そうではなかった 「そ」その日から
体調がおかしいことに気がついたのは、学校に行こうとして立ち上がった瞬間に立ちくらみがしたときだった。立ちくらみなどよくあることと思い、放っておいて学校へ行き、昼食の時間に倒れたのだった。
アゲハが慌てふためいて校内を自分を抱きかかえたまま走り抜けたというから思うだけでも恥ずかしくて死にたくなる。
そのまま、緊急入院という運びとなり、マツリ先生が保護者代わりに精密検査を受けた。
「それでよーヒリューのヤツ、まあたお人好しのせいで巻き込まれてよー、俺まで迷惑こうむってんだっつーの」
「テメーのほうこそ面白そうだっつって首突っ込んできたんだろうが。こっちのことなんて放っておいてくれ!」
「だって面白そうだったんだもん。なあ、雨宮」
文庫本をもっていた右手でペコンとアゲハの頭を叩いて雨宮は薄く笑った。
「そうやって遊んでられるのも今のうちよ。そろそろ捕まったっておかしくないんだからね、二人とも」
しかし雨宮の口調にとがめるものはなにもない。
ヒリューのコードから小さく感じる彼の波動は、この部屋に入ると微々たるものだが、すこし大きくなる。いつも彼は雨宮を心配のあまり動悸が早くなっている、と医療系デバイスの導入によって身体面のチェックが厳しくなった雨宮はヒリューの心配性を笑っていた。
アゲハは病院用の管理パネルから今日の雨宮の食事を見ていた。食事の分析をして、いつも楽しんでいるのが、残りの二人には信じられない。ヒリューは土産に持ってきていたリンゴをむき始めて、少しずつ暗くなってきた外にまぶしそうに目を細めた。
「それで、治療のほうはどうなんだ?」
「良好よ。副作用のほうがあるけれど、おおむね体との拒絶反応もないみたいでうまくマッチングしているわ」
「そうか。それはよかった」
そういうときの、ヒリューの飾れない言葉がとても好きだった。
*
また、三人であっていたときの夢を見た。
雨宮は布団をどかして、鏡を見る。やせてきた頬を叩いて顔を洗った。まぶたがまだ重い。昨日も遅くまで起きていたのだが、あと一歩というところでほしい情報にアクセスできない。きっと彼でなければカバーできないルートがあるのだろう。その道も、彼女一人では見つけるのが難しい。
アゲハがつけた道筋は正直ライズの特化した視力をもっている雨宮ですら追尾が難しいほど複雑な移動ルートを作っていた。あくまでもアゲハはほかの誰かからの追撃をされないために隠し通路をいくつも作っていたようで全てを把握していたのはきっと本人だけだと思う。
パンを焼いて、紅茶を飲んで、腕時計をつけて、メガネをかけた。
今日はどこから探ってやろうか、と思い、胸に手を当てると、メガネにセットしている外部デバイスが起動して昨日のルート確認を始めた。あの領域にはどうやら探し物はなさそうだ。今回はさらに奥へ、深層領域にもっともっと近づいていかないといけないようだ。
雨宮の体はすでに回復の兆しはなかった。
新型のネットワーク回線を断線していく感染型ウイルスに犯され、次第に精神リンクを張れなくなるというもので、表面上の感情表現はかろうじてできているが、もって3年、外部への意思疎通が図れなくなるというものだった。
一人では生きていくことが出来なくなる。マツリが引き取ることを快諾していたが、納得できない人間がいた。
「バカじゃねーの」
右手のネットワークトライアルから、いまでは雨宮のために常に情報を引き出せるようにしていたが、当時ハッカーとして暗躍していたアゲハでもその感染源および原因がわからない。脳神経なのか、それとも内部リンクに異常があるのか、現在の医療においては脳の移植をしても助かる見込みがない現状へまっすぐに怒りをぶつけては、ヒリューとさらに激突をしていた。
「バカだなんだと言ったって、どうしようもないものはどうしようもないだろう!!」
「そんなに簡単にあきらめられるか!
アイツはまだ感情がある! UO回線の使用を絶って、サイレンの内部でのリハビリが出来ればあるいは……」
「感染者は! 外出を許されていない」
「絶対に、こんな生きてるうちから墓場みたいなところで終わらせてたまっかよ!」
外部からの接触ではなく、内部からのリンクコミュニケーションに懸けようというアゲハの案は、結局マツリの一声で却下された。
「夜科。政府の声明だ。
ニュートランス症候群、今の桜子の精神は、違法ジャック行為による感染として、患者の治療においては研究を続けるが、扱いは、隔離、となる。
つまり、関係性のない、お前たちは、会えなくなる」
その後一個の精神リンク汚染者隔離病院から丸々300人ほどのブラックボックスを含むカルテが無くなった。翌月には発見されたが、結局犯人は迷宮入りで終わった。
さらに汚染者たちの状況を打破するようなテロ行為が続く。
政府の出した声明において、当時感染者の増幅が問題となっていたが、実際には政府の認識した固定式の回線の裏道があり、二重三重のリンクの貼りなおしによる工事ミスが発覚したのだ。ずさんな工事によって感染者は5倍は増えたといわれ、汚染患者たちの人権を擁護する声が大きくなってきていた。
だが、それでも特にニュートランスは回復の様子も、特効薬も見つからないまま、精神リンクはまた別起動のシステムが開発されては新病が生まれていた。
雨宮がデバイスの起動も難しくなっていた頃、アゲハに会った、最後の日。
雨が降っていて、雨宮はカーテンを閉めたかった。ところが、閉めたいという感情は伝わらず、そもそも自分が今どのような顔をしているのかもわからなくなっていて、デバイスを起動し、脳内シンボルで試みようとしたときだった。
アゲハはいつも、感染者とは危険とされ禁止されていた直接のインターリンクを用いて会話をしてくれていた。それならば、直接に伝わる。大分直感的な表現になってしまうが、今最も現実的に会話が出来る方法だった。
(雨宮)
(カーテン しめて)
(ああ)
スラリとした骨ばった手がシャッとカーテンを閉めた。表情が暗くなったアゲハはすこし汗をかいていて、走ってここまできたのだとわかった。黒いデニムのジャケットの中に灰色のパーカーを着ている。ほんのりと笑っていて、笑っているのを見たのは久しぶりだった気がした。
(雨宮)
雨宮が座っているベッドの横に丸椅子を引っ張ってきて、急いで座る。
(見つかったんだ)
(なに?)
(お前を、治す、方法が)
一瞬何を言われているのかが、わからない。
パチッと瞬きをしたとき、次の瞬間にはアゲハの顔があった。
(あるんだ、お前が元のようになれる方法が。まだ誰も試してないけど、きっと大丈夫! 俺が絶対にお前を元通りにしてみせる。きっとだ。きっとさ)
ぎゅっと握られた手は汗ばんでいて、いつものアゲハらしくないと思った。
(大丈夫。だから、)
(だから?)
(ここを出るぞ)
その夜、少年と少女は手を取り合って、夜を飛び出した。
(頼みがあるんだ)
(俺は、ずっとお前を想っている。
お前が生きていけることだけを願っている。
だから、頼むから、なにがあっても、生きて欲しい)
雨宮はこれからどんなことをするのかわからなくても、それでも握られた手を握り返して、肯いた。
だって、彼がいるのだから、大丈夫だと思ったのだ。
アゲハが「大丈夫」と言ったから。
*
次に雨宮が目覚めたとき、瞳が異常にまぶしかった。手が忘れていた感覚を取り戻そうとしている。鏡を見たとき、驚いた顔が映った。表情がある。
医療デバイスを起動して全身の血圧、内部循環、神経パルス、意識、そして外部へのリンク、すべて、異常なし。
そう。彼女は何事もなかったように、元通りになっていた。
精神リンクの汚染者の謎の失踪と、奇跡的な帰還は医療界だけでなく、連日のニュースもにぎわせたが、その波はあっという間に引いていった。
治療の方法が不明だからだ。
彼女の発言には謎があり、ちぐはぐで、まともなことなど何もなかった。
不在の人物の名を口にし、彼に助けられたという彼女の意見など、次第に誰も聞かなくなっていったのである。
その世界には、「夜科アゲハ」なる人物は、存在しない。
それが、雨宮が目覚めた世界の真実だった。
「う」嘘を吐いて
「長時間のダイブはやめたほうがいい」
向かい合ってコーヒーを飲みながら、さきほどまでのだらしない顔を突然引き締めてカブトがそういった。
雨宮はまばらに集まったデータクリップを爪ではじきながらカブトの顔をようやく見た。
「どういうことよ」
「そのままだよ。
君は一度は感染したんだ。長時間のダイブは普通の人間でも負担がかかる。精神下における構造は一生変化することがないっていう通説は知ってるだろ? それに雨宮ちゃんはまだダイブ、というかトリップ全般については初心者だ。
俺がサポートしているけれど、俺はあまりに玄人になれすぎてる。初心者の君のレベルに落とすのは、正直言って危ないと思うぜ」
カブトはそう一気にまくし立てて、雨宮に返事をさせないように、コーヒーをあおった。
カブトが雨宮のことを気にしていろいろと気を使ってくれていることだって雨宮自身だって気付いている。だが、それでも雨宮には探さなければならないことがある。
「大丈夫よ。
だって、アイツはできたんだもの」
「また“アゲハ”の話かよ」
「アイツの降下スピードは異常だわ。こうして拾える記録を見ているだけでも人間じゃないみたい」
「人間じゃないんじゃねーの?」
「人間よ。ただし、普通の精神じゃなかったようだけど」
サイレンをめぐり、存在が否定されたアゲハの痕跡を探そうと雨宮はもがいた。かつて雨宮が知る限りではアゲハと組んで精神ジャックの治療やハッキングのサポーターとして行動していたカブトの中からもアゲハの記憶は消えていた。
だが、彼は雨宮を見て同情しなかった。
「アゲハ」という謎の失踪者を追うことに協力を申し出てくれたのだ。
「見つかりやすいものは探すだけつまんねーんだよ。
見つかりにくければ、見つかりにくいほど、面白い。
見えないもの? あってたまるかよ。俺の目をなめんな。
全て見切ってやるぜ」
見えないものを追いかけて、すでに2年以上の月日が経っていた。
「それにしてもいまさらじゃないの? ダイブを長時間するな、なんて。
もう何年もたっていて再発の予兆もないんだし……」
「ウイルス型の感染だったんだろ?普通のウイルスなら体に免疫が出来るけれど、サイレンの汚染だぞ? 新種の開発が早いのはド素人だって知ってる話じゃないか。そこには身体の能力は無関係に相手を潰す方法だってある。
かつて人類が細菌兵器を使ったように、今はサイレン内でウイルスを放てばあっという間に世界は破滅するのだ」
ポトンポトンと二つ三つと砂糖を落としていく。
そしてバンダナから投影された画像を見る。
じっくりと集めた「アゲハ」と思わしき人物の戦いの様子が映っていた。右手から素早く発射される黒い星のようなもの。サイレン内での戦闘行為は通常禁止されているが、彼の放つものは空間を切り取る。いくつか発見された過去の画像を繋げていくと、彼が戦うのはいつも攻撃されてからだった。ただし、それらは大方が狙ったもので相手に先手を打たさせるように仕向けている。その点からみても彼が狡猾であることだけはよく伝わってきた。
何度目かのバーストを喰らっても、彼は笑って、右手を構える。
まるで弓を放つかのようなその構えを見て、カブトは震えすら覚えたのだ。
*
雨宮の行動を最初は正直笑っていたし、彼女の精神の汚染は完全には晴れなかったと思っていた。
治る見込みの無い感染患者となり、次第に悪化していく病状を苦く見守っていたのは事実だ。だが、同時にそんな地獄の淵から感情を取り戻した彼女を見たとき、まるで人間が変わったようだった。
少女としては強いまなざしが、一層光が増した。
一本の柱をもってかけていた脚が、より強い心を持った。
だが、その言葉には不明なものがどうしても残っていたのだ。
雨宮を魅了する「アゲハ」とは、一体誰なのか。
とにかく、アゲハの跡を求めてサイレンへのダイブの回数が増えていた雨宮をいよいよ捨て置けなくなったのは、彼女がもってきた一枚のディスクだった。
「とにかくいいから黙ってこれを見なさい」
彼女は自分よりも確実に年下のはずなのだが、いつも呼び捨てにされてる上、命令口調が多い。まあ女性にそのように扱われるのは嫌いではないので、オーケー子猫ちゃん☆と返事をすると、人の家を勝手に歩き回って冷蔵庫から紅茶を出して雑誌をどかして(その中にはエロ本まであるというのに全く意に介さない)ソファへと座った。
彼女から見えるように、家にある大型のビジョンを起動し、ディスクをつけた。
映っていたのは、細面の少年のような体。
残念ながら、顔が見えない。その少年の視線で、サイレンの荒野が移る。自分がよく見慣れた荒野に驚いたのは、彼が立っている場所に次から次へと緑が生えてくるからである。
彼の声が響いて、高らかな笑い声が砂漠のような白い背景に消えていく。
その異質な空間にカブトは恐怖すら感じた。
この男は一体何をしているのか。
映像は、男が後ろを振り返り、誰かに話しかけたところで終わっていた。
「これが、生きていた“アゲハ”よ」
「実在している、というのか?」
「だからそういってるでしょ」
「俺とパートナーだったと?」
「私が知ってる限りでは」
「俺には記憶がない」
「では、さっきの画像を見ても?」
「アレはなんだ」
「変人アゲハよ」
そういう雨宮の視線はディスクに向けられており、いつもの三倍は優しい。この視線を受けていた男が若干憎い。一体どんな男なんだろうか。
俺のサポートでも回りきれないサイレンを縦横無尽に移動していたということは特殊なシステムを使用していたはずだ。俺の知らないシステムだと? いや心当たりはあるが、あれに普通の人間が耐えらるはずがない。
アゲハとは、一体誰なのか。
俄然、その正体を見てやりたくなった。
*
「雨宮、行き過ぎた」
「いうのが遅い」
視界に転送されてきた地図がしょっちゅう変わってしまうサイレンの上書き方式でタイムスクロールされる立体ホログラフからいくつかの点滅が浮かんでいる。アゲハのもっていただろう固定波動を設定して彼の行動範囲を探していたが、実際に始めてみてわかったのは、あまりにも彼の行動範囲が広い、ということだけだった。
基本的には跡形もなく彼の痕跡は見事なまでに消されていた。猫がトイレのあとに砂をかけるように、キチンと跡を消したということを現しているのだ。なんという嫌味な性格だ、とカブトは思うが、同時にこのセンスにはなんとなく覚えがあるのだ。
世界にこんなバカはそう多くも無いだろうに。
「ここ」
そう、ビンゴだ。
カブトはサーチェンジャーを外して、外部接続のディスクを回し始めた。
部屋中が雨宮の視線と被せてあり、今カブトの視線は雨宮と同化している。
「右に三歩、雨宮ちゃんの力ではコーラ缶を握りつぶすくらいのイメージでバースト。めくれた地面はヤケドみたいになるはずだ、そこにはここの地面とは違う構成物質で成り立ってる」
そのとおりに雨宮が動くのを見て、カブトは気付いた。
「止まれ!!」
「え」
カブトの右手が雨宮の右腕を引っ張った。
当たり前の話だが、別次元の人物を引っ張ることが出来ないが、カブトの再構成したリンクスシステムに乗っかってサイレンと現実の二世界をまたぐ通信者たちは特殊的条件化において物理的シンクロを可能にした。
カブトに腕を突然とられたことで転倒した雨宮だったが、すぐにカブトの意図を理解した。
雨宮がバーストを放とうとした瞬間に自らが正体を照らすように固体が出現したのだ。
「なに、これ」
「俺にもわかんねんのよ。透けないんだ。正体が、わからねえ」
この世の物理法則が通用するものなら、その構造を視覚的に透過し、短い時間内においては過去と未来を転送する力を持つカブトが根をあげたのを、雨宮は初めて見た。
まるでウン十年前のサイレンシュミレーターのような悪趣味な扉。
古典でした見たことのない核シェルターのような見た目。
取っ手部分に蝶のレリーフがついている。
それだけで、なんとなく、もう、誰が作ったものなのか、わかる気がした。
「特殊磁場が発生している。雨宮! 通信が途切れる! 一度戻るんだ!
あまりに危険すぎる!!」
「いいえ、大丈夫よ」
「なにを根拠にいってるんだ!!」
「だって、ここについているもうひとつのレリーフ、気付かなかったの?」
雨宮の細い指が自らの汚れた土を払い、指したのは、ドラゴンの尾だった。
「アイツまで、絡んでんのかよ……」
カブトの声を背中に浴びて、雨宮はシェルターに入っていく。
しつこく自分を呼ぶ声が途切れ、回線は断線した。
「で」デタラメな創作物
記憶の欠如が最近ますます激しくなった。
4年前に仕事で事故に巻き込まれ、右足の神経断絶と記憶障害を負った。忘れてはいけないことを忘れ、覚えていたいことを覚えていられない。足は結構なリハビリ期間がかかったが、全くの新しい内蔵型デバイスまで仕込み常にサポートを必要としながらも筋肉は戻り神経部分の互換手術は成功した。ライズ以上にもともとの動きがなめらかになるのには驚いた。
記憶については外部装置ではどうにもならないことも多く、体にメモを残し、右手はいつも黒ずんでいる。そんなこんなでなんとかやっているのだ。
なんとなく、という記憶で、会ったことのある人間は一応覚えているし、日常記憶や体の持つ行動記憶はなくならないからそれなりに暮らしている。
ただ1つ、かつてはまり込んでいたプログラミングについては、何一つ思い出せず、組み方はおろかその読み方もわからなくなってしまった。よく面白がってやっていたことだけはわかっているのだ。そのときの楽しかった思いだけが残っている。
それだけだ。
*
ヒリューは自宅に戻り据え置き型のモニターをつけると自動でメールを振り分けていき、必要なものだけをプリントアウトした。
記憶を忘れやすくなってから、なにごとも形に残そうと紙に印刷するようになった、新しい習慣である。おかげで家中紙だらけだ。必要なものは壁に貼り、気に入ったものは枕元のファイルにはさんでいる。すでにファイルは10冊を越えている。幼馴染がやってきてはそのファイルを見ていつもニコニコとしていた。
カブトのバカから今日の雨宮報告が入ってきていた。
一応プリントアウトする。
続いてマツリから雨宮が語った「アゲハ語録」をまとめたものが届いている。結局これもプリントアウト。
そして目に付いたいつも入ってくる送信者不明のメール。内容もいつも同じ。いや、微妙に違うのだが。
開いて確認をした。
≪やあ、元気かい? 僕のほうはそろそろメンテナンスが必要なんだけど、そろそろ思い出してくれないものかなあ?≫
やっぱり、そんな中身で。
そして決まった最後に書かれている名前。雨宮が俺に対して問い詰めてきたのもコイツに関してだった。
≪もうアゲハはいないんだから、君が僕を思い出してくれないと、困るよ≫
俺は、アゲハを知らないのに。
*
狭い廊下を下っていく。地下らしくうっすらと寒い空気が流れていた。雨宮はカブトとのショートリンクが断線した部分を自ら再断線をして、余分な波を出さないようにと注意をした。こうした狭い場所での通信やリンクなどの発信によってもしも侵入者がいた場合には居場所が特定されてしまう。古い建築などは強いテレパス程度でも損壊を始めた例もあると聞いたことがあった。
ひさしぶりに大きな手がかりかもしれないのだ。
初めてサイレンの土地からアゲハの過去メディアを掘り当てたときと同じ興奮が雨宮の体中をめぐっていた。
思ったよりも短く一本道で行き着いた扉を開ける。体の周囲から細いトランスを放っていたが寄り道もないようである。
この扉の先になにがいるのか、雨宮は緊張した手を緩めずに扉を越えた。
「やあ、待っていたよ、雨宮さん」
スラリとした体躯を持った男が豪奢な椅子に座って右手を上げた。不遜ともいえるその態度にあっけにとられていると近寄ってきて、周囲を不躾にジロジロと見られ明らかに人のことを値踏みするように見ている。むっとして男のすねを蹴ろうとしたら実体が無かった。
「んな!」
「残念だなあ、なかなか君は可愛いのにそんなことをするのは可愛くないよ。
しかしまあ、アゲハくんの好みもわかりやすいね」
「アナタ、一体なんなの?」
「なんだ、わかって入ってきたんじゃないの?
ようやっと面白いことになりそうだと思ったから僕のほうから姿を現したのに。やっと僕のことを見つけてくれたと思ったのになあ、とても残念だ」
そしてくるりと背中をむいてしまったのを慌ててひきとめようとしたが、やっぱりするりと手は抜けてしまう。
「ちょ、アンタなんなの!? いいたいことだけ言ってどこに行くのよ!!
すこしは人の質問に答えなさい!!」
右手をヒラヒラと振って、ようやく小さく「おいでよ」といわれた。
あからさまに、アゲハを知っている人物、と思わしきもの、とあったからには、行かないわけには、行かないのだ。
自分以外に、初めて相手の口から「アゲハ」の名前が出たのだから。
*
少女は細い髪を揺らして(きっと怒っているのだろう)僕の後ろをついてくる。そうやって感情を出して怒っているくせに人のいうことをきいてしまう辺り、アゲハがいれば怒ったに違いない。
アゲハは一度では他人のことは信頼しなかった。それは身をもって実感している。
右手をパチンと鳴らすと、今までビジョンで隠していたルートを出す。さらに地下へと降りて、十数分歩いて“僕”がいる本体の前へとやってきた。自分自身に触れながら、なかなかに美しい状態で保管が出来ているものだ、と自画自賛をしたが、あくまでも言葉には出していない。
なのに、雨宮さんはとても不機嫌そうな顔をしていた。
「ここでなら絶対に会話は漏れない。僕はあまり多くの人に知られたくないんだよ。この位置にはちょうど不換材が当たっているらしくてね。どんなテレパスも交信も通さない。この本体が強い不定磁場も出しているし」
「それがアンタの本体なわけ?」
「そうだよ」
旧年代様式のパイプの中にある人体は目の前に立っている男の姿ままだった。
彼と瓜二つのホログラフは優雅な手つきで頭を下げ、自己紹介をした。
「僕は朧。
望月朧。
君のことはアゲハくんとヒリューくんからよく聞いているよ、雨宮さん」
「ヒリューくんのことを知っているの!? やっぱりヒリューくんはアゲハのことを知っているのよね?」
「知るわけないよ。彼は僕の製作者でもあるけれど、今、この世界にアゲハはいないからね」
「どういうことなの!? この世界には、っていうことは、ここではない場所にいるっていうこと!?
いいえ、そもそもアゲハはどうして世界中から忘れられてしまったの!?
お願い、教えて!!」
いいね、一生懸命な子はとても好きだよ。
左手を鳴らすと今度は大理石のような光る床から生えてきたのは応接セット。悪趣味にも赤い革張りである。雨宮の嫌いな雰囲気がさっきから続いているようでそのイライラは募っている。だが、そうやって人を焦らすのは大好きだ。本当のことなんてわからないようなものを追いかける人種は特に。もっともっと慌てて欲しいし、求めてほしい。
生きた人間を見るのは久しぶりなんだから、と朧は品のいい外面を作って彼女の手を引いて座らせた。
「ゆっくりと、話そうじゃないか。彼について」
「まずは、アナタは誰なの? 作ったのは、アゲハ? それともヒリューくん?」
「答えは半分辺りで半分ハズレ。
僕は製作物ではない。かつてアイドルとしてならしたものだけどねえ。まあ君たちとは微妙に時代もずれているし、仕方ないといえば仕方ないのかな。
気付かないのかい? 仮想シュミレーションの言語能力は人のそれを越えることはなかったということを。僕の会話パターンだけでも察してほしいのにな」
「じゃあ、私からも言ってやるわ。
禁止されている人体のサイレン内における建造物への組み込み、および生殖能力を奪う形でのシステムダウンへの組み込み、いいえ、人体そのものをコアにした恣意的改造。
特級戦犯並みの悪事をやったのは、誰」
「僕の存在そのものを悪事とはね。でも僕はおかげですごいものを手に入れた。
この体はなにものからも自由さ」
「肉体の限界のこと? 結局そんなの幻想にしかすぎないじゃない。精神上だけの存在を今の社会は認めてないのが実情でしょ。サイレンの中でしか生きられないのよ?」
「それの何が悪いのかな?」
堂々と雨宮が舌打ちした。朧は思わず笑ったが。
「アンタとは、話が合いそうに無いわね」
「まあまあ、おちつきなよ」
「ムカつく!!」
彼女の小さな唇に人差し指を当てて雨宮がげんなりしたところで、一束の書類を出した。
「これが僕の基本コンセプト。
プログラマーの名は、ヒリュー・ドラゴン。
システムの改造と、根幹的コア部分はすべてアゲハ・ヨシナの作」
そして、と見た目よりは男らしい手が一枚の紙を取った。受け取った雨宮は息を飲む。
かつて世間を騒がせた異次元転移システム。
サイレンと現実を繋ぐ管があるように、この世界を取り巻く銀河のような位置づけで世界中にほかの世界があふれているはずだ、というとある研究者の意見は当たり前だが華々しく学会よりも先にマスコミデビューをしたことで実に効率よく研究費を集め、システム開発へと発展していった。
だが、計画は簡単に頓挫した。
研究者の変死である。
一部のマスコミによる過剰な報道によって人びとの目線は研究者の私生活に夢中になり、システム開発のことなどあっという間に忘れられた。
だが、システムは生きていた。
ネメシスによる買収が水面下で進められ、有能な報道機関はその真相を一般大衆へ知らせることなど出来ないと判断した。
こうして、真実は、まさに地面の下に埋められてしまったのだ。
その伝説とも言われる「ネメシスシステム」の設計図が、雨宮の手にあった。
「まさか、完成していたというの……!!」
「トリプルAじゃ、済まないね」
「それどころじゃないわよ、こんなもの……」
そして雨宮の目線は朧へと移った。
「まさか、人体の使用が、不可欠だった、というの?
このシステムのために必要なコアキャパを抑えられないほどまでに?」
「理由はもうひとつ。
正確な判断を必要とするからだよ。
厳重なプロテクトをかけるよりも、特定の人間しか容認しない識別能力を持たせればいい。人間の「信頼」がキーワードとなっているっていうこと。なんといっても、アビスの入り口だからね。ここは」
朧の手渡した束をめくっていた雨宮の手が止まった。後ろから覗き込むと海底研究所の事故報告書だった。
「なるほどね」
ぺチンと束を叩く。
「ヒリューくんの記憶障害はネメシスのプログラムを知ったからだったのね」
「それと、アゲハのイタズラだよ」
綺麗なウインクをした朧を苦々しい目で睨んだ。
そう、これが大きなキーになることはわかっていた。
自分の中の答えはすでに決まっている。
「アゲハのいる場所へ私を転移して」
「は」話にならない
「おーい、助六買ってきたぞ」
モニターから顔を外してガタンと大きく開く音がした玄関に顔を向けるとでかい図体が右手に下げたコンビニのビニールを揺らして、左手で靴を脱いでいるところだった。飯の時間になったらとりあえず一時休憩、というのが仲間内での約束事なので、カブトとは作業をスリープして窓を見た。
うっすらぼんやりと赤みがかかっているのが、曇りガラスからも確認できる。
「外、寒いの?」
「寒くねーよ。ったくよお、知らねーんなら一度外出てみろ」
「やだよ、めんどくせ」
「おい、しょうゆ取る皿なんかねーの?」
「皿? どっかにあるんじゃねえか?」
しかたねーなー、とヒリューはまたボソボソいいながら物置になっているキッチンへ向かった。
雨宮が先日のダイブから帰ってきてから事態は急変している。
カブトとの連絡頻度は減り、断線後のあのシェルター内での出来事は誰にも話していないようだった。そこで一体なにがあり、何が語られたのか。
おそらく自分たちにかつて関わりがあっただろう「アゲハ」についてのことだというのはわかるのだが、結局あのあとこっそり同じポイントへ向かっても二度とシェルターは復活することなく、また、サーチされることもなかった。
雨宮は一度サイレンに潜ることをやめ、かつてのように過去メディアをさらっている。部屋にこもって食事にも出てこず、マツリが心配していた。
「あそこにアゲハがいた」
仮定その1、といってカブトはヒリューが用意した簡易な夕食をとる。
買ってきた寿司。入れたてのほうじ茶。100均のサラダ。さっきヒリューが発掘した「あさげ」。普段は毎食栄養食品か菓子で済ますので、こうして面倒みてくれる人間がいると楽でいい、なんて勝手に思った。
ヒリューは自分の納豆巻きを食べながら台拭きでいまだに机の上を気にしていた。
「それはないだろ。
アゲハに会ったら、雨宮の目的は達成されたことになるんだ。先生の相談だといまだに雨宮は毎日ライブラリに潜ってなんらかの資料を漁ってるんだろ? 新しい情報を手に入れたけれどまだ完全じゃない、という状態と考えるのが妥当じゃないか」
「そりゃあな。
だが、1つ注目しなくてはいけないことがある。
いいか、雨宮ちゃんは、あそこに入ったあとに自分から断線した」
「なんで強制断線されたお前にわかるんだよ」
「わかるって。微弱でもスイッチさえ入っていればその存在はわかるんだ。特にデバイスは常にオン状態というのが普通。ネットワークに接続されてる限り、俺に見つからないことはない。
ところが、雨宮ちゃんはそこで全てのネットワークシステムから一度外した。
つまり、俺にばれてはいけないことだ。
何かわからない事象がある場合サイレンからの脱出も踏まえてネットワークに乗ってないと危険だ。それを切ったんだぞ?
もう1つの可能性は、相手に対して危険でない、または確信したことがあった、と俺は見ているけどね。あの子だってそんなにホイホイなんにでもついていっちゃうわけないんだから」
まあ、なあ、と男二人は同時に食べ終わった自分たちのプラ容器を見詰めながらため息をついた。
「俺たちがわかるはずもないしなあ」
「雨宮にしか記憶が残ってないっていうのはどういうことなんだ、根本的に」
「雨宮の妄想」
「それを言ったらおしまいだろ」
「雨宮しかその記憶を持っていない、か……」
うん? とカブトはソファに寄りかかった体を起こした。
雨宮しか、持っていない
それは、どういうことなんだ?
「俺は大バカか!!」
ヒリューが座っていた作業用の椅子をどかして、自分が座り急いでスリープから放つ。全身のデバイスを起動させ、過去ログから必要な資料をピックアップを始めた。
「おい、カブトなんなんだ一体」
「ちょっと黙っててくれや。俺も大概アホだな、今までどうして気付かなかったんだか!!
アゲハはすぐそこにいたんだ!!
一度透過したことのある人間だから!!
だから俺はアゲハに対して既視感を持っていた!! それだけのことじゃないか!!」
「会ったことがあるのか?」
「違う。
正確には会ったのはアゲハではない。だけど人間が持つ固有のパターン信号をサイレンでは切り替えて変換しているんだ。デジタルの中で0と1だけで表示されるのと同じことさ。
サイレン独自の人間の固有シグナルは各個人を示すもの。
つまり、一人に、1つだけ。
その記号は、その人間を指している」
「ああ、それくらいは俺にだってわかる」
「エレメンタルゲート、オープン。高速スキャン開始」
微かな作動音がして、しばらくはヒリューは手持ち無沙汰かと思いきや、カブトは小さく、「やっぱり」とつぶやいて、瞳が激しく泳いでいた。自らが確信した事実を、明らかに信じられないようにだ。
それは雨宮が帰ってきたときに「アゲハ」のことを語ったのと同じだった。
「いいかヒリュー、よく見ろ」
そしてくるりと回ったカブトが右手を上げると照明が消え、人差し指を向けると向かいの壁にはかつて雨宮が発掘したアゲハの戦闘場面やサイレン界で植物実験をしている映像が映る。そのどれもがヒリューにも見覚えがあるもので、アゲハという人間を知るための手がかりだった。
その映像のアゲハの部分が数値へとスキャニングされていく。
「これが、アゲハのデータコード」
「映像からもわかるのか」
「隠されてなけりゃわかる」
そして、
「これが、感染前の雨宮だ」
「ああ」
まったく別の識別コードである。当然のことを見せられて、ヒリューは戸惑っていた。
「で?」
「コードを読みなれてないお前のために横並びにしてやる。
左がアゲハ、右が感染前の雨宮、そして、真ん中に」
感染後の雨宮
並んでいるアゲハのコードと、雨宮のコードは素人から見ても全く同じ。むしろ異質なのは感染前の雨宮がそう見えるくらいであった。
「どういう、ことだ……」
息を飲んだヒリューがつぶやいた。それはカブトが拾うものではなくて、ヒリュー自身が動揺を隠せていないだけのこと。カブトもまた、確認するように映像を拡大した。
「俺たちは見誤っていた。
アゲハがいないんじゃない。
雨宮が、存在しないんだ、この世界から」
「アゲハと雨宮のコードは同一のもの。
つまり、アゲハは、雨宮だったんだ」
*
(はかどってる?)
「うるさい」
ぶすっとした雨宮は一人用のダイブのために購入した小型のサーチェンジャーを外した。
アゲハの元へ行きたいという雨宮の願いを朧は一蹴した。
「残念だ。君は試練を越えなくてはならないんだ」
「はあ?」
「言っただろ? なぜ人間がコアになる必要があるのか。
僕は管理人だからね。ここを使うためには、アゲハが設定したキーワードが必要なんだよ」
「はあ!?」
「君なら、きっとわかるはずだ」
わかるわけがない。
アイツはもともと何を考えているのかよくわからないヤツだった。
キーワード? なにを元に考えればいい? アゲハが失踪した当時の自分たちのメモリーや新聞、時事関係、あいつの好きそうな事件・事故・トラブル、そういったものを片っ端から見て回る。ものすごい量の情報にもまれて雨宮は疲れていた。
あと一歩で、アゲハの元へいけそうなのに、そのあと一歩がどれほど遠いのか。
メガネを外し、眉間をつまんでみた。マツリがもってきてくれたペットボトルの水はとっくに空になっている。あと少しなんだ。あと少しなのに。
プルルルルルル
機械音がなった。
(とらなくていいの?)
「うるさいってば」
脳に直接響いてくる朧の声が苛立ちを上昇させる。朧はきっと悪くないのだが。
「イエス」
カチっという動作音がして、相手の声が聞こえてきた。
『雨宮? 生きてるか?』
「結構失礼な言い出しかたね。どうしかしたの?」
『アゲハについて面白いことがわかった』
「ヒリューくんが?」
『俺なわけないだろう。バカブトだ』
『おいバカブトってなんだよすっごい発見じゃねーかよ!!』
「で、お願い教えて。一体何がわかったの?」
『雨宮ちゃん。サイレン界において人間がダイブしたときにエンコードされるコードのことは知ってる?』
「ええ。知ってるわ」
『そのコードが個体識別のため、指紋とかと同じように一人ひとり違うことも?』
「ええ」
『そのコードだけど、アゲハと雨宮のものが一致した。
それも雨宮が感染から復帰した跡、つまりアゲハの消失時期ともきっちり同じだ』
「私の コードが アゲハになっている、ということ?」
『……そうだ』
『とりあえず、過去メディアから検出したアゲハの映像とは完璧に一致したんだ。雨宮ちゃん、感染を直すために、アイツは自分のコードを使ったんじゃないのか?』
「そんな……」
『君のは感染型ウイルスだったはず。
だけど、もしも、感染ではなくて、遺伝型、または、特殊なコードを持つ人間だけが感染するのだとしたら?
少なくとも、あれは世界中には広まらなかった。君の様々な検査結果を見ても、サイレンに関わる脳でもなく、ネットワーク不備でもなかった。
一番可能性として黒いのは、個体コードへ直接入り込んだウイルスだ。
DNAと同じで、現段階では、どうしようもない。
その人間として識別するためのコードなんだ。それ自体に欠陥が生まれたとき、どうしようもない症状となる』
「それを回避するためには、個体コードを変更する、ということなのね」
『そうだ。少なくとも、俺が今確実に言えるのは、そういうこと。
アゲハは、自分のコードを雨宮ちゃんに使用した』
ブチ、と電話を切った。
ありえない。
個体識別コードを他人に与えるなんて、ありえない。
ならば、私は今、「アゲハ」という人格であり、人間でなくてはならないはずではないのか? どうして、私は、私たりえているのか。雨宮は、座り込んだ。
このコードは、アゲハのもの?
この肉体も、精神も、アゲハのもの?
コードは本来そういうものだ。
私のすべては、持っていたものは、みんなアゲハのものにすりかえられてしまった?
「朧くん」
(なんだい)
「私ならわかる、というのは、そういうことなのね」
プルルルル
「イエス」
『雨宮!!』
「カブトくん深層領域へのダイブのやり方を教えて!」
『はあ!?』
*
荒野に降り立つ。
サイレンにひどく似ているが微妙に違う。幼馴染だからこそわかるが、かつての望郷の風景が混ざっているところに彼が人間であることに安心する。
≪雨宮≫
「ここが深層領域……?」
≪アゲハのコードだから、雨宮自身の内部に降りるとアゲハの内部に下りていることが同意義か……。アゲハの記憶を辿るのだとしたら確かにこれが一番可能性が高いな≫
「でしょう? ほら、あそこを見て」
雨宮が指差した先には、学生時代のヒリューの後姿があった。
ところどことに見たことのある人が出てきてはすれ違っていく。雨宮はドンドン先に進んでいくが、行くごとに人は少なくなり、建物は無くなった。
学校の教室のようなところに出て、リンクしているヒリューの息を飲む音が聞こえた。
三人が通っていた校舎。
黒板に書かれた罵詈雑言。
割れている窓ガラス。
倒れている机と椅子。
黒板の文字を読んでいく。その中に、小さく、本当に小さくだけれど、アゲハへの批判や中傷でない、彼の言葉があった。
雨宮は動揺を抑えきれない。
「ヒリューくん」
≪ん?≫
「ごめん。回線を切って」
≪……プライベートのことだもんな≫
「ごめん。戻るときには呼ぶから。一人では戻れないと思うの」
≪構わない≫
「ごめんなさい」
≪気にするな。待ってるから≫
そしてヒリューのほうから断線された。
おそらく、これが、アゲハが隠したがっていたキーワードなのだ。
読み上げた雨宮は、メガネを外した。視界が、歪んでいるからだ。
「アゲハくんは、ツライことも全部こうして受け止めてきたんだろう」
「朧くん」
「その中で、その思いだけを支えにしていたんだと思う」
コクンと、頷いて、雨宮の指は、黒板を掠めた。
「これが、キーワード。
さあ、今度こそ、アゲハのところに転送をしてくれるかしら?」
朧の指が、雨宮の手からキーワードを受け取る。ついでに雨宮の涙を掬った。
「つれていってあげる。約束だしね。でも、アゲハに会って、どうするの?」
「このキーワードの答えを、教えてもらうわ」
そうして笑った雨宮を見て、今度は朧はとても残念だと思ったのだ。
これを見なかったアゲハに対して。
「な」何度も描いた再会
坂口は起きてからすぐに自分に絶望した。
とっくに1限の開始時刻をすぎていた。
昨日からついてないことだらけである。
行く予定だった合コンには忘れていた提出物の存在をノート仲間から聞いたおかげで蹴らなくてはならなくなったし、体育の授業ではコテンパンにやられた。まあ、卓球で王子スマッシュなどをして遊んでいるのが悪いとは知っている。
合コンに行かずに寮に残ったのに、酔っ払いという名の先輩方が乱入してきて結局飲酒。提出は3限なのに、まだ1/3しか出来てない。
過去30分で一本書いたことがあるが、あれは本当に提出ギリギリだった。
俺は自分を越えなくてはならない! と坂口は昨日のままのカバンを持って慌てて部屋を飛び出していった。
目的は、図書館へ。
いつも使っている窓際の席では先客がいたようだ。
ジャージを着て、机に突っ伏している。
コイツは、昨日、合コンに行っているはずだ……! そう思っただけで坂口は腹が立ってきた。
「おい、アゲハ!」
真っ黒な髪を叩くと、とてつもなく機嫌の悪そうな目で睨まれた。
「んだよサカか。邪魔すんな」
「俺そっちの席がいい」
「たいしてかわんねーだろ。レポートか?早くやれよ」
「ううう」
結局アゲハをどかすことをあきらめて、ノートパソコンを開いた。目の前では、もう一度深い眠りに入ろうとしているようだった。
アゲハとは大学の入学式でであった。
高校から一緒のヒロと三人でつるむようになり、すでに3年が経っている。アゲハは頭は悪いが、回転が異常に早かった。
入学当初から地味な見た目なのに、なぜか存在感が光っていたのを記憶している。
出身地も知らない。
家族構成もわからない。
生活態度もイマイチよくわからない。
とにかく3人でファミレスに行って、適当に自主休校して、学園祭では酒を飲み、合コンに行ってはなにもかもがうまく行かず、麻雀やって、映画を見て、青春を謳歌していた。
合コンではアゲハはいつも人気のコマで、年上にも同年代にもそれ以下にも受けがいい。あちこちのサークルからも声がかかっては客寄せパンダの要領でタダ酒を飲みにしょっちゅう出かけていた。食費が浮くからいいとか言うのが理由で、実際にはアゲハが誰かとくっついたことはない、と少なくともサカは記憶している。女と歩いているアゲハを3年間みたことがなかった。ヒロだって彼女が出来たときにはそういう態度になったし、紹介してくれたのに。
おそらく本人が思うより不本意にモテる割には、その態度は「クール」というより、「冷徹」に近い。どんな相手でも機嫌を損ねず酒を飲み、相手を立てて会話をし、気分をよくして帰させる。付いて来ようとする相手の場合には「俺んち姉貴が怖くってさ」とごまかしているのは見た。
かつて本人に姉の話を振ったときには
「いたよ」
と過去形だったので、それから話は触れなくなった。
だから、アゲハのことを詳しく知らないままだった。悪いとは思わない。そういうものだ。
「アゲハー」
「なに」
「オメー3限のレポート終わったの?」
「サカが今やってるやつだろ?」
「わかってんじゃん」
と、そろそろ文字数を量ることにする。五百字程度足りていない。なんという微妙な感じなんだろうか。ちょっとだけ顔を上げたアゲハはフン、とバカにしたようにして、
「俺さまは優秀だから、とっくに終わらせましたー」
というお言葉。スゲームカつく言い方で。悔しいので以前一度だけだが本当に「肉じゃがの作り方」でレポートを出してCマイナスをもらった(それで合格させるほうがおかしい)ことを思い出したので言ってやる。
「今度はおでんの作り方か」
「惜しい。豚の角煮の作り方だ」
ニヤリ、と笑った顔を見て、俺も一緒に笑った。
*
「ヒロ、なんだって?」
「今D棟だって。あと少しで終わりそうだから、待ってろってさ」
「じゃあ、そろそろ出るか。終わったんだろ?」
「ああ、待った待った。プリントするから」
自分の荷物を片付け始めたアゲハを見て、慌ててサカは図書室のメディアルーム使用のために学生証を探し始めた。
ふと机の上に載っていたアゲハがもっていた本が目に付いた。
「それ、なに?」
「ん?」
「お前、そんなの読むの?課題であったっけ?」
『精神分析の応用』
照れたような顔で、さっと隠した。
「いいだろ別に! 理系の男を目指すんだよ俺は」
「へーへー、そうでっか」
似合わねーな、というと、そうでもないって、なんて後ろから付いて来る声。
許可証をカウンターでもらって、入り口近くのプリンターへと行く。メモリを挿して印刷したものをアゲハが見ている。
「やめてくれよ、急いで書いたんだし」
「じっくり書いたやつでも見せてくれねーじゃん、お前」
「うるせーな。こういうの苦手なんだよ」
「サカは実験とか調査のほうが得意だしな」
「まあな。アゲハみたいに、論文得意なのがうらやましいよ」
「得意でもねーよ」
「いつもAじゃん」
フン、とそっぽを向かれてしまった。
アゲハの秘密はありすぎてよくわからない。
バカだと思うけれど、時折見せるまなざしは鋭くて、同年代とも思えないほどだ。あまり本を読んでる姿も見ないし、テレビだってコイツの部屋にはないとか言ってるけれどいろんな情報についてあらゆるものに詳しく、突っ込みは厳しかった。
器用にこなしているのに、坂口の実感としては、いつもアゲハは生き難そうだと思わせる。そこまでが狙いなのか、それとも、その部分は真実なのか。
何がどう生き難いのか。うまくはいえないが、どうあっても他人とは折り合えない部分を確実に持っているという芯を感じる。人付き合いは適当で、うわべの表情はあっても、たまに見せる眼光は坂口とヒロしかきっと知らない。
坂口には、他人の秘密を暴く趣味が無いので、アゲハの自白がなければ、きっと知ることはないのだと思っている。
そして、それでいいと思っている。いいたければ言うだろうし、言いたくなければ、言わないだろう。
「昨日どうだったの? 夜」
「ああ、最悪だった。店が。マズイんだスゲー」
「あっそう! じゃあ行かなくてよかったー」
「でも女の子は全般的にかわいかった」
「へえ。で、持ち帰り?」
「しねーよ。めんどくせ」
「そういうところがジジくさいんだよ。命短し、恋せよ男子! ってね」
「なんなのお前。もうすっかり干されてる坂口くんに言われる筋合いありません」
「お前最悪だな。大体な、お前の女の子の好みはどうなのよ?
アレがいやだ、これが好みじゃないと口うるさくしやがって。お前の見た目はせいぜい中の中だぞ」
「身長があれば上の下である自信が俺にはある!!」
「だからそれがねーんじゃねーか。どんな子が好みなのよ」
珍しくアゲハの嗜好に口を出したら、アゲハが目を丸くしていた。
「どうした?」
「いや、珍しいなと思って」
まだ戸惑うように、変な笑い方をしていた。そんなにおかしいか、おい。
「親友の好みのタイプを知らないと俺もお前の恋を応援できないと思ってな」
「……まあ、気の強い子のが好きかもな」
俺がそういうことを言うのが珍しいなら、同時にアゲハが質問に答えたことに対して雨が降るだろうに。
相も変わらないだらけた会話をしながら、図書館を含むメディアセンターを出て、D棟前の喫煙所へとやってきた。
「つかさ、お前、いっつもそうやって女の子袖にして、いつか痛い目みやがれよこのヤロー」
「まだ怒ってんのかよ。こないのだヤツだって最初っから回りくどくサカに取り入るようなマネしたあいつが悪いんだろ。俺、悪くねーもん」
「もん、とか言うな。かわいこぶんな」
タバコを出して、火をつけた。アゲハにケースを渡そうとするが、首は横に振られた。
「今日、あんま体調よくないし」
「二日酔い?」
「いや、いつもの」
そういえば、顔色が悪い。
という話をしながら、坂口が煙を吐いたとき、風上にいたアゲハが突然口元を押さえて苦しみ始めた。
「おい、大丈夫か」
「放っといてくれ」
アゲハの持病は、出会ったときからだった。
心臓だか、呼吸器官系だかに病気を持っている、というのが本人の弁だが、たまに箇所が変わるから、もしかしたら実際に体のどこかが悪いのではなくて精神的なものなのかなー、なんてヒロとも話したことがある。
突然胸を押さえてうずくまったり、息が出来なくなったり、頭痛を訴えたりする。
激しい運動を好まないで、いつも座ってばっかりいるのは、そういうところが理由なんだろうと思うが、アゲハの雰囲気からしてそういった病弱なイメージとも実体ともかけ離れているのでいつも変な感じがしている。
だが、目の前でしょっちゅう倒れられている坂口とヒロとしては、せめて病名くらい教えてほしい、と思っていた。病院行きになったらどうするんだ。
いつも謎の苦痛を訴えるので、特にできることも無く、長くて10分もすればケロっとした顔で酒すら飲むので、背中をさするくらいで留めている。
「悪かった。もう大丈夫だ」
すこし呼吸が乱れているが、顔には余裕のありそうな目があるからなんとなく安心した。
「そうか? 顔色わりーから気をつけろよ。
最近頻度が多い気もするし」
「そうだっけ? まあ、気をつけるところは、気をつけるよ」
そういって、灰皿横のベンチに座った。長いため息を二人してついた。
「次のテストさー」
「あ、電話。わり、ちょっと待って」
アゲハはそういって背中を見せた。
さっきまで、さすっていたのに。
『アーゲハくん』
「朧」
『面白い話を持ってきたよ』
「なんの用だよ。なんか問題でもあったのか?」
『僕のほうでは問題はないけど、君のほうで問題が発生するかもね』
「はあ? なんだよ、それ。お前、なにしたの?」
『覚悟をしておいたほうがいいよ。面白いものを転送したから』
そして朧の短い通信は途切れた。
アゲハが電話を受けて、会話が終わった携帯を見ながら首をかしげているのを見た坂口は同じように首を曲げた。
「どしたの?」
「なんでもねー」
キーンコーンカーンコーン
2限終了。
ぞろぞろと学生たちが出てくる。どいつもこいつも似たような格好しやがって、なんて悪態を二人でつきながらヒロが出てくるのを待っていた。
坂口のその身長を目安にヒロが先に二人を見つけ、声をかけた。
「アゲハ! サカ!」
ちょうど後ろにいた細い髪のメガネの少女が振り返ったとき、アゲハはヒロを見つけ、同時に後ろの少女に気がついた。
「雨宮」
「アゲハ」
二人は同時に駆け出していた。
「ちょ、アゲハ待ちなさい!! なに逃げてんのよ!!」
だが、アゲハは止まらない。
人ごみに慣れない雨宮が一瞬転びそうになった瞬間に、いつものアゲハなら逃げ切ったのに、ワンステップで大きく後退、その手を捕まえてしまった。
「雨宮!」
バチーン!!
と、盛大な平手がアゲハにかまされた。
「相変わらず、女の嘘に弱いのね」
「……精進しとくよ」
殴ったばかりの手の平でアゲハのTシャツを掴んで、雨宮は相手を逃げられなくする。突然走りだしたアゲハを追って二人がやってきた。
「アゲハ!」
「いま、すごい音したけど、うっわ、いたそ」
だが、アゲハにはそんな言葉耳にも入っていなかった。目に入っているのは、雨宮だけ。聞こえてくる言葉も雨宮のものだけ。痛みなんて、わからない。彼女の鼓動から聞こえてくる痛みより痛いものなんてなかった。
彼が今見ているのは、以前と変わらぬまま自分のことを掴んでいる雨宮の手だった。
あのときとなんら変わらず、雨宮はアゲハの前で泣いた。
雨宮はアゲハの前を選んで泣いていた。アゲハはいつも、雨宮を慰めようとしなかった。だから、雨宮はアゲハを選んで泣いたのだ。
そんなことを思い出して、アゲハはボロボロと大粒をこぼすのを、過去の映像を見ているかのような気分で、つまり現実として受け入れられずに、雨宮が掴んできたシャツの手に触れた。
その手は、生きている。
「3年間、ずっとずっと、探してたんだからね!!」
「雨宮」
「こんの、バカ!!」
ボスっと胸を叩かれる。
ああ、胸が、苦しい。
「アゲハ」
名前を呼ばれることが、こんなにも懐かしい。
「なんとか、いいなさいよ」
目を合わせることも出来ずに、アゲハは混乱しかけた頭で周囲の雰囲気を悟った。
「とりあえず、ゆっくり話そう」
確かに、生半可な覚悟じゃダメそうだ、と雨宮の手を引いて、アゲハはようやく事の大きさに気がついた。
「か」感づかれた意図
3年ぶりに見たアゲハはすこし背が伸びたように思う。
もともと細身の体だがすこし痩せているのはお互い様で、髪は相変わらずの染めたような黒で雨宮の薄い髪とは正反対である。昔から愛用していたメーカーのジャージを着ていて、何にも変わっていない。掴まれた手首から感じる手の平はすこし震えていて冷たかった。
連れて行かれたのは大学の外にある喫茶店のようなところで、アゲハは慣れた様子で奥のほうの席へと連れて行く。おいてある簡易なメニューを開いてソフトドリンクを指す。
「紅茶?」
声がやっぱり昔と変わらないことに安堵して、当然の聞いてきた答えを却下した。
「コーヒー」
「……そういうのやめろよ」
「なんで」
「飲めないくせに」
「3年で飲めるようになりました」
嘘ではない。アゲハがため息をついて、店員を呼んだ。
「俺、オムライスセット」
「僕、ナポリタン」
雨宮の斜め後ろのほうを見て、アゲハが低い声で突っ込んだ。
声からすると、先ほど追いかけてきた背の高いメガネの青年とすこし中世的な青年が座っているようだ。
「いや、だからさ、なんでお前ら、いるの」
「いやあ、たまたま俺たちも飯を食うのさ」
「いやあ、奇遇だねアゲハくん」
「いいんじゃないの?」
「あ、雨宮……」
「で、こちらのかわいいお嬢さんは一体どなたなんだいアゲハくん」
「君は彼女なんていないんじゃなかったのかいアゲハくん」
雨宮はアゲハが言い返そうとしたのを止めて、店員を指した。
「……ストレートのダージリンとコーヒー。ミルクは多めにもってきてくれ」
その注文の仕方がムカついたので、見えない足で蹴ってやる。
「俺の、幼馴染だ」
それが、自分の紹介だったことに、一瞬気付かなかった。
「雨宮、一体どういうことなんだ」
「なにが」
「どうして、お前がここにいるんだ」
その眼光は鋭い。少なくとも、幼馴染に向けるものではないな、なんて茶化してやろうかと思った。
「アンタをぶん殴りにきたのよ。わかるでしょ?」
「さっきすでに一発くらったよ」
「あんなもんじゃ足りないくらい、私怒ってるの」
「……知ってる」
「アゲハ。教えて。
どうして、あんなことをしたの?」
「なんのことだ」
「しらばっくれる気?」
「心当たりがありすぎる」
冗談のつもりだろうが、冗談にはならない。本気だったらライズでもつかってやりたい。力いっぱい睨んでみても、アゲハは涼しい顔をしている。ポーカーフェイスを気取っているが、苦手でずっと練習していたことを思い出した。
「あなたのコードと私のコードを入れ替えたことよ」
「気付いたのか」
「でなけりゃ、いくら朧くんでもここに私を連れてこれません」
「おま、自分の、自分のコードを座標にしたのか」
「コンマ10以下以降しか変わらないデータを持っているのよ。それが一番確実でしょ?」
「なんてことをしてるんだ!!」
「それはアンタのほうでしょ!!」
ガタン、と二人して掴みかからんばかりの勢いで半立ちになったところでオーダーがきた。店員がすごく恐縮した声で、「あの~」なんて言っている。空気読め、アホ。
後ろからは「いただきま~す」なんて間の抜けた声がして、二人は同時に座った。
「危険すぎる。
おい……いま、なんていった?」
「コンマ、10以下以降のデータしか違わない。そうでしょう?
正確には、逆ね。私たちのデータはほぼ同じ。だけど、1つでも違う部分があればコード認識をごまかすことが出来る。
だから、アンタは一時だけとはいえ、私のデータ移行後も同時軸であっちにいることが出来た。だから私も今こうしてアンタと同次元に存在できる。
それが唯一の抜け道だったのね。
朧くんがいる箇所が不定電磁波なのも、一切の通信・リンク機能が不備なのも、コードを察知されないためだった。
違うかしら」
舌打ちをして、潰れた声を出した。
「方法が、それしかなかった」
ぐっと、握った手と裏腹に顔には表情がない。
「インターリンクをしたことでお前の症状の理由はわかった。だけど、あの段階では事実一切治療法なんてなかったんだ。
俺は、懸けることにしたんだ。
コードのコピーによるサイレンクローンが技術的に成功している中、特定のコードによる移行を人間で行うことも出来るはずだと」
「どうして自分のを使う必要があるわけ?」
「絶対にお前が助かるためには、感染しない媒体を使う必要があった。
俺はインターリンクをしてもなんの障害もなかった。かかることもなかったし、本体でもない。おそらくは抗体がある、と読んだ。
そこでコードに手を加えることにした。そのために、俺とお前のデータには多少の違いが生まれている。後々それが役に立つとは自分でも意外だったけどな。今のお前に使っている俺のコードはオリジナルの俺よりも確実に対感染に強化されている」
「そんなことを聞いているんじゃないのよ」
むっとしたように黙る。
どうしてこのバカにはいつもうまく話が通じないのだろうか。コーヒーカップを掴む手が小刻みに揺れた。
なんで通じないんだろう。どうしてわかってくれないんだろう。
「どうして、アナタ自身のデータが必要なの?
個別のデータを持つ必要がないコピーたちなら記憶は共用できる。全員が同じ記憶を持つのも、個人としての感情も持つ必要がない。
でも私とアナタは別の人間なの。一緒にいるためには、別の人間である必要があるの。なのに、どうして、自分のを使ったの?」
「絶対、という保証が必要だからだ」
信じられない。
「……もう1つ。
なぜ、ヒリューくんの記憶を消したの」
「俺の個別データにお前のログを移した時点でかつての俺の記憶は消えている。アイツが俺を覚えてないのはほかの人たちと同じだ」
「嘘。
彼の事故のときにアンタがインターリンクで内部治療をしている。そのデータも見つかったわよ。なにをしたの」
そこで、ようやく、アゲハが苦く笑った。
「厳しい尋問だな」
「当然の権利よ」
「俺のことを覚えてられると、困るからだ」
「私一人では、アンタのことを探せないと?」
「正直、ここまでするとは思ってなかった」
「ナメてくれるわね」
「そういう意味じゃない」
いいためらう姿はかつては見られるものではなかった。
「俺がいなくなった後に、俺の記憶が残っているのが、嫌だったんだ。
アイツの治療のために俺のデータを一部移植している。あの記憶欠陥はネメシスの機関によって起こされたものだ。それは知っていると思う。
俺はシステム完成までを泳がされたんだと思う。代わりにヒリューが的だった。それは本当に悪いと思っている。だから、あいつらの記憶欠陥プログラムを不良品にした。
俺の記憶だけを、アイツの中から忘れるようにしたんだ。
結局、俺自身が本当に消えたことでプログラムが狂ってしまったみたいだけどな。アイツは俺のことだけは絶対に思い出さない。
ほかのことは俺のプログラムを訂正すればきっと改正されると思う。そこはカブトにでも話してみてくれ」
「なんで、そういうことをするの?」
「なんで泣きそうなんだよ」
「私が聞いてるのよ。
どうして、私だけが覚えているの!?
それがどれだけツライことがアンタにわかる!?
なんで、アンタが、私のせいで全部をなくさないといけないの!?
そうまでして私は元通りになりたいわけじゃなかったわ。私は、アンタが大丈夫だといったから、だから信じたのよ!
アンタが幸せになれないのはどうしてなの?
まだやりたいことがあるって言ってたのはなんなのよ。
どうして、逃げてるのよ。ずっとずっとアンタは逃げてばっかりじゃない。ヒリューくんの記憶を奪ったのはなぜ。本当のことをいいなさい。
私からアンタの記憶は奪わなかったのは、結局アンタが忘れられたくなかったからでしょ?
自分のデータを使えば確実に助かる?アホなこと言って。確実性なんてなにもない事象でしょ。アンタのコードが特別なことは知ってるわ。多元に存在が可能な複種コードを兼ねているトライ・ナンバー。
最初から、アンタはどこにでもいけたのに、ずっと行かなかった。
移動をすればそこでのアカウントは消えてしまうからね。
アカウントの消失で今までのこと全部が消えてしまうから、だからコードを残そうとした。自分のコードを使えば必ずそのコードの人間は絶対にアンタのことは忘れはしないわ。
私からは、“アゲハ”の記憶を奪えなかった。
そうでしょう」
「雨宮」
アゲハは、ようやく、雨宮の顔を見た。
「でも、俺は後悔していない。
あの状況になったとしたら、何度でも、俺は同じことを繰り返す。
俺は絶対に後悔しない」
「雨宮。
そこまで気付いているのなら、俺の過去ログを見つけたんだろう? それなら見たはずだ。お前の理論は正しかった。
サイレンでの植物の植生は可能だ。お前の言うとおりだった。
俺は、お前のやっていることが正しいと思う。
俺みたいな、アウトローに利用される世界より、元通りの、データのカオスから楽園としてのサイレンを生き返らせることのほうが重要だと思う。
俺よりも、お前が生きるにふさわしい」
「そんなのアナタがいなくなっていい理由になんてなってない」
「お前は俺が不幸のようにいうけど、そうでもない。
本当だよ。
あいつらみたいな、」
後ろをちょっとだけみた。なんとなく感じる視線で、彼らはこちらの話を聞いていたのだろうと思う。半分もわからなかったと思うけど。
「友達も出来た。
友達ならいたさ。ヒリューやカブトがいた。
でも、そうじゃないんだ。隠し事の必要が無いんだ。そんなの初めてだ。
ここに来て、俺はようやく、止まることが出来た。
毎日なにもしなくていい。
騒いでバカやって、意味もなく、笑っていい。昔みたいに逃げ惑わなくていい。いや、悪いことしてた俺が悪いんだけど、そうじゃなくて、毎日システムと向かい合わない、危険に追いかけられない。止まることなく、俺は走っていたけど、俺は、今、止まっている。
初めて、立ち止まったんだ」
雨宮は、アゲハのティーカップを持つ手を握った。
「止まりっぱなしで、いいの?」
「アゲハ。
それなら言うわ。
アナタは確かに走り続けてきたと思う。
止まることを責める気も私にはない。
でも、それなら、もう、不必要な痛みを感じることもないのよ。
私との最後のリンクを切って。
私の痛みを引き受ける必要はないの。
こちらの世界のことに首を突っ込む必要はないの。
私の痛みは、私のもの。
アナタは、アナタの人生を生きるべきなの。私の感情に振り回される必要はないの。私の人生は、私のもの。
私の、痛みを返して、アゲハ」
アゲハに、初めて感情が宿った。
「なんの、ことだ」
声がかすれている。明らかな動揺を見たのは、大人になった彼としては、初めてだった。雨宮が握った手から震えがする。そっとカップからどかして、手のひらをキュっと握りなおす。
いつのまに、こんなに大きくなったのか。
いつも、雨宮を撫でた手。ふざけてはメガネを取られたり、髪をいじられたりした。歩くときに首ねっこを掴むのが好きだった。横に並ぶときに順番を気にしたり、歩道の白線だけを踏んだりして一緒に歩いた。
いつ、二人は、道をたがえたのか。
きっと、感情が、芽生えたときからだ。
「アゲハ。
今ならまだ、やりなおせる。
アゲハ。貴方を、愛してるわ。
だから、一緒に、帰りましょう」
*
坂口とヒロは、なんだかとんでもない展開になっている二人の会話にひっそりと耳を傾けていたが、どうにもできないもどかしさを感じていた。
アゲハが訳ありらしい。そんなことはわかっていた。
女が絡んでいるらしい。それも年頃なのだありうる。
アゲハが自分たちのことをそれなりに必要なものとして認識していた。それは正直ちょっと耳を疑った。
自分たちの知っているアゲハは、それでも、確固たる意思を持って動く生命体で、感情に流れる姿は見えない。名前の頼りなく羽ばたく姿からは程遠く、高いところを飛ぶ鳥のように、届かない位置からどこかに行ってしまうものだ。
アゲハは、雨宮という少女に手を握られた状態で、呆然と、涙を流していた。
「つ」掴まない未来
「三年間」
ぼんやりとした声をアゲハが出した。
「三年間。
ずっとずっと、お前のことを考えない日はなかった。
やり直せるものなら、やり直したいと思ったさ。
俺は、後悔していない。毎日に不満はない。
だけど、お前がいないだけで、俺の時計は止まっていた。
心配だったんだ。お前が無事なのか。
余計なことをしやしないか。
知りたかったんだ。お前のことを。
最初から、俺はお前のことなんてなんにもわかってやなかった。
離れてから、俺はお前のことをなにも知らないと思った。なにもかも自分で決めて自分で選んで生きてきた。今までその中で俺の選択肢に他人が入る余地なんてなかった。
なのに、どうしてお前は俺の中に入ってくるんだ。
お前が生きていないとダメなんだ。
俺のことなんてどうでもいい。
俺の中で、なにもかもを越えて、お前が無事でいることだけが、目的なんだ。
もう、全部、そういうの、飛び越えてるんだよ」
「それが、あのリンクなの?」
「それを知っているということは、お前は、イドを見たんだな」
「ええ」
*
雨宮は、アゲハとの再会の前に何度も自分自身の、正確にはアゲハのイドへと潜りこんだ。
アゲハは怯えていたのだ。
意外なことに彼はずっと逃げている。出会うたびに逃げて逃げて、逃げられ続けた。
「どうして、逃げるの?」
ライズを使っても、逃げられた。見た目は幼くても、能力はもともとのアゲハと同じシュミレーションらしい。朧の声がクスクスと笑った。
『彼は、本能だからね。
捕まえないほうがいいよ。捕まえたら爆発する』
「嘘!!」
『嘘だよ』
「最低……」
それでも、潜り続けた。
たまに、あのキーワードが書かれた黒板を見に行った。
日によって書かれていることが違うのだ。ただキーワードだけが変わらない。
あまみや あいしている
一度も言われたことのない、言葉。
彼が絶対に言うことのなかった、誰かへの思い。
いつからそうだったのかはわからない。
でも、雨宮はその言葉が彼の中心であったのに、彼がこれをキーワードにしたこと自体に腹が立って仕方が無かった。
アイツは、口にしないことを、決めていたのだ。
イドが苦しんでいたのは、その思いのはけ口を探して、ずっと上昇できないせいだ。アゲハは絶対に感情を止める。冷静であるがゆえに、その後の展開をスムースにするため、自体が滞るような感情は引き止められる。
彼の苦しみは、もう1つ、理由があった。
雨宮自身の、精神とつながっている深層からこぼれる雨宮の苦しみも、彼は拾っていたのだ。
アゲハを時が経てば忘れてしまうのではないか、という不安。
アゲハはやはり存在しなくて、自分の妄想なのではないかという迷い。
アゲハにおいていかれたという、怒り。
それらも心の奥でアゲハ自身が直に、ひっそりと、その痛みを受け取っていた。雨宮が感じる痛みを庇おうと、その痛みすら、自分のせいであるように、イドは雨宮をすべての苦しみから強制的に守るため、自分はツライことから逃げているのに、その痛みは全部拾って歩いていた。
*
「仕組みは単純だ」
なんでもないことのように、アゲハは説明をする。
「もともと、俺が仕組んだプログラムじゃない。
俺たちがほぼ同一のデータの存在である以上、互いの感情ユニットを共有してしまった。
雨宮の深層領域はいずれ雨宮自身のものになる。今は隠れているだけだ。
こちらに来て、おそらくお前が目覚めて、俺は、胸の奥の痛みを知った。
体調ではなく、精神からくる苦しみ。
唐突にやってくる痛み。
引き裂かれるような、乾き。
朧と一緒に検証した結果、雨宮の精神状態とのリンクが不完全な形で連結されていることが原因だとわかった。
そこで俺は、2段階のプログラムを重ねた。
現状を維持する、お前のネガティブな信号を一時的にこちらで受け取り、お前のほうへと流す。俺にはお前が感じる苦痛の理由は知らない。あくまでのシグナルとして体に反射されるだけだ。お前の痛みの理由を知ることはない。そして、俺の痛みの逆流を防いだ。
その痛みを共有し、俺をクッションとすることで、コピー体としての精神構造の枠を外れないようにした。俺のコード構造が許容できる量がお前が感じる苦痛の量を凌駕していないかそこが不安だった。俺のキャパで、一部を引き受けることで、確実に、お前が再度精神トランスの破壊を防ぐために」
「嘘ね」
雨宮は、ニコリともしない。
「それだけが、理由?」
「そうだ」
「それとも気付いていないの?」
なにも言わないアゲハは、やはり、怯えている。
「アナタは、私とのつながりが完全に切れるのを恐れたのよ。
その状態なら、痛みを感じる以上私が生きていることになる。私がまともな精神活動を行わないと発生しない感情電子を受ければ、アナタは自分のコード上で私という存在が生きていることを信じることが出来る。
私の痛みを引き受けることで、アナタは、私を忘れないようにしたのね」
わからない。
アゲハは、自分すらわからないのに、どうして雨宮はそういうことを簡単に言えるのだろうかと不安になる。不安な気持ちなど雨宮の感情から流れ込むものでしか知らないのに、どうして自分は今、「不安」になるのか。
「アゲハ」
「アナタは、アナタのやりたいようにやればいいのよ。
私に縛られる必要はない。
もっと自分を見て。アナタの痛みに気がついて。
あの言葉は、アナタの本心なんでしょう?
誰もあなたを責めないの。誰もあなたを断絶しない。
私は、絶対に、アンタを忘れない。
人をもっと、よく見なさい。
私を、もっと信じて」
「さっきのお前の言葉はキーワードだ。真理じゃない」
「それを決めるのは、アンタじゃない!!」
「真相なんてわからない。
アレを言ったことによってそういう気持ちなのかもしれないと思っているだけにすぎない」
「私は、アナタだから一緒に生きたいと思ったの。
どうしてなの? なんでそうやって最初からあきらめるのよ。
あのキーワードは、アナタの願望じゃない。
あのキーワードは、絶対に破られることがないと思ったから、アナタは選んだんでしょ? どうしてそういうことをするのよ。
私がいつアナタを振ったの? アナタがいつ私を足蹴にしたの?
私たちはなにもしていない。
なにも始まっていない。
アナタのほうから断線したくせに、どうして、そうやって自分に都合のいいことだけ受け入れないのよ。なんで批判は受け入れるのに、肯定を信じられないのよ。
自分の自信は持っているくせに、私のことを忘れられないくせに、どうして、そこから手を伸ばそうとしないのよ!!」
お前が、大切だからだ。
お前を信じていいのだろうか。
すべてが夢と消えてしまうことがわかっているのに、ここで彼女を選ぶことで、自分はきっとまたいつか痛みに捕まってしまうのに。得体の知れない痛みより、わかる痛みのほうがいい。
「私をおいていくべきなのよ。
リンクを切れば、あなたは、ようやくアゲハになれる」
「俺は俺の気持ちがわからない。
お前を思うあまりに俺は全部を捨てている。俺は、なによりもお前を選ぶ。だから、俺はこれ以上お前のために出来ることがなくて、困っている」
「もういいの」
*
雨宮と出会って、アゲハは変わった。
母親の死から逃れるために、サイレン界へと前のめりに突っ込んで、その世界に夢中になることで現実から視線を逸らしていた。
もう一度視線を戻したのは、高校で学校が一緒になったからだった。
変わってしまった雨宮と再会した。
なにがあったのかなんてよく知らない。正直、他人に興味を持てない。だけど、同じようにサイレンへと向かう彼女を見たとき、一人で戦う雨宮を見て、アゲハは呼吸が止まるかと思った。
ここには、同じように、逃げている少女が、戦っていた。
彼女を、救わなければ、ならない。
守らなければ、と、ただ、それだけ。
*
また、涙がこぼれた。
この気持ちを感じた昔を思い出した。
絶対に言わないって、決めてたのに。こんなにも、この子が、こんなにも、守りたくて、全部いらないと思ったのに。
本当は、いらないなんて、嘘だって、思い出す。
「プログラムが二段階なら、解除も二段階だ」
「ええ」
「余波が来る。耐えろよ」
「わかってる」
アゲハは、雨宮の顔を見て、初めて、彼女の本当の姿を見た気がした。
「雨宮。俺は、お前を愛している」
「だから、俺は、お前と一緒に、行かない」
カチリ、と二人の間にいたイドを捉えていた足かせが外された。
自由になったイドは、そこから走り出す。逃げるのではなく、外へと自由に羽ばたくために。キーワードは、達成された。
アゲハの選択は、雨宮と一緒に生きないことだ。
*
「おい、大丈夫か」
アゲハの声がして、雨宮は顔を上げた。
激しい頭痛の後が脳にまだ余韻を残している。
「そんなんで本解除が出来るのかよ」
「するわよ」
スッキリとした顔で、アゲハが笑った。
「最後の餞別だ。もう自棄っぱりだよ、これも教えてやる」
アゲハが差し出した水を飲んで、雨宮は、頭痛の痛みに耐えかねて出てきた涙を抑えながら頷いた。
「ヒリューの記憶から、俺の記憶を消したのは」
薄く笑っている。それは最後にあちらで会ったときの顔と同じだった。
「笑うなよ。
俺がいなくなった後に、お前を任せられるのは、アイツしかいないと思ったからだ。別にほかの誰かでもいいけど、でも俺はアイツがよかった。
アイツは、俺と違って、お前を不幸にはしない。
俺の記憶が残っていれば、アイツは俺を気にしすぎるから、俺のことは、忘れているほうが都合がよかった」
それを聞いて、雨宮はお笑いをしてしまった。
やはり、アゲハの本質はバカで出来ている。