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    翠玉の心酔 髪を伸ばすようにしたのか、それは出会う人々(ひとひと)に聞かれるからなんだか可笑しかった。
    「えっ? もともとは、切りそろえていたんですか?」
    「そうだよ」
     だから、髪を伸ばすようにしてから出逢った彼女は知らなかったのだろう。
    「長くするのも面倒だし、ある程度の長さに切りそろえていたんだよ。そうした方が髪型を考えなくて良いし、楽だったから」
    「じゃあ、なんで伸ばすように?」
     そう彼女から聞かれて、はたと考える。
    「願掛け、かな」
    「……それは聞いてもいいことですか?」
     彼女は気遣いが出来る優しい人だ。
    「――うん、これは決意なんだ」
    「……決意」
     彼女はとても聡い、だからそれ以上は聞こうとしない。


     ――そう、これはひとりで生きていくという決意だ。



     常に天上には星々が輝くこの世界では、それらを神と崇め大切にしてきた。
     世界の極西に位置する小さな大陸、白亜の王宮があるこの国では獣人、妖精、そして人間がともに暮らしていた。

     そんな小さな王国の王都の片隅で、ひっそりと診療所を構えている彼女、ソニアは蒼白な顔で無言のまま立ち尽くしてしまったし、彼女を見てこちらに走ってくる男――第六騎士団長フェルナンドも同様に真っ青な顔をしていた。

    「明日、家がなくなりますよ」なんて言われたら絶対に信じなかっただろうが、そんな夢のような出来事が現実に起きてしまった。


    「ここに、欲しい値段をいくらでも、いくらでも書いて欲しい」
     いくらでも、を強調しながらフェルナンドは真っ青な顔と震える手でこちらに紙を渡してきた。ペンで金額をかけということなのか、空中を浮いてペンがこちらにやってきた。
    「いや、そんなことを言われても……いくらかなんて、分からないですし……」
     ソニアが言い淀むと、フェルナンドはやはり震える唇で「それもそうだね」と返した。震えすぎた声色のせいで語尾はよく聞き取れなかった。
    「魔女を追っていたとはいえ、不可抗力とはいえ、君の家を壊したのは僕たちの――いや、僕の責任だ。だから君は欲しい家の間取りから家具、なんでも注文をつけてくれ。前とそっくり同じものも用意してみせるから、なんでも言ってくれ」
     なんでも言ってくれ、のあたりが強い声であるもののとぎれとぎれだった。
     そんな彼を落ち着かせなければ、と家を失いながらも冷静になっているのは職故か、ソニアは穏やかな声色で話す。
    「ちゃんと説明して貰いました……魔女を追っていたところ、浮遊して逃げられそうになり魔法を使った。でもちょうどその真下が我が家だったんですよね。それはその、仕方が無いことだと分かっていますし、事件も無事解決したんですから、団長さんはそんなに自分を責めなくても……」
     ソニアが声をかけても、フェルナンドは顔を上げない。
    「それでも、防御結界を展開できなかった僕の落ち度です。部下の不始末を目の前で見ていたのに、何も出来なかった」
    「でも……」
     フェルナンドは責任感が強すぎる、確かに家を失いはしたがあくまで屋根と壁が吹き飛ばされてしまった程度で家具や薬類、書物にはなんの影響もなかったのだから、本当に引っ越せば済む話なのは不幸中の幸いだった。場所さえあれば医者という仕事も続けられるだろう。だからそんなに気にしないでくれ、と伝えたところで逆効果だと気がついたソニアはどうしたものかと悩んでいた。
    「とりあえず家が建つまでの間、泊まれるところと荷物を移して診療所を開けるところを用意して貰えませんか? 家のことやお金のことはもう少しゆっくり考えたいです」
    「……分かった」
     フェルナンドはやっと顔を上げて力強く頷いてくれた。
     やはり気にしないで、とかフォローにまわるよりこちらの方が彼にとって楽だったようだ。彼の顔色を見て、なんだかソニアまでほっとした。
    「出来れば、前の家から近いところが良いのですが」
     ソニアがそう言うと、フェルナンドは少し考えるように顎に手を当てていたが口を開いた。
    「宿はすぐにでも用意できると思うんだけど、診療所の方は……その、個人の家を間借りするとかでも大丈夫だろうか?」
    「はい、大丈夫です」
     診療所といっても、怪我人を看病するためのベッドに、様々な薬品の置き場所も必要だしその匂いもある。看板を立てる必要もあるし、心理面の支援があるために個室も必要だ。そこまで考えると、お金を払うとはいえそんな事情を抱え込んでくれる宿が見つからないということだろう。
     どこであれ診療所が開けるのなら金銭面はなんとかなるし、家の再建が長期になった場合も安心だ。
    「じゃあ、僕の家でっていうのはどうだ?」
    「え?」
    「もちろん、診療所として使えるかどうか見てから決めてくれてかまわない」
     それは思ってもみない言葉だったが、せっかくの好意だ。ソニアはとりあえず頷いた。



    「ここ、本当にひとりで住んでいるんですか?」
    「ああ、数年前までは同居人がいたけど出ていってからはひとりだ」
     同居人が何人かは知らないが、口ぶりからしてひとりだろう。同居人がいたにしてもこの家は広すぎる。天井は高いし、柱にも細々とした装飾が施されている。よく磨かれて温かみのある調度品はどれも高そうだ。どう考えてもこれは……。
    「何か気になることでも?」
     フェルナンドに尋ねられて、少し考えて聞いてみることにした。
    「この家は別荘か何かですか?」
    「ああえっと……僕の知り合いに一人暮らしをするならと譲ってもらった別荘だね」
    「そうなんですか」
    「どうしてそんなことを?」
     そう彼は言ってから、自分でソニアの考えに辿りついたらしい。
    「僕が貴族だとわかったが、それにしてはこの家は狭すぎるから、別荘だと思った?」
    「そうです。立ち振舞いも発音も綺麗だから、そうかなと前から」
    「ああ、そっちでバレちゃったのか。別に隠してはいないけど……そうだね、僕は貴族出身だよ。家とは縁を切ったけど。たしかにこの家の元の持ち主は僕の貴族としての知り合いだから、君の考えたことは大筋正しい」
     彼はそう説明しながらも、部屋の扉を開けてくれた。
    「ここでどうだろう? 外からの入口もあるから中部屋を通り抜ける必要はないし、家の中とはここで鍵をかけて分けることが出来る。鍵はもちろん取り替えてくれて構わない。ベッドは同居人が使っていたものがあるからそれを運ぼう。ベッドにしろ他にも数が必要なものは僕が買い揃えるよ。どうかな?」
     通された部屋は玄関から伸びた廊下を歩き、右に入った大きい居間からつながっていた。そこからつながる部屋には庭園に面したガラス張りのテラスが隣接していた。さながら植物園のように利用していたのだろう、隅には薬草の鉢が置いてあった。確かに、個々からなら中の様子も伺えて、出入りもしやすそうだ。
    「十分すぎます……本当に良いんですか?」
     そうソニアが言うと、フェルナンドには気が抜けたような顔をして驚かれた。
    「君こそ良いのか? 一応、未婚の女性がこれまた未婚の男の家に間借りするわけだし、変な噂が立つこととか、もう少し身の危険を省みたほうが……?」
     フェルナンドはソニアにその手のことを心配され、嫌がられるかもしれないと考えていたらしいが、ソニアからすれば厚意で自宅を提供しようとしてくれている上に、必要なものは買い揃えてくれるとまで言われている。それに加え、フェルナンドとは数年前から知り合いで、彼の誠実な人柄はある程度知っている。とくに疑うような要素は何処にもなかったのだ。むしろ、これで我が身の心配をするような人間は自意識過剰すぎるのではないかとすら思う。
    「いえ、大丈夫です」
    「そうか、良かった」
     その後もソニアはフェルナンドに、冷蔵庫のものは勝手に使って調理してくれて良いだとか、もと同居人の部屋は自分の部屋として使ってくれて構わないだとか色々と言われては困ってしまうのだった。



    「でも最近、フェルナンド団長元気になったよなあ」
     そんな声が聞こえたため、ソニアは整理をしていた棚からふっと振り返ってしまった。
    「そうそう、一時期は婚約者にフラれた? とかで体調悪そうだったもんな」
    「だよなー、なんか悲壮感すごかったし、皆で心配したよな」
     今会話をしているふたりは第六騎士団(バルゴ)の騎士だ。彼らは薬をもらったあとだったためもう用はないはずなのだが、そのまま座談会を始めていた。
     聞き耳を立てているつもりはなかったのだが、フェルナンドに婚約者が居てフラれただなんてはじめて聞いたため少し驚いた。もしかして、自分が今借り受けている元同居人の部屋が元婚約者の部屋だったのかもしれない。とそんなことを考えながら手を止めていたため、ふたりが声をかけてきた。
    「ソニアさんは知ってます? フェルナンド団長の婚約者の話」
    「いえ……全然」
    「ん~~そうなんだ……七不思議だよね、フェルナンド団長の元婚約者」
     軽くソニアに話をふってしまえば、ふたりは気が済んだのかそれ以上はソニアに話しかけなかった。ふたりがまた取り留めのない話をしていると訪問者がきた。
    「もう~~スライ、ナギユ! ちょっと休憩長くないですか?」
     そうふたりに声をかけたのは背の高い美しい女性だった。金髪を綺麗に結い上げて邪魔にならないようにしている、瞳は碧く、光が透けてきらめくような宝石を思わせた。凛とした声に弾かれて、ふたりの騎士は謝りながら急いで出ていったため、ソニアはその背にまたどうぞと声をかけた。
     彼らが仕事に戻る様子を見届けると、女性はソニアに振り返ってにっこりと笑った。
    「初めまして! 貴女が、フェルナンド団長のご自宅を間借りしている……」
    「はい、ソニアです。医師をやっています」
     ソニアがそう言って頭を下げると、彼女もつられて敬礼をした。
    「私はリナリア・クリーヴランドです。第六騎士団でフェルナンド団長の補佐をしています。秘書みたいなものです。どうぞ仲良くしてください!」
    「はい、どうぞよろしくお願いします」
     ソニアはリナリアに握手を求められて応じた。彼女は最初から距離を詰めてくるタイプの社交的な人間だ、とソニアは冷静に分析をしていた。正直、苦手なタイプだ。そして確かフェルナンドも苦手としているタイプだったと記憶している。そんな彼女がフェルナンドの秘書代わりだというのは驚いた。
    「あのあの、私ソニアさんに聞きたいことがあるんですけど!」
    「はい、何でしょうか?」
     リナリアはどこか浮足立った様子で声を弾ませながら、周囲をそろりと見渡して、小声で話しかけてきた。
    「その、ソニアさんはフェルナンド団長の……恋人ですか?」
    「はい?」
     思わず聞き返してしまったソニアは何も悪くないだろう。そんなことを突然聞かれてしまっては思考が追いつかない。まして恋の話ときた。そんなことを聞いてくるということは、彼女はもしかするとフェルナンドに気があるのかもしれない。そこまで考えてソニアは慎重に言葉を選んだ。面倒事には巻き込まれたくはないからだ。
    「いいえ違います。この家を間借りしているのは事情があるからです」
    「それは知ってます~! なんでも、うちの人間が壊してしまったんですよね?」
    「そうです。団長さんはその罪悪感から私に便宜を図ってくれたにすぎません。ですから何もないです」
     ソニアが淡々とした口調でそうきっぱりと言い切ると、リナリアは申し訳なさそうに勘違いだったんですね、と言って納得してくれた。
    「嫌な思いをさせていたらごめんなさい! 私、噂はすぐに本人に確認したくなっちゃう性質(たち)で」
    「いえ、大丈夫です。噂? のことは知りませんが、何か誤解されているんだと思います」
     下手に噂を振りまくよりは強引でもリナリアのように直接聞いてくれたほうが良いに決まっている。そんな内容を言外に含ませ、感情が乗らないように注意しながらソニアは受け応えた。リナリアも反省した様子だったため、これ以上は特に誤解も生まれないだろう、と安堵した。
    「ここ、またきても良いですか? 部下から良い評判ばかりを聞くので気になっていたんです」
    「もちろんです、いつでもいらしてください」
    「ありがとうございます!」
     リナリアはもう一度ソニアの手を握っていくと、そのまま出ていった。仕事の途中だったのだろう。


    「ソニアさんお疲れ様」
     そう中の部屋に通じる扉から顔を覗かせたのはフェルナンドだった。
    「おかえりなさい、そちらこそお疲れ様です」
    「ああ、ありがとう。そちらは何も変わったことはなかった?」
    「はい、特に何も」
    「なら良かった」
     彼はそう言うと微笑んで、今は診療所になっている一室に足を踏み入れた。あたりを見回して、またソニアに向き直る。
    「どう? すこし日が経って必要なものとか出てない?」
    「いえ、特には」
     そう目を合わせて返答をした瞬間、フェルナンドがぱっと青ざめた。ソニアの両肩を掴んでから、彼女をそのままじっと見つめている。彼が全く動こうとしないので、尋常ではないフェルナンドの気迫と表情に圧倒されながらもソニアは口を開く。
    「ど、どうしました?」
     そう声をかけられて、フェルナンドははっと我に返ったようにソニアの両目を見据え、一歩下がった。
    「……ソニアさん、これどこでかけられた?」
    「……何がですか?」
     ソニアが聞き返すと、フェルナンドがぼそぼそと何かをつぶやきはじめた。それが何かの呪文だということに気がついたときには、ソニアが目を瞠(みは)る番だった。
    「これは……何ですか?」
    「呪いだよ。……それも、すごく悪質な死の呪いだ」
     ソニアの両腕に黒いつたような文様が浮き上がり、彼女の目の前には真っ黒な魔法陣が五つ重なり合って、さながら歯車のように廻っていた。

    「ごめんソニアさん、気持ち悪いかもしれないけど我慢してね」
    「え?」
     フェルナンドはそう言うと、ソニアの腰を掴んで自分の側にぐいと引き寄せた。彼はそのままなにか呪文を唱え始めたのだが、どれも聞いたことのない単語ばかりでなんの魔法を使おうとしているのかさっぱりわからない。いつの間にか、先程ソニアに浮かんでいた文様は消えていた。ソニアたちの周囲には徐々に闇属性の力がみなぎり、魔法陣として形を与えられて増えていく。魔法陣の数が七を超えたところでソニアは数えることをやめた、何かはよく知らないがこれはかなり高難易度の極大魔法だ。
     強い光に包まれて、次に瞬きをしたときには王城の門の前にいた。
    「えっ……!?」
     先程の魔法は、どうやら転移魔法だったようだ。
     転移魔法はこの王国の中でも使える人間は片手の数が良いところだろう。そんな極大魔法を彼はソニアを抱えてやってのけてしまった。フェルナンドが魔法に特化した騎士団長だというのは本人から聞いていたが、こんなに難しい魔法を簡単に成功させてしまうほどの腕だとは知らなかった。
    「急ごう」
     彼は迷いのない口調でそう言うと、ソニアの腕を引っ張っていく。すると、王城の門の警護を行っている騎士たち――第三騎士団(ジェミニ)の人間に止められた。
    「すまないが通してくれ。時間が惜しい」
    「すみません、フェルナンド団長。そちらの女性と団長がどのような理由で入城を希望されるのかこちらの書類を……」
    「そんなことは後でいくらでもやる」
    「そういうわけには」
    「頼む。ルドウィグ本人に話は通してあるんだ。彼から聞いてくれ」
    「は、はい……分かりました。フェルナンド団長がそうおっしゃるのであれば」
     第三騎士団(ジェミニ)の青年はフェルナンドとの押し問答の末、書類を引っ込めて門を開けてくれた。フェルナンドはありがとうと流すように礼を言ってそのまま王城に入っていく。
     そしてそのまま、ソニアの手を引いて走り出した。ソニアが着いてこられるギリギリの速度を見極めてくれているようだが、その様子に一切余裕がなかった。廊下ですれ違う騎士たちに声をかけられるたびに、緊急だから、あとで聞くからと投げやりな言葉をかけながら彼は速度を落とさない。
     フェルナンドは先程死の呪いだと言った。その呪いをかけられているらしいのがソニア自身の事だと今になって分かっても、頭の中では追いつかない。
     フェルナンドが警護しているらしい騎士たちがいる大きな扉の前で止まると、女性の騎士が話しかけてきた。
    「フェルナンド団長、本日は面会の予定は無かったはずですが」
    「緊急事態だから、悪いが通してくれ」
    「……はあ、分かりました」
     女性はやる気がないような軽い声で応じると、フェルナンドの前から一歩横にずれた。フェルナンドはドアをノックしてから、名乗って、部屋に入る。
     そして、扉を開けた正面にいた金髪の少女の前で跪いた。それが騎士のみせる最敬礼だと知っていたソニアはわけの分からぬまま、慌ててフェルナンドに続いて最敬礼をした。
     国王直下の十二の星座を背負った騎士団、その第六騎士団長であるフェルナンドが最敬礼を行う人物は――と考えていたところで少女がくすくすと笑った。
    「どうしたのですか、フェル。自分勝手な男性は嫌われてしまいますわよ」
     上流階級のなまりのない発音に乗せられた声色は清廉な水のように澄んでいた。
    「重々承知しております、ルイーザ様。この度はどうしてもお目通りしたく、このように無礼を承知で参った次第です」
    「ふふふ、良いのよ良いのよ。貴方は普段からそのくらい自由であって良いのですから」
    「勿体無いお言葉です」
     ルイーザ、その名前を聞いてソニアは青ざめた。彼女が誰なのか分かってしまった。
     ルイーザは表をあげて、と言ってからソニアの前に立った。
    「それで、貴女なのね。さっき騒がしいって妖精が教えてくれたから、もう分かっているわ。とりあえず立ってくださいまし。そう、ありがとう。では、始めるわ」
     ルイーザはそう言い終わると、目を閉じて何かを唱えはじめた。それはやはりあまり聞き覚えのない単語ばかりで、なんのための魔法なのか分からなかったが――状況から判断して、死の呪いとやらを解呪するための魔法だろう。
     ルイーザ、この少女はこの王国の第一王女だ。将来はこの国の女王として立つことが今から期待されている、王位継承者第一位の人物である。第一王女を遠目でしか見たことがなかったソニアは一瞬誰なのか分からなかったが、分かってしまった今では今すぐここから消えてしまいたいくらい緊張していた。
     少女の小さな口から紡がれる言葉は力を持って、あたりを柔らかな光で包み込む。ガラスが割れるようなパリンとした音が響いたあと、彼女は目を開けてにっこりと微笑んだ。
    「もう大丈夫ですよ」
     その言葉を聞いて大きなため息をついたのは、ソニアではなくフェルナンドだった。彼は大きく深呼吸をしたあと、ルイーザの前でもう一度跪き、礼を言ったためやはりソニアも慌ててそれにならった。
     そんな、数人の護衛の騎士たちとソニアとフェルナンドとルイーザがいるこの部屋の中で、状況を把握していないものがほとんどだ。なんとも言えない緊張感が張り詰めていたのだが、それを破ったのは明るい困ったような怒ったようなそんな大声だ。
    「ちょっとフェルーー!! 俺の仕事増やさないで! あと、さらっと嘘付かないで! 部下とユリウスと第二騎士団(タウロス)の子たちに問い詰められたんだけど! 何!? 何でここまで強行突破してきたのー!?」
     声の主は青い髪をした青年だった。
    「あれ、どうしたの?」
     青年は怒ったような様子をすっかり沈めて、不思議そうに部屋をキョロキョロと見回した。



    「さっきのはかなり前……僕が第六騎士団長になる前に流行った連続殺人事件で用いられていた死の呪いだよ。複雑な呪文の組み合わせのせいで解(ほど)くことが難しくて、かけられた人間は強制解呪しない限り数日以内に死んでしまう。そもそも呪い自体、気がつきにくい。犯人も捕まってなかったんだけど……」
    「んで、そんな呪いがかけられていたから書類を飛ばして――門の前まで転移魔法を使ったと」
    「そうだ、気がついたのが今日だったからといって、今日かけられた呪いだとはいえないし……人命が関わっていたので……」
    「まあ、それならしょうがないかあ。じゃあ俺の方で上手くやっとくよ。その呪いの件は団長会議で情報共有するとして、ユリウスに今日のことを説明するのはフェルがしてね」
    「………………分かった」
     心底嫌だ、そんなフェルナンドの心情が表れているらしい地を這うような低い声だった。青い髪の青年はそれじゃあと言って部屋を出ていったため、なんだか微妙な空気に包まれたところで、ルイーザがくすくすと笑い始めた。
    「フェル、転移魔法を使ったの? おも……素敵だわ」
    「面白いと、そう素直におっしゃって構いませんよ」
     フェルナンドがそう返すと、ルイーザは肩をふるわせた。
    「でも、緊急事態じゃなくてもフェルは王宮に顔を出して良いのに。お父様も喜ばれるわ」
    「……光栄の至りですが、そのような恐れ多いことは出来かねます。からかうのもほどほどになさってください」
     フェルナンドがそう返す声色には元気がなかった。ソニアには何も分からないが、彼は彼なりに何か事情があるらしいということは分かった。
    「それでは用件だけで申し訳ないのですが、さがらせていただきます」
     フェルナンドは一方的に告げるように言うと、ルイーザがそうねいってらっしゃい、と楽しそうに呟いたため、彼はまたソニアの手を掴んで逃げるように足早に部屋を後にした。

    「ソニアさん、本当にごめんね。お腹すいてない?」
    「……軽食がほしいくらいです」
     王宮を後にしたソニアたちは、王宮近くのカフェでとりあえず休むことにした。
     最初は何が何だか分からなかったソニアも落ち着くにつれ、自分が何かしらの死の呪いをかけられていたこと、それが大変危険なものだったためフェルナンドは極大魔法である転移魔法を使ってソニアを王宮に連れて行き、強引に第一王女のルイーザに面会を求めたこと、そしてルイーザがその呪いを解呪してくれたということを理解した。
     フェルナンドは言うなればソニアの命の恩人で、何故彼が今ソニアに謝罪しているかの方が彼女には分からなかった。
    「何を謝っているんですか? 私は命を救われた側……です。迅速な判断と対処に感謝こそすれ、謝罪を求めることは無いと思うのですが」
    「……順を追って話そう」
     フェルナンドはずっと前に起きたという、呪いによる連続殺人事件について話し始めた。

     フェルナンドが第一騎士団(アリエス)に入ったばかりの頃、城下町で人々がなんの音沙汰もなく死んでいく事件が起こった。それは数カ月おきに起きていたため、最初は事件として捉えられていなかったのだが、ずっとあとになってから死因の分からなかった人間たちが同じ呪いによって死んでいることが分かる。呪いは解呪が難しい複雑な呪文の重ねがけで呪いをかけた人間にしか解(ほど)けないものだった。呪いがかけられていると死ぬ前に気がついた人間たちは王族か一部の魔術師たちによって解呪――というより呪いを弾き飛ばすことで死から免れた。犯人とされる有力人物の目撃情報は、手に蛇の入れ墨がある男だということだけで、それ以上は出てこなかったため犯人は逮捕できず迷宮入りとなっていた。
    「じゃあ私、運が良かったんですね」
     ソニアがまず抱いた感想はそれだった。フェルナンドがそばに居なければ自分は原因不明のまま死んだとしても誰も気にかけなかったかもしれない、なんて少し考えてしまった。
    「そう……かな? 犯人に君は直接会ったはずだから今後捜査協力を頼むことになるだろうし、そうなると君が他のことで命を狙われるようになるかもしれないし」
     フェルナンドがそう申し訳なさそうにうつむくのを見て、ソニアは違う、と否定した。それでもフェルナンドはなんだか申し訳無さそうだった。
    「ところで、こんな重要な話……オープンスペースでしていいんですか?」
    「大丈夫だよ! ここは俺の店だしね」
     はいどうぞ、と言いながら目の前に店員の男性がサンドイッチを並べる。男性はかなり目鼻立ちが良い金髪碧眼で、長い髪の毛を後ろで縛っていた。
    「彼は元騎士団長なんだ」
    「そうそう、よろしく」
    「はあ」
     その日はそこで説明を終わり、軽食の料金をフェルナンドが支払って店をあとにした。ソニアは断ったのだが、危ないからとフェルナンドが宿泊先まで送ってくれた。



     ソニアが診察を終え、何気なく家の中の方を覗くと机に突っ伏したフェルナンドがいた。
    「大丈夫ですか?」
     ソニアは近づいて声をかけたがフェルナンドから返事はない。不審に思って顔を覗きこむと彼の顔色が悪い。ソニアがそっとフェルナンドの額に手を当てると彼は熱があるようだった。
     寝ているのか反応がない。ソニアはどうするべきか考えるよりも先に体が動いていた。閉める準備をしたばかりの診察室のベッドに寝かせ、桶に氷水を用意して布を濡らした。


    「あっ、ソニアさんごめんね……もう熱は下がったから大丈夫だよ」
     フェルナンドの声で意識を浮上させ、イスに座ったままベッドの隣で寝てしまっていたのだ、と頭の中を整理した。
    「ちょっと待ってください」
     すぐにベッドからおりようとする彼をソニアはとめる。病人の大丈夫は信用ならないと知っているからだ。フェルナンドの額にさっと手を当てるがどうやら本当に熱は下がったらしかった。
    「病み上がりなので、無理はしないで下さいね」
    「ありがとう。仕事しながら体調が悪いなあとは思っていたんだけど、世話をかけてしまったね」
     いくら必要なのか、と自然な流れで治療費を尋ねられソニアは首を横に振った。元はといえば罪悪感からとはいえ、彼は厚意で家の一部を貸してくれているのだ。そんな家主に金銭を要求したくもなかったし、それに彼はそれ以外にもソニアに親切にしてくれた。いわば恩返しである。
    「いりません。以前命を助けていただきましたし」
    「……それはこの前の呪いの一件を言ってる? それなら気にしないでくれ。市民の命を守ることは僕たち騎士団の義務だ」
    「じゃあ……私は医師です。目の前で病気で苦しんでいる人がいれば助けることは義務です。それに診療受付の時間は過ぎているので、社会貢献だと思ってください」
     ソニアがそうフェルナンドに返すと、彼は肩を小刻みに震わせ笑った。はじめは何かおかしなことを言ってしまったのかと思ったが、彼の優しい微笑みを見ると違うようだ。
     フェルナンドはソニアの方に手のひらを上に向けて、手を差し出す。手を乗せろという意味だろうか、と思いそうすると彼はそれをすっと口元に持っていき、ソニアの指先に唇で軽く触れた。
    「ありがとう、看病してくれて。助かった」
    「はい……いえ、お気になさらず」
     フェルナンドに手を放され、微妙な間が出来たところで、扉が爆音と共に蹴り飛ばされた。
    「フェル!? 大丈夫!? 心配になって夕ご飯持ってきたけど食える!?」
    「……大丈夫ですし食べられるので、その扉を修理してくれませんか?」


     扉をその場で魔法で修復し始めたのは、いつぞやフェルナンドに連れられて入ったカフェの店主、ハルだった。あれから何度か訪ねた(というか連れて行かれた)ことがあり、彼とは顔見知りになっていたのだ。本名はヘンリーというらしいが、愛称で呼んでくれとやんわりと脅されたためハルさんとソニアは呼ぶことにした。ハルはフェルナンドの師匠の師匠だとかでとにかく頭が上がらない存在らしい。
    「なんでハルさんが?」
     フェルナンドをベッドから起き上がるな、とハルは手で制しながらも答える。
    「君の部下の――リナリアさん? に心配だから様子見てきてくれって頼まれたんだよ」
    「あー……リナリアにはバレていたのか」
    「結構部下にはバレるもんだよ」
    「はあ……情けないな」
     フェルナンドがうつむいていると、ハルが持参したという粥と果物を出して彼に渡した。促されるままフェルナンドが食べはじめたタイミングを見計らったハルにソニアは手招きをされ、部屋の外に呼び出された。
    「あいつ最近ろくに食事をとってなかったらしいんだよな……」
    「そうなんですか?」
     それは知らなかった。
     ソニアは一日の間にフェルナンドに一度会うか会わないか程度である。休憩中や仕事終わりに食事に誘われることがある。それは、フェルナンドが診察室でひとりで食事をしていたソニアを見てあわれんだからだろうし、宿の食事は不味いわけではないのだが口にあわない、自炊が苦手なのでつい外食ですませてしまう、とソニアがもらしたことが発端だ。
     そんなこんなで食事をすることはあっても彼がしっかり食べているかどうか、なんてところまで踏み込んだことはなかった。
    「そうそう。部下に促されて渋々食事してるらしんだよ……まあ、三年前からなんだけど」
     三年前、もしかしてそれはフェルナンドの家から同居人が出ていったタイミングだろうか。フェルナンドは数年前だと言っていたため一致するかもしれない、なんてソニアは考えていた。
     あとから考えれば、ソニアがそんなことを考えていたことをハルはお見通しだったのかもしれないし、そもそもそういう風に思考を誘導されたのかもしれない。
     彼はタイミングよくアイディアをひらめいたように、手をぽんと叩いた。
    「ソニアさんに、頼みたいことがあるんだけど」
    「はい」
    「アイツと一緒に、夕食だけでも食べてやってくれない? 昼食もフェルに作らせて……うんそうだ、それが良い!」
    「えっと」
    「アイツ、同居人がいたんだけど、そいつがいなくなってから食事とらなくなったから、たぶん誰かが一緒なら食べると思うんだ。料理は得意だから喜んでするだろうし、ソニアさんも食費が浮くだろ? いい考えだと思うんだけど」
    「はあ」
     ソニアの予想通りだったようだ。三年前にフェルナンドは同居人が出ていった、それが例の婚約者かどうかは知らないが、他人が居なくなったことで彼は自分のことをないがしろにするようになった。そのため今度はその同居人の役割――フェルナンドに食事を作らせることをソニアにやってほしいということなのだろう。なるほど、それなら彼も食事をとるだろう。
     ソニアはハルの是しか言わせぬ笑顔の中の気迫に怖気づきそうになったが、すんでのところで言った。
    「そういうのは、まず本人に聞いてみないといけませんね」

    「え? 僕は大歓迎だけど……それ言い出したのハルさんでしょう。ソニアさんはどうしたい?」
     大歓迎ときた、フェルナンドが面倒見のいい性格だというのは彼の仕事ぶり、部下やソニアへに接し方でしっていたが、二つ返事で頷いたのはなんだか意外に思えてしまってソニアは驚いた。
     考えてみれば、彼の性格からしておそらく頼んだら断らなかったのだ。ハルも言っていた、喜んでするだろうと。そんな当たり前のことにソニアは気がつくのが遅れた。ハルの気迫に押し負けそうになったからだろうか。

     いや違う、自己嫌悪からだ。
     他人が自分のために進んで何かをしたがるなんて考えたくもなかったからだ。
     黒い波が足元に寄せては返すように近づいてくる。ふたをしていた何かとともに。周囲で閃光が弾ける。その光を黒い波は映して吸収する。黒い波が押し寄せてくる。
     この黒い波はソニアの――…………

     そんな一瞬をソニアは過ごしたあと、一日考えさせてくださいと言いたかったが、フェルナンドのきらきらとした期待の眼差しとハルの目の奥がさっぱり笑っていない微笑みに負けて了承することにした。



    「本当にお料理好きなんですね」
    「好きというか半分趣味だな。そうでなければさすがにここまでは集めないさ」
     備え付けられた棚にずらりと並べられた調味料や料理酒を見ながらソニアが感嘆するが、横にいるフェルナンドは手際よく調理を進めている。
     綺麗に整列された見たことが無い色の香味、読めない文字のラベル、遠い東の文様が施された瓶もある。それは海に流れ着いたボトルメールに出会ったときのような未知への胸の高鳴りを誘う。
     ソニアはさすがに見るだけなのはまずいのではないかと思い手伝おうかと立ち上がったが、下手に触らない方が良い気がしてきた。彼はとにかく手慣れているし、とても楽しそうに作っていたからだ。
     ソニアは彼の邪魔にならないように一通りキッチンを見学した後着席した。
     貸本屋で本を借りていたためそれを読んで待っていると、しばらくして彼が出来たからちょっと待ってねと声をかけてそのまま何から何まで用意してくれた。
    「……本当にお上手ですね」
    「ありがとう、そう言って貰えると作りがいがあるよ」
     ソニアは見たことがないため確信は出来ないが、宮廷料理ではないにしろとても豪勢な食事だった。サラダ、スープ、肉料理まである。食事の前の祈りを行い手をつけると、肉料理のソースは味に深みがあって一朝一夕でできるものではないことが伺えた。
    「本当にお上手ですね!」
     こんなにしっかりした料理は庶民の外食ではなかなかありつけないレベルだ。驚きも混じって無言で食べ進めていたのだが、それはさすがにと思い顔を上げて感想を言うと、フェルナンドのほうが驚いたような表情で嬉しそうに笑っていた。
    「良かった口にあったみたいで」
     彼が花が風に揺られるように笑うものだから、ソニアも美味しさもあって口が軽くなってしまった。
    「よくこんな手の込んだものを」
    「ああ、なんというか料理は不健康で他国出身の同居人のために作り始めたのがきっかけなんだけど……僕自身、何かに熱中するとそれだけにのめり込む性格で、こんなことに」
     そういえばフェルナンドから以前、騎士団長であり魔法の研究家でもあると聞いたことがあった。彼の本職はどちらかといえば魔法の研究・実施で、研究項目は多岐にわたるらしい。彼自身はどちらかと言えば剣術より魔法に特化しているらしいということを思い出した。
     魔法の研究にのめり込むのと同様に、料理にも熱が入っていき先程見たような収集にも目覚めてしまったのだろう。彼の元同居人が他国出身なこともあって、あんなに国外の調味料が揃っていたのかもしれない。
     何気ない会話を交わしつつの食事を終え、お礼を言って宿に帰ろうとするソニアをフェルナンドが玄関先で呼び止めた。
    「ソニアさん、明日ハルさんのカフェに来てほしくて」
    「はい、分かりました」
     明日は休診日にしているから、問題はない。それだけだろうか、と間をはかっているとフェルナンドが手のひらを差し出した。首を傾げつつも、以前のように手をのせるとまたフェルナンドに指先を口付けられた。かなり驚いたが、二回目だったため無反応を取り繕えた。
    「じゃあまた明日、いい夢を」
    「いい夢を」
     すっと手を離され互いに挨拶を交わす。
     フェルナンドの行動の意図は良くわからなかったが、おそらく挨拶だろうと思いそのままお辞儀を返して家路についた。



     翌日、約束通り訪れたカフェの店内は人払いがされたようで、騎士団の制服を着た人間とカフェの従業員だけの空間になっていた。そんな状況にも関わらず、信じたくないあまりソニアは素っ頓狂に尋ねてしまった。
    「冗談……ですよね?」
    「本当に申し訳ないとは思っているんだけど……君にこんなことを頼むなんて本当に恥ずべき行為だとは思っているんだけど……」
    「いやっあの、私の方こそ言い過ぎました」
     今日会った頃からかなり青い顔をしていたフェルナンドがより一層表情の青さを深めたところでソニアはため息をついた。肩をすくめてこんな状況無理です、と逃げ出したいのはフェルナンドもソニアも同じことだった。
    「まあまあ、フェルナンドくんのは結構合理的な判断だと思うよ? 確かに現実味には欠けるけど」
     そう笑うのは長髪を後ろでひとつにまとめた男性だ。どことなく風来坊のような身軽さを感じる仕草と言動を持っている。
    「もう、ラグナレス団長! 言葉が少し軽率だと思います。もうすこし、第四騎士団(キャンサー)団長としての自覚をお持ちください」
    「あはは」
     ぷんぷん怒ったような口調で腰に手を当てて男性――第四騎士団団長ラグナレスに意見したのはカフェの店員のひとり、フローラだ。金髪碧眼でしっかりと手入れされた長い髪を持つ彼女は、店主であるハルの実の妹らしくそう言われれば目鼻立ちが似ているとソニアは感心した。彼女は第四騎士団(キャンサー)に所属しており、そちらが本業らしい。
    「整理のためにもう一度言うね……例の『死の呪い』をかけて回る犯人が次の星冠祭(せいかんさい)に合わせて開催される王宮でのパーティーに出てくるっていう情報があるため、ソニアさんには令嬢に扮(ふん)して犯人を探して欲しい。犯人の顔を確実にわかる人間が今のところソニアさんしかいないから」
    「はあ……」
     先程のように聞き返す気力のないソニアはそんな返事をしてしまった。
     以前にも一度説明を受けていたことだが、犯人から運良く逃れ死の呪いが解呪された人間はすべからく死んでしまっているらしく、ソニアしか生存者がおらず、全員殺されたわけではないらしいがなんともまあみごとに他の人間はいないらしかった。
    「そもそも私、ダンスも踊れなければ発音も違うのですが」
    「そこは……講師はつけるから、頑張ってもらって……」
     かなり食い下がられてしまったと内心笑うしかないソニアだが、この場に彼女の味方はいないようで誰からも助け舟はない。事件の当事者であるソニアは事件解決に手を貸すしかなさそうだ。かなりどころではないほど気がひけるのだが、このまま押し問答をしたところでフェルナンドの顔色がひたすら悪くなっていくことも、事件の状況が改善されないことは分かりきっていたし、ソニア自身も自分に死の呪いをかけたのが誰なのか、何のためにそんなことをしたのか、そしてこれ以上被害者を増やさないためにも犯人を捕まえる必要があるというのは分かっていた。
    「…………分かりました。お引き受けします」
     ソニアがそう言うと、フェルナンドの顔色がぱああっと良くなり、ラグナレスが笑いながら拍手をしてきた。



    「ラグナレスと俺はあんまり面識がないんだけど、フローラ曰くあんなやつらしいからあんまり気にしないでやって。悪気があってやってるわけでもなければ、ソニアさんにあてつけたわけでもないんだよ。フェルをからかってただけなんだ。それに、実力だけは確かなやつだからさ」
     後日ダンスや立ち振舞いのレッスンをしてくれるというハルの元を訪れるとそう説明されながら奥の部屋に案内された。カフェのニ階部分は彼らの居住スペースになっているらしく、そのうちのひと部屋を使ってダンスや歩き方、立ち方のレッスンをするらしい。
    「それで、なんで僕まで……」
    「なんか文句あんのか」
    「ひぃっ……いえ…………あり、ません」
     部屋の隅でガタガタと大きい身体で震えているのは確かこのカフェの店員のひとりだったような、とソニアが記憶を手繰り寄せていると背の高い男性をハルが小突いた。
    「おい、ソニアさんに自己紹介しろ」
    「はっはい! ……僕はメーメット、メーメット・ノイエンドルフです。騎士団に……所属、しています……その……どうぞ……よろしく……お願い、します」
    「私はソニアです、医師をやっています。こちらこそよろしくお願いします」
     メーメットは怯えている様子ではあるが、ソニアとしっかり握手をしてくれた。とそんなところにフローラが入室してきて、嬉しそうに笑った。
    「まあ、ふたりが仲良さそうで嬉しいわ」
    「あっ……おかえり」
     フローラは何処かに出かけていたのだろうか、メーメットが声をかけると嬉しそうに笑った。
    「それで、まずはダンスのレッスンからだけどステップだけやってみようか」
     雰囲気がふっと優しくなったハルを見て、彼は妹の前では雰囲気が変わるのかとソニアはあまりの変容ぶりにうまいものだなあと感想を抱かずにはいられなかった。


    「……首尾はどう?」
    「ええと、なんとかなるかもとは思いました。少なくともダンスは」
     恐る恐るといった様子で尋ねて来るフェルナンドにソニアがけろりと返すと、彼のいるキッチンから大きなため息が聞こえた。呆れられてしまったのかと内心ひやりとしたが、フェルナンドの性格から考えて安堵されたのだろうとソニアは思い直した。
     ダンスはステップだけということで足を動かす練習からだったのだが、数十分ほど続けているうちにそのままペアを組んで練習というふうにスムーズに移行できた。ダンスは簡単にできるだろうとハルに言われてはいたのだが、実際にやってみればそのとおりだった。激しい曲調のものならまだ無理だが、ゆっくりとしたワルツならなんとかなりそうだ。
    「あれ、メーメットくんもいたのか」
    「そうです、メーメットさんはフローラさんとだったので、私はハルさんに面倒を見てもらいました」
    「へえ」
     フローラはハルからの英才教育だとかで元々その手の社交界に必要なことは出来てしまうらしく、メーメット――後々聞いたのだが、フローラとメーメットは婚約しているらしい――に目をかけていた。そのためソニアはハルにつきっきりで指導されることになったため、正直フローラに代わって欲しかった。彼の目の奥がさっぱり笑っていない笑顔にまだ慣れない。
    「……ハルさんは慣れるまでひたすら怖いなあと僕は思っていて、慣れた今でも敵に回せるようなひとではないなあと思っている」
     フェルナンドが本人に聞かれたら困るようなことを平気で言いながら、手慣れたように二人分の食事の準備をする。ソニアも後片付けを手伝っているうちに食器の位置がだいたい分かるようになってきたため必要な食器を出した。
    「あっソニアさん、今週末空いてる?」
     食事が終わって帰り際に、フェルナンドがまた声をかけてきた。空いてますよ、と答えるとじゃあふたりで出かけようなんて誘われるため、ソニアは目を丸くした。
    「えっとその、あの変な意味じゃなくて、舞踏会のドレスのツテ……ある?」
    「……ないです」
     というかダンスや礼儀作法の練習が頭を占めていたためすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。ドレスを仕立ててくれるような高級ブティックの呼び鈴を押すには勇気が足りないし、爵位を持たないソニアは門前払いされてしまうかもしれないとも懸念していた。
    「そう、そのドレスの採寸に行こうかなと考えていたんだ。どんなドレスがいいかとか良かったらその時に教えてほしい。もちろん値段なんて気にしなくていいからね」
    「はあ」
     税金ですか、とさりげなく聞くと僕のポケットマネーだから、とフェルナンドに笑われて巻き込まれた立場だったソニアのほうが心配になってしまった。気にしないでと言われても気にしないほうが難しい。
     しかし、それを伝えたところで「ソニアさんは一般市民なのにこんなことに巻き込んでしまって」と彼の懺悔時間になってしまうことは目に見えているため、ソニアは引け目を感じない程度に彼の厚意に甘える必要がある。

    「それでは」
    「本当に送らなくて良いの? 結構物騒な時間だけど」
     周囲を通りを見渡しながらフェルナンドが言った。
    「大丈夫ですよ、宿までかなり近いですし……それにお疲れなのでしょう? ゆっくり休んでくださいね」
    「それなら良いんだけど」
     そう言ってフェルナンドがまた手を差し出す、応えるようにソニアが手を重ねるとまた指先に口付けられた。すっと手を離されるところまで最近は別れ際の挨拶になっていた。



    「ちょっと押すなよ」
    「そっちが動いたからだろ」
     見覚えのある人物が物陰でこそこそとしていたため、ソニアは買い出しの途中に声をかけてしまった。
    「何しているんですか?」
     仕事中にしては浮足立っているようなお得意(というのは良いことなのかどうか)患者のスライとナギユだった。彼らは第六騎士団に所属しており、ソニアの診療所で話をしながら休んでいくことが多いのだ。
    「あっちょっ、そこは見つかっちゃいます! ソニアさんも隠れて隠れて」
    「えっあの」
     ソニアも強引に物陰に引っ張り込まれてしまいバランスを崩しかけた。
     何がどうしたのだろうと彼らの視線の先を追うとフェルナンドがいる。どうやら花屋の店先で話し込んでいるようだ。相手はエプロンドレスに茶色い髪の毛がよく似合う花のように柔らかく笑う女性で、会話こそ聞こえないものの、フェルナンドの優しい微笑みから彼らがかなり親しい間柄であることが伺えた。
    「え~~誰なんだろう」
    「でもここ、騎士団長の何人かが御用達って噂の花屋だろ。恋人とかじゃないのかもよ」
    「えええ、でもさ、あんなに嬉しそうに笑うフェルナンド団長見たことないし、可能性は高そうじゃねえ?」
     覗き見をしている上に俗っぽい噂をかき混ぜている彼らに悪びれる様子はない。ソニアは巻き込まれただけとは言え、ここから出るに出られず彼らと同じようにフェルナンドの様子を見ていた。
     フェルナンドと女性が話し込んでいる様子を他の通行人もたまに振り返りながら見ている。
    「やっぱフェルナンド団長は知名度結構あるよな~」
    「まあ、騎士団長って珍しいし、このへんは第五騎士団(レオ)の管轄だから尚更顔が利くのかもな」
    「第五騎士団(レオ)とは共同戦線多かったもんな」
     スライとナギユの話はソニアにはあまり良くわからなかったが、たしかに、段々感覚が鈍くなってきていたが騎士団長はこの国で十二人しかいない特別な役職でかなり特別なエリートなのだ。近所の人にある騎士団長と親しくなったと自慢されたことがあったが、そんな遠い存在だったのだ。思い返せば、ソニアもフェルナンドと知り合ったばかりの頃は騎士団長が自分に話しかけてくるなんて不思議な事もあるものだ程度に思っていた。
     ふたりは会話を終えたのかフェルナンドが一歩下がって礼をすると、そのまま指をパチンと鳴らした。するとソニアの前にいたスライとナギユが一歩コケるように物陰から身を乗り出していた。フェルナンドが魔法を使ったようだ。
    「スライ、ナギユ、こんなところで何をしているんだ?」
    「ひえ~~ごめんなさい、尾行してました」
    「すみません、面白そうだと思ったのでつい。フェルナンド団長に恋人でもいるんじゃないかって」
    「……お前たちが素直すぎて怒気が失せたぞ」
     スライとナギユがフェルナンドの方に歩んでいきながら大して反省もしていない様子で謝るため、ソニアも続いて歩いて行く。スライとナギユに冷たい目を向けていたフェルナンドがソニアに気がついて驚いたような顔をしたあと、一瞬目を伏せて、次の瞬間には指を鳴らしていた。
    「いって」
     目の前の男性ふたりがすっ転んだ様子にソニアと先程までフェルナンドと会話をしていた花屋の女性は驚いたが、すぐにフェルナンドが魔法を使ったのだとソニアは理解した。指の音を合図に詠唱破棄をしたのだろう。
    「彼女はオリクスの妻、ここは今のオリクスたちの家だよ」
    「なあんだ」
    「オリクス元団長が結婚してたのは知ってたけど……そうだったんっすね」
    「知らなかったとは言え仕事をサボった挙句、ソニアさんまで巻き込んだなお前ら……はあ、ちょっと舎に戻って仕事を片付けて来い。その出来次第で不問とする」
     フェルナンドが呆れ果てたようにそう言うと、スライとナギユは調律が終わった弦のようにピンと伸びてそのままさっさと走り去っていった。
    「全くあいつら……悪い、部下の教育がなっていなかったみたいだ」
     フェルナンドがそう言ってソニアと女性に礼をする。ソニアが慌てて覗き見をするつもりはなかったんですごめんなさい、と言うとフェルナンドはそんなこと分かっているから、と言って笑った。どうやらいらぬ誤解もなく円満に終わったようだ。スライとナギユにはしっかり仕事をして欲しいとソニアはこっそり祈った。
    「こちらの方はフェルさんのお友達ですか?」
    「ええっと……そんな感じ」
     女性にフェルナンドがそう答えると女性はふわりと笑って、ソニアに自己紹介をした。
    「初めましてトレスティアです。リリーって呼んでいただけると嬉しいのです」
    「リリーさん初めまして、医師をやっているソニアです」
     ソニアとリリーが挨拶とともに握手を交わした。とそこで、フェルナンドがソニアに声をかける。
    「ところで、ソニアさんはどうしてこんな大通りに? 何か用事があったんじゃ」
    「あっ……買い出しの途中でした」
    「じゃあ僕も手伝おう、ここでの用事は終わったし。仕事はリナリアに任せてきたから問題ないし」
     フェルナンドの申し出はありがたいが、良いのだろうか彼に迷惑にならないだろうかとソニアが考えていると、フェルナンドが段々悲しそうな色をにじませてきたため、よかったらお願いします、と頼むことにした。
     ふたりがそんな会話をしている横で、リリーがうつむいて何かをぼそぼそと唱えながら考え込んでいるようだ。
    「リナリア……ううん……リナリア……」
    「リリーさん、どうかした?」
    「な、ナンデモ、ないのデス」
     フェルナンドがそう尋ねるとリリーはかちこちでセリフを読み上げるようにと答えた。何かあるのは明白なのだが、追求しないほうが良いだろうと判断したらしいフェルナンドはそのままリリーに別れを告げた。



     彼女の買い出しに付き合い、店をはしごしている途中にふとソニアが口を開いた。
    「恋人いないんですか? ……あっ、答えなくても良いんです。深い意味はないので」
     なんて、ソニアが突然真顔で聞いてくるものだからフェルナンドはぶっと噴き出しそうになってしまった。
    「いないよ」
    「そうなんですか」
     ソニアがそれっきり何も尋ねてこないため、本当に興味本位で聞かれたのだなとフェルナンドは結論づけて、気にしないことにした。ソニアが積極的に人の色恋に興味をもつようには思えないため、そんな質問をされたことが意外だった。
     だからか、フェルナンドも意地悪のように聞き返したのだ。
    「ソニアさんは恋人いないの?」
    「いないです」
     ソニアが即答と言わんばかりに答えるため、何か聞いてはいけないことを聞いたかもしれないな、とフェルナンドは反省した。



     後になって考えれば、あのタイミングで来たのはすべて計算の上だったのだろう。ちょうどソニアに診察の予定が入っておらず尋ねて来る患者もいない日だったのだから。
    「やっほ~久しぶりい、俺はミルクねぇ」
    「あ~~何なんだてめえ……おいメーメット」
    「はっはい!」
     ずけずけと店内に入ってきたきた男はカウンターに座るなり、注文をする。赤い髪は炎のようにうねっていて、店内の明かりが目に反射するたびに輝くさまはペリドットのようだ。その男とはまったく面識のないソニアでも、随分おモテになるんでしょうねと言えてしまうほど人目を集める容姿をしていた。
     ソニアはちょうどハルからの指導終わりにゆっくりしていけばと誘われ、断るに断れず厚意に甘えて一杯くらいならと休憩しているところだった。窓辺の二人席からは街道を行き来する人々の様子がよく見える。灯りがゆらゆらと揺れる様子を見ていれば店内の静かな音楽と相まってリラックスできた。
     カウンター赤髪の男はミルクを受取り、一気に飲み干すとコーヒーを注文した……とそのままソニアの向かい側の席に腰を下ろす。突然のことにソニアが驚いてどう声をかけようか迷っていると、男のほうが先に口を開く。
    「あはは、ごめんね。ひとりっていうのも寂しいからここに座るね」
     事後報告だった。驚いたままのソニアだったが断るのも悪いかと思いどうぞ、とそのまま促した。
    「俺はオリクスっていうんだけどぉ、君がソニアさん? お医者さんの」
    「そうですが……どこかで?」
    「いやいやあ、今日が初対面だよお」
     じゃあどうしてソニアの名前と職業まで知っているのだろうと不思議そうな顔をしていたのか、その疑問にオリクスが答える。
    「俺の妻がね、俺の親友が女性連れて歩いてたって言うからさあ、気になっちゃってねぇ」
    「はあ……」
     オリクスという名前に聞き覚えがあるような気がして、一体誰の知り合いなのだろうとソニアが困っているのを見かねてか、コーヒーをテーブルに音を立てて置かれた。
    「ちょっとお、ハルさん! 飛び散ってるんですけどぉ」
    「オリクス、客の邪魔するなら出て行け。それに、適当な自己紹介してんじゃねぇよ」
    「はいはーい」
     オリクスが肩肘を付きながら、ソニアに視線だけを向ける。
    「フェルナンド・ブランコって知ってる?」
    「はい」
    「フェルの親友で、俺の妻の名前はトレスティア……リリーって呼んでるかもね」
    「あ、ああ! リリーさんの」
     ようやく合点がいったソニアは目の前の人物が誰なのか繋がった。先日フェルナンドが、行きつけの花屋は友人家族がやっているものだと言っていたが、そのフェルナンドの友人というのが彼らしい。
     そんな彼がどうしたのだろう、と考えたがフェルナンドがこのカフェは現役、元騎士団の贔屓の店だと言っていたし、オリクスもハルと知り合いらしくその接点からと考えれば彼がこの店によく顔を出していてもおかしくはないか、と結論づいた。
     目の前に座られると、何か香水をつけているらしく花の香りがした。何人かの知り合いのように恋に積極的な人間だったら彼にアプローチをかけるのかもしれないが、ソニアには考えられないことだった。
     それにしても、何があって自分に話しかけてきたのだろう、本当に話し相手が欲しかったのだろうかとソニアが考えているとまたオリクスの方から話を切り出された。
    「フェルとはどういったご関係で?」
    「関係……色々と事情があって、そのことを気にかけてくださったフェルナンドさんのご厚意に甘えているような関係です」
    「なぁにそれ、全然わかんないや」
     話すと長くなるためそう言ってしまったのだが、家が壊れたあたりから話したほうがよかったのだろうかとソニアが悩んでいると、オリクスは言葉の割には気にならないのかふうんといって話を流した。
    「なんかものすごぉく親しそうって聞いたから、気になっちゃってて。実際どこまでなの?」
    「どこまで? ……いえ、きっとご想像とは全く違う関係かと思います」
    「へえ、そう。ほぼ毎日、夜にフェルの家から出てきてるっていう目撃証言があるけどぉ」
     誰だろう、そんなどうでも良いことを目撃していたのは。
    「何というか……」
    「それは俺から、フェルの健康管理も兼ねて一緒に夕食を食べてやってくれないかって頼んだんだよ」
     ソニアがどう説明しようかと言葉に詰まっていると、ハルが助け舟を出してくれた。そのままオリクスにげんこつを落とすものだからソニアは空気を読んで黙り込んだ。
    「つかてめえ、他人で遊びに来たんなら帰れ帰れ」
    「ええひどぉい、それ元教え子に対する態度じゃないですよぉ」
    「フェルに後で言っとくから」
    「それはやめて」
     ハルの一言が決め手になったのか、お金を置いてオリクスは退店した。
    「ソニアさんとは、またどこかで会えるような気がするなあ」
     なんて反応に困る言葉を残しながら。



     星冠祭は簡単に言えば国王の戴冠(たいかん)記念式典に連なる祭日期間である。元々この日には星々の輝きが強くなるためお祭りのように盛り上がっていたのだが、その日に合わせて国王が戴冠したことから戴冠記念日を含めた大型の祭日期間になったのだ。戴冠記念日当日は第七騎士団(リブラ)によるパレードが行われるなど大きな盛り上がりを見せる。
     今回の舞踏会ははそれに先んじて行われる各国の主賓(しゅひん)を招いた国王主催の歓迎パーティーといえる。各国の重鎮に使節団も多く王宮や周囲の施設に滞在するため、王宮警備に第四~第六騎士団の人間まで駆り出されるほどには人手不足なのだ、とフェルナンドがつらそうにぼやいていた。

    「失礼します、アリアです」
     無機質な声で、ソニアの待機室に入ってきたのは黒髪の女性だった。騎士団の制服を着ていることから騎士だということがかろうじて分かった。フェルナンドに指示をされてソニアの準備を手伝ってくれた女官たちがさっと扉を開けたということは安全が確認されている人物ということらしい。
    「これを渡すように頼まれました」
    「すみませんが、どなたから」
    「ルイーザ殿下からです」
     その名前を聞いてソニアはコルセットを締められた苦しさを感じなくなるほど緊張した。ソニアはちょうどその話を聞いて彼女は以前、ルイーザの部屋の前で警護をしていた騎士だと思い出した。
     王女が渡したいものは何なのだろうと深緑色の袋を受け取り、手に出すと黒い石だった。艶のある光沢に深い黒色に白い筋が通っている――縞瑪瑙(オニキス)だ。
    「これは……?」
    「お持ちくださいとのことです。なんでも、呪いを閉じ込めたもので術者に反応するとか」
     それでわかった。これは以前ソニアが解呪してもらった死の呪いを閉じ込めたもので、犯人探しのために王女に用意してもらえるようフェルナンドあたりが準備していたのだろう。
     女性は用が終わったので、と言ってそのまま静かに退室した。その様子を見計らって、女官は気合を入れ直した。
    「さあソニア様、あとは髪の毛のセットで終わりです!」
    「は……はい」


    「え? これでは会場に入れない?」
    「はい、すみませんが通さないようにと先程言われまして」
     冗談抜きで途方に暮れてしまう。
     ソニアはフェルナンドに渡されたとおりの正式な招待状を持っているのだが、なんでもその種の――来賓によって招待状の種類が違うのだが――招待状を持つ令嬢の中に不審人物が紛れ込んでいる可能性があるとかで、急遽通れなくなってしまったらしい。フェルナンドは仕事の都合もあって会場内にいなくてはいけないらしく、合流場所は中でということになっている。
     時間に遅れたソニアを心配したフェルナンドが迎えに来るのを待つか、諦めて帰るかしかソニアは思いつかない。
     まさか会場の前で止められてしまうとは……と居場所に困っているソニアは肩を叩かれて振り向くと、そこに金髪の女性がいた。いや少女だろうか、と思うほどソニアより随分背は低いが、騎士団の制服をきているためある程度の年齢だろう。
    「え~~っと、ソニアさんですか?」
    「はい、私がソニアですが、その……何か?」
    「わあ良かったー! 無事合流ですね。もしもの時のためのお助け騎士、ダイアナです!」
     ダイアナと名乗った金髪の女性は、そのまま目の前にいた騎士に話を通して、ソニアの身元を証明してくれた。おかげで無事、中でフェルナンドと合流できることになる。
    「ありがとうございます」
    「なんてことはありません! これでも所属は第二騎士団(タウロス)ですから!」
     なぜ中に入れなかったのか、不審人物の話はダイアナは聞いていなかったらしく驚いていた。彼女はフェルナンドに、もし事前にソニアが中に入れなかった時は誘導して欲しいとだけ頼まれていたそうだ。それでも、ダイアナがどうして第二騎士団(タウロス)とはいえ、不審人物への警戒の中こんなにすんなりと信じてもらえたのだろうとソニアが思って尋ねてみると、彼女は少し頬を赤らめた後に秘密ですとしか答えてくれなかった。

    「もしかしたらと思っていたけれど、本当にそんなことになっていたなんて……」
     出会ってそうそうフェルナンドはそんな風に労って、ダイアナに持ち場に帰ってくれてかまわないと指示を出した。少しの間だったが、ダイアナに助けてもらったソニアがお礼をいうと、またいつかとダイアナも返事をして笑顔で何処かに行ってしまった。フェルナンドは何かしら考え込んでいるようだ。
    「はあ、まさかの事態で言い遅れてしまったけれど」
     そう言ってから、フェルナンドはマントを翻して膝をつく。
    「とてもお似合いです、レディ。今日の貴女は神々が思わずため息を漏らすほど美しい。そんな貴女をエスコートに預かることが出来、光栄です。よろしければ、どうか御手を」
     そう言うフェルナンドにソニアは手を出すと、フェルナンドが手にとって口元に近づける。社交界の形式的な挨拶だ。事前にハルに教えてもらっていなければ狼狽していたかもしれないが、ソニアはしっかりと落ち着いて対応できた。
    「こちらこそ、光栄です。至らぬところは多いかと思いますが、本日はお願いいたします」
     そう言ってソニアがドレスの裾をつまんでお辞儀をすると、フェルナンドも立ち上がって礼に応える。一連の挨拶の終わりにソニアがふっとため息を漏らすと、フェルナンドがくすくすと笑った。何か間違えてしまったのだろうかとソニアが彼の顔色をうかがうと、彼はごめんねと謝った。
    「本当にこんなに素敵な女性をエスコート出来るなんて嬉しいなって考えていただけなんだ。はしたなくも、にやけてしまったよ」
     なんて笑いながら言うため、天然は怖いなとソニアは思った。
     そんなフェルナンドは深い藍色を基調とした生地に金の刺繍が映えたかなり高そうな服の上に騎士団の象徴である白いマントを羽織っており、背中にはもちろん双子座(バルゴ)の絵が描かれている。ソニアのドレスを仕立てる時に横で相談していたのはこれだったらしい。普段は高い位置でひとつに結っている髪の毛をおろしてセットしているためか、普段とはかなり印象が違った。
    「うーん、僕はだいたいはソニアさんの傍にいられるはずだし、僕が傍にいない時は陰から見守って危ないときには助けてくれる人がいるから安心してね」
     誰かもう一人陰の護衛がいることは全く聞いていなかったのだが、それは安心というべきなのだろうかとソニアは曖昧なまま礼を言った。
     ソニアはしっかりと着飾ったし、発音も立ち振舞いもダンスも練習したけれど目指すは壁の花だ。隣に騎士団長であるフェルナンドがいるから誰もダンスには誘わないし、誘われたところでフェルナンドが先約があると断る手はずになっている。それでも念には念を入れて練習をしたのだ。
     ソニアはアリアに渡された石を握り込んで見覚えのある人間が通りかからないか、注意深く周囲を観察する。フェルナンドも同様に会場警護の任もあるらしくとても真剣な眼差しをしていた。
     そんな二人の前に何かの使節団が通り過ぎる。同じ青い衣装に身を包み、服装の何処かに金で刺繍された竜の紋章が入った一団だ。他国の人間なのか、あまり見かけない顔立ちの人間が多い。この中にはさすがに知り合いはいないか、と少し気を抜いていたところ一団の中の女性がひとりこちらに歩み寄ってきた。
    「あっ、フェルじゃない! 久しぶり、やっぱり会えた」
    「エレノア! ……ああすまない、お久しぶりです」
     どうやらフェルナンドの知り合いらしい。衣装同様に光が当たると透けて青く透き通る瞳を持ち、同じ色の髪の毛を結い上げた女性にフェルナンドは形式的な挨拶をした。
    「えっとソニアさん、彼女はエレノア。神竜国(しんりゅうこく)の人間なんだけど、訳あってこの王宮に滞在していた時に知り合ったんだ。僕やオリクスの友人だよ」
    「初めまして、ソニアと申します」
    「エレノアです。ご紹介に預かりましたが、神竜国で尊い方にお仕えしております」
     エレノアがゆっくりと頭を垂れてそのまま両膝を曲げた。ハルから習ったものとは違う、それでいて丁寧で厳かだと感じるお辞儀は神竜国のものなのだろう。
     神竜国といのはソニアも書物でしか知らないが、この王国とも旧くから信仰を持つ歴史のある小国だ。この王国は星を神として崇めているが、神竜国では名の通り竜を神として崇めており、国の大神殿には今も竜がいて神託をしているのだとか。昔は大陸のほとんどを支配していたらしいが、今は限られた狭い地域を国土としている。神竜国の人間は金髪に金目の人間が多く、そう言えば先程の一団もそうだった。なんでもこの国の王族は神竜国とも縁深く、現国王の亡くなった正室は神竜国の王族だったらしい。
    「フェル、今日はとってもイケてるわね! 髪の毛伸ばしているし、別人かと思っちゃった。面倒なんじゃなかったの?」
    「ううん……色々あったんだ色々あったんだよ。エレノアもとっても素敵だよ。本当によく似合っている。君はこちらにいる時飾り気のない制服を着ていたからかな、なおさらそう感じた。ドレスの色や作りが髪や瞳にとても映えさせている」
    「ありがとう~~! 予算をふんだんに使ってご主人様お抱えのブティックに作らせた甲斐があるわ」
     なんて笑うエレノアを見ていて、フェルナンドとも親しい、可憐ながらも豪胆な女性なのだなとソニアは観察していた。どちらかというと、フェルナンドは豪胆な気概の人間を苦手としているイメージがあったが、そうでもないようだ。とても生き生きと目の前で会話をするふたりを前にして、ソニアは口を挟まずに石を握って招待客の顔を見ていた。
    「そうだ、フェルナンド。大切な相談があるのだけれど……ふたりで話せる?」
    「ここだとまずいことで、今すぐにでも話しておいたほうが良いことなのか?」
     フェルナンドがそう聞くとエレノアはしっかりと頷く。それを受けて悩むことなくフェルナンドはわかったと即答して、ソニアに断りを入れてからそそくさと何処かに消えてしまった。
     僕はだいたいはソニアさんの傍にいられるはずだ、と言っていた言葉を思い出し、そうですねだいたいですよねとソニアは冷めた相槌を心の中で打つのだった。
     一人でも壁の花は大丈夫だろうし、やるべきことはしっかり果たせるだろうとソニアは気合を入れ直した。

    「こんなところでお会いできるなんて奇遇ですね!」
     そういえば、フェルナンドが人よけの魔法をソニアにかけているが、ソニアのことを元から知っている人間にはあまり効果がないと言っていたことを思い出しながら、ソニアは丁寧にお辞儀をした。
    「こんにちはリナリアさん。制服ということは……お仕事ですか?」
    「ええそうなんです。会場内をうろうろしているだけなんですけれど。ところでソニアさんはどうしてこちらに? 貴族の方だったんですか?」
    「ええっとそれは……」
     ソニアが下手に答えて良いことなのかどうか悩んで回答に詰まると、リナリアは控えめに笑いながら違う話を始めてくれた。どうでもいい話をそれとなくふってくるのが上手い。フェルナンドの秘書官のようなことをしていることが多いと聞いていたのだが、そのために対人スキルが高いのだろう。接点のあまりないソニアと見事に会話をしてくれるが、犯人を探すという目的があるためどうしよう、と石を握り込んだ。ずっと握っていたためか、ひんやりしていた石が熱くなっていた。
    「やあ、お久しぶりぃ。ほら、やっぱり会えたじゃあん」
     新手がもう一人という感じだが、ソニアに話しかけてきたのはオリクスだ。そういえば別れ際にそんなことを言われたな、と思いながらはあと曖昧な反応をしてしまったが、しっかりと形式的な挨拶はした。リナリアは元々オリクスと面識があったのだろう、親しげに微笑んだ。
    「オリクス団長……団長じゃあないですね、お久しぶりです。こちらにはどのような用件で?」
    「ああ、ルル様に呼ばれて~。お勤めご苦労様ぁ」
     ルル様というのが誰かよく分からなかったが、パーティーの招待状を出すのは王族だけなのだから、考えずもがなルイーザのことだろう。オリクスとルイーザの関係はよく分からないが、親しいらしいということだけはソニアにも分かった。
     本日のオリクスは髪の毛をオールバックにしているため、言われなければ正直誰なのかわからなかっただろう。
     ふたりは何やらソニアにはわからない話をしているため騎士団内の話だろうか、今日よくは置いていけぼりにされるなあと思いつつソニアは見覚えのある人間を探していた。
     とそこで、遠くからフェルナンドとエレノアが帰ってくる様子が伺えた。先程よりはいたたまれない気持ちならなくて済みそうだ、とソニアは少し安堵した。
    「フェルナンド団長、お疲れ様です」
    「あっフェル~~エレノア~~久しぶり」
    「なんで大集合してるんだ?」
     フェルナンドの隣にいたエレノアの眼光が鋭くなったような気がしたが、気のせいだろう。フェルナンドがとても困った顔をしていた。
    「ソニアさんはここに犯人探しに協力するために来てくれたんだよ……だから迷惑かけないでくれオリクス」
    「え~~なんで俺が何もしてないのに悪いみたいになってるのぉ?」
    「あんたの日々の行いのせいでしょ。結婚したって聞いたけど、七年前からちっとも変わらないのね」
     フェルナンドはふたりにソニアのことをさり気なく説明してくれたため、ソニアはやはり自分が下手に説明しなくてよかったのだと自分が正しかったことを確認した。エレノアはオリクスに呆れながらも笑っていた。
    「そうなんですね、犯人の手がかりは性別と手の入れ墨だけですっけ? 大変ですね」
     とリナリアはソニアを労ってくれたため、ソニアはお礼を言った。

     エレノアはその後用事は済んだと言ってオリクスと何処かに話をしながら行ってしまったため、リナリアも同様に持ち場に戻ると去ってしまった。三人が去っていき、その場にはまたソニアとフェルナンドだけが残る。今度こそ再開だ、というところでまた話しかけられた。今度は二人組の男性が、こちらに近づいてきた。白いマントに金の刺繍が映えるデザインということは騎士団の人間だろうか、と予想を立てていたらフェルナンドが隣で敬礼したため、確信に至った。
    「あ、ソニアさん。こちらが第一騎士団(アリエス)団長のユリウスさんで、僕の師匠。こちらが第二騎士団(タウロス)団長のズィヴィル」
    「はじめまして、ソニアと申します」
     フェルナンドに紹介されて、ソニアが礼をすると、ふたりは美しい礼を返してくれた。
    「ズィヴィル、ユリウスさん、話は聞いておいてくれましたか?」
    「聞いた」
     ユリウスが低いがそれでも遠くに響く鐘のような声で答えた。金色の髪と瞳で、輝くような長髪は後ろでひとつに束ねられており、若い頃も今も美形と表現されて生きてきたのだろうという想像が容易にできるような端正な顔立ちの人物だった。
    「不審人物の件は?」
    「すべて口頭のみらしく確たるものはないようだ。俺の方も先ほど聞いた、といったところだな」
     フェルナンドが尋ねると、もうひとりの男性ズィヴィルが自然と馴染むような低く優しい声で要点を整理して伝えてくれた。
     ズィヴィルはユリウス以上に長い髪をところどころ編み込みながら背に流している。肩から流れるマントには荘厳で細かい刺繍が施されており、腕のいい職人が長い時間をかけて作ったものだと分かる。その衣装を完璧に着こなしてしまうカリスマのようなものを持っているように感じた。
     何の話をしているのか最初はわからなかったが、どうもソニアが会場に入れなかった際言われた、不審人物の触れ込みについてのようだ。
    「通してもらえなかった、というよりは……」
    「通らせない、か」
     ズィヴィルの言葉にフェルナンドが続けると、ズィヴィルは静かに頷いた。それで彼の用は済んだのか、そのまま一言断ってからどこかに行ってしまった。

    「ところで、被害者のひとりだとは聞いているが、どういう経緯でお前が後ろ盾になっているんだ? フェルナンド」
    「ああ、えっと、話すと長くなりますが……我が部下の不手際で彼女の家が半壊しまして、その間の僕の家の一室を仮診療所の場所にと貸し出していたんです。そのこともあって、呪いの早期発見ができたのですが」
    「そこではない」
    「え?」
     ユリウスは苛ついているような雰囲気でソニアは少し恐怖を覚えたのだが、フェルナンドから後日聞いたところによると、いつもあんな感じなのでとくに怒ってはいなかったらしい。顔立ちのせいか表情が読みにくいらしく、誤解されやすいのだとか。
    「お前はなぜ、一般市民にそこまで肩入れしているのかと聞いている」
    「…………それは」
     ユリウスの指摘にフェルナンドが言葉に詰まった。ソニアは口を挟むべきではないかと黙り込んでいたが、さすがに自分のことなのだということで思い切って発言した。
    「その、すみません。団長さ……フェルナンドさんが助けてくださり、私も頼まれて協力することを承諾しました。フェルナンドさんが後ろ盾になってくださったのは、騎士団長としての責任感からだと思います」
     ソニアが発言したことに一番驚いたのはフェルナンドだった。とても驚いた表情をされるから、ソニアはやらかしてしまったのかと肝を冷やしたが、ユリウスはそれで満足したのか、わかったと言って去ってしまった。



    「ソニアさん、ずっとここにいるのは疲れたんじゃない?」
     大丈夫です、と言ってしまおうかと思ったが正直それ以外にも気を張り詰めすぎていたため、はいと素直に頷いた。

     フェルナンドに誘導されてテラスに出ると、彼の話通り広いテラスだが人は少なかった。外の空気をすぅっと吸い込むと、人の多さのせいで溜め込んだ熱が下がっていくようで気持ちが良かった。星冠祭の期間ということだけあって、星々はいつもより一層輝いており、空を見上げるだけでも気分が変わった。
    「空が本当に綺麗だよね、いつも綺麗だけど」
    「そうですね、星冠祭期間はずっと見上げていたくなります」
     ソニアがそう答えると、フェルナンドがふわりと笑った。今日は張り詰めていた現場だったためかずっと硬い表情をしてたため、ソニアは心配していた。フェルナンドの笑顔にソニアもつられて笑う。
    「どうだった? 何か収穫はあった?」
    「いえそれが……ちっとも。知り合いはいたと言っても、話しかけてくれたのはリナリアさんとオリクスさんだけで」
    「そうか……あまり落ち込まないで、フロアからもだいぶ人がいなくなってきたし、もうすぐお開きかもね。お疲れ様、ソニアさん。ソニアさんはしっかり仕事をしてくれたよ」
     暗い面持ちでソニアが答えると、フェルナンドが明るい声で労ってくれた。ソニアは自分から協力すると決めたことではあったものの、何も力になれなかったことに大きな脱力感を覚えていた。
     そのためか、背後から近づいてきた足音にソニアは気がつなかったのだ。

    「お久しぶりです、兄上」
    「どなたかお探しなのですか?」
    「どうしてそんなことを言うのですか?」
    「何をおっしゃるやら」
    「そういうのはいりません、兄上」
     ソニアたちの背後から現れた――会場からテラスに出てきた人物は、星々の光に照らされて顔がよく見えた。青白い肌は疲れのためか目の下に隈ができており、髪の毛も瞳も青白く照らされて青を深めた森のような色を――――フェルナンドと同じ色をしていた。
    「……何か用ですか、サンチェス男爵」
    「兄上が、どうしてこちらにおられるのかと思い声をかけた次第です」
    「ハッ……君も僕も同じ穴の狢か。本音で話さないか?」
     フェルナンドのことを兄上と呼んだサンチェス男爵という男は、フェルナンドのすぐ隣に行き、背を柵に預けた。
     ソニアは何を言って良いのか分からず、黙り込んで様子を見守ることにした。
    「兄上は何をしておられるのですか?」
    「僕は君の『兄上』じゃない。僕はフェルナンド・ブランコだ」
    「…………存じていますが」
     知っているものならば知っている。空白(ブランコ)とは親のいない者が名乗る家名だ。それを強調して言うフェルナンドの意図に気が付かないほど男爵もソニアも愚かではなかった。
     ソニアは仕事のこともあって、ワケアリの人間には数多く接してきた。そのため分かってしまったのだ。
    『僕は貴族出身だよ。家とは縁を切ったけど』
     フェルナンドは以前そう言っていた。目の前にいるのは、彼が縁を切ったという弟なのだろう。
    「兄上は本当にもう家に」
    「フェルナンド、それが僕の名前だ」
     男爵にぴしゃりと言い放つとフェルナンドがテラスに出てくる際に持ってきていたグラスを落ちた。
     パリンと無機質な音があたりに響いた。
     明らかな敵意と、怒りの波動をソニアは感じた。
     いや違う、フェルナンドはグラスをわざと落とした。
     飛び散ったガラスはソニアやフェルナンドの周囲ではなく、男爵の周囲に不自然にまかれているのがその証拠だった。飲み物が入ってたのだからそれも飛び散っているはずだが、液体はどこにも見当たらなかった。
     フェルナンドは失礼、と一言言ったきり指を鳴らしてガラスを何処かに消してしまった。
     いつも穏やかで笑っている、何かがあっても困ったような顔をしたり焦ったり、他人に何か危険がないかぎり怒ったりしないフェルナンドが示す明確な怒りのサインにソニアは喉が枯れてしまったような張り付いた緊張感を覚えた。
    「フェルナンド、貴方はもう両親に会う気はないのですか」
    「…………ないな」
     フェルナンドの温度のない返答に男爵は諦めたのか、大きなため息を着いて遠くを見つめるように、何かに歌うように話しかけた。
    「父は、血の繋がりが薄い私を後継者として育てました。兄上がいなくなってしまわれたからです。母は、時々寝所で『幸運(フェリクス)、幸運(フェリクス)、私の可愛い幸運(フェリクス)』と兄上の名を戯言のようにうたっております。兄上がいなくなってしまわれたからです。家庭教師(チューター)は時々『フェリクス様ならお出来になったのに』とこぼされるそうです」
     男爵はそう言い残すと、綺麗に礼をして会場に戻っていった。
     男爵はおそらくソニアと同じかもっと年下だろう。少なくともフェルナンドよりは年下のはずだ。それでも、彼の顔にはソニアやフェルナンド以上に皺が深く刻み込まれていた。それはきっと、それだけ彼が苦労してきたということなのだろうとソニアは感じていた。
     男爵が消えて、また星の囁きが聞こえてきそうな静けさに、フェルナンドの大きなため息が水面を揺らす。
    「もう本当にお開きみたいだ、そうだ、全然休めなかったし休憩室に行かない?」
    「はい、大丈夫です」
     ソニアが頷くとフェルナンドがエスコートのために手を伸ばしたためソニアが控えめに手を乗せると、彼は笑って歩き出した。
     フェルナンドは悲しさを隠したような笑顔をしていた、とソニアは感じ取っていた。



    「やっぱり個室は楽だね、誰も追いかけてこないし、無断で入ってくる人もいないし」
     そう大きなため息をつきながら、フェルナンドはマントを外して椅子にかけると、そのまま肩をぐるりと回した。どうやらかなり重かったらしくつらそうな顔をしていた。
    「無断で入ってくる人はいないんですか?」
     鍵をかけているわけでもない、誰でも入って使っていい休憩室だ。それを誰も無断で入ってこないと断言したことがソニアには不思議だった。
    「ああそうだね、ソニアさんは知らないよね……舞踏会はそもそも貴族の社交の場どころか出会いの場で、人脈を広げることはもとより結婚相手を見つける重要なつながりにもなっていく。で、そんな舞踏会で出会った男女が休憩室にふたり揃って退出するっていうのはそういうこと、ってことだよ」
    「あ……ああ、なるほどそういう」
     誰も愛の巣に入りたがらないということか、とソニアは納得した。道理で部屋を大きく照らすような照明がなく、ベッドサイドランプがあるだけだ。本当につまり、そういう目的の部屋らしい。
     そう思うととんでもないところに来たのではないか、とか逃げ出したほうが良いのではないかとかあまり考えないのはフェルナンドが相手だからかもしれない。彼の家の一室を職場として利用しているためか、異性と部屋にふたりきりだという危機感が薄かった。
     ソニアがドレスを皺にしないように気をつけながらベッドに腰掛けると、近くの窓にフェルナンドが背を預けた。
    「…………さっきはごめんね、あれは僕の義理の弟――両親が迎えた遠縁の養子なんだ」
     だから少し似ていたのか、とソニアは納得した。そういうフェルナンドはどこか悲しげな声色をしているように思えた。
     ベッドサイドランプに火を灯せば揺らめく光は朗らかに部屋を照らし、暖色のまろやかな温度に包まれていた。フェルナンドの立つ窓辺から星々の光が差し込み、彼は白銀の光と銅(あかがね)の光を両方浴びていた。
     彼ら兄弟はおそらく何らかの亀裂を抱えているのだろう、ということはソニアにも分かっていたため何も切り出せずにいた。
     それでも話しかけるべきだと思ったことは、彼女自身の職ゆえなのだろう。フェルナンドは大きな何かを一人で抱え込んでいるような感じがして、ソニアは何か力になれたらと思ったのだ。
    「良かったら、少しだけあの人のことを話してみませんか? 私にはきっとすべてのことは分からないんですが、もしかしたら少しでも楽になるしれません」
     心を治療する上でよく使う言葉だ。本人の悩みや苦しみを全て分かることが出来るのは本人しかいない。下手に全てを「分かります」と理解した、もしくはつもりでも患者からは「分かるはずがない」と身構えられてしまう。そのため、全てを分かる、全てを解決するといった言葉はあまり使わないのだ。部分的には解決出来るかもしれない、少し相談すれば楽になるかもしれない、と心を開いてくれるよう、話しやすくなるように促すことが重要だ。
    「そういうことなら、良かったら聞いてくれ。くだらなくて、小さい話だけど」



     フェルナンドにとって、別に両親は忌むべき存在ではない。それは今も変わらないのだ。
     ただ、自分が親から愛されていないことに小さいうちに気がついてしまっただけだった。
     父親が長男であるフェルナンド――フェリクスに望んだことは彼が爵位を継ぐことだった。
     教育や規則に厳しく育てられたことを今となっては恨むことはないが、当時は友だちという友だちがいなかったことも遊べないことも辛いことも苦しいこともすべてはそのせいだと思って過ごしていたし、実際その割合は大きかったのだ。
     そんなフェリクスを周囲の人間は「過保護なお父様ね、きっと息子の将来に期待しておられるのだわ」「今は分からないかもしれないけれど、お父様は深く愛しておられるからこそ、そのようなことをなさるのだわ」と言っていた。
     息子には厳格な父親がわからなくても親は子どもを愛するものなのだから、愛していない訳がないといった風だった。
     幼いフェリクスはそのことを鵜呑みにして、自分は父親に愛されていて期待されているのだからしっかり応えなくてはと思ったいた。
     暴力をふるわれることがあってもそれは愛されているからだし、愛されているはずなのだから耐えるべきなのだ。嫌なことを教育として与えられてもそれは愛されているからだし、愛されているはずなのだから耐えるべきなのだ。
     そう思いこんでフェルナンドは心に鍵をかけて生きてきた。

     それが壊れてしまったのは本当に偶然だったと思っているし、その偶然が起きなければ自分はなんの疑問もなくそのまま貴族として生きていたのだろうと思っている。きっかけは些細とも言える出来事だった。
     貴族は教養として狩猟を嗜む、それと同様に乗馬も教養に含まれるのだが、その練習中に落馬して大怪我を負ったのだ。フェリクスは一命を取り留めたものの、ベッドから起き上がることは出来ないかもしれないと医者に言われ、目の前が真っ暗になった。母親はそんなフェリクスを哀れだと泣き、はじめのうちは足繁く見舞いに来てくれたが、二週間もすると足が遠のいていった。父親はついぞ一度も見舞いには来なかった。
     怪我をしたその日の夜に、フェルナンドは窓辺に妖精が訪れる夢を見た。妖精はフェリクスに触れて微笑んで「貴方は治るわ、必ずよ」それだけを言って立ち去っていくそんな内容だった。絶望の中で見たその淡い光はなぜか彼の中で確信めいたものに変わり、怪我は治るのだから希望を持ち続けようと思うことが出来た。そのため、怪我そのものへの悪い思い出はないのだ。
     怪我が治ると確信していたフェリクスとは違い、両親はフェリクスの怪我が治らないものだと確信していた。故に、ああなったのだ。
    「フェリクス、お前の義弟(おとうと)だよ」
     そう、父親が連れてきたのは遠縁の養子だった。彼とフェリクスは簡単に挨拶をしてそうして兄弟になったのだ。そこにはどちらの意思も必要とはされていなかった。その翌日に、義弟は無理やりフェリクスの父親によって養子にされた、母親は何も言わなかったと聞いた。
     十六歳になっていたフェリクスはそのことの意味――義弟は自分の代替品として用意されたのだということに気がついてぞっとした。父親にとって自分は用済みになったお荷物なのだ、と正確に理解した。
     見舞いに一度も来ないのは忙しいからだと母親が言い聞かせようとしていたが違うのではないか、母親がどんどん見舞いに来なくなったのは忙しいからだと思い込もうとしていたが違うのではないか……そう彼の中で膨らんだ思いはひとつのことに結実しようとしたが、彼はそれを拒否した。忙しかったからだ、何か事情があったからだ、自分のことではなく家のことを考えるべきなのだと自分に言い聞かせた。

    「もうこれでばっちりよ! 数週間くらいなら大して筋肉も衰えていないんじゃないかしら。何かあったらまた呼んでちょうだい」
     そう言って彼を治療してくれたのは、後の彼の上司であり魔法の師匠である当時の騎士団長アルメリアだ。アルメリアは治癒魔法――闇属性の魔法の研究者の一人で、当時は国でも数人の実力を持っていた。そんなアルメリアをフェルナンドの症状を聞いた高位の貴族が呼んでくれたそうだ。
     アルメリアにあとから聞いた話だと「確かに外傷の程度はかなり酷いものだったけど、外傷だけならば何とでも出来るわ。貴方のご両親は……そうね、魔法をご存じなかったのでしょう」と言われた。
     彼はその言葉の意味を正確に理解した。両親が魔法を知らないはずがないのだから、金銭や人脈と言った何かを使ってまで治療することより、体よく替えを用意することを選んだのだと。
     それでもフェリクスにとって親は親だった。自分をここまで育ててくれたのだし、その恩に報いるためにもこれからも頑張ろうとその時は思ったのだ。

     祝日には教会に行く習慣があった。それは貴族の嗜みのようなものでもあったし、王家への忠誠を高めるために必要な教育であったのかもしれない。この国の神々を崇めるために祈りを捧げる場所で、そこに聖典は存在せず、歴史を見て人々のあり方を考える教育機関でもあった。
    「さて、愛というのは無償で与えられるものなのです。何か見返りを求めるような、そんな邪(よこしま)なものではありません。どのような素晴らしい行為も愛を伴わなければ意味がありません。愛というのは、皆さんの親御さんが皆さんに与えてくれるようなもののことを言います。皆さんの親御さんは、自分のことよりも皆さんのことを優先してくださるでしょう? 皆さんが食べたいものがあれば、自分が食べたくても我慢して子どもに差し出します。皆さんの将来のためにと、辛いことに耐えて働いてくださるでしょう? そういったことを無償の愛と、真実の愛と呼ぶのです」
     その言葉を聞いたとき、世界は色を失った。
     暗い海が自分を包み込んでいるようだった。白い砂浜はどこまでも遠くて、海と空の境界線がわからない黒一色の空間だった。足元は屁泥(へどろ)にしっかりと掴まれていて、足を動かそうとしてもずぶりずぶりと沈んでいくだけだったため気持ち悪い感触を拭い去ろうにもそうすることが出来なかった。下半身は冷たい水の中にあって頭だけが妙に冴えていた。天上を見上げても人々を照らす神々の姿がそこになく、煤(すす)がこびりついた煙突のようだった。
     彼はこの感覚を生涯忘れえないだろうと今も思う。
     彼はその時、初めて「親から子への愛は無償で与えられるものだ」と知ったのだから。その時初めて「親は子のために我慢する」と知ったのだから。「それこそが真実の愛なのだ」と知ったのだから。

     愛されているはずだと思いこむことのほうが、子どもには容易かった。真綿の繭(まゆ)に包まれて日曜日の昼下がりの暖かさにまどろんでいる方が彼にとっては「親に愛されていない」という事実を受け止めるよりも容易かった。親はすべての子どもを愛するはずだ、という大きなぬいぐるみに抱きつくような優しさの中にいることのほうが彼にとっては容易かった。

     ひとりの部屋で、夜に呟いた。
    「僕は親に愛されていなかったんだ」
     フェリクスひとりの部屋には何の音も響かない。鳥たちの声も虫の声もしない。
     もう一度、彼は呟いた。
    「実は、僕は親に愛されていなかったんだ」
     そう呟いたらとたんに、胸の中に何かを落とし込めた。言葉の意味が胸の中に入ってきた。
    「本当は、僕は親に愛されていなかったんだ」
     自分が呟いた言葉の意味をその時になってやっと理解できた。
     暖かなゆりかごも、美しい音楽も、子どもの時に大切にしていたぬいぐるみの暖かさも、全てがはじけ飛んだ。
     ふたつの瞳からは涙がこぼれたのか、目の前がぐちゃぐちゃになって途端に何も見えなくなった。
     彼は知ってしまったのだ、気がついてしまったのだ、親は自分を愛していたから育てていたわけでは無かったのだということに。
     そう分かってしまえば容易に理解が出来てしまう。
     父親は彼に「男爵家の嫡男」という地位を望んだ。彼にはその後継ぎとしての教育を施さざるをえなかったため、そうしただけだった。それが男爵家を継いだ父親の役割だった。
     母親が彼をどのくらい愛していたのか分からないけれど、フェリクスの治療を父親に進言せず、新しい息子を入れることにも何も言わず、自分よりも新しい息子の世話をしたのは自分を愛していたからだ。母親は他の貴族の家から嫁いできたのだから、子を産み育て、嫁ぎ先の家を存続させることが役割だった。彼女はその役割を全うしたにすぎないのだ。
     幸運(フェリクス)は両親の役割を全うし、それを引き継ぐために用意されたのだ。



    「その後すぐに優しくしてくれていた庭師に頼み込んで家出したんだ。部屋に法的な拘束力を持てる絶縁状を置いて、ね。別に両親が珍しい人種だったとは思っていない。子どもを自分の損得や役割のためだけに産み育てるのはよくあることで、両親が特別悪人だったわけでもない。始まりも途中ももそこにあったのだとしても、育ててくれたことはありがたかったと思っている。別に憎んでいるわけではないんだ。ただ、僕はそのまま生きていくことが嫌になって、愛がなかったことにとても嫌気が差して、何もかも信用できなくなって飛び出すことにしたんだ」
     フェルナンドの表情には何も映っていなかった。その表情が彼のこれまでを物語っているようで、悲しさも怒りも懐かしさもすべてを内包しているのだとソニアは感じた。
     ソニアもそうだった。彼女の父親は詐欺にあい蒸発してしまった。子どもと家族を守るために消えたのか、自分自身のために消えたのかはよくわからない。
    「親に愛されて育った人間と、そうでない人間は根本的に分かり合えないような気がしているんだ。親に愛されて育った人間は『何があっても親は子どもを愛している』と言い張る。お金がなかったから十分に愛せなかったとか、何か事情があったに違いないとか。どんなに言っても『それでも愛しているはずだ』という意見はどこかで持っていて、言い争いになりそうになったことがある。『子どもを愛していない親もいる』というのは、愛されずに育った子どもにしか分からない。なんと言われようと、僕は親に愛を見いだせなかった。愛を見出そうとするほうが、信じ続けるほうが簡単でずっと楽だった」
     親が子どもを愛し続ける存在なのか、そうではないのかという質問には本人の家庭環境や親子観が強く反映されている。
     人間が根本的に善の存在なのか、そうではないのかというのはある意味永遠のテーマだ。人間は根本的には悪なのではないかというと、そう発言した人物は責められる。人間は「善である」という意見のほうが美しいからだ。しかしソニアは、人間が根本的には悪なのではないかと言われたらそうかもしれないと答えるだろう。
     愛を強く感じずに育ったからそのように感じるのだろうと言われても、親は子どもに無償の愛を捧げられるというのも、人間は根本的には善の存在であるというのもあくまで理想論のようなもので、どこかで妄信的に信じることは難しい。というよりも、難しいと感じるほどの経験をした者にしか分からないことなのだ。
     ソニアが父親の経緯から他人に対して強い警戒心を抱くことも、フェルナンドが親に育ててもらいながらも愛されなかったと感じることも本人にしか分からない感覚なのだ。そのため、それがおかしいのではないかとか間違っているとかこうあるべきだとか説教をすることはひどく違うことだとソニアは考えている。
     そんなソニアの様子を察したのか、フェルナンドが窓辺からこちらへ歩いてきてソニアの隣に腰掛ける。
     まだ聞いてくれるかな、なんて改めていう彼に大丈夫ですよ、とソニアが微笑むと彼も微笑み返した。



     それからフェリクスは勇敢な旅人(フェルナンド)・空白(ブランコ)と名乗ることにした。フェルナンドという名前を選んだのは単にフェリクスの愛称でフェルと呼ばれていたため、そこから考えたのだ。
     フェルナンドは他人に迷惑をかけず、確実に労働者にならなくてはいけない、そして身分を問われず能力で取り立てられる場所ということで騎士団学校への入学を決める。そこでフェルナンドは人生を変える人物に出逢う。
    「ねぇねぇ君さあ、な~んでいっつもひとりではしっこにいるわけぇ?」
     そう話しかけてきた赤髪の少年はあまりに美形だったのでうわっと驚きの声を上げたまま、後ずさってしまった。
     男の自分に上目遣いで話しかけてきた彼は同級生の中でも美人だととにかく話題になっていた。この国でも珍しい部類に入る深みのある炎をうつしとったような赤髪は、羽毛のような軽さを感じさせるがきめ細やかに手入れされているのか艶がある。白い陶器のような肌は赤い髪と、光に当たるたびに乱反射するペリドットのような緑色の瞳をすっと際立たせている。
     ばさばさと長いまつげで瞬きをして、彼は薄い唇をにっと歪めた。
    「そんなに驚かなくたっていいじゃん~! 俺はオリクスって言うんだけどぉ、君はぁ?」
    「フェ……フェルナンド」
    「そう、フェルナンドっていうんだぁ! あっそうだ、フェルって呼んでも良い? 俺のこともオリクスで良いからさあ」
     初対面から馴れ馴れしい美形だな、というのがフェルナンドにとっての第一印象だった。
     後になってオリクスにフェルナンドの第一印象を尋ねてみたところ「地味でしょげてる様子で友だちいなさそうだし可愛い」と言ったため頬を思いっきり殴った。
     彼はフェルナンドが冷たくあしらっても何度も話しかけてくる上に、失敗をすればフォローをして励ましてくれた。フェルナンドは学生の中でも成績は下位で、体力を必要とする試験や授業、練習ではいつも教員に叱られ自主的に練習をしても追いつけず、同級生からも冷たい視線を向けられていた。そんな中でもオリクスはフェルナンドを見つけては声をかけ、体力づくりを手伝ってくれた。
     そういった事もあってフェルナンドはオリクスと距離を縮めていき、苦しいこと困ったことをすべて相談する唯一無二の友人になった。いや、本当はそれだけでは無かったのだ。
     オリクスとフェルナンドは次第に恋人のような間柄になり、肉体関係も持つようになった。それはオリクスが幼い頃から身体を売っていたという過去からくるもので、彼にとって性行為は日常的に行われる中毒のようなものだった。そのためか、フェルナンドと恋人のようになったあとも彼は複数人と肉体だけの関係を持っていて、それは時々フェルナンドを悩ませた。
     その頃にはフェルナンドにとって、オリクスは彼のすべてだった。辛いことも苦しいことも将来の不安も過去も未来もすべて共有する唯一無二の人物であり、それはオリクスにとっても同様だったのではないかとフェルナンドは思っている。そのため、オリクスが複数の恋人関係を持っていても、一夜限りの関係でいつも共同で使っていた部屋に戻ってこなくても、彼は自分がオリクスを手放せないように彼も自分を手放せないのだ、という優越感にも似た感情を抱きながら折り合いをつけていた。
     自分には愛してくれる家族がいなくても、愛し合っているオリクスがいる。それがフェルナンドにとっては不変の事実であり続けるはずだった。

    「俺ね、彼女と結婚しようと思うんだよ」
     それが、彼が人生で二度目に色を失った瞬間だった。
     その日はオリクスを何度も殴りつけながら、なんでどうしてと当たり散らして人生で一番泣きわめいた。
     四方八方に魔法を暴発させ、当たり散らすフェルナンドをオリクスはずっと優しくなだめていた。数日間、間を空けながらその状態が続いた後フェルナンドはなけなしの理性を振り絞っておめでとうと賛辞を述べた。それが彼にとって限界だった。



    「オル――あっ、オリクスのことなんだけど、オルには会ったことがあるんだっけ? アイツ、間延びして話すだろう。本人は他人と距離をはかるためにやっていると言っていたが、僕には正直そうは思えなかった。というか、それもあるだろうがアイツは他人に媚びるために間延びした口調じゃないかと思うんだ」
     フェルナンドはそこで大きく息を吐き出した。
     オルというのはフェルナンドだけが呼んでいるオリクスの愛称だ、というのはずっと後になってオリクス本人からソニアは聞いた。
    「オルにとって人間はほとんど『媚を売らなきゃいけない他人』なんじゃないだろうか。お金で関係を買わないといけないような、媚を売り続けないと好かれるはずもないような、そんな他人だと彼は思っているんじゃないかな。……だからそんな彼が真剣に結婚をするって言うかもしれないなんて僕は考えていなくて…………あの時はなんとか理性だけで押しとどめたけど、オルには僕以上に大切な人ができたんだっていう事実で放心状態になってしまって。オルとそういう関係だったのはあまりおおっぴらにはしていなかったから、僕を心配してくれる人になんとも説明ができなくて、部下には婚約者にフラれたなんて噂が流れていたみたいだ」
     そういえば以前スライとナギユがそんな話をしていた。婚約者にフラれたからフェルナンドが辛そうにしていた時期があると言っていたが、事実はオリクスが結婚したことによるショックだったらしい。なるほど、道理でフェルナンドの婚約者を誰も知らないわけだとソニアはひとりで納得していた。


    「その頃から髪を伸ばし始めたんだ。元々は切りそろえていたんだけどね」
     髪を伸ばすようにしたのか、それはあの頃出会う人々(ひとひと)に聞かれるからなんだか可笑しかった。
    「えっ? もともとは、切りそろえていたんですか?」
    「そうだよ」
     ソニアと出会ったのはその後、オリクスが結婚したことも孤独になったことも全て乗り越えたあとだった。そのため、ソニアからこの質問をぶつけられるのは初めてだった。髪を伸ばすようにしてから出逢った彼女は知らなかったのだろう。
    「長くするのも面倒だし、ある程度の長さに切りそろえていたんだよ。そうした方が髪型を考えなくて良いし、楽だったから」
    「じゃあ、なんで伸ばすように?」
     そう彼女から聞かれて、はたと考える。
    「願掛け、かな」
    「……それは聞いてもいいことですか?」
     彼女は気遣いが出来る優しい人だ。
    「――うん、これは決意なんだ」
    「……決意」
     彼女はとても聡い、だからそれ以上は聞こうとしない。
     ――そう、これはひとりで生きていくという決意だ。
     誰かひとりを信じ切って生きていくのはやめようという決意だ。


    「でもね、やっぱりひとりで生きていくのは無理かもって思い始めたんだよ」
    「そう、なんですか」
     ソニアはフェルナンドが何を言っているのかよく分からなかったが相槌を打った。
     そして、フェルナンドの次の言葉を待っていると、彼が立ち上がってネクタイを緩めた。首元が少しはだけた様子を見てソニアは少し胸が高鳴るような心地を覚えて自分で驚いた。フェルナンドがこの部屋をそういう部屋だと言っていたため、変に意識してしまったのだろうかとフェルナンドに対して申し訳無さを感じた。
    「さっき、名前で呼んでもらえて嬉しかったよ」
    「は、はあ」
     さっき、と言われてソニアは記憶を巡らせ、おそらくは会場内でユリウスがいた時に会話したそれだろうと思いあたった。
     言われてみれば、普段フェルナンドのことは団長さんと呼んでいるため、本人の前でフェルナンドと名前を出したのは初めてかもしれない。
     フェルナンドは、先程とは打って変わってとても上機嫌に微笑んでおり、鼻歌でも歌いだしそうだった。
     暗い話をしてしまった、と後悔したため無理やり話題を変えようとしているのだろう、とソニアは感じた。
    「良かったらこれからも名前で呼んでくれない?」
     話題を振る頃合いが頃合いだったことと、彼があんまり気分良くそんな話をしてきたため断りづらく、ソニアが何も答えずに目をそらしているとフェルナンドが「良かったら、ではあるけど、ぜひにっていうか」と追い込みを見せたため分かりましたと頷いた。
     ありがとう、と笑う彼を見ているとまあいいかという気持ちになってしまったソニアは、そんな自分を俯瞰的に見ていた。
     フェルナンドを名前で呼ぶことは嫌なことでも何でもないため構わないのだが、たったそれだけのことで嬉しそうな彼とそれを良しとする自分が少しおかしく感じてしまった。
     まるで小さな甘い焼き菓子のように熱を持っていた。
    「言い損ねていたけど、ソニアさんは今日は一段と綺麗だね。ドレス、とても似合ってる」
    「ありがとうございます。フェルナンドさんと仕立ててくれた方の趣味が良かったんですよ」
     ソニアが賛辞を述べるとフェルナンドがドレスを仕立てている時に何度も聞いた気にしないで、をまたも言った。
     彼が仕立て屋を紹介してくれた上にドレスやその他諸々を全額負担してくれたのだ。その時は彼があまりにも謝り倒すなり気にしないでを連呼するため、逆に気になり続けた。
    「やっぱりそのドレスはソニアさんにとても映えているよ。ソニアさんは薄くて淡い色合いがとても似合うね」
     そう微笑んだフェルナンドにソニアは礼を返す。これ以外の言葉だとまた彼の「気にしないで」が始まってしまうというのもあった。
     白と青を基調としたドレスは、手触りがよく光沢のある薄地で縫われているため、さらりとしており着心地が良い。舞踏会で着るものというだけあって光を反射するように宝石――光り物を仕立屋に進言されたときは目がくらんで即座に断ったが、周囲に強く押された――が縫い付けられている。どこかの貴族令嬢のドレスとも見劣りしないようなそれにソニアは縮こまっていた。
     ソニアが恥をかかないようにと言うフェルナンドの気遣いだと分かってはいるものの、どこか小さくなってしまうのだった。
    「よろしければ僕と踊ってくれませんか? せっかくたくさん練習したんだし」
     そう言いながら、フェルナンドはソニアの前で片膝をついた。この国の正式な申し込みの所作だ。
    「もちろんですと言いたいのですが……ダンスは、その」
    「大丈夫、ソニアさんに足を踏まれたぐらいじゃ痛くないよ」
     ソニアはそう言われて逡巡したが、個室であればダンスが下手でも誰にも笑われまいと申し出を受けることにした。

     一礼をしてから近づいて、フェルナンドの手がソニアの腰に添えられ、ソニアはフェルナンドの肩に手をおいた。音楽はどうするのだろう、無いのならば無いで救われたかもしれない、とソニアが考えていたらフェルナンドが何かを小さく呟くとどこからか音楽が鳴り響いた。
     ソニアが不思議そうな顔をしていたのだろうか、フェルナンドが「風の魔法の応用だよ。遠くからどこかの音を運んできているんだ」と説明してくれた。
     円舞曲(ワルツ)に合わせて足を恐る恐る動かしていると、練習よりもだいぶゆっくりとした曲なのだと気がついてフェルナンドの気遣いにソニアは感謝した。
     踊り始めてから少し時間が経ち、慣れてきただろうと先程よりものびのび動けるようになった頃合いでフェルナンドに腰をぐいっと引かれ、ステップを間違えそうになっていたことを知り、ソニアは悲しくなった。謙虚に動かなければならないな、と固い決心をしたところ、フェルナンドと目があった。
    「たくさん間違えながらでも、楽しく踊れることが一番だよ。せっかくふたりきりなんだし」
    「……あり、がとう、ございます」
     そう言われてから肩の荷がすとんと下りたのか、緊張で腕をつるかもしれないと思うほど張り詰めていた筋肉が和らいだ。
     本来、ダンスは三曲ほど踊るためひとりから申し出を受ければかなりの時間拘束されてしまうのだが、一曲終わり、もう一曲踊ったところで音楽が小さくなっていき、やがて鳴り止んだ。
    「お疲れだと思うので、このへんにしようか……ソニアさんはどう?」
    「は、はい。ありがたいです」
     そう言ってしまってから、なんだか今フェルナンドに対してかなり失礼なことを言ってしまったのではないか、とソニアはフェルナンドを見上げながらぼうっとしていたのだろう、気がついたときには片方の頬に誰かの手があり、目の前に顔が――フェルナンドの顔があってびっくりしたところで、彼が「ああああああぁっ」と情けない声を上げた後に壁際まで後ずさった。
     ソニアは頭の処理速度が追いつかないまま困惑してあの、とフェルナンドに近づいていき声をかけると、フェルナンドが片手を突き出した。これ以上近付かないで欲しい、といった意味合いだったのだろう。
    「えっと……その……あの……………」
     フェルナンドがしどろもどろになっているのか、小さい声で何かを必死に伝えようとしているらしくソニアはそのまま耳を傾けた。
    「ごめんなさい……」
     謝られてしまった。
     ソニア自身突然のことで驚いており、先程の状況を正確に把握できていないためなぜ謝られてしまったのかよく分からなかった。フェルナンドが少々パニック状態にあるように、彼女もその時は気がついていなかっただけで同じ状態にあった。
     彼の言葉をよく聞き取ろうと裾に気をつけながらしゃがみ込みと、フェルナンドが顔を片手で隠してうつむきながらも言葉を続けた。
    「いきなり……その……えっと……口づけようとしてごめんなさい」
     フェルナンドの言葉を脳で処理した途端にソニアの喉がひゅっと鳴った。もう一人の彼女が「人間は驚いたら喉が鳴るというのは本当なのだなあ」と俯瞰しながら、ソニアはフェルナンドの言葉を飲み込もうとしていた。
    「えっと、その、意中の人が目の前にいてあんまり綺麗な格好をしていたので……あの……部屋に誘ったのは本当に下心はなかったので、それだけは信じてください」
    「えっと」
     言葉を失うのはソニアの番だった。



    「家ももうすぐ建つそうだね」
    「ええ、やっと」
     夕食を食べ終えて、フェルナンドの横で洗い物を手伝いながらふたりは会話をしていた。
     星冠祭の野外舞台や貴族の屋敷修繕に割かれていた人員がようやく戻ってきたのだ。何もない時期よりも随分と遅れてしまったが、それでも無事家に帰れるということにソニアはとても安堵していた。
     舞踏会以降はフェルナンドとの関係に何か変化があったかと言われれば何もなかった。驚くほどこれまで通りだったためソニアはフェルナンドの「意中の人」という言葉について真意なのかどうかということすら尋ねる機会を失っていた。そして、フェルナンドから死の呪いについての協力を頼まれることもなかったため、ふたりの関係はまた舞踏会の前の頃に戻っていた。
    「少しは休めるとは言え、星冠祭はずっと仕事だからなぁ……ソニアさんはぜひ楽しんでね」
    「はい、羽根を伸ばしたいと思います」
     星冠祭の本祭当日とも言える明日と明後日は王宮に続く大通りにたくさんの屋台が並ぶ。異国の屋台も数多く集まることから、普段の市場(マーケット)よりも活気づき、珍しいものがたくさん置いてある。異国の製品を買い求めるのも一興だが、見て回るだけでも十分に楽しめるため、ソニアもこの日を楽しみにしていた。
    「そうだ、時間が出来たら誘っても良い? ふたりでぶらぶら歩かない?」
     フェルナンドの言葉にソニアは少し固まった。
     以前なら二つ返事で大丈夫ですよと言っていたところだが、舞踏会のことがある。あのことにはふたりとも触れてきていないし、あれ以来――以前はよくふたりでフェルナンドの体調管理も兼ねて昼食を食べに外出していたが――ふたりで出掛けるということはしていない。ともかく、気まずいのだ。
     それでも、彼は厚意で誘ってくれているのだろうとソニアにはどことなく感じ取れたため、もちろんですと返事をした。
     そうして、洗い物を済ませた後に渡されたのは翠色の石だった。
    「翠玉(エメラルド)だよ。僕はこれが一番加工しやすくて」
     渡された石は翠玉の原石だった。どうやらこの場合の「加工」というのは石を磨いたり削ったりすることではなく、術を組み込むという意味らしい。形が整えられていなくとも、とても綺麗な石で、深みのある青みがかった色を見つめていると飽きなかった。
     フェルナンドによれば、一時的に遠距離にいても声を届ける魔法が組み込まれているそうだ。便利な代物だな、と物珍しげに見ていると「使用回数限度がある」と言われ、大切に使おうとソニアは思った。
    「また明日か明後日にでも」
    「はい」
     明日も明後日もフェルナンドはかなり忙しいらしく、一緒に食事をすることも出来ないとは事前に言われており、家に帰らずに騎士団の駐屯場に泊まるかもしれないとまで言っていた。ソニアも病院の定休日にしているため、たとえフェルナンドが帰宅しても会わないだろうということだった。
     別れを告げた後、フェルナンドが手を差し出したため、ソニアは以前もそうしていたように片手を乗せると指先に口付けられ、すっと手を離される。
     舞踏会のことがあるまでは何も気にかからなかったその挨拶も、今は少し緊張するようになった自分にソニアが一番驚いていたが、それでも平常を装ってなにもないように振る舞っていた。



     星冠祭当日の今日は一段と街が活気づいており、歩いているだけでも力を分けてもらうようだった。近所のおばあさんが「若い人がいると元気をもらえるの」と言っていたことを思い出して、自分も同じ状態なのだなと可笑しくなって笑った。
     ソニアはまだ準備中の屋台や出店はまだ準備をしているらしくどこも忙しなさそうにしていた。ソニアはそんな喧騒の中をバスケットを抱えたまま軽い足取りで進み分けていった。
    「おはようございます」
     すっかり見慣れたカフェの扉を開けると、フローラが振り向いて「いらっしゃいませ」と声をかけた。
    「舞踏会、大きな失敗もなく無事終わりました。よかったらこれを」
    「まあ、美味しそうな果物! ありがとうございます」
     フローラが笑ってから、バスケットの果物をカゴに移した。開店前とはいえ準備は殆ど終わっているらしく、店内には星冠祭を象徴する青と白で星が飾り付けられている。
     星冠祭の飾り付けにあらわれているように、この国における神々とは常に人々の傍で見守り続ける存在である。遠くにいる畏(おそ)ろしい存在というよりは生きていく道標であり最良の友人であり家族であるのだ。ひとりで生きているのではなく、神々はつねに隣りにいて私たちを支えていてくれる――そんな神々が一同に天を冠するという祭りは人々を沸き立たせる。
    「失礼ですが、ハルさんはどちらに? 良ければ、直接お礼を言いたいと思っていたのですが」
     店主が見当たらず声をかけると、フローラがうーんと唸った。
    「お兄様でしたら、きっといつもの場所で鍛錬です。ちょうど今から朝食を届けに行くところでしたし、少し歩きますが……お時間があるのでしたらご一緒しませんか?」
     名案だ、とばかりにぽんと手を叩いてフローラが提案をした。断る理由もなかったため、はいとソニアは答えて、フローラに着いていった。


     打ち合うというよりはせめぎ合うような甲高い音に、ハルは顔をしかめた。正面から打撃を受けきれば、しっかりと踏ん張っていても両足が少し地面に沈む。あまりに重い一撃になんだか笑えてきてしまった。ろくな強化魔法を施していなくてもこれなのだ。
    「甘ェっつの!!」
     怒気すら孕んだ大声にほんの一瞬怯(ひる)みを見せた隙きを逃さず、ハルは瞬時に武器へ強化魔法を付与し、メーメットを薙ぎ払った。――メーメットを力技で押し返すつもりだったのだが、力を正面から受けないようにメーメットは後ろに大きく飛び退きながら、力の方向性を変え流したのだ。
    「それは正解だな」
     ハルが苦々しく口にするが、メーメットは一度距離を保ってから次の攻撃に移っていた。また力技で正面から挑んでくるだろうか、とハルが彼の動きを見ていると、どうも彼はその場で立ち止まっている――――魔力を足に貯めているのだと気がついたときにはすぐ目の前にメーメットがいた。ハルは障壁を無詠唱で出して、彼の一撃を防いだ。そして、押し切ろうとしても消耗戦になると判断したメーメットが後ろに飛び退こうとした時に、星武器を起動させた。メーメットは目前に迫ってくる刃を器用に避けて、また大きく飛び退いた。


    「――――剣が伸びた?」
    「ええ、あれがお兄様の星武器の力なんです」
     二人は城下郊外の荒れ地に来ていた。この王国が位置する島の南、宮殿のあるこの地域は周囲を荒野に囲まれている。元々荒野を開拓した場所に住んでいるため、少し歩けばこのような大きな岩と砂というなんとも寂しい荒野が現れる。
     ハルとメーメットはまだ手合わせの最中で、あまりにも白熱していたため声をかけられず、ふたりはおとなしくその様子を見守っていた。
    「星武器……というのは?」
    「私(わたくし)達……人間も獣人も妖精も魔力の源は皆宝石の心臓ですが、獣人族は特殊な方法で自身や他人の宝石の心臓をほんの一欠片、取り出すことが出来るのです。その欠片を武器に入れてることで爆発的な魔力を有する武器――通称星武器が出来上がります。剣の軽い一振りで石壁を真っ二つにするような危険な代物ですから、国によって所持は厳重に管理されています。騎士団や国防軍の中でも限られた者たちは所持携帯を許されています。お兄様のように、武器そのものに複雑な術式を埋め込む人もいますし、私のように特に複雑な術式は埋め込まず身体、武器の能力を強くするといった単純強化と呼ばれる術式の星武器を使う人間もいます」
     なるほど、星武器というものを聞いたことが無かったが、そもそも危険な代物であるがゆえ、市井(しせい)にはあまり情報を出していないのかもしれないとソニアは考えた。
    「本来は騎士団の退団とともに星武器は回収されるのですが……お兄様は訳あってそのままお持ちなのです」
     秘密ですよ、とフローラに念を押され、ソニアはおとなしく頷いた。どうやら、本来あってはならないものらしい。
     伸びる剣というハルの星武器は次に見たときには横に広いフライパンのような形になっていた。それを大きな盾のように使ってメーメットの攻撃をいなしていた。伸びるというよりは形状が自在に変化する星武器のようだ。
    「小石が飛び散ったり、岩が裂けるほどの攻撃をお互いに打っては受け止めているなんて……騎士団の方はすごいですね」
    「ふふふ……とはいえ、あんな力技の打ち合いができる人間は限られていますね。私ではとうてい及びません。きっとこれから先もあんな真似は出来ないです」
    「そ、そうなんですね」
     目の前の二人が特別なだけだ、ということをフローラに告げられてソニアは押し黙った。先程フローラは自身の星武器は単純強化を施したものだと言っていたが、ということは彼女はどちらかといえば魔法を使うよりも剣そのもので戦うスタイルなのだろう。そんな彼女が修行を積み重ねても敵わないと言わせるのがあの二人なのだ。なんだか珍しいものを見せてもらえたらしい、という程度に留めておいたほうが良さそうだ。
     少しして、打ち合いをしていた二人は気が済んだのかこちらに歩いてきた。メーメットはソニアが居ることに驚きすぎたのかビクリと跳ね上がったためハルに背中を強く押されて前のめりになったところを、素早く前に移動していたハルによって足を引っ掛けられていた。



     カフェに戻り、当初のお礼を言うという目的を果たしたソニアはぶらぶらと星冠祭の飾りで彩られた街道を歩き始めた。
     屋台は普段の市場のように果物や野菜が数多く並んでいるが、普段は店内でのみ販売しているパンや手軽なつまみ、焼き菓子も並んでいた。ほのかな砂糖の甘やかな匂い、香ばしい匂い、歩いているだけでも鼻孔をくすぐられ食欲を掻き立てられる。どれが美味しいだろうかと店先を見て過ぎていくだけでも楽しい。また、異国の食器や日用雑貨の店も多く、長く立ち止まって手にとっては購入をした。
     そんなソニアはふと、ある店先で白磁の器に目を留めた。程よく深みのある器はサラダを盛るのにちょうどいい大きさをしていた。異国の食器は翠色の縁で彩られているが、円と四角を組み合わせた見たことのない柄だった。異国の風を感じる器を見てソニアの頭によぎったのはフェルナンドの顔だった。日頃の感謝も兼ねてお土産にどうだろう、と考えそれをふたつ買い求めた後にソニアはそういえば、さっきもフェルナンドに見せたいなあと思うものがあったなあ、と思い出した。
     それは青い硝子が施された花瓶だった。フェルナンドはよく数輪の花を買ってくるのだが、花瓶がないのか背の高いグラスに生けていたのだ。その花も以前はどうして花瓶もないのに頻繁に買ってくるのだろう、と不思議だったが、今はリリーと話をしてそのまま花を買っているのだろうなと分かっている。そのことが分かってから、花を嬉しそうに愛でているフェルナンドからなんとなくソニアは目をそらした。
     そういえば、どうして自分は雑貨を見ながら彼のことを思い浮かべていたのだろう。
     ひどい話だが、患者の顔はあまり思い浮かばない。それは仕事と私生活を分けて考えているためだ。……では、と考えて、ソニアは立ち止まった。

     ああ、そうか。
     家路につきながら、ソニアは上を見上げて大きく深呼吸をした。
     宿に近い小路に入ると、喧騒は砂上の城のように波に連れて行かれて消え去っているため、神々の光だけがその場を満たした。
     私は、あの人のことが、フェルナンドのことが好きなのだ。

     ……といってもソニアにはどうすることも、思い浮かばない。

     そう意識した途端に足ははやくはやくと動き、宿の部屋に荷物を置くと、荷物をおいたテーブルの周りをぐるぐると歩いて回り始めた。無心でずっとぐるぐると歩き回っていたところ鐘の音が聞こえ、四半刻(三十分程度)ほど自分が歩き回っていたことに気がついて、よく目も回さず飽きもせずに何をしていたのだろうと声を上げて笑った。
     せっかく買った土産をどんな顔をして渡せば良いのだ、とソニアは自問自答をしたが結論が出なかったため、また街に繰り出すことに決めた。色々な店を見ていれば気分転換にもなるし、すっと頭が晴れて、また何か思いつくかもしれないと思ったからだ。

     裏路地に出たところで、ソニアは声をかけられて立ち止まった。
    「ソニアさーん! こんばんはー危ないですよ~」
    「そうですよ~、ここ表より暗いし物騒ですよ」
    「……心配してくださってありがとうございます」
     ソニアにはすっかりお馴染みになったスライとナギユだった。どうやらふたりは警護で街を歩いていたようだ。そこで偶然ソニアを見つけたらしい。

     そういえば、フェルナンドとの出会いは彼らがきっかけだった。
     ある日、大怪我をした人間を一人の男性が診療所に担ぎ込んできたのだ。
    「すみません! ベッドのある診療所がここだって聞いて……仲間を助けてください!」
     そう叫んでいたのはナギユで、大怪我をしたのはスライだった。ふたりは診療所の近くで魔女との交戦になりになんとか勝ったのだが、その際スライがナギユをかばって腹部を大きく切られるという大怪我を負った。魔女の捕縛と連行を仲間に任せたナギユはこの診療所を一目散に目指してきたらしかった。
     とはいえ、ソニアの診療所にそれほどの大怪我を適切に治療できるほどの医療器具は当時揃っておらず、出来る限りの応急処置をしていたところ血相を変えた男が飛び込んできて、そのまま何も言わずに魔法を使って治癒を始めた。それがフェルナンドだったのだ。
     フェルナンドは治癒魔法をかけ終えた後、ソニアに礼を言い、スライは動かさないほうが良いだろうということでそのままソニアの診療所に緊急入院させることになった。頻繁に見舞いに顔を出しにきたナギユとフェルナンドとはその際親しくなり、その後診療所には新たに大怪我を治療できる薬や器具揃えた。そして、スライは完治した後もナギユとともに何か怪我をしてもしなくても診療所に顔を出すようになった。

    「ソニアさん、失礼ですがおひとりですか?」
    「暗いし、俺たち以外誰もいないくらい人通りないですし、明るい道まで送っていっていいですか?」
    「ありがたいです。よろしくお願いします」
     それも仕事のうちなのだろう、普段ならそんなふたりの申し出に遠慮したくもなるが、顔見知りのふたりならということでソニアは甘んじて受け入れることにした。

     スライが何かつぶやいたと思うと、キーンと高い金属音が響いた。
     床に落ちたのは弓矢だ――それを見たスライとナギユがソニアを囲むように立つ。
    「スライもナギユも……いつも厄介事にばかり関わってしまいますね」
     そう物陰から現れた人物に、スライが一瞬気を緩め、また引き締めたことは傍で見ていたソニアにも伝わっていた。

    「……リナリア、さん」
     スライの声は震えていたが、リナリアのただならぬ空気にじりと後ずさりをした。
     ソニアが念のためにと首にかけていた縞瑪瑙(オニキス)が熱くなっていたことが事実を告げていた。



    「……フェルナンド団長に、よかったらソニアさんのことを気にかけてくれって言われて、ああ家のこともあったしきっとソニアさんのことを心配してるんだろうなって思ってたんですけど……違うみたいですね」
     ナギユがそう言うと、ふふふ、と上品で美しさを感じる笑い声が聞こえてきた。平素ならともかく、今となっては恐怖しか感じられなかった。
    「あんた、何者だ? リナリアさんの姿を魔法で投影しているのか」
     スライがそう言うと、女はまた笑う。
    「……そういえば、リナリアさんとあった後に私に呪いがかけられていた。犯人はリナリアさんだったんですね」
     いまだに実感がわかないが、縞瑪瑙(オニキス)がそう告げているのだから、間違いないだろう。ソニアが声を振り絞ってそう言うと、そうですよ、とリナリアが返した。
    「あのまま死んでくれれば良かったのに、どうして生き残ってしまったんです? 痛みなく、死ぬことが出来たのに」
     リナリアの歌いかけるような口調に底知れぬ恐怖を感じた三人は、身を強ばらせた。
     先ほどまで、顔見知り相手でどこか狼狽えていたスライはどこにもいない。スライもナギユもリナリアが明確な殺意をソニアに向けていることを肌で感じていた。
    「ふふふ、ふふっ」
     リナリアが笑ったと思ったら、すぐそばまで来ていて、スライもナギユも必死にリナリアの剣を防ぐことは出来たのだが、それまでだった。
    「二対一でも、星武器を持っていない貴方がたと、持っている私では、力量差は雲泥でしょう」
     打ち込んで離れたらしいリナリアはソニアたちから少し離れたところにいた。
     スライもナギユも倒れていた。
    「ソニアさん……に、逃げて……!」
    「はやく! 俺たちのことはいいから!」
     いつかのスライのように、ふたりは大けがをしていた。血が流れすぎている。このままではふたりは死んでしまうとソニアは分かっていても、向けられた殺気という恐怖で立ちすくんでいた。
    「どうやって呪いを解いたのかは知りませんが、貴方には苦しみながら死んでいただきますね」
     リナリアの宣告にもソニアは動けない。
     ああ、ここで自分は死ぬんだ、そうソニアが漠然と理解したときに、目の前に閃光が現れて、一瞬あたりを覆ったかと思うと、目の前に白が見えた。
     走馬灯とはこういうものなのだろうか――とソニアが考えていると、声をかけられた。
    「ソニアさん、大丈夫?」
     その声に、ソニアは一気に現実に戻る。
    「フェルナンドさん!」



    「うん、少し遅かったけどちゃんと間に合ったね」
    「人使い荒すぎッ! ほんといきなりじゃん!」
    「文句言うな、働け」
    「いーーーーっ」
     フェルナンドと……もうひとりの男性は声から判断して、一度だけ会った第四騎士団(キャンサー)団長のラグナレスだろう。ラグナレスはリナリアを剣で弾き飛ばして、彼女と距離を取った。
     いつの間にか、路地の一部だけだった狭い間合いが大きく広がっており、スライとナギユには淡い 光が――フェルナンドの治癒魔法がかけられており、どうやら一命を取り留めそうだ。
     周囲には円い形のものが浮いており、何かに守られているらしいことはわかった。フェルナンドの魔法だろうか。
    「フェルナンドさん、あの」
    「ああ、翠玉(エメラルド)に、緊急転移の術式を仕込んでおいたんだ。何かあったときに僕とラグナレスが飛ばされてくるように」
    「ホント良い迷惑~ッ!」
     ラグナレスは剣を杖代わりにして、ふてくされていた。

    「さて、リナリア。君が何をしたのか、僕たちは分かっている」
     フェルナンドは淡々とリナリアに告げた。
    「……いつから、お気づきに」
    「……決定的だったのは、舞踏会のとき。君が『手の入れ墨』と言った……犯人が特徴的な入れ墨をしていることは公布していたが、手とまでは広めていない。あれは極秘情報だ……君ですら知り得ることが許されない、ね」
     フェルナンドがそう言うと、ラグナレスが続ける。
    「あれ、騎士団長の一部と助かった被害者しか知らないんだわ。魔女専門の第四(キャンサー)、第五(レオ)、第六(バルゴ)の騎士団長と、第一(アリエス)の騎士団長しか知らないはずのことを、騎士団長でもない君が知ってたらおかしいでしょ」
    「状況証拠はそんなところだが、呪いを解呪した姫様からも『犯人は女だ』って言われたからね……君の態度がおかしかったことを思い出して、重なって、疑った」
     そう告げるフェルナンドはどこか悲しそうな、寂しそうな声色をしていた。
     ――優しい彼が、部下を疑うのが本意では無いことをソニアは感じ取っていた。
    「なんだ、じゃあ舞踏会にその女を連れて行ったのも、私に気がつかれないように、でも私に会わせるためだったんですか。踊らされていたんですね」
    「そういうことだな」
     リナリアは大声で笑った。
     先ほどの微笑みのような余裕が感じられない笑い声だ。
    「非道い、酷いなあ。私、アハハッ。……この術式は使用者の体を蝕むんです」
     リナリアはそう言って、手袋を外して、奇妙な形の入れ墨を此方に見せた。何かの花をぐちゃぐちゃにしたような、気味の悪い入れ墨だ。
    「父親が死ぬときに私になすりつけたものですよ。これのせいで、犯罪者の父と同じ存在に私はなってしまった!」
     ヒステリックな金切り声があたりに響くも、フェルナンドは無慈悲なほど態度を崩さない。
    「なぜソニアさんを狙ったんだ?」
    「分かりませんか? そんなことも!?」
     わからない。
     ソニアにはリナリアに、自分に対するそこまでの殺意を抱かせた理由が分からなかった。態度から察するに、フェルナンドも本当にそうなのだろう。
    「分からないな、僕には。そもそも人を本気で殺したいと思う心理が理解できない」
     フェルナンドがそういった途端に、弾かれるようにしてリナリアが動いた。ラグナレスに切り込んだその瞬間に、頭上で爆発が起きた。魔法の詠唱をしながら斬りかかっているのだと気がついて、ソニアは身震いがした。頭上の爆発は向こうが透けて見える大きな丸い鏡のようなものにに防がれて、こちら側にはなんの被害もなかった。鏡のようなものは紫色の骨のような枠組みの中に、歪んだ硝子のようなものがはめられているように見える。
    「それ……なんの魔法ですか」
     自身の攻撃を防いだそれを、リナリアは指差した。
    「君には見せたことが無かったね……これは魔法じゃなくて僕の星武器の、本来設計された姿だよ」
    「本来設計された……姿?」
    「僕の星武器は、相手が星武器を使用したら、ということを前提に作っている。だってそうだろう、こんな恐ろしい武器だ。相手が持っていたらと考えるのは普通のことだ。本来設計したのはこの姿だよ。鏡のように宙を漂い攻撃を吸収、跳ね返す……でも星武器を持っている相手に知られてしまっては設計した通りの働きが期待できない。だから仲間が相手でもこの姿は隠すことにした。君にいつも見せているのはこの武器の別の姿さ」
     フェルナンドの対星武器用の星武器がどれだけ珍しい物であるかというのは、リナリアの唖然とした反応からも伺えた。星武器を持つ仲間を相手取ることを想定した武器は秘匿されていた。
     それは、あまりにもわかりやすい「不信」だった。
     リナリアはフェルナンドの秘書代わりに働いていたとしても、フェルナンドから心から信頼されていたわけではないという事実を、今告げられたのだ。
     黙り込んでしまったまま動かなかったリナリアの足元に何かの魔法陣が浮かび上がる。フェルナンドを見ると何かつぶやいているらしい……彼が発動した魔法のようだ。リナリアは魔法陣を見て真上に飛び上がった。が、その先には剣を構えたラグナレスがおり、一撃を振り落とした。リナリアはそれを無詠唱で出したらしい壁で弾き飛ばし、ラグナレスは武器を遠くに飛ばされた。
    「あ~~やっぱり置いてきちゃったのまずかったかも、フェルナンドくん、いつもの出して」
    「忘れてきた物を届ける便利屋じゃないんだが」
     そう言いながらもフェルナンドが呪文を唱えると、ラグナレスの直ぐ側の足元から薙刀が出てきた。
    「自分の星武器くらい召喚出来るようになれ」
    「えーー」
     そう言いながら、ラグナレスが薙刀を軽々振り回してから、左手だけを添えて中段――腰のあたりに薙刀がほぼ地面と水平になるようにに構えた。途端に、ラグナレスの雰囲気が変わる。先程まではどこかおっとりとした雰囲気だったのだが、今は首輪が外された猟犬のような鋭さを帯びている。
    「君が彼女を殺しそうになったら止めるからな」
    「あーーはいはい」
     フェルナンドの言葉に適当に返事をしたラグナレスは、正面から飛び込んできたリナリアをそのまま突いた。それを予想していたらしいリナリアは横に避けたのだが、その動きをを誘ったらしいラグナレスはそのまま薙刀を横に払う。リナリアは避けきれなかったのか、防御壁を出して防ぐが、リナリアの背後へ素早く移動したラグナレスが、背中をそのまま斬りつけた。
    「ぐぅっ……!」
     リナリアは腹部を押さえたまま、ラグナレスから距離を取るが、ラグナレスの脚力のほうが遥かに上らしい。すぐに追いつかれ、距離を詰められた。ラグナレスが上段――頭上に地面と水平になるように構えてから、リナリアを真っ二つにするように刃を振り下ろした。リナリアは避けて、そのまま地面に下ろされた薙刀の刃を踏みつけるが、ラグナレスは薙刀から手を離し、リナリアに回し蹴りを食らわせた。一連の腹部への集中攻撃に、建物の壁に打ち付けられたリナリアは立ち上がることが出来ないようだった。
     ラグナレスはそのまま追い打ちをかけようとするが、地面から伸びた鎖のようなものに縛り付けられた。リナリアも同じように鎖に巻きつかれ、地面に縫い付けられるように動きを止められていた。状況から見て、フェルナンドの魔法だろうとソニアは予測した。ラグナレスはふてくされているのか、興を削がれたのかつまらなさそうな顔をしている。
    「もう十分だ、ご苦労様」
     フェルナンドはそう言うと、リナリアのすぐ側にまで歩いていった。そのまましゃがみ込むと、冷たい声で告げた。
    「もうこれで終わりだ。君には聞かなくてはいけないことがたくさんある」
    「…………んです」
    「え」
     リナリアが何かつぶやいた。
    「怖かったんです……憬れの団長が……目の前から、いなくなることが。私の父親とは違う……優しくて強くて、挫けても立ち上がろうとする、貴方が大好きなんです。だから、いなくなるのかもしれないって……少しでも、そうかもしれないって……それが怖かったんです」
     それが、ソニアにリナリアが死の呪いをかけた理由だった。
     そんなことで、と思わずソニアは呟いてしまった。ソニアはリナリアと出会ったその日に彼女にフェルナンドとは何も邪推するような関係ではない旨をしっかり説明し、それを理解してもらったと思っていたが、彼女は疑わしいものはすべてが許されなかったのだろう。
     ソニアにとってはそんなこと、だと思ったのだがフェルナンドは深く納得したように黙り込んでいた。
    「あーー……もう帰って良い?」
     ラグナレスが拘束から解かれて、腕を回しながら暇そうに呟いた。フェルナンドも臨戦態勢を解いたらしく、宙に浮いていた星武器は消えていた。ラグナレスの態度にフェルナンドがため息をついたとき、ちょうど道の奥から、影のような一団が現れた。その制服を見たらしいラグナレスがそそくさとこちらに歩いてきた。
     影のような一段の制服は暗がりであるため細かいところまではよく分からないが、黒字に金で何かの文様が大きく描かれていた。――竜だ。近づくに連れて、あらわになったその文様は、舞踏会のときに見た使節団の数名が背負っていた神竜国の文様だったとソニアは記憶していた。
     一段の中から一人が前に進み出て、リナリアに何かの書類を突き出した。その人物はフードを取って、顔を出す。闇をそのまま写し取ったような色彩を持つ――エレノアだ。ソニアはこのような暗がりにエレノアたち神竜国の一団が現れたことに驚いているが、フェルナンドを伺うと驚いているような様子は伺えなかった。
    「お前を、竜の御言葉に従って犯罪者として捉え、拘置することを告げる」
     その是としか言わせぬリナリアの低い声に、リナリアは何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
    「……神竜国の人間であった貴方になら分かるでしょうが、竜の言葉は絶対。何があってもこれは覆されることのない決定です。逆らうことは許されない。受け入れなさい、そうすれば竜は貴方を受け入れる」
    「……引き渡すとは聞いていたけど……竜の言葉ってどういう意味?」
     リナリアの言葉を頭を垂れて聞いているリナリアを不思議そうに見つめながら、ラグナレスが聞く。
    「神竜国では法律よりも竜の言葉が重要視され、竜の言葉ひとつで戦争だって起こすほどの力を持つ……竜は神であり、統治者でもある。……今の言葉からだけでも、その絶対神に見放されたということを示している」
    「つまり、王様に国外追放されるくらいの強さを秘めた内容だったってこと?」
    「そうだな、そんなところだろう。心の拠り所である神に、彼女は否定されたところだ」
    「あーー……」
     ラグナレスはまたそれきり黙ってしまう。
     神々は常に側で寄り添ってくれる存在だ。道標として指針になり、それは航海者の上に輝く星々のように優しく暖かい存在だ。神竜国でも竜がそのような存在なのだとしたら、どれほどの絶望なのだろうか。辛い時も苦しいときも、結局はひとりきりだと絶望するときも、そこに信仰があることで前を向いて生きていけるのだ。自分はひとりきりではない、誰も今自分を理解してくれなくても、手を差し伸べてはくれなくても、神だけは側でその苦しみに孤独に悲しみに寄り添ってくれる。――そんな存在に、彼女は犯罪者と呼ばれたのだ。
     リナリアはそのまま神竜国の一団に連れて行かれ、エレノアは協力に感謝します、と形式的な礼を言ってから去っていった。



     リナリアが捕まったことによって、死の呪いという恐ろしい魔法が使われた事件は収束を迎えた。リナリアが騎士団の人間だったということもあって、あまり大々的なニュースにはならなかったが、それでも事件の真相が明るみになったことで救われた被害者遺族もいるだろう、とフェルナンドは言っていた。
     そして、事件の収束を祝い、協力者に感謝をするという名目の打ち上げが、当たり前だと言わんばかりにハルの経営するカフェを貸し切って行われていた。
     一応傷口が塞がっているとはいえ、病み上がりだからという理由でスライとナギユを再建したばかりの診療所のベッドに置いてきたソニアはカウンター席でのんびりとお茶を飲んでいた。

    「姫金魚草(リナリア)はとっても可愛いお花で……その小さな花が揺れる様子が恋する乙女の姿を思わせることから、花言葉は『私の恋に気がついて』、『幻想』……贈り物によく使われるのです」
    「でも……人名にはあんまり使われない……まあそうだよね、ちょっと考え込んでしまうよねえ」
     数人がカフェの一角にあるテーブルを囲んで、話し込んでいた。トレスティアことリリーはオリクスの言葉に小さく頷いて、また続けた。
    「それで、何だかおかしいなって思ったのです……でも、すぐに気のせいかなと」
    「……だからあの時、何かを言いたそうにしていたんだね」
     そうフェルナンドが納得したとばかりに言うと、リリーはもう一度頷いた。
     そんな真面目な雰囲気を、星冠祭がまだ続いているような打ち上げの雰囲気に戻したのは、明るい声だった。
    「あっ! オリクスさんの前髪が落ちてるっすよ!」
    「あっれぇ……おかしいなあ、また落ちてるぅ……て、ウルカさあ、その赤いハンカチ使ったネタまだ引きずってたの!?」
     そんな会話についていけなくなったのか、それともゆっくり話をさせてやりたいと思ったのか、テーブル席にいたフェルナンドがソニアの隣に腰掛けた。
    「……ちゃんと食事も取ってる?」
    「はい、サンドイッチが美味しいです」
     ソニアが答えると、良かったとフェルナンドが微笑んだ。ハルが前日から仕込んでいたというだけあり、サンドイッチは種類が豊富で、目移りをして少しずつ取っただけでも十分に多幸感に包まれた。
    「……あちらの方は?」
    「ああ、ウルカくんは元はオリクスの部下で……第五騎士団(レオ)所属なんだけど、第五(レオ)は別件でかかりきりだったのに、こっちにも情報流してくれたり、警備に融通をきかせてもらったからね。彼にはその橋渡しを頼んでいたからここに呼んだんだ」
    「なるほど」
     オリクスの元部下ということは、あちらの空間からフェルナンドが抜けたのは第五騎士団(レオ)の空気を壊さないようにするためだったのかもしれない、とソニアは納得していた。
     そんなことを考えていたソニアに、フェルナンドは何度か口を開いてもたついた後にこう言った。
    「よかったら海まで行ってみない?」


     潮騒の聞こえる海岸は国防軍という、また騎士団とは別の黒い制服を着た人間によって警備されている。そんな国防軍の人間がいるところから少し離れてしまえば、荒野と同じように人々の気配は消え、波の音だけが響くようになる。
    「全てが終わった今、僕はソニアさんに説明しないといけないことがたくさんある」
    「はい……」
     そう言われてみれば、ソニアには事件の全容がよくわかっていなかったことを思い出した。
     舞踏会の件に関しても、犯人の目星に関しても、最後になぜ神竜国の一団にソニアは当事者とは言え全てを説明されていないのだろう。協力者とは言えソニアは一般人である、という事からも安全面や情報漏洩への明かされなかったのだろう、いやむしろ協力者に全てを明かすのもいかほどかとソニアは境遇に納得していたため、あまり気に留めていなかった。
     フェルナンドの話はこうだ。
     神竜国の一団からこっそりと教えてもらった話によると、死の呪いといわれる魔法の正体は、宝石の心臓から魔力だけを抜き取ることで死に至らしめるという複雑な呪詛であったらしい。元は犯罪者であったリナリアの父親が編み出し、神竜国で猛威を奮っていたのだが、追われるようになり、逃げ延びてこの王国に親子は移り住んだ。そして王国でも猛威を振るうが、呪いの代償でリナリアの父親は短命で、死の間際にその呪詛を娘になすりつけたらしい。フェルナンドたちが最初に追っていたのは紛れもなくリナリアの父親だが、ソニアに呪いをかけたのはリナリアであったため性別に食い違いが出たようだ。
     フェルナンドも最初はそのように親子によって呪いが譲渡されていたことを知らなかったため、犯人は男だと考えソニアにもそう伝えていた。しかし、ルイーザが呪いを解いた際に――呪いのような術者の思いが強い複雑な術式には術者の残留思念が強く残る――呪いの残留思念から、術者は女である事がわかった。そして、フェルナンドはそれほどの術式を扱えるのであれば、騎士団学校のような教育機関で専門的に魔法を学んだ人間ではないだろうか、とこのときに身内を疑い始めたらしい。後にリナリアの態度から彼女ではないか、と目星をつけた。
     そこで、彼女を王宮内の警備に当て、ソニアを舞踏会に出席させることで自然に出会わせ、本当に術者かどうか確かめさせよう。もし違ったとしても、多くの騎士団員が集まる会場ならば何か手がかりをつかめるかもしれない――ということでソニアに舞踏会への参加を頼んだらしい。また、そのような警備に融通を利かせ、めぼしい人間をいくらか会場警備におびき出すために第二騎士団(タウロス)、第五騎士団(レオ)や他の騎士団にも話をつけ、犯人が強力な魔女であることも考慮して第四騎士団(キャンサー)の団長であるラグナレスに協力を要請した。
     そして、舞踏会でエレノアに出会い、フェルナンドは衝撃の事実を伝えられる。それは、神竜国の神官長(竜に仕える至高の存在で、予言の力を持つ)からフェルナンドが死の呪いによって死んでしまうと予言が出ていたのだ。フェルナンドはこの際、本来は自分が受けるべきだったのに、手違いでソニアを巻き込んだのではないかと思ったらしい。そして、エレノアはその予言を回避し神竜国側でも指名手配犯となっていた死の呪いの術者を捕まえるために使節に入れてもらったと言った。
     そうしてふたりで目的を共有したところで、リナリアとの会話からやはり彼女が犯人だと確信し、翠玉(エメラルド)を渡すに至ったそうだ。
     なるほど、どうやらソニアの知らないところで知らないうちにたくさんの思惑や推理が交わされていたようだ。

    「ソニアさんは僕に対して怒るでしょう? 本当に自分勝手なやつだって。もしかしたら君は、僕に関わったせいで殺されたかもしれないのに……」
     そう言って、フェルナンドはうつむいた。
     なんでも、「死の呪いによってフェルナンドが死ぬ」という予言は、必ずしもフェルナンドに呪いがかけられるということでもないだろう、とエレノアに言われたらしいのだが、フェルナンド本人はそうは思えなかったようだ。
    「リナリアの……犯行動機、誰かを失うことの恐怖に僕は共感してしまった」
     ソニアは何も言えずに黙り込む。
     ソニアには自分が被害者となったことを差し引いても、ソニアには「誰かを失うくらいなら、他の人を殺す」という考えを一向に理解することはできなかった。フェルナンドも「本気で殺したいという心理は理解できない」と言っていたが、それでも部分的には共感してしまったらしく、申し訳無さそうな、どこか自分を蔑むような苦しい表情をしていた。
    「僕はね、最初リリーさんを避けていたんだ……オリクスを奪われたんだ、というか、オリクスの隣りにいる人を眩しくて見ていられなかったんだよ。でも、ある時リリーさんがどうしてもカルラ・リスキをお客様のために取りに行きたいからって言い出して、仕事で外せなかったオリクスの代わりに僕がついて行くことになったんだ」
     カルラ・リスキというのは星冠祭と天回祭(と呼ばれる星冠祭と並ぶ知名度を誇る暦の期間のこと、この世界での盆にあたる)の時期にしか咲かない、白く小さい花だ。内側に発光体があるらしく、花がほのかに発光するため、天回祭の供養で昔はよく使われていた花だ。物語にもよく登場する。しかし、生息地が見つけづらく数が少ないため近年ではあまり使用されていない。そんなカルラ・リスキを、リリーはおそらく客の供養に使うという要望に答えるために取りに行きたいと言い出したのだろう。
    「生息地は、なんでも小さい頃から知っているとかだったんだけど……その場所がどうにも危険すぎて、それで頼まれたんだ。ルートを聞いただけでも『騎士団でもない一般人じゃ無理だろう』って溜息をつくような場所に、彼女は弱音ひとつ吐かずに行って笑顔のまま帰ってきた。オリクスに『彼女、すごいでしょう』って言われて、何だかその時、自分の中に何かが腑に落ちて……それ以来彼女とは仲良くなったんだ。でも、……それがなければ、僕もどうなっていたか分からない」
     フェルナンドは自虐的にそう言う。
    「こんなやつが君を好いている、なんて大仰に言えたものではないな」
     そんな悲しい顔のまま彼は言う。
     二度目の告白はそんな悲しい声色で告げられた。

     それゆえに、ソニアは伝えなくてはいけないと思ったのだ。
     フェルナンドはひとりで何でも納得して終わらせてしまうから。
     ――自分と同じように。
     終わらせてしまうから。納得して、それで終わらせてしまうから。

    「始まりは不可抗力でしたし、……怖い思いもしましたが、私は無事です。それは、フェルナンドさんのおかげです」
    「でも……」
     彼の言いたいことはわかる、それは市民を守るための騎士団として当然の義務だとか、仕事だとか、巻き込んだのはこちらだからそれはごく自然なことだとかそういったことを言いたいのだろう。
     しかし、ソニアはそう思ってはいない。
    「でも、私は助けて貰えました。……わたし……は、貴方のことが好きです。だから、そんなこと言わないで下さい」
    「え?」
     言ってしまった、ああ、言ってしまったのだ、と子供の悪戯がバレてしまったような、くすぐったさと罪悪感を同時に感じ取っていた。こういう機会でも無ければ、自分は何も言わずじまいだっただろう、とも思った。
     だからこれでいいのだ、もう言ってしまったのだ。言ってしまったことは仕方がないのだから、と錆びた錠は音を立てた。
    「ソニアさんが、僕の事を好き…なの?」
    「そう……です」
     ソニアは、大きな深呼吸を繰り返して気持ちを整える。
     重いかもしれない、お門違いかもしれない、笑われてしまうかもしれない、嫌われてしまうかもしれない。
     それでも今は、伝えたいと思った。
    「私の父親は、蒸発しました」
     それがソニアの人間不信の始まりだった。
    「……子どもは皆、親に愛されていることを疑わないんです。親に愛されない子どももいるという事実を子どもは受け入れられないから。子どもは親に心酔するようにして生きていくことしか出来ないから。親に愛されるのが当然だと思っているから……とてもではないけど、自分は親に愛されていないだなんて知らないんです。……認められないんです」
     子どもは親に愛情を注がれて、愛されていることを実感しながら育つことで愛し愛されることを学び、自分は生きていて良いのだという当たり前のことを学ぶ。それがどこかで崩れた人間と、崩れなかった人間はどこかで亀裂が生じる。想像をすることは出来ても、理解し合うことは出来ない、そうソニアは思っていた。
    「……他人を、心から信頼することは……私には……出来ません」
     親という自分に無償の愛情をくれるはずだった存在から拒否されたソニアは、母親からの愛情を信じて育った。母親に愛されていなければもっと自分は違う自分だったかもしれない。――それでも、父親という存在から拒否されたのだという心の空白はどこかで彼女を縛り付けた。
     そのため、フェルナンドの星武器を見たときもリナリアのようなショックは何もなかった。ああ、この人も同じなんだと思った。フェルナンドも自分のように、どこか他人を信頼することが出来ないのだと安心した。
     むしろ、リナリアのように「他人に信頼されている」と思える人間の方が、ソニアにとってはよほど不思議だった。
     なぜ、自分をそこまで「愛されている」と思えるのだろう、と。
    「誰かを好きになっても、好きな人を信じることも怖くて、どうしたら良いか分からなくて、他人が自分を信頼する気持ちを信じることが怖くて、ずっと逃げてきました」
     冷静に物事を考えるのも、自虐的に考えるのも全てはそうだ。「自分は他人から信頼されない」ひいては「愛されない」というそれは――強い強い自己嫌悪という度を超えた呪いだ。
     フェルナンドへの思いを自覚したときも、だからなんだと思ったのだ。自分がフェルナンドに本当に思われているかどうかなんて、彼が嘘をつくような人ではないにしても、言葉だけなら、態度だけならどうにでも出来てしまうから。とソニアはフェルナンドの性格を知ってはいても、どこかで嘘をつかれているのではないか、いつかは振り切られてしまうのではないかと思った。
     どうしても、ソニアには他人を信じることは出来ないと感じた。
     ――――誰も愛さない人は、誰からも愛されない。なんて、どこかの本で読んだ一説が浮かんで、全くそのとおりだ、こんな自分を一体誰が信じて、愛してくれるのだろうと思った。
    「そんな歪んだ私を……フェルナンドさんは好きだと言ってくれたから、伝えようと思いました」
     伝えるのが、せめてもの誠意だと思ったのだ。

     気がつくと肩を震わせてうつむいていたソニアに、フェルナンドは一歩近づいた。
    「僕も怖いよ、誰かを好きになることは、とてもこわい。それは傷つくことと同義だと自分の中で思ってしまっているから」
     そのままフェルナンドはソニアの手を握った。
     国中を灯す光のような、今日も自分たちを見守る輝きのような暖かさに、ソニアは包まれたような心地がした。
    「恋をすることも、恋をされることも、愛することも、愛されることも、全部怖くて、逃げてしまいたくなるのに、誰かを愛していないと生きていけなくなる。人間はそんなふうに矛盾している生き物だってロマンス小説に書いてあるから、そう考えれば、仕方ないのかもしれない。……昔の僕はオリクスに心酔して生きていた。それが崩れて、壊れて、一人で傷ついたんだ。勝手に恋をして、期待をしていたんだ」
     しかし、恋とはそういうものなのだろう……そんな言葉は経験でもあるし本からの言葉でもあった。
     それでも、ソニアは言ってほしかったのだ。認めて、受け入れてほしかった。
    「でも、今はもうそんな風に何かに心酔することも出来ない。何かを好きになることと、何も好きにならないでいること、どちらが正しいのか……何が正しいのか分からない」
     フェルナンドはそう言いながら、舞踏会の会場でダンスの誘いをした時のように、跪いた。
    「それでも僕は……貴方に恋をしたんだ」
     きっとそれが答えだ。
     恋でも愛でも、変わらないものなんて何処にもない。いつかは喪われる、失われるかもしれない。
     それでも、人は誰かを好きになる。……馬鹿らしいが、きっとそれは間違っていない。
     他人を信じることも愛することも……関わることすら怖くても、それでも好きになっていい。
    「だから、いきなり変わらなくていいんだ。信じているとか、嘘をつかなくて良いんだ。僕も似たようなものだから。似たもの同士、言葉を交わして、傍にいて、一緒に泣いたり、笑ったりしたいんだ」

     その言葉は、きっと、ずっとソニアが探していた言葉だった。


     冷たい水は、氷と一緒に木箱の中に。古い古い木箱の中に、押し込んだ。
     しっかりきっかりかっちりと、木箱に鉄で頑丈な錠をかけて。
     そんな木箱はしっかりきっかりかっちり、闇にぐいっと押し込んで。
     いつか錠が錆びついて、木箱が見えたときに、冷たい水が氷と一緒に溶けて消えてしまうことを願ったのだ。



    「……私も、そう、したいです」

     そう言って笑うふたりを、映し出すのは空の灯火を乱反射した、深い深い青い海だけだ。


    【Fin.】
    ゆずもち Link Message Mute
    2020/10/13 11:57:07

    翠玉の心酔

    #オリジナル #創作 ##星座の導きに ##フェルナンド ##オリクス ##フローラ ##ハル ##ユリウス ##ダイアナ ##ルイーザ ##エレノア
    世界観共有「星座の導きに」の設定を借りたオリジナル小説です
    改変の塊。身内向けにおいているものなので、全てを許せる方のみどうぞ。

    お借りしたよその子
    楠木就澄さん宅 ソニアさん
    雅さん宅 ラグナレスさん、トレスティアさん
    めんでるさん宅 アリアさん、メーメットさん
    優樹さん宅 ズィヴィルさん
    霄さん宅 ウルカさん
    Special Thanks!!

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