閉じられた輪の中で「いつも悪いね」
そういってその人はストンと身軽に木の上から飛び降りてきた。僕の本当に目の前に降りて、「おっとっと」といって前のめりになりそうになったのを腕を突き出すとピタリと止まる。右腕に下げていた小さなビニール袋の中のパンと牛乳が微妙に腕に食い込む。それを掴んで、コウキさんは僕の腕からするりとそれを抜くと、顔の近くまで掲げて嬉しそうに笑うのだった。
「いつもありがとう」
僕は、出来ればそれを「悪いね」よりも、先に聞きたいとずっと思っている。
***
一緒に木の下に並んでコウキさんがパンを食べるのを見ている。手元のボールを弄びながら見ていたら結構前に「中のポケモンたちがかわいそうだよ」といわれて、そういえば、みんなの目が回ったらかわいそうだ、と思ってしまってからは手の中で転がすのをやめてしまった。出すときも以前のように投げるのではなくて、手元にしっかりと握ってから出すように変えた。
それに気がついたのはダブルバトルをしたジュンだけだ。なんで変えたの? とも聞かずにただジュンは「それもかっこいいな」と笑った。ジュンがそういうヤツでよかったと思ったのはあのときで何度目だっただろうか。
口にパンをつめていたのがひと段落ついたのか、コウキさんがこっちを横目で見ながら話しかけてきた。時々牛乳を飲み下しながら。
「ルカリオは元気?」
「元気ですよ。コウキさんのルカリオは?最近見ないけど」
「持ってるよ。こっちでは俺のボールはポケセンで回復は出来ても預けられないっていっただろ?なにかが違うんだ。なにが違うんだろうな、本当に」
「僕のボックスに入れてみますか?」
「無理だと思うよ。親の認識IDが登録数値だろ?俺と君は同一の存在だけど、微細なゆれが生じている。その微妙な歪みがこいつらだから、多分このボールのせいなんだとは思うけど、これをもっている限り俺はボールを預けられない。
コイツの波動が、すべての原因だからね」
そしてディアルガの入っているボールを空に透かした。当然、中身は見えない。
僕の腰のパルキアが、それに反応したように少しだけ熱を帯びた、気がした。
「コウキ」
僕の名を、コウキさんが呼ぶ。
そう、僕と同じ名前を持ち、そして僕とほぼ同じ見た目のコウキさんは、僕と別の時間から来た。
ディアルガの能力を使って、コウキさんはある日突然僕の目の前に現れた。声も、顔も、表情も、考え方も僕にそっくりである。ただ、少しだけ彼は年上だ。それは当然でのことで彼は「未来」の僕なのだから。
しかし、本当は僕らは別人だった。
なぜなら、僕は、パルキアを捕まえ、すでに僕は、時空を越えたからだ。
僕らが考えることは、まったく同じだったらしい。
時と空間を越え、争いのなかった世界へと旅立ち、彼らを解き放つこと。
それが僕と彼の願いだった。
そのために僕は空間を越え、彼は時を越えた。しかし運命は逆らえないように出来ていた。僕らは出会ってしまったのだ。途中の世界で。
パルキアとディアルガを放つことで世界は安定すると思った僕らの希望をかなえることで、僕たちはもう元の世界には戻れなくなる。でも彼らがどこでも、どこの世界でも誰に縛られることなく生きていけるなら僕たちはそれでよかった。それが僕らの役割なのだと思っていたのだ。
なのに、世界はどこまでいっても「世界」だった。
どこにいっても、ジュンがいて、博士がいて、ヒカリがいた。
どこにいっても、戦いが起きたあとで、もうディアルガとパルキアのことをみんなが知っている。
どの世界にいっても、僕らは何度移動をしても、気がつくとスタート地点にいるのと同じことだった。どこの世界でも足りないのはただ一人。
コウキ、という名のチャンピオンだけ。
コウキさんは、いつの間にか、一人だけ時を渡るのを繰り返していたようだ。最初は少しだけだった僕らの差異がどんどん大きくなって、彼は僕のお兄さんのようになっていた。
そうすることで彼は僕を取り残そうとしたようだった。そうすれば、足りない「コウキ」を変動できるかもしれないと考えたのだろう。
でもそれもただの予想でしかなく、そして無残な結果に終わった。
彼が行く未来はやはり同じ結末でしかない。そして過去に戻っても分岐点は絶対に変えられない。
何度も僕らはこの子たちを捕まえるしかなく、世界を閉じ込めることで世界を救うという選択を迫られた。
その苦しみに耐えられたのは、互いがいるからに他ならない。
もう何度この苦しみを繰り返しただろうか。
それでもコウキさんと僕は世界を渡り続けるしかもう道はない。
姿が変わってしまったことで、やはりコウキさんの時間が一人だけ歪んでいるので、一応「コウキ」の正個体は僕になっているようだ。だから僕はこの世界の街を「コウキ」として出歩く。
知っている人たち、知っている顔。何度もしたような会話。今日が何日目なのかわからない。繰り返されるデジャヴ。
僕は隠れているコウキさんの食料を買って彼に届けることで毎日を計算する。
今日で菓子パン三六四五個。牛乳を買ったのは五七八九個。僕と彼が過ごした日数は、どれほどになるんだろうか。
ただ、彼との会話だけがすでに僕らのリアルだった。
ただ、一人を除いて。
「で、見つかった?」
「見つかりません」
「やっぱり、当たりかもしれないね」
「はい。ゲンさんも、やはり時を越えているんだと思います」
すべての世界に共通して「コウキ」は一人。
同じように、すべての世界に共通してきっと「ゲン」さんは一人しかいないに違いない。
だから、この世界にゲンさんがいないというのは、きっと彼は今別の世界に行っている、としか思えない。
長い長い時間の中で、僕らが気づいた異変はそれだった。どこにいっても存在はしている。だけど、僕らは出会ったことがないのだ。おかしなことに自分たちがチャンピオンになる前には、確実に出会っているし話しもしている。それはお互いのルカリオが証明してくれる。なのに、おかしなことに、時と空間を越える中で僕らは一度もゲンさんに出会えない。
どこかで、すれ違っているのだ。彼と僕らの時間がかみ合わない。
正規の時間なら、彼がいなくてはおかしいはずだ。なぜなら彼がいる時間と空間が僕らが生まれ育った時間だからだ。そこからどれだけずれても僕らは同じところに帰っているのなら、彼は必ず存在していなくてはならない。
だけど、どれほど繰り返しても、探してみても、やっぱり見つからない。
そろそろ僕らも答えのような、指針を見つけたようだ。
コウキさんが最後のパンの欠片をハムスターのようにギュウギュウに詰め込んで、牛乳でまさに飲み下す。いつも見ているけれど、ゆっくり食べればいいのに。だって、彼は時間を自由に行き来できるのだから。
でも、僕はまだモグモグとアゴを動かしながら移動する彼の後ろについていった。
「ゲンさんが、ここにいないなら、彼を探そう。
きっと、彼もなにかを探している。この繰り返しに巻き込まれているに違いない。この世界はディアルガとパルキアが作り出したものじゃないよ。世界の創造は、こんな一方通行だったはずがない。それならディアルガの呼吸はシャックリしても早送りにならないんだから」
「パルキアなしにどうやって空間を越えているんでしょうか」
「……コウキは、ゲンさんの噂を知っているかい?」
「どこから来たのかわからない、年齢不詳の話ですか」
「ポケモンを使うなら、パルキアしかいない。時間を渡るならセレビィかディアルガだ。
でも、彼自身が、本当は世界の一部なら?」
「は?」
「本当は、違う、まったく別の世界から来たのならどうだろう。
ねえ、コウキ。ずっと考えていたんだよ。
僕らは同一の存在だ。でも考えていることも話すことも別々で、僕らはやっぱり別人だよね。だって考えていることが直接わかるわけじゃないじゃない。
でも、ゲンさんは、どこか違うところから来た。
僕らみたいに時間も空間も同じ次元じゃない。そうじゃないんだ。そんな話じゃなくて、もっと根本的な、ただ、ポケモンが存在するというだけが共通するような、そんな世界が、きっと僕らの上に、あるんじゃないかって」
コウキさんは、そういって「しまった」と苦笑いをした。
自分たちで会話をしていると、だんだんどちらが話しているのかわからなくなってしまうので、コウキさんは一人称を意図的に「俺」にしていた。今うっかり素が出たのを笑っている。そうすると、いつも僕は彼の考えを自分が言ったように感じるのだった。
「もっと、別の次元」
そして僕は右手を上に上げた。
「この空の上、じゃないですか」
指先に釣られて、コウキさんが首を上げて空を見た。
のっぺりとした青空はいつ雨が降ったかわからない。同じ時間、同じ地域にだけ雨が降るからだ。
そう、この輪の中ではない、この世界でないところ。
そんなところを、僕らは目指している。
しっかりと覚えているはずのゲンさんのいる場所を目指して。
同じ世界。
しかし、確実に違う世界。
そんなもの、存在するのだろうか。
きっとあるのだろう。
そこが、もしも僕らの望む、希望の満たせる世界なら、そこに行く方法を、求める。
それが、チャンピオンとして、そして、世界の「主人公」として繰り返しを続ける僕らの役割なのだから。
「神、と呼ばれるポケモン以外の『神』がいるのかもしれないね」
「この上にですか?」
「上か、下か、横かもね」
そういってコウキさんはくだらない冗談を言ったときに見せる大人っぽくなった笑顔を浮かべた。
その笑顔が、すでに僕の知らないコウキさんの始まりのように見える。
今の話が本当なら、可能性があるなら、きっとどこかにまた別のコウキさんがいる。どこかで新たに旅立つ僕がいて、また絶望する僕がいて、あの「世界」の中で安穏とする「僕」もいるだろう。
無限の僕の世界が、可能性が存在している。
いつになったら終わりになるのかわからない世界。
ただ、一つだけ、僕の中に確信となるものがあった。
認識ID。
僕と同一の存在であるコウキさんのIDが違ったこと。
これがただ一つの別人であることを現す確定した個別化なのだということ。
パンと牛乳だけを糧に、いつまでも生きつづけることが出来る僕たちはきっと、やはりというべきか、囲われた世界にいるのだろう。
それでも、冒険が終わらない。
それは、永遠にだろうか。
なんとなく、コウキさんの手を取った。
「コウキ?」
「僕らは、生きてるのかな?」
「生きているさ。
これが、僕らの世界だからね」
その言葉に、僕も頷くしかなかった。