あの日の思い出「ねぇ、おじさん」
カラン、とグラスの中で氷が躍った。細々とした連絡は取り合っていたが、直接会ったのはずいぶん前の事だった。印象はほとんど変わらない。相も変わらず英国紳士が様になっている。それでも彼の目尻には会わない間に、随分とシワが増えていた。声を掛けると顔をあげた叔父と、目が合った。
「あの日の事、覚えてる?」
「あの日って言うと」
「うん」
「どれだ? 色々あるだろう」
にやり、と口の端をつり上げて笑った。
意地悪な笑い方だ。目尻のシワの影が深くなる。
「え」
「ほら、健司くんが英国から帰る時、お前にしてはずいぶん拗ねていただろう? それからジョンとも喧嘩したじゃないか。ああ、あとロボとブランカと」
全て覚えがある。覚えはあるのだが、それじゃない。ああ曖昧な言い方をするんじゃなかった。止めずにいたらまだまだ続きそうだったので、身体を預けていたソファから身を乗り出した。溜まらず「————ストップ」と声を出した。当の叔父は指折り数えていた手を広げておやおやとでも言いたげに笑っている。
「なんだ?」
「もういい、大丈夫、勘弁して」
そんなことあったかなぁ、なんてとぼけられたらどれほどいいだろう。キーワードを羅列させられただけで、脳内フォルダが勝手に記憶を取り出して巻き戻し始めてしまう。必死に映像の再生ボタンを停止させた。
「久しぶりに会ったのにつれないなぁ、彰良は」
くく、と笑ってウィスキーを煽った。全く顔に出ていないがそれなりに酒が回っているのかもしれない。質が悪いな、と思う。それとも明日、日本を発つことに対する寂しさの現れなのだろうか。
「それじゃなくて」
「これじゃなくて?」
と、その時ずるずると後ろで滑る音がして、そのままボスンと気の抜けた音が聞こえた。振り返ると猫の様に丸まっていく深町くんが居た。なにやらむにゃむにゃ口を動かしているが音にはなっていない。先程から船は漕いでいたのだが、どうやら完全に落ちていたらしい。
ソファの側面に引っ掛かったのか眼鏡も外れていた。眼鏡をしていないこの子の顔はどこかまだあどけない。二十歳になったとはいえ、幼さが残る顔に頬が緩んだ。
「……だから向こうで寝てていいよ、って言ったのに」
叔父が帰る前にもう一度飲みたいと、宿泊していたホテルをチェックアウトした足でやってきたのが本日の夕方だった。いま猫のように丸くなっているこの子は「負けず劣らず我が道を行きますね」と僕の顔を見て口にした。さすが親族、とでも言いたげだった。
さすがに健司は捕まらず、僕と深町くんと叔父の三人での酒盛りははじまり、お酒に弱いこの子は食事を終える頃には案の定、片足を夢の中に突っ込んでいた。
その時は「隣の部屋で寝ていいよ」と言えば首を振った。その時はまだ「帰ります」と言っていたような気がするのだが。
今となっては、もぞもぞとソファの上で寝心地のいい場所を探している。
「猫みたいだな」
「ああ、健司もそんなこと言ってたなぁ。懐かない猫だって」
「今はべったりみたいだけどな——でもお前が世話されているんだろう?」
「…………言い方に語弊があるような」
「違うのか?」
否定できない。そういう部分は多いにある。ええ、違いませんけども。
「…………おじさん、ぼく一応この子の通う大学の先生だからさぁ」
「要らん見栄だなぁ」
と一刀両断された。今日も叔父の歯切れがいい。お手柔らかに頼みたいが、一生敵わないんだろうな、と思うのは少し嬉しい。
「先生の前に、お前は高槻彰良としてこの子の前にいるんじゃないのか? そうじゃなきゃこんなところに連れてくるんじゃない。先生だろうが」
叔父の言い分は最もである。線引き。先生と学生。学生とお酒を飲むことだって今までにもあった。出掛けることだって多い。でも、この子は特別だ。ひとりを選ぼうとするこの子を放っておけなかったから、僕が手を伸ばした。でも、そんなのは僕の言い訳でしかない。僕だってこの子と一緒に居たかったから、いま此処に居る。
この子はきっちり線を引こうとする。友達は今も頑なにいないという。難波くんがそれを聞いたら泣いちゃうんじゃないかなぁ、と僕は勝手に思っているけど違うかなぁ。少なくとも僕は君から線を引かれたら、悲しいと思う。
「………そうだね」
僕はこの子をどうしたいんだろう。どうなりたいんだろう。手放せない。手放したくない。それで? その後は? ぐるぐると頭の中を問いが回る。
形のいい頭に手を伸ばして、頭を撫でた。指の合間を癖のない黒髪が滑り落ちる。
「…………あの日、エマに怒られたでしょ。子どもなのに、って」
笑顔で感情に蓋をして、鎧を作ることが習慣になっていた。だってその方が、都合がよかった。笑っていれば、皆、何も言わなかったから。なにより僕自身が、痛い事も、苦しい事も、悲しい事も、何もなかったことにしたかったのかもしれない。
だって、嫌われたくなかった。
だって、知られたくなかった。
だって、心配をかけたくなかった。
だって、迷惑をかけたくなかった。
もう泣いて騒げるような年齢じゃなくなった。分別だってある。それでも大人の庇護下に置かれる僕に出来ることなんて多くなかった。皆が優しくて、楽しいほど、苦しかった。
「————あれか、」と、懐かしむように目を細めた。
「懐かしいでしょ」そう笑えば、「お前が家族になった日だな」と言葉を繋げた。
エマが用意してくれたのは、マシュマロが浮かんだ頬がとろけるほどに甘いココアだった。
魔法だと、あの日彼女は言った。僕はまだあの魔法に助けられている。自分で見つけた新しい居場所もある。並んだマグカップ、大きなテーブル、学生たちの笑い声。僕はアパートメントをあの家みたいにしたかった。
「もう、僕、充分に大人だと思ってたんだけど、」
僕は、あの日の彼等みたいな大人になりたかった。
あの子に、此処に居ていいよ、大丈夫だよ、僕がいるよ、そう伝えられる大人になったと思っていた。それなのに、
「この子にね、無茶ばっかりするなって怒られたんだ。それから、謝ればいいと思ってるんでしょう、って言われた」
「ほう?」
「なかなか、格好をつけさせてもらえないんだよねぇ」
思わず苦笑が漏れたその言葉に「彰良にはまだまだ早いな」と、追い打ちが掛かる。
「そうなのかな」
「なぁ、彰良————尚哉くんにまだ言ってないことあるんだろう?」
「……健ちゃんみたいなこと言うね……」
「自分が曝け出せば相手も答えてくれるもんだ」
カラン、とグラスを揺らしたウィスキーを煽った。
「頼ってほしかったら、ちゃんと相手に頼りなさい。甘えてほしかったら、甘えなさい。尚哉くんも不器用そうな子だからなぁ。ちゃんと言ってやらんと駄目だぞ? 言わないでも分かってくれる。分かってほしい。なんていうのは傲慢な話だよ。言わなきゃ伝わらないし、意味を取り違えられることだってある。大人、なんだろう?」
そう、にやり、と口の端をあげて笑った叔父の言葉が耳に痛い。
「おじさんには敵わないなぁ……」
「当たり前だ」
「深町くん、」
ぺち。
「ふーかまちくん」
ぺちん、ともう一度頬に手のひらを寄せる。
「ん——————、……ぅん」
「起きないならこのまま移動するよ?」
だらん、と弛緩して伸びた脇の下と両足の下に腕を通し、頭を肩に凭れかけさせた。まるでなすがままだ。どうやら完全に落ちているらしい。……まぁいいか。鳥をみて卒倒すること数回、彼にも似たようなことをさせているのだが、その度に体格差もあいまって抱えられない、支えられない、運べないの三重苦に苦しめられているらしいのが大変申し訳ない。つい先日も、難波くんと二人掛かりで運んでくれたばかりだ。
健司曰く、鍛えようかなと言う弁も聞いているが、この様子ではどうやら今のところその成果がないらしい。だって、この子の身体は物凄く、軽かった。身長は然程低くないのに、と思う。ちゃんと食べているのだろうかと、一人暮らしの食生活を心配しながら——おそらく僕よりは自炊はしているのだが——隣の寝室へと運ぶ。あのまま叔父と一緒に、教え子の学生をソファに転がして置くのは気が引けた。お酒に弱いこの子がこうなることは分かっていたのに飲ませたわけだし。因みに叔父はソファでいい、と毛布に早々にくるまってしまった。そろそろ還暦なので、無理はしないでほしいのだが。
「————、ふ」
身体を折り畳んで僕の肩に乗せた頭が髪に触れたらしい。くすぐったそうに声が漏れた。
薄い背中が揺れたのが指に伝わった。
「……深町くん?」
顔は見えないがどうやら起きてはいないらしい。
リビングから寝室までは残り数歩だ。
「—————————、」
耳元で息が漏れた。音にならない吐息が首筋に触れた。寝言かもしれない。
起こさないようにそっと背中で寝室の扉を押し開け、そのままそっとベッドへと身体を寝かせようとした。その時だった。
「——————レオ、」
ぎゅっ、と服の端を掴まれて、頭が肩に押し付けられる。
「いかないで、」
ぐもった声。でも、きちんとその音は耳に届いた。れお。知らない単語に身体が一瞬固まったが、続く言葉はない。おそるおそる身体を引き剥がすと、腕の中の子どもはすうすうと寝息を立てていた。
「————、寝てる……」
れお。レオ。人名としてありふれた名前だ。だが、この子の交友関係を想像すると、違うだろうな、と思う。どちらかというと————
「あの子の、名前かなぁ」
愛くるしい瞳と艶やかな毛並み。研究室に並ぶゴールデンレトリバーが描かれたマグカップ。この子が研究室に置きたい、とわざわざ持参したそれは少し使い込まれた雰囲気があった。聞くところによると『わんこくん』が昔飼っていた『わんこくん』に似ているらしい。
未だ袖の服の端を握ったままだった指を、一本ずつゆっくりと外す。
「————レオくんじゃなくて、ごめんね」
どんな子だったのかな、と思う。
僕にもイギリスでずっと一緒に居てくれた子たちが居るからよく分かる。
彼等とは言葉で意思疎通ができない分、すぐに仲良くなれた。どんな時でも一緒に居てくれた。何も聞かないでくれた。もう居ないけれど、僕の大事な家族だ。
つ、と。頬を一筋の涙が流れるのを指で拭う。
「でも僕はずっと一緒に居てあげるからね」