あの日の魔法今日のココアに浮かぶマシュマロの形を見て、深町くんは「あ、」と声を漏らした。
「そ、お星さま。瑠衣子くんからの差し入れだよ」
「へぇ———ああ、七夕ですか?」
「そうみたい。かわいいよねぇ」
ココアに浮かぶ様は夜空には程遠いのだが、ぷかぷかと浮かぶ様子はどこか愛らしい。
教え子たちが見つけては買ってきてくれるマシュマロのラインナップはいつ見ても楽しいし、可愛い。動物や肉球、カラフルな色柄もの。季節が感じられるものと多種多様だ。何処で見つけてくるの? と聞けば内緒だと言われた。これは私たちの趣味なので、と言われてしまったのでお任せすることにしている。
ホットココアの季節と言えば肌寒くなる秋から冬にかけてが一番美味しいが、甘くて幸せになれるものはいつだっていい。夏場も冷房で冷えた身体には温かいものが嬉しいし、ついでに暑い夏にはココアとアイスの相性はいい。
そして同じく目の前の教え子のこの子には年がら年中コーヒーを所望される。似たもの同士かもしれない。ことん、と置いたマグカップを差し出すと有難うございますと受け取ってくれた。
「——ホントに好きなんですね」
眦を下げて苦笑する顔におや、と思う。
なんだかいつもと反応が少し違うなと思っていると、
「……よかったですね」
そう続く言葉に今度は僕の方が苦笑したくなる。イギリスに住む叔父が僕の子どもの頃の話を勝手にこの子に聞かせた。何の話を聞いたのかまでは聞いていない。きっとあの話だろう、と思う。僕が日本から、高槻の家から追い出され——捨てられてと言ってもいいのかもしれない——イギリスへと渡ったこと。イギリスで出迎えてくれたのは数回しか会ったことのない叔父、それから叔父の所有するマンションに住む同居人と二匹の犬だった。賑やかで騒がしくて、楽しかったあの日々。一度だけちょっとした騒動があった。きっとあの日の話をこの子に聞かせたのだと思う。
僕がココアを好きになったあの日。
僕が本当の居場所を見つけたあの日。
この子は叔父とお酒を酌み交わした夜以来、揶揄することはなくなった。別に言ってくれてもいいのにと思う。これはこれで気を遣われているようで少し寂しい。知れて近寄れた部分もあれば、敢えて遠のいてしまう事もある。優しいこの子は、相手の傷に触れないように気を遣ってしまうらしい。僕がずっと話さなかったことを、他人から聞いたせいもあるかもしれない。こんなことなら早く話しておけばよかった。以前、幼馴染にさっさと喋った方がいい、と言われたことを思い出した。
「————ねぇ、深町くん」
「はい?」
「君の話を聞かせてよ」
ぐっ、と距離を縮めると、
「……何でですか」
眉根を寄せて背を反らされた。
「だって君だけズルいじゃない。叔父さんと健ちゃんからアレコレ聞いて」
「ズルいってあんた、そんな子どもみたいな」
困ったように眉根を寄せた顔に僕は笑顔を更に深めた。不服そうに顔を歪められたこの子の顔が嬉しいと言ったら、どんな顔をするだろうか。まぁ言わないけど。
「だって君が気にしてるし」
「気にしてないです」
間髪入れずに返球がかえってきた。本当かなぁ。覗き込むと長い前髪の下に隠れた眉毛が八の字になっているのが見える。くすくすと笑いながら「えー?」と笑いかければ、
「えーじゃないです」
と、今度はつんけんした声でかえされた。
「じゃあ僕がココア好きな理由教えてあげるから」
「……いいですってば」
少し間があった。ああ、聞いてるんだな、と思う。
「うん、でもコレは僕が、聞いてほしいんだ」
ただの自己満足だ。あの日は悲しい思い出じゃない。
あの日から、ココアは僕にとってお守りになったんだから。
「————ココアがね美味しいと、ああ、大丈夫だな、って思うんだ。僕は大丈夫。そう思える。それだけだよ」
あの日から随分と経った。
おじさんにとっては、僕はまだまだ子どもかもしれない。
とはいえ、もう子どもではない。簡単に弱音が吐けるような年齢じゃなくなった。泣いていいと言われても少し難しい。
大人になったし、先生という立場にもなった。守りたい場所も出来た。守りたい子たちも大勢いる。
「ほっ、と一息できて、甘くて、幸せになれて、それで、ああ大丈夫だな……って」
「それでいいんですか」
「大人だからね」
「ズルいですね」
「大人だもん」
この子には以前、無理は無茶をするなと詰られた。嘘をつくなと怒られた。常に心配をかけてばかりいる気がするので、どこか納得いかなさそうな顔をしている。でもこれは無理でも無茶でもない。ああ、でもやせ我慢かもしれないな、とは思う。でもそれはやっぱり大人なので仕方ないとは思う。
「大人なのに甘いものが好きなんですもんね」
「だってココアは美味しいもの。だからこれからもお茶するの付き合ってよ」
ね? と、笑いかければ深町くんは仕方ないなぁとでも言うように、目尻を下げてこくりと頷いてくれた。
「————俺、」
「うん」
「そんなにコーヒー好きじゃなかったんです」
ぽつりとこぼしたその言葉に、知ってるよ、と返したかった。いつも苦そうに飲んでいた。それなのにミルクも砂糖も要らないという。不思議だった。理由は何となく聞けていない。ふと、手元のマグカップを口元に寄せて一口こくりと喉を通った。ことん、とマグカップが机に降りた。目線が落ちて、側面に描かれた犬に指が触れて、なぞる。
耳の中に残る甘くて痛い声。レオ、君の名前なのかな、と思う。レオ、と聞くと思い出すのはライオンの名前だ。マグカップに描かれているのは黄金色の大型犬。犬と猫の違いはあれど、雰囲気は似ている、かもしれない。伏せた瞳がマグカップから視線をあげた。
「……最近は、そうでもないです」
ふ、と笑った顔に「そっか」と返す。
何となくそんな気はしていた。でも理由は教えてくれないらしい。まぁいいか、今はそれでも。
「よかったね」
「はい」