いくとせの 低くて黒い雲がゆるやかな風に流されて、はるか遠くまで天上に路を架けていく。
満月まであと一日足らない月の光がその上を駆けて、白い軌跡を作っていった。
雲の下から、淡い桃色の階段がおりている。その天辺には神社の社があって、そこは参道なのだと分かる。境内はまるで一面に白い絨毯がひかれているようで、ひなびた小さな本殿を美しく見せていた。そこは訪ねる人も、神主もいないのか、煤けた寂しげな姿で建っている。
白い絨毯は絶えず積もり続けている。
そこに重たげな腕をのばして朧な花弁を散らすのは、盛りを少しばかり過ぎた枝垂れ桜だった。
境内や参道どころか、鳥居も拝殿も、本殿すらも淡い花弁に埋もれている。
ひときわ大きな朧を抱えた木の下に、一人の青年が立っていた。その頭にも花弁が散っている。肩には枝先がかかり、さらさらと音を立てた。青年は自身に降り積もる花弁を、楽しそうに笑いながら払い落とす。ひらひらと舞い落ちていく花を興味深げに見つめていた。
──時間すらも窒息させてしまいそうな。
そんな風に見える、とふと思ってそれが願望であることに気付き、うつむいて苦笑する。
「待たせたか?」
低く、凄みのある声ははっきりと青年の耳に届いた。それがあまりに彼らしくて、青年は思わず微笑む。笑んだ青年の視線の先には、一人の男がいた。その顔はあまりに整って役者のようだが、仏頂面がそれを半減させている。
「相変わらずだなあ」
青年が意識せずつぶやいた言葉は、しかし男の耳に届いていたらしい。なにがだ、と愛想のない声を男は発した。
「いいえ。何でも。それに、さほど待ってはいませんよ」
青年は言って、邪気のない笑みを浮かべた。
「でも意外だったな」
「…なにがだ」
男は先程と同じ言葉を返し、生来の仏頂面をさらに深くする。青年はそんな男の様子に気づかないかのように振舞いながら、およそ歳には似合わぬ子供のような笑顔で言う。
「だって、来てくれないかと思っていました」
「………」
男があからさまに渋い顔をして口を開きかけると、青年は先んじた。
「それとも、お小言のために来たのなら、僕は帰ります」
そう言って男の顔を覗き込む。昔からこういうところはちっとも変わってはいない。どちらが相変わらずだか、とため息をもらす。
「……花見以外に何の理由があるって言いやがるんだ」
青年は得たり、とばかりに笑った。自らの背後の桜を仰ぎ見る。
「相変わらず見事ですね、ここの桜」
男はうなずいた。
「どうも騒がしい花見は駄目だな。静かに、ひっそりと見るほうがいい。こういうひなびた神社ならなおさらな」
でしょうね、と青年は小さく言って空に両手を差し出す。夜空はひらひらと舞う淡い花弁でまだらの模様を作っていた。
「嘘です」
唐突に青年は言う。男はなんのことなのか判らず、空に両手をかざしたままの青年を見つめた。
「来ないかと思った、というのは嘘です。絶対に来てくれると思っていました」
ひらり、と一枚の花弁が青年の手の中に落ちた。
「昔から、どんな約束でも破ったことないじゃないですか」
たとえ喧嘩するときであってもそうだったのだ。
「本質的に律儀なんですよね」
「ばかいえ」
男は青年をこづいた。青年は途端にくつくつと笑い出す。
「大人をからかうのもいいかげんにしろ」
「僕がからかってるなんて誰が言ったんです」
青年は可笑しそうに笑う。男は軽く息を吐くと、上を仰いで、微かに目を細めた。
「…おい」
青年は何ですか、と首をかしげる。
「俺のかたわらに立ってみろ」
「え?」
青年は怪訝そうな顔をしたが、一応男の側に走っていく。
「これでいいんですか?」
探るように男の顔を覗き込んだ。その目の奥には楽しげな光が宿っている。
「そのまま、もと居たところを見てみろ。…すごいぞ」
男は上を見ながら、笑んだ。滅多にないことである。青年はまたその言葉に従って、目を見開き感嘆の声を上げた。
「綺麗ですね…」
青年が先ほどまで立っていた枝垂れ桜の木は、月からの光を受けて一層淡く、朧ろに光っていた。揺れる花の塊の中から、月光があふれている。桜の奥で月が輝いていた。
「桜って花はな、逆光で見るのがいちばん綺麗なんだ」
青年はそうですね、と答える。
しばらく時間がたったころだろうか。男と共に桜を見ていた青年は、くすりと微笑した。男はそんな青年の様子にも気付かないほど、桜に魅せられている。
「…本当に、詩人ですよね。お兄さんは…」
青年はその昔、藩屏の子息として何不自由ない生活をしていた。
しかし十歳の時に両親を海難事故で失ってからは、父が事業でつくった借金とともに親戚中を盥たらい回しにされ、青年は唯一最後に残った使用人の一家に、借金を肩代わりはしないという約束で引き取られることになった。
それが男の家だったのである。
青年は育ちの良さのせいだろう、小さな農村にはまるでそぐわなかった。
男の家は父母と男三人、女三人の家族であった。男は三男だった。兄二人とは遊ぶにも喧嘩するにも歳が離れすぎていた。その代わり妹が二人いて、いつも妹たちの人形遊びに付き合わされた。そのせいとも言い切れないが、物心ついたときには男は村周辺一帯にまで悪名がとどろくほどの悪がきとなっていたのだった。
一家は青年を歓迎した。青年は屈託がなく陽気で、気取るようなところがまるでない。それでいて雰囲気や言葉遣いが垢抜けていた。青年は、決して村の泥臭さに染まる事はなかった。
今も、言葉は伯爵家の嫡子であったころのままであるように、青年もまた、人の輪の中にあって異質な存在だった。
うまが合った、というのだろうか。
青年は男を兄と慕ったし、男は彼を可愛がった。
青年は男の後をついて回ったが、村民はなぜ、と口をそろえて言った。そのたびに青年は、本当はお兄さんはいい人なんです、と言って男を焦らせたことを覚えている。
悪がき、とはいっても男は決して弱いものいじめはやらなかったし、やりたくもなかった。むしろそんなことをする奴を軽蔑していたし、いじめられっこを庇うこともしばしばだった。
男が悪がきとして有名だった理由は単純に、短気で喧嘩っ早くしかもそれが滅法強かったからだろう。自分や仲間をばかにする奴には大人であろうとくってかかった。しかも、それで負けたことがない。
男はそれでも驕ることはなく、いつまでも無愛想だった。
仲間たちはそんな男を心から尊敬していた。無論、青年も例外ではない。
さすがに村の皆もお兄さんが桜を語るなんて思ってもみないことだろうけど、と青年は思い、ほくそえんだ。
この神社は、青年と男がひそかに見つけた花見の場であった。海軍に入って違う土地を見、ようやくこのあたりでは並よりも早く桜が開花すると知ったが、この神社はさらに早い。
山の麓の農村、その山道をずいぶんと登ってようやく参道が見える。そんな場所だから、相次ぐ戦争の時代に忘れられていったのだろう。
人々に取り残され、記憶の中にさえ軌跡のないそこは、過ぎ去ったこの国の黎明の象徴のような気がした。
「お兄さん、歩きませんか?」
青年は男の袖を引っ張る。男は我に返ったようにああ、と返事をした。
「本当に桜が好きですよね」
青年は呆れたように息を吐くと、男の先に立って歩き出す。男もまた、無口でついていく。ゆっくりと歩く青年を見守りながら、はらはらと散る桜に見とれていた。
青年はそんな男を肩越しに見ていたずらっぽく笑う。
「…今まで言わなかったけれど僕、本当はあんまり桜が好きなわけじゃないんです」
男は一瞬目を丸くした。
「じゃあ、なんで花見なんかに誘ったんだ?」
「お兄さんは桜が一等好きでしょう。ここの桜は特に」
青年はにこにこと笑っている。
「僕は椿のほうが好きです。あんな風に花を落とす木はお兄さんからしてみればあまり良いものじゃないかもしれませんけど。僕にはとても好ましく思えるんです」
そういえば、と青年は思い出したように言った。
「お兄さん、昔、義姉さん───志乃さんに言われてませんでした?夢中になると、他のことを忘れてしまうから困るって。本当にその通り、桜があるとそれだけで何日もそこに立ってられるでしょう」
志乃、とは男の妻の名だった。
男は村の親類の娘を嫁にした。はねっかえりで気が強いが村外まで知れ渡る美人だ。男の元に嫁いだとき、村の周辺の連中が顔をしかめた。
だが青年は、二人が最初から相思相愛だったんだ、ということも知っている。
「…どうかしたんですか?」
青年はいぶかしげに聞いた。志乃と聞いたとき、男の表情が微妙に変化したことを青年は見逃さなかった。
「なんでもない、なんて言いやしないでしょう?」
心配そうに青年は言って、微かに白くなった男の顔を見やる。男は青年の視線に耐えられなくなったかのように、ふいと目を逸らし、自らの右手の甲を見た。
青年は立ち止まり、振り返った。
「お兄さん。志乃さんがどうしたっていうんです」
静かに、しかし詰問するような強い語調になる。どうしてもこうならざるをえない。
困難にもたった一人で挑もうとする、それが男の誇りにもなっていることを知っていた。だからこそ、聞かなければならないことも。
お兄さん、ともう一度、前よりもっと強く言おうとしたところに、男の絞り出すような声を聞いた。
「…近いうちに」
かすれる声を、風が花弁とともに巻き上げていく。
「俺は、死ぬだろう」
青年は瞠目した。
「…え…?」
「俺は明日、行く」
声は、混乱した青年の意識の中で、皮肉なほどはっきりと聞こえた。
男は青年の子供のような笑みが引きつれたような張り付いた笑顔に変わっていくさまを見た。意味が分からないとでも言いたげなその顔が、ひどく痛々しく思える。
そんな顔をしないでくれ、と男は願った。いつもの男なら女々しい、と叱ったろう。だのにどうして今、声が出ない。なぜこの青年の前ではすべてが虚しい。男はそんな自分を忌々しく感じた。覚悟を決めたはずではなかったか、そうであったからこそ、里帰りをしたのではないのか。
しかし自身を叱咤してもなお、青年のいつもまっすぐな目が翳るのが切なかった。
男は、何もかもを置いていくのだ。
老いた父母、美しくまだ若い妻、妹たちも嫁いでもなお、実家を頼っていた。そして──未だ幼いこの弟。
彼をまた、置いていく。青年の本当の父母や、冷たい親戚のように彼を残していく。
それから、長兄はどうするのだろう、と思った。とうに志願して行ったあの人なら。
一番上の兄は、男と同じようにこの青年を可愛がっていた。いつも豪快に笑い寛容で、豪放磊落という言葉そのもののような人、それでいて甘味好きだったりとどこか子供のようでもあった。
あの人にだけは俺はいつも敵わなかったな、と男は苦笑した。男がそんなことを思う人間は長兄と青年以外にはない。
「志乃さんは──どうするんです」
「手紙を書く。…済まない、と」
そうですか、と青年はごくごく静かに言ってうつむいた。呆然としているようにも見える。
「だから、帰って来たんですね…」
青年はひとりごちた。何かを恨むことなどばかばかしくて、だからこそただ空しい。
男も青年もその〝いつか〟が来るのかもしれないと覚悟していたつもりだ。しかし、置いていかれることは辛い。
「最期の手紙、お父さんやお母さんにも書くんですか?」
青年はうつむいたまま問う。男はゆっくりとうなずいた。
「そうかあ」
青年は一転して心底感心した、というような声をあげる。
「僕は書きません。書けない、というわけではないですよ」
今度は男が驚きのあまり唖然とした。青年の顔は見えない。
「書かないんです。ただ、最後にお兄さんの仏頂面を冥土の土産に、と思って」
「…それは…」
どういう意味だ、言いかけた。分かりきった簡潔な答えを、感情が否定しようとしている。
父や母はどうなる。男も実の息子のようにも思っていた青年を続けて失う。志乃だって同様だ。青年が居るなら、彼女も元気づけられるだろう、そう思っていた。
「…どうして。お前はあの…」
「お兄さんと同じです。片道の燃料だけ乗せて、南の方に行きます。…きっと、もうここにも帰らない。帰ってはならないから」
男はそうじゃない、とかぶりを振る。青年は困ったように苦笑した。
「…お兄さんは、この戦争に勝てると思いますか」
男はうつむいて固く目を閉じた。聞きたくなかった、あまりに耳に痛い言葉だ。
だから何だ、と自身のうちで声がする。勝てないなら、何だ。負けるからどうしたという。それが、この国土を守らぬ言い訳になるか、腰抜けになる理由になるか。
今まで愛情を注がれてきた血縁、この郷土を捨てて良心の呵責はないのか。それがなかったならばこれまでの幸福はなかったかもしれぬのに。この土の上に生まれ、あたたかに育まれてきたのに。
「勝てないから、行くんです。そういうことだと、お兄さんも思っているはず」
青年は幼い子供に言い含めるように言葉を放った。勝てない、負ける、負けて目覚める、そのために行く人間が必要なら自分がいい、と思う。───男はそういう考え方をする人だと知っていた。
「悲しくない、なんてことはないですけど」
風が青年の髪を吹き上げる。月光に照らされた青年の顔は微笑んでいた。
「置いていかれるよりだったらましです」
青年は、本当に何もかもを捨てていく。
残していく人々に伝える言葉も励ましも、何もないままに死んでいこうとしているのだ。
男は目眩を感じた。家族は疲弊するだろう。考えるだに恐ろしい。
今更ながら、精神的にこの青年を家族として無意識に支えにしてきたことを自覚した。同時に、ひどく安堵している自分がいることに気付く。そしてすぐさま打ち消した。道連れなどを望んではならない。決して。
「やっぱり、椿には間に合わなかったなあ」
青年は空を仰ぎ、清々しく言った。
「そろそろいくのかな、って思ってたんです。出来れば間に合わせたかったな」
その顔は、明日に黄泉路を歩く者とは思えないほどの穏やかさだった。
「僕が椿を好きなのは、すごく潔く見えるからなんです」
椿を男が気に入らない理由は、簡単だった。時が来ればぼとりと花ごと地に落ちる椿は、どこか残酷で無残な気がする。
そこで男はふと気付き、慄然とする。
その生き様は、今の青年の姿と恐ろしく酷似してはいないだろうか。
「桜って、僕には派手すぎるように思えて」
桜とは、小さな花弁を少しずつ落として散っていく、そんな花だ。
「…つらくはないのか…?」
男はうめいた。青年の態度はひどく彼らしい。どんなときにでも、笑う。そしていつもどこか──己すらも意識の外に置いていた。客観的すぎた。
男は知らない。それが彼の生い立ちによるものなのか、あるいは生来の性質なのか。
青年は視線を落とした。男を静かに見つめて、笑む。
「だって残していく人に、僕らが出来る事なんて何もないでしょう?」
濁りのない澄んだ声は明るく語った。
「生死は運命です。所詮人の身の僕らは変えることなんて出来ない」
「それでも、あがくのが人間だろう…?」
青年はええ、と答える。
「だから…つらいです。とても。死は、本人にとっても周囲の人にとっても悲劇でしかない」
桜の散るように美しくもなく、椿の落ちるように潔くもない。
「でもやっぱり、残していく人は幸せであるようにと願ってしまう」
悲壮でもなく、優しく青年は微笑みを浮かべる。そうだった。
どんなときも、誰にでも青年は平等に、優しかったのだ。
「悲しむことのないように、と祈ってしまうんです」
あの家に、自分のせいで笑いが絶えてしまう、と考えるのが嫌だった。
「お兄さんだってそうなんでしょう?だから、そんなわけはないって知っていてもここに来たんでしょう?」
最後に会えてよかった、と青年が思えるように、手紙ではなく直接言いに来たのだろう。
青年は思う。自分を覚えている限り悲しむのなら、忘れてくれてもいい。苦しみも悲しみも味わって欲しくなどない。ただ、男にだけは会っておきたかった。
──お兄さんは決して僕のことを忘れないでいてくれるでしょう?
男は自分のことを忘れてくれとは願わないだろう。忘れて欲しくも、悲しんで欲しくもない。そういう人だ。だからこそ兄と呼んだ。
風が吹いて、地に落ちた桜の花弁を巻き上げた。
「そうだな…」
男はうなずいて、目を閉じた。弟のこの果てのない優しさは。
いつか優しすぎる、と非難したこともあった気がする。もう遠い昔のことだ。
男はまぶたを開けると、微笑をたたえた青年と、その青年に降り積もる桜を見た。
「…酒が飲みたくなったな…」
男はぽつりと呟く。
「…え?」
青年は呆気にとられたような顔をした。男はにやりと笑う。
「花見、といえば酒だろうが」
青年は見開いた目をみるみる細くして、顔中で笑顔を作った。
「そうですね。持ってこなかったんですか?」
「馬鹿。あの宴会だ、くすねるほど酒は残ってたか」
「ああ、そういえばそうですね」
青年はなにが楽しいのかにこにこと笑いながら、くるりと回って再び歩き出す。
「まあ、いい」
静かに言う。男もまた、笑っていた。
風がいっそう強く吹いて、花を攫っていく。
「次は持ってくるさ」
青年は風で目にかかった髪をかきあげた。
「ええ。酒盛りしましょうか」
男は思わず吹き出す。
「ろくに飲めもしねぇくせに」
「来年の桜までに、飲めるようになりますってば」
青年は振り向かなかったが、男にはその顔が容易に想像できた。
男は夜空を見上げた。
月光と、桜の色が強く、印象に残った。