様子を見に来ただけなのに いつも喧騒に溢れているThe Fallのフロアは静まり返っていた。
その代わり店中の視線は痛いほどこちらに刺さっている。当たり前だ。
紫色に金糸の刺繍が施された瀟洒なソファ、私を挟むようにバルバトスさんとルシファーが座っている。普段であればこの二人を左右に従えているのはディアボロくらいしかいない。それは魔界では頻繁に見ることのできるありふれた光景だ。
でも、その二人がバニー姿なのは今ここでしか見られないだろう。その上、一方はキャロットジュレをスプーンで差し出し、もう一方はキャロットケーキをフォークで差し出している。しかも差し出す相手は人間ときている。
こんなの見ない方がおかしい。
「少し甘やかしすぎじゃないのか?」
「あなたこそ過保護では?」
さっきから私を挟んで火花が散っている気がする。
「大切なお方ですからこのくらい当たり前では? その程度の事、あなたほどの悪魔がわからないわけではないでしょう、ルシファー」
「保護者として悪い虫が付かないようにするのは当然だと思うが? 次期魔王の執事様であればそのくらい理解していると思ったがまさか知らないとはな、バルバトス」
「まさか。よく存じ上げております」
「奇遇だな、俺もだ」
ずっとこんな調子で、私は未だに何も食べられていない。どちらを選んでも揉めるのが目に見えているからだ。
居心地の悪さに耐えていると、どこからか好奇心とは違う視線を感じた。
見回すと、バックヤードに通じる扉の横でオーナーが「いい加減にしろ」という顔でこちらを見ていた。
せっかく今日のバニーの日イベントのメインキャストにと三日三晩頼み込んで、ようやく応じた二人がこの状態ではうんざりもするだろう。ちなみにディアボロは概要を説明した時点で乗り気だったので交渉が難航したのはこの二人の責任といえる。
もうオーナーしか頼りにできない。お願いします、と頷くと許可が出るのを待っていたかのように早足でこちらに近付いてきた。
「お取込み中失礼致します。そろそろ他のお客様からもお二方にお会いしたいとのお声を頂いておりまして……」
「そうか、すまなかった」
「それは申し訳ありません」
そう言いながらも二人とも立ち上がろうとする様子はない。先に席を立った方が負けとでも言わんばかりだ。
「お先にどうぞ」
「お前が先に行ったらどうだ」
ついにオーナーがうんざりした表情を隠さずに「なんとかしてくれ」という視線を向けてくる。
たぶん私に責任はないのだけど、この事態をどうにか出来るのは私だけだろう。仕方ない。
どちらを選んだ、と取られないように素っ気なくスプーンとフォークを受け取り、素早くジュレとケーキを平らげる。夕飯前で助かった。二人が呆気に取られた表情をしていたのには気付かなかったことにする。
「ごちそうさまでした。そろそろ帰ります。元々様子を見に来ただけですぐ帰るつもりだったので」
そう言って席を立つと、二人もようやく立ち上がった。
店内にいるひとほぼ全員の注目を集めながら歩く店の出口までの長いこと長いこと。客としても店員としても何度もThe Fallの店内を歩いたけど、これほど長く感じたのは今まで一度もなかった。通路を歩く私の両側にはバルバトスさんとルシファー。
ここまで来るにも紆余曲折があった。
私が立ち上がるなり
「出口までお送りします」
「出口まで送っていこう」
同じ言葉が同じタイミングで発された。
「見送りは一人で充分だと思わないか?」
「そうですね。ですから私が。皆様お待ちのようですし、その間他のお客様の元へ挨拶に行ってはいかがですか?」
「そこまでわかっているならお前が率先して行ったらどうだ?」
「私はお見送りという重要な仕事がありますので」
「他の客への挨拶は重要ではないと?」
「とんでもない。同じくらい重要ですのでルシファー、あなたにお任せします」
埒が明かない。溜息を一つつくと、この不毛な争いを終わらせるべく二人の真ん中に割って入った。
「わかりました。二人でお見送りしてください」
「もう好きにしてくれ」と肩を落とすオーナーを視界の隅に見た。
さすがにドアの外までは遠慮した。
「ご来店ありがとうございました」
「またのお越しをお待ちしております」
店員らしい挨拶をしてバニーの耳と頭を下げる二人の向こうには喧騒を取り戻しつつあるフロアと安心するオーナーの顔が見えた。
「二人とも頑張ってくださいね」
ドアが閉まりきる直前、足元に何かがひらりと舞い、バルバトスさんがわずかに顔を上げてウインクをした気がした。
足元にはハンカチが一枚。拾い上げた瞬間、二つの着信音が重なって一度しか鳴っていないと錯覚するくらい同時に二人からチャットが届き、帰ってからの第二ラウンドの予感にハンカチ片手に頭を抱えるのだった。