ると待ち構えていたらしいリョウに案内してもらい、モネは初めてサヤカの部屋をノックした。
許可を得て部屋に入り、おずおずとサヤカに近づくも、言葉が見つからず、モネは顔を赤らめたまま涙をポロポロと流した。
「あれまあ、泣くんじゃないよこの子は」
笑いながらそう言ってサヤカはモネを抱きしめてその背中をポンポンと叩いた。
「ありがとうございます……!わたし、なんとお礼を言っていいか」
間近でモネの顔を見たサヤカが懐かしい気持ちで胸がいっぱいになった。早くに亡くした孫娘のことを思い出さずにはいられなかったからだ。サヤカは経済的には恵まれていたが、ここ数年すっかりひきこもってしまっていたのは子供や孫が自分より早く死んでしまったのが辛かったからだった。だけどリョウを引き取って、こうしてマーチ家とも交流を始めて、再び人生に輝きが戻ってきたような気がしている。
「家にピアノがあるからって、ここのピアノ弾きには来なくなる……なんてのはなしだよ」
それは絶対ないです、そう約束してモネもまたサヤカの背を抱いた。
この日から、年の離れたこの二人は心を許しあう友人となった。
後日、マーチ家から聞こえるピアノの音を聞いてDr.スガナミは自転車を止めた。
音楽を聴くのは久しぶりだな。そう思ってしばらく立ち止まったままピアノの音に耳を澄ます。
今まで生きてきて取り立てて音楽に興味を持ったことはないが、この静かすぎる海辺の町の中でふいに聞こえてきたピアノの音は妙に胸に染み入るものがあった。
思い返せばボストンの街は常に騒がしく、街角や教会から聞こえてくる音楽は常にノイズと一体化しており、こんなふうに野外の冷たい空気を吸いながら音楽に集中したことはなかったかもしれない。
ピアノの腕前などスガナミにはわからないが、途中で止まることもなく心地よく耳に流れていくのがまるでプロのようだな、と思う。
なんという曲なんだろう。いつかもしこの家に往診の機会があれば聞いてみてもいいかもしれない、そう思いながら再び自転車を漕ぎ出した。はあと吐いた白い息が後ろに流れていく。まだ終わらないピアノの音が遠ざかっていくのが少し寂しかった。