スカートとほおべに 隊服に換装し、入室した先には、すでに蔵内以外の全員が集まっていた。
「ほら、この写真」「へえ、すごいじゃない」「すごい……と言っていいんでしょうか……?」
「──おつかれさま」
三人はソファの周りに集まって、王子が手に持つ端末を覗き込んでいるようだった。蔵内が声をかけるとぱっと振り向く。
「おつかれさま」
返事とともに、ぱた、と伏せられた端末を見て、蔵内は首を傾げた。
「……なんだ?」
「クラウチにはまだ内緒」
「当日のおたのしみね」
「うん」
当日、と橘高の言葉を繰り返すと、にこにこと笑って王子は「文化祭だよ」と言った。
「三門第一の。ぼくのクラスの出し物、今年はすごいんだ。凝ってるんだよ」
「へえ……?」
どうやら内容を説明するつもりはないらしい王子を見て、蔵内は樫尾と橘高の表情を窺った。橘高は王子と同じくにこにこと微笑んでいるが、対して樫尾はすこし不安そうな顔をしている。
「だからクラウチ、文化祭、ぼくといっしょに回ろうね」
──よくない予感がした。
王子がこんな顔をするときは、なにか企んでいるに決まっている。
「『ひめちゃん』、デート?」「うん。これぼくの彼氏」「えー彼氏さんかっこいー」「でしょう」「え、ひめちゃんシフト抜けんの!?」「だいじょうぶだよ、『ひろこ』がいるからね」「そうそう、ゾエさ……ひろこさんにお任せあれだよ!」
文化祭当日。
王子のクラス、市立三門第一高等学校三年B組の出し物は、市販の飲み物や菓子を提供する、調理のない形でのカフェだった。
ただし、コスプレ喫茶である。
そして王子の格好はというと──。
「……そういうことか…………」
「お待たせ、クラウチ。どう?」
蔵内が訪れたのを見て店番を抜けてきた王子が、くるりときれいに一回転をする──と、膝を覆い隠す丈のスカートが、空気を孕んでふわと広がった。
ぎょっとした蔵内が慌ててその裾を押さえると、王子はきょとんと瞬きをした。もともと男性にしては長い下睫毛でふちどられているその瞳が、今日はいちだんときらびやかに見える。思わずまじまじと見つめれば、目のまわりにきらきらとした粉が乗っているようだった。こころなしか、いつもより目が大きい気がする。クラウチったら過保護だね、そう言って笑うさくらいろのくちびるが、妙に艶めいて見えた。
紺のスカートに大きな襟の制服は、三門第一のものとよく似てはいるが、よくよく見ると細部が異なっている。浅い色のカーディガンが手を指の半ばまで覆っていた。胸に付けられた顔写真付きの名札が、ハートマークに囲まれた丸文字によって「ひめ」という偽名を主張する。黒いソックスは膝丈で、だから素肌の見える部分はほとんど存在しなかった。それでもなんとなく目に毒である気がして、蔵内は苦い顔をする。
「……よく、学校から許可をもらえたな」
「六頴ほど厳しくないからね。ぼくとおそろいなのは『ひろこ』だけ、だけど」
「蔵っち、ようこそー」
指し示された先で手を振ったのは北添だ。こちらも王子と似たような仮装をしているが、如何せんその体格ゆえ、ちぐはぐな印象が否めない。申し訳程度に揺れている二つ結びの付け毛を見ていると、かえって愛嬌を感じるような気もするが。
「ごめんねひろこ、お店任せちゃって」
「そんなこと言って、最初から蔵っちと抜ける気だったんでしょ。いいから行っておいで」
「ありがと。いってきます」
「蔵っちも楽しんでってね」
「ああ……」
あたりまえのように蔵内の腕に腕を絡めて、そのまま王子は歩き出す。蔵内も王子も結構な高身長であるため、ひっついていれば当然目立つ。おい、いま指差されたぞ。
離れないか──と蔵内が言うか言わないかのうちに、王子はあっさりと足を止めた。
「あ、ここ入るよ」
「ここ、って……」
教室から一歩出ただけでも王子の格好はひどく注目を集めたが、移動したのはほんの短い距離だった。示されたのは三年A組──隣のクラスだ。しかし、外観で出店内容がわかるよう飾り付けられている王子のクラスとは異なり、こちらは通常授業の時と変わらない、ただの平凡な教室だ。看板のひとつも出ていない。そこに王子は踏み込んだ。
「こんにちは。B組の王子だけど──」
「あ、王子くん。やっほー」
とくに装飾が施されていないのは教室内も変わらなかった。いつもどおりに机と椅子が並べられている中、ところどころに生徒が座って歓談に興じている。
王子の声に応え手を挙げたのは国近だ。そして、その国近と向かい合わせに座っているのは今だった。
「いらっしゃい。……すごい格好ね」
「蔵内くんもこんにちはー。ようこそ文化祭へー」
「ああ、おつかれ……?」
何を展示しているでもない様子に、蔵内は首を傾げる。怪訝そうな様子に気付いたのか、今が笑んだ。
「私たちのクラスは体育館でイベントを開催するのよ。ほとんど暇なの」
「当真くんなんか楽で助かるぜって喜んでたよ。十四時からだから、来てね! 蔵内くんきっとびっくりするよ」
「なんだ、何かのサプライズなのか?」
「うーん……まあ、サプライズといえばそうなのかしら」
「お楽しみだよー」
「なるほどな」
イベントというものの詳細はわからなかったが、納得して蔵内は頷いた。その隣で王子が、実は、とふたりに声をかける。
「ぼくのエントリーは最初の部門だけだったけど、最後の部門にも追加で登録してほしいんだ。たしか複数エントリーも当日参加もだいじょうぶだったよね。──お願いできるかな」
「エントリー?」
唐突な「頼みごと」に、蔵内はきょとんと目をまるくした。エントリー、というからには、A組が開催しているのは何らかの大会──ということになるのだろう。
それは運動神経を競うスポーツ競技かもしれないし、あるいは知恵や知識を競うクイズ大会かもしれなかった。いかんせん王子には、他者と積極的に競えるような長所が多い。
不思議そうにしている蔵内を差し置いて、とんとん拍子に話は進んでいた。
「最後の部門、って……王子くん、まさかと思うけど──」
「そのまさかで間違いないよ。クラウチだって、楽しんでくれると思うな」
「だーいじょぶ、オッケーオッケー! 伝えておきますぞー」
「ちょっと……」
「だって今ちゃん、お客さんだってきっと盛り上がるよ? 気になるなら、わたしたちも出よっか?」
「な、なに言ってるのよ! 出ないから! ……わかったわ、好きにしなさいよ」
にわかに慌てた今は、ふうとため息をひとつ吐いて平静を取り戻したようだった。そして勢いよくこちらを振り向く。──蔵内くん、とするどく名を呼ばれて、思わず姿勢をわずかに正した。
「……言っておくけど、私は止めたからね」
国近がけらけらと笑い、王子は「ひどいなあ」と涼しい顔でつぶやいた。蔵内だけが、なんのことかさっぱりわからずに首を傾げていた。
A組を出た王子はいろいろな教室を回った。手づくり感満載のおばけやしきや、輪投げやストラックアウトなどのミニゲーム。
どこへ行っても王子の格好は驚かれたが、おおむね「かわいい」として受け入れられているようだった。そのことに蔵内は安心する──と同時、なんだか面白くないような気持ちもあった。正直に言えば、蔵内だって、かわいい、とは思う。けれども、それを他人に見せびらかしてまわりたくはない。王子が平気な顔をしてこんな格好で学校じゅうを巡っていることも意外だった。
そうして様々な出し物を見たふたりがやがて辿りついたのは、調理室と繋がっている教室だった。ここでは三年C組が飲食店をひらいているという。
「C組は調理室使用権とったから、こっちでやってるんだ」
そう言いながら、王子は教室の入口に置かれた受付にて蔵内のぶんまで代金を支払った。代金、といっても文化祭で用いられているのは紙でできた事前購入性の券だ。五枚一組で綴られたそれが何セットも財布に入っているのが見えて、蔵内は目をまるくした。
「すごいな、そんなにあったのか? いくらぶん買ったんだ」
「これ? ほとんど貰い物だよ。『ひめ』宛てにね。──もっとも、貰ったぶんは使わないまま返すつもりだけど」
どうやら、その正体がわかっていても、彼女はもてるらしかった。
あるいは、普段からそうなのかもしれない。見目に騙されて──本人は騙しているわけではないが──寄ってくる輩は、王子のエキセントリックな性格に慄いて勝手に去ってゆくのが常だった。ボーダーではそうだったから、学校生活でも同じだろうと蔵内は思っていたが、案外、素のままの王子だって手に入れたいと思う人間は多いのかもしれない。
だって、ほかならない蔵内自身がそうなのだから。
「あ、クラウチ、みずかみんぐが来たよ」
カーディガンにほとんどを包まれた手が、無意識にすこし俯いていた蔵内の袖を引く。知り合いの名を出されて顔を上げ、──蔵内は絶句した。
「蔵っちやん。ようこそ、『冥土おこのみ三のC』に」
平然と登場した水上は、王子に負けず劣らずの奇抜な格好でふたりを出迎えた。長身の足下までを覆うような黒い布が、彼の動きに合わせて淑やかに揺れる。その上に着けられた白いエプロンには上品にフリルがあしらわれていた。その表情と髪型だけは普段と変わらないが、毛量の多い頭の上に、やはりフリルの付いたカチューシャがぽつんと載せられている。
どこからどう見ても、近代ヨーロッパに見られる女性の使用人姿──つまり、メイドだった。
「め、めいどおこのみ……」
「えー、当店は時間制になっとりますんで、一組様六十分でご退出をお願いいたします。お好み焼きは一人一枚、飲みもんはこっから選んで。水はおかわり自由」
「じゃあぼくは烏龍茶にしようかな。クラウチは?」
「え、あ、ああ……俺もそれで……」
「かしこまりましたー。できましたらお運びいたしますのでお待ちください」
「……いや待ってくれ水上、なんなんだこの店は」
棒読みの口調で注文をとり、あっという間に立ち去ろうとする水上を留めて問うと、彼は当たり前のような顔をし、素っ頓狂な店名を繰り返した。
「なにって、『冥土おこのみ三のC』やけど」
「メイド喫茶なのか……?」
「なに言うとるん蔵っち、高校の文化祭にそんなん許されるわけないやん。うちは正真正銘、健全なただのお好み焼き屋です。──な? 鋼、ポカリ」
ふいに水上が振り向いたその先を視線で追うと、王子と蔵内が遊びに来たことを聞きつけたのか、村上と穂刈が立っていた。──ただし、ふたりともやはりメイド服着用で、しかもこちらは水上と違ってミニスカートである。
「うわあ!」
「そんなに驚かなくても……やっぱり見苦しいか?」
「あんまりだな、その反応は。なにも言われなかったぞ、さっき来た荒船には」
恥ずかしがる素振りを見せる村上と堂々と腕を組む穂刈。言っていることこそまともだが、黒いスカートの中、たっぷりの白いふわふわから伸びる太ももがこれでもかと筋肉を主張していた。蔵内はそのさまに慄く。肩をすくめて、水上が調理室へと繋がる扉へ消えてゆく。
「驚くだろう、いくらなんでも……」
「似たようなもんだろ、王子の格好も」
しどろもどろに返すと、すぐに反論された。指差された先の王子をちらと見やると、彼は微笑みをたやさないままに小首を傾げた。
「うん、鋼くんもポカリもかわいいけどね。クラウチのいちばんは、ぼくだから」
「お世辞はいいよ。……たいした自信だな」
「事実だからね」
村上の揶揄を受けても、王子は眉ひとつ動かさずにそう言ってのける。穂刈が蔵内の肩をつついた。
「しなくていいのか、否定を」
「してもたぶん敵わないからな……」
苦笑して、それからふと蔵内は呟いた。
「そういえば、影浦はいないのか?」
「──オメーら、サボってんじゃねーよ!」
C組にいるはずのボーダー隊員あとひとりを捜して辺りを見渡す──ちょうどその時、怒号とともに影浦が姿を見せた。調理室に繋がっている扉からにゅっと半身を覗かせた影浦は、他の三人と異なってメイド服を着用していない。調理係なのだろう、学校指定のジャージの上にエプロンと三角巾を着けた姿は、実家の手伝いをしているときとそう変わらない。──と思いきや、黒のエプロンをしているその上から、ふちにフリルのついたカフェエプロンを申し訳程度に着けていた。
「もう焼けてんだよ! さっさと持ってけ」
「ああ、ごめん、カゲ」
「荒いな、人遣いが」
筋骨隆々のメイドたちがそちらへと赴き、飲み物の入ったプラカップとお好み焼きを受け取って戻ってくる。
「お待たせしました」
目の前に置かれたお好み焼きは、安っぽい紙皿に載せられているものの、「かげうら」にて提供されるそれと遜色ないもののように見えた。青海苔の鮮やかなみどりの上で、かつお節が踊っている。ソースの香ばしい香りが食欲を唆った。
「すごいな、お店で出てくるのとほとんど変わらないね。──いただきます」
割り箸を手に取った王子に続いて、蔵内も、いただきます、と復唱する。
ぱくん、とひとくち頬張ったお好み焼きは、見た目の期待を裏切らない味がした。小麦粉と野菜とソースの甘み。さすが専門店の次男を調理係に据えているだけある。
「……うまい」
「うん、おいしいね」
無意識のうちに声に出すと、向かいから同調する声があった。顔を上げると、王子は目を細めて笑んでいる──と、見慣れているはずのそのやわらかな表情があまりにも愛おしくて、蔵内はつい、手を伸ばした。
「──王子、」
「クラウチ?」
「…………ソースがついてるぞ」
きょとん、と首を傾げた王子にはっとして、蔵内は慌てて誤魔化すように彼の口元を拭った。王子はされるがままだ。
どきどき、と、妙に速くなった鼓動の音が聞こえやしないか、心配になる。ソースが口の端についていたのは嘘じゃない。嘘じゃないんだ、だから、やましいことはない。
内心でそう言い訳をする蔵内の動揺をよそに──王子は、蔵内の指先をぱくりと咥え、ソースを舐めとった。
「……えっ」
それはあまりにも唐突であっという間の行動だったので、蔵内はもちろん、周りにいた友人たちも、王子の行いに硬直した。ややあって蔵内が声をあげると、おい、とまだこちらを見ていたらしい影浦がふたたび声を荒らげる。
「イチャつくなら、よそ行け!」
「怒られちゃった」
「おまえのせいだろ」
なんだかんだでしっかりとお好み焼きを完食してから廊下に出る。王子が参加するという大会らしきなにかが始まるまでには、まだ時間があった。
「そうだクラウチ、屋上へ行かない?」
「屋上? いいけど、開放されてるのか」
「うん。あまり屋上に行く生徒はいないと思うけど、開いてはいるんじゃないかな。六頴もそうじゃないの?」
「ああ……そういえば、そうだな」
王子の提案に頷きつつ、蔵内はすこし目を伏せた。
この辺りの学校は、蔵内の知るかぎり、あまり戸締りをしない。
というのも、一帯の学校施設は往々にして避難所となるからである。とくに体育館や屋上などは、近界民の襲撃という名の災害時、必要に応じて一般市民に広く開かれる。一般生徒たちを屋上に避難させ、ボーダー隊員たちが地上で敵を追い払う──という内容の避難訓練は多く実施されている。あるいはその逆で、階下に避難誘導を行い、隊員たちは屋上で戦う、ということもあるだろう。それらが実際に起こり、破壊された校舎を直すあいだに学び舎が閉ざされてしまった例は、けっして皆無ではない。
だから、屋上の鍵は開いているし、けれども生徒たちはあまり寄りつかない。
「……景色を見せたいのか?」
どうしてまたそんなところに、との思いが言外に滲んだのか、蔵内の問いを受けて王子はすこし考えるようにし、それから口を開いた。
「それもなくはないけど、ちょっと静かなところで休みたくて。だれもいないってほどじゃないかもしれないけど」
「たしかに、どこに行ってもにぎやかだからな」
そう言われてみれば、あちこち歩いてだいぶ疲れたような気がしてきた。王子の提案に乗り、ふたりは屋上を目指すことにした。
案内されて校舎内を歩く。階を上るごとに出し物を行っている教室が減り、来賓らしき人影もまた、ぽつぽつと見当たるかどうかになった。ここはまだ、部外者が一切立ち入りを禁じられているような非開放の場所ではないのだろうが、なんとなく落ち着かずに蔵内はそわそわした。
「王子……そういえば、屋上って、開いてても立ち入り禁止じゃないのか?」
「だいじょうぶだよ。ぼくのことを怒るような教師っていまさらほとんどいないし、もし怒られてもクラウチのことだけは『ぼくが連れてきたんです』って言ってあげる」
「つまり、立ち入り禁止なんだな……?」
「さあ、どうかな?」
しれっとそう言ってのけ、王子は歩みを緩めぬままに蔵内の手を引いた。ため息を吐いて、蔵内はそれに従う。とはいえ王子はほんとうにしてはならないことをするような人間ではないので、屋上への立ち入りは厳密に禁じられているというわけではないのだろう。もしくは蔵内を揶揄っただけで、実際には出入り自由の屋上なのかもしれない。
絡められた指の股が妙にむずむずする。王子はいつもと違って袖の余るカーディガンを着ているから、ふわふわとした感触が蔵内の手をくすぐっていた。つい繋がった手を見ると、一歩先をゆく王子の上履きが目に入る。細い脚──と言うと本人に怒られるが──をちらちらと見え隠れさせ、スカートが揺れていた。──目の毒だ、と思う。こちらは本人に言えば喜ばれるのだろう。
「やっぱり、開いてる」
階段を上りきった行き止まり、重厚に見える扉はわずかに開いて、隙間から光が入り込んでいた。外は快晴だ。近寄って見ると端々に錆のあるその扉は、王子の手に押されていかにも重たげな音をたてる。そうして蔵内は外へと連れ出された。
ざ、と風の音がする。街の喧騒が遠く鳴っているが、人の声は混ざっていなかった。王子に手を引かれたまま踏み出した屋上は広い。辺りをぐるりと見渡すが、蔵内たちと同じく文化祭を抜け出してきた生徒は、はたして見当たらなかった。
「だれもいないな」
「だれもいないね」
やった、とちいさく喜んでみせて、王子はだっと駆け出した。その手が蔵内から離れてゆくのを、名残惜しく思う。
「クラウチ、ほら、こっちに本部が見えるんだよ」
弾む声の音量が彼にしては大きめで、蔵内は内心ですこし慌てた。
大きな声を出したら、だれかに見つかってしまうのではないだろうか──そんな気がしたからだ。だれに、と訊かれれば、教師やほかの生徒たちに、ということになるのだろうが、叱られることを恐れているのではなく、もっと漠然とした──見咎められる、という気がした。
王子とふたりきりでいることを、咎められる。
ボーダー本部の見える景色のほうへと王子が歩いてゆくのをいいことに、蔵内はそっと反対方向へと足を伸ばした。──こちらには川が見えた。
幅の広い川はほんのゆるやかに曲がりながら、やがて三門市内には存在しない海へと繋がる。ここからは見えないが、ボーダー本部の屋上からはその姿を確かめられるということを、蔵内は知っている。が、このようにのんびりと眺めたことはなかった。本部はこちらよりもよっぽど高さのある建物だが、あちらの屋上に上るというのは、地上の敵を殲滅する任務のあるときで、景色を見ているひまはなかった。
蔵内が立っているこの足の下で、いまこの瞬間も文化祭が行われている──とてもそうは思えないほど、だれもいない屋上には穏やかな時間が流れていた。
フェンスの向こう、青い空の下に雄大な川を眺めていると、背後に気配がした。それがだれかなんてわかりきっていたが、それでも蔵内は振り向かなかった。
「……なに見てるの?」
静かな足音がゆっくりと蔵内の隣に並んで、そして停止した。思わず、景色を、と答えると、王子は呆れたように笑った。
「それはそうだろうけど。景色のなかの、なにを見てるのかなって訊いたんだよ」
「川が大きいな、と思って……」
「六頴からのほうが大きく見えるんじゃない?」
「そういえばそうか? いや、六頴の屋上も開放されてはいるんだが、実は出てみたことがないんだ」
「ふうん」
屋上のふちに近寄ると、王子の細くやわらかな髪は風を受けて揺れた。
「はじめてだな。屋上に出てみるのも、スカート穿いたやつに連れ回されるなんていうのも」
苦笑するようにそう言って、風に吹かれるスカートを押さえてやると、王子はそっと身を寄せて蔵内に寄りかかってきた。だれか来たらどうするんだ、と言いかけて、あの重い音のする扉が開いたならすぐにそれとわかるから、そういう心配はないのだと気がついた。
「ぼくも、きみと一緒だとはじめてのことばっかりだよ」
「そうか?」
「うん」
蔵内を見やる顔が近い。ほのかにいいにおいがして、それでようやく蔵内は、王子のかんばせには化粧が施されているのだと理解した。クラスの女子──加賀美か人見にでもやってもらったのだろう。さっき見つけた、目の上のきらきらした粉も、きっと化粧の一部なのだ。そんなことにいまさら思い当たった。
「自分の部隊を持ちたいなとは思ってたけど、だれかと一緒にやろうだなんて考えてなかったし、こんなふうに……」
ついまじまじと遠慮なく眺めてしまったことを反省する間もなく、王子との距離が、ゼロになる。
「……だれかをすきになるなんて、思ってもみなかった」
だれにも見られる心配がない場所だからと言って、大胆なことをする。
けれど、その不敵さこそを、蔵内は愛しているのだった。思わず身体を抱き寄せておかえしをすると、王子は満足そうに瞳だけで笑んだ。なんだかいつもとは違う感触と、舌先に妙な甘さを得て、蔵内はその感覚に集中しながらも正体を探る──と、胸の辺りを手のひらで強く押されて、はっと我にかえった。
「クラウチ、調子に、乗りすぎ……」
息を切らした王子に睨まれる。わるい、と謝った直後、ぎい──と屋上への出入口が開く音を聞いた。ぎょっとして王子とのあいだに距離をとり、そちらを振り返る。
「おっ、王子と蔵内じゃねーの」
「当真……」
いつもどおりの飄々とした態度で姿を現した当真は、周りをぐるりと見渡して人がいないのを確認すると、彼らしい皮肉げな表情で笑った。
「噂には聞いてたけどすげえ格好だな、王子」
「『ひめ』だよ。かわいいって言ってよ」
「中身知ってりゃかわいかねーだろ。二人きりでなにしてたんだよ、邪魔したか?」
「いや……」
曖昧に誤魔化そうとした蔵内が言い淀むと、当真はほんの一瞬、虚を突かれたような顔をした。なるほどなあ、とひとりごちてから、自らが潜ってきた扉を指し示す。
「イチャついてんのはいーけどよ、準備始まってるぜ、ウチのクラスのやつ。二人で出るんじゃねーの?」
「え、もう?」
「ひめと蔵内はとくに早く行かねーと叱られるだろ」
「そうなのか?」
「あっ、そういえば早めに来てねって言われてた。行こう、クラウチ」
そう言って王子は蔵内の手を引き、こころもち速い歩みで屋上の出入口を目指す。唐突な流れに困惑した蔵内が当真のほうを振り返ると、彼は陽のあたる場所に寝転んでいた。
「……当真は行かないのか? 自分のクラスの出し物なのに」
すこし声を張り上げてそう訊くと、間髪入れずに答えが返ってくる。
「俺はサボり」
堂々とそう宣言するのを聞いて、蔵内は納得すると同時、苦笑した。
なるほど、こんなところでふたりきりになっているのを揶揄われたのかと思ったが、そうではない。
体よく追い払われたのだ。
体育館の中には壁に沿っていくつかのテントが設えられていた。最初に開放型のテントへ赴き、受付を済ませて、それから目隠しのついた次のテントへと案内される。中で待ち構えていたのはA組の国近と今──と共に、コスプレ喫茶の店員であるはずの、B組の加賀美と人見もなぜか待機していた。ちなみにふたりは所謂ゾンビメイクというやつだった。怖い。
「ひめちゃんのメイクを担当したのは私たちだもの」
そう言うと有無を言わさず、王子を手近なパイプ椅子に座らせる。なにが起こっているのかわからない蔵内がただ棒立ちになっていると、こっち、と国近に手招かれた。
「蔵内くんはこっち。はい、そこでこれに着替えてね」
「もう、ぎりぎりに来るんだから……。急いでちょうだい」
テントの中でさらに区切られたスペースへと通される。カーテンで四方を覆われた狭い空間の中、蔵内は国近に手渡されたものをまじまじと見た。
それは、黒の詰襟──おそらく三門第一のそれとデザインの近しいものを選んだであろう、市販のなんちゃって制服だった。早くしてね、と外からかけられた声に、慌ててそれに着替え始めながらも、蔵内は大声で彼女らに問う。
「なんにも聞いてないんだが、俺は王子と何の大会に出るんだ!?」
「えっ、知らなかったの? あなたたちが出るのは──」
「待って今ちゃん、もうここまで来たら知らないままのほうが面白いんじゃない?」
──いや待ってくれ、頼むからなんなのか教えてくれ。そう思いながらも手早く着替えを済ませ、カーテンを開くと、先ほどの王子のようにすぐ椅子へと座らされた。
まだ聞きたいことはあったが、はい目と口閉じて、と言われ、されるがままなにもできなくなる。触るよ、と声をかけられ、ウエットティッシュのようなもので顔を額のほうからていねいに拭かれる。──と、その手が口元のあたりでぴたりと止まった。
「んー、今ちゃん、リップ用のリムーバーある?」
「あるけど、なんでそんなもの……ああ」
「やるねえ、蔵内くん」
「どうせ王子くんからじゃないの?」
唇を拭われながらなにごとかを取り沙汰されるが、蔵内にその内容を理解することはできなかった。が、その声の調子から、なにかよろしくない噂をされているような気がする。
抗議する間もなく、額の上、頬の上をやわらかな感触が通ってゆく。なんとも言えないふしぎな香りがして、それが今日の王子からするあのいいにおいと同じ種類のものだと気付くのには、あまり時間を要さなかった。無意識に息を詰める。ぽふぽふさらさらとしばらく顔じゅうにいろいろな粉をはたかれ、眉をなぞられして、ようやく蔵内は解放された。
「はい、できあがりー!」
「終わったら落としてあげるから、しばらく顔を触ったりしないでちょうだいね」
おしまい、との声に、閉じていた目を開ける。顔全体がなにかに覆われている感覚があって、皮膚がなんだかいつもより重いように感じた。すこし不安になったのが伝わったのか、はい、と国近が手鏡を見せてくれる。
「ばっちりメイクしたわけじゃないからねー。ちょっと肌をきれいに見せてるくらい」
その言葉どおり、鏡のなかの顔に大きな違和感はなかった。ただ肌がいつもよりきめ細やかな気がする。よく見ると、王子の顔に載っていたようなきらきらの粉が、目の周りや頬にうすく施されているのがわかった。
「蔵内くんはもともと顔が整ってるから……。王子くんもだけど、──フルメイクにしちゃったんでしょう?」
「うん。本人の要望だったから」
「濃くすると、かえってきれいに見えないわよ、って言ったのにね」
今が振り返った先に、加賀美と人見が立っていた。察するにこちらも王子に化粧を施していたのだろう、とは思うが、彼女らの傍にもう王子の姿はなかった。それを訊ねるとテントの外に連れ出される。
「王子くんはもう出番なの。出場部門が三つあって、いまから始まるのが一つめ。三つめに王子くんと蔵内くんで出てもらうから」
そこではじめて、蔵内は体育館のステージ上を認識した。色とりどりのライトで照らされたそこに、大きく看板が出ている。
──ミカド・ステキ・コンテスト(略してミスコン!)、かわいい部門。
曖昧なタイトルで誤魔化されてはいるが、ミスコン、の文字をいっとう大きく派手に表記してあるあたり、その意図は明らかだ。あっけにとられた蔵内が言葉を失っているあいだに、司会役の生徒がステージの端に躍り出る。けっこうな音量の歓声があがって、見れば体育館内にはいつの間にかかなりの生徒が集まっていた。
「思ったより集まったわね」
「あ、『あのボーダー隊員も飛び入り参加!?』って宣伝したのがうまくいったみたいだよ」
「そんなことしたの!?」
「それ絶対、嵐山さんが来るって思われてるじゃない……」
「まあまあ、ブーイングあったらとりまるくんにでも来てもらおー」
「…………あそこに俺も出るのか?」
弱って情けない声を出す。女性陣の視線が一斉にこちらへと向き、どうにか助けてもらえないかと見やるも、彼女たちから返ってきたのは無慈悲な肯定だった。
「そうよ」
「まあ、王子くんと蔵内くんだったらじゅうぶん絵になるわよ」
がっくりと肩を落とす。どんまい、と背を叩かれて、改めて壇上を見ると、「かわいい部門」はすでに始まっていた。司会が学年と名前を紹介し、出場者が上手から下手に歩いて、ステージの真ん中で立ち止まる。設置されたステージマイクでなにかひとこと喋り、手を振るなりパフォーマンスをするなりして去ってゆく、という流れだった。
蔵内はふと違和感に気付く。最初の部門に出ているのは女子生徒ばかりだ。かわいい部門、だなんて言葉で誤魔化していても、これが実質ミスコンならば、男女で出場部門が分かれているに違いない。王子がテントの中で着替えをしていった様子はなかった。──まさか。
「お次は、三年、王子一彰さんです!」
まさにその瞬間、王子の名前が呼ばれた。蔵内は壇上を注視する。
出てきた王子は、やはり、スカートを穿いた姿のままだった。遠目から見てもわかるほどに、顔のきらきらが増している。ただでさえ男性にしては多い睫毛の量が、先ほどまでよりも増えているように見えた。常よりだいぶ大きく見えるその目が、正直に言って、怖い。
王子はステージの中心で立ち止まって、その場でくるりと一回転してみせた。きゃあ、と黄色い悲鳴があがっている。それはなんの悲鳴なんだ、と蔵内は冷や汗をかいた。
「『ひめ』です。三年B組で喫茶店をやってます。みんなきてくれるとうれしいな」
胸に付いた名札を強調し、普段ととくに変わらない口調でそう宣伝すると、舞台端へと去ってゆく。蔵内はほっと胸を撫で下ろした。なにか想像もつかない過激なパフォーマンスをするのではないかという気がしていた。
出場者は全部で十人ほどだった。「かわいい部門」が終了して、蔵内は準備のためと舞台袖に案内される。狭い中に出場予定であろう生徒たちがひしめいており、そこに王子が待ち構えていた。
「やあ、クラウチ。男前にしてもらった?」
「おまえ……最初から言え……」
「あはは」
王子が素直に告げてくれるはずもない、それをわかっていて恨みごとを言うと、彼は笑って蔵内の背を軽く叩いた。
「それで、俺は『かっこいい部門』に出ればいいのか?」
「うん? ……ああ、ちがうよ。それは次の部門。ぼくらが出るのはその次」
「その次、っていうのは……」
「ああほらクラウチ、次のはね、澄晴くんが参加してくれたんだよ」
そう言って王子が指した先を見ると、たしかに犬飼がこちらを振り返って手を振っていた。もう出番なのか、舞台袖ぎりぎりのところに立っている。
「人数集めるの、けっこうたいへんだったみたいだよ。ボーダー隊員は繋がりが広くて助かるって感謝されちゃった」
「俺みたいに騙されたやつも、他にいるのか?」
「うーん、それはたぶんクラウチだけかな」
話しているあいだに、犬飼は名前を呼ばれてステージへと出ていった。それなりの歓声が上がり、中には「澄晴くんがんばれー」と声をかけている観客もいる。あれは北添の声だろう。
気が付けば、周りに待機する出場者はみな二人一組になっていた。それもほとんどが男子生徒ひとり女子生徒ひとりの組み合わせだ。かわいい部門、かっこいい部門、ときて、もうひとつ──そこまで聞けば、さすがの蔵内でも察せられるものがある。
「では、コンビ部門出場の皆さんは並んでください」
やはり、そうだ。二人一組が基本のそれは、おそらく。
「これ、つまり、『カップル部門』だよな?」
「規定は二人一組ってだけだよ」
「……いいのか、男どうしで出ても」
「だって、止められたりしなかったもの」
誘導されるがまま並びつつも、蔵内は王子に問いかける。順番は事前に決められているらしく、ふたりが並ばせられたのはいちばん最後、大トリだった。少なからず、面白がられているところはあるだろう。
「きみが、ほんとうにいやだって言うなら、やめるよ」
「…………いや、いいよ。行こう」
そう言うと蔵内は王子の手のひらを掴んだ。目をまるくする王子に構わず、今度は蔵内がその手を引く。めずらしく驚いたような王子の表情が愉快だった。
「──ラストは、かわいい部門にも出場した、三年の王子さんと、六頴館高校からいらっしゃった、三年、蔵内和紀さんです!」
はっきりと所属を呼ばれて、まるで逃げ場がないな、と苦笑する。ステージ下の客席がすこしどよめいた。ボーダー隊員、生徒会長、と複数の立場を抱えている蔵内は、ここらではそれなりの有名人だという自覚があった。
それでも気にせず、スポットライトの下へと出てゆく。ステージを歩き、マイクの前に立つまでのあいだ、自分たちに注目が集まっているのがわかって、蔵内は頬が熱くなるのを感じた。といっても体育館内は緊張しているわけではなく、雑多に騒がしい。ゆるい雰囲気の中、ふと視線をやった先に、知り合いと目が合った。
「あ、神田」
蔵内と王子、ふたりともにとって親友と呼べる彼は、群衆の後方でゆるく手を振った。その手が口元に添えられると、神田は声を出さずに「がんばれ」の口の形をつくった。
「──クラウチ?」
蔵内は王子のほうに向き直ると、その足元に跪いた。怪訝そうに名を呼ぶ彼に構わず、その手の甲に──くちづけをする。
途端、わあっ、と、歓声が上がった。
弾かれたように蔵内と王子のふたりは振り向いた。観客を見れば一目瞭然で、彼らは蔵内たちを揶揄っているわけでも、ばかにしているわけでも、面白がっているふうでもなかった。
ただ、ふたりは祝福されていた。
固まって笑っている集団は三年C組の面々だ。「おい、人前でイチャつくなっつったろーが!」「熱烈だな、随分と」「あっはっは」メイド喫茶の衣装のままで体育館にやってきた彼らは、ともすれば王子よりも目立っていた。水上は器用にも指笛を吹いている。
「王子くん、蔵内くん!」
大きく腕を振ってふたりを呼んでいる者があった。見れば、樫尾を伴って見物にやってきたらしい橘高だった。元気に手を振る彼女の隣で、樫尾はすこしいたたまれなさそうに顔を赤らめて立っている。
思わず蔵内は王子と顔を見合わせた。ややあって、耐えきれない、というように王子が笑い出す。
「ふふっ……あはは!」
蔵内はしばらく呆然としていたが、やがて釣られたように笑って、それからもういちど王子と手を繋ぎなおした。心得たように王子がその手を引いて駆け出す。
そしてふたりは、舞台を降りた。
先に化粧を落としてもらった蔵内はすっかり着替えも終わって、同じように素顔に戻してもらっている最中の王子を眺めていた。こちらは手間がかかるらしく、目を閉じた王子はおとなしく加賀美と人見にされるがままになっている。
はずされたつけまつげは毛虫のように見えてやはり怖かった。そう伝えると、「ほらねー」と女性陣は言う。
「あまり濃くしたらかわいくないのよ」
「うーん、そういうものなの? でもそのままだと、やっぱり、ぼくだなあ、って感じがしてさ……」
「王子くん、背は高いけどかっこいい系の顔じゃなくてかわいい系だからね」
そう言い含められてもまだ首を傾げている王子に、蔵内くんだってそう思うでしょ、と加賀美が同意を求めた。
蔵内は思わずじっと王子の顔を見た。まだ化粧を拭き取ってもらっている途中の王子は、前髪をピンで留められてまるいおでこを全開にされ、目を閉じたままでいる。もうすっかりあのきらきらは載っていないし、くちびるも自然のまま、いつもの色をしていた。
うん、と、蔵内はひとつ頷いた。
「そうだな。王子はなんにも付けてないほうがかわいいよ」
途端に三人ともが固まったので、なにかまずいことを言っただろうか、と蔵内は慌てた。しばらくの沈黙ののち、王子がめずらしく声を荒らげる。
「……クラウチ、もう黙ってて!」
「えっ」
化粧を落とされたはずの彼の頬が、未だに頬紅をさしたままかのような朱を帯びた。もう、と怒ったような声が蔵内を責める。
「きみってときどきすごく鈍感じゃない? 羞恥心がへんなところにあるよ」
「……王子だって、今回はそんな格好で歩き回ってただろ?」
言い返すと、王子は唸るような声をあげた。
「それは、ぼくだって恥ずかしかったけど」
しばらく考えてから、王子は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、そして言った。
「そんなことより、きみを見せびらかして回りたかったんだもの」
今度は蔵内が赤面させられる番だった。