自分のものには印をつけましょう コルヴォのバスルームで鏡を見て、ウッと小さな声が出た。もうだいぶ暖かくなってきたからと胸元のあいたブラウスしか持ってこなかったのは失敗だった。とりあえず、スーツケースに念のためと放り込んでおいた厚手のストールを羽織って、前をしっかりと合わせた。
ソファに座ってバルバトスさんが外から戻ってくるのを待つ。執行部の三週間にも及ぶ繁忙期が終わった後の久しぶりの休日はせっかくだからと人間界で過ごすことに決めた。この後は二人で出かけることになっている。
窓の外には休日の初日に相応しい青い空が広がって、日が高い位置に来ていた。眠りに落ちる前に、うっすらと白む空を見た気がするから当たり前か。
「お待たせいたしました」
私の服装を見たバルバトスさんの顔が曇る。
「お体の具合でも……?」
隣に座り、私の顔を覗き込む。心配するのも無理はない。今日の天気からするとこの格好はどう考えても暑い。
「あの、いえ……大丈夫です」
「無理をなさる必要はありません。本日はこちらで過ごしましょう」
このままだと楽しみにしていた、カフェの限定メニューやせっかく二人で見るからといい席を取った映画が中止になってしまう。
「これは……その……」
事実をありのまま言うのも気が引ける。
「なんというか……」
いい言い訳が思いつかない。
「昨日の痕が、ですね」
天秤はデートに傾いた。
しぶしぶとストールを解いて晒した私の胸元に咲くいくつもの赤い痕を見たバルバトスさんは顔を赤らめて視線を外した。
「申し訳ありません……その、久しぶりの逢瀬だったものですから」
謝る必要なんてないのに。いつも着ているような服なら隠れていたことから、ちゃんと気遣ってくれたのだとわかる。それに三週間なんて悪魔にとってはきっと一瞬なのに、『久しぶり』だなんてそれだけ会いたいと思ってくれていたのだろうか。
「お体の方は差し障りないのですね」
「はい」
落ち着きを取り戻すかのように、ふう、と軽く息を吐いたバルバトスさんはもういつも通りのバルバトスさんだった。
「では、そちらを何とかしましょう。失礼します」
指先がブラウスの一番上のボタンを外し、赤い痕跡に触れた。指は冷たいのに、不思議と触れられたところが少し温かくなった気がした。
「治癒魔法です。結局は軽い怪我ですから」
それはそうだけど、身も蓋もない。
ゆっくりと、一つ一つ丁寧に指が触れて痕が消されていく。触れられるたびに、これはあの時かな、こっちはもしかしてあれかな、などと昨夜の記憶が頭をよぎる。
鏡で見えたところはこれで全部と思ったあたりで、肌をなぞる手が背後にまわり、うなじの少し下あたりに触れる。いつの間にそんなところまで。
そういえば、バルバトスさんにも私が付けてしまった痕があるはずだけど、それはどうしたんだろう?
「大変失礼いたしました。これなら外出に支障はないかと」
「ありがとうございます。あの、私が付けた痕も消した方が」
そうは言っても抜かりない彼のことだからきっと、とっくに消したものと思っていた。
「あなたからの頂き物ですから」
と自身の襟を少し捲ったそこにはさっき消してもらったものと同じような痕跡があった。
恥ずかしくも嬉しい答えをくれつつ、ついさっきまで肌に触れていたその指でボタンを留めてくれる。
「それなら」
手が止まった。
「私も一つくらい残してもらえばよかったです」
冗談のつもりだった。見えないところにはまだ残っているはずだから、そう言われて終わりだと思ったのに。
「かしこまりました」
「え?」
その瞬間、まるで留まっていなかったのかのような滑らかさでボタンが一つ二つと開けられ、胸元の下の方、というよりほぼ胸にバルバトスさんの唇が触れた。直後、甘い痛みが走る。思わず声が出そうになるのを抑えた。
「ご満足いただけましたか?」
――。返事をしようとした唇はバルバトスさんの指で遮られた。
「そろそろ出なくては映画の時間に遅れます。楽しみにしていたのでしょう?」
そうだった。ここで行かなかったら本末転倒が過ぎる。
「続きは帰ってきてからにしましょうか」
ストールを置き、差し出された手を取って立ち上がった。
***
嘆きの館に帰宅した私をドアの前で出迎えてくれたのはルシファーだった。
「ここ数日、世話になったな」
「ありがとうございました。楽しかったです」
「私も大変楽しかったです。次の休暇もぜひご一緒できればと思います」
「こんなところで話してないで、早く魔王城に戻った方がいいんじゃないのか? ディアボロが待ちわびていたぞ」
「そうですね。では、失礼いたします」
バルバトスさんを見送ったルシファーがこちらに向き直り、私の服装を一瞥してため息をつく。
「……まあいい。それについては聞かないでおいてやる」
小さくお礼を言うと、厳重に巻いたストールの襟元をきゅっと握って部屋へ駆け込んだ。