ASH HOLE 夜空に赤い火柱が立ち、荒野に爆音が響いた。逃げ惑う兵士、火に飲まれていく戦車たち。焦げ臭い香りが漂い、砂煙が広がる。
この砦の上からでは、全てが玩具のようにしか見えない。折り重なるように倒れていくのが人間だと、どうして信じられよう。
自らが投下を命じた黄燐焼夷弾の効果に満足して、レン=ササキ大佐はコーヒーに口を付けた。冷め切った苦いコーヒーは、この塔を守りきれという上部の命令の無謀さにも似ている。
西暦2764年8月、同盟国と連合国間で結ばれた和平は僅か30年で破綻を来たした。30年の間に政治的、軍事的統一を果たした両陣営は再び干戈を交え、第五次世界大戦勃発の運びとなったのだ。ゴビ砂漠中央に位置するこの砦──正式名称は別にあるのだが──は長く同盟国と連合国の鬩ぎあいの対象となってきた。ゴビ砂漠を制するか否か、レン属する同盟国側にとって西方防衛の主だ。
一方、連合国側は東部──同盟国側からすれば西部──に徐々に重点を置き始め、そして今、レンが守るところになっている。
「…守りって、得意じゃないんだよなぁ…」
一人、レンはそうぼやいた。命じられた以上、脱出も不可だ。上部も砂漠そのものには関心はないようだが、砂漠の近郊には地下軍事施設がある。
「何を言っておいでです、大佐」
およそ戦場には似つかわしくない、鈴を鳴らすような笑みを含んだ女の声が耳に届く。窓辺に立っていたレンは、彼女を振り返った。
「…余裕だねぇ、サヤちゃん」
「ちゃん付けはお止めになって下さいね」
言葉はあくまで慇懃、声も涼やかなのにどこか有無を言わせぬものがある。
「はいはい。サヤ=シラミネ中佐」
サヤは微笑んだ。白衣の肩に色素の薄い髪が落ちる。
「…で、どうしたの」
レンは問う。戦況は極めて不利だが、それすらもレンは嗤った。
「朗報がございます。新種のバチルスが完成しました」
レンの顔色が変わる。
「ラボでか」
「ええ」
サヤはうっとりとした微笑みを絶やさない。
「即効性の、我ながら素晴らしい出来です。一呼吸で体内に入ったバチルスはタンパク質を食い荒らし、呼吸を不可能にします。吸い込んだ人間は息苦しさに喘ぎますが、バチルスはすぐに心臓に到達して食い千切り、死に至らしめます」
「我々に影響は?」
「すでに特効薬が開発されています」
「その効果は?」
サヤは平然と言ってのける。
「私が被験者となりましたから、大丈夫なようですね」
レンは目を見開いた。
「何でそれを俺に相談しないの?」
「ラボの責任者は私ですから」
「…そうじゃなくってさぁ…」
「ご心配には及びません。…では、投下してもよろしいですね?」
微笑って言うサヤに、レンは薄ら寒いものを感じながら頭を抱える。
「…君の第一印象を消去したい気分でいっぱいだわ…」
サヤは同盟国軍の幕僚リュウゾウ=シラミネの一人娘だ。同盟国の最高学府を主席で卒業、生物工学においては四つの博士号を与えられ、いわば権威にすらなっている。さらに彼女は、同盟国軍研究所の主任であると共に、同盟国軍で指揮をとる中佐でもある。
この彼女にまつわる事実はその混血の美貌と共に他人を敬遠させる原因となった。レンもまた例外ではない。
レンが最初にサヤに会ったのは、中央アジアで起きた暴動の鎮圧を任された時だった。ゲリラに苦戦するレンたちの前に、彼女は現れた。サヤは優しげな微笑を湛え、たおやかに自己紹介をした。
レンはどこか拍子抜けした気分で彼女と握手を交わした。
──なんだ、普通のお嬢様だな。
それが、サヤの第一印象だった筈だが。
その彼女は現在、猛烈な威力のバチルスを平然と兵士らに向けようとしている。
「大佐には意図の不明な行動が多すぎますわ」
サヤはそう言って、レンの言葉を切り捨てた。
「…失礼致します」
一人の仕官が駆け寄り、敬礼をする。
「準備が整いました」
サヤはレンを見遣った。レンは小さく溜息をつく。
「…いいだろう。発射だ」
承知致しました、と仕官が再び敬礼をして走り去っていった。サヤはあでやかに微笑む。
「…大佐が少将になられる日も近いですね」
レンは勢いよく椅子に腰掛けて伸びをした。
「…そんなもんになりたいわけじゃないさ」
「なぜです?」
サヤはさも不思議そうに聞く。
「さあな。…これからも流されながらやってくよ。生きる為にね」
ふと、サヤは微笑った。
「大佐らしゅうございますね。……分かる気もしますわ」
サヤはシラミネ大将の娘として生まれ育ってきた。常に影のようにつきまとう父の名に対し、彼女は完全に諦めている。そして、レンはANFSR(同盟国軍特別研究所)の所長の息子だ。どこか似たものを感じるのはそのせいだろう、とサヤは思う。
サヤは窓の外に視線を遣った。
「…発射されたようです」
「効果は?」
「期待以上ですね」
戦場は砂の中、そびえる砦は高く、累々と重なる人間を見下ろしている。故郷にも遠い砂の都で、彼らは息絶える。その死体は砂に埋もれ、二度と故郷を見えることはないだろう。
何もかも砂に帰す運命のものなのだ。玩具のような兵士たちも、砦も、己でさえも、何も変わらない。
風が音を立てて渦巻いて、世界は砂嵐に飲まれた。