クリスチャン・ハロルドセン ジョーのバー&グリルを出ると、頬にひやりと湿った感触がして、夜霧があたりを覆っていることに気が付いた。ウォッチャーと、そのアシスタントであるフランクが乗ってきた車は店の前に停めてある。フランクがクリスチャンを後部座席に押し込め、フランクが運転席に乗り込んでから、ウォッチャーは助手席に座った。
一度ワイパーが動く音がして、フランクは車を出発させた。旧式のワゴン車だが、エンジン音は静かだ。ラジオは付けない。車を走らせる音と、時折動くワイパーの音、トラックが近くを通り過ぎる音しかしない。
クリスチャンが運転していたドーナツの配達のためのトラックは、明日の朝、クリスチャンを雇っていた会社に回収されることになっていた。いずれまた別のドライバーが、このトラックを使ってドーナツを配達することになるのだろう。
しばらくそうして車を走らせていると、不意に後部座席からクリスチャンの声がした。
「……また再教育センターに行くんですか」
クリスチャンが話しかけてきたことに意外の感を得ながら、ウォッチャーは答える。
「いや。君は最初に政府の病院に行く」
びょういん、とクリスチャンは不思議そうに繰り返した。
「君の指を切り落としたのはレーザー・メスとはいえ、無菌下ではない。治癒を判断されるまでは医師の管轄に入る」
ウォッチャーはそう言いながら、自分が右手の指を切り落とされた後のことを思い出す。白い光に満ちた明るい清潔な空間、握れば腕の先に指がまだあるような気がして、痛みすらあるのに、実際には存在しない。幻肢というのだと、医者に教えてもらった。
「指が治ったら、僕は、何を」
「……それはまた、そのときに教える」
会話はそれで終わった。一番近い都市の政府の病院に、クリスチャンは入院した。
元メイカーの患者の扱いは、病院でも細心の注意を要する。
通常の病棟であれば、長期入院の患者に向けて様々な催しがあり、ときには楽器の演奏もある。クリスチャンはそういったイベントが一切目に入らず、聞こえないよう、病院の中心部から最も離れた病室に一人で入院した。また、元メイカーが一時の感情により自殺などすることがないように、食事のときに用意されるものはスプーンのみで、ペンや鉛筆の類もクリスチャンの周囲から丁寧に取り去られた。
クリスチャンの担当医から治癒の報告を受け、ウォッチャーは病院にクリスチャンを迎えに行った。
病院の受付に座っていたクリスチャンは、ウォッチャーの姿を見つけると「お久しぶりです」と言った。
「行こう、クリスチャン」
二人は病院を出ると、ジョーのバー&グリルに停まっていたものと同じ車に乗り込んだ。ウォッチャーとクリスチャンを乗せた車は、静かに走り出す。
車窓を流れていく景色を疑問に思ったのか、クリスチャンが後部座席から話しかけた。
「あの、僕はどこに行くんですか」
やはり話しかけてきたクリスチャンに不可解さを覚えつつ、ウォッチャーは答えた。
「空港だ。君はカリフォルニアに行き、果樹園の作業員になる」
「カリフォルニア?」
「そうだ」
ウォッチャーの答えに、クリスチャンは何かを考えるかのように黙り込む。車の頭上から窓ガラス越しに低く轟音が聞こえて、ウォッチャーは目的地が近いことを感じた。
滑るように車が停まり、ウォッチャーが助手席のドアを開けると飛行機のエンジンが唸る声が聞こえてきた。フランクは後部座席からクリスチャンを降ろす。
「クリスチャン?」
その場で立ったまま動かないクリスチャンを見かねて、フランクが声を掛けた。
「……僕、飛行機って初めてです」
声の位置から、クリスチャンは空を見上げているらしいとウォッチャーは察する。離陸したばかりの飛行機が頭上を通り過ぎていくところだった。
「君のことは我々がカリフォルニアまで送り届ける。果樹園に着いてからは、そこのリーダーに従うといい」
はい、とクリスチャンは頷いた。
前日のうちに政府から連絡が入っているので、三人は簡単な手続きのみで搭乗口に向かった。座っていると、搭乗案内の音、人の話し声、咳払い、スーツケースの車輪が回る音や、荷物を持ち上げる音に混じり、クリスチャンが落ち着かない様子でいるのが伝わる。
搭乗を呼びかけるアナウンスのあと、「クリスチャン」と促すと、彼は飛び上がるように立った。ブリッジを渡るときも、機内に乗り込むときも、クリスチャンは頭上や周囲をきょろきょろと見回していた。
本来、クリスチャンのように法律を犯したメイカーを公共交通機関で護送するとき、座席ではウォッチャーとフランクが間に挟むようにして座ることが多い。脱走を警戒してのことだ。
今回もそのようにする予定ではあったものの、座席でふと、ウォッチャーはクリスチャンを振り返った。
「席を代わるか」
「え?」
「奥なら窓の外が見える」
クリスチャンはしばらくきょとんとしていた。
「……いいんですか?」
「構わない」
フランクが物問いたげにウォッチャーを見ているのは分かったが、ウォッチャーは無視をした。
クリスチャンは窓際の席に座り、ウォッチャーの隣で伸び上がったり縮んでみたり、そわそわと身じろぎをした。シートベルトの金具ですら珍しそうに時々いじっている音がする。
「こんな機械の塊が、本当に空を飛ぶんですか?」
「飛ぶ」
「本で読んではいたけれど。……不思議だなあ……」
クリスチャンはそう言いながら、窓の外を覗き込んだ。座席の位置を考えると、クリスチャンが顧みたあたりに飛行機の翼が見えるだろうか。
「……飛行機が飛ぶには、エンジンとプロペラの推力と翼の揚力が必要だそうだ」
クリスチャンがウォッチャーを見る。
「エンジンとプロペラが空気を後方に噴射して発生するのが推力、翼の形状によって飛行機を下から上に向かって押し上げる力が揚力、ということだ」
聞いた話だ。以前、上下で違う翼の形状も、聞こえる音も不思議で、調べたことがある。ウォッチャーがかつて、三度目に法律を破って目を潰される前のことだったと思う。
「へえ……」
そう呟いて、クリスチャンは食い入るように窓の外を見つめた。
やがて離陸のアナウンスがあり、点火した空気が膨張して噴射され、タービンが回り、プロペラが回る。車輪がアスファルトを噛んで滑走路を駆ける。身体に響く轟音に耐えていると、まもなく上体が背凭れに押し付けられ、すぐに浮遊感が訪れる。
クリスチャンは二、三度頭を振ったあと、窓に張り付くようにして景色を見ている。地上が遠ざかるのが面白いのだろうか。
離陸からカリフォルニアに到着するまでに六時間はかかる。雲海の上に抜けてしまうと大して見るものもないだろう。飛行機が雲海の上に出るまでに何が見えて、どれだけ時間がかかるのだったか。ウォッチャーはもう忘れてしまった。
不意に機体がごとごとと揺れ、クリスチャンは座席に縮こまった。天候は晴れて安定していると機内アナウンスは言うから、ちょうど雲海に入ったか。やがて飛行機は雲海を抜けて、ゆっくりと平衡を取り戻していく。
「……まぶしい……」
クリスチャンが小さく声をあげて感嘆する。そうか、とウォッチャーは思い出す。
雲海の上には何にも遮られることのない太陽の光があるはずだった。それは、ウォッチャーがずっと昔に失ったものの一つだった。
飛行機が空を飛んでいる間、クリスチャンは、ほとんど飽かずに窓の外を見ていた。着陸後、空港を出ると迎えの車が来ていて、ウォッチャーたちはそれに乗り込んだ。
カリフォルニア州の北部には互いに連なった内湾があり、そのうちの最も北寄りのサンパブロ湾に面した場所に、クリスチャンがこれから働くことになる果樹園はある。車はなだらかな丘陵を越え、舗装されていない道を走り、一時間もしないうちに葡萄畑の作業場に着いた。
こういった作業場には、管理業務を行うための簡易なキャビンが備えられている。フランクがキャビンのドアをノックするのとほとんど同時に、ドアが開いた。
この葡萄園の作業員たちの班長をしているのは、ブライアンという男だった。ブライアンは自己紹介を済ませると、クリスチャンに「君のことは政府から送られてきた個人データで読んだ」と言った。そこには微かに同情的な響きがあった。
「彼が法律を破るのを見つけたら、すぐに知らせるように」
ウォッチャーの言葉に、ブライアンは、わかりました、と了承した。
「……それでは、我々はこれで」
フランクの言葉で、ウォッチャーはきびすを返した。その背に、あの、とクリスチャンは小さく声をかける。
ウォッチャーが振り返ると、クリスチャンは頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。……もうご迷惑はおかけしません」
ウォッチャーは黙ってそれを受けたあと、クリスチャンに向かって言った。
「クリスチャン。君の幸せを祈っているよ」
紛うことなきウォッチャーの本心だった。幸福法は、万人の幸せを守るものだ。この法律を守る限り、誰もが幸せになれる。
「……はい」
クリスチャンは噛みしめるように頷いた。
これで終わりだ。ウォッチャーはもう、クリスチャンに会うことはないはずだ。
この国には現在、〈ウォッチャー〉と呼ばれる者が六名いる。彼らはそれぞれに管轄を持ち、おおよそ管轄の地域において仕事をする。おおよそ、というのはその管轄の区切りが絶対ではないからで、自分の管轄でははない地域で法律違反を発見した場合も、彼はその任務を遂げてもいいということになっている。
ウォッチャーの管轄は北東部の海岸沿いの地域だった。都市部を含んだこの地域では、他愛無く気楽な、害のない音楽が街中に溢れている。また、大小さまざまなコンサートや音楽イベントが週末ごとに開催された。ウォッチャーは、それらのイベントに自由に出入りすることができた。メイカーたちの法律違反を監視するため、政府がウォッチャーにその権限を与えたのだ。
ウォッチャーは、優しくて単純な、それでいて最も徹底した手法を用いて、淡々と任務をこなしていった。
その夜遅く、ビルの間を吹き抜ける風が秋枯れの街路樹を揺らし、落葉を巻き上げる中、カリフォルニアでの仕事を終えたウォッチャーは、政府に与えられた家に帰ってきた。
政府がウォッチャーに与えた暮らしは、〈ウォッチャー〉として生きていくのに何も不自由がないよう、完璧な配慮が為されている。
ウォッチャーが住んでいるのは、都市部に程近い高層マンションだ。高層階では都会の喧騒も雑踏の音楽も聞こえない。完全な無音だった。だから住んでいられる。
マンションのエントランスでロックを解除したとき、ウォッチャーは足元の違和感に気が付いた。その違和感は足元を駆け抜け、エレベーターホールに向かう。
ウォッチャーはエレベーターホールで指のない右手を伸ばし、その違和感に触れた。ふわふわとした毛並みが皮膚をくすぐる。間段なく熱い呼気を吐くそれは、ぺろりとウォッチャーの手を舐めた。
小さな犬だった。迷い犬だろうか、と思ってウォッチャーが屈むと、犬はすぐにウォッチャーの右手に飛び込んできた。掌で首輪の感触を確認しようとして、ウォッチャーは愕然とする。
その犬には右耳がなかった。傷はすでに治癒していたが、野良同士の喧嘩で失われたにしては瘢痕が滑らかすぎる。一方で、医学的に切断されたものにしては粗雑だった。犬の頭の横に突き出た右耳の名残に触れて、ウォッチャーは確信する。ナイフのように非常に鋭利なもので、医学的素養のない人間が切り落としたものだと思う。ウォッチャーに抱かれた犬は尾を振っていたが、これも不自然に短い。
ウォッチャーは犬を抱き上げ、そのままエレベーターを上がり、自分の部屋に入った。
ウォッチャーはバスルームで犬の汚れを拭い、傷を調べる。犬には大小さまざまな傷跡が付けられていたが、出血している傷や化膿している傷はないようだった。人馴れしていて吠えもせず、しゃがむウォッチャーの膝にじゃれている。毛並みの感じから、飼い主の許から脱走してきて、長い時間は経過していないように思えた。
ウォッチャーが住むマンションの一室には、生活するに最低限の物しかない。だから犬に害のある物はないだろうとは思うが、判断ができない。ウォッチャーはリビングの一隅に囲いを作り、犬を入れた。囲いの中に水を入れた皿を置いてやると、しきりに飲む音がして安堵する。
ウォッチャーは明日の朝、政府の機関を通じて保護団体に犬を預けるつもりだった。例え迷い犬だとしても、虐待の痕跡がある以上は容易に元の飼い主の許に返すわけにはいかないだろう。
深夜、居住空間の内部で犬の立てる音を感じながら、ウォッチャーは眠りについた。ふとウォッチャーの意識が浮上したとき、柔らかい毛並みが鼻先をくすぐった。ふわふわの毛玉が顔の近くで動き、掌に濡れた冷たい感触を残す。
犬だ、とウォッチャーは思った。囲いから出てきたのか。犬はブランケットの中に潜り込むと、横向きに寝ているウォッチャーの腕の間にぐいぐいと体を押し込んだ。犬はしばらく動き回っていたが、やがて落ち着いたのか、ウォッチャーの胸の前で寝息を立て始める。
ウォッチャーの鳩尾に小さくあたたかい体温が伝わり、じわりと汗が滲む。ゆっくりとした軽い呼吸がリズムになって、ふわふわの小さな背中が上下するのが腕から伝わった。
ウォッチャーの胸に押し当てられた前足はいかにも小さい。エントランスで抱き上げた感触も華奢で軽かった。このいとけない存在は、自分からウォッチャーの手に飛び込んできた。人間に耳を切られ、尾を切られたにも関わらずだ。
彼を哀れだとウォッチャーは思う。彼は自分がどれほど酷いことをされているのか理解できていないのだ。理解できていないから、ウォッチャーになつく。身体の一部を切り落とされる瞬間に反射のように抵抗しても、その心の内に一片の憎悪も残さない。
腕の中から、くぅ、と小さな寝言が聞こえた。その後は規則正しい寝息が続いている。ウォッチャーは再び眠りに絡めとられていこうとしていた。触れるほど近くにいる、この柔らかくあたたかく、小さく純粋な存在。
――まるで、熱と光のかたまりのようだ。
だからなのか。自分のようなものでも、何故だかゆるされているような気がしてしまう。
ウォッチャーはその日、珍しく夢も見ずに眠った。穏やかな夜だった。
一年ほどが経ち、ウォッチャーはニューヨークの公園であるメロディを耳にした。公園の木の枝を刈り、整備をする作業員たちが歌っていた。シンプルでありながら、一音ごとに北の森の中を吹き抜ける風を思わせるメロディだった。ウォッチャーは最初にこの歌を歌ったのは誰なのか、すぐに気が付いた。クリスチャンが作った音楽に違いなかった。
ウォッチャーはフランクを伴い、カリフォルニアに急行した。一年前に辿ったのと同じ道程で、ウォッチャーはクリスチャンの働く果樹園に向かった。
車を降りると、ウォッチャーは歌声を聞いた。ブライアンがいるはずのキャビンは無人だった。作業場に近づくと歌声もまた近くなり、ウォッチャーの胸にひたひたと冷たいものが満ちる。重なる歌声の中に、ウォッチャーは確かにクリスチャンの声を聞き取っていた。
「クリスチャン」
ウォッチャーが呼ぶと、クリスチャンは何もかも諒解したように立ち上がった。そしてウォッチャーに歩み寄り、「すみません、こんな遠いところまで来させて」と気遣う言葉までも口にした。
クリスチャンは、自分が歌えば必ずウォッチャーがやってくることを予想できていたはずだ。予想していてもなお、彼は法律を破った。その事実を、ウォッチャーは嘆かずにはいられない。
「今度こそ命令に従うつもりだったんですが」
クリスチャンは悔いを滲ませて言うと、震える声音で明るく笑った。
「やっぱり無理でした。……本当に申し訳ありません」
クリスチャンを取り巻く葡萄畑の作業員たちが、口々にクリスチャンに問いかける。クリスチャンはその問いに言葉少なに、優しく答えた。
作業員たちは、クリスチャンが元メイカーであることも、法律を破って指を切り落とされたことも知っているようだった。クリスチャンを仲間の一人として受け入れ、クリスチャンを守るために、クリスチャンの秘密を固く守ったのだ、とウォッチャーは察した。
どうして秘密が漏れたのかと騒然とする彼らに、ウォッチャーはその歌を聞いた経緯も、その歌をクリスチャンが作ったものであると判断した理由も語った。彼らはクリスチャンを守るためになおも抗弁したが、どのような理由を以ってしても、クリスチャンが法律を破ったということは覆らない。
クリスチャンは二度目に法律を破り、指を切り落とされて、この処罰の徹底していることがわかったはずだ。
「何故なんだ、クリスチャン」
クリスチャンは重い口を開いた。
「……そうするしか出来なかったんです」
「私は駄目だと言ったはずだ。今度やったらおしまいだと」
メイカーが法律を破ったとき、一度目はメイカーという立場を追われる。二度目は楽器を奏でるための能力を奪われる。三度目は、インスピレーションを与えるものに繋がりかねない手段ごと奪われるのだ。
ウォッチャーは指を失い、目を潰された。もはやウォッチャーは楽器に触れることができず、世界がきらめく光を見ることもできない。
クリスチャンもまた、同じように〈ウォッチャー〉の道を歩むことになるのだろう。幸福法は万人の幸せを守るものだ。この法律を守る限り、ほとんど誰もが幸せになれる。――〈ウォッチャー〉と呼ばれる職務の人間を除いて。
「それでも、……作らずにはいられなかったんです。作らなければ、生きていけなかったんです」
クリスチャンの声音は雄弁だった。クリスチャンはウォッチャーに、わかってもらおうとしていた。ウォッチャーは吐胸を突かれる。
作らなければ生きていけない。ウォッチャーにはクリスチャンの気持ちがよくわかる。
クリスチャンは指を切り落とされたとき、このまま法律を破り続ければ死ぬのかもしれない、と考えたはずだ。死んでもいいと思ったのか。過去にウォッチャーが三度目に法律を破ったとき、明白でこそなかったが、それで構わない、と感じていたような気がする。
君もまた、死んでも構わないと思ったのか。だから三度目に法律を破ったのか。ウォッチャーはクリスチャンにそう問いかけようとして、出来なかった。それを訊くことができるのは、死なせる覚悟がある者だけだ。ウォッチャーは、クリスチャンの返事を聞くことがどうしても出来なかったのだ。
クリスチャンは七人目の〈ウォッチャー〉になった。ほんの数年で、クリスチャンは素晴らしい腕前を持つ〈ウォッチャー〉に成長した。誰よりも早く狂気を発見し、その狂気がまだ芽のうちに刈り取った。
ある晴れた夕暮れ、ウォッチャーが任務を終え、橋の上を歩いているとき、フランクが「あ、」と言った。
「どうした」
ウォッチャーが訊くと、フランクはいや、と首を振った。
「土手に、クリスチャンが寝ています」
「クリスチャンが?」
ウォッチャーは眉をひそめた。ウォッチャーはそのまま堤防を下り、土手に降りる。クリスチャンに近づくと、彼が起き上がる気配がした。
「クリスチャン。何をしている?」
クリスチャンはウォッチャーを見上げて笑う。
『天気がとても良くて、気持ちいい風が吹いていたから』
「……そうか」
クリスチャンの吐息だけの言葉に、ウォッチャーは頷いた。
ウォッチャーは、法律を三度破ったクリスチャンの喉を灼き、声を奪った。歌う手段を奪い、コミュニケーションの手段を奪った。クリスチャンは人を愛し、人に愛される。愛し愛される誰かのために音楽を作ったとき、彼は本当に幸せだっただろう。
『……あの』
クリスチャンは遠慮がちに言った。
「なんだ」
『その頬、大丈夫ですか』
ああ、とウォッチャーは小さく息をついた。
「殴られた。大したことじゃない」
『殴られた……』
クリスチャンはびっくりして繰り返した。
「この仕事をしていればよくあることだ。君もいずれ出くわす」
クリスチャンのように黙って処罰される者ばかりではない。抵抗し、泣き叫び、力の限り暴れる者も珍しくはなかった。その場合、盲目のウォッチャーだけでは対処しかねるから、アシスタントであるフランクとともに仕事をしているのだ。
クリスチャンが土手で寝ていると聞いたとき、まさか動けなくなっているわけではあるまいとは思ったが、どうやら何かがあった訳ではないようだ。
「……何もないのであれば、それでいい」
ウォッチャーが言って、その場を離れようとすると、クリスチャンが立ち上がった。
『あの』
ウォッチャーは足を止めて振り返る。
『ずっと考えていたんですけど。あなたも僕と同じようにメイカーだったなら、きっと、本当の名前があるんですよね』
「ああ」
ウォッチャーの応答に、クリスチャンは安心したように笑う。
『僕は、あなたの本当の名前が知りたいです』
私の名前?
それを聞いて、クリスチャンはどうしようというのだろう。クリスチャンの言葉はウォッチャーの想像を越えていた。
ウォッチャーが声も出せないほど驚いていると、クリスチャンが不安そうな気配を漂わせ始める。クリスチャンに返事を待たれているのを感じ、ウォッチャーは躊躇い、戸惑いながら、静かに口を開いた。
「私の、名前は……」