君の未来にダリアが咲いていますようにはじまりのスイートピー
「…はっ!」
夕暮れを知らせる音楽が鳴り響く公園のベンチにサンカクのパーカーを着た若い男が一人。猫と楽しく戯れている途中でうっかり寝てしまったらしくバタバタと見つけたサンカクを鞄にしまう。急いでいても、猫の頭を撫でることと、さよならの挨拶をすることは忘れない。
「ただいま~!」
いつものように寮の玄関の扉を開ける。迎えてくれたのは藍色の綺麗な髪に、ぴょこんと毛束が飛び出た青年だった。つむぎ、と名前を呼びながらもう一度ただいまと伝える…が、つむぎ、と呼ばれた青年は驚いたような困ったような顔で応える。
「あの…どちら様ですか…?」
オレンジ色の夕陽は沈んで、目の前が真っ暗になった。
嘘をついてる様子でもない表情に一気に恐怖が襲う。丞、と他の団員を呼ばれる前に、おじゃましました!と言い逃げるように走り出した。さっきまで疲れて寝てしまったのが信じられないぐらい全力疾走で、もうすぐ光が消えてしまう街を走り続けた。
「はぁ…はぁ…」
どのぐらい走ったか分からない。いっそ、疲れ果てて倒れてしまいたいとすら思った。そうすれば、目が覚めて夢だと思えるから。なんとか心を落ち着けて、震える手で携帯電話を取り出す。定まらない指先で連絡先を表示させる。
……無い。
同じ劇団員の名前が一人も無い。
「えっ…」
代わりに見慣れない名前があった。
斑鳩三角の父と母…そして、
「まどか…」
斑鳩円。その文字と共に表示される連絡先。
今、起こっていることが何なのか分からず、登録されているはずのない番号を見つめることしかできない。それでも知っている名前…長らく会っていなくても、家族の名前は、ほんの僅かだけ、安心をもたらした。
「うわっ!」
鳴るはずのない着信音に驚く。ディスプレイに表示された名前は、今まさに眺めていた実の弟の名前だった。
「…もしもし?」
指だけでなく声も震える。もし、今、何か刺さる言葉を突きつけられたら…自分一人じゃ直せないほど粉々に砕かれてしまいそうで。
「兄さん、今どこにいるの? もうすぐ夕飯なんだから、早く帰ってきなよ」
気をつけてね、と聞こえた後に一定のリズムで無機質な音が鳴っていた。一方的な通話を終わらせて、スマホを握りしめながら歩き出す。歪んだ視界のまま、足は勝手に懐かしい風景へと向かった。
大きな玄関の扉の前で立ち止まる。扉を開けようとする右手は重くて持ち上がらない。足も接着剤でくっつけられたみたいに動かない。落ち着かない鼓動と深呼吸だけが何度も響く。
「…あっ、帰って来た」
「まどか…」
久しぶりに近くで見た実の弟。
「…っ、大きくなったね…」
想像していたよりも上の方で撫でられている頭が、恥ずかしそうに避ける。思春期真っ只中といったところだろう。
「毎日、見てるのに…変な兄さん」
ほんの少し微笑んだ顔は…もっと幼い頃の彼を思い出させた。
もしかしたら、もう入ることは無いかもしれないと思っていた我が家。いとも簡単に、自然に当たり前のように足を踏み入れる。美味しそうな夕食のにおいが安心も一緒に連れてきて、思わず大きくお腹が鳴る。音が聞こえていたのか、父も母もおかえりの言葉をかけながら柔らかく微笑んでいた。
「…っ、う…ぁ…」
泣き崩れる三角に両親が駆け寄る。おろおろと背中を撫でる母のあたたかい手、少し困り顔で肩にかけられた父の手、兄さんと呼ぶ唯一の声。三角には、もう二度と手に入らないと思っていた絵に描いたような理想の優しい家族がそこには存在した。
泣き腫らした目で、微かに思い出の味がする夕食を済ませて風呂に入った後、自室へ向かうと、三角の部屋はさんかくだらけだった。小さく安堵の溜め息が漏れる。状況を整理しようと座った机には参考書や教材が置いてあった。どうやら、斑鳩三角は大学に通っているらしい。とは言っても、いきなり明日から行ったこともない大学に通うのは難易度が高過ぎるし、現実を突きつけられるのが怖い。大学に行くフリをしながら家を出て、昨日の公園に行ってみよう。何か手がかりが見つかるかもしれない。
膨らんでいく不安に布団で蓋をしても溢れ出てきて止まらない。さんかくに囲まれていても落ち着かない部屋で一人、干したてのお日様のにおいだけが安定剤となった。
「兄さん…大丈夫?」
急にノック音が響き、かけられた言葉。こんなに待ち望んでいた優しい弟の声は、三角を不安定にさせた。知っているような知らないような弟…。そんな、即席で作られた安心感にさえ、すがりたいほど一人の夜は寒かったのだ。
「大丈夫だよ…おやすみ~…」
どうか、夢でありますように。
願いは閉じた瞳の端から流れてしまった。
次の日、変わらない部屋に胸を痛めながらも早起きをして朝食を軽くすませてから、行ってきます!と家を出た。通勤ラッシュで身動きがとれない窮屈な電車を横目に、公園へと向かう。昨日と同じベンチに腰をかけること数分、猫が何匹か集まってきた。
「…あれ?」
おはようの言葉と共に頭を撫でる。手にすり寄ってくる猫たちは、指のにおいを嗅いだり舐めたりと、いつものように気まぐれに相手をしてくれる。そんな穏やかな空気の中で、ただ唯一…違うことがある。毎日、聞こえていたはずの声が、聞こえなくなっていた。
何度撫でても、一緒に遊んでも聞こえない。抱っこしても抱き締めても、声を聞かせてくれない。終いには、鬱陶しかったのか手の甲を引っ掻かれてしまった。驚いて引っ込めた腕。足元に集まっていたはずの野良猫たちは姿を消していた。
撫でていた手は、だらりと行き場を無くし、肩から吊られて揺れる振り子のようだった。
「痛いよ…」
手の甲がなのか、心がなのか、分からない。
立ち上がって見上げる朝日は眩しい。まだまだ沈む様子は無い。
「オレは…だれ?」
俯いて問いかけた影は…同じように立ち竦むだけだった。
サルビアの家族愛
公園を出てから、お気に入りの場所を巡った。猫たちの集会の場、さんかくのオブジェがある別の公園、綺麗にさんかくを作るおにぎり屋、みんなで行ったクレープ屋、そのどれもちゃんと実在した。目に見えて触れることだってできる。でも、そこに斑鳩三角の痕跡は何一つ無かった。おにぎりの味も、クレープの味も、変わらずそこにあるのに。
こんなに長く感じる一日に、懐かしさを感じた。
「…を、……ってどう?」
「いいね! その代わり、条件がある…」
賑やかな天鵞絨町では、突然ストリートACTが始まることがある。今もどこかの劇団員が即興で演じている声が聞こえる。二人の演者は優しくて柔らかい声とハキハキと力強い声をシーンに合わせて使い分けている。声色を変えているが聞き覚えのありすぎる声に鼓動は加速する。
「…かず、…むく」
目から入る情報は、残酷だった。
その空間にいたくなくて走り出す。あんなに大好きな二人なのに。でもだからこそ、今の三角には酷すぎる。二人が同じ劇団員になり同じ組になり他の仲間たちと演劇をやっている事実が。
そこに、自分が存在しない別の夏組が存在する事実が。
「あっ…」
宛もなく走り出すと、戻ってきてしまうのは劇団の寮。目の前にあるのにものすごく遠くに感じた。昨日の紬の顔が嫌でも思い出される。ここに斑鳩三角の居場所はない。早く家に帰らなきゃと踵を返した時だった。
「……おにーさん、どなた~?」
背後で受けとめた声に背筋を凍らされる。
「ボク達、ここの劇団員なんですけど…もしかして…演劇に興味があるんですか?」
「えっと…」
「じゃあコレ!貰っちゃってくださ~い!」
「この劇団で夏組に所属してて…」
「今度やる公演なんだけど~…」
「…い、いらないっ…!!」
「えっ…?」
「ご、ごめんなさいっ…」
綺麗で鮮やかなフライヤーを突き返して走り去る。
……芝居すら、できなくなっていた。
「…ただいま…」
眩しかった日が沈み暗闇が顔を出した頃、慣れない家に帰宅した。おかえりなさいと迎えてくれたのは母と弟だった。ぎこちない笑顔で言うただいまは、まだ全然しっくりこない。心配そうな顔をする二人の気を逸らそうと夕飯の話題に変える。
「もうすぐ、できるところよ」
「そっか~…手伝うよ~?」
「いい。兄さんは来ないで」
遮るような断り方に胸が痛くなる。けど、それは懐かしくもあり…何故かほんの僅かだけ安心感が沸いた。ツンとしていて遊びの誘いはいつも断られる。三角はそんな弟の姿しか知らないのだ。昨夜のような優しさにはどう反応していいか分からない。状況が飲み込めない今は、切なくも嫌われている方が好都合だった。
「…じゃあ、部屋にいるね」
部屋には変わらずにさんかくが散りばめられている。確かにそこは自分の部屋なのに他人の部屋のように感じる。ふっ、と冷たい空気が背中を抜ける。意味もなく持って出かけた鞄が手をすり抜けて床にぶつかる。鈍い音が部屋を包んだ後、扉を開けて飛び出した。
「…じいちゃん…」
そっと襖を開けると感じる藺草のにおい。鼻腔をくすぐる懐かしさに童心にかえってしまいそうになる。変わってしまった世界で、この部屋だけは何も変わっていなかった。勝手に触ってはいけないと頭では理解していても、泣きそうなほど穏やかで落ち着いた安堵を求めて、手が動くのを止めない。
「兄さん」
背中にかけられた声に驚いて、手が止まる。
「…何してるの?」
「えっ…えっと…」
「ご飯、できたから…早く食べなよ」
少しだけ開けた引き出しを丁寧に閉めて名残惜しそうに襖を閉じると、数歩先を歩く弟の後ろをついて行く。廊下が軋む音はまた徐々に不安を煽る。これから毎日、この音を聞くことになるのかもしれない。まるで、思い出にヒビが入るようなこの音を。
「…わっ…!」
食卓につくと、三角にだけにかかっていた重苦しい空気が払拭される。
「なんだか、元気がないみたいだったから…」
テーブルに並べられたのは、おにぎりやサンドイッチなど三角形を型どったものばかり。弟がこんなに大きく成長したこの家で、見ることはないと思っていた光景に、自分が置かれている奇妙な現状を一瞬忘れるほど正直に驚く。
「すごい…すご~い!」
「円が考えてくれて、準備も手伝ってくれたのよ」
「…っ、母さん…言わなくていいから…」
「まどか…」
胸の中があたたかい何かで満たされるのを感じ始めた時、父が部屋から出てきた。昨日は状況が分からずただ泣くことしかできなかった。今になってからちゃんと父の姿を見る。やはり、背中がぞくりと疼いて跳ねるような鼓動と冷や汗が止まらない。
「今日は…ご馳走だな」
「…そう…ですね…」
思わず敬語になるほど、その存在は三角にとって大きいものだった。
「ゆっくり…沢山、食べなさい…」
少しだけ柔らかくなった表情とすれ違い様にそっと肩に触れられた手に…どこか、亡き祖父の面影を感じる。凍ってしまった体を融かすような言葉と、年齢と温もりを感じるようになった手に、視界がゆらゆら歪んでしまう。
「兄さん…泣き虫だな」
もっと幼い頃は彼だって泣き虫だったのだと、思い出が三角の頭を過る。
父も母もそして弟も触れる手は柔らかくてあたたかい。どこで間違ってしまったのか、何がきっかけだったのか。きっと、こうなるはずだった。誰が悪いのか。自分のせいなのか。分からない。分からないけど、自分は違う世界の斑鳩三角だと痛感するほど理想の家族がそこにはあった。家族みんな仲がよくて、たとえ多くは話さなくても思いやりがあって優しい雰囲気に包まれている。誰が見ても幸せな家族。
ずっと欲しかった…この手を…離したくない。
「父さん母さん、円…いつもありがとう…」
…思い出が、割れる音がした。
選択のリンゴ
この世界の斑鳩三角になって初めての週末。家族で出かける予定を立てていたらしく、当然のように三角も誘われる。家族の隣を歩いて外を出てもいいという感覚に戸惑いを隠せない。もし、何か迷惑をかけてしまったら…そう考えてしまい、断ることにした。大切な家族の悲しむ顔は見たくない。いくら家族が優しくても、今の斑鳩三角には隣を歩く資格がないという思いは無くならない。
「いってらっしゃい!」
明るく笑顔で三人を送り出す。ひとりぼっちになった三角には広すぎる家で、落ち着かないのかうろうろと歩き回っている。家族みんなで座って集まるテーブルには、まだ朝食の残りのような温もりの余韻がある。これからどうすればいいのか…不安と一緒に突っ伏すと、ひんやり冷たいテーブルに目が覚める。
「…じいちゃん…」
もう慣れていたはずのひとりぼっちの寂しさに再会すると同時に唯一の温もりを思い出す。椅子を突き飛ばすように立ち上がり、軋む音を跳ね返して廊下を走る。大きく見開いた瞳によく晴れた希望の光が差した。
勢いよく襖を引くと、昨日と同じ藺草のにおいに迎えられる。
おじゃまします、と控えめに呟いて少しだけ頭を下げながら踏み入れた足は見下ろす畳を背景にする。記憶しているよりも遥かに大きく逞しいはずなのに、今にも倒れてしまいそう……けれど、それでも、きちんと両足で立っていた。
「昨日は…ごめんなさい」
手を合わせた仏壇の前で昨日の無礼な行いを反省すると、ふっと心が軽くなったような気がした。きちんと謝ること、きちんと感謝すること……幼い頃に教えられた大切なことが自然にできるようになった姿を見てほしい。落ち着いた柔らかい表情のまま、徐に立ち上がると手を拡げてくるりと一回転する。
「…大きく、なったよ~」
もう一度、座って合わせた手は…あの日、優しく撫でてくれた手と同じぐらい大きくてあったかい。
カチコチと刻む時計の音に背中を押されるように、自分がおかれている状況を話す。返事はなくても、ちゃんと聞いてくれているような気がして、言葉と一緒に不安も吐き出される。全てを話す頃には揺れる視界と仲良くなっていた。
「じいちゃんの…宝物っ、オレに…探させてね…」
深く頭を下げ、これ食べてて?と差し出すお皿には綺麗なさんかくのおにぎりが二つ。仕上げに藺草の香りをふりかけると、二人だけの思い出の味になる。
そっと引き出しや箱を開ける音は、過去を遡っていくはずなのに、未来の扉を開いていくようだった。
「……あっ!」
見覚えのある赤い宝箱。震える指先でゆっくり開くと、予想どおりボイスレコーダーが入っていた。案の定、電池は入っておらず再生ボタンを押しても動かない。
「じいちゃん……待ってて!」
箱も襖も開けたまま走り出す。
三角の足は自分の部屋のようでそうじゃない自室へ向かっていた。確か、机の引き出しに単三電池が入っていたはずだ。勢いよく開けた部屋の扉と引き出しには新品のビニールに包まれた単3電池があった。いくつ必要なのかは覚えておらず、とりあえず全部持ち出すことにした。
何度目か分からない懐かしい香りに迎えられながら、見つけた電池をボイスレコーダーに入れる。この録音された音声を聴いても何も起こらないかもしれない。それでも、それでも……。
カチッ。
今じゃ聞き慣れないノイズから、幕が開く。
『……帆を張れ! 錨を上げよ!』
『ものども、出航だ!』
『俺たちゃ、海賊~! 荒くれ者のお通りだ~!』
『立ち位置間違ってるぞ!』
『あれ!?』
『あははは! 荒くれ者だから立ち位置もお構いなしか』
『おいおい!』
観客を楽しませるためには、まず自分たちが楽しむ。その言葉が相応しいような笑顔の絶えない稽古の様子は、賑やかな台風のように観た者や聴いた者の心を踊らせる。
『……ゴホン。えー……七月六日、晴れ。場当たり』
「……っ、あ…」
耳馴染みの良い懐かしい声に、安堵の波が押し寄せる。
『今夜は仲間たちのおかげで機嫌がいい。気の迷いでこんな遊びを思いついてしまった』
『さて、酔狂に付き合ってくれたのはどこの大馬鹿野郎かな。その多大なる無駄な労力に感謝しよう』
「……じいちゃんっ」
『広い世界の片隅、さびれた港町のしがない男が手にした財宝、そのすべてがここにある』
『最高の芝居を見せてくれる最高の仲間たちに心からの感謝を。仲間は生涯最高の宝なり』
演劇は面白いぞ。お前もいつかやってみろ。いいか。そのときは――
「……最高の仲間と…最高の芝居を見せてくれ…」
荒波のように押し寄せた感情の波が満ちる。
一緒に入っていた写真を手に取り、笑顔と共に溢れる涙を男らしくパーカーの袖で雑に拭って顔を上げる。ハッキリとよく見えるようになった視界に入ってきたのはカレンダーだった。
――今日は、七月六日。
男は立ち上がる。
静かに目を閉じ、深く大きく息を吸ってからゆっくりと開いた瞳には海が見える。
「帆を張れ! 錨を上げろ!」
部屋中に響き渡る声。
縁側から吹き抜ける強い風は、夏のにおいがした。
ペンタスの願い事
散らかした祖父の部屋を素早く片づけて、最後にもう一度だけ手を合わせる。ゆらゆらと揺れていた瞳は照らされた夕陽で強く濃く一番星のように輝く。
「じいちゃん…オレのこと、ずっと見ててね…」
ありがとう、と呟いて夕暮れを知らせる蝉の声に急かされながら家を出る。何処に向かえばいいのか分からない。けど、きっと今日じゃないとダメで、今じゃないとダメなんだという根拠のない勘だけを頼りに公園へと向かう。
「…兄さん?」
背中から聞こえた声に振り向くと、買い物帰りの弟がいた。寄りたい店があるらしく、両親よりも先に帰ってきたのだと言う。
「……まどか…」
「こんな時間から何処に行くの?」
「えっ…ちょっと、コンビニかな~…」
「そう」
再び駆け出そうと踏み出す足。
「……早く、帰ってきなよ」
次の一歩が、遠い。
軽かったスニーカーは鉛でできているみたいに持ち上がらない。これが最後に交わす言葉になるかもしれない。これが最後に見る姿になるかもしれない。
……もう、この温もりを感じることは、二度とないかもしれない。
それでも自分の歩むべき道はこっちだと、誰かが呼んでいるような気がする。幸せを選ぶ権利は自分にある。何よりも、斑鳩三角自身が、前に進みたかったのだ。
「うん……すぐ戻るから、みんなで一緒に、晩ごはん…食べようね!」
ここへ来てから初めて、咲き誇るような笑顔を見せる。
今、この最後の瞬間だけでも、ちゃんと兄になれるように。
公園には相変わらず猫たちが集まっていた。耳をすましても声は聞こえないが、目が合うなり野良猫たちは三角の前を歩きだす。少し歩いては振り返り立ち止まる。まるで、着いてこいと言わんばかりの態度に歩幅を合わせながら背後を歩く。草が生い茂った細い道を抜けて、低木の隙間から顔を出す。
「……わぁ…!」
周りが草花で囲まれた場所に、黄色い花が咲いていた。
「これ……あっ…!」
このお花、星があつまってるみたい~!
「そうだ……」
お願いごとしたら、ほんとに叶うかも~!
「……思い出した」
オレも、まどかと……みんなと、猫さんたちみたいに、仲良くなれますように……
「そっか……オレが、お願いして……」
えへへ~!猫さんたち家族が、すっごく仲良しだから……ちょっとだけ、いいな~って思っちゃった~!
「……教えてくれて、ありがとう……」
瞳の色をより濃く映し出す夕陽は、もうすぐ消える。きっと、今日のこのタイミングがチャンスなんだと己の勘が叫ぶ。案内してくれた猫たちの頭を撫でながら、黄色い花の前にしゃがむ。
目を閉じて思い出すのは、ほんの数日間の出来事。
血の繋がった家族の温もりは、心から欲しかったもの。それは、今でも変わらない。けれど、今まであったことを無くして手に入れたものは……斑鳩三角の存在を否定することになる。
さんかく、お芝居、仲間……そのどれか一つでも欠けてしまえば、三角にはならない。
ゆっくりと開いた目に、迷いはなかった。
「オレはっ……! さんかくが大好きで……っ、みんなが、大好きで……っ、これからもずっと…ずーっと……」
「……最高の仲間と、最高のお芝居がしたいっ……!!」
「だから……元の世界に、戻してくださいっ!!」
完全に夕陽が沈み、暗闇が訪れる。
ふっと力が抜けたかのように倒れ込んだ三角の周りを猫たちが囲む。
「……一緒に、晩ごはん……食べられなくて、ごめんね……」
暗くなった空に、雨粒が落ちた。
幸せのカキツバタ
「……んー?…」
目が覚めると、公園のベンチだった。
「うわぁ! ごめんなさーい!」
そう口に出した瞬間、ハッと気づく。
そこは俺の場所だ。邪魔だ。と頭をぐりぐり押しつけてくる野良猫の声がハッキリと分かる。その事実が嬉しくて何度も猫語で話しかけると、猫たちは怪訝そうな顔をして去ってしまった。
もしかしたら…元の世界に戻れたのかもしれない。期待と不安が競り合うように鼓動を加速させる。
深呼吸をしてからゆっくりと歩を進める。爪先が指す方向には見慣れたサンカクの屋根。もし、あの時と同じような顔をした紬に迎えられたら…思い出すだけで不安が期待を大きく離す。それでも足は、前へ前へと確実に進んでいく。
「……はぁ…」
大きな玄関の前で立ち止まる。扉を開けようとする右手は重くて持ち上がらない。足も接着剤でくっつけられたみたいに動かない。落ち着かない鼓動と深呼吸だけが何度も響く。
「…あっ、三角くん…おかえり」
勝手に開いた扉から迎えてくれたのは、藍色の綺麗な髪にぴょこんと毛束が飛び出た青年だった。
「……どうしたの?今日は服もズボンも泥だらけじゃないし、入ってもいいよ?」
「つむぎっ…」
うわっ!という声と共に、二人で床に倒れ込む。大きな音を聞いて見に来た体格のいい青年が、何をやってるんだ…と呆れた顔で見下ろす。談話室の方から何やら閃いた声がする。
「すみー、おかえり~!」
「おかえりなさい!」
「……かずっ、むく……」
あとから迎えてくれた二人にも勢いよく抱きつくと、驚きながらも優しく受け入れてくれた。帰ってきた途端、泣きながら抱き締めても理由を聞かずに頭を撫でてくれる……心の中の全てが、安心感で満たされた瞬間だった。
「すみー、今日もサンカク探してたの~?」
「うん…っ、公園で、寝ちゃったけど…」
「三角さん…ほっぺがヒリヒリしてて痛そうですね…」
「日焼けしちゃったんじゃないかな?」
「熱中症とか危ないから、外で寝ちゃダメだよん!」
「…は~い! えへへ…」
落ち着いてから寮にいるみんなと話すと、やっぱりここは元の世界で、自分はちゃんと斑鳩三角だと実感した。あまりに当たり前に接してくる様子を見ていると、今まで起こったことは……もしかしたら、夢だったんじゃないかと思うほどだった。携帯電話を見ても団員の名前が連なる中に家族の名前は一人も無い。昼食を食べた後、ストリートACTに出かけても普段どおり楽しくお芝居ができた。
日が暮れる頃には今回のことは、妙に現実味のある夢を見た。という一言で片づけられる出来事になっていた。公園で同じ花を探しても、白や紫やピンクは咲いているのに黄色い花は見当たらなかった。
それでも、頭を撫でた感触が、まだ残っている気がした。
「あっ! さんかく~!」
足元にサンカクの形の石を見つけた。拾って持ち帰ろうと、ポケットに入れようとした時だった。
「…ん~?」
コツン、と指に当たった物をポケットから出す。
「……あっ…」
開いた手のひらには、雑に開封された単三電池が乗っていた。
もう一度、握りしめた時、夕陽色の一番星が瞬いた。
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広い日本家屋のお屋敷に添えられた綺麗な庭。そんな和風庭園をつまらなさそうな顔で見つめる少年が一人。作られた美しさには目もくれず人目につかない庭の隅の方へ歩く。
「……また、咲いてる…」
和の雰囲気には似合わない、大きくて派手で目立つ花。周りに左右されず、自分を貫く変わらない姿は……ほんの少しだけ羨ましかった。
「あっ……」
ふわりと風が吹いて、揺れる花に懐かしさを感じた。
君の未来にダリアが咲いていますように。