あおい色した逃走劇 土方は狭い酒場の台に膝を押し込め、猪口を指先でふと持ち上げた。
軽く唇を濡らすと、肩をひそめて眇めに帳場を見遣る。
男たちの発する汗の臭気と酒の匂い、馬鹿笑いが一際大きくなったところに、木造のボロ屋が震えた気がした。
土方は酒場のこの空気が好きだった。
薄汚い小屋が揺れるほどの喧騒の中で独り座っているのが好きらしい。
それで、酒に強い性質ではないのだから我ながらおかしい。
今も土方は独りで呑んでいた。
土方はこの酒場の馴染みである。バラガキのトシといえばこの辺りでも有名だった。顔見知りや目礼を交わす仲の連中もいないでもない。
しかし、土方はこういう性質だから、絡んでも面倒そうにあしらわれるだけだと分かるらしい、近寄る人間は多くなかった。
小さな猪口でちびちびと酒を舐めつつ、土方は黙って周囲を眺めていた。
手酌で酒を注ごうとしてふと、徳利が所定の位置にないのに気付く。
斜め上で、くつくつと声を殺して笑う音がした。
「…おい」
視線だけを上げると、徳利を片手に下げたまま笑いころげる少年がいる。
彼は涙をぬぐって、徳利を持ち上げた。
「おつぎしやしょうかい、旦那ァ」
伊庭はにっと破顔し、妙な調子をつけてそう言った。
土方が口を引き結んでいると、伊庭は冗談だよと両手をあげて無理矢理土方の隣に座った。
「……相変わらずふざけたことをする奴だな」
「トシさんこそ、相変わらずむやみやたらに周りを威嚇するね」
そう返して何がおかしいのか、けたけたと笑う。
土方と伊庭は遊び仲間といっていい。互いに呼び名くらいしか知らないものの、不思議と馬があうので気がつけば一緒に行動していることも少なくない。
もっとも、こうしている今も伊庭は通りすがりに色々と声をかけられているのだ。伊庭の付き合いがいいと言うべきかもしれない。
年こそ土方のほうが八つ程上だが、伊庭は妙に人好きのする男だった。
「……威嚇なんぞしてないが」
「してるさ。そうして周りを薮睨みしてさ、怖いのなんのって」
土方は伊庭を視界の端に捉えつつ、息をついた。
「…悪かったな、目付きが悪くて」
「んなこと言ってないさ。すねるなよ」
「……すねてなんかいるもんか」
「ほら、すぐすねる」
「だから…」
「男前だって言ってんのさ、だからすねるなって」
なんだその論理の飛躍は、そう思ったが口には出さない。
「あんたみたいな男前がむすったれた顔してりゃ、嫌でも周りは脅えるだろ」
何を思ったか伊庭はそう付け加え、口の端に笑みを浮かべて猪口をあおった。
そうは言うものの、この伊庭とて随分な伊達男だ。むしろどこかしら荒削りの雰囲気の漂う土方よりも、洒脱な空気を纏っている。
彼が通りを歩く先から、女たちが笑いさざめくのだ。
――ガキのくせになぁ。
薄暗い中、土方は横目で伊庭を眺めて、思う。
伊庭は、顔の造作だけをとれば男とも女ともつかない。その癖、なんともない振る舞いが妙に華やいでいて伊達である。本人はあっけらかんとしているところを見ると、無自覚らしい。
そんなことを考えていると、突然伊庭がこちらを振り返った。
「なんだよ。そんなに見られたらおれ、穴開きそう」
「……なんでもねえ」
「あっそ」
あっさり引き下がって、伊庭は小さく息をついた。
「……実際さ、あんたと向かい合ってると抜き身の刀つきつけられてる気分になるんだよ」
唐突な告白に、土方は思わず伊庭を見返す。伊庭は真剣な表情をしていた。酒場の賑やかさが一瞬遠くなる。
土方の反応をうかがった後、伊庭は改めて呟いた。
「あんたってそうなんだよ。……剥き出しの刃物みたいだ」
どのような答えを返せばいいのか、土方は迷った。
無愛想となじられ、顔が怖いのと皮肉られ、一通りの雑言には慣れていたつもりだった。しかし、どうもこの男は計りかねる。
「……どういう意味だ」
問うと、伊庭はにやりと笑う。
「別に?あんたはいいなってことだよ」
それきり会話を打ち切って、伊庭は猪口を空けた。それが伊庭の賛辞だと土方が気付いたのは、しばらくしてからだ。
つくづく計りかねる男だ。
「なんだい、そんな鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔しなくたっていいだろう」
伊庭はくつくつと喉で音を立てて笑った。ふと、真顔になる。
「おれはねトシさん、時々わかんなくなっちまうんだ。自分がどうしたいのか、何をすべきなのか……。まぁ、やくたいもないことだね」
口ではそう言いつつ、伊庭の言葉は存外、真摯な響きがある。
伊庭は口許に不思議な笑みをのせた。
「年齢の違いかね、やっぱり。あんたって、そういうのないだろう。だからあんたの周りには人が集まる」
正直さ、と伊庭は猪口を置き、両手を上げておどける。
「おれはあんたが羨ましいよ」
「…………」
やや時間が経ってから、土方は、酔ってるな、と呟いた。
「うんまあ、酔ってはいるよ」
伊庭はそう応じて破顔する。
「……奇特な奴だな」
「うん、そうかも」
言葉少なな土方に対し、伊庭は涼やかな声をあげて笑った。
「…あのさトシさん」
「なんだ」
「いつかさ、あんたのその、寂しがり屋で構われたがりで一匹狼な、厄介な性格を理解してくれる奴と会えたらいいな」
土方が思いきり顔をしかめたのが分かったのか、伊庭はにやにやと笑いながら土方の肩を叩いた。
「すねんなって」
「……すねてねえよ」
――どっちが厄介な性格だか。
土方は悟られないようにぼやいて、猪口を挙げた。