夏目お題帳より01.やさしい嘘
バスタブの底、直線に切り取られた光が溜まっている。
窓枠の形そのままの四角い光を踏んで、バスタブの壁に足の裏をつけた。
明け方の白光が水面に映り、身じろぎするたび小さな波になって揺れる。瞬く間に変わる光のイリュージョン、そう思って名取は笑う。左腕をバスタブの外に投げ出した。水の音、バスタブの中は一瞬大きく波立って、すぐに静まる。
肩の上で痣が動くのが見えた。左腕を伝い、バスタブの縁の向こう側に走っていく。自分一人の空間ではつい気を抜きがちになるのを反映してるのか、不思議と痣の動きが活発になる。
気味が悪い。今でもそう思う。しかし動きを封じられることなく嬉しそうに我が身を走り回る痣を見ると、何故だか無性に笑えた。
──私なんかを宿主にするから、かえって窮屈するんだよ。
妖の類を制御する術を知らない宿主なら不自由はしないものを、そうひとりごちる。
息を小さく吸って、吐く。上を向いて、後頭部を縁につけた。ぼんやりと天井を見つめて、足の方にある窓に視線を遣った。
鈍い倦怠感が目頭の奥にあった。何度かまばたきをする。網膜に光が焼き付いた。
太陽が高度を増して、夏の強い日差しがよみがえる。そろそろ街が動き出す時間だろう。
仕事が不規則なのは今に始まったことではない。役者が眠れないなら、裏方はなおさら眠っていないということだ。睡眠が削られることに文句をつけるほど、新人でもベテランでもないつもりだ。
タクシーでようやくマンションに帰った頃には深夜だった。それからベッドに倒れこみ、三時間ほど仮眠した。
名取は仕事柄あちこちの土地にいくが、撮影現場で眠ることはなかった。意識を手放せば、張りつめた気が緩んで痣が身体中を駆け回る。そのうえ妖は見える者には聡いようだから、家以外の場所ではやかましくて寝ていられない。
幸か不幸か、それで仕事熱心だと思われているのだからおかしい。
皮肉げに口許を歪めて笑った。天井から水が滴って、ぱた、とバスタブの縁を叩く。
もう随分と昔から、心を許せるものが名取にはなかった。
他人と深い付き合いができないのだ。それを全てこの力や痣のせいにするつもりはない。自棄になっているわけでもなく、ただそういう性質なのだろう、とそんなふうに思っている。
しかし時折、何も見えなければ違う人生もあったろうか、とふと考える。その程度には、この力は名取の生き方に影響しているらしい。
幼い頃には親族に疎外された。だが、大人になった今は自分で自分を疎外するような生き方をしている。そういう自覚なら充分あった。
──あまいと言われようと、あなたのやり方には賛同できません。
そう夏目は複雑な顔で笑った。それもいい、と言ったのは名取だ。
それから、夏目に会う度に思う。
──厄介な生き方をしている。
若いとはああいうことだったろうか。名取も、昔はああだったのだろうか。
記憶を探ってみたが分からなかった。
──妖か、人間か、どちらかを見限ってしまえばいいものを。
そうすればもっと楽に生きられるだろうに、そう思わずにはおれない。あるいは、その両方を同時に見限ることができたら一層楽だろう。
どちらも見捨てずにいるのは優しいが、愚かなことだ。
名取は喉で音を立てて笑い、顎をのけぞらせた。天井を見て目を閉じる。
どうやら疲れているらしい、と唐突に気付いた。やくたいもないことを考えている自分が単純に珍しい。奇妙な感覚だ。
ふと水を踏む音がして、重い首をめぐらせてドアの方を見遣った。目の前に柊がいる。
「……どうした」
何気ない顔で聞いた。
大抵の妖怪は人間よりも余程、己の感情に素直だ。
しかし、柊は顔の大部分が仮面に覆われている。感情を見せることがない。妖らしからぬ妖だとつくづく思う。
「……のぼせます」
柊はさして興味もなさそうな声で、淡々と口にする。ああ、と頷くと、目が合った気配がする。
手が伸びて、名取の髪に触れる。髪の先から雫がしたたって、湯に落ちる。
「…………」
どちらからともなく沈黙した。髪から滴った水が顎を伝う。冷たい。
一瞬柊が口を開きかけ、やめたように見えた。
名取はそれに気が付いて、何、と言いさした。途中で笑みに代える。
「上がるよ。……なんだか疲れた」
柊は無表情に、はい、と応じた。
04.帰り道
玄関を出ると、暮れ方の太陽に照らされて、庭の松の木の葉の先端に光が宿っていた。
この家についたのが確か午前十時だったはずだから、随分長居していたことになる。その時間を意識すると、全身を倦怠とも疲労ともつかない感覚が覆う。
たった子供ひとりをおしつけあって、半日以上───。堅牢な門をくぐって、おそらく自分はもうこの場所には来ないだろう、塔子はそう思った。
「……すまん」
ぽつりと、普段は寡黙な夫がこぼした一言に、塔子は目を見開いて傍らを仰ぐ。
「つい言ってしまった、うちがひきとると」
真剣になると訥々とした喋り方になるのは昔から変わらない。真面目なばかりがとりえだと親族でもそう思われているだろう。
そのこの人が、あれだけはっきりとした物言いをしたのを初めて聞いた。
「実際、あれらの言うとおりだ。…この時代、子供一人をまともに育てようと思ったらどれだけ大変か」
うつむいたままの彼の顔に、夕焼けの光が落ちて皺が一層深く濃くなる。
たぶん自分も同じように年をとってきたのだろう。これからもそうして年をとっていくんだろう。
そんな風に漠然と感じられるだけの時間を共に過ごしてきた。彼が思わず言ってしまった気持ちも分かる気がした。
塔子は半歩前を行く夫の手を、そっと握った。
相変わらずの大きな手に、驚いたような気配が伝わる。
「……そうね。あなたには、これから頑張ってもらわないとね」
明るくそう口にして、夫を見上げる。微笑む彼女を、夫はまぶしそうに眺めた。
それだけ言うなら、うちがひきとろう。
強い語調で夫が言うと、座敷に居並ぶ一同に安堵した空気が流れた。
「そうだな、あなたのところには子供がいないし……」
今まで子供を押し付けあっていた親族の一人が呟いた。彼は自分の何気ない一言がどんな影響を与えるかなど、今まで考えたこともないのだろう。
こういう親族に、幼い頃からたらい回しにされてきた少年が哀れに思えた。
物じゃない、感情のある、一人の人間なのに。
「成績はいいし、素行に問題のある子じゃない。小さい頃は多少空想癖というか、嘘をついたりする子だったが……」
引き取り手が決まった途端に、彼は少年について話しはじめる。
「うちの祖母が言っていたが、相当レイコおばさんに似ているそうだ。まぁ、年寄りの記憶だからどこまで当てになるか」
夫はそれらの言葉に頷くばかりで、再び口数を少なくした。
遠縁でしかないうちに声がかかったのは今回が初めてだった。どこの家も自分の子供のことで精一杯なのだろう、参加者もさほど多くなかった。
この親戚たちの中で少年はどんな思いで過ごしてきたのだろう。
「レイコさんに似ているといったから、綺麗な子でしょうね」
「え?」
「昔、いつだったかの親戚の集まりで写真を見せてもらったことがあるのよ」
楽しみね、そう言って塔子は笑い、どんな子だろうな、と珍しく夫は応じた。握り返される夫の手は暖かい。
見上げると、土塀を越え垂れ下がった木の枝には、たわわに実った柿がオレンジ色に輝いていた。その茂る葉の向こう、稜線に沈もうとする太陽が山端を照らす。
りーん、という虫の音に、遠く電車の走る声が重なった。
広がる水田に黄金色の風が吹き渡る。水の香りに微かな草いきれと、枯れかけた葉の匂いが鼻をかすめた。
私はあの子の家族になれるかしら、と塔子は思う。
何気ない、こうして何気ない風景を一緒に見ることができる人を、少年は持ったことがあるのだろうか。
今日あったことや感動したことや嬉しかったことや、いってしまえば下らないことを話せる者が彼にはいたのだろうか。
一緒に時間を共に過ごすことが当たり前のように思える存在を、彼は知っているのだろうか。
私は、彼の家族になりたい。母になりたいというのは傲慢かもしれないけれど、せめて家族になりたい。
春には花見を、夏には花火を、秋にはこうして風景を眺め、冬にはクリスマスのジングルベルを街中で一緒に聞くような、ありがちな時間を共に過ごすことが当然の、そういう家族になりたい。
そんなことを塔子は駅への道すがら、夫に話していた。夫は変わらず寡黙で、そうだな、とだけ答えた。
06.ありがとう。
一泊二日、二人と一匹の温泉旅行も無事終え、名取は息を吐いて懐からオートロックの鍵を取り出した。
雪の降る季節じゃないとはいえ、夜は肌寒い。
明日早いことも考えて夏目とは駅で早めに別れたものの、結局マンションに帰ってくれば10時を回っていた。
これから荷をといて洗濯をして、と考えると寝るのはいつになるのだろう。そう考えて苦笑した。
基本的に明日に今日の仕事を残すのは好きではない。
自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、ポストをチェックする。かつ、と微かに足音が鳴った。新聞は取っていない。仕事場に泊まることも多いから、毎日届けられても困る。
ダイレクトメールと業者のチラシの類をまとめてゴミ箱につっこみ、エレベーターを待つ間に手元に残ったハガキや手紙の差出人をざっと見た。仕事関係の手紙が多い。
大理石の壁に間接照明の光が柔らかく映る。薄く消毒液の匂いが残っている、昨日か今日当たりに掃除でも入ったか。
小さくため息をつき、荷物ごと体を壁に預けた。眠い。目を閉じると頭の中にエレベーターの動作音が聞こえた。
人をだますのが癖になっていたのも、彼に対して済まないと思っていたのも本当。同じものが見える、"友人"と呼べるような存在に出会ったのも初めてで、だからそんな風に思うんだろう。
ただ、理由はない。自分はきっと、彼を騙し続けるのだろう。
そんなことを不思議と確信できる自分がおかしい。そういう自分をどこかで諦めながら、観察している自分もまたいる。彼といると自分を嫌いになりそうだな、と思った。
彼といると、まだどうにかなるような気がして、たまに一緒に走り出しそうになる───どうにかなるなんて、ちっとも信じてないくせに。自分の脳の片隅でそんな声がした。
≪ブブブブブブ≫
名取はぎょっとしてまぶたを上げる。
上着のポケットを探り、バイブにしてあった携帯を取り出した。メール。
夏目からだった。ウィンドウで確認して、携帯を開く。
『今日はありがとうございました。色々ありましたが、とても楽しかったです。
本当にニャンコ先生まで連れていってもらえるとは思ってませんでした。また暇な時に会ってくれると嬉しいです。あと妖怪抜きならもっと嬉しいです。』
淡々とした、かつ律儀な彼らしい文面だった。
……妖怪抜きならって君、妖怪抜きで私と話すことってそんなにないだろう?
なかば呆れたような気分でそんなことを思って、笑った。
ああ、そうやって相手をちょっとずつ知っていくことが友人を作る方法だったんだ、と思い出す。
夏目の生い立ちは、旅行の許可をもらいにいく時に初めて知った。少し言いにくそうにしながら、それでもなんでもないことのように彼は語った。
同情されることはあまり好きじゃない、というよりも自分の境遇を一歩離れたところで見ているというべきなのかもしれない。
「友人になったらそんなこと関係なくなるでしょう?」
あっさりと夏目は言い、ここです、と藤原家の門をくぐった。
「……ありがとう、か」
名取がそう呟くと、柊がふとそこに立って、どうしましたか、と聞いた。気付けばエレベーターの扉が開いている。
「なんでもない」
微笑い、名取は身を起こした。
妖を友人と呼べてしまえる夏目、自分の境遇をもそんなことと言ってしまえる彼が少し羨ましい。
若いから、と決めてしまえばそれまでなのだが。
「柊、」
「なんですか?」
「お前、意外と夏目のこと気に入ってるだろう」
「……そんなことは」
分かる気がするよ、と名取は笑った。
07.このめがうつすもの
───やっぱりおれたち二人が変なのかもしれないし。
そんな風に言って、夏目は微笑った。
その瞬間、どれだけおれが驚いたかも、安心したかも、きっと彼は知らないままなんだろう。
小さい頃から、時々変なものを見た。他の人には見えないらしく、それらが一体なんなのか何でおれにだけ見えるのか、ぶっちゃけよく分からない。
そういったものはどうして見える人間には敏いのか、おれはしょっちゅうそういうものを見たり触れたりしては寝込む子供だった。
幸い父親は、見えなくともそういうものに強い人だったから、命に関わる事態になったことはない。
物心つく前、おれは妖怪が見える世界を当たり前のように見ていた。必ずしも悪意を持ったものばかりじゃなかったし、変な人だなあ、とか、変な動物だなあ、程度にしか考えてなかったんだと思う。
ただ、それが他の人には見えないものなんだとおぼろげながら理解した時、急に不安になった。
自分は本当に、ここに存在しているのだろうか、と。
父は仕事柄おれのことをよく理解してくれていたけれど、同じものが見えないなら、同じ思い出が共有できないのなら、何がおれと人との間を繋いでくれる? 誰が、おれがまともだってことを証明してくれる?
───自分が見えてるものは自分しか保証できないっていうのに、自分の正気を保証できないおれはどうすればいいんだ?
おれは次第に無口になって、家族以外と喋ることはあまりなくなった。
他人との深い付き合いを避けるようになったおれは、どんどん柔和に、穏やかになった──少なくとも外見上は。
父はそんなおれを心配してか、仕事のつてを頼って"見える"人間を探していてくれていたらしい。おれは本当は、放っておいてほしかったんだけど。
だって、"見える"人とでさえ、同じものが見えていなかったら?
やっぱりおれだけが、変なんだとしたら?
おれが変なものを見ているらしい、っていうのは新しい学校でも割合すぐに噂になった。おれは寺の息子だったし、越した先も"出る"と有名な八ツ原の廃寺で、妙なリアリティがあったのかもしれない。
特に親しい友人もいなかったけれど、それでよかった。本当におれが異常なんだと目の前に突きつけられるよりはずっとマシだ、と、そう考えていたはずだった。
けれど、夏目の噂を聞いていてもたってもいられなかったんだ。
おれよりも少し前に来た隣のクラスの転入生、ちょっとした挙動不審、一人好き。
なんとなく分かる気がした。───おれがそうだったから。
アスファルトに落ちた枯葉が風に撒きあげられて一瞬、かさかさと音を立ててスニーカーの足元におりた。
まっすぐの並木道を見渡せば、水気を失った葉がそこらに散らばっている。見上げればもうずいぶん葉が少なくなった桜の枝が視界を埋めた。
川沿いの並木道と川の間、土手の上には花見の季節のための遊歩道がある。土手の向こうでは、夕日を覆った雲にオレンジがにじんで広がっていた。雲は途切れつつもずっと連なって、東の空で藍色に染まっている。
衣替えはまだだから、半袖の制服にこの季節の日暮れは少し肌寒い。
「さむ」
隣を歩く夏目が独り言のように呟き、おれはそうだな、と返した。いつもの二人は委員会で忙しいらしい。
おれがなんとなく空を仰いだままで、
「もう秋だな」
と言うと、夏目は頷く。
「……何か、一年って早いな」
ぽつりと何でもないことのように彼はこぼした。
「おれ、こうやって何年も同じ街にいるの初めてだ…」
そう言って、ちょっと微笑った。
夏目は時々、こういうことを淡々と言う。それは自分を憐れんだりするようなものじゃなく、どこかで自分を突き放しているような、そんなところが夏目にはある。
そういう時たいてい彼は、無意識だろうけど嬉しそうで幸せそうで、おれも少しほっとする。
「良かったな」
実際、心からそう思って口にすると、夏目はちょっと驚いたような顔をしてから、ああ、と言った。
「……田沼って」
「何だ?」
いや、大したことじゃないけど、と夏目は苦笑する。
「時々、とんでもなくストレートだな」
「……どういう意味だ?」
わけがわからない。おれがそう思って聞き返すと、大したことじゃないって、と夏目は笑った。
……大したことじゃないなら、意味深な言い方するなよ。
「ほんとに、意味はないよ。だから気にしなくていい」
「…思ったことを言っただけだぞ?」
「うん、だから、おれも思ったことを言ったんだ」
夏目は穏やかに微笑う。
おれはその笑顔を見ながら、思ったことを言うのは想像以上に大変なんだ、ということにふと気付く。特に、妖怪の類が見える人間にとっては。
思った通りに言っても、きちんと伝わるかなんて誰にも分からない。ましてや今まで、伝わらない経験ばかりを積み重ねていたからなおさらだ。
嘘をつくのが日常になって、外見上はとても柔和になる───。
夏目はたぶん、おれよりもずっと"見えてる"し"聞こえてる"。言わないけど、一緒にいれば分かる。
それでどんな苦労をしてきたかも彼は語らないし、どんな不安を抱えているかも彼は決して口にしない。
おれには少なくとも家族がいてくれたけれど、じゃあ、夏目は?
───夏目には、誰かいたのか?誰か、自分の不安を話すことができる人が。
「……夏目」
おれが呼ぶと、夏目は笑ってこっちを見る。
嘘をつくのに慣れてしまえば、見かけは穏やかになったとしても自分の中心はひどくねじれていくことを、おれは知ってる。
ねじれる寸前で、夏目に会えたおれだから知ってる。
「田沼?」
夏の終わりの冷たい風が吹く。ざわざわと茂みが動く音がした。今も、彼には見えているのだろうか?
夏目が不思議そうな表情でおれをのぞきこんだ。夏目と、その向こうには冬に向かおうとしている秋の木と枯葉と、雲に隠れた西日と、おれにはそれしか見えないけれど。
おれは口を開いた。
───君には、なにが見えているのだろう。
08.心躍るのは
「……あ」
そう意識せずに口にして、窓際で向かい合った二人はほぼ同時に空を見上げた。
弁当の匂いと埃の混じったような昼休みの教室独特の匂いが、グラウンドからの砂っぽい風にさらわれる。
窓の外では、秋らしい青いペンキを薄く刷いたような青空に白い雲が斑を作って浮かんでいた。
その空を背景にして、のしのし街を歩いていく巨大な黒い人影がある。黒いばかりで顔はない、目もなければ鼻もない、おまけに口も耳もない。
グラウンドの生徒たちはまったく気付いた様子もなく、おーいボールー、と間延びした声が校舎にぶつかって響いた。
秋晴れの日、ふわふわした教室の喧騒の中で、夏目は身をかたくして窓の向こう側を注視する。
影はどうにか人だと認識できるが、五体満足とはいいがたかった。常に煙のようにゆらいで秋風にかき散らされては分散し、しばらくすると元の形に収束していく。
珍しい。いつもはもっと、重量感があるのに。
そんなことを考えるほど、夏目は妖怪の類に親しい。
向かい合って弁当を食べる田沼は、微動だにせず空に釘付けになっていた。
「んでさー、うちの親がとうとうカテキョつけるってウルセーの」
「うっわ、ざまあー。がり勉まっしぐら?」
「語尾あげんなよムカつくなー。……って、おーい、お前ら?」
生きてる?
そう言って、夏目と田沼の隣で一緒に弁当を食べていた二人が、夏目と田沼を交互にのぞきこんだ。
「え…っ、ああ…。なんでもない」
ようやく我に返った夏目は冷や汗をかきながら微笑んだ。
ほんとに、あれが見えないとはうらやましい。そう考えながら、田沼を見やると彼もまた困ったような表情をしていた。
何も知らない二人は弁当をさっさと机の上に放り出し、身を乗り出してグラウンドに視線を走らせる。
「何? そんな面白いモンある?」
「あー、分かった!あれだろ、女子テニス!」
「大会近いんだっけ。うち結構強いもんなー、力の入れよう違うもん」
「つーか、あれ見てたの?お前ら」
やーらしー、とでもいうようなやけにニヤついた二人の視線に、夏目は顔を引きつらせる。
「……違うよ」
「……違うな」
田沼もほぼ同時に否定した。
「えー」
「なーんだ」
なんだ、って、なんなんだ。
そう喉元まで出掛かったが、次に続いた言葉に声を失う。
「お前らってさ、よくそういうことあるよな。なんか、同じタイミングでいきなり振り返ったり、廊下の隅見たり」
「あるねー。あと、たまにすげーびくってしたり。こっちがびびるって」
「……そうだっけ?」
そう!と二人に力強く肯定され、夏目は助けを求めて視線をさまよわせる。同じく田沼と目があった。
何しろ同じものを見る人間と親しくなったのも、くだらない会話をする友人が出来たのも初めてだから、こういう場合の対処法が分からない。
実は田沼に対しては「同じものが見えている」ことをはっきりと確認しあったこともなかった。
確かめようにもどう聞いたらいいのか──。そこで立ち止まって戸惑ってしまうのは田沼も同じなのだろうと思う。
名取ほどあからさまな人間はいっそすがすがしいを通り越して、多少うっとおしいものだ。
「……そうだな、似てるのかも」
逡巡したそぶりののち、田沼がぽつりとこぼした。
どう答えたものか思案していた夏目は、田沼のその一言に目を丸くする。
ふいと落された田沼の視線は、机の上にたまった秋の陽だまり。
「あー、うん。お前ら似てる、なんとなく」
「喋り方とかテンポとかちょっとな。あと、なぜか女にもてるとこ」
「「は?」」
「ミステリアスってゆーの? よく分かんねーけど、あんま喋らないタイプってもてんだよな」
「そー。マジで謎、超ミステリー」
「くそー、やっぱ顔か、顔なのか!」
「……知らないよそんなこと……」
夏目は呆れつつ言って田沼を見ると、彼は向かい側で静かに微笑んでいた。その少しはにかんだような笑顔に、なんだか無言のままで夏目も笑った。
クリーム色のカーテンが風を含んで舞い上がり、夏目の前ではためく。チョークの粉の匂いと、夏を残した草いきれが微かに香る。
ふ、と田沼につられるようにして再び空を見上げると、影は消えていた。
ただ吸い込まれそうな青空に、夏よりはわずかに光がゆるんだ太陽ばかりがあった。
10.うたかたの
うつくしい顔をしている。
かたわらで穏やかな寝息を立てている少年を見下ろし、斑はそう思う。
仰臥した彼の肩から棒のような腕が延びて、折り曲げられた片手がその身体の上に載せられている。軽く握られた掌の下で、薄い胸が規則正しく上下するのが見えた。
人間は脆弱だ。人間はもろい。こんな、空気を吸い込んで吐き出すだけの行為に生命を支えられている。
妖怪からすれば、人間を壊すことなど容易だ。
赤子の手を捻るように、という言葉が人間の世界にはあるそうだ。それに似ている。
決定的に違うのは、多くの人間が心理的なものから赤子の手を捻ることができないのに比べ、妖怪は人間を壊すことに何の抵抗も感じない点だろう。むしろ、人間の血を悲鳴を心からの哀願を絶望の叫びを愉しむ輩も、さして珍しいものでもない。
斑はもはや人間の悲鳴を悦ぶほど子供ではない。人間とは適度な距離を保ち、不必要に力を浪費せず、時折は暇潰しにからかって脅えさせる程度には妖怪らしいことをする。そうして何百年も暮らした。
その状況が変わったのがこの百年くらいだ。
人間が開化だ文明だと世迷い言を唱えては瓦斯灯で我等を追い払った気になっているうちは良かった。光があれば影ができる、ランプの炎の揺らぎに怪しい「何か」を見るのは人の常だ。
しかしそのうちに、妖怪もまた人間以上に脆いのだと思い知った。露神だとてよく持ったものだ。
随分と多くの仲間が、消えた。
影に脅え闇を恐れることをしなくなった人間に、妖怪たちは駆逐された。
──いや、闇を恐れたからこそ、か。
己の心の襞でさえもことごとく明らかにして、光によって照らされない「何か」など始めからないのだと思い込んだ。目に映らない「何か」が存在していることと、それが最初からないのだと思うこととは根本的なところに齟齬がある。
人間は、自分が光一面で出来ているのだと信じてしまったのだ。
───心にある影を許さず、矇を認めず、よくもまあやっていけるもの。自分の愚かさを知らぬ人間は、昔より余程愚かになったと見える。
斑が何かの折にこぼしたときレイコは、そうかもしれないわね、と笑った。
ひとは愚かよ、昔も今も。
そう言って美しく笑った。
うつくしい顔をしている。
かたわらで眠る夏目を見下ろし、斑はそう思う。
通った鼻梁は細く、その下に眼球を隠すなだらかな目蓋に、睫毛の影が落ちている。客観的に見て、整った造作をしている。
しかし、それは紛れもなく少年のものだ。肉体的に完成されていない、途上にあるからこその無造作で危うい均衡を保った顔なのだ。
レイコとは違う。
あの女は、ひとつの完結した美だった。己の他に何も持たない、何も必要とはしない。何ものをも彼女を侵すことが出来ない美だった。ただ彼女自身の存在として、完成されていた。だから、その美に人としての期限があることを忘れていた。
レイコの強さが、美しさが、彼女が人間であることを忘れさせた。
なるほど夏目には、レイコの面影が微かにある。だが、どこかでレイコとは異なる。
こうしてつくづくと眺めればその差は歴然としている。
では、なぜ妖怪は彼をレイコだと思うのか。
一つは祖母譲りの彼の霊力のせい、一つは妖怪たちがそれを望んでいるせいだ。
レイコにもまた人としての限りがあったことを、妖怪たちは信じられないでいる。
ひどく滑稽なことに、レイコは生きているのだと考えたがっているのだ。自分たちと同様の不死の存在だと信じたいのだ。
それ程に、レイコの有り様は妖怪に近かった。
それにしても可笑しくて仕方ない。妖怪がレイコに惹かれたのは、彼女が人間であったからだ。
人間なのに、我等に脅えずむしろ我等に笑いかける。人間なのに、我等よりも強い。
そういうレイコを、妖怪たちは愛したのだ。
うつくしい顔をしている。
レイコの孫を見下ろし、斑はそう思う。
ふと、腕をその顔に伸ばした。軽く開いた口許に手をやって、呼吸を確かめる。
──レイコ。お前は知らなかっただろう。
自分が妖怪たちに愛されていることを、あるいは妖怪にもまた深い情があることを。
斑も、彼に出会ったときレイコだと錯覚した。あの頃、夏目はその容姿以上のレイコによく似た空気をまとっていた。
──……やはりお前はひどい女だよ。
友人帳の名前を、レイコは一度も呼ばなかった。
顧みることをしなかった彼女が悪いのか、彼女が人間であることを忘れた妖怪が悪いのかは分からない。
それでも、同じ孤独を孫が負わずに済みそうなのは、良いことなのかもしれなかった。
──所詮うたかたの命なら、人は人らしく生きるものだ。
人間らしく懸命に、生きて生きて生き抜いて、笑って死んでいくのがいい。人を愛して、誰かのために泣き誰かのために怒り、そうして終わりを迎えるのがいい。
どうせ長い命を持て余して退屈していたところなのだ、それを見届けてやるのも悪くなかろう。
思い、斑はあくびをひとつこぼした。真夜中に妙なことを考えてしまったものだ。
夜明けはまだ、遠い。