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    少し前出先でコンビニに入り昼時のレジ列に並んでいた時、ふとレジ脇のあるものが目に入ってきた。ガムである。半額シールの貼られた不死川のイラスト入りのガム。あたかも「あらこんなところに割引ガムがあるじゃないの。ま、一つくらい買っといてもいいかしら」といったような体でメインの買い物の横にすっとそれを並べた私にあろうことか朗らかな声で店員のお姉さんはこう言い放った。「あっ実弥君お好きなんですか?最後の一個なんです。ありがとうございます!」

    顔から火が出る思い、とはこのことである。いやわかっている、店員さんに悪意は1ミリもない。だが昼のオフィス街のコンビニのこととて周りはほぼほぼビジネスパーソン、そんなモードに「実弥君」が闖入するとは誰が想像できようか。油断していた、といわれればそれはそうかもしれない。うっかりしていた、そうなのかもしれない。しかし自分には「こしあんですか?つぶあんですか?」と炭治郎に叫ばれてしまった不死川の状況が痛いほどわかる。もしかして更にそこに偶々折り合いの良くない同僚(というものがいるとして)が居合わせ、悪気の一かけらもなく「るげ(苗字)はさねみが好きなのか」などと感情の読めない顔で言われたとしたならばこれは。いや、いやいや嫌いではないよ。というか好きだがそれとこれとは別である。居た堪れない、という言葉がここまでしっくりくる状況もそうはなく。まあとくにそれで何かがあったという訳でもなく、こちらの事情は知っているが一般人の連れに目を丸くされ、店を出てから「さ ね み くん?」とからかわれた位ではあったのだが。



    こんな事例で鬼滅のキャラの事情が分かるというのもあれですが、自分には割と心情が分かるかもしれないと思われるようなキャラクターがいる。鬼舞辻無惨である(なんかすみません…)。無惨の主張はなんというか分かるのだ。例えばこの言葉「私が嫌いなものは"変化"だ」。そう、今目の前にある日常が変わって欲しくないという思いが自分には確かにある。松下幸之助らにはたしなめられそうだが、とりあえず今の状況を保持したい。悪化させたくない。「凡ゆる変化は殆どの場合”劣化”だ 衰えなのだ」。死の中で生まれ、死を何より恐れた無惨。死なないために彼は一体どれほどの努力をしたことか。医者に頼んで不死となり、自分の体を切り刻んでくる刀に負けぬよう肉体を改造し、照り付ける太陽にも負けぬよう鬼を増やす実験をし青い彼岸花を探し続け、世界を征服するなどの野望は持たず、少しの人間を食べ、   ……まあ全部自分のためなんだけどね。
    「私が嫌いなものは"変化"だ」そう言った鬼舞辻無惨。「何の変哲もない日々がいつまでもいつまでも続きますように」そう言った竈門炭治郎。出発点が「自分(特に、可哀想な自分)のため」、であるものと「自分以外の誰かのため」であるものでは似た言葉を発したとしても全く異なる文脈となるのは言うまでもない。だから「何度生まれ変わっても俺は鬼になる」と言い切った妓夫太郎が、やったことはともかくとして私は好きである。人間の部分を多く残していたものから負けていくと無惨は言い、上弦の壱と参も結局は自分の中の人間に勝てなかった。そう、鬼はかつて人であった。しかし鬼は人を食い、そして無惨の血の作用は人と人とが慈しみあって作り上げた絆を一瞬にして叩き壊す。鬼殺はその無惨に端を発するシステムとの戦いであり、鬼を人に戻す薬ができた時、それは何をおいても鬼を生み出すオリジンである無惨に使われねばならなかった。

    しかし、自分を完全なその状態で留めたいとするその無惨の論理を私は否定しきれない。自分が自分であるために邪魔をされたくない、私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思えというその傲慢と小心。そして恐らくはそのことを誰一人、部下でさえ肯定しない。無惨のその孤独が自分に理解できるとは言わない。しかし無惨の自己中心さは理解できる。無惨の心の小ささは理解できると思う。生を受けてより初めて人の心の絆に触れ、感動し、しかしそれをも自分の生への渇望の充足手段として用いようとする無惨。誰かに継いでもらえば彼の想いもまた普遍になる。邪魔者を排除してただ生き続けたい死にたくないという彼の想いが。それは言わば自分の忠実なコピーを生み出し続けることに他ならない。それだから私は善逸が好きなのだと思う。卑怯で、怠け者で、不貞腐れると自分勝手に自伝を書いてしまう善逸が。鬼殺隊をやめて5キロ太った善逸。(キロ?キロか)皿洗いくらいはして嫌われないギリギリを攻める男善逸。だってかれは別に勤勉な人間ではない。それでも誰かのために、そんな小さな自分を超えたいと、変えたいと思っていた善逸が好きである。自分が無惨に似た心ちいさきものであるからこそ。

    善逸は信じたいものを信じる。「なぜお前はここにいるんだ!!なぜお前はここにしがみつく!!」獪岳にそう言われ答えられない善逸。彼はけして強制されてのみそこにいたわけではない。殴られて、叩きのめされて、泣き喚いて、痛いのもきついのも嫌だけれど彼は鬼殺から本当には去ってはいかなかった。ここでならきっと自分のなりたかったものになれる。その力を本当にしたかったことに使うことができる。長い長い人生の、ほんの数年間だけ剣士として精彩を放ち生きた善逸。曾孫には「怖がりのひいおじいちゃん」と呼ばれ、しかし禰豆子にとって善逸は紛れもなくヒーローだったのではないだろうか。初めて箱の中で会った時から恐らくはその人生が幕を下ろす時までずっと。そして善逸もきっと自分の決めた約束を守ったのだろう、最後まで。彼はこう言っていた。「禰豆子ちゃんは、俺が守る」と。彼は、禰豆子が本当に好きだったのだ。どうしようもなく。果たされなかった約束は鬼滅にもリアルにもたくさんある。だからこそ果たされた約束はどれだけ貴重なものに思われるか。それはその人が、周囲の者たちと手を携えて、想いを繋いで勝ち取ったものなのだ。




    それとは全く関係ないのだが(いやほんとに)、今年はまた4年ぶりのラグビーWCの開催年である。いつからか開催前の特集番組や事後のインタビューで何度も聞くようになった言葉がある。「あんなキツいトレーニングをしたことがない」、そしてそれは誇張やブラフではなく淡々とした事実であるということが報道を見れば多分誰にでもわかる。言ってみれば球技でありながらフルコンタクト的な競技であって休みを取らぬぶっ続けの訓練、その間水分もほとんどとることがない。自分はラグビーは放映されるテストマッチを普通に応援する程度のライト視聴者であるが、試合を見るたびにあのじりじりとした前進の困難さにため息をつく。その前進をより強く前進たらしめるためにあの屈強な男たちがプロ格闘家もかくやという(チリに至っては軍内で)訓練を積んで、各々の欠点を修正し、自分と集団の力の使い方を覚え、そして最後は「死ぬほど鍛える 結局それ以外にできることないと思うよ」。その真菰の言葉も純然たる事実なのであるという事が直に伝わってくる。それでも、勝てるとは限らない。「努力は どれだけしても足りないんだよ」という錆兎の言葉もまた同様に純然たる事実である。偶々ラグビーを見てそんな感想を抱いたが、他の競技にしてもそれは当然そうであるだろう。ただ「勝つ」という事の困難さ。この後の柱稽古編の各柱の訓練をアニメで盛っり盛りにしてもらえると大変喜ばしいです。誰得かと言えばただただ自分にとって。

    しかしこれ善逸の誕生日に書き始めてこの有様。んもう。






    るげ Link Message Mute
    2023/09/18 3:13:02

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    👹つれづれ
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