しんのさいわい 月光が月から戻って来て一年以上が経った。周囲がヤキモキしていた月光とエンゲキブの関係は水面下でゆっくりと進行していたらしく、工藤や天道が彼らの婚約を知ったのは、すでにその日取りが決まってからだった。
「そういうことは、もっと早くに教えてくれて良かったんじゃないかしら」
これ見よがしに大きなため息をついてやると、さすがに悪いという自覚はあるらしい月光が珍しく苦い表情を固くして肩身を狭そうにアイスコーヒーの氷が溶けるがままにしていた。
「仕方ないだろ。一応、いろいろ……こっちもあったんだから」
「別に責めてなんていません。向こうのみんなに知られたら大騒ぎになるっていう予想は当たっていたわけだし」
「だから嫌だったんだよ……」
今度は月光が心底ゲッソリとしたため息を吐いた。
今週ずっと誰かしらが噂を聞きつけてはやってきて彼ら二人を祝福しては去っていき、エンゲキブと月光の婚約をみな自分のことのように喜んでいた。それを見て誰よりも喜んでいたのは徳三だ。口ではあーだこーだと文句を言っている月光も、エンゲキブと徳三が喜ぶのならと法的な婚姻に踏み出したのであって、その二人が手放しに嬉しそうにしている姿にはなんの異論もないし、決心してよかったと心から思うし自分も口元が弛むのを抑えるのに必死だった。
だから正直なところ忘れていたのだ。
イデヤから話を聞きつけた天道と工藤が、揃って怒鳴り込んでくるまで、彼らに直接自分たちの口から話していなかったことを。
*
お互いの飲み物もすっかり冷え切ったところで、月光はようやく工藤に向き直った。話があると言われて呼び出されてノコノコ来てしまったが、いくら元同級生でエンゲキブも知っている相手とはいえ、二人きりで逢っている状況は褒められたものではないことくらいわかる。工藤も工藤で、天道と最近は近しい関係にあるという話は聞きみみ頭巾が拾ってきた。
なにもいまだにこの説教が本題ではあるまいし。
「で、なんの用件なんだよ」
「ああ、そうそう」
そう言いながら彼女は一冊の本を取り出した。
「本? まさかまたどこかでなにか起きてるのか?」
思わず身を乗り出しそうになるが、工藤は優しく微笑んで「違うわよ」と浮いた月光の身体を押し戻す。
「本に描かれたら、物語の登場人物になる。そうよね」
「ん、ああ。そりゃ、そうだろうけど」
「それが、たとえ、実在していた人物だとしても」
「……それは、つまり」
月光が、思わず鋭い目で睨め付けるが、工藤はそれに物怖じすることなくハッキリとした視線を返してきた。
「ずっと考えていたのよ。もし、もう一度会うことが出来たらって。もちろん、今の岩崎くんにとっておじいさまの存在が一番だというのはわかっているわ。
でも、やっぱりあなたのその生き様を形作ったもう一人の存在は無視出来ない。
だから、なんとしてでも、もう一度会えないか、探したの。
宮沢賢治の、物語を」
月光の前に差し出された本は、普段月光が手に取るようなものではない大人向けのもののようだった。こんな小さな活字、教科書以来だ。
月光は、自分の手が少し震えていることに気づいていた。
もう、妹に逢いに行く以外で本の中になど行っていない。おとぎ話の連中は意外としょっちゅうこちらに遊びに来ては騒々しくして帰っていく。こちらが行く必要などなかった。
自分がおとぎ話の世界の住人であったことをもう忘れかけている自覚もある。
先生は、この話の中の「先生」は、俺が知っている先生なのだろうか。
わからない。
逢いたいのか、どうかすらも。
黙り込んだ月光に、工藤はなにも言わず本をその手の中に押し付ける。
「実は、エンゲキブさんとおじいさまにはもう伝えてあるの。別に今すぐ行く必要もないわ。考えた末の結果として、会わなくたっていい。出逢えるかどうかもわからないし、この中で出逢える賢治が、あなたが出会った賢治と本当に同一の存在かはわからない。
でも、これは、一つのケジメだと思ったから」
「ケジメ?」
「あなたの。
あんなに、こんなにも、誰かの記憶に残ることや、自分の幸せや未来に手を伸ばさなかった岩崎くんが、誰かの手を取って、伸ばして、幸福になろうということを、この世界で選び取ろうとしたことが。
かつての「あなた」がしたことや、しなかったことじゃなくて、『岩崎月光』の選択が、いかに尊いことなのか。
それを伝える相手がいるのなら、私には、やっぱり、どうしても、この人に伝えて欲しい。
伝えるべき、だと思います。
それが、友人として出来る、私の最後のお節介です」
*
その日は満月だった。
店の定休日で、エンゲキブはシンデレラ、赤ずきんや工藤たち女性陣で食事に、徳三も旧友との晩酌に出掛けている。
満月の夜にはおとぎ話の連中は今でも外を出歩くのは少し怖いらしく、外出は控え目なようだ。久し振りに一人きりで店の中にいて、自分立てる物音しか聞こえない。ただでさえ蒸し暑いのに、明日のスープの下準備で店内には複雑な匂いと熱気が立ち込めている。ほぼ支度が整ったところで休憩しようと、バンダナとエプロンを外した。
結婚という話題が最初に出たのは、エンゲキブと鉢かづきの間でだった。
事が進む様子を逐一報告していたのも知っていたが、止めるのも流石に憚られる気がして見て見ぬ振りをしていたが、ついに確定事項となったそれを聞いたハチは、エンゲキブも動揺するほど泣いて喜んだ。おとぎ話の連中に知れ渡ったのはあっという間だったほどに彼女にしては珍しく口が軽く、同時に多くの者がその物語を欲していた。
工藤が言うことは、最もだと思う。
自分が本当に伝えなければならない人物を、本当は、知っていた。
*
そこは、出会ったあの道のようだった。
満月の夜で、道は薄暗く、木々に囲まれて、長い影のように見える黒づくめの男が居た。
胸の鼓動が、耳元から聴こえてくる。心臓が脳にあるみたいだった。先生と呼ぼうとして、別人かもしれないと思い至り、声を出すことをやめたけど、本当はノドがカラカラで声が枯れていて出すことが出来なかった。このノドの渇きは、動機と同じ理由だろう。
それでも、やっぱり掠れた声で、呟いた言葉は「先生」だった。
一度口にすると、次から次へと言いたい言葉が出てくる。なのに、実際に発されるのは延々と「先生」という呼びかけ一つ。
先生、なあ先生、ねえ先生、先生、先生。先生!
いろんなことがあったんだ。幻のアンタとも出会った。自分のことなんてすっかり忘れた時もあった。たくさんの仲間ができた。倒すべき敵なんていなくて、みんな色々なものを背負っていて、男には、耐えなくちゃならない時があると、アンタが教えてくれたことを、また俺は教わって、そしてそれを俺もさらに年かさが下の奴らに向かって口にしたことだってあった。
ずっとずっと、話したいことがあったんだ。
アンタに言わなくちゃいけないことがあるんだ!
なのに言葉が出てこなくて、月光は、その姿に腕を伸ばしながら、次第に脚が早まり、その目からは、涙が溢れていた。
「ガマンが大事だと教えましたよ、散吉」
その投げかけられた声に、ピタリと脚が、伸ばした腕が止まる。
恐ろしいほどに、掠れた記憶の中の、そのままで、忘れかけていた声の高さ低さも吐息の出し方もその間合いも、確かに、先生そのものだった。
思わず顔を覆い、その汗涙に塗れた顔を隠すが、先生のほうが一歩ずつゆっくりと近づいてくる。ずっと追いかけていた足音だった。この振動を、身体が忘れていたなんて嘘みたいに、誰のものなのかすぐにわかった。
「ほら、顔を見せてください」
優しい声色に反して、言うことを聞かない散吉のことをよく見知った先生は迷うことなく両手でグッと散吉の腕を掴んで開かせる。月光はそんな行動を予想することを忘れていてされるがままに情けない顔を見られたことに憤りすら感じたけれど、すぐにそんな距離感に喜びが身体中に溢れてきてそちらを抑え込むことに全神経を使ったため、情けない顔は嬉しいのか恥ずかしいのか、困っているのか、複雑なものになった。
そんな顔を見て、先生は穏やかに笑った。
「先生」
「はい、ここに、いますよ」
「先生」
「ええ」
「先生」
そして、ゆっくりと、散吉はその額を、先生の肩に埋めた。
先生は、それを知っていたように、出逢ったばかりの頃の少年にするように、優しく抱きとめて色素の薄い髪の毛のゴワゴワした指ざわりを楽しんでるように何度も梳いた。
「先生」
もう、何度目かわからない。
何度呼んでも、もう二度と呼べなくなるかのように繰り返す。尊い言葉のように。
埋めた肩が、自分の涙で濡れていく。じっとりと湿った感触が目元に触れるたびに瞳に滲んで目が痛くなった。ぎゅっと瞼を締め付けすぎて痛いのかもしれない。
言わなくては。
なにを言うべきか、わかっていないけれど、とにかく、なんでも、言わなくちゃ。
もう二度と、会えなくなる前に。
「俺」
「ええ」
「俺は、アンタの、先生のおかげで今ココにいる」
「本当なら、アンタが幸せになるはずだったんだ。あの時、アンタがちゃんと願いを叶えられてさえいれば、こんなことにならなかった。
それを、アンタは、いや、俺がいたから」
「チルチルくん。
いいえ、散吉。
君はもう、『本当の幸福』を、見つけたのでしょう?」
「それは……」
「私と君の『幸福』は違う。
人のモノサシで測ったような幸福は、私にはいりません。
それに、私はすでに幸福なのですよ。
君が、真新しい人生を歩み、そして真の『幸福』を見つけたのですから。
それが、私の願いだったのだから」
ゆっくりと、散吉の両肩を掴んで顔を離す。あれほど自己嫌悪に侵され、自分を見失い、他者の幸福のために全てを敵に回しても戦った男は、ただの青年の顔をしていた。
一人では辿り着けなくても、その想いを汲む者がいれば、決して無駄ではなかったと心から信じることが出来た。
それは、いま、この瞬間のことだ。
「今の、君の名前を教えてください」
ただ流れる涙を最早拭うこともせず、散吉は、時折嗚咽をあげながら真っ直ぐに先生を見上げた。もう、身長差などないのに、出逢った頃のように。
「月光。岩崎月光」
それを聞いた先生は、一層嬉しそうに笑った。
「君にピッタリの、本当に素晴らしい、素敵な名前だ。出逢った時のことを、思い出しますね」
「月光」
まろやかな響きが、先生の声で聞こえる。幻聴か、幻か、魔法なのか。だけど、泣きすぎて目の奥が痛くて、頭痛がしていて、そんなことに気がついてるようにつむじの辺りを、先生の鍬や鋤を持ってタコだらけの手の平が撫でてくれた。この感触は嘘じゃない。じいちゃんとも違う、この触り方は、先生だけだ。
「君は今、幸せかい?」
ああ、俺は今、幸福です。
デクノボーの俺にも、居場所があって、価値があると教えてくれる人たちがいる。
アンタ以外にも。
先生だけが全てだったのに、アンタの教えが全部だったのに、今の俺は、色んな人の想いで出来てる。
自分だけの幸福じゃない。
俺の幸福は、誰かの幸福になってる。
俺が幸福になることで、誰かが幸福になる。
そんな、世界の、文脈の中に、俺も入ってしまった。誰かとの関わりの中で俺は今生きている。
「それでいい」
知っていた。
この人なら、そういうことを。
「それなら、良かった」
わかっていた。そう言うって。
それを許せなかったのは、俺自身だから。
「ずっとずっと、君の幸福を祈っていたよ。
そして、これからもずっと」
それを言われたかったのは、俺だ。
「俺、生きててよかった」
でも、同時に思っていた。
こんなに幸福で、もう、今すぐ死んでもいい、と。
「俺、先生、なあ、俺」
「ええ、いいんですよ。それで」
「死にたくない」
本当は、生きたい。
アンタと一緒に、生きたかった。あんな終わり方じゃ、別れ方じゃなくて、アンタが生きてる間にアンタの願いを、叶えさせてやりたかった。
「だけど、次は、もう一人で死なない。もう、俺は、一人で死なないんだ。
生きてて、いいんだって、アンタ以外に言われて、ようやく、俺は、先生が言いたかったことがわかった」
「俺、俺も、先生に、生きてて、欲しかった」
膝から崩れ落ちた。
先生も同じように、膝立ちになり、再び俺の頭を抱える。子どもにするみたいに。
きっとそうだ。俺は、全てを、許されたかった。嘘でも、そう言われたかった。
誰かに愛されて、幸せにしてほしかった。
この人に、そう思われたかった。
瞳を閉じると、暖かい土の匂いがして、やっぱり時代が戻ったようだ。本当は、なにもかも、俺の描いたまやかしなんだろう。
先生。アンタに出会えてよかった。
これで、本当に、真新しい人生を始められる。終わらせて、始める。
先生は、嬉しそうに笑っている。
「私も、同じ気持ちだよ。
君と一緒に、生きられて、本当に良かった」
「露と一緒に、幸福におなり」
「はい」
この一言が、言いたかった。
*
「ゲッちゃん」
肩を揺さぶられている感覚で、意識が浮上する。
「何やってんの。こんなところで居眠りなんてして。支度終わったんならさっさと片付ければいいのに。あーもー、全然匂いも熱気も籠っちゃってんじゃん! ほんとアタシがいないとてんでサボり癖が出るんだから!」
「そうだな」
プリプリと怒っているエンゲキの頭に一回手を乗せ、すぐに換気扇を最大にして風が通るよう天窓を開ける。時計はあと一時間で時刻が変わる頃合いだ。立ち上がったら肩に掛かっていた白衣が落ちたから、帰宅したじいちゃんがかけてくれたのだろう。すぐに拾い上げ埃を叩く。エンゲキも帰ってきたので戸締りも確認しなければ。
顔を赤くして、自分の頭を自分で押さえているエンゲキに声をかける。
「なにしてんだよ。もう寝るぞ。お前、風呂は?」
「は、入る……」
「じゃあ、先行け。店側戸締りしてくから。その後俺も入るから出る前に追い焚きしてくれ」
「う、うす……」
「なんだ、その変な返事……」
「いや、おかしいのはゲッちゃんでしょ……」
いよいよ顔全体を恥ずかしそうに押さえたエンゲキを見て、つい意地の悪い笑みを心中で浮かべた。
黙ってエンゲキの真ん前に立つと、あからさまに挙動不審にこちらを避ける。
「なんで避けんだよ」
「いや、だっ、だって」
「こんなんじゃ、先が思いやられるな、お嫁さん」
耳元でそう囁いてやると、今度はすごい勢いで飛び退かれた。
「アンタ! なんか悪いもんでも食べたでしょ!?」
「食ってねーよ。あと領布出すなよ」
「出さないもん!」
バタバタと走っていくが、その走り方も絶妙に家のミシミシ言うところは外している。これならじじいが起きる心配もなさそうだ。
きっと、本の中で先生に笑われていることだろう。
枕代わりにしていた本を手に、鍵を確認して、電気を消した。