Augenzeuge ベルリンにはでかい屋敷があって血に飢えた貴族が住んでいる。
自分ぐらいの世代の住民なら小さい頃からよく聞き知った怪談だった。威圧感のある門扉の前を通る度にソーセージにされないよう息を潜め級友達と窓に映った人影を指さしては塩漬けにされた犠牲者だと囁き合ったものだった。
亡霊は時々街にも出てきた。歴史の教科書から抜け出してきたような古い軍服を着崩して公園に屯する家族連れや行き交う学生達を制帽の奥から凍り付くような目でじっと眺めやがて退散する。手に持った酒瓶に入っているのはきっと生き血で、次の被害者を物色しているのだと両親に力説したが親父は苦い顔をしお袋は悲しそうなため息をついた。不気味な話は子供の噂話に留めておけってことだろう。
ただ俺達も殺人鬼をやっつけるまでには至らなかった。樫の木じみた見上げるような体躯は子供心に頑丈に映ったし屋敷から時折漏れ聞こえる苦悶の叫びは全力で家まで逃げて毛布を被って震えるに値する代物だった。
それから十年以上経ってこっちの体もでかくなれば恐怖心は薄れ何となくの事情は察せられる。
幽鬼じみた足取りはいつも酒を飲んでいるせいでプレスしていない軍服を羽織っているのは退役軍人か何かだからだ。昔はドイツ一の戦士だったのよ、と頬の弛みだしたお袋が何かの機会に言っても全くピンと来なかった。あんな顔色でどう格闘するっていうんだ。
とにかくその話題はそれきりだった。超人なんてそもそも基幹学校にもいないし縁遠い存在だった。
亡霊に子供ができた。
いや、冷静に聞いてほしい。壮年どころか老境に片足突っ込んだ男は相変わらず鋼鉄みたいな体つきで昼間から飲み歩いていたが関わりさえしなければ基本的に害はない。むしろ自分がガキの頃から酒浸りなのに未だにピンピンしてる辺りが超人てやつか、と感心するぐらいだった。
そんな男の半分ぐらいの背丈しかないような子供が最近ちょこまかとくっついている-いや違う、鐘楼のでかい鐘引きずって怒鳴る男に追いかけられている。
顔がよく似ているから親子なのはまず間違いないだろうが、それにしたってあれは目を剥いた。その場で通報してやろうと思った。が、思いとどまった。
理由は簡単。恐かったからだよ、昔みたいに。
とは言え子供を見捨てては寝覚めが悪い。いくら昨今取り沙汰されてる超人だとは言え気が引ける。両親も近所のうるさ型達も口を噤んでるから、少し偵察に行っておこうとバゲットとテリーヌを包んだ。
「はい」
しくじった。門のインターホンが応答がなかったので直接年代物の扉を叩くと出てきたのは殺人鬼の方だった。ヘルム被った息子の方なら何かと聞き出せると思ったのに。
こちらが抱えた荷物に親父は訝しげに眉を寄せた。昔よりは身長差もないが余計にあの目つきが近い位置に来たってことだ。怖ぇ。
「あ、の旦那。これ、余計かと思ったんですが・・・ダメですよ。子供にはいっぱい食べさせないと。これとか甘いヤツなんで、息子さんも喜ぶと思いますから」
息子、と低い声が呟く。もうその表情を確認するのもおっかなくてがさごそと袋の中身を示した。ソーセージ、肉のテリーヌ、野菜と卵のサンドイッチ、バゲット、砂糖衣つきねじりパン。
「それじゃ、お渡ししましたからね!息子さんのこと可愛がるんですよ!」
へっぴり腰で釘を刺して昔と同じく逃げ帰ろうとすると親父に呼び止められた。やっぱ塩漬けにされんのか、俺!?
「なな、何か!!??」
「その・・・」
俺が押しつけた袋をごつい手が律儀に胸元に抱えている。氷のような目元はしばし揺れ、やがて深みのある発音で言葉が紡がれた。
「Danke schön, ご主人。ジェイドもきっと喜びます」
亡霊が人間になった。
「マジかよ・・・意外に普通だった」
「そら見なさい。若い頃のブロッケンJr.といえば西独きっての美男子と評判だったんですからね!」
「え~?想像つかねえ」
「手を動かせ!まあそれはともかくとしてだ、超人レスラーの中じゃ小柄だった彼が強豪相手に一歩も引かず立ち向かっていくのはなかなか胸が熱くなったぞ。あれで中々贔屓筋はついていたもんだ」
「そんなもんかあ~?あんな辛気臭い面になってんのに」
昼食用の仕込みをしながら両親が得意げに昔の思い出を語ってくる。やっぱりピンと来ない。が、あの親父超人から酒の臭いが消えていたのは確かだ。機会があったら今度はほうれん草のキッシュとか鶏肉と香草のサンドでも差し入れてやろう。無謀な特訓で疲弊した親子の体に染み渡るように。