その日、気が向いたら「そういや、先生はどこ行ったんじゃ?」
朝飯を食って、二振りで部屋に戻って、非番なので脇差連中から回ってきた漫画の続きに手を伸ばしたところで、これから出陣の陸奥守が防具を付けながらふと思い出したようにそう問う。
「昨日から粟田口の部屋にお泊り。朝一で虫取りに行くっつって朝飯ん時もいなかったじゃねーか」
「虫ぃ? まさか、なんかへごなもの捕まえて飼うらぁ言い出さないろうな?」
「知らねーよ。なに捕まえてくる予定なのかも。まあ、意外だな。てめー、そういうの気にしなさそうなのに」
「いや、別に虫が嫌いらぁじゃーのうて、ただ、夜寝る時にうるさいのはこらえてほしいのう……」
そういう陸奥守の装備の音がやたらと耳に響いて、会話をしていたせいもあり、漫画を手繰る指がずっと止まっていたことに肥前は気付いていた。
はあ、と大げさだと自分でも思うため息をついて、立ち上がる。
「ん?」
「片手で結べねーんだろ。貸せ」
「お、手伝うてくれるんか」
キョトンとした表情が、本当に予想外だったというのを表していて、思わずさらに言い募る。
「早くしろ」
「まっこと、いらちじゃのう」
そういって、ふへへ、とだらしなく笑った。
すでに左腕の籠手を半分付けたところだ。それを結んでやり、肩当を付けてやる。
次に右腕の籠手と肩当、と黙々とつけていると、感心したような半ば呆れたような陸奥守の声が思った以上の近さで聞こえて、思わず盛大に肩を揺らした。
「驚かせたか? すまん。
けんど、人の服装の手順らぁてよお覚えちゅうもんやのぉ」
「おんなじ部屋で毎日のように見てるんだから、付け方くらいわかるだろ。変なもんでもなし」
「そがなもんかのう?」
「足は自分で出来るだろ。手伝わねーぞ」
「当然」
衣紋掛けにかかっていた、陸奥守のコートを取る。見た目通りの重さがある。よくこんな重たいものを羽織って戦うものだと変なところで感心する。
陸奥守は、拳銃を付け、自身を腰の差したところだった。
あとは羽織るだけ、なので、つい、コートを羽織りやすいよう、広げて「おい」と呼び掛けたところで、静かだった室内とうるさい廊下を区切っていた襖がガラリと開かれた。
「陸奥守さん! 出陣の準備、大丈夫ですか? お手伝いに、来ま……」
「堀川! ぎっちり気を効かせてくれてありがとう!
今日は肥前が手つとおてくれたからはやなんちゃーがやないだ! ざんじ出発するき!」
「あ、はい……」
手伝っていることを見られたのが想定外で、思わず身動きが一瞬遅れたところ、陸奥守は当たり前のように肥前が広げたコートを羽織った。
「肥前! 助かった。
ぎっちりこればあ素直でいてくれたちいいがやきなぁ」
「うるせー! さっさと出陣しろ!」
「がっはっはっはっは! 今日の誉は独り占めじゃ!」
顔を赤くして怒る肥前に機嫌を良くしたまま、陸奥守が玄関に走っていく。
「走ると歌仙さんに怒られちゃいますよ~」
そして、残されたのは堀川といまだ不機嫌な表情を崩さない肥前だ。
「あいつ……、いっつもお前が手伝ってたのか?」
「はあ、まあ。出陣面子にもよるけど、脇差の誰かが気付いて手伝うことは多いかな」
「あの野郎~……。お前も、お前だ。わざわざ気配消して入ってきやがって」
「え~、だって嬉しそうな気配がダダ漏れだったから。どうせ、南海先生の準備は手伝ってあげるのに、陸奥守さんはやってあげたことなかったんでしょ」
「あのな、準備のスピードが違うんだよ、スピードが。アイツを構ってたら二人分の支度が終わらねえだろ、俺だって出陣することあんのによぉ」
「はあ~、そうなんだ~~~」
「おい! やめろ! その顔!」
ニヤニヤとした顔の堀川に手を挙げるも、当然のごとく避けられ、ニコニコとしたまま「じゃ、僕はこれで!」とさっさと逃げ切られてしまった。
はあ~、と急に疲れを感じて畳に座り込む。まだ先生は帰ってこない。
別に、陸奥守だけをやってやらなかったわけではない。今まで一振りで出来ていたことなので、放っておいても当然出来ていたことだからだ。先生があまりにいろんなことに興味関心を振り切っているから支度が遅くなるので仕方なく手伝っているだけだ。
「くそ……」
ごろりと寝転がって、目を閉じた。もう、今日はこのまま昼寝ならぬ朝寝の続きをしてしまおう。
朝の明るさが目を閉じていても瞼の裏が眩しい。
鳥の声がして、短刀たちの笑い声が聞こえてくる。とたとたと廊下を忙しなく移動する音が続いて、まだ午前中のまどろみの残る中、生きている物たちの動いている気配に、次第に心地よさを感じ始めるようになったのはいつからだろう。
先ほどの堀川が最後に言い放った言葉が耳にまだ残っている。
(陸奥守さん、特の時は誰にも手伝わせなかったし、極もあんまり手伝わせてくれないんだけどね)
人斬りの刀であっても、元々は長さが違っても、脇差の性分はそう簡単に消えてはくれないのか。
そのことに、多少の胸のムカつきを感じたものの、少し散ってしまった桜は、きっと先生が戻るまでには、消えてくれるだろう。