close your eyes,close to lips 未完 障子越しに差しこんだ光に、土方は目をさました。
眠い。身を起こすなり煙草に手を伸ばした。安っぽい黄緑色のライターで火をつける。
朧な光の中にたゆたって消える煙を見つめた。畳の上から布団にかけて、障子の格子柄の影が落ちている。思いきり煙を吸い込むと、思考を覆っていた霧が晴れていく気がした。
くだらねえ。
口許だけで笑い、左手でライターをもてあそんだ。中で透明な液体が光を反射して揺れた。
夢の残滓に軽いむかつきを覚える。ひじかたさん、そう言って微笑う彼女が目の前にちらつく。
いかれてやがる。
綺麗な妻と可愛い子供と、そんな人並みの幸せなんざ、用はねえ。
そう、思っていたはずなのに。
胸に満ちる愛しさを、どこにやればいいのだろう。
――しあわせな、ゆめをみた。
そよは今日も晴れ上がるだろう青い朝の空を見上げ小さく呟いた。
あの人が、いて。すぐそばで、私にささやいて。
たかが夢ひとつなのに、こんなにも優しく、あたたかい。
思い出すだけで愛しくて、幸せな気持ちになれるのに。
そよ様、とお付きの人間が呼ぶ声がした。
――目なんか、さまさなければ良かった。
さみしい。
広い座敷に、視線をさまよわせた。多くの、私に良くしてくれる人々。なのに、さみしい。
私はこんなにも恵まれているのに。しあわせな夢だって見たのに。
まるで、胸を締め付けられてるみたい。
この感情につける名前なんか、しらない。
これが宇治、とそよは小さな白い手で一つの絵を指差して、笑った。
絵はさざなみに優美な曲線を描いた橋がかかっている。
座敷に広げられた絵巻物を前に、二人は寄り添うようにのぞきこむ。
いつもいつも、土方がそよに教えてばかりだから嬉しいのだろう。そよは始終楽しげだった。
いきいきと、行ったこともない土地の景色について語る。
その土地の風景や空の色、風の匂い。
そのすべてを、そよは見たことがない。けれど、見てきたように話した。
土方はただ聞いていた。これが、距離だ。彼女と、自分との。
それで、とそよは続けた。笑っている。
一度も日に当たったことのないような白い首筋、髪の匂い。白魚みたいな細い指が、絵の上を滑る。
彼女とこんな風にしゃべるのは、俺ぐらいなもんだろ。――独占欲かよ。終わってんな。
何が、鬼の副長だか。小娘一人に、入れあげている始末じゃな。
それでも自然に、顔はほころぶ。口調が穏やかになっているのに気付いた。
「土方さん」
そよが土方を見上げて、無邪気にわらう。昼過ぎの、光の中で。
かわいい。
本気で思う。なんだかな、もう―――処置、なしだ。信頼しきった瞳で見つめられると、本当に困る――抱き締めて、髪をなでて、鼻を寄せたくなって、その欲求をおさえるのに一苦労だ。
あーあ、いかれてるぜ。
大体、報われるはずなんてないだろ。身分とか、そんなものより、もっと越えちゃならねえ壁みたいなものが、あるように感じる。
――分かってるさ、そんなこと――
でも、いいだろ。一瞬くらい、夢見てたって。
幸せな夢の続きなんざ、期待しねえさ。
ひじかたさん?
そよはそう言って土方の顔をのぞきこんだ。すると、彼はようやく我に返った、というよりは、そよの存在を思い出したというように、ああ、と笑った。
「…何ですか」
ああ、あなたか、驚く風でも喜ぶでもなく、疎ましがる様子でもなく、かといって気安いわけでもない、そういう口調。そうするのが当然、という感じに似ている。
私、この人のこういう言い方が、すごくほっとする。
「どうか、なさったんですか?」
考え事なさっていたみたい。
言うと彼は、ふ、と目をふせた。開け放たれた障子から、午後の光がさんさんと降りそそいで、それが土方のかおにふかい陰影をつける。
もともと、いっさいのむだを削ぎおとしたようなきれいなかおだから、光は彼をよりシャープに見せる。鋭角の顎のラインとか、そよのものよりずっと太くてたくましい首だとか、自然な感じののどぼとけとか。
そういうものに、そよは一瞬みとれる。
――おとなの、男の人だな。
私は、この人のよこがおを見てるのが、好き。
だって、この人に正面から見られたら――この、強いまなざしに、見つめられたら。
うごけなくなって、しまうもの。
そよは思い、彼の横顔を眺めた。
ああ、まつげの影ができてる。瞳のうえにかかる、ちょっとだけくせのあるねこっ毛が、光に輝いている。
胸を、ぎゅっとしめつけられるような感触がした。
あ、また。この人といると、時々あたまの中がまっしろになる。
この瞬間もこの人も、このまますべて永久に保存して、わたしのものにしてしまえたらいいのに。
なに、かんがえてるんだろう。自分でもよくわからないことを思う。
わからないけど―――なにか、あたたかいものが胸をせりあがってくるのは、わかる。
思いが、あふれてしまいそう。
「何でもありませんよ」
彼が、静かにそう口にする。
「…おしごとの、ことですか?」
そよが問うと、土方は視線をあげて微笑った。
これが、仕事ですから。
そう言った穏やかなこえが、からだ中にひろがっていく。息をするのもわすれた。
その目が、あんまりやさしすぎて。
視線をそらすことなんて、できなかった。
――やっぱり、この目が。
いろんなことを見てきたような、ちいさな宇宙にも似た、ふかい色をした、この目が、私はすごく―――。
すき。
唇が動いてしまった気がして、そよは目を丸くした。とっさに両手で口をおさえる。
「そよ様?」
土方が怪訝な顔をしていた。
よかった。きづかれてない。こころの底から安心する。
その目を見つめていられなくて、そよは下を向いた。
指をはなせば、再び気持ちがあふれてしまいそうで、そよは口元を覆って、ふるふると首を振る。
こわい、よ。
気遣わしげな土方に、うつむいたまま必死で首をふった。息がくるしい。涙目になっているのが自分でもわかる。
――どうしよう。
口から、瞳から、すきがこぼれておちてしまいそう。
困ったな。
そよ姫の唇が間違いなくその二文字を形作った瞬間、まず土方の頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
見てはいけないものを見てしまった感覚だった。自分でも躯がこわばったのが分かる程だ。
彼女はその大きな目を一層丸くしたかと思うと顔を伏せて、ああ、無意識だったんだな、と悟る。心配かけまいと懸命に首を横に振るそよの姿を可哀想に思った。
それと同時に、気付かなかったふりを心に決める。
予想外といえば予想外―――だが、薄々感づいてもいたことだった。なんて言ったら、自惚れているみたいだが。
困った、な。
耳まで真っ赤にしている少女を見下ろし、胸が痛んだ。泣かせちまったか。
悪い、な、姫さん。俺のせいで、不毛な片想いをさせて。
心の中で嘆息する。だけどな、無理なんだよ、俺たちは―――。何より、現実的じゃないだろ。
だからごめん――ごめんな。見なかったことにする。
今、すごく苦しいんだろうな。思うと、抱き寄せてやれたらどんなにいいか、痛感した。
だけど、苦しいのなんて今だけだ。
あんたはきっといつか、俺のことなんか忘れる。
忘れて、つりあいの取れた男のところにでも嫁にいくんだろう。今は苦しくても、いずれ時間が解決する。そういうものなんだって、過去のいくつかの経験からはっきりと言える。
ふと、自分自身にも言い聞かせているみたいで、ひっそりと笑うほかなかった。
知らないふり、なんてな。ずるい大人だ、俺も。
だけど、その思いに応えてしまったら―――きっと、引き返せなくなる。俺はあんたを、手放したくなくなる。純真無垢なあんたを言いくるめて、手の中に閉じ込めるなんて、俺には簡単なんだぜ。
だけど、そんなところに幸せなんかないと、分かっている。
こんな時は、長くは続かない。
幸せな夢は、続いちゃいけねえんだよ。
時刻は四時を回りました、ジェイウェブ、今日のスタジオは...明るいばかりの女の声がカーラジオから垂れ流されている。DJの陽気さはわざとらしさすら感じられ、キンキンとうるさく耳について、土方はあからさまに眉をひそめた。
「…総悟。消せ」
車の、昼間じゅうぶんに熱されたボンネットに寄りかかり、土方は不機嫌に呟く。黒い車体が夕暮れの光を反射してまぶしい。
「いやですねィ」
総悟はそう言って、後ろに倒したシートにからだを預けた。手前の方が近いだろうがよ、と土方が毒づくのも気にした様子もなく、総悟はそのまま、たぬき寝入りを始める。
うちすてられて久しい埠頭に人影はなく、ラジオの声だけが空と海の間に吸い込まれていった。くさりかけた帆布や、もやい綱が無造作に積みあげらているのを眺め、そよ姫の前では吸えない煙草を、思い切り吸い込んだ。―――あの馬鹿、メンソール買ってきやがった。HOPE、ね。にあわねえなと、今さらだがパッケージを見ながら思う。
江戸はかつて、最大の港を有していたという。天人がやってきて、もはや埠頭は意味をなさなくなった。今はむかし、だな、本当に。
沈んでいく夕陽の名残りがいまだに海の果てにある。オレンジ色の光の粒が紺碧の海にきらきらと輝いて見えた。刻一刻と変わっていくようで本当は変わらない海と、そうは見えないのに変化しつづける空とが不思議なくらいに調和して存在している。こういう時に、空と海が交わらないことを理解する。
ふと視線を落とした――黒い地面。艶めいた冷めた女の歌がかんに障る。
「…総悟。やっぱり消せ」
ちりちりと頭の奥が焼かれる感触がして、低く言った。
いらつく、な―――まったく、どうしてこう。
「荒れてますねィ」
静かな声。総悟が薄目を開けてこっちを見ている。誰のせいだと思ってやがる。
「言いてえことがあるなら、はやく言え」
「その言葉、そのまんまお返ししまさぁ」
何、と返しかけて、その先に続いた台詞に絶句した。
「姫さんに言いてえ事があるんじゃないんですかィ」
胸の奥の、いちばん深いところにいきなり手をつっこまれて、かきまわされているような気分だった。―――うるせえ、とボンネットを殴りつけたい衝動に駆られ、自分でぎょっとする。
今、おれ、すごい顔を、しているんだろうな。
「そうやっておさえつけるから、いらいらするんじゃないんですかィ。あんたは、感情を逃がすのに慣れてないから」
総悟は動じる様子もなく、淡々としている。
こいつ、何?――なんなんだ、一体。
おさえる以外、どうしろっていうんだよ―――違いすぎるんだよ、色んなものが。
あの子の、笑顔を見るのが好きだ。ふとした瞬間、裏もなく、媚びもせず、怯えることもしないで、ただ、うれしいと素のままの感情をあらわにする。そういうとき、ああ、この子は違う、と思う。
もはや自分がとっくに失ってしまったものを、この子は持っている、と、そんな風に感じる。たぶん、もう絶対に得られない何かを持つ、この子を見ていることが好きなのだと。
何人もの女と付き合ったし、傍におきたい女――もう死んだか――も、いないわけじゃなかった。
ただ、そんな、大切にしたいだけの存在なんか出会ったことがなかった。
生き方は、どうしたって変えられねえし、だから守りようもない約束もいくつも交わし、いくつも裏切った。まともに生きることが、できるわけがない。ましてや、命の保障なんか期待していない。
最前線に、いるんだぜ、俺たちは――辿りつく先に、おそらく安息などないんだろう。
「姫さん、見合いを断ったそうですぜ。けなげじゃねぇですか、どっかの誰かと違ってさァ」
総悟が何気なくあてこする。――いつもそうだが、今日は一段と絡むな。仕方のないこと、なのかもしれねえな。もうこの世の人ではないあの女を思えば。
「…言わねえよ」
黒い地面を踏みしめる。ずいぶんと昔に、道は決めている。
「…なんでもするだろ、近藤さんのためなら、俺たちは――」
頬に痛いほどの視線を感じた。望むと、望まざるとに関わらず、引き返せないんだろう。それはきっと、近藤さんも同じで、それなら目的地なんざ、あってもなくても変わらない。
あの人がいるなら、それも構わないと思う。それであの子を、泣かせたって―――さびしさを紛らわすように、彼女をなぐさみものにするよりは、ずっといいだろ。
ぽつりと、呟く声がした。
「…ばかマヨラ」
「何だ、それ」
「ばーか」
「…手前なあ」
長い溜息とともに、煙を吐き出す。このごろは煙草の減りがはやい。
「あんたみたいな人が、ある日ブチッと野性にかえるんですぜィ」
総悟がそんなことを口にした瞬間だった。武装警察真選組、応答せよ、機械を通してくぐもった声がレシーバーから漏れる。税関で爆発物が発見されたらしい。軽く舌打ちをした。あの高杉が江戸に入ったという噂もある。吸いかけの煙草を捨てて靴の裏で踏み消すと、銀色のドアレバーを乱暴に掴んだ。長身を押し込んだ拍子に車体が揺れる。うなるようなエンジンの音にラジオは掻き消された。総悟の革靴がアクセルを踏み込む。
もうとっくに、帰れねえところまで来ちまってるんだよ。
江戸は街全体が路地裏のように湿っていて、油断を許さない。一度迷い込んだら戻って来れないようにできてる。
そんな場所に、根をはっちまってるんだ。
戻りたいだなんて、絶対に言わない。
「土方さんは、そんな人ではありません」
そよは毅然と言い切って、家臣らを見まわす。居ならぶ彼らは壮年から老年にも近い。そのしわだらけの顔にはみなおなじように、困った、と書いてあった。
私が、一度いいだしたら聞かないって、知ってるから。
無理をいえば、また城をぬけだしかねない―――しかも今は、そよをうけいれてくれる友達もいる。
おもい、そよは唇をかむ。不穏な噂――真選組に関する、悪い噂が城下に広まっているという。内容もきいたが、もう思い出したくもない。
それで、家臣らは彼らにそよの護衛をさせておくことが不安になったのだろう。真選組の任をとく、といった。
ほんとうであるはずなんか、ない。彼らを目の前に見て、話して、触れあえば、そんなものは根も葉もない噂だとすぐにわかるのに。実際、そよは彼らがどれほど任務に誠実で、真摯であるかをしっている。
それがなぜ、家臣らにはわからない。姫様、と子供を諭すような口調にうんざりして、そよは開け放たれた障子の向こうを見た。
自然に見えるよう一分の乱れもなく整えられた庭と、そのうえに広がる透きとおるような青い空。朝の弱弱しい光が縁側におちて、うずくまっている。―――今日も、あたたかい日になる。城下ではきっと、洗濯物が白くかがやくような。
そうやって、なにげなく続く日常がいちばん大切なんだとおもう。
―あの人に、会えなくなるなんて。
ともすればこぼれてしまいそうな思いと、それをどうにかおさえようとする心と、―――全部言ってしまいたいような衝動と。
そうやって少しずつ、普通の女の子に近付いていってる気がする。あの人が、私にくれたもの。
そよは目をふせ、膝においた手の甲を見つめる。指の爪がにじんで見えなくなっていく。
泣いてしまいそうだった。――あの人に、会えなくなることを考えるだけで。
あの人に出会って、私、涙もろくなった。ああ、これも、あなたがくれたものなんだ。
張りつめた空気が耐えきれない。そよは涙がこぼれてしまわないようにこらえながら、す、と立ち上がった。
胸がいたい。のどが苦しくて、息もできない。
流せない涙がおなかの中にたまって、海をつくっているみたい。ふえていく涙が胸にみちて、肺まであふれてしまったら、私はきっと、死んでしまう―――。そよは口をひきむすんで、襖を開けた。
考えただけで、こんなにもくるしい。うつむいたまま、座敷をすぎる。そよの部屋には、そよの味方がいるはずだった。つい最近、役についたばかりの侍女だけれども不思議と気があった。
あの子、に―――また子に聞いてもらえなければ、息もできなくなってしまいそう。
不穏な噂がある、と上の人間から言われた時は、随分と唐突だな、と思った。内容としては極めて稚拙な出来で、根拠も何もあったもんじゃないが、どうやら相当に流布しているらしかった。
奇妙なのは、内容の割りに真選組の情報網に引っかからないように広がっていることだった。まるで、誰かが故意に流しているような、そう言ったら上は、おそらくそうなのだろう、と苦い顔をした。
なお悪いのは―――真選組よりも先に、御庭番の連中がそれを拾ってしまったことだ。投げ文だ、と上が言った。
何者かが、真選組の失脚を狙っている、か。いやむしろ、近藤さんの、というべきなんだろうか。
どちらにしろ無視はできない、考えながら土方は火をつけていない煙草を右手の人差し指と中指に挟んでもてあそんだ。椅子に背を預け、片付けた書類の束の上に、障子の隙間から降り注いだ朝日が一筋落ちるのをぼんやりと眺めていた。
結局、徹夜しちまったな。今日はあの姫さんの護衛をする日だってのに、厄介だ。
最初、怖がらせたんだよな、この目が―――。
自分では、本当に無自覚だったんだが。
思い、小さく嘆息して、それでも誰かに、たとえば山崎なんかに代理で行ってもらおうという気すら起きないことに驚く。
―――いやそれ依然に、怖がらせたくないとか、考えていやがる。
とうとう本格的にいかれてきてんな、おれも。
土方は笑って、書類の山に手を延ばす。軽くまさぐると、やっぱり紙の中に冷たい感触がした。――ジッポ。いつか、どっかの女がくれたんじゃなかったか?
駄目だ、思い出せねえ。刀をデザイン的にほどこしたそれは、サムライとかいう名前だった気がする。そんなことは思うものの、肝心の女の顔も名前も、どうしてもらったんだかも覚えていない。
ひどい、男だな。
大概、自覚しちゃいるが。今も使っているのも、ただ単にその用途となかなかオイルが切れないというだけで、何の思い入れもない。たぶん、オイルがなくなっても入れ替えることはねえな、めんどくせえ。
ふ、と煙を吐き出して、笑う。不健康極まりないが、朝の煙草はうまい。煙が光に帯を引いて、ほどけて滲み、消えていく。柔らかな光に、塵が輝いているのを見つめた。土方が息を吐くごとに、光の粒子はふるえて流れ、影の中に入ってしまう。
あの子だけは、大切にしたいと思う―――だから彼女の思いには、応えない。
それが、あの子のためだろ。そんなことを、ぼうっと考える。
ああ、やっぱ眠いな。目蓋が重い。眉間のあたりに、鈍い倦怠感があった。もういい年だしな、感情のコントロールくらいできるつもりだったが―――。
どうしたもんだかな。
視線を机の縁に走らせた。古びて欠けたそこに弱く、光が差している。
朝飯だと呼びに来るまで、しばらくずっと、そうしていた。
城に行くと、元々ぞんざいだった扱いが一層ひどくなっていて辟易した。前から歓迎されている風ではなかったが、今や明らかに疎んじている感じすらある。
あの噂のせいだな。
思うと、妙に腹が立った。姫さんまで沈みがちだから尚更だ。この子の前では煙草も舌打ちもご法度だから、こっそりと溜息をつくしかない。
姫さんは手紙を書く手を止めて、庭をぼんやりと見ているみたいだった。その思案する横顔がどこか悲しげで、そんな表情がきれいで色っぽくて―――、ああ俺、本当に終わってんな、と思う。
藍の藤袴の背筋の伸びた小さな背中や、思いついたように筆を取る時にのぞくうなじや。畳の上につくかつかないか微妙な長さで揺れる髪とか、ときどき見える、手の柔らかな雰囲気とか。いくら見ても飽き足らないらしい。
そんな自分がおかしくもあり、そこに危機感を覚えない自分を、ちらっとやばいなと思う。総悟の言葉が頭をよぎり、馬鹿な、と打ち消した。
「あ」
小さな声が耳朶から入り込み、土方は彼女の視線の先を追った。陽だまりの縁側に、ぽつぽつと黒い斑点ができていく。
天気雨か。
「…狐の嫁入り」
そよが嬉しげに呟いた。青空から水滴が落ちて、庭の緑を濡らした。
「閉めましょうか」
そう言って立ち上がると、姫さんが、
「私が」
と、障子に歩みよった。そういうわけにも、いかないんだがな。
二人の距離が近付いて、ふ、と視線が合った。
そんな縁側の傍にいたら、雨に当たるだろうに。それがなんだか惜しい気がした時、姫さんが無表情に口を開いた。
「…土方さん」
「なんですか?」
つとめて静かに問う。頼りになる、大人のふりをして。
「私、聞いただけなのですけど…」
噂のことだな、と見当をつけた。
「土方さんって、たくさんの女の人とお付き合いしてたって、本当ですか?」
…は?おれは思わず絶句した。頭が真っ白になる。
今、なんて…。
「私の、侍女から聞いたんですけど…!」
姫さんは俯いてしまう。
頭が、くらくらするな。まったく、どこからそんな情報を仕入れてきやがる。侍女とやらの顔が見てえ。
「それで…、気になって、しまって…っ」
土方は目を見開いた。声、が上ずっている…?
――おい、姫さん。それは、好きだ好きだと言っているようなもんだぜ?
「…そよ様…?」
そよは肩をびくっとふるわせると、少しだけ上を向いた。耳まで赤くして、潤んだ瞳を細めて、それでもぐっとこらえるようにして、泣いていた。赤みを帯びた頬に、幾筋もの涙の跡があった。
それを目にした瞬間、あ、やべ、と思った。
理性、とんだ。
土方はそよの白い手を掴んで、問答無用に引き寄せる。目を丸くしたそよが見えたが、衝動は止められない。小さな肩を抱きしめ、自分の身体で覆う。腕に力を込めて、彼女の身体が離れないようにした。
―――ああ、とうとう、やっちまった…。思うが、後悔はなかった。彼女の身体があたたかくて、こうしてくっついていると熱がじかに伝わって、不思議と安心した。焚き染めている香の匂いや、黒い髪の匂い――彼女の匂いをかぐ。
胸に満ちる、幸福がある。
好きだ、なんてとても言えなかった。愛しているも、違う気がした。愛しいとかそんな言葉以上の、感情だった。大切、だって厳密にいえば違う。
こんな感情、全部ひっくるめた言葉なんか、あるわけねえだろ。
胸を圧迫するような苦しさがあった。熱い息の下で、ようやく吐き出す。
「…本当です」
声がかすれていた。もう、それ以上は続けることはできなかった。
あなたは違う、だなんて、そうやって当然のように甘い言葉で口説いていくのはずるいような気がした。だから、何も言えない。
姫さんは、微動だにしなかった。本当にぴくりとも動かず、その沈黙が怖い。
信じてください、と口をついて出そうになって、ようやく押し止める。このおれが、女に請うなんてな。笑える。彼女の気持ちなんざ、知っているはずだろうに。
なあ、姫さん、どうやらおれは、あんたに好かれている自信すら失うほど、あんたにまいってるらしい―――。この、俺が。まったく、年甲斐もねえよな。
しばらくすると、おずおずと背中に手を回され、ぽんぽん、と優しく叩かれた。
励まされてる、な。泣いてたのは、向こうの方なのに。
無性におかしくなって、土方はそよの頭に鼻をうずめた。腕をかすかにずらし、再びぎゅっと抱きしめる。長い髪を、右手の指先で漉くように撫でた。
まずいな。俺、この子を守るためになんでもしちまいそうだ―――。そんな、今さらといえば今さらなことを思う。もう、お手上げなんだよ、こうなっちまうと、どうしても―――。
腕がしびれて、痛くなってしまっても、俺はまだ彼女を離せずにいた。
もう、取り戻せない――そんなふうに思っていたものに、触れたような気がした。
どうしよう。そよは文机のうえに手を組んで、ぼんやりと日の当たる縁側を眺めていた。
また子から聞いた言葉が、あたまのなかをぐるぐるとまわっていた。
たしかに、顔もととのっているし、背もたかいし、女の人にもてそうではある、けど、そんな、手当たりしだいにつきあうなんてことを、するような人じゃない、と、思う…。むしろ、そうだと信じたい、に近いような気もする。
真選組に関するわるい噂も気にはなってる。だけど、もとは根も葉もない噂なのだろうし、なにより、彼らの実力がそんな風評を凌駕する。
――また子のことも、信じたい、だけど…。
あの子は、根拠のないことを口にするタイプじゃないと思う。やっぱり、本当なんだろうか、でも、あの人はもっと誠実な人だって、思うの。
聞いてみたい、だけど、本当だって言われたら、きっと立ち直れないわ…。
それに、と、そよは息をついた。私の問いは、あの人にとって逆らいがたい命令になってしまう。そうしてえられた答えは、たぶん、そよにとって意味がない。命令でないといったところで、きっとその言葉は通じないだろう…。
身分の距離が、じゃない、この言葉の距離が、つらい。
そしてまた、そよは姫でしかあれない自分を知っている。変な話、したて、に出ることは―――お願いをすることは―――今まできずきあげた色んなものを、崩してしまうだろう。それは、今、あの人とのあいだにあるものも例外じゃない。プライド、とかじゃなく、立場のうえに成り立つ関係であるかぎり、そよは主で、土方は護衛なのだから。
あの人を、すきでいることは間違ったことなの?でも、この気持ちをどうやって止められる?
そよがそんなことを考えている時に当の土方がやってきたものだから、そよはあわてて文机のうえに紙と硯を広げた。
こんな気持ちじゃ、かおなんか見れない…。
うつむいて、手紙を書くふりをする。あ、だめ、あの人の気配が、うしろでする。胸がくるしい。息ができない。
すべて紙のうえにぶちまけてみたら、すっきりどころか、かえって悲しくなってきてしまう。
こんなことを考えてる自分がみにくく思える。いたたまれなくて、紙が視界に入らないように再び庭の方を見た。
ちちちちち、と鳥が鳴きながら遠くへ飛んでいく声がした。そら、きれい。きっと、あんなそらを飛ぶのは気持ちいいんだろう。鳥が死ぬことを落ちるというけど、たぶん地面じゃなくて、あの青空に吸い込まれて、落ちていくんだとおもう。
そんなふうにふわふわと思考をただよわせていると、急に目の前をしろく、線がながれた。縁側の木目にしみをつくった。
「狐の嫁入り」
呟くと、応じる声がある。
「閉めましょうか」
そのくらいは、できるわ。
思い、ちょっとむっとして、私が、と立ち上がった。
障子の前で、ふ、と目が合う。
彼の瞳に、そらの光がうつっていた。―――きれい。
だけど、この人はときどき、すごく不思議な色の目をする。もともとふかい色をまたふかくして、やさしい、というよりもずっとほっとするような、胸をしめつけられるような、そんな感情をひきおこす色になる。
今も、そんな、目をして私を見ている。なんだか見透かされるようで、たえられなくて、そよは目をふせた。
―――もう、限界―――、ぜんぶ、終わりにしてしまえばいい。
あなたはなんて答えるんだろう?知りたいけど、知りたくなんかない。…だけどもう、終わりにしたい――こんなおもい、は、つらすぎて。
「土方さん」
語尾がふるえる――。言っちゃ、だめだ。終わらせたら、会えなくなる。いままでの関係もなにもかも、壊れてしまう。
「なんですか?」
冷静な声――腹立たしいくらい、この人は大人だ。
そう思った瞬間、言葉が口からこぼれだしてしまっていた。
「私、聞いただけなのですけど、土方さんってたくさんの女の人とおつきあいしてたってほんとうですか?」
ああ、だめ、終わった――おねがい、うそだと言って――。そうしたら、私はきっと、あなたの言葉を信じられる。
「…私の、侍女からきいたんですけど…!それで…、気に、なって…っ」
あとはもう、言葉なんかでてこなかった。のどからなにか鋭いものがでてきてるみたいに息苦しくて、いたい。
どうしよう、泣きそう…。泣きたくなんか、ないのに―――視界が、どんどんかすんでいく。
「…そよ様…?」
なだめるように、呼びかけられる。かおを、あげられない―――あの目を、見ることができないから。
そのとき、だった。障子にかけていた指を、つかまれる。そのまま、びっくりしているあいだに視界が真っ黒になった。
背中をひきよせられ、ものすごい力でだきしめられる。痛い、くらいに。
何―――これ?どういうことなの?
いったい、なんなんですか、そう聞こうとしたけれども、そのためには息を吸わなきゃならなくて、顔を彼の胸におしつけられている今、呼吸なんてとてもできなくて、なんにも言えない。
「…本当です」
あたまのうえからそんな言葉が聞こえて、絶望的な気分になる。頭のなかが、がんがんと痛くて、だけど、この状態がわからない。どうしてこんな、抱きしめたり、するんですか?聞きたいけど、もがいても私程度のちからじゃ、この人の腕をふりほどけない。
からだがあつい――ふれあった場所から震動がつたわって、そよは目を見開いた。
ふるえて、いるの?あなたみたいな―――大人で、つよい人が?
うそ、で、しょう?…いま、わかった――。
それは、奇妙な感覚だった。自分のすきなひとが、自分の目の前で、恋をしている―――わたし、に、恋をしている。
いつだって、恋に恋をしていた。兄の友人や、乳兄弟や、いつも相手のいる人にばかり、片思いしていた。
こんな、ふうにふりむいてもらえる日が、来るなんて考えたこともなかった――。
それなのに、今、好きな人の腕のなかに、いる。かなわない恋だって――いつまでも、手の届かない大人で、きっとこの距離は埋まらないんだって、思ってたのに。
ちいさなふるえは、きっと、こうして触れあっていなければわからなかった。
ねえ、あなたも私に恋をしていたの?ときどきぼうっとしたそぶりを見せたのは、あなたも、私の前であたまがまっしろになっていたから――?あなたも、こわかったの?
思うと、もう駄目だった。私の手じゃ、小さすぎて、子供すぎるって―――だけど、この人を守りたい、だなんて願ってしまう。
だから、彼のおおきな背中に、できるかぎりいっぱいに手をのばした。そうして、そのふるえる背中を、ぽん、ぽん、とたたいた。昔、母様が、私にやってくれたみたいに。
すると、彼はもう一度私を抱きしめなおし――まるで一番そうしやすい場所を探す子供みたいに、ここちいいように腕をずらした。あたまに、彼の吐息がかかって、熱い。この人の、煙草の匂いがする。
体温が伝わって、あたたかくて、気持ちいい。安心すると同時に、彼に身を寄せた。心臓のおとが聞こえている。
この感情を形容することばなんか、いらない。
守りたいなんて、きっとこの人にしか、感じることができないから。
結局、雨はそれから何日も降りつづいた。軒下からからだに響くような激しい雨の音を聞きながら、そよはおもう。
―――今日も明日も明後日も、あのひとがここにくる保証なんか、どこにもない、と。
習いごともおわったし、侍女らをよんであそびに興じたってよかった。むしろ、いつもならそうしていた、とおもう。
だけど、今日はどうしてもそんな気にはなれなかった。今日はあの人はくるんだろうか、そんなことを、思って、気づいてしまった…。
ぼんやりと文机のうえに腕をのせて、顔をふせた。どうしてなんだろう、一人になったとたんに、片思いにもどってしまうみたい。一緒にいるときは、ただそれだけでしあわせなのに―――しあわせに、なれちゃったのかな。片思いのころよりも、今のほうが、ずっと不安な気がする。どうして、なんだろう。
あの人の仕事が不定期なのだって、わかってたこと、なのに。たえきれずに息をはいて、その熱さに自分でおどろいた。―――みじめ、だ、なぁ…。
なんとなく、泣きたいような気がした。だけど、泣いてしまうわけにはいかなかった。
私は、あの人がくれるしあわせを、自分の気持ちを、信じていたい。あの人といたいから、だから、せめて自分の荷物くらいは自分で持てるように、なりたい。あの人を、だれより大切におもう気持ちにうそはないから。
もしかしたら、きっと嘘ばっかりうまくなって、傷つけて傷ついて、後悔することになるんだとしても。
あの人が、すきだからいいの。
そよは涙を流してしまわないように口をかみしめて、息をとめた。涙は、こころをくじけさせてしまう。邪魔な涙なんか、ぜんぶ飲み込んでしまえばいいわ。―――だからどうか、今日もあの人が、きてくれますように。
昼を少し過ぎたくらいどというのに、雨戸をさした部屋のなかは薄暗かった。雨どいからつたった水が、土を叩く音が絶えまなくしていて、――うるせえな、彼女の声をかき消しちまう、と土方はぼんやりと考えていた。昼間なのにろくに気温もあがりゃしねえで、ずいぶんと冷えて、もともと白い肌がまた白く見えてしまうのは、気のせいだろうか―――いや、気の迷い、と、いうべきかもしれねえな。
「ひじかたさん、それでね…」
真向かいに座った彼女が、わらう。笑いながら、昨日あったできごとを語っている。
あの日から、数日が立っていた。おれと彼女の距離は、ほとんど変わらない――――まぁ当然といえば、当然、だろ。
ふ、と、姫さんが黒目がちの瞳をあげ、軽くおれをにらんだ。
「…きいてます?」
その様子がおかしくて、笑った。
「聞いてます」
もう、と姫さんはすねたように呟いた。こういう、瞬間に、微笑んでいる自分を発見する。―――おれも大概、終わってる、とか分かりきったことを思う。
その時、ぱっと周囲が光った。次に、がらがらと耳障りな音が腹の底を打った。雷、か。
姫さんがちいさく叫ぶ声が聞こえたと思うと、なにか、に飛び付かれたような感じがした。胸のあたりをつかまれていて、あたたくて柔らかい。彼女、の、匂いがする。おれは苦笑して、姫さんを見下ろした。
「…そよ様?」
姫さんは、はっとしたように顔をあげて、顔をあからめた。
「…ごめんなさい」
雷が、苦手なのか。意外なような、妙に納得できるような気がした。そういえば、この子の口から、苦手なものや嫌いなことの話が出たことがなかったな、と思い返す。おれが護衛にくるようになってから、いつも、楽しいことや好きなものの話ばかりしていた。
すぐにつかんだ指が離れてくような感触がして、おれは逆に姫さんをかかえこむようにその小さな背中に腕を回した。体勢がきびしかったので、左手を畳に付いて足を崩し、足を開いてそのあいだに彼女をおくことにした。―――自制心、もつのか、この距離は。
ひじかたさん、と小さく呼ぶ声が腕の中からした。
「…なんですか?」
応じて、その額にかかった髪を指先でのけた。困惑をあらわにしたような表情の姫さんを見て、ああ、こりゃもつわけねえな、と、そんなことを思い、せっかくだから全部言ってみることにした。
「…あなたは、城の中の世界しか知らない。今まで、その視野の狭さにつけこむのは、色んな意味で、どうかと思ってたんですが」
姫さんは目をまんまるにして聞いていた。
「…でも、まぁ仕方ねえな、と」
あんたを大切にしたい気持ちが、変わったわけじゃ、ないんだが。なんだかな、―――前とは少し、自分の中で何か、が変わったらしい。間違ってるとか、そういうのじゃなく、自然のなりゆきってやつなんだろ、きっと。
なに、が、ときょとんとして聞いてくる姫さんに、ふと気が向いて、彼女の後頭部をつかんで引き寄せた。まぶたのうえに唇をおとす。
しばらくそのままでいると、腕の中で姫さんがかたまっているのが分かった。―――煙草の匂い、残っちまうかな。顔をはなすと、姫さんは真っ赤になっておれを見上げていた。そういうところが、かわいいと思う。おれの行動のひとつひとつに、はっきりと反応を返す。愛しくならないわけがない。おれはつい笑ってしまった。
「…人が来たら、どうするんです…っ」
そう、きたか。
「来るかもしれませんね」
言うと、姫さんはおれをじとっと見る。
「…なんですか?」
また、おれは笑ってしまう。
「…土方さんって、なに考えてるんだか全然わかんない!」
箍がはずれたもんで、とおれはうつむいて、笑った。彼女の頭に鼻先をよせた。箍と一緒に、ネジの数本も飛んでそうだな、これは。
たが、と、姫さんは繰り返したかと思うと、唐突に首をあげた。耳まであかくして、おれをねめつけた。
「土方さんといると、ちっとも安心できなくて、いや」
あぁ、なるほど、ね、とおれは笑う。
「泣かないってきめたのに…」
おれは、姫さんの目がかすかに光っているのに気付いた。両目いっぱいに涙をためて、それでも泣くまいとしているらしい彼女を目にして、おれは思わず、泣けばいいのに、と、呟いていた。
あんたに、感情を殺すなんてまねは、させたくねえな。たぶん―――する必要ないだろ、まだ。
聞こえていたのか、姫さんは、大きな瞳でおれをにらんだ。
「…ひじかたさんは、大人だから、いつだって余裕なのね」
その言葉を耳にして、ひんやりと、頭のどこかが冷えていった。――まさかおれに、嫌味を言うとは、ね。
―――なぁ、姫さん、それ、本気で言ってるのか?おれに、何も怖いもんがないとでも?
思うと、知らず、手に力がはいっていた。再び彼女に、顔を近付ける。今度は、口、に。
くちとくちとが、触れ合うか、触れ合わないかぎりぎりのところで、彼女がその大きな目を丸くしているのが見えた。それを見て、やっと我に返った。―――怖がらせた、か…?
顔の位置をずらして彼女の目のしたに、そっとキスをした。ついにこぼれてしまった涙の味がして、やっぱり自制心はもたなかったな、と自嘲気味に思う。
唇をはなすと、じっと彼女を見つめた。姫さんはびっくりした顔のまんまで、自分が泣いてしまっていることにも気づいていないらしい。そんな姫さんの様子に胸が痛んだ。姫さんが、微かに口を動かす。
「……びっくり、した…、今…」
いま、の後が続かなかった。姫さんが下を向いてしまって、気まずい沈黙が流れる。―――怖がらせて、ごめん、な。
おれは困って、右手で彼女の髪に触れて、指先ですいた。どうにかならねえかな、この間、が。
何度目か、おれの指が髪を撫でたとき、彼女はふと顔をあげた。もう泣いていない。そういえば、と何もなかったかのように明るい声で言った。
「…この前、兄上からお菓子をいただいたんです。それで、おいしかったから、ひじかたさんにもあげたいなって」
姫さんは言いながら、衣のなかから、小さな花霞の袋を取り出した。それを開けて、ちいさな指でもっと小さな丸い菓子をつまんで、おれの顔のまえまで持ってくる。ひじかたさん、と呼んで、わらった。
「くち、開けて」
仲直りってところか。かなわねえな、と、おれは苦笑した。
「…甘…」
おれがそう呟くと、彼女はくすくすと楽しそうに、そういうお菓子だもの、とわらった。その笑顔を見て、おれは単純に、安心していた。
屯所に帰ると、なんだか騒然とした気配が漂っていた。おれは眉をひそめ、近藤さんに何事か尋ねようとその部屋に足を向けるとその前で総悟に会った。
「ちょうど良かった。今、土方さんを呼びに行かせようとしてたとこでさァ」
その声が、やけに弾んでいる。―――なにか、起きたな。テロか、あるいは―――
「何か出たのか?」
懐の煙草を探る。良くない予感があった。
「大物ですぜィ」
おれが煙草に火をつけながら、桂か、と問うと、総悟はにやりと笑った。
「高杉が江戸に潜んでるそうでさァ。…おもしろいことになりやすねィ」
それで、この騒ぎね…。仕事が増えるな、と思う一方で、面白いと笑いたくなる自分がいる。やっぱり、そういう現場が、一番性にあっているらしい。
すぐに近藤さんと一緒に警察庁に向かい、高杉捕縛の命を受けた。普段どおりの副長の仕事の上に、攘夷派、特に高杉についての情報の収集と取捨選択、上への報告が重なり、おれは完全に忙殺されることになった。
気づけば、連日降り続いていた雨も、この日を最後に止んでいた。過剰労働の中、城で姫さんの護衛をする時間も当然のように失われていった。
思えば、おれはあの時、あの子がまだ16歳の少女であることを、すっかり忘れていた。
幸せに慣れてしまっていたのは、おれの方だったのかもしれない。
おれがそれを悟ったのはその数週間後、ある晴れた日に、江戸城の奥向きで小さなぼやが起きたときだった。
その騒ぎに紛れ、姫さんは一人の侍女と共に、忽然と姿を消したのだった。
そよは、そっと隣に座りこんでいる男の横顔を見あげた。包帯を巻いた左側だから、男の表情は読めなかった。あかく照らされて、煙管をもった手の色がこくあかく見えた。くせのある髪の毛の先端がひかっている。この男を、こんな距離から観察している自分を不思議におもった。
高窓からおちた夕暮れの光がうずをまいて、ところどころけばんだ畳のうえにたまっていた。二人で何もするでもなく、ただ並んであかい空を眺めていた。あたまのうえから、かすかに機械のボイラーみたいな音がしている。この男の右側には煙草盆と、冷めかけた私がたてたお茶があって、この男は私が見つめているのにも、気づいているような、いないような、どうでも良さそうな感じがした。表情はわからないけれど、きっと、そんな顔をしているんだとおもう。
この男との間には微妙な距離があって、それはたぶん、この男が誰にもゆるさない非常に繊細な距離なのかもしれない。―――それとも、距離が必要なのは、私、なのかな。
この男を、こわいとはおもわなかった。この男も、私がそう思ってることを知ってる、ような気がする…。だから、こうして二人でいることをゆるしてるのかもしれない。―――言い切れる自信は、ないけど。
だけど、この男は誘拐犯で、テロリストだ。あの人が、追わなければならないくらいの犯罪者らしい。おもうと、そよはまたちょっと悲しい気持ちになる。―――心配、かけてる?それとも、私のうぬぼれ…?知らないうちに結んだ指先を見つめていた。
あの人の、匂い―――香や煙管よりもずっと、きつくて苦い煙草とか、たぶんあの人が元から持ってる匂いだとか―――、思い出す。あの人の感触が、腕に背中に、触れた場所中に、生なましくよみがえった。まるでそこから何かが感染したみたいに、触れたさきから感覚がするどくなっていったっけ。内臓をぎゅっとしぼられたみたいな気分に、なる。離れてても、こんなにも鮮やかで、なのに、どうして土方さんはここにいないんだろう?
ふ、と風がふいて、私は顔をあげた。
あ、お茶、飲んでる。
男は陶器の灰入れのうえに無造作に煙管を投げ出すと、茶碗にくちをつけていた。飲むなら、はやく飲めばよかったのに。
「…うまいな」
男はずいぶんとひさしぶりに口をきいた。つぶやくような、問いかけのようなおかしな響きだったけれど、私はおもったことを言う。
「冷めてなかったですか」
「冷めてたな」
「なら、もっとはやく飲めばいいのに」
男は口元だけでかすかにわらった。
「…熱すぎるのはだめなんでね」
ふうん、とうなずくと、そよはわらいながら、猫舌、とつぶやいた。男はそのことばに答えず、茶碗を置いた。飲みほされた茶碗のなかに、ミルク色ににた緑の泡と星空がのこっていた。この茶碗は、なんとなくこの男に似合わないような気がした。この男は、空、というよりもなんだか…。
でも、窯の火のなかでこの星空の模様ができると思うと、そうでもないのかな。夕焼けの、あかいあかい光がこの男にはよく似合う。
夜にちかづく空を焦がしてなお赤く燃え立ち、夜の藍にあらがって染まる紫の、辺りを照らす一瞬の光―――昼はうしなわれて久しく、夜は限りなく近く、今も失っていく過程にある、一瞬のかがやき。
私、この男がきらいじゃない。
喪失、とは確かに何かの段階を踏んでいるのだと思う。感情には色もかたちもないけれど、そういうものにいつだって私たちはさいなまれ、痛めつけられ、時に抗いがたい衝動を引き起こして、私たちを苦しめる。
だけど、思い出すときはいつも、終わっている。ふと気がついたならいつの間にか、時の輪は押し流されて崩れ、過ぎ去っている――――ただ、ゆっくり、ゆっくりと。
それこそが、何かを失うということなんだとおもっているけれど。
この男はずっと、同じ時の輪のなかををぐるぐると回っている、ように、見える。望んで、失っていく過程のなかで、とどまっているように。
そうしていれば、決定的に失わずにいられるのだろうか?
なんとなく、死んだ父様と母様のことがあたまをかすめた。
母様が亡くなったとき、そよはまだ小さくて、だけど、もう、母様には会えないってことは分かっていた。周りの大人たちは、まだ分からないものだと思って私に接したけれど―――そうだ、私は悲しいってことが分かってもらえない事実が、何よりもつらかった。
かわいそうだね、って誰かに目を見て言ってほしかった。かわいそうに、って言う感情は、すごく優しいものだと思うから。
誰かがつらい思いをしてるとして、自分がその立場だったらつらいだろうなって思いやって言うのが、かわいそうに、って言葉なんだと、思う。そよは、誰かがそんなふうに自分のことについて思いを巡らしている、そのこと自体がすごくうれしいことだと感じていた。その状況に置かれてる、当の本人にしかたぶん、本当の気持ちは分からないんだとしても。
結局は、子供の、ただの感傷にすぎないんだと知ってはいるけど。
「どうして、ここに私を連れてきたんですか」
くちをついて出た疑問に、私がおどろいた。男は煙管を持ったままで、こちらを振り向いた。片目が、夕暮れのあかい色を映している。
「私じゃなくても、たくさんの人が、いるのに。夕日を、みるなら……」
…あ、今、私、ひどいことを、言った。この人は何も答えないけど。分からないけど、そんな気がする…。違う、私は、実感として知ってる――――どんなに多くの人を従わせることができても、ひとり、なんだということを。
私がことばに困っていると、男は、に、と笑った。
「鬼兵隊で暇なのは、俺ぐらいなものだからな…」
――この男が、首領なんじゃ、なかったっけ。
「…暇なんですか」
男はすずしい顔でこたえた。
「最近は部下が優秀でね」
その言葉に、そよは思わず、わらってしまう。―――こういう、ところが、すごくうまいんだな。
男は、それを見届けるとすこし微笑い、また空を見上げた。包帯の横顔―――どうして、包帯をしているんだろう。あんな場所に巻いてるってことは、考えたくないけど、やっぱり、目が見えないってことなんだろうか。隣で座っている男について、そんなことを考えた。
自分とは、違う匂いがしている。さっき立てたお茶の香りと、汗と、たぶんこの男が本来持っている匂いと。自分のものじゃないのに、違う存在をはっきりと感じるのに、なぜか、なじんだ。どうして、とか、考えるだけ、むだなんだろうとおもう。この男は、何を失ったのだろう。もしも同じものが見えたなら―――?
そよはそっと、左手をのばした。この空気なら、許されるような気がしていた。
左腕から、する、と袖が落ちる感触がした。手に神経が集中する。指先が、包帯に触れようとした、その時、に。
ぐ、と手首をつかまれて、胸がつぶされるような気が、した。あぁ、やっぱり、駄目なんだと絶望にも似た気持ちでおもう。
男は私を見て、目を細めて、笑った。その暗い、妙にぎらぎらした本能そのままという感じの笑みに、そよは慄然とした。自分の手首を見る。自分よりも明らかに屈強な、骨ばった男のその手が私を掴んでいる。男はいきなり私の手をひいた。
瞬きすら、忘れた。はっきりと、怖い、とおもう。反射的に手を自分のほうへひこうとしても、びくともしなかった。
そよの指先を口元までもってくると、男は笑みをつくったかたちで口を開き、歯で人差し指の爪の先を咬んだ。ぎ、と爪がきしんだ気がした。指に舌先が触れている。
皮膚に吐息のかかる感じがして、あつい。思わず身が、すくんだ。檻の中、獣と置き去りにされたみたいだ。そうじゃなきゃ、悪意ある人間に捕らえられた動物の気分―――逃れられない、ような。
男は笑い、笑ったままの瞳で、ほとんど震えそうになる私を眺めていた。
いや、と、勝手に声になった。
「…はなして」
その言葉が出ると同時に、唐突に、会いたい、と、おもった。
泣けばいいのに、と言った、あの人に、無性に会いたかった。
「離して…――私をここから、出して!」
男の目を見つめたまま、手さぐりで茶碗を右手で持って、振り上げた。その手も、あっさりと男の右手に捕らわれる。ぎし、という音が手首からした気がして、痛くて、私は茶碗を畳のうえに落としてしまった。
「…大したお姫様だなァ」
男はそう言って、くっくっと、顔を歪めて笑った。くやしくて、息があがっている。男は私の腕を離したけど、私を解放する気がないのは、明らかだった。
私は、泣かない。――――あの人に、会うまでは、決して泣かない。
ぎし、と耳元で音がして、そよは目をさました。誰、という声はふわふわとして、輪郭もはっきりしていなかった。月の光のなかで目をこらすと、ゆれる長い金の髪がみえた。やわらかい女らしい身体のラインがわかって、誰かを悟った。あぁ、お前、だったの。
「また子…」
呼ぶと、また子は苦笑して、傍にすわって私の前髪を手ですいた。薄い光がまた子の髪をおりていって、きれいだと思った。薄物をまとっただけのまた子は、困ったような顔で笑っていた。起きたっすか、という言葉に、私は微笑んで、その手を取った。
「…起きます…、手を貸してちょうだい」
言うと、また子はその言葉に従って、私の後頭部の下に手をいれた。城にいた頃と変わらない、あたたかい優しい手だった。
私はまだぼうっとした頭のまま、身を起こして蒲団に手をついた。それを見遣って、また子の手が離れていく。夜のにぶい空気のなかで、寝巻き一枚では、やっぱり寒い。それを察して、また子は何か羽織るものを持ってきて、私にかけてくれた。
お前には、見えるのね。こんな、薄暗いなかでも。
「ありがとう」
私がそう言うと、また子は驚いたように動きを止めた。
「…どうして、責めないんすか」
その声に、私は傍にかがんだまた子の、少し高い位置にある顔を見上げた。彼女の肩から落ちる髪に、光がなめらかに滑っていった。
「…私は浅はかだったと思う」
また子を正面から見つめた。声が、自然と低くなっていた。お前と話したことも、お前と過ごした時間も、楽しかったわ。
まるで自分のことみたいに私のために怒ったり笑ったりしてくれた。最初から他の人間とは違っていた。だから信じて、あの火事騒ぎのなかで黙って手をひかれていた。
お前の見てるものは、はじめから私や城の人間とは違っていたのに。
「その浅はかさを他人のせいにするほど、愚かになるつもりはありません」
また子の目が、一瞬見開かれて、ゆれた。
自分の肩にあるものを、簡単に忘れるほど、厚顔にはなってはならない、と思う。人々の手によって、城はなっているのだから。
―――生まれてから死ぬまで、きっと我々は、生活の苦労をしないだろう、その意味を忘れてはならない、と、兄上は言った。
人々が豆だらけのその手をあかぎれだらけにし、日々の食事の心配をし、寒さに凍え、身を寄せ合って暮らしていても、私は絹の着物を着ている。それは、彼らの辛苦の上に成り立っている。
それなら、彼らの望むと望まざるとに関わらず、私は祈らねばならないんだとおもう。国の安らかなことを、夏の暑さの過酷でないことを、冬の寒さの柔らかなことを、秋の実りのゆたかなことを、人々のささやかな暮らしが幸せであるよう。
実権を持たない施政府の、最後の砦―――それは、祈り、なのだと私はおもうから。これだけは、天人すらも奪いえない。
天を仰ぐような気持ちで城を見上げる人々の思いが、私を今日まで生かしてきた。そこにあるのは、長く平和な世を維持した徳川への祈りだ。だから天人は幕府を倒すことはない。この国の心を、倒すことはできない。
そよ姫、と、そう呼んだまた子に微笑んで応えた。
彼女は、笑ったような、怒っているような複雑な表情で、ぎゅっと眉を寄せて、泣き出しそうに見えた。そうして吐き出された声は、少しだけ震えていた。
「あなたは、晋助様に、似ている」
また子はもう一度笑うと、立ち上がって振り向くことなく、部屋を出て行った。その柔らかな輪郭の背中は、声を掛けられることを拒むようで、だから、静かに襖が閉められるのを、私はただ黙って音ばかりを聞いていた。
お前にはお前の護るものがあって、私にだって護るものがある。
夜更けはまだ、暗い。
なにかひとつのもので染まった人間は、そのなにかがにくしみでもやさしさでも、たぶんなんの変わりもない―――夜のいろのようだ、とおもう。
私のどこが、あの男に似ているんだろう。何か、とても大切なものを失った悲しみは、分かるような気がするけれど。
水晶のような、混じりけもなく気泡も入っていない、何一つ寄せ付けず、何ものをも通さない、あの感じに、少しだけ彼は似ている。何も映さないような、一種のつよさに、見えるような―――あの、冷ややかな静けさを、あの男は本質に持っている、気がする。
土方さんの強さとは、たぶん、違っている、と、思う…。あの人はどこかでいつも、生の方向へのエネルギーがある、から。私は、その強さに惹かれたから。
私は、また子のかけてくれた羽織を握り締めた。あの人はきっと、私を探している。それが、あの人の役目だから。
私の役目は、姫であること。失って、泣くしか方法のない、子供じゃない。
あの人なら、自分の状況の中で、自分に出来ることを精一杯やろうとするだろう。だから、私も姫として、与えられた状況の中でなすべきことを、しなければならない。
―――だって、自分の荷物くらいは、自分で持てるようにならなきゃ、一緒になんていられない、そういう関係だもの。
会えないことがつらくて、かなしいのは、あの人が好きだから、なんだとおもう。
ねえ、あなたも私のことが好き?少しでも、仕事ではなく、会いたくて、私を探していてくれてる?…そうだったら、うれしい。
場所も立場も全然ちがうけれど、あなたがつらい思いをしていても、それが私を好きだからなら、うれしい。私、自分がこんなに欲ばりだなんて、知らなかった…。だけど、好きすぎてもう、どうしたらいいか、わからない―――
にじむ涙をのみこんで、息をとめたら、頭の中が割れるように痛かった。じんじんと奥のほうが熱くて、きん、という音がしているみたい。音がしずまってから、やっと吐き出した呼吸はすごく熱くて、握りしめた指先が白く冷たくなっていて、耐えなければきっと、泣いてしまう、とおもった。
だけど、それでも―――消せない想いが、あるんだと。
高杉は船の舳先に背中を預け、片手に煙管を持って、月の光に一ふさの髪の束を透かした。流れるように細い、まっすぐな髪はきらきらとかがやいている。煙管からこぼれた煙が、髪にからみつくようになって、消えた。
来島に命じて切ってこさせた、姫の髪の毛だ。これを、幕府に送りつけたら、奴らはどんな顔をするんだろうなァ。
くっく、と声をたてて笑い、また吸い口を自分の口元に持ってきた。姫の命と、江戸と、将軍はどちらを取るのか。どちらを取っても、幕府は鬼兵隊の前に屈することになる。―――戦になっても、おもしろい。いやむしろ、戦になってこそ、おもしろいのか。
煙管をくわえたままで、右手で船縁を軽くにぎり、首をのけぞらせて笑った。寄りかかった木が、ぎし、と音をたててきしんだ。更夜の空は黒く、薄く滲むような雲が天蓋にへばりついていた。
(未完)