ゆめはあまく、きみはにがいいつかみたあまいゆめ ひたいにあたたかな温度を感じて、少年は眠りから目をさました。
寝転んでいた縁側はすこし寒かった。身体を丸めると、いつの間にかかけられていた毛布に気がつく。それを手繰り寄せながら寝返りを打って、少年はこちらを覗き込んでいるひとを見た。
「おばあさま」
傍に座っていた女性は、にこ、と微笑んでそっと手を伸ばした。その瞳のいろは、少年のそれとよく似た青だ。しわの多い、うすくやわらかな皮膚をした手のひらが、少年のまろいひたいをやさしく撫でてゆく。
「わるい夢を見たよ……悲しかった」
「そう。でも、もう辛くないでしょう?」
「うん」
穏やかに問われ、少年は頷いた。夢の中ではたしかにとても辛い思いをしたのに、いやな気持ちが残っているような感覚はない。
身を起こすとしばし首を傾げ、少年は訊ねた。
「おばあさま、ぼくの夢をたべたの?」
彼女は答えず、微笑った。
その口のなかからころころと、かすかな音がする。それに気付いた少年は、ねえ、と、祖母の腕を引っ張った。
「ぼくの夢、どんな味がするの? ぼくもたべてみたいよ」
「かずくんにはきっと、まだ早い味よ」
「でも、たべてみたい。だめ?」
せがむ少年に彼女は困った顔をして、それから舌の上でころがしていた球を、がり、と噛み砕いた。すこしだけね、と、細かい欠片になったそのひとつを少年に与える。
少年は嬉々としてそれを頬張った。しばらく懸命にむぐむぐとちいさな口を動かして、そうして、目を見開いた。
「…………にがーい!」
「ほらね、早いって言ったでしょう」
べ、と舌を出した少年は、それでも口のなかのものを吐き出すことはしなかった。涙を浮かべながらそれを飲み下して、大げさに肩で息をする。
「うう……おいしくないよ、夢って、みんな、こんな味なの?」
「そうねえ……悪い夢は、だいたい苦い味がするの」
縁側にふたたび寝そべって、祖母の膝にすがり甘える少年に、でもね、と彼女は語りかけた。
「世の中には、甘い味のする夢だってあるのよ」
「あまいの?」
「そう」
「あまいの、たべたいな……」
砂糖菓子のような味を想像して、少年は自分の頬をむにむにと揉んだ。そのすこし乱れた髪をていねいに撫でつけて、でもね、と彼女は苦笑する。
「かずくん、憶えておいて。甘い夢はたくさん貰ってはいけないわ」
「……どうして?」
「甘い夢はね、」
王子一彰は目をさました。
「……おばあさま?」
寝起きのかすれた声が夜闇に吸い込まれた。
時計の短針はまっすぐに上を指している。真夜中の空気はしんとして、沈黙を保っていた。
とうの昔に亡くなった、祖母の夢を見たような気がする。
王子の家系には、何代かにひとり、まるでおとぎばなしのような能力を持った人間が生まれてくる。祖母はその能力の持ち主だった。
「夢を喰べる」能力――彼女と同じ能力を持つ王子を、とてもかわいがってくれた、やさしくて、すこしふしぎなひとだった。
王子は、夢を喰べる。
栄養の摂取をそこから行うわけでもなければ、それ以外に人と違うところがあるわけでもない。王子は至って普通の人間で、ただ、夢を喰う。喰べることが、できる。
方法はとても簡単で、レム睡眠に入っている人間のひたいに自分のひたいを合わせ、目を閉じ、眠る――それだけだ。そうして得た眠りは通常のものとは違って、おおよそ五分程度で目がさめる。
そして、口のなかに、あめ玉が入っていることに気がつくのだ。それは大小も味もさまざまで、どうやら夢の内容に左右されて特徴が決まるらしい。悪夢は苦く、楽しい夢はすこしすっぱい、らしい。
らしいというのは、夢の内容を王子が知ることはないからだ。これらの法則は王子家の能力者が代々伝えてきたもので、王子は祖母から教えられた。
夢を喰べることで、王子が得られるものはほとんどないが――利点はある。
喰べられた夢の持ち主は、夢の内容こそ覚えているものの、そこで得た感情を現実に大きく引き摺らない。いくら寝言で泣き叫んでいたとしても、夢を喰べられればさっぱりとした寝起きを迎えることができる。
だから、この能力を使うのは、身近なだれかが悪夢を見ているとき、が多い。悪い夢を喰べてしまって、苦しむひとを癒す、それがこの能力の主な使い道だ。
「…………」
夢の中、彼女が告げたことばを思い出そうとして、王子は眉根を寄せた。
なにか他にも――たいせつなことを、教わって、そして忘れているような気がするのだ。
実際、祖母から教授されたものごとは数えきれないほどにある。この不可思議な能力の扱いかた。常人とは違う力を持っていることを、おいそれと他者に明かさないこと。
甘い夢に出逢ったなら、それは喰べないようにすべきこと。
「あれ。なんで、だっけ……」
王子は首を傾げた。たしかに「甘い夢はできるだけ喰べないように」と言われた覚えがあるが、その理由が思い出せない。
なぜなのかを問うた覚えも、答えが返ってきた覚えもある。ただ、内容を覚えていない。
他人に能力のことを教えるな、等の重要な教えは、忘れたくても忘れられないほどに徹底して教え込まれているから――おそらく、深刻なことではないのだ。そう結論付けて、王子はふたたび目を閉じる。明日は朝から防衛任務がある。睡眠はしっかり摂っておかねばならない。
――でも、甘い夢って、どんな夢なんだろう。
そう思いながら、王子はとろとろと眠りに落ちた。
答えを訊きたくとも、祖母は、もう、この世にいない。
邂逅「ああ、起きたのか。おはよう」
「……はよ、悪い、ちょっと外出てくる」
目元を手で覆い隠し、足早に作戦室を出る姿を見送って、蔵内は眉根を寄せた。
「おつかれさま。いま神田とすれ違ったけど……、また?」
入れ替わりに部屋へ入ってきた王子へ首肯して、ため息を吐く。
「まただ」
神田が逃げるように弓場隊の作戦室を出ていくのは、これで今週三回目だ。
蔵内は界境防衛機関――通称ボーダーというところに所属して、三門市に迫り来る近界民から街を守る日々を送っている。
王子と神田とは同級生で、いまは三人とも同じ隊に所属している。なかなかどうして気が合い、それなりにうまくやれている、と思っていたのだが――ここ一週間ほど、神田の様子がおかしかった。【以下をコピペ】
どう見てもよく眠れていない状態で、ボーダー内にいるときも居眠りをしては、気分のすぐれない様子で人を避ける。
「なにかあったのかな。クラウチ、思い当たりある?」
「いや、特に……」
「忙しいわけでもなさそうだけど、寝不足みたいだし」
「――単に夢見が悪いんじゃないか?」
「夢?」
思い付いて言う。ふと口から出たそれは、考えてみればたしかなように思えた。
「神田の様子がおかしいのはいつも、寝てた後だろう……そうだ、学校で――昼休みもそうだった」
「ふうん……」
王子が目を眇め、口元に手をやってしばらく考え込む。ゆめ、とつぶやいて何事かを思案する。
「王子? どうした?」
「クラウチ、次同じことがあったら、神田が眠ってる間にぼくを呼んでくれない?」
「……眠ってる間に?」
怪訝に思って蔵内は繰り返した。さわやかな容姿に似合わず案外喧嘩っ早いこの男が、いったいなにを画策しているのか、すこし心配になる。
そんな蔵内の心情を察したのか、王子は口角を上げた。
「心配しなくても、イタズラしようとか、そういうのじゃないよ」
「悪い夢に悩まされているのなら――、ぼくがどうにかできるかもしれない」
そもそも、神田は人前でだらしない態度をとるような人間ではなかった。そんな彼が気を抜いた姿を晒しているというのはめずらしく、学校やボーダーで眠りこけているほうが、本来イレギュラーな事態なのだ。
だから、その場面にあえて出くわそうと意識してみれば、案外その機会は訪れなかった。神田自身、自分の状態に思うところがあるのだろう。学校の昼休みやボーダーでの待機時間、そういった時間に限り黙って姿を消す彼は、おそらく人の寄り付かない場所に移動して眠っている。
蔵内はそれがすこしさみしくて――王子が思わせぶりな提案をしてから三日後、ボーダー内に設えられている訓練用の狭いブースで、睡眠をとっている神田をようやく見つけたのだった。
「……で、なにをするつもりなんだ、王子?」
「うん、個人ブースに入っててくれたのは都合がいいね」
訝しげに訊いた蔵内をさらりと躱し、王子はブース内の緊急脱出用ベッドで眠る神田に近付いた。
眠る神田は、腕を組み眉間に大きくしわを寄せ、浅い呼吸をしている。いかにも寝苦しそうだ。
王子は自分よりも大きな体躯を跨いで、おくびもせずのしかかった。
「おい、王子?」
「大丈夫大丈夫。クラウチ、ちょっとぼくが起きるまで、手出ししないで見ててね」
神田の頬を包み込むように触れ、身をかがめるのを、蔵内は緊張して見守った。王子のやわらかそうなつむじを見下ろす。やがて王子は眠る神田に覆い被さり、ふたつの影が完全に重なって、
「王子、おまえ、なにして……!?」
王子が神田にキスをした。
すくなくとも、蔵内の立っている位置――背後からはそう見えた。
手を出すなと言われたことも忘れ、慌てて王子の身体を神田から引きはがす。どういうつもりだとその顔を覗き込むと、王子は瞼を閉じて、その瞳に長い睫毛のカーテンを下ろしていた。ぐったりと力の抜けた身体が蔵内に凭れかかってくる。
「……王子?」
「…………」
名を呼んで、揺さぶって、軽く叩いて、――そのいずれにも反応がない。
すっかり意識を失っている様子に、呼吸を確かめる。幸い、王子は穏やかに息をしていた。いったいなにが起こったのか理解できずに、蔵内は彼の身体を抱き留めたまま、しばし静止する。
王子はどうやら眠っているらしいが――なぜ、このタイミングで?
困惑していると、蔵内の腕のなか、ぴくりと王子が身じろぎをした。
「ん……」
まろいひたいが顕になり、眉間にしわが寄る。はく、とくちびるが動いて、むにゃむにゃと形を成さない寝言が漏れる。
戸惑いながらも宥めるように背を撫でると、やがて声がはっきりとした言葉を結んだ。
「……痛い、」
不機嫌そうに漏れた声。蔵内は慌てて、王子を抱き締めている力をゆるめた。
しかしそれはあくまで、夢の中での不平であったらしい。王子はううと唸り、ひとことふたこと、苦しそうに寝言を続ける。
「いてえよ、なに……、は、」
「え?」
蔵内は思わず声をあげた。
たしかにそれは王子の寝言、王子の声だったが――口調が彼のものではない。
それは、むしろ、未だ眠りから覚めないもうひとりの同級生のような。
「……ぅ、なんだよあれ、うあ、あああ」
勢いと声量を増す音。蔵内は不安になって王子の身体をゆさゆさと揺すぶった。
内容を聞くに、王子は悪夢を見ている様子だった。痛い、苦しい。繰り返される言葉は悲痛で、まるで聞いているこちらが辛くなる。
「王子、起きろ、王子」
「ううー、やばいって、逃げないと、……ううああ」
「王子――」
閉じられたままの眼にぎゅうと力が籠り、いやいやをするように振られた首が、くせのある髪を蔵内の胸にこすりつける。
痛ましくて、起こしてやりたくて、すこし強めに頬をぱちぱちと叩く。それでも王子は起床しない。
なにが起きているのか――どうすればいいのか、混乱するばかりの蔵内に抱かれたまま、王子は、言った。
「ぁ、う、おやじ、……死ぬな、親父」
蔵内はぴくりと眉を上げた。
――逃げないと。親父。死ぬな。
王子が見ているらしい夢のなか、そのシチュエーションに当て嵌まる過去を、蔵内は知っている。
――俺の親父、最初に近界民が来たとき死んじゃって。
あれはいつだったか、そう言って困ったように眉を下げていたのは。
いま、蔵内の腕のなかにいるのは、たしかに王子一彰そのひとに他ならない。それをわかっていて、けれども蔵内は――彼とは異なる名を、呼んだ。
「……神田?」
瞬間、ぱちりと王子の目が開いた。
「うわっ!?」
「あいたっ」
驚いて、蔵内はずっと抱き留めていた彼の身体を離してしまった。どさり、ベッドの下に落とされた王子は、ついた埃をぱんぱんと払いながら立ち上がると、蔵内を振り返った。
「ずいぶん乱暴な『おはよう』だね、クラウチ?」
「あ、ああ……おはよう?」
「うん、おはよう」
にこりと笑う姿はいつもどおりの王子だ。
「王子、いまのは」
「うん。ぼく、寝てる間になにか言ってた?」
そう訊ねられて蔵内は口ごもった。――王子は、自分が眠っていた間に起きたできごとを、知っている。
なにを言っていいものか迷って、蔵内が目を逸らすと、王子はころころと笑った――否、その口のなかで、ころころとなにかが転がっている。あめ玉、だろうか。
「ぼくの予想だと、災害の夢だったかな、って思ってるんだけど。……きみはかしこいから、だれの夢だかわかっただろう?」
ば、と思わず勢いよく向けた視線の先、ころころと音が鳴る。
すべてを理解しているかのような王子の物言いは、まるで手のひらの上で蔵内を転がしていた。なにが起きているのかさっぱりわからず狼狽えると、王子は困ったように眉を下げた。
「……からかってるみたいに聞こえたかな、ごめん。詳細は省くけど、ぼくが見ていたのは神田の夢のはずなんだ。よかったら寝言の内容を教えてほしい」
あとで説明するね、と言う王子はめずらしく殊勝な様子だ。
事情はよくわからないが、蔵内は彼の言葉を信じることに決めた。もともと、なにを考えているのか理解しがたいところはあるが、王子は信頼できる仲間だ。
蔵内が聞いた内容を説明すると、彼は、ふうん、とすこし考える素振りを見せた。
「なるほど。…………」
そして、未だ瞳を閉じたままの神田――いつの間にか穏やかに眠っている――に向き直ると、
「えいっ」
唐突にその身体をベッドから蹴落とした。
「王子!?」
「ぶっ! いてて、……えっなんでおまえらここにいんの」
蔵内と神田の声がかぶる。
床にひっくりかえったまま、神田は目を白黒させて、蔵内と王子の顔を交互に見た。状況を説明しようと口を開いた蔵内だったが――横から伸びた腕がそれを阻んだ。
がっ、と、神田の胸ぐらを掴んで、王子はにっこりと笑った――ように見えたが、蔵内は気がついた。
その青い眼は、笑っていない。
「神田、悩みは進路のこと? なにか隠してるだろう、きみ」
「な、……んだよ、急に」
自分より背の高い相手にも動じず、王子は言い募る。
「先週の進路相談」
「っ……」
「なんて話したの? きみもう決めてるんだろ? なにを隠してる? 」
「……俺の進路だろ、王子に関係ないよな」
「あるね。ボーダーに入っておいて、なに言ってるの? ああでも、だからこそ、なのかな。……それがぼくやクラウチや弓場さんやののさんへの――義理だと思ってるなら、きみは、すごく、莫迦だ」
話の全容が見えない。ぎりぎりと神田の首元を締め上げる王子の手に、蔵内は手を伸ばしかけ、なんと言って止めればいいのかわからずに下ろした。
神田の進路。ついこの前に、教師と一対一の進路相談があったのはたしかだ。だがボーダーに属している学生の進路は限られており、そもそも蔵内たちはまだ、志望する学校をはっきりと決めるような時期ではない。それがこんなに早いうちに、なにを決めるというのだろう?
内心で首を傾げた蔵内に、王子の声が告げる。
「神田――きみ、三門を出るつもりなんだろう」
思ってもみなかった言葉に、思考が停止した。しばらく脳内で反芻して咀嚼する。――神田が、三門を、出る?
当の本人である神田はただ押し黙っている。その様子はまるで王子の言が事実だと示しているようで、蔵内は縋るような気持ちで彼の顔を見た。
神田は穏やかな表情をして微笑んでいた。
「……いつから知ってた?」
「知ってたわけじゃないよ、推測しただけさ」
ぱ、と、神田を掴み上げていた王子の腕が離れる。そうして神田は今度こそ王子の指摘を肯定する。
反射的に、蔵内は唇を引き結んだ。未来の選択なぞ個人の自由だ。それはわかっているが、神田が三門を離れるということは、いずれ別れが来るということに他ならない。
「クラウチ」
王子に名を呼ばれる。ぽん、と軽く背を叩かれて、蔵内は自分が泣きそうになっているのだと気がついた。
はあ、と、神田のため息が狭いブース内に響く。後ろ頭を掻いてから、その腕がゆっくりと下りた。
「……まいったな。さすが王子」
「格好つけてないで、クラウチにこんな顔させた責任とってくれない?」
「悪かったって。……悲しませたくなかったんだよ、」
――逃げてた、ごめん。そう言って、神田は改めて自分の話をした。近界民に襲われて父親が亡くなったこと。父の職業は建築関係だったこと。自分もそれを目指したいこと。
そして、その夢を叶えるために、三門を出ようと考えていること。
「俺たちが失くしたのは人だけじゃなくて……家とか、学校とかもそうだろ。勉強して戻ってくれば、復興にもきっと役立つし……」
神田の端正な顔立ちに翳りがよぎる。そのひたいに、ぐ、としわが寄る。
「でも、三門を助けるためって言って、せっかく入ったボーダー辞めて、三門を捨てるみたいなことするのかって。……そういうこと考えてたら、あのときの夢、見るようになって」
「……捨てるんじゃないだろう、それは?」
思わず蔵内は口を挟んだ。――その考えはすこし神田自身に厳しすぎるのではないかと、そう思ったので。
ぱち、とひとつ瞬きをして、神田の視線が蔵内に向く。
それから、うん、と笑んだ。
「そうだな。……わかってるんだ、ありがとな。……俺、もう、決めてるんだよ」
「決めてるなら迷うことなんてないのに、ばかだね」
「王子」
吹っ切れたような声と、尚も責めるような声。蔵内は後者を窘めた。当の神田は、いいよ、と王子の頭に手を乗せる。
「さみしいと思ってくれてるんだろ、な?」
「ぼくそんなこと言った? 神田、どういう思考回路してるの」
ぐりぐりと頭を撫でられる王子は不服そうだが、蔵内にもわかった。王子はただの嫌味でそんなことを言っているわけではない。――そういう男なのだ。
ぽむ、と、蔵内も手のひらを王子の方に乗せる。クラウチまでなに、と低く声をあげる王子はひどく不満そうだ。その表情がまるでちいさなこどものようで、蔵内は笑ってしまった。ひとしきり笑って、それからふと王子に訊ねる。
「王子、さっきやってたのはなんだったんだ?」
「ん? ……ああ、あれはね」
そして王子は自分に備わるふしぎな能力を説明してみせた。夢を喰べること。その内容を自身の記憶に留められるわけではないが、悪い夢の苦しみを薄められるのだということ。キスのように見えた行為はひたいを合わせていたものらしい。それを聞いて蔵内は安心する。
「え、じゃあいま俺の夢? 喰ってるのか?」
「うん、なかなか苦い夢だ」
ころころと、その頬のなかであめ玉の転がる音がする。
にわかには信じがたい話だが、こうして目の前で実例を見せられれば、疑う余地もない。ためしに王子のふくらんだ頬をつつくと、たしかに硬いものが入っている感触もある。王子はなにするんだよと蔵内の手を払いのけると、
「いままであんまり使わないようにしてたんだけど。まあ、こうやってだれかの役に立つなら、たまには夢を喰べるのも、悪くはないかもね」
そう言って、笑った。
おうじさまのつまみ食い(1) 王子一彰にとって、夢とは、いろいろな味のするふしぎなたべものだった。
空腹を満たすには及ばず、虫歯になることもない、なんにも栄養にならない一種の嗜好品。たのしいゆめはすこしすっぱくて、わるいゆめはにがいあじ。
祖母に能力の使いかたを教わってからは、あまり夢を喰べることもなくなった。良い夢を喰べれば楽しい気持ちや嬉しい気持ちを奪ってしまうし、苦い悪夢はおいしくない。
ふたたびその能力を使うようになったのは、ボーダーに入ってから、神田のことがあってから、だ。
王子はもう苦味をがまんできないこどもではなかったし、友人ら、仲間たちのためならいいかと、ときおり悪い夢を喰べるようになった。
三門に住む人々――近界民の侵攻を経験した人々はそれぞれのトラウマや苦悩を抱えていることが多く、悪夢はそこらじゅうに転がっていた。それを拾い上げるみたいにして喰べる。知っているのは蔵内と神田だけだ。
弓場の夢を喰べたとき、王子は、意外だな、と思った。こんなに堂々としたひとにも、なにかしらの苦しみがあるのだ。だけど、不謹慎ながらすこしうれしかった。遠い存在が近付いたようで。
水上の夢はじわりと広がるように苦かった。にぶい表情筋の同級生は、けれどもある種、繊細な感性の持ち主であることを王子は知っている。なんの夢かとは問わない。かしこい彼は、王子がなにかしていることに気がついているようだけど、なにも言わないでいてくれるから。
三輪の夢は舌が痺れるようなひどい苦味。喰べるたびに、こちらまで苦しくなるような。かわいい後輩のことは心配だったが、王子ではその根本をどうにかしてやることができない。いつかその味が和らげばいいと、王子はひそやかに、そう願っている。
そして蔵内は。
「おつかれさま……あれ? 誰もいないの?」
王子は自隊の作戦室に足を踏み入れ、きょろきょろと周りを見渡した。広い部屋にはだれの姿も見えない。事前に聞いていた限りでは、今日この時間は蔵内がいるはずだった。
ソファのある一角を覗き、長机の上を見て。置いてある荷物を発見し、緊急脱出用ベッドのある小部屋を確認すると、そこに横たわる長身を見つけた。
三つ並んだ端のベッドで、蔵内が仮眠をとっている。
そっと近付いて、王子はちいさく声をかけた。
「クラウチ」
反応はない。ふむ、としばし考え込んで、それから王子はぺたりと彼のひたいに手を当てた。それでも静かに眠ったままの姿を確認し、にんまりと笑む。
「……いただきます」
これは、つまみ食いだ。
――あたたかい、否、あつい。ひどくきもちがいい。胸のうちが幸福にみたされている。なんて、しあわせなんだろう。
「…………」
ぱち、と王子は目を開けた。
なにか夢を見ていた。自分のものではない、ひとのゆめを。それはわかるが、内容はどうにも思い出せない。――いつものことだ。
眼前にはやすらかに眠る蔵内の顔がある。王子は身を起こし、口のなかにあるあめ玉をたしかめた。ころ、と転がったそれを舐めれば、いっぺんに甘い味が広がった。
「……ふふ」
ベッドから降り、小部屋からも立ち去りながら、王子はひとり上機嫌に笑う。
蔵内の夢は、甘い。
流転 二宮隊がB級に降格した。
それはセンセーショナルな話題としてボーダー内で流布され、さまざまな物議を醸していた。
ただの噂ではなく、歴とした事実だ。隊員のひとりが、ある日突如としてボーダーから姿を消したのである。隊務規定違反にて除籍、罰則として部隊は降格――上層部の発表はそのようにあったものの、消えた隊員――鳩原未来とある程度の親交がある者ならば、それが上辺だけを取り繕った説明であることは容易に知れた。
ボーダーは勿論、学校にも来ず、だれひとりへの挨拶もなく、鳩原は忽然と姿を消した。加えて二宮隊への制裁。隊務規定違反。その場で記憶封印措置を施して除籍処分にするような出来事があったのは明らかで、けれども、だれもその詳細を知らない――すくなくとも、表向きには。
だからここのところ、ボーダーに属す高校三年生、今年で十八歳になる面々は、ぴりぴりとした緊張感のただなかにあった。
鳩原と同学年である彼らは、その失踪が不自然であったことをよく知っていて、鳩原と同じ隊の犬飼がおそらく真相を知っているであろうことを、わかっていた。影浦などはどうあっても口を割らない犬飼に対してフラストレーションを溜めていたし、それを宥める各々にも思うところはあった。
けれども、二宮隊の隊員たちが上層部から口止めをされていることも明らかであった。犬飼自身だって、あれは本心を隠しおおせることの巧い男だというだけで、おそらくは――鳩原が消えたことに、それなりに傷付いている。
そう、蔵内は思っていた。
思ってはいたが、実際に傷付いている彼を目撃してしまうと、大いに戸惑いがあった。
犬飼はいま蔵内の目の前で居眠りをして、そして悪夢に魘されている。
王子隊の作戦室、ソファに投げ出されたきんいろの髪が揺れて、うめき声がひとつ落ちた。それを聞いて、蔵内は奥歯を、ぐ、と噛みしめる。
今日の犬飼は、学校で見かけたときから、体調が芳しくないようだった。
見かねて声をかければ寝不足なのだという。――夜中にやってたテレビがおもしろくてさあ、と笑ってはいたものの、それが欺瞞であることは明らかだった。
鳩原の失踪から、まだ一ヶ月と経過していないのだ。目の下に濃い隈をつくった姿は痛ましかった。――茶を飲んでいかないか、という蔵内の誘いに乗ったのは、二宮隊の作戦室へ赴くことに、すこしでも抵抗があったからだろう。人目につくこと自体が気になるのか、王子も樫尾も橘高も今日は遅れてやってくるのだと言えば、安心したそぶりを見せた。
自分の顔色を気にしているのに換装しないのならば、トリオンの回復が足りていないのだろう。すこし眠っても構わないかという犬飼に、蔵内はすぐさま頷いた。――そもそも、彼を自隊の部屋に誘ったのは、それが目的だった。もしかしたら犬飼自身、それに気付いていたかもしれないが。
――そして、いまに至る。
「…………う、うう」
モニタ前の大きなソファに身を預け、犬飼は、固く眼を閉じ、呻く。蔵内はただ静かにそれを見守っていた。
『みんなで見れるようなモニタがふたつあればいいよね。テーブルを置いて作戦会議で使うようなのと、もう片方は団欒をしながら見れるような……。大きなソファがあるといいな。――だれか、安心して眠れるような、そういう場所があればいい』
このソファを設置するとき、そう言っていた蔵内の隊長は、きっとこういう事態を想定していた。――彼には、眠りに纏わる、ふしぎな能力がある。
「おつかれさま、クラウチ。澄晴くん、寝てるの?」
唐突に背後から声をかけられ、蔵内はびく、と肩を跳ねさせた。
噂をすればなんとやらだ。音も立てずに作戦室の中へ入ってきたのは、王子一彰そのひとだった。
「……あんまり夢見がよくなさそうだね」
苦しそうに眉根を寄せている犬飼の顔を覗き込んで、王子は短くため息を吐いた。
――王子も樫尾も橘高も遅れてやってくる、と言ったのは嘘だった。樫尾と橘高はまだやってこないはずだが、王子に関しては他でもない蔵内自身が呼び出していた。
いまこそ、彼の能力が必要なときだと、そう思ったので。
「王子……」
「わかってる。そのためにぼくを呼んだんだろう?」
それは決して嫌味なニュアンスではなかった。王子は心得ているとばかりに言うと、眠る犬飼のすぐ隣に腰掛けた。浅く息をしている犬飼の肩をそっと撫でて、意識のない彼に、だいじょうぶだよ、とやさしく語りかける。
ぱ、と王子は蔵内のほうを振り向いた。気負うところのない笑顔を向ける。
「クラウチ。あとはよろしくね」
「……ああ、頼む」
頷いて、王子は犬飼のひたいにそっと自分のそれを重ねる。背後から見れば口づけているようにも見えるそれが、しかして「夢へと潜る」ための儀式なのだということを、蔵内は知っている。
しばらく見守っていると、ふいに王子の身体から力が抜け崩れ落ちる。蔵内はそっと近寄ると彼を抱き留めて、ソファに寝そべらせた。
「…………ん……、」
ゆるいくせのある髪がこぼれ落ちる。顕になった柳眉がぴくりと動いて、眉間に皺がつくられる。起きている間はめったに見られない表情をして、王子のくちびるから声が洩れる――代わりのように犬飼は沈黙している。
「う、ああ…………、ちゃん」
「はとはらちゃん」
それは――王子が喰べた、犬飼の、寝言だ。
王子は夢を喰べることができる。他人の夢を引き受けて、そこに纏わる感情の発露を緩和することができる――悪夢の苦しみを、薄めさせることができる。
このことは王子本人と蔵内、少数の近しい隊員たち、それからボーダー上層部だけが知る秘密だった。トリオン量に基づく副作用なのではないか、と検査をしてもらったこともあるそうだが、どうやらトリオンに関連した能力ではないらしい。王子自身によると家系に備わっているもので、王子の祖母にあたるひとも、その能力を持っていたそうだ。
詳細は知らないが、蔵内は以前も、王子が夢を喰う場面に立ち会ったことがある。にわかには信じがたいその力が、たしかに存在するものなのだと、知っていた。
「はと……はら、ちゃ、どうして、……うう、」
「王子。大丈夫だ、だいじょうぶ」
呻く王子の頬を撫でる。ぽん、ぽん、とこどもをあやすように身体を叩いてやる。
その行為になんの効果もないと、わかっていても、なにかをせずにはいられなかった。――もしもぼくの能力が役に立つのなら、使いたいんだ。そう言って他人の悪夢を積極的に引き受けているのは王子自身の選択だが、今日この場に彼を呼び出したのは、他でもない蔵内だ。
「っあ、にのみやさん、おれ、おれのせいで……おれが、もっと、じょうずに……」
――これは俺が聞いていい内容じゃないな。
そう思い、これが終わったらできるだけすべてを忘れようと心に誓いながら、蔵内は根気よく王子に声をかけ続けた。本来は犬飼の口から発せられるはずだったことばたち。王子の口を借りて吐露される本心は痛々しく、心なしか数も多い。
「……ごめ、なさ、……ひぐっ、」
びく、と王子の身体が跳ねた。
呼吸が何度か詰まって、それから不規則になる。固く閉ざされた瞳は涙を流すことこそないものの、洩れる声は明らかに、嗚咽と言って差し支えなかった。
蔵内は思わず、安らかに眠る犬飼の顔を見た。彼は鳩原の脱退から後にも、いつもどおり、周囲に笑顔を振りまいていた。涙などはおろか、これっぽっちも悲しむ様子など見せなかったというのに――腹の内には、これほどまでのものを抱えていたのか。
いたたまれないような、やるせないような、苦い気持ちが蔵内の胸中に満ちる。わるいゆめは苦い味がするのだと、そう言って寂しそうに笑った王子の気持ちが、すこしわかったような気がした。
「……うっ、んうっ、…………ぐ」
ぐぼ、と。
奇怪な音が耳に届いたのは、そのときだった。
「っ………………ぅ、ぐ、……がっ、」
「王子!?」
慌てて蔵内は音の出どころを――王子のほうを確認する。王子は薄く口を開いて、苦しそうにもがいていた。その喉に、外から見てもわかるほどの大きさのなにかが、詰まっている。
「王子――王子!」
「ぁ、っ、っ……、………………」
名を呼んで、背を叩く。すこし頭を持ち上げて胸をさすった。それでもそれはつかえて取れない。苦しそうに濁った声がだんだん途切れて、吐息だけになる。そして、それすらも失われてゆく。くちびるの端からわずかに唾液がこぼれた。
このままでは、――窒息する。
「……っ」
ぞわ、と背筋が冷たい感覚に満ちた。瞬間、蔵内は躊躇いを捨てた。喉を片手でぐいと押して、もう片方の手を王子の口のなかに捩じ込む。途端に王子は嘔吐き、無意識下で蔵内の指を押し返すが、それを無理矢理に押さえ付け異物を取り出そうと試みる。
「……ぐっ、ぅえ、」
「我慢してくれ、……悪い、」
びくん、と王子の手足が暴れる。うつくしいかんばせに似つかわしくない声が洩れる。体重をかけて固定し、早口にひとことを断って――蔵内は大口を開け、がぶ、と彼の口を自分の口で塞いだ。舌を挿し込んで大きく息を吸う。喉を圧迫しているなにかを、指で強く押す。
やがて、ぐぽん、と、おおよそ人の喉から鳴るべきでないような音がして、王子の喉に詰まっていたそれが蔵内の口内に飛び込んできた。反射的に息を詰めて歯を立てる。
がり、と球を噛み砕く感触。それと同時に、強い苦味が口のなかに広がった。
「……っ」
いままでに食べたなによりも苦い味。耐えきれずに吐き出すと、赤子のこぶしほどもある大きなあめ玉の欠片が転がった。
慌てて王子の様子を確認する。
「……げほっ、ごほっ……ぅ、あ、あ……?」
ソファの上に上半身を起こして噎せ込んでいた王子は、やがて蔵内のほうを見た。
「あれ……? クラウチ、ぼく……ゆめ、たべた……?」
寝起き特有の舌足らずな声で訊ねる。
「他人の夢を喰べる」ための所要時間はわずか五分ほどだが、王子はいつもこうだ。深く深く夢に潜り込んで、醒めると、長い時間を眠ったあとのようにぼんやりとする。
蔵内はあめ玉の欠片を見せてやった。それがいちど蔵内の口内に移されたのだとは、言わない。
「――犬飼の夢を喰べたんだ。それで、これを喉に詰まらせた」
ちらと犬飼を見る。犬飼は穏やかな表情をしてすやすやと眠っていた。
そこに翳りは見えない。王子が、取り除いたのだ。
「……なるほど」
まだすこし掠れた声の王子は、けれど意識のはっきりした様子でそう言うと、こほん、と大きく咳払いをした。ソファの上で姿勢を正して、身なりを整えれば、座っているのはいつもどおりの王子だ。
「心配かけたみたいだね。もしかして吐き出させてくれた?」
「……ああ。勝手に……、悪かった」
助けるためとはいえ、乱暴に扱ったこと、口付けたこと、それらを良心が咎めた。
歯切れの悪くなった蔵内の様子には気付かずか、王子はあっけらかんと首を振る。
「ううん。ぼくのほうこそ、ごめん。たまにこういうことがあるんだ」
「そうなのか?」
蔵内は驚いて聞き返す。
いままでにも「夢を喰べる」王子は何度か見てきたが――たしかに悪夢を引き取った王子は、大概の場合魘されて苦しむこととなる。王子本人がやっていることだとはいえ、蔵内はそれを大変心苦しく思っていた。
けれども、今回のような状態に陥ったところははじめて見た。
度を越している、と蔵内は思う。あんな風に喉を詰まらせて、手足を痙攣させて。思い返すとぞっとする。ましてや、今日、王子にそれをさせたのは蔵内だ。蔵内が呼ばなければ、王子は犬飼の夢を喰べなかった。
王子が苦しんだのは、あきらかに、蔵内のせいだ。
ただでさえ、他人の苦しみを肩代わりしているのだ。それが危険な行為であるというのなら――
「やめるつもりはないんだよね」
まるで思考を読んだかのようなタイミングでそう言われ、蔵内ははっとして王子を見た。王子はやわらかく微笑んでいる。
「……ほんとうに、心配かけちゃったみたいだけど。ときどきこういうことはあるけど、無意識の内でも噛み砕くか飲み込むかできるみたいなんだ。きみには言っておけばよかったね。苦しみや悲しみの大きい悪夢は、すごく苦くなったりすごく大きくなったりすることがあるんだ。でも大丈夫、この能力で喉を詰まらせて亡くなった人はないって、おばあさまも言っ」
「そういう問題じゃないだろ!」
思わず、大きな声が出た。
蔵内は自身の声量に驚いたが、それは王子も同じだったらしい。彼にはめずらしく目を丸くして、呆然と蔵内を見た。
「そういう問題じゃない、どうして、」
いちど口にしてしまえば、それは止まらなかった。――だめだ、と思う。これを言っては、きっと呆れられる。王子の思いを軽んじるような言葉だ。――そうわかっているのに、滑り出して、もう、止まらない。
「どうして――おまえばっかり、苦しい思いをしなくちゃいけないんだ……!」
――言ってしまった。
「みんなの苦しみを請け負って、それで……、王子の苦しみは……、どこへ行くんだ…………」
くちびるがわななくのを、自らの意思では止められない。視界がゆがんで、王子の表情が見えなくなる。
蔵内は堪らず顔を伏せた。ぼろ、と零れるしずくを覆い隠そうとして――手首を握られる。
「クラウチ」
「……離してくれ」
そう言っておとなしく解放されるわけもなく、蔵内の手をそっとのけて、王子はすこし身をかがめた。ぼやけた視界のなかで、青がたしかに蔵内を見つめる。湿った声色が恥ずかしかった。
「クラウチはやさしいね。……きみの心配を無下にしてごめん。でも、これはね、ぼくがやりたくてやってることなんだ」
「……ああ」
「ぼくのこの能力は……気味悪がられたり嫌われたりすることもある。それを使うようになったのはね、ボーダーが、ぼくにとって大事な居場所だからだ。ぼくはぼくのたいせつなものを守るために、この能力を使っている。――クラウチがぼくのことを心配してくれるみたいに、ね。だれに頼まれたわけでもない。それはぼくのわがままで、強制されているものじゃないんだよ」
「わかってる。……取り乱した、すまない」
「ううん」
言い聞かせるような声はやさしかった。蔵内は涙を拭いて彼に向き合う。
「……きみのやさしさはうれしい。でも、クラウチがぼくのために悲しんだり、傷付いたりする姿は、見たくないな……」
こつ、と、ひたいとひたいが触れた。それは夢を喰べるとき――だれかの苦しみを癒そうとするときと、同じ仕草だ。
王子はそうして、蔵内の悲しみさえ、呑み込もうとする。
「王子」
身をわずかに引き、蔵内は先んじて口を開いた。――王子がなにを言おうとしているか、わかってしまったから。
「……なに、クラウチ?」
「おまえのやりたいことはわかった。……でも、俺は心配なんだ」
「うん、だから」
「だから……その能力を使うときは、俺を傍に置いてくれないか」
「え?」
ぱち、と王子が瞬きをする。
単純な話だった。王子はきっと、自分のふしぎな能力から、蔵内を遠ざけようとした。
けれども――蔵内は、王子の支えになりたいのだ。
「やめろとは言わない。せめて、見守らせてくれ」
「……」
ふ、と、表情が消えた。青い眼が、じっ、と蔵内を値踏みする。蔵内は負けじと彼を見つめ返した。
これはある種の意地の張り合いだ。長く共にいるふたりなれど、だからこそ、お互いとの距離を測って、定めて、押し付け合って、妥協して、――そうしてバランスを保ちながら、蔵内と王子は隣に立っている。
ニコイチだなんて、とんでもない。
「……ふっ、ふふっ」
「くっ、……はは、」
どちらからともなく笑い出した。作戦室のソファの周りに、しばし笑い声が満ちる。
――そうだ、俺たちはこれでいい。
途端に朗らかな気持ちになった。どうしようもなく負けず嫌いで、他者から思われるより好戦的で。そんなお互いだからこそ、いままでずっと、上手くやってこれたのだと思う。
そしてそれはきっと、これからも。
「あれ? 王子……なに、ふたりとも、どうしたの?」
寝ぼけたような声がして、蔵内と王子は揃って視線をそちらに向けた。
目をこすりながら起き上がったのは犬飼だ。目の下の隈こそ消えてはいないが、首を傾げたその表情、憂いはやわらいでいる。
「犬飼」
「澄晴くん。――魘されてたよ。もう大丈夫?」
「え、あー……」
ほんの一瞬気まずそうな顔をした彼は、しかしすぐに軽薄な態度をとってみせる。
「悪い夢見ちゃった。……うん、でも大丈夫、かえってストレス発散になったかな」
「そう。……なら、よかった」
すこし困ったように笑った犬飼に、王子は安堵の表情を見せた。蔵内もそれを見て安心する。――一眠りする前の犬飼は、無理に誤魔化して上っ面の笑顔を浮かべて、そればかりだった。悪夢を見たのだと吐露できるのならば、きっともう大丈夫だ。
そして蔵内は、犬飼に向かって、言う。
「犬飼、……話せないことがあるのはわかるが、つらいときは頼ってくれ。みんな犬飼を心配してる」
「クラウチ」
それは、鳩原が消えてからというもの、同級生の内ではあえてかけないようにしていた言葉だった。何を知ることもできない立場で、頼ってくれ、甘えてくれ、と言うことのどんなに残酷か。なにより、犬飼自身が弱った姿を見せないようにしているならば、それを暴くべきではないとされていた。
暗黙の了解を破った蔵内に、王子は咎めるように名を呼んだが――そもそも犬飼のこころを解きほぐしたのは王子だ。
悪い夢を喰べて、うわごとを引き取って、胸のうちのやわいところに触れて。頑なになっていたこころをすくいあげたのだ。
その証拠に犬飼はもう、見え透いた嘘で誤魔化すことをしなかった。
「会長、ありがと。王子も、気遣ってくれてありがとね。でも……」
犬飼は徐に、自らの着ている制服のポケットに手を入れた。中から取り出されたのはトリガーだ。音もなく換装を済ませて、犬飼は立ち上がる。
黒いスーツは彼の――二宮隊の、戦闘服だ。
――鳩原未来は突然失踪したが、近界に渡航したのだ、という噂がある。状況を思えば、それは説得力のある噂だった。
だとすれば彼女は、いまもどこかで、この隊服を着ているだろうか。
「……おれにも、頼りになる仲間がいるから、大丈夫。もう行かなきゃ。ふたりとも、ほんとにありがと」
芯のある声に、蔵内がその表情をまじまじと見ようとしたときにはもう、犬飼は扉を抜けて外へ出ていた。
「……澄晴くん、もう大丈夫そうだね」
「そうだな、よかった」
ふう、とため息を吐いて、王子は蔵内に寄りかかってくる。――王子にしてはめずらしい態度をとる。やはり、悪夢を喰うことで少なからず疲労しているのだろうか。蔵内は慌ててその身体を支えた。
「どうした、大丈夫か? 王子……」
「うん。…………クラウチ、きみには負けたよ」
「え、」
ぽつり、とつぶやかれた言葉に動きを止めた。青い眼がくるりと蔵内を見て、ゆるやかに細められる。
「だから、ぼくの負けだ。次からこの能力を使うときにはきみを呼ぶよ。それでいい?」
「……おまえの敗北宣言なんて、めずらしいな」
「うん、だから、責任とってね」
「責任?」
おうむ返しに聞き返したときにはもう、王子は夢の世界へ旅立っていた。蔵内に凭れかかったまま、すうすうと寝息をたてている。上下する胸に合わせ、長い睫毛がかすかに揺れていた。
「王子?」
返事はない。王子は心地良さそうに眠り込んでいる。
責任を――といっても、蔵内に手助けできることなど、なにもないに等しい。王子はたしかにその能力でたくさんのひとを助けることができるかもしれない。対して、蔵内は無力だ。なにができるというわけでもない。
ただ、王子が蔵内に、なにかを期待してくれているということならば。
うれしいな、と、そう思いながら、蔵内は王子の髪を指で軽く梳いて、すこし体勢を整えた。
おうじさまのつまみ食い(2) 王子が蔵内の夢を「つまみ食い」するようになったのは――王子隊を結成してからすこし経った頃だった。
そもそも、王子はそれなりの頻度で、蔵内の夢を喰べていたのだ。一緒にいる時間の長い蔵内だから、王子は彼が居眠りをする姿も仮眠をとる姿も目にする機会が多かった。唸り声をあげたり眉間にしわを寄せることがあれば、そのささやかな悪夢を喰らっていた。そのほとんどが、ほろ苦い夢だった。
それが――ある日、眠りながらうんうんと唸る蔵内の夢を喰べてみると、ひどく甘い味がして、王子はとても驚いた。こんな味のする夢は喰べたことがない。とびきり甘く、華やかで、繊細な味。高級菓子のような、といえばいいのだろうか。
――クラウチ、さっきなんの夢見てたの?
――え?
――だから、夢だよ。さっき寝てたきみの夢、甘くて、
――喰べたのか!?
いったいどんな内容の夢を見ればこんな味になるのだろう。そう思って訊ねると、蔵内はたいそう慌てた様子で、逆に王子を問いただした。
――え、うん、喰べたけど、
――そんな、王子、にどとたべないでくれ、そんなもの、
あまりにも切羽詰まった様子でそう言うものだから、王子はいまだに、それがなんの夢だったのかを聞けていない。
よくわからないが、蔵内の言うとおり、彼の夢は二度と喰らわないように努めようと、そう王子は思い――そして、できなかった。
なにしろあんなにも美味しいものを、忘れることなんてできなかったのだ。
甘い夢。華美で儚げなその味。
眠る蔵内を見かけては、こっそりとその夢を喰べる。回数が増えると、蔵内の夢が甘くなるのは、彼が魘されているときに限らないと気がついた。
――甘い夢は、たくさん貰ってはいけないわ。
そう告げた祖母の教えも頭の中にあれど、王子はどうにも――つまみ食いが、やめられなかった。
もしかして、依存症になるから喰べるな、と、そういうことだったのではないかと王子は疑っている。
今年十八になる王子の誕生日は、金曜日だった。
このところ、ボーダーはどうにも忙しい。イレギュラー門の頻発や、A級隊員どうしが争いあったという噂、そんな中で王子の誕生日はささやかに祝われた。今日は王子隊のメンバーでパーティー。日曜日には、「かげうら」で同級生たちに祝福してもらう予定がある。
いまだ三門は災害のさなかであるが、誕生祝いができるほどの日常はある。たくさんの「お祝い」は素直にうれしくて、王子は上機嫌で両親の待つ家に帰りついた。
夕飯とケーキを食べてきたので、あとは寝る支度をするだけだ。リビングに顔を出した王子は、そこで親から手紙を渡された。これはなにかと問えば、祖母が遺したものだという。王子が十八になったら渡すように、そう言われていたのだと。
誕生日おめでとう、と言われ、ありがとう、と返す。王子は自室に入るとさっそく手紙を開けた。こちらも冒頭は祝いの言葉だ。お誕生日おめでとう、かずくん、と、書かれた呼び名に懐かしくなる。
ひととおりの挨拶が為されたあと、内容は王子の持つ能力のことに移った。使い過ぎていないか、人間関係をおかしくしてはいないか、かわいい孫を心配する言葉が続いて、それから――王子は目を見張った。
――代々、「夢を喰べる」能力のある子には、十八歳になったらこれを伝えることになっています。
――かずくん。甘い夢は、
王子はそれを見て、慌てて手紙の最後までにざっと目を通してしまうと、自分のポケットを探った。取り出した携帯端末を操作して、蔵内に電話をかける。
コール音が鳴る。まるで同期するみたいに、心臓の鼓動がうるさくなる。
手紙に書かれていることがほんとうなら。頬があつい。困惑よりも高揚が勝っている。
甘い夢。自分がいままでそれを喰い散らかしてきたことを思う。――なんてことをしてきたのだろう。
謝らなければ。いや、それよりも。
脳裏に蔵内の姿がよぎる。いつも王子の傍にいてくれた――たいせつな。
電話はすぐに繋がった。
『もしもし、王子?』
「ねえ、クラウチ、明日――いや、今日これから、もういちど会えないかな」
『どうした、日曜日かげうらで会う約束だろう?』
「そうなんだけど、ごめん、どうしても。だめかな」
『……だめじゃない、けど、本当にどうしたんだ?』
蔵内に許可を得るなり、王子は通話を繋げたまま急いで身支度をした。家の外に出て早足に歩きはじめる。
気持ちが急いて、どうしようもない。半ば泣きそうになりながら――ああ、涙脆いのは、蔵内の特権だろうに! ――王子は電話の向こうに言う。
「ぼく、きみに訊きたいことがあるんだ」
かずくん。
甘い夢は、あなたのことを好きな人が、あなたを思って見る夢です。
もしも甘い夢を見る人が身近にいたら、あなたがそれを肯定するにしろ、否定するにしろ、夢の中ではなく、現実でその気持ちを受け止めなさい。
そして王子は、蔵内の家がある方角へと走りはじめた。