第一
「幕引きだなァ」
「ああ」
かつて幾度も参上した屋敷をそのまま写したような、しかし幾分小体なその館を、庭に降りた二人の男は今一度振り返って眺めた。
桜の花が綻び、足元にはこれも又同じ玉砂利。踏んで歩いたその向こうには枝ぶりも堂々たる松が根を張る。
その幹に近く歩み寄り、己の丈の高さ程に伸びた枝に不死川は包帯を巻いた右手を差し上げた。
するりと、白いものが不死川の手首に巻き付く。
ごく清かな衣擦れの音をたてながらそれはあっという間に腕を巻いて這い下り、そのまま男の開けた首元に一回り巻きついて納まった。
長い尾が包帯の巻かれた腹のあたりまで垂れ、傷の刻まれた頬の脇で鎌首を擡げた瞼のない眼が円い光を放つ。
「お前の主もいつも樹上から俺を見下ろしていた」
その赤くも金にも光る眼を今は程近くで見つめながら冨岡が言った。
口の隙間からチロチロと赤い舌を覗かせて蛇も男をじっと見返す。
「今もどっかから睨んでるかもしれねぇぞ」
「そうかもしれんな」
あの辛辣な男の抱いていた熱と強さが今も冨岡の心を掴んで離さない。
疑いもなく真の柱だった。あの日、最後の最後まで。
その男の遺した蛇の頭にそっと、不死川は指の欠けた手をやった。
「戻ったらこいつを栗花落に」
「判るだろお互い」
「ああ。それがいい」
主の居ない蝶屋敷で日も夜も介抱に忙殺された時は過ぎていき、空いた穴を少しずつ埋めながら娘たちは前に進んでゆくのだろう。
もう鬼に脅かされる者がそこに担ぎ込まれることはない。再び戦いの場に送り出す為に傷を癒す日々は終わりを告げたのだ。
ただ、何の蟠りもなく回復を喜べる。真の療養所として。
「この後──」
──お前はどうする、と冨岡に紫の瞳だけが尋ねた。
「育手が戻っている。炭治郎と禰豆子にも会いに」
それから一拍置いて冨岡の方も問うた。
「兄妹の顔を見ていくか?お前も」
「いかねェ」
即答だった、迷いもなく。
「俺が竈門の妹に何をしたか忘れた訳じゃねぇだろ」
「俺も、最初禰豆子を刺した。刀で」
「何だと!?」
不死川は目を剥いた。
「何でそうなった!」
「お前と同じだ」
「炭治郎の怒りを掻き立て、目を覚まさせようと思った」
「これは鬼だ」
「鬼は、どこまで行っても鬼でしかないのだと」
「どうなった」
「炭治郎は妹を守って捨て身で俺を倒そうとし…」
「そして、禰豆子が兄を庇った。俺から。鬼の禰豆子が」
「俺は、それで」
「………」
「いや…」
目の前で噤まれた口、言葉は言葉になり切らず出所を失う。
以前と同じ何を考えているか傍目にはよくわからぬ顔の男。
しかしそのしめやかに落とされた沈黙はもう不死川を苛つかせはしなかった。
目の前の男の想いを、どんな想いで何を為したかを、既に彼は知っていた。
あの夜に。今しがたここで。
それでの先はこいつの中にしまっておけばいい。
そのまま不死川は言う。
「言いたくなきゃ言わねぇでいい」
「尋問じゃねェ」
はっと顔を上げた冨岡から、つと横を向くと不死川はぼそっと言った。
「お前の判断は間違っちゃァいなかった」
「それどころか」
そこで言葉が途切れ、しばしの間が空く。
先に口を開いたのは冨岡だった。
「お前を、また」
「あ?」
(また怒らせたかと…)
怒らないこの男。
俺という人間に怒っているのではなかったのか、この男は。
意外な思いを抱いて、少し下を見詰めながら冨岡は続ける。
「俺は鬼になってからの禰豆子しか知らなかった」
「だが禰豆子は…」
「人の禰豆子は屈託なく笑い、真からひとの事ばかりに心を砕いて」
それきり言葉を切った冨岡は、顔を上げて不死川に視線を合わせると言った。
「だから、何でもない」
「何でもない」
訥々と言葉を繋ぐ男の目はどこまでも
真面目で、だから不死川は何が何でもないんだと突っ込む間を失った。
代わりに、傷のある顔で男は言う。
「竈門は妹を信じて人に戻したんだ。よくやったじゃねぇか」
「鬼は元は人だ。だがそんなことができると誰が思ったよ?」
その言葉に冨岡のこころがある記憶を手繰り寄せる。
先の闘いの
最中目の前でただ一人の家族を亡くしたこの男に。
言わぬ方がいいだろうか、これを。
だが。
僅か前にのめるような口調で冨岡は話し始めた。
「炭治郎はな」
「俺も炭治郎のことを詳しく知っていた訳じゃない」
「二度目にあった時、たった今炭治郎に止めを刺そうとした下弦を俺が斬った」
掴み所のない冨岡の話を不死川は黙って聞いていた。
「その鬼の残った着物を踏んでにじった俺の足を掴んであいつは言ったんだ」
「鬼は人だった。鬼は悲しい生き物だ、と」
「今自分を殺めようとした鬼のことを」
「…そいつはわからんでもねェ。妹が鬼だった」
「鬼を哀れんだ人間は俺の知る限り二人しかいない」
「竈門炭治郎と、胡蝶カナエだ」
「……クソ!」
不死川は冨岡にくるりと背を向けて天を仰いだ。
その背の見慣れた一つ文字。白い髪と羽織に降る日の光が跳ね、眩しさを冨岡の瞳に残す。
後ろを向いたまま男は言った。
「…だからだ」
「俺ァあのガキが苦手だ」
「ずっとな」
竈門と妹が動かした新しい世界。
鬼と仲良く、そう言ったあいつは。
あいつだけじゃねぇ。皆がずっと見ていた長い夢はかなった。
今燦燦とふりそそぐこの陽の下で。
「炭治郎はともかく、胡蝶はどこからそんな考えを抱いたんだろうな」
「さあなァ」
傷にそっと触れたお袋みたいなあの手。
あかぎれのできたあの手のような、優しい。
「何かあったとして俺は知らねェ」
「俺が知ってんのは」
「頓狂な女なんだよ、あいつはなァ」
──俺はいったい何を言ってる。
今ここであれほど嫌った男と二人きりで共に立っている己に不死川は驚かずにいられなかった。
話ができるのか。こいつと。
不死川は玉砂利を踏んで冨岡に向き直ると、言った。
「いつにする」
「何の事だ?」
「飯、食うんだろ」
目の前の冨岡の眼が僅かに見開かれ顔には少し色味が差した。
しかし、相変わらずの静かな貌を崩さずに男は言う。
「気が向いたか?」
「あァ、向いた向いた」
第二
「胡蝶、テメェあのガキの何を知ってる」
「まあ、何のことでしょう?」
「とぼけんじゃねぇぞォ」
「テメェの怒った面なんざァ見飽きてんだよ」
「あら」
まだまだ精進が足りない。感情の制御が肝要と今一度肝に銘じなければ。
胡蝶しのぶは心中で嘆息した。
「なんであのガキを庇う!」
「冨岡に何か吹き込まれやがったなァ?」
あの後蜘蛛の山で何故お館様が鬼を確保するのかと問い詰めた私に、相も変わらずの寡黙な男は今度は端折りすぎの口調でぽつぽつと語った。
「あれは人を守る鬼だ」
「あの少年はこう言った」
「鬼は悲しい生き物だと」
そうして私の目をあの内面を読み切れない青い目でじっと見る。
「お前の姉のように」
胡蝶は苦笑して言った。
「もう、鋭いというか、鈍感というか不死川さんは」
「アァ?」
「だ か ら、うちで預かったんですよ」
「不死川さんが証明してくれたじゃありませんか。”彼女”は人に手を出さない」
「血の誘惑にも耐える。それが例え稀血でも」
「近くに置いて鬼を観察できるまたとない機会です。それに」
藤の色に透き通った瞳を胡蝶は不死川に向け、腰の柄をするりと撫でた。
「私なら、優しく殺してあげることができますから」
不死川は少し語調を緩め、しかしその目は胡蝶を睨んだままで言った。
「その言葉、違えんじゃねぇぞ」
「まあ、信用ないんですね私」
口に手を当てて女はころころと笑った。
それからちらと視線を上げて不死川に目を合わせる。
「まだ姉さんには追い付けないみたい」
「…チッ!」
舌打ちをして腹立たし気に歩み去る男の背中の一つ文字を胡蝶は見送る。
(まあ、大丈夫だと思いますけどね。お館様もああ言うんだし)
鬼を家に、家族の傍に置くという行為に芯から身が打ち震えるような嫌悪を感じる。同時に遥かに届かぬ光のようだった何かが心に宿るのも。
それが大丈夫だという確信なのか、それとも大丈夫であってくれという心の奥底からの希望なのか、当の胡蝶本人にも分ってはいなかった。
「冨岡さん、あの子とっても勇気があるのね!頑張ってほしいわ」
「ああ、柱の前でなかなか度胸が据わっているな!案外大物になるかもしれん、楽しみだ!」
「…」
不死川に煽られ、伊黒に抑えられつつあの少年は強固な闘志と力とを皆に知らしめた。
竈門炭治郎。鬼の妹。
それからまた不死川の行動が、図らずもあの鬼の娘の他とは一線を隔す性を皆の前に露わにして見せた。
図らずも… いや、あの場に彼らを呼んだ時から全てはあの方の手の内なのか。
兄弟子の遺書を用意して不死川に読んで聞かせたあの時のように。
父親を口実に煉獄に柱への道をつけたあの時のように。
先刻、不死川が鬼の箱を掲げて現れた時。
不死川なら疑いもなく鬼をその場で殺す気なのだと思った。
ならば即座に割って入ろうと、だがあの男はそうはしなかった。
代わりに、まず鬼を刺して見せた。あの時の俺と同じに。
怒りを。純粋な怒りを。
そうでなければ、生きていけない。
片方は鬼になりながら互いを守る兄妹。
あの荒ぶる男があの時あの禰豆子を見たらどうだったか?
守る鬼を。
亡き想い人と同じ心を口にした少年をそうと知ったら。
いや、考えても詮ないことだ。
その疑問は何処へ出て行くこともなく冨岡の内にひっそりとしまい込まれた。
あの鬼の娘もまたあの夜と同じに血を喰らわず己を保った。
あの時不死川の腕に鬼の娘が喰らいついていれば今自分はここに立ってはいない。
柱は皆知っている。不死川は、稀血なのだと。
その血ですらあの娘は退けた。
特別なのだ、確かに。
そして兄はきっと受け継ぐことができる。
その時ようやく俺がここに立つ日々も終わるのだろう。
「冨岡さん、お昼は?」
「いや、俺は…」
「予定がなければ一緒にどうだ?たまには柱同士親交を深めるのも良いだろう!」
「いいですね!私伊黒さんにも声を掛けてみようかしら」
「伊黒なら向こうで不死川と何やら話していたぞ」
「どう思う、悲鳴嶼さんよ」
「あの不死川に食って掛かる子供。人を喰わぬ不可思議な鬼の娘…。さて」
「正直なところ私はまだ腹を決めかねている。お館様にはお館様の考えがおありだろうが」
ふんと鼻を鳴らして宇髄は言う。
「人を喰うなら斬る」
「人を喰わねえなら何ら問題はねえ」
「利用できるものは何だって使う。当たり前のことだ」
宇髄は長身の自分の背丈を優に越す岩柱の顔を振り仰いだ。
「だが見たか?あのプンとそっぽを向いた顔」
「あの鬼は真からガキだな」
悲鳴嶼の盲いた目はそれには応えず、その手はただ握った数珠をじゃらりと回した。
「お前は、子供というものを知っているのか?」
「ああ?ガキなら隊にもいるようだがな」
「ガキといえば」
「おい時透!俺様が昼飯を奢ってやろう。一緒に来い!」
「…声が大きいよ」
こちらへ来る不死川を見て傍に寄ってきた蛇柱が言う。
「見たか。一体何だ、あれは」
「…」
無言で不死川は前を睨み据える。見たか?ああ見た。
あの、鬼。今もまだ己の目が信用ならねぇが。
「冨岡の奴めもあれを見たのか。だから…」
「あの小僧が無惨と遭遇したことが何か関係するのか?」
「そうかも知れねぇな」
「確かに貴重な情報源だ。鬼の方も人は喰わねェ」
「今のところはなァ」
左右の色の違った瞳を鋭く光らせて伊黒は言った。
「俺は何も信用しない」
「聞くだにおぞましい。鬼を内に置くという事がどういう事か」
しかしお館様もあれを置く心算だ。
胡蝶の言う通り鬼の性質を検める好機になるだろう。
だが。
「腹を斬る道理がねェ」
「冨岡のみならず、育手までもだ。何故だ?」
人を喰わねえから?だから、なんだ。
なんでそれで命を張って守る必要がある。
「くそが」
鬼に与する柱だと。
鬼に腹を賭ける。お館様が鬼を容認する。そこの間に一体何がある?
どうせ俺らには何も言いやがらねェ。
「胡散臭ぇ野郎だ」
「同感だな」
「お館様の命だ、あのガキにはこれ以上関わらねェ。だが鬼からは目を離さねぇぜ」
「ああ。鬼殺隊に鬼を飼って一度事有らば取り返しがつかん。冨岡の腹ごときではな」
「その通りだ」
鬼は斬る。それだけだ。
鬼に味方する信条なんざ、それこそ鬼に喰われてしまやァいい。
チケット確保。ツレ確保。ウキウキレッツゴーライビュ上映(ヒュー!)