他カプまとめ椋円
夕暮れを知らせる旋律は、とっくに耳から入って抜けていった。徐々に暗くなっていく空に反応して逆らうように眩しく煌めく風景は……ここまできて、まだ迷っている僕を置き去りする。……なんで、こんなことしてるんだ……。
「はぁ~……思ってたより恐かったけど、楽しかったね!」
点灯し始めた園内に負けないぐらいの眩しすぎて鬱陶しい笑顔を向けるのは、僕をここまで連れてきた張本人。そうだ、僕は騙された。今日は図書館で勉強をする約束だった。……僕が、そうしたから。そうじゃないと家から出られなかったから。聖フローラのやつで勉強ができて将来も有望で……そう説明したら良い友人との付き合いも大切だと承諾してくれた。父の言う良い友人って、なんだ? 勉強ができる友人か? それは、安直すぎないか? いい友人は……
「円くん、次はあれに乗ろうよ!」
……それとも、僕は、こいつに毒されているのか……?
「…小さい子供じゃあるまいし……あんなの、恥ずかしくて乗れないだろ」
「そっか……そうだよね、ごめん! じゃあ…」
そう、分かりやすく落ち込まれると……僕が悪者みたいで気分が良くない。
こいつも一応は役者なんだろ? だったら、演じればいいだろ。……兄さんみたいに。大丈夫じゃないのに大丈夫だってヘラヘラ笑って……いつも一人で。
こいつといると調子が狂う。いつもの自分でいられなくなる。物腰が柔らかくて優しい態度とは裏腹に、強引に心の中を見透かされているようで……せっかく、分厚く硬く造り上げた仮面を無視するように、内側から覗かれてしまう。
「えっと、円くん…?」
「やっぱりいい。……あれ、乗ろう」
「えっ、本当に? いいの!?」
「その代わり、乗ったらもう帰る」
「うん…ありがとう!」
夕陽の気配が完全に消えたことを忘れてしまうほど眩しい。幼い頃に一人で乗ったことがある。貫かれた白い馬が同じ場所を回りながら上下する……楽しくもなんともない無駄な時間。男二人で乗るなんておかしい。普通じゃない。なのに、一度断ったのに自分から言うなんて……やっぱり毒されているのか。
「…無理しなくていいよ?」
「べつに…」
「ボク、今日は…すごく楽しかったし…嬉しかったから!」
無意識でやっているのか……本当は分かっててやるほど計算高いのか……。
そう言われて、じゃあ帰ろうなんて言えないほどに、僕は毒されている。
「早く乗って帰るぞ」
「……っ! うんっ! ありがとう、円くん…」
この、眩しすぎる笑顔に……ホッとしているなんて。馬鹿みたいだ。
もう子供もいないぐらいの閉園前の時間。疎らになった人は滑稽な男二人を気にすることもなく満たされた顔で出口へ吸い込まれていく。うるさいアナウンスの後にベルが鳴り、跨がった馬がゆっくりと動き出す。回りながら上下する景色は変わらない。けど、それを背景にした時…何かが変わる気がした。
照らされた光に包まれて揺れる薄いピンクの髪。背筋は真っ直ぐのびて、たまに見せるネガティブさが嘘のようだ。透き通った瞳は交差すると弧を描く。
……微笑む姿は、本当に、どこかの国の、王子様みたいだった……。
同じ場所をぐるぐると回るんじゃなく、走り出せたらどんなにいいか。幼い頃に読んだ題名も覚えていない絵本。外の世界に憧れて王子に連れ出された姫の話。その時も今までも分からなかったけど……きっと、こんな気持ちだったんだろうな……。何かきっかけが欲しくて、踏み出すまでは躊躇うけど、踏み出してしまえば、痛いほど加速する鼓動が落ち着くことを知らなくて。いけないことだと分かっていても、止められなかった。あとで、どうなるかなんて知っている。失敗したら、もう二度と会えないかもしれない…。だけど……王子が背負う世界が眩しくて……涙が出そうだったから……。もう、引き返せなくて。
「……っ、」
俯く僕の手を…向坂が優しく握った途端、馬たちはスピードを緩め始める。完全に止まってしまった後、アナウンスに従って馬から降りると、乗る前よりもずっしりと重い足取りに捕らえられる。繋いでいた手は離れ離れになる。
「……帰ろっか」
俯いたまま園内を出ると、辺りは真っ暗だった。今夜の逃避行は……失敗だ。
「じゃあ、帰るから」
「待って! ボクも…」
「……は?」
「円くんのご両親に……謝りたいから…」
……そんな馬鹿な王子、絵本でも読んだことがない。
「向坂が来ると面倒なことになるからいい」
「でも…何も言わずにこんな時間まで連れ回しちゃったし…」
「勉強してたって言えば…何時になったって許してくれるから」
「けど、ボクのせいで…円くんが怒られるぐらいなら…」
「余計なことしなくていいから」
顔も見ずに向坂をおいて歩き出す。だって、正直に話して謝ったりなんかしたら……もう、遊べなくなると思ったから。それは……一番、そうなってほしくない結末だったから。僕が姫みたいで癪だけど、振り返ってみると楽しい物語だった。もうすぐ、書き終わる。平凡でつまらない毎日に戻るだけだ。
「……待って!」
「うわっ!」
息が上がった向坂は僕の手を握る。……こいつ、足も速いんだな。冷静にそんなことを考えながら振り向くと、手に何か握らされた。
「これ、今日のお土産に……貰ってくれると嬉しいです…!」
「…何だこれ…?」
「えっと…ボクと、お揃いなんだけど…」
そっと開いた手のひらの上には、可愛いとも何とも言えないほど微妙なご当地キャラの限定ストラップがあった。
「嫌だったらつけなくてもいいから!」
「…貰っておく」
「円くん、今日はありがとう! ボク、すっごく楽しかった!」
「ああ、そう…」
「……じゃあね、気をつけて帰ってね」
「お前もな」
「うん! 今日は本当にありがとう!」
「……また、な……椋っ、」
別れ際に見た顔が…笑顔でよかった。仮面はいつの間にか、はずれていた。
家に帰ると、さすがに時間が遅かったからか怒られた。自分の部屋で貰ったストラップを開封した。袋から出してもやっぱり可愛くなかった。遊んでたことがバレないように何も買わなかったのに……。勉強できるのに馬鹿なやつ。つけられるはずもなく、机の引き出しの一番開ける頻度の少ない場所を開けた。
「……あっ、これ…」
目に入ったのは、いつかの紙飛行機。
「……兄さん…」
変わらない紙飛行機と、変わったストラップを並べて、仮面の下で僅かに微笑みながら……そっと引き出しを閉じた。
綴水
一つ、大きく深呼吸をしてから玄関のチャイムを鳴らす。見慣れてしまった風景を抜けて足を運んだのは、もう何度目かのMANKAIカンパニーの寮。手をかけたドアノブが、熱い時も冷たい時も知っている。迎えてくれた劇団員の顔を見て、彼じゃないことに一安心。談話室まで心を落ち着かせながら歩を進めつつも、カバンの中で待つマスクは、今か今かと出番を伺っている。
「……というわけで、ご協力をお願いしたいのですが……」
いつものように、お二人に今回の件についてお話をさせていただいた。古市さんも立花さんも快く引き受けてくださり、詳細は追ってお送りさせていただくことに決まった。
「監督ー、いますか?」
参考程度に広げていた資料を纏めて、片付けようとカバンを開けた時だった。聞きたいような聞きたくないような声に、思わず心臓が跳ね上がる。纏めた資料は意味を無くす。何よりも優先してマスクを被ると、呆れて少し笑うような左京さんの溜め息が聞こえた。
「あぁ、水野も来てたんだな。……まったく、今日も準備がいいな」
「い、いえ……それほどでも!」
「褒めてないって」
再度、資料を纏めて帰ろうと席を立つ。お二人に失礼のないよう口が回ったか定かではないけれど……とにかく、この場から離れなくてはいけない、顔を合わせてはいけない、そんな気持ちが顔を隠していても未だに心にあった。それが、綴くんの優しさを自己満足の決心で跳ね返すことに気づいていながら。そうすることしか、できなかったから。……きっと、今は。
「あぁ、おい!」
「…うわっ!?」
資料が散らばるのを見るのは、これで二回目だ。
「……ごめん! いきなり掴んで悪かったな……」
「いえ! 気を抜いていた私が、…綴くんは何も!」
「実は、水野に頼みたいことがあって」
「…えっ?」
「まぁ、正しくはミズノマン? だろうけど……」
「ミズノマンで、綴くんのお力になれるのであれば!」
いつの間にかいなくなっていた古市さんを追うように、立花さんが談話室を出ていった。資料を拾い集める私と綴くんに、ゆっくりしていってください…と、温かい言葉をかけて。
「それで、頼みたいことというのは……?」
先程から感じていた、ふわりと柔らかい雰囲気。綴くんが家族の話をするのが表情だけで分かる。実は、弟の誕生日で……と、話始めた彼が微笑ましくて思わず見えない笑みが溢れる。
綴くんの話はこうだった。来週末、一番下の弦くんがお誕生日らしいのだが、辿さんと巡さんは忙しくて来られず、綴くんのご両親も夜にしか帰ってこられないらしい。落ち込む弦くんを何とか元気づけて盛り上げようと、お誕生日会で簡単なお芝居をすることになり、先週の日曜日に実家に帰って大まかな脚本と配役を考えていたところ、丈くんがミズノマンも呼ぼうと駄々をこねたらしい。その騒ぎに気づいた弦くんにミズノマンが来ると伝わってしまったみたいで、お誕生日会当日を心待ちにしているという。
「で、水野に頼みたいんだけど……」
「……丈くんや弦くんのお気持ちは嬉しいですが、せっかくの家族水入らずの時間が……以前は、他の団員の方も一緒だったので、その……」
「残念だなー。当て書きした役なんだけどなー?」
「あっ、当て書き…!?」
「……幼馴染みとして、頼む!」
そんな顔と言い方をされたら、いくら頑固な私でも断れないことを綴くんも分かっているはずなのに。けれど、当て書きなんていくらなんでもファンと劇作家の距離としては近すぎる。……が、せっかく綴くんが私のことを考えながら当て書きしてくれて……私のことを考えながら!? なんて烏滸がましい! でも、幼馴染みとしてなら……いや、でも……。
そうやって頭の中でぐるぐると考えを巡らせている間、綴くんの貴重な時間を奪っていることに気づいた。
「…分かりました。私で、ミズノマンでよければ…」
決して、当て書きに惹かれたわけではありません。
お誕生日会当日までに、依頼した企画の資料を届けたり打ち合わせも兼ねて、何度か団員寮を訪ねた。その時に、綴くんと相談し合って……というより、相談どころか彼から一定の距離をとろうとする私を、いつもの困った顔で少し笑いながら、綴くんと兄弟たちで決めたことを伝えてくれた。
二度目の相談の後、当日の大まかな流れが決まった。まず、朝早くに私が皆木家を訪ねる。弦くんが起きるまでに、部屋を飾り付ける組と料理を作る組に分かれて準備をすることになった。綴くんは、水野は手伝わなくても来るだけでいいと言ってくれたのだが、何かできることがあれば手伝いたいと申し出た。綴くんは驚きつつも快く受け入れてくれて、私の思い過ごしでなければ……すごく、嬉しそうにしていた。
「……あっ、」
団員寮からの帰り道、見かけた洋菓子店のディスプレイには店の外からでも分かるほどキラキラと輝く美しいケーキが並べられていた。"ケーキを買って持って行く" という選択を、頭から少しも引き出すことなく話ができたという事実は、買うことができない幸福感を足取りに乗せて、より週末を待ち遠しくさせた。
「おはよう、ございます…」
「はーい……って、その格好で来たのか!?」
お誕生日会当日。玄関先でいつものマスクをサッと被り、チャイムを鳴らすと出てきた綴くんに、開口一番ツッコミを貰った。朝早くてもキレが素晴らしい。
「昇、滑、はさみ危ないから、ちゃんと見とけよー」
「綴兄ちゃん、これ細かく切ればいい?」
「赤がいいのに! 充がとった~!」
「喧嘩するなって! ……ほら、半分ずつな」
部屋の中に入ると、いつも以上に言葉がたくさん飛び交っていた。
「…あっ! ミズノマンだ!」
「えっ、あ…わ、ワタシは謎の助っ人、」
「はいはい、遊ぶのは準備終わってからなー。水野も、いちいち相手してたらキリがないし、テキトーに流してくれればいいから」
「は、はい!」
急いでる時に小さい子たちが包丁や火を使う場所に立つのは危ないからという理由で、料理組は綴くんと馨くんと亨くんと私、あとは昇くんと滑くんが危なくないよう面倒を見つつ飾りつけ組になった。
「……水野、その格好でやりにくくないか?」
私としたことがマスクの存在を忘れていた。これだと下を向いた時に垂れ下がってきてしまう。シトロンさんのように扱いに慣れているわけでもない。……はずすべきだ。そんなこと分かりきっているはずなのに、行動に移すことができなかった。
「風邪ひいた時用のマスクならあるけど…これでいいか?」
何度も大きく頷いて、部屋の隅の方で着けさせてもらった。もう、呆れられて嫌われてしまったかなと思うと、馨くんが刻んだ玉ねぎも相俟って、じんわりと熱いものが広がっていくのを感じる。
「…うん。いつもより、水野って感じだな」
ありがとう、たった一言なのに。鼻の奥がツンとするばかりで、声にすることができなくて。
「……水野さん、大丈夫ですか?」
「うんっ、ごめ…玉ねぎが、っ…」
「あぁ、すみません!」
「いえ! 馨くんは何も…っ、」
「…ちょっ、水野!?」
「僕が代わるので、水野さんは綴兄さんと一緒に、ケーキを作ってください」
「はいっ…」
なんとか、料理とケーキも完成し飾りつけも終えることができた。綴くんたちがテキパキと要領よく進めるから、邪魔をしただけになってしまった。迷惑ばっかりかけてすみません…と、謝る私に綴くんは、次に作る時はもっと上手くできるといいな、って。……次が、あるんだなぁって。
「綴くん、もうそろそろ弦くんが起きると思うので…」
「そうだな」
「起きる前に、側にいてあげてほしいんです。……起きた時に、一人なのは…寂しいと思うので… 」
「……そっか。水野は優しいな」
「綴くんには敵いません」
数分後、綴くんに抱っこされながら起きてきた弦くん。たくさんのハッピーバースデーとお誕生日おめでとうの声で、眠くてとろんとしていた瞳が段々大きくなっていくのが目に見えて分かった。
「すごーい! ミズノマンもいる~!」
「ワタシは謎の助っ人ミズノマンネ!」
「みんなであそぼー! ふらわ、しゃわしゃわわ~!」
「……いつの間にか、元に戻ってるし」
丈くんと弦くんと少し遊んだ後、みんなで作った料理を食べて、綴くんが書いてくれたお芝居をした。小さい子でも分かりやすい動物さんたちの友情のお話。楽しいストーリーの中に所々ちゃんと子供ながらに考えられるポイントがあって、観てくれる人の為に書くことができる綴くんは本当にすごいと改めて思った。何より驚いたのが、みんな以前よりも台詞の言い回しやテンポが上手になっていた。きっと、何度も何度も練習したんだろうなぁ…。そう思うと、演劇は脚本も演者も演出もその他のものも、全てが観てくれる人の為に作られたもので、観客へ向けてぶつけられる懸けられた想いに、心が揺さぶられないわけがないんだと実感した。
「ありがとうございましたー!」
ちょっと怪しいけど、優しくて頑固なところがある熊さんより。
「はい、水野の分のケーキ」
「あ、ありがとう……」
口に運んだケーキはやっぱり変わらない味。目に見えてどんどん成長して変わっていく兄弟たちと、変わらないケーキの味。びっくりするほど美味しいとか、ものすごく拘って作っているとか、そういう特別なことはないけれど……食べたくて恋しくなる、あったかい気持ちが形になったような世界一のケーキ。
「今日は、ありがとな」
「いえ、こちらこそ……」
はしゃいで遊び疲れてお腹いっぱいで寝てしまった弦くんにブランケットをかけながら、起こさないように小さな声で話していた。丈くんも充くんも寝てしまって、さっきの騒がしさが嘘みたいに静かになっていた。
「…あの、一つ聞いてもいいですか?」
「んー?」
「どうして、私が来ると決まっていないうちから……当て書きになったんでしょう…?」
「…さぁ? ……なんでだろうな?」
いたずらっ子みたいに笑った綴くん。この家には綴くんに似た、たくさんの兄弟たちがいる。それは、その中の誰かに似ている、とかでなく。懐かしくて愛情いっぱいの、幼い頃の彼の面影が見えた。
私の想像した理由で合っているならば、彼も相当……頑固だと思う。
綴くんには休んでいてほしくて申し出た後片付けを済ませて、もうそろそろ帰ろうと声をかけるが返事がない。不思議に思い近くで顔を覗くと、弟くんたちと一緒に寝息を立てていた。
「お疲れ様です…」
思えば、私が劇団に依頼したばっかりに、大切な家族のお誕生日会と重なって……大変な思いをさせてしまった。そちらの方の脚本も書いているはず。疲れが溜まっていたんだろう。気を使わせてしまうだろうし、ご両親が帰ってくる前に帰らないと。
「綴くん、今日はありがとうございました」
返事がないことは分かっていた。確認の意味も含めていた。
「……綴くん」
彼の寝顔の前で、少しだけマスクをずらした。
「……っ、」
みんなで作ったハンバーグの美味しさ、みんなで作ったケーキの甘さ、干してある洗濯物の柔らかさ。露になった鼻から吸い込む空気は、より濃く混ざり合った幸せの温かなにおいとなって鼻孔を擽る。
「また、手紙を書きます…」
馨くんに今日のお礼と挨拶をして、静かに皆木家を出た。
いつか、あのドアノブの熱い時も冷たい時も知れたらいいのに。
いつか、テキパキ要領よく動いて手伝えるといいのに。
いつか、マスクを置いて会いに行けたらいいのに。
優しい綴くんは、直に連絡するのではなく談話室で相談させてくれた。マスクのことも、いい加減はずせとも言わずに。否定することなく、受け入れて待っててくれている。もう、自分自身を許せていないのは自分だけなことも分かっている。
……けれど、もう少し……もう少しだけ、待っていてください。
「……っ、」
彼の家が遠くなっていくにつれ、魔法がとけてしまうかのように、街のにおいが強く濃くなっていく。ケーキの甘さと温かさを思い出して、玉ねぎの遅効性に驚きながら、もう既に……じんわりと広がる熱に焦がれていた。
万紬
まだ重い瞼を擦りながら体を起こすと、隣のベッドは空になっていた。丞が朝早くからランニングに出るのは見慣れた普通のこと。それでも、暖かい風が出てこなくなったエアコンの下で目に映るその光景は、いとも簡単にやっと出られたはずの布団へと引き戻してしまう。
「……起きなきゃ」
静かな部屋で目を閉じること数分、中庭の花たちを思い出して二度寝の誘惑を布団と一緒に跳ね飛ばす。ご機嫌な寝癖を連れて部屋の扉を開けた瞬間、僅かな隙間から入り込む冷気で完全に目を覚ました。
廊下から洗面所、洗面所から談話室まで。いくつものおはようの声と寒そうな顔に出会った。みんな同じだなあと微笑ましく思いながら中庭へ出ると、頬を撫でると言うには厳しすぎる風。さっき出会った誰よりも寒そうな顔にされてしまった。
「寒っ……」
吐く息がつくりだす白と、上着を持ってくればよかったという後悔が、より寒さを演出する。
「紬さん」
……ふと、聴こえた声に顔を上げる。
「さすがに何か着ねぇと風邪ひくって」
背中に少しの重さを背負って、代わりに温かさを貰った。袖を通すと余る高そうな素材の生地は、俺のものじゃないことを恥ずかしいほど明確にする。
「ありがとう。……これ、万里くんの?」
「そーだけど、嫌なら紬さんの持ってくっか?」
「嫌じゃないよ。 ただ、濡れちゃうかもしれないし……」
「いいって」
「……でも、これ高そうだけど……?」
ここまでは、爽やかでかっこいい万里くんだった。俺はその行為に素直に甘えて、おとなしく着て、可愛らしくお礼を言うだけでよかったのに。
「じゃ、脱げよ」
かっこいい万里くんは、さっきまでかっこよかった万里くんは、少しだけ不機嫌そうに……ちょっとだけ子供になった。
「けど、脱ぎたくないかな……」
冷たい空気の中、一瞬だけ見せてくれた春の暖かさに笑みをこぼす。万里くんは、かっこよくて可愛い。直接、可愛いなんて言えないけど。
「風邪ひくなよ?」
「うん。万里くんもね」
「……コーヒー淹れとく」
背中に短く体温を感じた後、離れていく背中をずっと見つめていた。早く水やりを始めればいいのに。風邪をひかないように早く済ませればいいのに。せっかく、万里くんが着せてくれたのに……。
「……だから、なんだけどね」
明日も、上着を着ないで水やりを始めてみたりして。
「ふふっ……」
一番子供なのは俺かもしれない。その事実に気づいたら小さな笑いが止まらなくなった。抑えようと口元に触れた手の甲。今日は肌触りの良い高そうな生地。赤くなった鼻を擽るのは……愛しい人の柔らかいにおいだった。
シト咲
今日も何事もなく無事に一日が終わって、明日の予定を確認してからベッドへ向かう。部屋の灯りを消して、辺りが暗闇になって、目が慣れるまでの間。よかった、って……ホッと安心できる僅かな時間。
「……おやすみなさい、シトロンさん…」
家族みたいに温かくて大切な場所。特に同室のシトロンさんには助けてもらってばっかり。情けないところも弱いところも、優しく包み込んでくれる。本当に、本当に、オレにとって大切な人。
……だから、心配かけたくなくて。もっと頑張って、もっともっと、強くならなきゃ。
「サクヤ」
優しくて柔らかい声色で呼ばれた名前。今までずっと一緒だったのに、そんな声で呼ばれると……なんだか、特別な気がした。
「今日は寒いネー…サクヤと一緒に、ポコポコで寝るヨ!」
「ぽこぽこ…?」
「……サクヤ。コッチに、おいで?」
嫌なことがあったとか、落ち込んでいるわけじゃない。なぜか、夜が寂しくて、もぐり込んだばかりのお布団は冷たくて、今日一日の楽しかったことも嬉しかったことも、思い出せないぐらい……明日が怖くて。
「おじゃまします…!」
「ようこそ~! 待ってたヨ!」
「えへへ…」
オレが入れるようにあけてくれたお布団。同じ部屋の中なのに、さっき寝ていたお布団とは比べ物にならないぐらいあったかい。じんわりと伝わるシトロンさんの体温とにおい。お布団の上からトントンって聞こえる、オレよりも大きな手がつくり出す心地いい音。……それじゃあ、手が冷たくなっちゃいますよ…。
「サクヤ、あったかいネ…」
たたくのを止めた手がお布団の中に入ってきて、そのまま……ぎゅうっと、抱き締めてもらえた。より濃くなる落ち着くにおいと、より伝わるようになった体温。ずっと、我慢してたものが堪えきれなくなった。
「シトロンさん……っ、」
オレはこの劇団に入って、みんなと出会って春組になって、シトロンさんと同じ部屋になって、夏組と秋組と冬組のみんなと出会って、たくさんたくさん思い出ができた。こんなに、大好きで愛おしくて大切にしたいと思える場所ができて、すごくすごく幸せでいっぱいで。
だから、こんなの……初めてのことだから。ずっとずーっと一緒にいたい。けど、いつか必ず来てしまう瞬間が、もしかしたら……明日かもしれない。大切なものを知ると、失う怖さが夜の闇に引きずり込む。まだまだ子供で未熟で、弱くて頼りない。だから、オレは……もっと、強くなりたい。
……だけど、今は、もう少しだけ。
「――♪」
頭の上から、ゆっくりしたテンポのきれいな鼻歌が聞こえる。子守唄かなぁと耳をすましたそれは、近所のお肉屋さんでよく流れているBGMだった。
「……ふふっ。そのお肉屋さん、お肉はもちろん、コロッケも美味しいですよね…」
「ここのコロッケはケッピンダヨ!」
「欠品…? ……あぁ! そうですね。美味しすぎて、すぐ売り切れちゃいますよね」
「ンー…食べたくなってきたネ~…」
「オレ、明日買ってきます!」
「ワタシとサクヤ、二人で……ネ?」
ふわりと微笑むシトロンさんに笑顔で返事をすると、今夜はもう……大丈夫な気がした。
「おやすみ、サクヤ」
「おやすみなさい、シトロンさん」
繋ぐ手と手に重なるおやすみは、明日が楽しみになる魔法。
九莇
「兵頭ー、なんか後輩が呼んでるー」
騒がしい教室に響く声。つられて顔を上げると、教室のすぐ外に立っていたのは見慣れた顔。やっと制服姿がしっくりくるようになってきて、着崩してるのも莇らしくて、ちょっとだけ心があったかくなる。
「どしたー?」
「ジャージ忘れたから、貸してくんね?」
「いいよ!」
「助かる。お前と同じ学校なのも悪くねぇな」
「なんだそれー!? 全然嬉しくない!」
たまに学校で見かける莇は、ムスッとしてて少し近寄りがたい雰囲気だけど……オレと話している時は笑ってくれる。なんか、特別って感じがするし、学校のみんなよりもオレの方が莇のことをよく知っているみたいで嬉しい。
「次、体育なんだ……」
校庭を見下ろしながら覗いた窓の外。オレが見つけたのと同じタイミングで莇が顔を上げた。本当に、本当に偶然、目が合って……。
「う、わっ」
何故か速くなった鼓動をごまかすように、窓から入る夏風がプリントを飛ばした。
「莇ー、ご飯食べよ!」
「おう」
本当は毎日一緒に食べたいけど、莇にも付き合いっていうのがあるだろうし、オレは先輩だからそういうのちゃんと理解してる! だから、週に一回だけ一緒に食べようって、なんとなく自然に決まった。オレは嬉しいけど……莇は、どう思ってるのかな……?
「あー……腹減った」
「体育だったもんねー、お疲れ!」
「ジャージ、助かった」
「ううん! 莇も忘れ物とかするんだねー」
「するだろ」
何気なくて他愛もない会話も楽しい。寮にいる時とは違う、オレと莇の大切な……オレにとっては大切な、残り少ない時間。……あと何回、一緒に同じチャイムが聞けるかな?
「……そういえば、ジャージは?」
「あぁ、寮帰ったらすぐ洗って返すわ。なんか変な感じだけど」
「次、体育だからいいよ。そのまま返して?」
「……は?」
ぽかんって珍しくマヌケな顔をする莇。つられるみたいに同じ顔をしながら状況を理解していないオレ。
「いや、俺……すげー汗かいたし」
「体育なんだから当たり前じゃん! オレ、そういうの気にしないから大丈夫!」
「俺が気にすんだよ!」
「なんで莇が気にするの!?」
「するだろ! つーか、あとで使うんなら言えよ! 知ってたら他のヤツから借りたっつーの!」
「……えー? でも、」
「この天気で持久走だったんだぞ!?」
「そうなの!? うわ〜……そりゃ、お腹すいちゃうね〜」
「そうじゃねえ!」
言い合っているうちに莇の顔がどんどん赤くなっていった。もしかしたら熱中症かもしれないと思って、そっとおでこに手をあてたら、なんかすっごく怒られた……。
「とにかく、俺は返さねぇからな! 他のヤツから借りろ!」
「えぇーっ!?」
結局、ジャージを返してくれないまま昼休みが終わった。
「お前、なんで高橋なん? ジャージ忘れた?」
「忘れてない!」
「兵頭……ジャージ持ってきてなかった?」
「持ってきたよ!」
「……なんで高橋なん?」
体育はバスケだったけど、莇のことばっかり考えちゃってて、全然うまくできなかった。
あっという間に放課後。体育の後は数学だったけど、疲れてちょっと寝ちゃったから本当にあっという間だった。
一緒に帰ろうと思って迎えに行った教室で、気まずそうな莇と目が合う。昼とは大違いだ。そう思うと、胸が苦しくなった。
「帰ろ!」
「ん……」
無言で歩く帰り道。オレのジャージを持った莇と、高橋のジャージを持ったオレ。なんでか分からないけど、それがすごくおかしくって。気づいたら声を上げて笑っちゃってた。
「なんだよ……」
「ううん! なんでもなーい」
「……ごめん。せっかく、ジャージ貸して貰ったのに」
「ホントだよー!」
「他のヤツから借りれた?」
「隣のクラスから借りた! おかけでずーっと高橋って、呼ばれて……」
そこまで考えてから、ハッと息を呑んだ。
「……九門?」
でもそれは、きっと……思っちゃいけない気持ち。速くなったり苦しくなったり、あったかくなったりするのは……。
「あ、莇も……兵頭とか、言われたりした……?」
見上げた莇の顔が何かに気づいた瞬間、お昼見たみたいに赤くなっていく。影を伸ばすキレイな夕日が、何か言いたそうな表情を柔らかく照らす。
「言われてねぇけど」
「……えっ?」
「い、言われてねぇから」
「そっ、そっかー! そうだよね〜!」
「だから……また、貸してくんねぇ……?」
オレと莇の、残り少ない大切な時間。その中で、こうなることって……あと、何回あるのかな……?
何も言えずに立ち止まったオレの隣を、何も言わずに通り過ぎて行く。帰る場所は同じでも、帰るまでが同じなのは今しかない。……だから、ずっとずっと、大切にしたい。
追いかけて掴んだ手首。振り向いた表情は、椋に借りた少女マンガそのものだった。
「……莇、今度から忘れた時は、絶対にオレ以外から借りちゃダメだよ……?」