あの公園には手品師が居た あれは夏休みが終わって、本腰を入れて始めた高校受験の勉強が早々にちょっとダレてきた、そんな夏と秋の境目の頃だった。
「あんた、こんなとこで何やってんの」
「あっ姉ちゃん」
「あっ姉ちゃん、じゃないでしょ。今日学校終わったらイオンに靴買いに行くってお母さん言ってたじゃない、私も行くんだから早く帰るよ」
母に頼まれていつも道草食っているらしい公園まで弟を探しに来たら、弟は友達らと一緒にベンチを囲んでいた。
そのベンチには私よりちょっと年上っぽい男の人が座っていて、弟たちはその人と何かやっていたらしい。
「じゃあね、兄ちゃん! 面白かった!」
「はいはい、じゃあね~」
見た目より緩い喋り方のその人は、人当たりの良い笑顔を浮かべて弟に手を振ってくれた。目が合ってしまったので私も会釈を返して、弟の手を引っ張って歩き出す。
「何してたの?」
「手品見せてもらってた。すっげぇんだぜ、あの兄ちゃん! 色んなとこから色んなもん出てくんの!」
「へえー」
それが、私があの人を初めて見た時のことだった。
次に見たのは二週間後の日曜日、同じ公園の同じベンチにあの人は居た。あの日よりもちょっと行儀が悪い、だらけたように足を投げ出して座ってる。
さもつまらなさそうに、ぼーっと座っているというのに、でもその手の甲……指の上? では、コインが生きているみたいにクルクルと渡り歩いていた。
(えっ、なにあれ!?)
思わず立ち止まって凝視していたら、不意にあっちの人が立ち上がる。そして振り返って、公園入り口で立ち止まってた私と目が合ってしまった。
「……、ああ! イオンのお姉ちゃん!」
無感情に私を見ていたあの人は、思いだしたとばかりにパッと鮮やかに笑う。その変わり様にどきりとして、一瞬私を呼んだ妙ちくりんな呼び名をスルーしてしまうところだった。
「イオンのお姉ちゃん……?」
「弟くん、靴買えた?」
ああ、この前のやりとりを覚えていたのか。でも、もうちょっと何かないの? この前のお姉ちゃんとかで良いじゃん。ちょっと不満だったけど、他意のなさそうな笑みを見ていたら毒気は抜けてしまった。まあ、いっか。
ニコニコと人の良さそうな雰囲気で話を続ける彼の傍へ、肯きながら歩み寄る。
「あの、今さっきのって……手の上でなんかコロコロしてた……」
「あそこから見えてたの? 目ぇ良いね~」
ちょっと驚いた風に言うと、彼は握り締めていたコインを掌の上に載せて見せてくれた。ちょっと大きめの、外国のコイン。
「さっきのはね、コインロールって言うの」
こうしてね、と先ほどやっていたことを改めて実演してくれた。軽く丸めた手の、指の背をコロコロくるくるとコインが渡っていく。人差し指の背から中指、薬指、小指の向こうに渡って落ちる前にするりとコインは内側へ消えて、また人差し指の側に現れコロコロくるくる指の背を行く、を繰り返し。
言ってしまえば、それだけ。けれど私は、それだけのことに目を奪われた。
「すごい!」
「左手でも出来るよー」
自慢げで、少しうれしそうな声と同時に今度は左手の上をコインが動く。あっ、さっきより速い!
「おお……!」
「ん~、いいねぇ素直なリアクション。弟くん五年生って言ってたけど、イオンのお姉ちゃんは中学生?」
「三年、だから今は受験生」
「へぇ、頑張ってる時期だ。どこ行きたいの?」
問い掛けに、この近所の高校の名前を上げる。それを聞いた彼はぴたりと動きを止めて、ワォ! なんてわざとらしい驚き声を上げてみせた。
「俺のとこだ」
「えっ?」
「そっかぁ、受かったら後輩だねぇ」
にこにこと笑いながらそう言って、彼はコインを動かすのを止めた。右手にコインを持ち替えて、指でピンと上空へ跳ね上げる。空中にてぱしりと両手で受け止めた後、ずいと握られた両手を差し出された。
「どーっちだ?」
えっ、知らん。ずっとコイン見てたけど、そんなの分からない。ちらっと顔色を窺ってみたがにこにこと変わらず笑ってるだけ。ちょっと迷ってから、自分から見て右を指差した。
「こっち」
私の答えに、彼はにやりと笑った。そうして勿体ぶって開かれた掌には。
「はい、あげる」
キャンディの包み紙が、ひとつ。
いつ飴なんか握ったの!? 私ずっと見てなかったっけ!? 呆気にとられる私の手を掴んで、その手の中にキャンディを落とされる。
「受験勉強がんばってね~、じゃ、俺はこれで」
ばいばーい、なんて緩い言葉と手振りを私に残して、手品の人は帰っていった。……ああ、私も行かなきゃ、図書館。
「……先輩、かぁ」
勉強、がんばろう。絶対受かってやる。決意して、私は図書館へ向けて駆けだした。
ちなみにもらった海外もののキャンディは、なんか変な味でマズかった。
その日から、学校からの帰り道が変わった。たまに遠回りして、あの公園の横を通って帰るのだ。いつも居るわけじゃない、むしろ会えない日の方が多い。居る時はいつも同じベンチの所に腰掛けていて、弟たちみたいな小学生や犬の散歩にきていた人に手品を見せていたり、お爺ちゃんお婆ちゃんと世間話をしていたり、それから一人で座っていたり。
私も毎日通るわけじゃない。時間だってまちまち。だからこそ、一人で座っていた手品の先輩が私に気付いて、ひらひらと手を振ってくれるだけの瞬間がこんなにもうれしいものになるのだ。
「やっほー、イオンのお姉ちゃん」
「こんにちは先輩」
私はいつまで経っても『イオンのお姉ちゃん』で、彼は『手品の先輩(予定)』だった。向こうも聞いてくれないし、私も言わない、だからお互いに名前は知らないままだ。なので勝手に願掛けとして使っている。高校に受かったら、私は先輩の名前を聞いても良い。モチベーション維持にも役立って下さるなんて、手品の先輩様々である。
「今日はお客さん居ないんですね」
「今日はお客さん居ないんだよねぇ、お姉ちゃん何か見てく?」
「じゃあ、おやつ出して下さい」
「いいよ~」
この前の飴玉を思い出し冗談のつもりでねだったら、さあ、何処から出てくるでしょう? と言って先輩がベンチから立ち上がる。えっ、今日も何か持ってるの?
「両手でお椀つくってー」
「お椀? あ、ええと、こう?」
水を掬うように、両手を身体の前に揃えて差し出す。
「あれ、入りきるかな。女の子の手ってちっちゃくて可愛いよね~」
「ひっ」
落ち着け、今のは女の子の手全般についてのほめ言葉だ、私だけを褒める言葉じゃない! 言われることのない人間にそういうの止めてください、驚くから!
「はい、まずひとーつ」
「んんっ!?」
ぽとりと右手から個包装のチョコが落ちてきた。何も握ってなかったよね、さっきまで!?
「ふたーつ、みっつー」
数え上げながら、虚空を掴んではチョコが出て、手を叩いてはチョコが出て、何かもうあっちこっちからポロポロとチョコが出てきて意味が分かんない。あっという間に、手のひらの中はチョコでいっぱいになってしまった。
「まだあるんだけど、やっぱり乗り切らなかったか」
「じ、十分です……」
「そう? まぁ、沢山あって悪いものじゃないし? お勉強の時のおやつにでもしてよ」
手が塞がったままじゃ身動きが取れないので、座る膝の上に一度チョコたちを置いてハンカチを取り出す。雑ではあるが風呂敷みたいにそれらを包んで、鞄に放り込んだ。
「お姉ちゃん、育ちが良いよね」
「はい?」
「俺ならそんな事しないで、ガサッと鞄に入れちゃうなと」
「バラけちゃったら邪魔じゃないですか」
「うーん優等生だ」
良く分からないことで褒められてしまった。褒められたんだよね? 多分。内心で首を傾げていると、先輩は鞄を間に挟んでベンチに腰掛けた。まだあると言っていたチョコをひとつ、今度は普通にポケットから取り出して私に差し出す。
「食べる?」
「いただきます」
受け取って改めてちゃんと見てみたら、このチョコも見たことがない海外のやつだった。雑貨屋さんとか輸入食料品店とか、そういうとこでなら売ってるのかもしれない。包装の見た目はとてもかわいいなと思いながら封を開け、口に放り込んだ。
(……ッ、めちゃくちゃ甘い……!)
びっくりした、何だコレ。こんなに甘くしなくても良くない? 思わず鞄から飲みかけのペットボトルのお茶を取り出してぐびぐびと飲んでしまった。
「……先輩、甘いもの好きなんですか?」
「好きだよー、コレはちょっと甘すぎかなって思ったけど」
なんでそんなものを人に大量に渡す? さてはこの人、私がおやつって言ったからこれ幸いと押し付けたんじゃなかろうな? いや、そりゃ言い出したの私だし、あっちこっちから出てくるの面白かったけど。何だかちょっと納得いかないなぁ……でも。
「勉強で頭使うんだから、甘すぎなくらいで丁度良いのかも」
そんな押し付けられたものでも、勉強机の上に積んであったらちょっと気分良くいられそうだなって思ってしまったあたり、私ほんとにチョロすぎる。
「気に入ってくれたんなら良かったよ~」
先輩はそう言って笑って、簡単なカード当てマジックを見せてくれてから帰って行った。
ところでこれは帰宅してから気付いたことだけど、鞄の中にハンカチ包み以上のチョコがいつの間にか放り込んであった。鞄を開けたままでいた時間なんて少ないのに一体いつ入れたのか、そんなに甘すぎて余ってるチョコ押し付けたいのと呆れるより笑ってしまった。何なんだろうね、あの人。
「ねー兄ちゃん、ハト出してよハト!」
「テレビで見た!」
「ええ~、参ったなぁ、ハトは出せないんだよねぇ」
「ええー!」
「あっ知らない? ハトとかウサギとか、生き物使った手品ってねぇプロの手品師の免許がないとやっちゃダメなの。ほら言うでしょ? 調理師免許とか美容師免許とか」
「手品師って免許いるの!?」
「えー、うっそだぁ!」
「うん、嘘~」
「ひでぇ!」
「あっはっはっ! じゃあコレはお詫びね~、1、2、……3!」
「うわあああああ!?」
「ぎゃああああ!? めっちゃハト来たぁぁぁ!」
……何やってんのかなぁ。鳩に群がられる小学生と、ケラケラ笑う先輩を呆れながら私は眺めていた。勿論、仕掛けは簡単だ。喋っている間に子どもたちにバレないよう餌を近くへ投げてハトを集め、タイミングを見計らって子どものすぐ背後にもう一度餌を投げたのだ。その餌を目掛けてハトは一斉に飛んできて……という。なかなか性格の悪いことをするなぁ、先輩。
「ちょっとかわいそうだと思いますよ」
ぎゃあぎゃあ騒いだ子どもたちが逃げ去ってから、私はそう声をかけながら先輩へ近寄った。
「えぇ~心外~、俺はリクエストに答えただけなんだけどなぁ」
しゃあしゃあと先輩は言って、ベンチから立ち上がる。あれ、今日はもう行っちゃうのかな。
「用事あるのに絡まれちゃって、帰ってもらうのに困ってたからちょっと意地悪したってのもある」
私の考えに気付いたのか、暗に時間が無いと言われてしまった。そんなに分かりやすかっただろうか、恥ずかしい。約束しているわけでもないし、仕方ないというか私が何か言える立場じゃないのは分かってるけど、今日は話したいことあったんだけどな。
「先輩。受けた模試、合格圏内でした」
引き止めるつもりはない。でも、伝えたかった。自分の努力を、順調に同じ場所へ向かっているのだと伝えたかった。
「そうなんだ、おめでと~! 今日何か持ってたかな、あっ、じゃあコレあげる」
でも返ってきたのは、いつもと変わらない軽い賛辞と褒美のようなプレゼント。放り投げられたコーラのボトルを受け取りながら、私は小さな失望を感じていた。自分でもどう返してもらいたかったのかなんて分からない、でも、こんな適当に流されるみたいな反応がほしかったわけじゃなかった。多分。
「……、コーラなんて久々」
「えっ、そうなの? 俺なんかコーラばっかり飲んでる」
「虫歯になっても知りませんよー」
「あー、超お姉ちゃんって感じの発言だ~!」
ケラケラと笑って、頑張ってねーと社交辞令のような応援の言葉を残して、あの人は公園から去っていった。
「……ちぇっ」
手の中のコーラのボトルはぬるくって、飲みたいなんて気持ちは起こらない。ていうか、本当はコーラってあんまり好きじゃない。握りしめたまま溜め息を吐く。いいや、次に会った時にまた色々と話せば。
そう思ったのに、その日から先輩は公園に現れなくなった。私が出会えてないだけなのか、来ていないのか、それは分からない。
先輩。試験会場で高校に行きました、教室は1年A組でした、先輩が一年生の時は何組でしたか、それともまだ一年生だった? 試験は落ち着いて受けられたし、自己採点でも模試の最高点と二点違いだった、合格間違いなしって学校の先生にも褒められたんですよ。そんな試験の出来を報告できないまま、合否判定が届いて、合格を喜んで、それもまだ報告できないまま、あっという間に卒業式がやってきてしまった。友達と笑って泣いて、また笑って、高校でも頑張ろうね遊ぼうねって言って別れて。もらった花束を抱えた帰り道、遠回りして公園に行っても、やっぱり先輩は居なかった。
きっと、って思ってた。高校に行ったら、きっと、先輩は居るって。だって俺のとこだって言ってた、受かったら後輩だって言ってた。だから、入学して、校内を歩いていたら、きっと。どこかの廊下でばったり出くわして、あの緩い口調で。
「やあ、お姉ちゃん。合格おめでと~」
そう言ってくれるだろうって、何かの用事だとかもう飽きただとか、公園に来ない理由もそんな大した理由なんかじゃなくって、先輩は居なくなったわけなんかじゃないって! 信じてた、ちがう、信じたかった。
でも居なかった。志望校を決めた時、絶対受かろうと決めた時、あの頃に期待していた気持ちなんかもう入学式にはすっかり萎んでた。探しきれていないだけかもって思っても、居ないものは居ない。きっと入れ違いで卒業したんだ、後輩になるねっていう言葉を私が勝手に勘違いしただけ、そう思うことにした。
(それならそれで、せめて、卒業おめでとうございますって言いたかったのに)
最後に大技の消失マジックを見せてくれた、そういうことに、した。
そういうことに、したのに。お風呂上がりに見たテレビを、私は呆然と見つめている。
先輩が居た。テレビの中に。あの日の緩さにチャラさと明るさを加えたようなキャラクターで、マジックを披露している。時間が経って、やっと甘酸っぱい思い出になった人が、そこで。
彼のプロフィールを司会が紹介する。テレビにかじりつくようにして聞いた。アメリカで武者修行をして戻ってきた新進気鋭のマジシャン、天才メンタリスト。メンタリストってのが何なのか知らないけど、それよりもアメリカ? 修行? 待って、それじゃもしかして、公園に来なくなったのは、高校に居なかったのは……アメリカへ行っていたから?
「……なんで?」
なんで教えてくれなかったの? いつもの口調で、アメリカに留学するんだ~って教えてくれても良かったじゃん、そうしたら私はすごいすごいと驚いて、いってらっしゃいと言えたのに。ああ、だからくれるお菓子が海外ものだったのかな、貰い物か自分のお土産か。
わかってた、ちょっとくらい気付いてたよ私だって、今はっきりと分かったよ。先輩にとって私は仲が良い相手じゃなかった。公園でたまに会うだけの相手、ただの顔見知り、自分のことを話すほどの相手じゃなかった。ずっとお姉ちゃんって呼んでたのはあだ名なんかじゃなくって、私の名前にまったく興味がなかったから。お菓子をくれたのだってそれが一番簡単だからだ、相手を喜ばすのに。先輩があの公園で会う人たちは私もひっくるめて十把一絡げだった。そういうことなんでしょう?
(期待してたんです、私、……ねえ先輩)
学校で。昼休みの食堂で。天気のいい日の中庭で。上級生棟と繋がる渡り廊下で。見かけたあなたに、先輩と呼びかけたかった。挨拶して立ち話して、今度は私からもお菓子を渡して。彼女とかそんなものは望んでなかった、私はただ、あなたの仲の良い後輩になりたかった。こんなテレビ越しに名前を知りたかったわけじゃない。
テレビでは公園なんかじゃできないような大掛かりなマジックを見せていて、出演者たちがわあわあと驚いている。ずるい、私だってそこで見たい、そんなわざとらしいリアクションしか出来ないんなら私とそこを変わってよ。
涙が出てくる。憧れた手品の先輩はもう消えてしまった、残っているのはもう先輩でもなんでもない芸能人のこの人。先輩はもう私の先輩じゃないし、私はもう先輩の後輩になることはない。大事にしていた偶像は、本人の手で幻にされてしまった。
それでも私はお店の輸入食品売り場を覗いてはあの日にもらったキャンディとチョコが売ってないかと探してしまうだろうし、好きでもないコーラをたまに学校の自販機で買ってしまうだろうし、やっと出来るようになってきたコインロールの練習だって止めないだろう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! こんな消化不良な初恋にしやがって!
「あさぎりゲンのバカヤロォォォ……!!」
初めて知った先輩の名前は、口に出したらしょっぱい味がした。