あなたを綴るはなし/きみを描くはなしあなたを綴るはなし【×月×日 そろそろ新しいクラスにも慣れてきた。生徒会は四月で人が入れ替わるわけじゃないから気が楽。ボーダーも忙しくてやりがいがあるけど、両立するのはちょっと大変なときもある。蔵内先輩はすごいなって思う。】
ぱたん、と音をたてて閉じられた分厚い日記帳は、父から譲ってもらった思い入れのある品物だ。
綾辻遥は机の上の文房具を片付けて、ふう、と一息ついた。
寝る前にその日あったことを書き留めるのは、彼女の習慣だ。ボーダーであったこと、学校であったこと、いつもと違うできごとや、いろいろな人のこと、思い付くままに綴って記憶の整理をする。
――シュークリームをおすそわけしてもらったから、明日はおかえしを持っていかなくちゃ。ついでに隊室で食べるおやつも買おう。生徒会の予定はどうなってたかな。
――そうだ、会長のようすが気になったんだった。蔵内先輩はいつも落ち着いたひとだけど、今日はちょっぴり元気がなかったような……。どうしたんだろう。先輩はたしか、午前中に防衛任務で、そのあと学校に来てたはず。ボーダーでなにかあったのかな? もし明日も元気なかったら、さりげなく訊いてみましょう。
【×月×日 蔵内先輩はお付き合いしてる人とケンカをしたみたい。…私のせいかも?】
なんだかお元気ないですね、どうしたんですか。
生徒会室でふたりきりになったタイミング。できるだけ軽く、なんでもない調子で訊いたつもりだったけれど、それを聞いた蔵内先輩がめずらしく渋い顔をしたので(蔵内先輩の表情は滅多に変わらなくて、いつもだいたい微笑んでる)、私はちょっとびっくりする。それこそ、顔には出さないけど。
「なんでもないよ」
「……私、なにか悪いことを聞いちゃいましたか? だとしたら、ごめんなさい」
一拍置いてそんな答えが返ってきたので、私は素直にそう言った。蔵内先輩はこんなにわかりやすい「ごまかし」をするひとじゃないはずだから、よっぽどのことだと思ったのだ。
先輩はすこし困った顔をして、それから口角をちょっと上げた。たいしたことじゃないんだが、と笑う。
「ちょっとな。……友達を怒らせてしまったというか、悲しませてしまったというか……どうしたらいいか、すこしだけ考えてたんだ」
「会長でもそんなことあるんですね」
「もちろん、あるよ」
けっこう本気でそう言ったのだけれど、先輩は冗談だと思ったのか、今度は目を細めて笑った。
「よかったら、お話聞いてもいいですか。私にも、なにか力になれることがあるかも」
「綾辻は本当に頼りになるな。そうだな……」
このひとはてらいなくそういうことを言う。でも、上から目線のようにも下心があるようにも感じないのは、蔵内先輩の人徳だなあ……と、私は思う。その辺りはすこし嵐山さんに似ていて、安心する。
先輩はしばらく首を傾げて考えたあと、ためらいがちな様子で口を開いた。
「……最近、変な噂をされてるだろう?」
「もしかして、私と会長が付き合ってる、っていう」
「うん、それだ。……友達に相談したら、ちゃんと否定しなよ、って怒られてしまって……心配をかけたんだと思うんだが」
新年度になってからひそかに囁かれている噂は、実にありふれたしょうもないものだ。
――会長と副会長、付き合ってるらしい。
私たち本人からしてみれば誤りでしかないそれは、だけどなぜだか妙な説得力をもって学校に広まっている。――支持を集めている、といったほうが、正しいのかもしれない。「でも、本当かと思っちゃった」「もし本当に付き合ってたらお似合いだと思って……」そんなふうに面と向かって言われたこともあるそれは、いい加減はっきり否定をしておきたいな、と思っているものだった。
「怒られちゃったんですか?」
「ああ、あいつがあんな言いかたをするのはめずらしいんだけどなあ……」
ほんとうに困った様子でそうため息を吐くので、あ、と私は気がついた。
これはたぶん、蔵内先輩の――お付き合いしているお相手のひとのはなしだ。
先輩には、恋人さんがいる。先輩自身はそれを明かしてはいないのだけれど、恋人としての話をするときはわざわざ名前を伏せて友達と呼ぶし、そしてなによりずいぶん気をゆるしている様子なので、お相手の話をしているんだということがとってもわかりやすい。たぶん、蔵内先輩と仲のいい先輩方は、お相手がだれなのか知っているんじゃないかな。神田先輩とか、あと、ボーダーなら王子先輩とか。もしかしたらその先輩方の中に、お相手ご本人がいるかもしれないし。
とにかく、先輩にはお付き合いしている人がいて、私はそれを知っているけれど、先輩は「私が知っているということ」を知らない。なので、私はちょっと迷ったあと、でもやっぱり正直に言った。
「……やきもち、じゃありませんか?」
「えっ」
「噂が流れるくらい近い関係だと思って、構ってほしくなっちゃった、とか」
「……」
そうだったらかわいいな、なんて思っただけなのだけれど。おそるおそる、といった様子で、先輩はこちらを見てくる。
「やっぱり、そう思うか?」
「……ええ。かわいいお友達ですね」
蔵内先輩自身も、そう思ってたみたいだった。それはちょっとお相手さんに――愛されている自信がありすぎるんじゃないかしら、なんて思いながら、私は話題を噂のことに移す。この藪は、つついたら蛇が出てきそうだから。
「噂のこと、そろそろはっきり否定しておきたいですね」
「そうだな……。ただ、否定しても信じてもらえなかったり、するからな……」
「あ、それなら」
うーん、と考え込んだ先輩に、私は提案する。
「会長さえお嫌でなければ、こういうのはどうですか」
嵐山隊は後方部隊で、口さがない不特定多数の人を相手にしなくちゃいけないことも多々ある。
私が蔵内先輩に伝えたのは、根付さんに教わった手段のひとつだった。
【×月×日 噂の対処はうまくいったと思う。よかった!蔵内先輩はお付き合いしてる人と仲直りできたみたい。 でも、】
「生徒会長と副会長は交際をしているのでしょうか。学内で噂になっています」
その質問が出たとき、体育館内はにわかにどよめきを見せた。なんだろうこの質問は、と、だれもが思ったことでしょう。私はちらりと先輩を見る。
私もそうだけれど、蔵内先輩も、この質問に驚いたりはしなかった。それは当然のことで、いまの質問はまるでこの場――生徒総会に相応しくもない、質問者が思い付きで言ったかのような内容だけれども、実はきちんと用意された質疑応答のひとつだった。
これが根付さんに教えてもらったやりかたのひとつ。
噂は、あくまで「噂」の段階だから、否定することも反論することも難しくなってしまう。だから、あえて直接質問されるように仕向けて、真っ向からきちんと否定する。――仕向けて、なんていうのはさらに難しいことなので、所謂サクラを仕込んだりする。ボーダーが会見をするとき、仕込みの記者さんがいるのとおなじ。いましがた質問をした子は、私の友達の後輩だ。
ざわめきをものともせず、蔵内先輩は演台の前に立ち、落ち着いた様子でマイクスタンドの長さを調整して、応じた。
「交際は、していません。私にとって副会長、そして生徒会のみんなは、よき仲間であり、――また、よき友人でもあると思っております」
そんなふうに言われて、すこし胸のおくがむずむずする。先輩の言葉があんまりにまっすぐで、眩しいから。
嵐山さんがものすごーく公明正大なひとだから、私は普段からこういう物言いに慣れていると思っていたけれど、それが自分に向けられていると、やっぱり、すこし照れます。なんて思いながら、蔵内先輩の話を聴く。
「……また、校内で風紀を乱しているというのであればともかく、単なる好奇心から他者の交際に口出しをするのは、決して望ましいことではありません。だれとだれが付き合っている、なんて噂をすることが品のよいことかどうか、皆さんならわかると思います。節度をもって、学校生活を送りましょう」
やさしくてしっかりした蔵内先輩にしてはすこし手厳しい言葉。体育館に座っている生徒のうち、何割かがぎょっとしたのが、手に取るようにわかった。これ以上くだらない噂はやめましょう、と、釘を刺したのだということがはっきりと伝わったようで、安心する。
「――会長」
生徒総会が終わって。
教室へともどっていく一般生徒の列を眺めながら、私はそっと先輩に話しかけた。蔵内先輩は視線だけをこちらにくれて、なんだ、と聞く。
「昨日、お友達とは、どうだったんですか?」
「ああ、それなら」
にこ、と――こんな笑顔で答える時点で、先輩の答えはもう、わかっていた。
「ちゃんとわかってもらえたよ。さっきの答弁、実はすこしその友達が考えたんだ。綾辻のおかげだ、ありがとう」
「いいえ。よかったです!」
「うん、本当によかったよ。…………嫉妬してるのがかわいいだなんて、思っちゃいけないことだからな」
「……え?」
ぽつりと呟かれた言葉に、私はとっさに反応できなくて、首を傾げてしまった。
「え? あ――悪い、……忘れてくれ」
「……」
先輩は私が疑問符を浮かべたのを見て、なにかに気付いたように目をまるくした後、さっと視線を逸らした。
それがあまりにもめずらしくて、私はしばらく考え、――そして、気がついた。
蔵内先輩の悩みは――お付き合いしているお相手さんが怒ったこと、ではなく、お相手さんが怒ったのをかわいいと思ってしまったこと、だったのだ。
なんて――なんて、驕った! もちろん、先輩本人だって、それはわかっているんでしょうけど。
「ごめん、本当に、忘れてくれ……」
顔を手のひらで隠して恥じている、この殊勝な態度の先輩のこころの奥底に、まさかそんな俗っぽい感情があるだなんて、とっても意外なことだった。
それと同時に、理解する。蔵内先輩のそんなところを引き出すことのできるお相手さんは、きっととても、先輩にとってかけがえのないひとなのだ。
私はちょっとだけため息を吐いて、先輩の顔を覗き込むみたいにして、笑った。
「……会長でも、そんなこと、あるんですね」
【×月×日 噂の対処はうまくいったと思う。よかった!蔵内先輩はお付き合いしてる人と仲直りできたみたい。 でも、先輩にも意外な一面があって、びっくりした。】
「また明日ー」
「うん、また明日」
「じゃまた、ボーダーでね」
「またね」
学校を出て、友達と別れてボーダーへと向かう。今日はまず三門第一に寄って嵐山隊のみんな(嵐山さんを除く)と待ち合わせ。
校門を出た私の視界に、見慣れない色が飛び込んできた。六頴館のものとはちがう、黒い――学ラン。思わず顔を見れば、さわやかな笑みを浮かべた表情の――見知ったひとが、そこに立っていた。
「王子先輩」
「やあ。こんにちは」
「こんにちは。待ち合わせですか?」
「うん。クラウチってもう来るかな?」
変わったイントネーションで呼ばれているのは、王子先輩のつけた「あだ名」。ふしぎなひとだけれど、この先輩は蔵内先輩や神田先輩ととっても仲がいい。
でも、三門第一から六頴にお迎えに来る生徒は、ボーダー隊員の中にはあまりいない。三門第一は本部へと向かう途中にあるので、そちらで待ち合わせをしたほうが理にかなっているのだ。私と藍ちゃんが他のふたりを迎えに行くみたいに。
そう思ったので、私は素直にそれを訊いてみた。
「今日の生徒会活動は放課後にはないので、蔵内先輩ももう来ると思いますよ。神田先輩も」
「そうなんだ。ありがと」
「いいえ。王子先輩は、どうしてわざわざこっちまで?」
「ああ、それは」
王子先輩はほんの一瞬だけ俯いた。やわらかな色の髪が揺れる。
「ぼく、クラウチの王子様だから」
「あら」
――こういうひとなのだ。真意の読めないことを言うのは、おもしろくてきらいじゃないけれど、一対一だとすこし反応に困るな、と思う。
なんと答えようか迷っている間に、王子先輩は、それに、と続けた。
「今日あるって聞いた生徒総会の答弁、ちょっとだけぼくが一緒に考えたんだよ。みんなの反応がどうだったか早く知りたいなと思って」
「あ、そうなんですね。……すっごく効果があったみたいでしたよ。とっても助かりました。ありがとうございます」
「……そんな、お礼を言われるほどのことじゃないよ。――じゃあ、またね」
「はい、また」
手を振って王子先輩と別れる。
歩きながら、そうなんだー、と、日の落ちはじめた空を見上げた。王子先輩が考えたのなら、蔵内先輩にしては容赦のないあの答弁も頷ける。なるほどー、とひとり頷いたところで、私は気付いた。それを考えてくれたのって蔵内先輩の「お友達」で、蔵内先輩のお友達、って、先輩とお付き合いしてるひとで。
「……あれ?」
きみを描くはなし 三年生になって嬉しかったことは、ホームルームの教室が二階になって、昇降口から近くなったこと。それと――自分の座席が窓際後方に配置されたこと。
そう言ったら、友達はちょっと不思議そうにして、それから微笑んだ。
「なんで? ……先生に目を付けられにくいから?」
「ううん、それも少しあるけど」
窓の傍、やわらかいひかりが差し込んで、揺れるカーテンが机の脚をなぞってゆくその席は、たしかに教壇から見えづらい。お昼寝なんかにはもってこいだ。
でも、私がその場所を気に入っている理由は、それだけじゃない。
――この位置からは、王子様を観察することができるのだ。
ついさっきまで視界にあった彼の姿を脳裏に思い浮かべ、私は手元の鉛筆を斜めに寝かせて、さあっと動かす。描いた陰がほんのすこしずつ濃くなる。
「あ、また描いてる。王子くんに見つかったら怒られるわよ?」
「えー? そうかな?」
どっちかっていうと面白がるんじゃないかな、そんなふうに考えながら――私は、スケッチブックをそっと閉じた。私としては、本人に見られてもべつにいいのだけれど、とりあえず友達の忠告を聞き入れる。
表紙はクラフト、中はごく淡いクリーム色のスケッチブックは、私の「なんでもノート」だ。気になったことや、ちょっとしたスケッチ、荒目の紙にやわらかい鉛筆でなんでも書き留める。
一月に二、三冊を消費するそこに、ひとりの男の子の姿が頻出するようになったのは、ごく最近のことだ。
いわゆる無造作ヘアなのかそれともセットしているのか、ふしぎな跳ねかたをしている髪。おとなっぽいような、幼いような、ふしぎな輪郭線。下まつげの長いたれ目。
――王子一彰くんは、私の二つ前の席に座っている。いまは休み時間だから、いないけれど。
「もしかして、この席が気に入ってるのは王子くんが近いから? 彼みたいなタイプが好みなの? 意外ね、もっと硬派なひとがいいのかと思ってた」
たとえば、と出された名前は、馴染み深い同級生の名前だった。私は頬を膨らませ、せいいっぱい抗議をする。
「それ、よく言われる。ふたりは付き合ってるの? って訊かれるよ。でもそういうのじゃないの」
「じゃあ、やっぱり王子くんが好きなの?」
「それも違うよー! 私、恋愛に興味ないもの。わかってて言ってるでしょ?」
「ふふ、ばれた?」
目にかかる前髪をいじりながら笑う友達は、本気でそんなことを言ってるわけじゃない。
それをわかっているから、私もけっして本気で怒っているわけではないのだ。
遠く、内容の聞き取れない音量で、話し声がした。開け放たれている窓のほうへ身を乗りだして、私はそっと下を見る。そうすると、声がぎりぎりで聞き取れるようになる。
――王子、今日は学校終わったら、蔵っちと待ち合わせて本部?
――うん。迎えに来るって。
二階に位置するここの窓からは、中庭に設置されたベンチが見える。陽当たりはいいけれど職員室が近いからか、あまり人のこないそこに、座っているふたり。同じクラスの生徒で、どちらもボーダーに所属している。
王子くんと、北添くん。
その場所で、ふたりがよくいっしょにお昼ごはんを食べていることを、私は知っているのだ。
――次、どことだっけ。夜の部でしょ。東隊と?
――そうだよ。それから、荒船隊と……
――蔵っちが、新しいワザ? 練習してたでしょ。どんな作戦なの? ゾエさん、聞きたいなあ。
――いいよ。試合が終わるまでは、誰にもしゃべらないでね。
そこまでを聞いて、私は上半身を引くと、慌てて窓を閉じた。会話の内容が、私が聞くべきでない領域に差し掛かったからだ。彼らだって、さすがにこんなところでボーダーの機密情報を話しているわけではないけども。これは聞かないほうがいいって、私はそう判断した。
お昼どき、真上からのひかりをゆるくはねかえしている窓に阻まれて、王子くんと北添くんの声は聞こえなくなる。ただし、その姿を観測することは、まだできた。ふたりは会話を止めないまま、各々手に持ったパンをかじっている。
すこし食べて、飲み込んで、またしゃべる。たぶん、食べているのは同じパンだけれど、体格の違う彼らは消費スピードがまるで違って、それがおもしろい。
私は机の中から愛用のスケッチブックを取り出した。ぱらぱらっと捲って、まだなにも描いていないページを開く。
使う鉛筆は2B。王子くんと北添くんのまんなか、ぽっかり空いた空間をそのままノートの中心に持ってきて、ふたりの輪郭をぼんやりととる。それが済んだら鉛筆を寝かせて、ざあっと大まかな陰を写してしまう。パンを頬張って、ふっくらまるくなったシルエット。それから、
「あっ」
いざその表情を描こうとしたまさにそのとき――王子くんが、破顔した。眉を下げて、目を細めて。視線がうごいて、下に、上に、それから北添くんのほうに戻る。にこっと上がった口角が、またなにかをしゃべっている。それはそれは嬉しそうに。
王子くんにしてはめずらしい顔で、そして、すっごく、絵になる顔だ。うん、この顔だ。これがいい。私はその表情を目に焼き付けると、窓から目を背けてスケッチブックに集中した。
あれがどういう表情なのか、なんの話をしているのか、私には理解できる。今年度に入ってからこっち、すこし王子くんを観察していただけで知ることのできる、かんたんな法則だ。
王子くんがあんなふうに嬉しそうに話すのは、ボーダーの先輩や友達のこと、自分の部隊のこと。「カシオ」くんのこと、「羽矢さん」のこと。
とりわけ、「クラウチ」くんの話をするときに、彼はとってもしあわせそうな笑顔をする。
ところが。
王子くん、元気ないわね、と、友達がそう言ったのはわずか数日後のことだった。帰り支度を終えた鞄を私の机の上に置いて、そう思わない? と同意を求めてくる。
「いつもスケッチしてるの見てたら、私も、王子くんのこと気になってきちゃったわ――今日の王子くん、なんだか元気なかったんじゃない? 気のせいかしら」
私は、うん、と頷いた。お昼休みに見た彼の様子を思い出す。
今日も今日とて、王子くんと北添くんは、ごはんをいっしょに食べていた。教室の窓から覗き見るベンチの上、色素の薄いつむじはどこか意気消沈して見えた。
――ねえ、王子、なにかあった?
――え?
――王子がそんなにわかりやすいの、めずらしいよ。いつも、もっと上手に隠すでしょ?
――なんでもないよ。ゾエの気のせいじゃないかな。
――…………。
――……ほんとうに、たいしたことじゃないよ。今日、ボーダーで会ったら、ちゃんと謝ろうと思ってるんだけど。実は、昨日……。クラウチに。
いつもだったら楽しそうに呼ぶ名前を、王子くんは、彼にしてはか細い声で話題に乗せる。
その様を思い出して、私は、はあ、とため息を吐いた。
「そう、そうなの……。今日の王子くんからはインスピレーションが湧かないんだ」
「インスピレーション? ……ふふっ、そんなこと考えてたのね」
「考えてないよ! 感じるの」
「そういうことじゃないわよ。じゃあ今日は王子くんのこと描いてないのね」
「え? 描いたけど」
「描いたの? あなたって、ほんとうに、おもしろいわね」
呆れた顔で笑った友達は、くるりと振り返って王子くんの座席のほうを見た。そこに彼は座っておらず、置き去りにされた鞄だけがさみしそうに主人の帰りを待っている。王子くんは用事があって、職員室に出向いている。ちなみに北添くんはもう学校自体を出てしまった後だ――ボーダー隊員の任務があって、六限目を早退したのだった。
「明日になったらきっともとどおりよ。王子くんはなにかを引きずるような性格の人じゃないし……今日も蔵内くんが迎えに来るんでしょう? そしたら機嫌がなおるわよ」
「んー……そうかな……」
蔵内くん――王子くんがいつも楽しそうに話している「クラウチ」くん。彼が毎日のように王子くんを迎えに来るのは有名な話だ。
容姿も成績も優秀、六頴館高校の生徒会長さん。そんなスーパースペックの蔵内くんだから、他校の生徒とはいえ、こちらでも名が知られている。校門の前に佇む姿はとっても目立つ。私は、今度その姿を絵にしちゃおうかな、なんて思っている。
六頴からボーダーに向かうなら、三門第一に寄るのは遠回りのはずだ。それをわざわざ、すこしでも王子くんといっしょにいるために会いにくる蔵内くんは、まるで王子様に仕える従者だなんて、よく言われている。――心無い言葉だと、忠犬、なんていうふうにも。
とっても仲のいいふたり、だけど。
――ぼくは、クラウチのとなりに、居続けていいんだろうか?
そんな近しい距離の彼らだからこそ、見えないものだって、あるんじゃないのかな。
「噂をすれば、だわ」
友達が小声で示した先、校門の前に、そのひとは立っていた。陽のひかりが西に傾きはじめ、すこし汗ばむような気温のなか、彼はしゃんと背筋を伸ばして佇んでいて――けれども視線が、まるで水槽のさかなを見るかのように、みぎへひだりへと落ち着かないでいる。
蔵内くんは、たしかに王子くんを待ちながら、でも彼らしくもなく狼狽えていた。
「どうしたのかしら。なんだか様子が変だけど……」
それはきっと、王子くんの元気がなかったことと、関係しているに違いなかった。だけどそうと言ってしまうわけにもいかず――と、思ったとき、蔵内くんが私たちに向かって軽く手を挙げた。驚きながらも近寄ってみると、王子を知らないか、と言う。
「同じクラスだったよな。待ち合わせ時間は過ぎてるんだが、来ないんだ。先に本部に向かったのかな」
「王子くんなら、用事があって職員室に行ってるわよ。もう十分もすれば来るんじゃない?」
「え? あ、ああ、そうか……」
ありがとう、と手を振った蔵内くんを置いて、私たちは学校の外へ出る。
「やっぱり、へんね。なんだかそわそわしてたわよね?」
「うん……」
頷きながら、私は考える。――あれはたぶん、置いていかれたと思いながら質問していた。
つまり、蔵内くんにはうしろめたいところがあったのだ。
「……ごめん、先に行ってて。私、ちょっと、わすれもの!」
「えっ?」
友達のびっくりした声が聞こえたけれど、構わずに私は振り向いて、元来た道の短い距離を走り出した。
ばたばたと鞄が揺れる。そのなかに、入っているもの。なんでも描く、私のためだけのノート。
いまは、私のためだけじゃなく、ひとの役に立つかもしれないと、そう思ったから。
「――蔵内くん!」
慌てて戻ってきた私の姿を見て、蔵内くんはたいそう驚いたようだった。それは、そうだよね。私と蔵内くんって、そこまで接点があるわけじゃないし。友達の友達くらいの間柄だし。
でも、これでも私は、蔵内くんのことをそれなりに知っているのだ。友達の同級生。それなりに古参のボーダー隊員。六頴館高校の生徒会長さんで、最近、副会長ちゃんと付き合ってるなんて噂をささやかれてる、――ほんとうは、王子くんの、こいびとさん。
――クラウチに、否定ぐらいしなよって言ったんだ。
――冗談のつもりだったのに、すごく冷たい言いかたしちゃった。
――ぼく、思ったより、嫉妬、してたのかも。
――恋愛ごとにまつわるトラブルって、いままでもたくさんあっただろう? ボーダーの隊員として、部隊を預かる隊長として、ぼくは……。
――ねえゾエ。……ぼくは、クラウチのとなりに、居続けていいんだろうか?
「蔵内くん、これ、あげる」
「え……?」
私はスケッチブックのページを数枚引きちぎって、蔵内くんに向けた。
そこに描かれているのは、たったひとりの男の子だ。
いわゆる無造作ヘアなのかそれともセットしているのか、ふしぎな跳ねかたをしている髪。おとなっぽいような、幼いような、ふしぎな輪郭線。下まつげの長いたれ目。
一枚一枚ぜんぶ違う表情をした、王子くん。王子一彰くん。
「これは……」
「私が描いたの。いい? これが、今日の王子くんのスケッチ」
そう言って、私は最初の――時系列的に言えば最後の――一枚を見せる。すこし下を向いた王子くん。実際はこんな角度じゃ見えなかったのだけれど、かんたんなスケッチだから、てきとうに想像も交えて。
でも、こっちのほうが、きっと伝わるでしょ?
「……」
蔵内くんはすこしだけ眉を寄せた。おそらく、やさしい彼のことだから、王子くんにこんな表情をさせたのは自分だと思っている。
そのやわらかなこころを傷付けてしまうのは、すこしこわいけれど。私は次の一枚を示す。
「こっちが、『カシオの成長が楽しみだよ』って言ってるときの顔」
こちらは教室で喋っている王子くんのスケッチだ。北添くんとボーダーの話をしてたときの、いつもの微笑みよりもほんのちょっぴり楽しげな、笑顔。きっと蔵内くんもよく見たことがあるだろう。
「それで、これが」
ちょっとだけ硬さのある紙が、ぺらり、と宙に踊る。
その一枚を見た瞬間、蔵内くんは、ロボットみたいだなんて言われがちな目をこれでもかとまるくした。
こんなときだけど、私はすこし得意な気持ちになる。そうでしょ、見入っちゃうでしょ、我ながらよく描けてるもの。
うれしそうに膨らんだほっぺ、細められた眼。ふわふわの髪はまるでしあわせの象徴だ。こんなにも幸福そうなひとはそう見られない。
でも、王子くんがこんな表情を浮かべるのは決まってとある話題のときだけ。
「……これが、『クラウチはほんとうに面白いんだ』って言ってるときの顔なの」
あなたのはなしを、するときだけ。
「だから、あまり、悲しませないであげてね」
「…………」
蔵内くんはまじまじとそれらの絵を見たあと、しっかりと両手で受け取った。顔を上げて、まっすぐ私のほうを見る。それから、ひとつ、頷いた。
「――わかった」
その瞳を見て、私は一歩下がった。
もう大丈夫。これで、私がここに留まる理由はない。
「じゃあ私、行くね。仲直りしてきてね」
「ああ。心配かけて、悪いな」
今度こそ私は通学路に足を踏み出して――
「ありがとう、加賀美! また本部で」
――そう言って手を振った蔵内くんに、手を振り返して、返事をした。
「次のランク戦、負けないから!」
無機質な本部の廊下のなか。
加賀美、と、名前を呼ばれて振り返ると、蔵内くんが立っていた。
王子隊の隊服は彼によく似合っている。絵になるくらいに――ああ、今度は王子くんだけじゃなくて、蔵内くんも描いてみよう。よく通った鼻筋がすてきだから、それを描きたい――そうだ、キュビズムの技法を用いたらどうだろう? 特徴的な目のかたちも、幾何学的に構成した画面のなかにきっとよく似合う――ちがうちがう、そうじゃなくて。
内心で想像を打ちはらって、私は返事をする。
「お疲れ様。どうしたの? なにか連絡?」
蔵内くんが手に持っているクリアファイルを見ながら訊ねた。
ボーダー内での伝達事項は主に上層部から隊長たちへ、端末を使って一斉に行われる。一般のB級戦闘員である蔵内くんから、違う部隊のオペレーターの私へ、という連絡は、いままでに受けたことがなかった。
「いや、違うんだ」
首を傾げた私に、あっさりと蔵内くんは言った。軽く振られた手が、そのまま彼の手元のクリアファイルをめくって、中身を取り出す。
「この前は、絵をありがとう。返すよ」
「ああ、それね」
出てきたのは他でもない私自身が描いた絵だった。かんたんなスケッチ。題材は王子くん。
すこし複雑そうな笑顔で、手渡されそうになった数枚の絵。それらを、私は両手の指を広げて留めた。
「いいよ。あげたつもりだったし、正直、取っておくつもりもなかったから。ささっと描いたやつだし」
「そんなに簡単に描けるものなのか?」
「えー、もしかして褒められてる? 休み時間とかに描いたやつだよ」
「すごいんだな、そうなのか……」
ほんとうに感心した様子でそう言って、蔵内くんは絵をそっとファイルにしまいなおした。どうやら貰ってくれるらしい。
たしかに私は芸術方面の進路を考えてるけど、すくなくともいまはまだ、絵画をちゃんと習っているとかではないし、大して巧いわけじゃないと思うんだけれど。
でも、そんなふうに言ってもらえるなら、当然悪い気はしない。
「……わざわざありがとね。じゃ、私はこれで」
「あ、待ってくれ」
にやにやっと上がりそうになる口角を抑えて、私は踵を返そうとした。それを蔵内くんが止める。その行動をふしぎに思う間もなく、彼の手は再びクリアファイルからなにかを取り出した。
私のスケッチが描かれたノートの切れ端よりも、ずいぶんと小さいそれは――写真?
「その……笑顔の絵がすごくよかったから、こっちも見てほしくて、持ってきたんだ」
そう言って見せられた写真には、王子くんが写っていた。
私服姿の王子くんが、こっちを――カメラのほうを見て、笑っている。
その笑顔は、私の描いたあの絵なんか、敵わないほどのかわいらしさだった。
すっかり照れて染まった頬。ちょっと思ってたけど、王子くんって耳まで赤くなるタイプらしい。口元を隠そうとした手、下がりきった眉。
相当に心をゆるしてなくちゃ、こんな表情はきっとしない。誰が見たって、これは、恋人たちの逢瀬のなかで撮られたものだと、そうわかるに違いない。
こんなの、私が見ちゃ、ダメでしょ。
……誰が撮った写真? と訊きかけて、思い出す。ああ、そっか、蔵内くんってカメラが趣味なんだっけ。
そういうつもりじゃないのかもしれないけど……。いや。いやいや。
だって、こんなのって、ねえ?
「意外、蔵内くんってそういうマウント取るんだ」