短いの詰め②Leben in Berlin「Ich schwöre auf heimatlich Himmel♪」
朝から機嫌よく歌いながらジェイドは大型冷蔵庫の扉を開けた。バットにひたひたにした卵液と厚切りのパンを確認して笑顔になる。
ジェイドの朝は早い。季節によっては日の出より早く起床して掃除用具を抱えて世話になっている屋敷をせっせと磨き上げる。
「Folgte heißes blut in das Geschlecht der Brocken♪ für die Sache der Gerechtigkeit, aus allen Kräften♪」
当の師匠は泊まりがけの会議で今朝は留守だ。なので今日は思いきって吸着力抜群の大型掃除機に出動してもらう。これさえあれば広大な屋敷だって大した砦じゃない。
日頃からちまちまと掃除に回っているとは言え日々埃は積もっていくものだ。窓の桟や引き戸の溝には日本産綿棒が大活躍、超人の腕力を活かしてテーブルや長椅子の脚の裏まで拭き取れば鳥の鳴き声も聞こえる時間だ。
(鳥かあ。またグリンデルワルト行きたいなあ・・・レーラァ引率の二期生登山訓練楽しかったもんなー。今度は先輩達も呼べるといいなあ)
掃除を切り上げ備品の整頓まで終えるとジェイドは鼻歌を歌いながら生活エリアに戻る。日によってはこの後更に街の清掃活動だとかボランティアに従事したりもするのだが今日は午後からだ。ロードワークもそれに合わせて組んでいる。
となれば、朝のメインディッシュは文字通りこれだ。冷蔵庫に駆け寄る足取りが自然とスキップ気味になる。
大型冷蔵庫を開け蓋を被せたバットを取り出すと顔が締まり無く緩んだ。フレンチトースト用に合計丸一日卵液に浸した厚切りのパンは中心までカスタード色に染まって甘い香りを漂わせている。卵液にはバニラエッセンスまで投入したものだからもう試験勉強の後のサッカーボールみたいに魅力的だ。昨日裏表ひっくり返す時に生唾を飲み込みながら我慢した甲斐があったというものだ。
「Über die Zeit, die Kunst tanzt♪」
うきうきと台所に立ったブロッケン家の新入りはバターとオイルをさっと引きフライパン全体を温め始める。つけ汁を吸って重くなったパンをじっくり炙る間に果物を取り上げた所で遠く門を越えて停車する気配がした。
調理を中断しジェイドはエントランスに駆け出す。スタッフと挨拶を交わし鞄を手にする師匠の姿があった。
「レーラァ、お帰りなさい!」
「おう、無事戻ったぞ。グーテンモルゲン」
辞去するスタッフにも挨拶しジェイドは師匠からぽいぽいと帽子だの鞄だのを受け取る。もう一つついでに上着まで渡しながら師匠は愛弟子と歩いていく。
「留守中変わりは無かったか?」
「Ja. 昨日ご連絡したようにルッツ叔父さんが折り返し電話が欲しいと」
「ああ、こっちから直接確認入れたから問題ない・・・朝メシ中だったのか」
居住スペースに近づくにつれ漂ってきた柑橘と卵の甘い香りに師匠が言及する。そう言えば午後帰宅の予定だったから食事抜きだったのかもしれない。
「はい、フレンチトーストです!レーラァも召し上がりますか?」
「いや、俺はいい。サラダか何か貰えるか?」
「Ja!」
師匠の荷物を私室に置くとジェイドは調理に戻る。瑞々しいレタスにトマトと野菜を用意して焦げ目をつけたパンに挟めばコーヒーメーカーが元気良く音を立てる。ちょっと考えて少量のサーモンとチーズを和えて果物の皿と饗したところで大分寛いだ格好のレーラァが出てきた。
「おう、ダンケ」
「ビッテ、レーラァ!」
両面焼いた香ばしいフレンチトーストにメープルシロップまで添え、皿を手にしたジェイドが満面の笑みで応えて師匠と共に食卓についた。
今日も賑やかな一日が始まる。
reason 壮行会会場で長身のロシア超人を見送った万太郎が呟いた。
「・・・後遺症とか、フラッシュバックとか何も無いといいね」
労りと思慮の籠もった台詞にミートは主君を見上げた。先程までイリューヒンを質問責めにしていた他の超人達も不思議そうに問いかけてくる。
「そう言えば万太郎、お前イリューヒンには何か肩入れしてたよな。準決勝の時も」
「まあアレはどう考えてもやり過ぎだったからアニキの気持ちも分かるだ」
「両腕、もがれて計器類も露出ですよ・・・この短期間で起き上がれてるだけでもスゴいです」
セイウチンが同意しジェイドが右肩に視線を落とす。全身の傷は癒えたが一時は生死の境を彷徨った記憶は生々しい。万太郎は頷いて『決勝の時はありがとう』と軽く叩いてやった。
「似たようなヤツ知ってるからね~。ちょっと親近感わいちゃった」
「似たような?飛行タイプか?」
「似てるって・・・イリューヒンとですよね?キン肉星の超人で?」
矢継ぎ早に質問を浴びせかけられ万太郎は目をぱちくりさせる。内股でくねくねと体を揺らしキッド達の視界に大写しになる。
「知りたい?ホントに?ボクの秘密そんなに知りた~い?セクシーショットもサービスしちゃう?え~恥ずかし~いみんなのエッチ~!」
「うわっキモ!」
「アニキちょっと離れて!」
「先輩、ベルトが泣きますよ!」
チャンピオンの風格はどこへやら、いつもの如くすっとぼければ小気味よく猛抗議されて万太郎は呑気な表情で笑った。
「あはは、ジョーダンジョーダン!そう、キン肉星の超人だよ。ボクが子供の頃の護衛隊長だったんだ」
子供心にも見上げるような巨躯、そびえ立つ岩山のような体格の兵士だった。父母や重鎮達の信任も厚かったようで様々な職責を全うしていたようだが万太郎は正確な肩書きを覚えていない。堂々たる体躯の義に厚く才幹溢れる若手超人と言っても子供にとっては『メチャクチャデカくて怖いおじさん』程度の認識でしかないのだ。
「ボクの教育係みたいなこともやってたんだけどさー、これがもう細かいし喧しいの何のって。廊下は直角に曲がれ、後頭部から吊り下げられるように背筋を伸ばせ、常に意識して口角を上げろ・・・もーやってらんなかったよ~」
「うわキッツいなー。・・・オレも、珍しくパパが家にいるのに『笑う時は白い歯を見せてニッコリ笑え』って注意された覚えがあるな」
「俺のところは・・・レーラァと色々出かけるようになった頃からは少しずつありましたね。言葉遣いとかテーブルマナーぐらいだし、修行に比べればずっと楽だったけど」
「名門の家も大変だな・・・」
万太郎達の慨嘆にガゼルやセイウチンが同情を示す。ミートが首を捻った。
「それで、その彼がイリューヒンに似てると。体格ですか?」
それにしてはやけに万太郎がケビンマスクに厳しかったような気もするのだ。どんな王宮時代を過ごしていたんだと疑惑の目で見るお目付役に万太郎は苦笑いした。
「もー、最後まで聞いてよ~。多分ボクが幼稚園児ぐらいの時だったんだけど」
詳しい経緯は覚えていない。が、父母臨席の個人レッスンでもあって二人が家庭教師達と話し込んだりでもしていたのだろう。ちょっと外に出たくなって、一人でキン肉王家の誇る筋肉の滝辺りに出かけようと、家来達に見つからないように通用口だの路地だのわくわくしながら抜け出して裏山を探検。供回りがいないだけでいつもとは違うように見える森林や彫像におっかなびっくりしたりあの石は父上、あの木のウロはお祖父様に似てる・・・等と目を輝かせていたらもう夜だった。
あの時は驚いた。さっきまで親しげに包み込んでくれていた木々がいきなり悪行超人のように立ちふさがる。心地よい香りを漂わせ目も楽しませてくれていた草花が意地悪く裾や靴に絡みつく。
王宮の灯りは見えるものの幼児には敷地が広大すぎた。見つからないように工夫を凝らして散々寄り道したこともあり帰り道は遙か遠くに思え心細さがまた足を萎えさせる。ぽろぽろと涙を流してしゃくりあげれば変な風に顔やお腹が熱くなってごろごろ転がった石を乗り越える気力ももう湧かない。
もう一生王宮に帰れないのだと思った。欠点だらけの父母や口うるさいだけに思えた家庭教師達が恋しくなる。わんわん泣いても誰も気づいてくれない、きっとここで自分は飢え死にしてしまうのだろう。
その時だった。
―ガサガサガサッ!
不意に闇の中下生えを揺らす音が響いた。野犬か猛獣の類かと万太郎はびくりと体を硬直させる。
草をかき分けたのは大人の大きな手だった。次いで、険しい顔が現れる。
夜目にも分かる泥と汗塗れの緊張しきった面差しが、王位継承者の無事を確認してほっと和らいだ。常は太陽より上にある顔が座り込んだ万太郎と同じ目線に下りてくる。
「ご無事で良かった。戻りましょう、王子」
いつも怒鳴ってばかりの怖くて堪らない顔が、爆弾ぐらいある握り拳がその時途方もなく優しく見えた。だからだろう、泣いて疲れ切った自分は蚊の鳴くような声で呟いた。
「・・・歩けない」
男は苦笑して『内緒ですよ』と返し屈み込んで掌をこちらに向けた。万太郎が広い背中に取り付くと苦もなく立ち上がる。
不思議なことに先程あれだけ行く手を阻んだ岩石も、手足を引っかいた草木も大きな背に掴まっているとどれもこれもちっぽけに思えた。一歩一歩大きな歩幅で宮殿までの距離を縮めていく大きな男が今までになく頼もしく思えて、万太郎は逞しい肩の筋肉をぎゅっと掴んだ。
「・・・おなかすいた」
岩山のような鍛えられた背中が振動した。心なしか少しだけ笑いを含んだ口調で男が答える。
「・・・ベルトの物入れにチョコレートが入っています。通常なら糖分補給用ですが、今の状況では取られても気づかんでしょうな」
暗い中、万太郎はごそごそと護衛隊長の装備を漁ってお目当ての物を見つけた。包装紙をはがして甘い固まりを噛み砕けば疲れ切った体に栄養が染み渡った。ようやく飢え死にせずに帰れるんだと分かってキン肉星王子は大声で泣き出した。
多分汗や熱で一度溶けたチョコは脂肪分も浮いて風味も落ちていて、何より普段口にしている物からしたら随分安物だったはずだ。それでもその時の万太郎にはどんな晩餐より素晴らしい御馳走だった。
「栄転して別の部署に移ったらしいけどね。今でも元気でやってると良いなあ」
穏やかな顔で万太郎が締めくくるとミートが感激で目を潤ませていた。チームAHOの面々も驚きの眼差しで見ている。
「Ⅱ世~。ホントにちゃんと王子様やってたんですね~!ボクは、ボクはもうⅡ世が地球に降り立つなりキン肉ハウスの質素さを愚痴りだしたのにこれはもう何たるバカ殿かと思って・・・」
「大方二、三日ですぐまた怒られる生活に戻ったんだろうが、それでも良い話に変わりはないな」
「一度で学習してれば万太郎じゃありませんからね」
「ちょっと!何でそうすぐに決めつけるんだよ!・・・まあそうだけど!」
語尾がちょっぴり小声になった万太郎に仲間達が大笑いし、またいつものように追いかけっこが始まった。
border 熱いものがオレの両眼から溢れ続けていた。
(何故・・・何故、他人の勝利だというのにこんなにも・・・)
超人WGPの決着に今し方まで息詰まる雰囲気だった会場は大歓声に沸き返っている。雨粒は陽射しに輝き応援に声を嗄らし過ぎた観客達はそれでも顔中で万太郎を讃えている。
オレだって、例外じゃなかった。
新必殺技が炸裂し晴れ渡った空の中万太郎の優勝が決まったその瞬間に訳が分からない程の叫び声を上げた。札幌会場を去った時以上の酷い顔をして手摺りに身を乗り出し、次から次に突き上げてくる理由のない衝動にうち震えていた。
止まらないんだ。馬鹿みたいに他の観客達と躍り上がったり肩を叩き合う。やった、とかとうとう、とかそんな言葉ばかり漏れる。体中が熱いのに不快じゃない。涙が止まらないのに怒りでも悲しみでもない。ただずっと、札幌からここに来ると決めた時に燃え始めたものが、形を変えてオレの中から溢れ出してるんだ。
「それが、友情ってやつだよ」
若い声に顔を上げると予選敗退したアメリカ超人がいた。日の光に金髪を反射させながらいつの間にリングサイドからこちらに来ていたのだろう、手摺りの向こうからこちらに手を差し出す。
「いいモンだろう?正義超人の友情パワーってやつも。―色々、悪かったよ。来いよ、もうお前の事を悪く言う奴なんていない」
西海岸の太陽さながらに金髪が輝き、眩しい程の笑顔と手がオレの方に向けられる。
(テリー・ザ・キッド・・・)
今大会優勝候補の一角でありながら溺れかけた子供を救う為に競技を棄権した男。その上、そこで腐ることもなく直後の悪行超人軍団襲来に―何の名誉も、タイトルも関わらない戦いに出撃し人質を救出した、生まれながらの正義超人。
―オレとは、生きている世界が違う。
以前、ロシアの機械超人に見せられた映像が頭を過ぎる。数十年前の前回WGP、ただ一匹の子犬を―無辜の命を救う為に自らのチャンスを不意にしたアメリカ代表、伝説超人テリーマン。多分キッドの行為はテキサス・ブロンコの義侠心あってこそだろうが、何よりも。
―受け継いだ血が違うんだ。
手摺りの向こうからオレに手を差し出したままのキッドが表情を曇らせる。きっと準決勝での蟠りがまだ解けていないと感じたのだろう。違うんだ。
オレにその手は取れない。触れたら、きっとその瞬間お前も汚れきった冷たい血に蝕まれる。マッスル・Gで地には太陽が満ちて余すところなく光が散乱しているというのに、オレの周りだけ先程の黒雲が針のような雨を降り注がせている。お前との間にあるこの手摺りが、僅か数十cmのこの空間が善悪の境界なんだ。
オレだって手を伸ばしたいのに、体に流れる忌むべき血がそれを阻害する。こいつを一滴残らず全部絞り出せたら、お前達と一緒に戦えたんだろうか。
なあ、テリー・ザ・キッド。大層な図体しておいてこんなに震えているオレはフロリダの太陽みたいなお前から見たらただの臆病者だろうな。関節技の名手だの、闇の王だの標榜していても正義の血の前じゃこんなものだ。お前達の手を取ることすらできやしない。それでも、一度だけ許されるのなら。
―オレにも、一欠片でいい。光を分けてくれ。
横合いから唐突に包帯だらけの腕が伸びてきた。熱い感触が中途半端な位置を彷徨っていた俺の腕を掴み、キッドの手につかまらせる。
振り向けば、もう一人の金髪の正義超人がいた。満身創痍の全身ギプスと包帯だらけの姿で、それでもドイツ超人ジェイドは光り輝くような金髪と笑顔で俺に呼びかける。
「行こう!」
キッドがにっと笑って力強くオレの手を引っ張り上げた。オレの体は呆気なく境界を超え通路側に降り立つ。ジェイドを師匠からバリアフリーマンが引き取り、肩を貸すとキッドはオレの腕を引っ張ってリングへ走り出した。
名だたる正義超人の系譜に恥じない二人の姿に客席が歓喜の声を上げる。こいつらと走っているだけで世界が違うみたいだ、一点の曇りもない空から降る光に雨粒を受けた全てが虹を纏いキラキラ煌めいている。
「スゴいなお前等は・・・いつもこんな歓声を浴びながら闘っているのか!」
オレだって正義超人として活動してきた。が、この一週間弱の境遇の激変のせいでそんなのすっかり記憶の彼方だった。
するとオレを引っ張り走るキッドが軽く笑った。
「俺達だけじゃないぜ!」
「よく聞いてみろよ!」
隣のジェイドにまで笑いながら言われてオレは会場を見回した。
―ヒカルド、ヒカルド!有難う!
―万太郎の為に来てくれて、本当に有難う!
―酷いこと言っちゃってゴメンなさい!私、誤解してた!
万太郎のサポーター達だった。不器用ながらオレが拳を掲げてみせると観客から祝福するようにコールが起こる。キッドとジェイドがその様に笑みを漏らし、そして共に柵を回り込みリングサイドへと駆ける。
こちらを向いた新チャンピオンが、涙と鼻水まみれのくしゃくしゃの笑顔で、オレ達に両手を広げた。
Bears戦記 伝説超人ブロッケンJr.の朝は早い。弟子達を就寝させ片づけだの翌日の仕込みを済ませてからベッドに入るが未明には起床し調理に取りかかる。何せ腹持ちの良さそうなスープを食べさせてやろうと思ったら数時間は煮込む必要があるのだ。その間にピラフ用のピーマンとトマトも用意しておく。朝のロードワーク後にはスープに入れたじゃがいもも丁度良い頃合いになるだろう。
これでも弟子が一人で訓練に行けるようになって手間は減ったのだ。が、最近は作る量が格段に増えた。ジェイドの成長期も実感できるが要因はもう一つ・・・
ドイツ超人らしい勤勉な作業ぶりで灰汁を取っていた伝説超人の感覚に響くものがあった。首筋の産毛がぶわりと逆立つ。
(・・・一体。2m級、中~大型。出入り口を塞がれたか)
熊のような気配が厨房入り口に佇みこちらの反応をじっと窺っている。上背相応の質量が距離を隔てていてもひしひしと伝わってくる―野生動物だろうが、押し込み強盗だろうがこちらが感づいたことを悟られてはならない。
(・・・どうやってセキュリティを突破した。超人か?子供達にもしもの事でもあればタダでは済まさんぞ)
そんじょそこらの悪行超人にどうこうされる弟子達ではないと自負している。が、それとこれとは話が別だ。老いた伝説超人は神経を緊張させながら、さりげない動作で肉包丁を手に取った。
呼吸を整え、いつでも攻撃に移れるように重心を落ち着けながら上半身だけでゆっくり入り口を振り返る。鬼神のような角を有した頭部が目に入った。
「・・・お腹減っちゃって」
気まずそうに照れ笑いしたのは青い仮面の少年だった。
「―何だ。お前か」
家主のブロッケンJr.は拍子抜けして肉包丁を置く。ひょっとしたら戦意に当てられたのかもしれない、身長はもう自分を抜きかねないがまだまだローティーンの少年はこくこく頷く。
「夕飯、あの量じゃ少なかったか―驚かせてすまんな。お前だけか?」
冬間近のベルリンに姿を現した時は野良猫じみた殺気を漂わせていた少年だが、最近ではジェイドと一緒にソファーで雑魚寝する姿も見られるようになった。年齢も体格も違う以上トレーニングメニューは別々だが、それでも朝のロードワークでは途中で合流して二人で帰宅することが多くなった。
「あ、ジェイドは」
「ここだよ!」
答えかけた少年の高い位置にある股を潜ってちびっ子超人がスライディングしてきた。厨房に滑り込むと脱兎のごとく調理台目指して走り寄り、粗熱を取っていたチョコチップクッキーを天板ごと取り上げる。
「やったねケン兄ちゃん!今日のおやつはっけーん!」
「この腹ぺこ坊主め!」
しかし師匠はそんな襲撃ぐらいお見通しだ。まだまだ小さい弟子の襟首をひっ掴めばジェイドが悲哀に満ちた叫びを上げて手足をばたつかせる。全く、師匠の顔が見てみたい。
「ケネス、お前も共謀の上か。ばかな事をせんでももう二、三時間もすれば―」
腹が減っているなら朝食を早めにとろうか。勿論、小言は三割増だが―そう言おうとして気づいた。青い仮面の少年の姿が見えない。ブロッケンJr.の知覚と同時に調理台の陰で息を潜めていた影が躍り上がった。―二段構えか、ちょこざいな!
「やったなジェイド!これで三日分のスナック確保だ!」
少年がスープ用のベーコンめがけて突進しジェイドが歓声を上げる。瞬間、ブロッケンJr.が床を蹴った。
「させるか小僧!」
大人の腕ほどもあるブロックベーコンに伸びたケンの手が疾風の勢いで叩き落とされた―乾坤一擲、ブロッケンJr.の手刀で。
「―あ」
しまった。咄嗟に加減はできたもののじ~んと痺れる手に流石に少年が涙目になる。ジェイドが口をあんぐり開けた。
「・・・スマン」
「ひどい!今の絶対湯気立ってたよ!鬼、悪魔、ブロッケンJr.!」
「伝説超人横暴!イカンのイ!」
謝罪も掻き消さんばかりの子供二人の大合唱にブロッケンJr.がこめかみをひくつかせる。青い坊主もインターナショナルスクールに通うようになってからとみに語彙が増えおった。
「お前等も大いに問題ありだ!深夜に出歩いた上に食い逃げ窃盗行為だと!?正義超人の名が泣くわ!」
養い子二人が揃って明後日の方向を見た。―自覚はあったのか。
ケネスの手は少しだけ赤くなっただけでそれもすぐに退いたが念の為軟膏を塗っておいた。手当の最中、ジェイドが一生懸命覗き込んでケガを確認しようとするのでケンが笑って空いている手で『大丈夫だよ』と緑のヘルムを押してやった。その様になけなしの良心が痛んだのでミルクティーにスコーンとハムサンドを付けてやれば腹ぺこ小熊どもは大喜びで平らげていた。だが先程のコンビネーションならばいずれタッグで世界を制する日が来るかもしれん、先行投資は重要だ。
・・・俺もつくづく甘い。
─ 男が最新技術の粋を尽くしたトレーニングジムに踏み入った時、ケビンマスクは重機にも耐えうるベンチプレスを終えて立ち上がったところだった。
汗が珠を結ぶ半身を曝し、こちらに歩み寄る彫像のような堂々たる体躯に男―クロエは目を細める。ロビン王朝の遺伝子のみが可能にする神話の時代の英雄を思わせる容色と原石の状態ですら抜きんでていた筋力は伝説超人の指導によって内実を伴い更に人目を引くものとなった。月光を切り裂く刃のようなダークブロンドと磨き上げられた青玉の如き仮面が照明を照り返し目を奪う。
「すまない、練習を中断させてしまって」
「構わない。―新しい戦術の事か」
断りを入れればオペラの一節のような音楽的なテノールが紡がれる。均整のとれた骨格にしなやかな筋肉、鮮やかな身体能力に惚れ惚れするような美声。どれを取っても、カリスマと呼ばれるに不足はない。
家父長的権力に背こうが凶状持ちだろうが現状、この弟子以外に王者に相応しい存在はいないのだ。異論があろうと力でそれを示せる者はいまい。
それでも今回の提案を口にするのは躊躇われた。
「・・・ああ。急だが、エージェントに因れば決勝トーナメント再開まではまだ間が空きそうだ。念には念を入れるにこしたことはない」
キン肉万太郎達も休養を終えトレーニングに入ったようだし、と胸中で付け加えれば複雑な感慨が満ちる。ロビンマスクの面影を色濃く残す端麗な容姿の青年の、ミッドナイトブルーの仮面に目を向ければ男の意識は知らず先の戦いを回想していた。
各国の伝説超人やセコンド達同様、クロエにとっても悪行超人軍団の襲来とそれに伴う超人WGPの長期中断は完全に予想外だった。肉体的スペック、経験値、そして自分が徹底的に叩き込んだ戦術。大会運営さえ順調ならどれもがケビンマスクを優勝に導くことは自明の理だった―数十年前のロビンマスクがそうだったように。
天の配剤としか言いようがない。キン肉万太郎達が突貫作業で成長途上の肉体を無茶な訓練で痛めつけられ地球に降り立ったのが十四、五。対してケビンは恵まれた体躯に三年かけて基礎訓練を施し、身長も伸び終わり最低限の筋肉もついた十八歳―ぎりぎり同世代と言える年齢差でありながら体格とメンタリティには格段の差がある。
いかに父や師匠達が一角の戦士であろうと多感な年頃ではありきたりな挑発にも容易く惑わされ隙をつかれる。資料映像として数々の試合を見た際、何と無様な試合運びかとクロエは嗤った。戦士として完成していない体格に過剰な期待を背負わされ、管理・バックアップ体制も疎かなままでは先が見えている。このまま碌な指導者も栄養士も付けないようでは五年と保ちはしない―ミート・アレキサンドリアの知識とて30年前で止まっているのだ。
(ならば既に成年に達した各国の武装超人達が覇権を奪取するか?)
否、と男は断じる。確かに冷戦後の何十年かで超人委員会やファクトリーといった既存の機関抜きで戦力が構築されていっただろう。超人の大型化、機械超人の多機能化、各種関節技の多様化。一見実績を積み重ねた彼らこそが栄冠に相応しいように思われる。
―だが、黄金の時代を知らぬ者達に伝説の系譜を斃せようか?
口がじわりと開く。もはや誰にも見せられぬ深紅の笑みが覗く。愚問だ。砂漠のクワガタだろうが飛行機の玩具だろうが、南米の軟体超人だろうがあの頃の戦士達とは役者が違う。そんな馬の骨どもに甘んじてベルトを渡せようか―自分が、させない。
あの輝かしい時代を取り戻せるのは英国の正しき血統を受け継ぎ自分の薫陶を受けたケビンマスク唯一人だ―見よ、悪行超人軍団から御指名を受けたのもアイドル超人の子弟達ではないか。
レセプションの際、ほんの僅か目を離した隙に愛弟子はキン肉万太郎や有象無象の若手達と交流に出かけた。仕方のない奴だと思ったがブロッケンだのテリーだのが同席していた以上下手な動きはできない。躊躇していた間にこの騒ぎだ、神輿にしてはフットワークの軽すぎるケビンはそのままちゃっかり連中に同行した―軽挙妄動にも程がある、あの放蕩息子め。
超人WGPの為に磨き上げた技や力を何のタイトルにもならない人質救出作戦に費やした結果がコレだ―先行した四人が辛くも勝利を収めたというのに、詰めの甘さを露呈させおって。
ケビンの失格が決まった時点ですぐに後を追おうと思ったがキン肉マンまで現れてはタイミングを見計らわざるを得なかった。あの弟子は結局、自分が手綱を握っていないと碌な戦い方ができない。セコンドについてからこの方、相手を容赦なく打ち据える戦術を叩き込んできたというのに、塵芥に過ぎぬ連中と馴れ合った結果がこれだ。
万太郎がバロン・マクシミリアンにリングに沈められた辺りで漸く席を立てた。これ以上茶番劇に付き合う道理はない。が、あの白髪の若造はかつて伝説超人達が掲げていたものまで愚弄した―いずれ報いを受けさせてやる。
足音を立てず通路に抜けようとした時、リング上で万太郎が唸った。
「怖くなんか、ないよ・・・」
足が止まった。表情の窺い知れぬ仮面がリングを見る。瀕死だった筈の万太郎が踏みとどまり、吠えた。
「ボクも、ボクの仲間達も、ボクの好きな人も・・・地球の人達も!みんな、悪行超人のことなんか、怖くない!」
―今、数に含められた。
瞬間、確かにキン肉星の王子は不条理を許さず悪と闘う戦力として満場の観衆達を示した。抽選会場からそのまま駆けつけた各国選手達のことも、高見の見物を決め込んでいた自分のことも。
何と―父親に生き写しなのだろうか。
(愚かで、脆弱で・・・それでいて)
熱く心を揺さぶる、愛すべき魂。
勝利と栄光のみを追い求める冷徹な英国セコンドが顔を覆った。
一旦動揺すればもう一つの事実にも目を向けざるを得なかった。
(一度だけでも、ケビンは正義超人として人間の為に闘った)
自分に言わせれば甚だ稚拙なやり方ではあった。人質の奪還のためならばもっと効率的な方法などいくらでもあった。
だが、成り行きとは言えあの若者が何の得にもならない、委員会が機能停止している以上表彰されるかも怪しい任務に自分の意志で従事したのだ―あの名家の跡継ぎとしての圧力に堪えられず非行に走った、どうしようもないドラ息子が民間人救助という誰も文句の付けようのない正義超人らしい所業に身を投じたのだ。
咽び泣くような笑いが仮面の下から漏れた。
そして今、ロビンマスクの息子は新しい戦術の説明にじっと耳を傾けている。
正直博打じみた行動だった。戦術No.10 ストームエルボー、戦術No.THE END OLAP。超人WGPの為にケビンに授けてきた戦術は一貫して圧倒的な技量と血も涙もない非情な戦闘で相手に恐怖を与え追い込んでいくことに主眼を置いている―実際それで一連の作戦行動としては完成されている。今更矛盾するような愚直で馬鹿正直なものを放り込んでは選手の方も混乱しかねない。
・・・真っ当な正義超人のような、闘い方を。
「おそらくこの戦術を使うことは多分無い筈だ。お前の心・技・体の全てが他の決勝トーナメント進出者を凌駕している以上大抵はOLAPを出す迄もない。唯万が一の為、覚えてくれ」
万が一―ケビンと拮抗するような技量を持ち、そして全ての血も凍るような戦術を打ち破りまだ立ち上がってくるような男がいた時の為に。
戦術No.FINAL。一つの楽曲が終焉を迎えて尚D.C.やD.S.で振り出しに戻るように、この青年が戦士として未知の局面を闘い抜けるように。
饒舌になっている自覚はあった。ケビンから反論があれば取り消すつもりですらいた。男は食い入るように金髪の青年を見る。
やがて、ゆっくりと艶やかなダークブロンドが靡いた。微細に移り変わる光沢にクロエは聴覚に心地よいテノールを待ち詫びる。
「良いよ。あんたが戦術を立ててくれるのは俺の為だ―それで強くなれるなら、俺は従う」
知らず、緊張の糸が解けた。胸中の安堵は隠し通せただろう。
セコンドの内心を知る由も無く弟子はトレーニングに戻る。光の軌跡を描くダークブロンドを男は見送る。と、芸術品のような背中が一度振り返った。
「アメリカやドイツの伝説超人達は暫く日本に残るそうだ。―俺の事は心配ない。知り合いがいたら、会ってきたらどうだ」
そのまま重厚かつしなやかな足音は消え去り、クロエは息をついた。
―一般に思われている程、愚鈍な弟子ではない。
彼は彼なりに感じるところがあるのだろう。だが・・・
ソ連には神はいなかった。帰化した今ならば英国国教会は自分の声を聞き届けてくれるだろうか。身勝手で、刹那的な―正義超人としての燃え滓だと思っていた願いを。
・・・今一度、燻り始めた希求を。
plead
①懇願する、訴える ②弁明する