残雪『執行部臨時メンバー募集――二週間の作業補佐』
壁に貼られたポスターに釘付けになったのは、珍しく魔界に雪が降ったある日のことだった。こんな募集は初めて見た。働いてみたい。臨時で補佐でも構わない。好きな人の傍で働きたい。それも立派な理由でしょ? 善は急げ――以前読んだ人間界の本に書いてあった――とさっそく受付場所である議場に向かった。
議場では驚くことにディアボロ殿下自らが受付をしていた。後ろにはいつも通りバルバトス様が控えている。
「君のような優秀な生徒が来てくれるとは嬉しいよ」
私のような一般生徒を認識していたことに驚く。言い方からすると、私の成績も把握している模様。とはいえ、採用するかどうかは審査期間の素行や成績などを経て総合的に判断するらしい。
「今度は君が執行部の一員としてここを訪れることを楽しみにしているよ」
「期待を裏切らないよう、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。頑張ります」
お世辞でも嬉しい。臨時で補佐でも絶対に執行部入りしてみせる、と気を引き締めた。
どうやら三界の融和に賛成する生徒は数多くいても、そのお膝元で直接働こうという奇特な悪魔は少なかったようで、あっさりと採用が決定した。一緒に採用された生徒は他にも二名ほど。
補佐を募集するくらいだけあって仕事は当然のように忙しかったけど、好きな人の近くで働けるのはやっぱり嬉しい。このままこの仕事がずっと続けばいいのにとすら思った。
図書館の書庫で資料を探していたある日のこと。資料と思って手に取った本はアルバムだった。
執行部の昔の写真をまとめたものらしい。ルシファー様やサタン様が写っている。前はこんな服装をしてらしたのね、などと興味深くアルバムを捲っていく。何ページか遡ったところで見知らぬ人間が写り始めた。皆その人間を中心に楽しそうに笑って写っている。そういえば前に聞いたことがある。私が生まれる前、何百年も昔、ソロモンの他にもう一人、人間界からの留学生がいたと。その人間が写ったページ数はやけに多くて、楽しい日々だったことが察せられた。
……あれ? 何ページか前に戻って確かめようとしたところで外から声がかけられた。
「すみません。こちらを手伝っていただけますか」
「あ、はい。今すぐ」
ぱたんとアルバムを閉じて元の場所に戻し、声の方へ向かった。
日の差さない魔界の雪解けは遅い。
降り積もった雪がまだ残る頃、臨時採用は明日で終わりを迎えようとしていた。
「明日の放課後、時間はあるかな」
帰り際に殿下から呼び止められた。短い期間だったけど、急な差し込みの仕事や会議には既に慣れ切っていた。
「はい。大丈夫です。他の二人にも待機するよう言っておきます」
「いや、仕事じゃないよ。よく働いてくれたから君たちを労おうと思ってね」
「そんな、執行部補佐として当然の仕事をしているまでです」
「執行部でも働かないものはおりますので」
……名前を出すのは失礼なのでやめておく。
「本当は魔王城でのお茶会に招待したいところだけど、時間の都合上難しくてね。食堂でもいいかな」
「そんな、労って頂けるだけで充分です」
「では、明日の放課後、皆様で食堂までお越しください」
かくして、食堂で臨時のお茶会が開かれることとなった。
慣れないことをするものではない。少しでも良いところを見せたくて、普段しないティーカップの持ち方をした私は、見事に紅茶をテーブルの上に撒くことになった。
「せっかく淹れてくださったのに、申し訳ありません」
「お怪我はございませんか? それとお召し物も」
「私は大丈夫です」
バルバトス様は慌てる様子もなく、テーブルを拭き、紅茶で濡れた手袋を外した。手が露わになり、その指に指輪が嵌められているのが見えた。
「淹れ直してまいりますので少々お待ちください」
厨房へ去っていくバルバトス様を見ながら、他の二人は「指輪なんてするんだね」と意外そうにするだけだったけど、私はあれが何か知っている。――以前読んだ人間界の本に書いてあったから。
私に何か出来ることがない以上、三人で思い出話でもしながら待っているのが正しいのだろう。けど、さっきの指輪が気になる。
ただの見間違いかもしれないという希望的観測。それに最終日、好きな人と少しでもお喋りしたいという下心が少し。
「やっぱり私、手伝ってきます」
「バ――」
厨房に入り、声をかけようとして言葉を飲み込んだ。お湯が沸くのを待っているであろうバルバトス様の視線は左手の薬指、正確には左手の薬指で光る指輪に注がれていた。遠くを見るような、懐かしむような、愛おしい何かを見るような視線。それなのに、表情は悲しみに覆われていた。
嗚呼――。
その瞬間、理解した。あれはやっぱり、結婚指輪。アルバムに載っていたあの人間が、二人で写る最後の写真の中で着けていた指輪と同じもの。そして、きっと、今頃は冷たい土の下で永い永い眠りについて、愛する人との待ち合わせをしているのだろう。その左手の薬指にお揃いの指輪をして。
馬鹿な人間。悪魔の寿命が何年あると思ってるの。心変わりしないなんて限らないのに。
でも、きっと、そんなことは他人に言われるまでもなくお互い承知のはず。なんて羨ましいの。……かなわない。
窓の外では、また雪が降りだした。
降り積もるバルバトス様の哀惜も、残り続けるあの人間の望みも、淡い私の恋心も、みんなみんな、雪のように解けて消えてしまえばいいのにと思った。