夏の約束 ガラクタの街を囲うように深く茂る草むらから、羊田は河川敷の上を仰いでいる。視線の先には浴衣姿で道行く人々が見受けられた。恋人同士らしい二人組や中高生の群れ、両親に手を繋がれて歩く子供――普段見かけない色彩豊かな装いが気になり、目で追ってしまう。足並みは自分達が通う愛造小学校の方向へと進んでいるようだが、何か華やかな行事でもあるのだろうか。
ガラクタの街まで届く浮ついた話し声に耳を傾けていると、「メリー」と少し怪訝そうな呼びかけが飛んできた。
「ちゃんと支えてろって」
羊田は我に返り、胡座を掻いて地べたに座る狗凱へと向き直った。金槌を持つ狗凱の手は宙ぶらりんだった。ひび割れた木の板を羊田が立たせ、そこに釘を打ち込もうとする寸前なのに、当の羊田は心ここに有らずといった状態なので、事を進めると危ない。
「ごめん」
「今日中に終わらせるんだからな。あともうちょっとだし」
「うん」
そう素直に返事したから狗凱は一本目の釘を打った。上手く当てはまった手応えを感じ、次に二本目の釘を板に宛がった途端、ぐらりと揺れたので狗凱は驚いた。顔を上げると、やはり羊田の意識はこちらに無さそうだった。「おーいー、メリー!」とむくれて強く呼びかけた。
「あ……ごめん」
「何なんだよ、疲れたのか?」
夏休み真っ最中ということで、二人はほとんどの日を河川敷で遊んでいる。朝っぱらから夕暮れまで、ここに居座れる時間も大幅に増えた。大人と勉学に縛りつけられない日々は子供達にとって貴重であり、それでいてまるで無限大だった(なお、課せられた大量の宿題を除いて。自由研究は共同作業の工作物を提出すると決めているが)。そして今日も汗だくになりながらヒーローごっこをして、水筒のお茶をごくごく飲み、街を作っていた。子供は情熱だけで自身の疲労感を一時的に忘れさせてしまう、羨ましいが恐ろしい能力を持っているということを、今の二人はまだ知らない。
羊田は「疲れてるわけじゃないけど」と前置きをして、河川敷の上へと人差し指を小さく向けた。
「何だか浴衣着てる人が歩いてるね」
「あっちの公園で祭りでも始まってんじゃね」
「お祭り?」
小首を傾げる羊田の態度は、狗凱にとって意外なものだった。この辺りに住んでいれば誰もが一度は行ったことがあるだろうと思っていた。しかし、様子からして羊田には縁が無いらしい。
「知らねーの? 色んな屋台とか出てるし、毎年あるんだぜ」
「そうだったんだ……」
納得したところで続きを、と狗凱は促したかったが、どうも羊田から集中力を感じられない。しかも言われてようやく気付いたが、太陽は西へと傾き始めていた。どこかの木からヒグラシの鳴き声が聞こえる。お祭りに人が集まる頃合いだ。
「行きたいのか?」
「でも、今日中に……」
もじもじしながら羊田の視線は作りかけのビルに向く。今日中にこれを完成させると言ったのはつい先程だから遠慮しているらしい。
狗凱は溜め息を吐いた。中途半端に強情で、全く煮え切らない態度だ。新しい必殺技を発表する時の威勢はどこへやら。公正なジャッジによるセンスの有無にまで異議を唱えてくる、あの押し方を発揮しない羊田が珍しく思えた。
「夏休みだしな、別に完成させんのは明日でもいーぜ。行きたいなら行きたいって言え」
「……うん。行きたい」
「よーし、行くか」
狗凱が応えると、羊田の顔色は見るからに明るくなった。そうと決まれば手早く片付けを始める。金槌などを工具箱に仕舞って草むらに隠し、放り出していた水筒やフェイスタオルをリュックサックに詰め込み、二人は夕空のガラクタの街を後にした。
そこは狗凱が言った通りの場所だった。街中の一角にある大して広くもなく、シーソーやブランコなどの遊具が設置されている、ありふれた公園だ。とは言え今日はささやかながらに夏祭りが催されて混雑している為、使用禁止の札がかけられている。笛や太鼓の祭囃子よりも、いわゆる夏ソングが辺りのスピーカーから流れている具合からして、鳴り物を用意するような規模ではない。子供でも周りに気をつければ行き来出来るくらいの間隔で屋台は並ぶ。飲食物は近くの公民館から調理された状態で運ばれてくる出来合いのものばかりらしいが、夏らしさを味わいたい人々にとって、そんなことを一々気にするのは野暮だった。普段披露する機会が無い浴衣を着て、派手な電飾に照らされた異空間を歩く。それだけで立派な夏祭りとなる。
公園の門口で二人は佇み、特に羊田は背伸びをしながら興味津々な様子で人混みを窺っている。たまに前を通るだけの公園が、こんなにも輝いて賑わっているなんて。
「人、いっぱいいるね」
「そうかぁ? 昔でっけー神社のお祭り行ったけど、もっといたぞ。あと、バンバンバンバン花火やってた」
「打ち上げ花火?」
「ああ。見たことねーの?」
小さく頷いた羊田に狗凱も「ふーん」と相槌を打つ。「ここ、花火やってないんだよなー。まあ、屋台はあるから見て回ろうぜ」
そして狗凱は歩き出した。勝手が分からない羊田は彼の少し後ろをついていき、あちらこちらを見ては不思議がる。
ぽん、ぽんと軽く弾ける音が聞こえる方では、自分達と歳が変わらなさそうな男の子達が玩具の銃を使い、人形やおやつの袋詰めを撃っている。浴衣姿の若い男女が、橙色に埋め尽くされた大きな容器の前で金魚掬いに耽っている。片手にヨーヨーを持つ女の子が母親と手を繋ぎながら、フランクフルトを強請っている。
羊田は狗凱の後ろ姿を見失わないように気を配りつつも、視界に入る全てが心を浮つかせて堪らなかった。
「きらきら光ってるし、みんな笑ってるし、良い匂いするね」
「あ、腹減ったな」
何気無く言われて匂いを意識した途端、狗凱の中で食欲が湧いてきた。ぴたりと立ち止まり、ズボンのポケットに両手を突っ込んでまさぐってみる。ちゃりちゃりといくらか擦れ合う金属的な音がした。取り出して片手に広げた小銭を数えると百円玉が三枚で、五十円玉が四枚だった。
「うーん、たこ焼きくらいは買えるか。せっかくだしメリーも何か買えよ」
「うん」
「いくら持ってんだ?」
「私は……四百円」
お祭りという幻想的な非日常にかこつけて、屋台が売り出す物品の相場が凄いことになっているのは暗黙の了解だ。羊田の手の平に乗る四枚の百円玉を見ると心許無いが、それでも探せば何かは得られるだろうと狗凱は考えた。
「とりあえずたこ焼きの屋台探すぞ」
あっちはお好み焼き屋、あっちは焼き鳥屋、あっちはかき氷屋。どれも美味しそうだが狗凱の目的はたこ焼きだけだ。その道中に羊田も何か目星をつけておけと指示しておくと、丁度たこ焼き屋を見つけた。一パック五百円という値札がぶら下がっている。「あったあった」と声を弾ませて狗凱が駆け出すので、羊田も追う。
「おっちゃん、たこ焼き一つちょーだい」小銭を台に置いて慣れた口調で頼むと、ねじり鉢巻が似合う店主は景気良く応え、焼き立てのたこ焼きをパックに詰め始める。ついでに遠慮無く「マヨネーズめっちゃかけて」とも付け足し、その通りにしてもらった六個入りの一品を受け取った。蓋を開けられた状態なので早速一つ目に爪楊枝を突き刺し、息を吹きかけて少し冷ますが、それでも中身は熱い。
不意に店主の目が羊田の方へと向けられた。「お嬢ちゃんもどうだい?」
「……え?」
何気無い振りだった。たこ焼きを頼んだ男の子の連れなのだから、同じく欲しがるかもしれないと店主が考えるのは当たり前の話だ。しかし、羊田は特にたこ焼きのことを考えていなかった。はふはふと食べる狗凱の口元がマヨネーズで汚れるのをぼんやり見ていた為、急な返事を求められてびくりとした。「え、わ、私は……」
美味しいよ、という軽い勧告にあたふたする羊田を見ていられない。狗凱はたこ焼きを飲み込み、羊田の手首を掴んだ。
「他のがいーいんだってさ。ほら、行くぞ」
率直に断り、堂々と歩き出す狗凱に羊田は身を任せた。やがてたこ焼き屋から離れ、人混みの合間を縫って夏ソングに掻き消されない語勢で言葉を交わす。
「ああいう時は断って良いんだからな」
当たり前のことを言い聞かすと素直に頷く羊田の様子からして、本当にお祭りに慣れていないのだと狗凱は改めて分かる。もう一度確認したところ、どうやら羊田はこういった行事そのものに出向いた記憶が無いという。だから煮え切らない態度だったのか。何だかこの辿々しさが出会った頃のようで懐かしく感じる。今ではセンスの有無について公正なジャッジにも異議を唱えてくるくせに。
「で、お前は何食うんだ?」
「えっと……」
未だに羊田は迷い、きょろきょろと辺りを見回しながら少しずつ歩く。目移りするが、ふと一つの屋台が気になった。小さな羊の群れが過る、あの屋台。
「あれがいい」
遠慮がちに、けれど浮かれて指す先には、可愛らしいフォントの平仮名で「わたがし」と掲げられた旗が目立つ――二つ目のたこ焼きを食べて美味しいと感じる間も無く、狗凱は一気に顔を渋くさせた。
「わ、綿菓子だぁ? お前……本気か? あれの正体知ってんのか?」
「食べたことないから食べてみたい。それに、もふもふしてて可愛いよ」
「まあ、羊の毛みたいでメリーに似合ってるけど……」
新手の共食いだ――腰が引けている狗凱を他所に、羊田は四百円を握り締めて歩き出す。緊張した足取りで屋台の前に辿り着き、背を向けて段ボール箱の整頓をしている店主に声をかける。
「あ、あの、すみません」
「はい?」人の良さそうな店主が呼びかけに応え、振り向いた。
「綿菓子一つ、下さ――」
言い切ろうとした所で羊田は気がついた。台の上に値札が置いてある。一つ七百円――高い。
「……ごめんなさい。お金足りませんでした。やっぱり要りません」
羊田は狗凱の方に向き直り、苦笑いをしながら戻ってくる。「剣獅君、別の……」
「なあなあ、おっちゃん! このたこ焼きあげるからさ、交換してくんね? お願い、一生のお願いだから!」
狗凱が、ずいっと前に出てきた。十年生きてきて何度使ったか分からない「一生のお願い」、けれどこの店主に対しては初めて使う「一生のお願い」。幼いながらの交渉術。二つ分のスペースが空いているたこ焼きのパックを店主に見せつけ、大袈裟に頼み込む。
店主からすれば、「好きな女の子の前だから小粋な振る舞いをしたいませた坊主」に見えたのかもしれない。今日はせっかくのお祭りだ、無邪気な子供達の恋愛模様を拒むのは酷だろうと、店主はある意味良い方向に捉えて聞き入れてくれたらしく、差し出されたたこ焼きのパックを受け取った。
ザラメが綿菓子機の釜に投入され、しゅるしゅると糸の束となって溢れ出す。店主が割り箸で中を掻き混ぜるように動かすと、それはどんどん絡みついてきた。さらりと手首だけを回す店主の手元が見えない羊田には、勝手に糸が集まって膨らんでいる手品のように思えた。見蕩れるのも束の間、もふもふの白い綿菓子が完成していた。
店主は狗凱に綿菓子を持たせた。「坊主、カッコイイね」真意がいまいち分からない狗凱だが、褒め言葉には違いないので「まあな!」と元気良く返答した。そして、羊田の目の前に綿菓子を突きつける。
「ほらよ」
「で、でも、剣獅君の……たこ焼き……」
「あっちに座るとこあったっけなー。行くぞー」
「……うん」
戸惑う片手に綿菓子を持ち、もう片方の手は狗凱に掴まれてずるずると引きずられていった。
ベンチはどこもかしこも埋まっていた。仕方がないので二人は屋台から少し遠ざかった所の木陰で休憩する。とは言え、普段からガラクタの街で地べたに座り込んでいる身としては全然苦ではない。むしろ尻に伝わる雑草の感触が心地良かった。
二人が座る場所からは、お面がずらりと掲げられた屋台が見える。多種多様の形と色のお面は、最近流行りのゲームに出てくるモンスターだったり、現在放送中の特撮番組のヒーローだったり、狐だったり鬼だったり、よく分からないものだったりする。
「もっとお小遣い持ってきてりゃ良かった。あのお面欲しいのに買えねー。なあなあ、あの赤いやつカッコイイよな? メリーはどれがいい? あれか、青いやつか?」
「ごめんね」
「あぁ?」
「私のせいで予定変わっちゃった。今日中にビル作れなかったし、剣獅君が買ったたこ焼きなのに、二つしか食べられなかったね。綿菓子と交換してくれて……」
「じゃあ、これからもまた一緒に来ればいいだけだろ。次来た時はメリーがたこ焼き奢ってくれよ。それでチャラな」
平然と言ってのける狗凱に、羊田の心臓は跳ねた――自分達の繋がりに、果たして「次」はあるのだろうか?
胸元に隠すネックレスの冷たさを思い出す。スターヒーローの側にいながら赤い石が蠢く。きっと神は嘲笑っている。予感は己の期待を砕こうとする――それなのに、羊田は遠く遠くの夢を見る。「分かった」と偽りの約束を交わし、また幼い罪を背負う。
せっかく手に入れた綿菓子なのだから羊田には喜んでほしかった。狗凱が食べるように急かすと、ようやくその口は白い塊へとつけられる。
「美味いか?」
「うん。凄く甘いし、美味しい。もふもふしてると思ったけど、食べたら口の中ですぐ消えちゃう。綿菓子って面白いね」
ようやく喜んだ顔になり、綿を一口ずつ食べる羊田の、小さな羊に顔を埋めているみたいな光景が狗凱にとっては面白かった。やはり共食いだ。そう思っていると、目の前に白い物体が近付いてきた。胃にまで直撃する甘い香り。恐らく悪戯心も含んだお裾分けのつもりで、羊田は静かに綿菓子を狗凱へと向ける。
「いや、俺は要らねーよ……」
「でも、ずっと見てる」
狗凱は羊田の食いっぷりを観察していただけで別に羨んだつもりはない。自分が甘い物をそれほど好まないことも知っているはずだ。それでも差し出してくるのだから、からかうつもりだろう。
拒もうと思えば拒めるが――見つめてくる黒い眼差しと、もふもふの羊を食べてみたい好奇心に負けてしまった。
「……うあ」
一口食べて後悔した。羊田が言ったようにそれは咀嚼する間も無く溶けてしまうが、甘さだけが口内を覆い尽くして残る。僅かに残っていた水筒のお茶を飲み干して何とか洗い流す。
「絶対砂糖の塊だ……。無理無理無理。よくこんなもん食えるよなぁ」
狗凱は粘つく口元を手の甲で拭いながら呆れた。大体、甘い物が好きな人間でも進んで食べたいとは思わない気がする……。
想像通りの狗凱の反応に羊田はくすくすと笑う。その姿を見た狗凱はどこか安心し、軽く笑って帰す。
「こんなもんでお前が楽しいなら別にいーけどさ」
綿菓子を頬張る羊田の横顔――笑っているし、食べているし、生きている。「楽しいよ」と頷くその言葉は本物だと、狗凱は心の底から信じた。
羊田は時々放課後に用事があるという。そういう日は一緒に河川敷で遊べず、下駄箱の前で別れる。つまらないが自分だけで街作りに励もうと校門へと向かうが、ある時何気無く振り返ると、薄暗い廊下を歩いていく羊田の姿が一瞬見えた――寂しくて苦しそうな横顔だった。ヒーローごっこの最中に膝を擦り剥いても泣かないのに、ただ一人で歩いていただけなのに、何かに追い詰められているみたいな表情だった。
あの横顔を知ってしまって以来、狗凱は少し怖くなった。目の前で羊田が本当に涙を流した時、自分はそれを真正面から受け止められるだろうか、と。そして、明かそうとしない羊田の何かに今も触れられずにいる。
「あー、そうだ!」心の中にひっそり浮かんだ憂いを晴らす意味も込めて、狗凱は夕と夜の色が混ざる空を見上げた。星が点々としている。消えずに留まった火のようだと、星に花火の面影を重ねた。
「大人になったらさ、でっけー神社の祭りにでも連れてってやるよ。屋台もっといっぱい出てるし、人だらけだし、花火大会もやるんだぜ。お前、あの迫力見たら絶対ビビるだろうなぁ」
「打ち上げ花火?」
「そう! なんか、いきなりドーンって頭叩かれたみたいになって、バババババーって物凄い音鳴って、夜なのに一瞬明るくなるんだよ。光がポロポロポロって落ちるの見てたら、またドーンドーンって。宇宙でヒーローと怪獣が戦ってるみたいでさ、マジでスッゲーからな!」
囲う喧噪とは裏腹に静穏な空へと向かって大きく手を広げ、嬉々として彼が語るなら、きっと本当に壮大な光景なのだろう――羊田は夢想し、頬を緩ませる。
「花火大会、楽しみ」
「おう」
「剣獅君、ありがとう」
その感謝は、叶わぬ約束への謝罪だった。
軒下に吊らされた提灯。鳴り響く軽快な祭囃子。櫓の上で太鼓を叩く法被姿、笛や鐘を奏でる人々。囲いの中で聳え立つ銅像は、この神社の主祭神を模しているようで、元からの荘厳な意匠が、祭りの飾りつけによって一層華々しくなっている。何種類もの屋台がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、どこまでもどこまでも並んでいる。
夏の蒸し暑さと目が痛いほどに照り輝く電飾、そこに群衆の熱気が加わり、こめかみから汗が垂れて鬱陶しい。
「おーいメリー、どこ行ったー」
何とも個性豊かな出で立ちの上、成人男性の平均身長から飛び抜けて背が高く、甲高い祭囃子を潜り抜ける低い声で「メリー」という珍しい呼び名を口にする――周囲の視線が狗凱に集まって当然で、しかし当人は慣れた様子で気にしない。ただあちらこちらを見下ろして一人のつむじを探す。羊田がいない。つい先程までは隣にいたのに、いつの間にかはぐれてしまっていた。
二人は花火大会が行われる夏祭りに来ていた。車を使って愛造町を出たが、走らせてそう時間はかからない距離にある神社がここだった。しかし問題はこの賑わいである。浴衣か甚平、着飾った人々の僅かな隙間を体格の良い狗凱ですら戸惑いながら何とか通るしかない。
ぐい、とロングコートの裾を引っ張る手。狗凱が視線を下げると見慣れたつむじがあった。人混みに掻き混ぜられたせいか、ボブカットの黒髪が少し乱れている。
「ま、待って。ここにいる……」
軽い息切れをしながら羊田は自分の存在を証明した。同じく汗を掻き、普段着の首元は湿っている。
「剣獅君は背が高いから目印になるね。私遅いし、先に参道のあちこちで立っててくれたら剣獅君を目指して追いかけるよ」
「人を標識扱いすんな」
本気か冗談か微妙な調子で言われ、密かにむくれる。そんな切ない見物があるか。せっかく一緒に来た花火大会だというのに、並んで歩けないなんて。
「やっぱ本格的な花火大会となると人混みが尋常じゃねえな……」
「子供の頃の剣獅君、こういう所に来てたんだよね。今だって大変なくらいなのに、迷子にならなかったの?」
「あれは嘘だ」さらりと告げられた言葉に、羊田は呆気に取られた。
「花火大会の中継か何かやってたから、それっぽく知った気になってただけだ。あのちっちゃい公園の祭りくらいはたまに行ってたけど、こんなとこ来んのは初めてだからな。俺にも勝手がよく分かんねえ」
「何で嘘吐いたの?」
「俺の性格分かるだろ。カッコつけたかったんじゃねえの」
自白した瞬間、かつてたこ焼きと取り引きした綿菓子屋の店主がにやつきながら言った言葉を思い出し、恐らく真意を理解した。いや、それなら誤解だ。羊田を不憫にさせたくないから、あれが最善策だと思っただけだ。小恥ずかしいので抗議したいが相手の所在など知らないし、今更遅すぎる。勿論羊田にこの羞恥心を晒すわけにもいかないので、結局平静を装うことにした。
突然、頭の中を叩かれるような爆音が鳴り響いた。「うおっ」と周辺の誰よりも大きく両肩を跳ねさせたのは狗凱だったが、次に夜空が花の形を描いて光り輝くので羊田以外は特に気にしなかった。ふいと黒い眼差しが狗凱を見上げ、返される反応を無言で待つ。
「……な、何だよ」下からの視線を無視すれば良いものを、自然と自ら合わせた。ばつが悪い。
「凄い音だから、びっくりしちゃったね」
悪戯っぽく緩められた口元が何を表しているのか、大体見当はつく。爆音にびっくりしたのはどちらの方か、あえて言わない。
狗凱の反応に満足した羊田は次々と夜空で咲き誇る花火を見つめ、静かに呟いた。「宇宙でヒーローと怪獣が戦ってる」
羊田はロングコートの裾を掴み続けることにした。雑踏を掻き分けながら二人は進む。今日はあの時の約束を果たしに来たのだ。お互いに、幼く拙く交わした約束の為に。
「たこ焼き奢れよな」
「分かってる。でも、その前に買わせて」
「何を」
「ほら、あそこ」
羊田が指で示し、狗凱はそちらを向く。視界に入った途端、まだ近付いてもいないのに胃袋がいっぱいになる、あの甘すぎる匂いを思い出した。屋台の前で祖父母らしい老人に子供があれを強請り、出来上がったものを受け取った。次に中高生に見える三人の女の子が並び、あれが作られる過程を見てはしゃいでいる。
「おい……まさか」
狗凱が怯えながら制止するよりも先に羊田は進み出した。女の子達の最後の一人が手に入れてその場を離れたので、店主と目を合わせ、「綿菓子、一つください」と財布から千円札を出した。相場が凄い。
ピンクとか緑とか黄色とか水色とか、やたらカラフルなもふもふがパックに詰められて展示されている。それでも羊田は無難な白を頼んだ。店主は動き続ける製造機の釜にザラメを入れ、やがて溢れる糸を割り箸に巻きつける。背丈が届かず子供の頃は分からなかったが、手首を回しているだけで簡単に作っているのだと知る。そして、やはりあっという間に出来上がった。たっぷり膨らんだ羊毛のようなものを店主から受け取る。
羊毛……ではなく、綿菓子を片手に戻ってきた羊田を、狗凱は渋い顔で迎えた。
「凄くもふもふだよ」
「お前なぁ、絶対後悔するぜ」
ぼやく狗凱を気にせず、羊田はぱくりと一口食べた。最初は何だか嬉しそうに、懐かしそうに。そして、徐々に苦笑いが漏れる。
「うん……。美味しいけど……この歳になると、流石に胃が重くなっちゃうな」
「ほら見ろ。ようやく俺の気持ちが分かったか」
「剣獅君は昔から甘い物好きじゃないでしょ」
やんややんやと子供じみた言い合いをする、それが楽しい。あれから十八年の時が経つ。綿菓子の甘さに耐えられる歳ではなくなったことは、羊田も分かっていた。ただ、自分達の繋がりに「次」があるかも分からない不安に苛まれていた、幼い罪を生み続ける哀れな女の子が、こんなちっぽけなことで救われる気がしたのだ。
「ちゃんと食い切れよ。つーか、千円って……」
「食べてみて」
と、当然のように顔面に突きつけられてしまい、狗凱は何故か拒否という選択肢を選ばせてもらえない。恐る恐る口を開く――味わうという行為を意識をする前に味覚が暴れた。分かり切っていたが、相変わらず甘すぎる。
「あのね、調べたら砂糖しか使ってないんだって。砂糖を機械の真ん中で加熱して、溶かしたら遠心力で糸になって、それをくるくる巻きつけるの」
「マジで砂糖の塊じゃねえか……」
解説されると余計にげっそりする。胃が重くなると言う割には少しずつ綿菓子を食べ、羊田は歩き出そうとする。胃の違和感を抱きながらも、狗凱は小さな存在を見失わないように、自らロングコートを掴ませようとした。
が、羊田はすぐに立ち止まった。幸運にも、たこ焼きの屋台は近場にあったのだ。一点して狗凱のテンションは上がった。早く口直しがしたい。そもそもこれこそが今日の目的だ。
綿菓子よりは安い値段で買った六個入りのたこ焼きは、ここでは屋台の中でたこ焼き器を用いて作られた為、まさしく出来立てほやほやのものだった。マヨネーズをたっぷりかけてくれというリクエストも叶い、ようやく狗凱の胃袋に一つ目のたこ焼きが入った。熱くて美味い。一層汗が滲むのに、祭りという空気はどうしてこういうものに食いつかせてしまうのだろう。
「ねえ、剣獅君」
「あぁ?」
行儀など気にせず、もごもごと咀嚼しながら呼びかけに反応した狗凱は、羊田の視線が少し離れた所の屋台へと向けられたと察する。その前を通り過ぎる人々は少し気にする素振りはするものの、わざわざ買おうと立ち止まる者はいない。店主も客が来ないことを見越してか、隣同士の屋台の手伝いをしているようだ。
「たこ焼きだけでいいの? ……お面は?」
そこは、多種多様なお面がずらりと掲げられるお面屋だった。自分達が子供の頃に観ていた特撮番組のヒーローのお面は、勿論掲げられていない。お互いにすれ違い、言葉を交わすことも、顔を合わせることも出来なくなり、それでも狗凱が一人で観ていた頃のヒーローのお面すらも無い。ただ、現在放送中のヒーローのお面はある。
あれを買おうかと童心が疼いた二人が相談する間に、人混みから男の子と女の子が抜け出して駆け寄り、店主を大声で呼び、そこに掲げられたヒーローのお面を一つ求めた。小さな手の平にはなけなしのお小遣いが乗っているように見えた。お面を手に入れた二人は喜び、また駆け足でどこかに消えていった。小学生らしい彼らはきょうだいかもしれないし、クラスメイトかもしれないし、この夏祭りで初めて出会い、意気投合したのかもしれない。一つのお面を交替で被り、ヒーローごっこでもするのだろうか。
「売り切れみたい」
「仕方ねえな。俺達は大人だ、譲ってやったんだ」
大人げない物言いはわざとらしく、それが狗凱の本質を表していると羊田は思った。
――彼は、スターヒーローだ。
「ありがとう、剣獅君」
急にひっそりと楽しそうに告げる、その言葉はちぐはぐで、狗凱は軽く笑った。
「何でお前がお礼言うんだよ。奢ってもらったのは俺だぞ」
「うん。……でも、ありがとう」
それ以上はお互いに言わなくても分かる。「ああ」とだけ狗凱は返し、羊田も微笑むだけ。
未だにヒーローと怪獣が戦う夜空の下、たこ焼きと綿菓子を持ってベンチを探す二人の影は、かつての男の子と女の子のようだった。
次に二人で夏祭りに来た時は、お礼にまた自分が奢る番だ。そして、奢ってもらったから今度は自分がと羊田が言い出す。きっと、そんな夏の約束を繰り返すのだろうと狗凱は思った。
完