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    しおり
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    しおり
    奥手な七瀬さん【いおりく】   


    『好き』とはふわふわとした感情だ。掴みどころがなくて、あまくて、見ているだけで幸せな気持ちになる。触れなくても触れたときの感触を、感覚を想像しては、胸の奥がいっぱいいっぱいになる。たまらなくなって、いとおしくなる。そんなやわらかな幸福。
     それが初恋と知った時、何故なのかと悩みもしたし、苦しんだ。そして同時に嬉しいという感情も抱いていた。
     ──このひとがオレの好きなひと。
     決してその想いを口にはできなかったが、あたたかな幸せを感じていた。


    (なのに、どうして)
     どうしてその対象に迫られているのだろうか。


        『七瀬陸は奥手』


    「まずは手を繋ぐところから始めましょう」
     それはまるで付き合いたての学生による恋愛模様のやりとり。ただし向かい合った和泉一織の顔が赤いとか、照れているということはなく、また二人の間にあまやかな雰囲気はいっさいない。見慣れたいつもの仏頂面で、陸に向けて手を差し出していた。
     一織の手は男らしい手、というよりもすらりとした長い手だ。白いが女性のような柔らかさはなく、見た目よりもずっと力強い手であることを七瀬陸は知っていた。
    「待って……無理だよ」
    「どうしてですか。ライブでは繋いでいるでしょ」
    「だって、そもそも今ライブじゃないもんっ!!」
     真っ赤な顔で陸は大きくかぶりを振った。
     一織の部屋の中で陸は一織に迫られていた。今から手を繋ぎましょう、と。


     モノトーンで落ち着いた雰囲気の一織の部屋はごちゃごちゃとしているわけでもなく、だからと言って殺風景とまでとはいかない。勉学のための参考書や目にするだけで思わず顔をしかめてしまうような難しい本、シンプルなペン立てに入った筆記用具に小さな観葉植物。ほどよいバランスで物が置かれているのだ。
     赤を基調とした自分の部屋とは対照的で、涼しげな印象すら抱く。なのに今の陸の顔と身体はものすごい熱を帯びていた。
     それもこれも目の前の男のせいだ。
     羞恥心から潤んでしまった瞳で睨みつける。しかし一織は臆することもなく、ただ軽く目を瞠っただけだった。
    「困った人だな」
     ふう、とため息をつかれる。
     一織の態度にむっとした陸はさらに目を吊り上げて、ぐいっと彼に迫った。
    「何だよ。それ」
    「手を繋ぐだけなのに、あなたに泣かれそうになっている私の気持ちがわかりますか?」
    「わかるわけっ……!? の、にゃあああっ!!」
     ひんやりとした熱が自身の手に触れている。気が付いた瞬間陸は悲鳴を上げた。ちょっと、とさすがに慌てたような一織に口を塞がれて、ますますパニックになる。
    「いおっ! んんんっ、むうううう!?」
    「騒がないで!!」
    「んんんんんっー!?」
    「だから落ち着いて」
     一織の手のひらが自分の唇に触れているのに、落ち着けというのは無理がある。冷たかったはずの一織の温度が自分の呼気であたたまり、やがて湿りを帯びる。唇で濡れてしまった手のひらを感じ取った。細胞が剥き出しになってしまったかように、触れているところからぴりっと小さな電流が流れていく。どっどっ、と活性しすぎた心臓はただただ痛い。
    (あたま、おかしくなりそう)
     上手に呼吸ができなくて、心臓が激しすぎて、このまま一織の手の中で死んでしまうんじゃないだろうか。
    (でも、それはそれでちょっといいかも)
     一織の手の中で生を終えるとするなら、もうこれ以上陸は誰かに置いて行かれることはない。一織に置いて行かないで、と約束はしたが、それは確実に果たされるものではない。
     終わりは突然やってくるものだ。そのような事実を小さな頃からよく知っていた。
    (……心臓が痛い)
     くらくらした頭でぼんやり考えていれば、不意に何か熱いものが頬を伝った。塞がれていた口が解放された途端に身に余るほどの熱がすっと引いていく。一織の温度はじくりと陸の肌を焼いたのに、痕にもならず消えてしまった。
     ようやく自然に呼吸ができるようになり、息を吸いながら顔を上げる。すると困ったような顔をした一織と目が合った。
    「そんな顔しないでください」
     頬へと伸びてきた指に思わずぎゅっと目を瞑った。身を固くして一織の手の感触を待つ。だが、いつまで経ってもその時は訪れない。
     おそるおそる目を開くと一織は小さく笑っていた。
    「大丈夫ですか?」
    「……大丈夫じゃない」
     年下のくせに余裕のある一織に、陸はむすっと拗ねたような表情を浮かべた。
     決して彼に触れられるのが嫌だったわけではない。ただただ悔しいのだ。
    「一織のせいで心臓が爆発する」
    「ただでさえ爆弾男なのに、さらに無差別爆弾男になってしまいましたね」
    「一織の前だけで爆発してやる……」
    「七瀬さん、そんな器用なことできるんですか」
     器用もなにも一織によって陸はどきどきさせられているのだ。
     一織がいなければ爆発しない。一織に迫られれば、うっかりとトラップを踏んでしまった時限爆弾のスイッチのように、カチカチと爆発するまでの時間が早まるだけ。パーフェクト高校生である一織なら、もしかすれば解除できるのかもしれないが、陸には到底無理な話だった。悲しいことに爆発は免れない。
     熱を逃がすように自分の頬に手を当てて、息をついた。
    「あつい……」
    「私の手でよければ貸しましょうか」
    「いらないっ!!」
     一織の体温が他の人よりも若干低めのあることは知っている。だがどんなに冷たくても、それが一織の手である限りもっと熱くなる。
     目を吊り上げて、威嚇をするように唸ってみれば一織は手の甲で口元を覆った。しばらく視線を彷徨わせて、再び交わる。何だろうと思っていたら、肩は小刻みに揺れていた。
    「っ……ふふっ……あはははっ」
    「もうっ! 笑いこらえる気ないだろ」
    「す、すみませんっ……っ、ふっ……」
    「笑うなよ……」
     今度は別の意味で泣きそうだ。悔しさと恥ずかしさから陸はくるりと背を向ける。ようやく落ち着いたのか笑い声は止まった。
     アイドルの時ならともかく、通常時で一織が声を上げて笑うことはそうそうない。
     背を向けたのはちょっと、いや、かなり勿体なかっただろうか。ちらりと視線を戻せば、一織は表情を緩めて立ち上がった。
    「どこ行くの?」
    「少し休憩しようと思いまして」
    「じゃあ、オレも」
     一織が部屋を出て、陸がこの場に一人残るのはあまりよろしくないだろう。慌てて立ち上がろうとすると、手の動きだけで止められた。
    「ホットミルクを作ってくるだけですから」
    「でも、オレ一人でここにいていいの?」
    「大丈夫です。見られて困る物なんて置いていませんし、それに────」
     七瀬さんは、家探しなんてことしませんよね。
     笑っているのにものすごい圧を感じた。一織の迫力に負けた陸は赤べこのように頷くしか他にない。
     何度目かの頷きの後、ぽんと何かやわらかいものが膝の上に乗せられた。ミルクティのような淡い色に、つやつやとした黒い目。丸く小さな耳とふわふわした手触りで、首元には赤いリボンが蝶々を形どっていた。顔の高さまで持ち上げて、じいっと見入る。
    「くまさん?」
    「衛生面には気を付けていますから、抱きしめても問題ないと思います。ただし顔には近づけないでください」
     それだけ言って、一織は部屋を出た。残された陸と一体のテディベアは顔を見合わせて、お互いに首を傾げた。
    「どういうこと……?」


     しばらくして戻ってきた一織の手にはマグカップが二つ。淹れたてたばかりか白い湯気がゆらゆらと揺れている。
     陸の膝の上に居座っているテディベアを一瞥し、マグカップを差し出した。
    「はい、火傷しないでください」
    「ありがとう」
     渡された瞬間指先が触れ合う。陸が落とさないようにしっかりと持ち手を掴ませて、するりと離れた。マグカップから伝わる温度の方が熱いはずのに、一織の指の方がずっと熱かった。
    (……どうしよう。落ち着かない)
     合わせた膝はそのままに、一織に気づかれないように指先をもじもじとさせる。それで熱が逃げるわけではないが、じっと落ち着いて飲む余裕はない。一織の忠告を忘れ、冷たい陶器に口をつけて傾けるとびりっと舌先が痛んだ。
    「っ、あつぅ!」
    「七瀬さん!?」
     隣にいた一織が慌てた顔で陸の前に回り込んだ。すかさずマグカップを奪われる。舌を出して、と真面目な顔で言われその勢いに押された陸は素直に舌を差し出した。
    「飲んでください」
     用意していたのか、それとも最初から部屋に置いてあったのかミネラルウォーターを渡される。ひりひりと痛む舌に顔を顰めながら蓋を開ける。急いで火傷した箇所に水を流し込んだ。
     冷たすぎないその温度が今の陸にはちょうど良かった。顔の火照りを冷ますためにも水を飲みつづける。ふうっと口を離すと一織が心配そうに覗き込んできた。
    「そんなに痛かったですか」
    「え、あっ……!? ちょっ、近い!!」
     至近距離にある端正な顔立ちに今度は顔を青くさせ、後ろに下がる。
    「失礼では?」
    「仕方ないじゃん! どきどきするんだもん!!」
     一織は自分の顔のことよくわかってない。端正な顔立ちの彼は綺麗で恰好良くて、そして時々かわいい表情をする。仏頂面がデフォルトである分、不意打ちの笑顔の効果はすごい。そして心配そうに覗き込んでくる表情はものすごく真剣で、苦しさを忘れる。見惚れて一織の顔から目を逸らせないことを知らないだろう。
     どれだけ陸が一織の顔にどきどきするのか、思い知ってほしい。彼の手を掴んで、自分の左胸に押し当てたらいっそ伝わるだろうか。
    (やっぱり、無理)
     長くてきれいなあの手に触れることすら難しいのに、胸に触れさせるなんて論外だ。ふわふわしたテディベアをぎゅっと抱きしめる。
    「ばか……」
     ぽつりと零れた本音は心細い声だった。
     こんなにも一織にどきどきしてしまうようになった自分は馬鹿みたいだ。一織が傍にいると日常生活すらまともに送れない自分はものすごく変だ。こうなってしまったのは全部一織が悪い気がする。いや絶対一織が悪い。
     恨みがましい視線を向ければ、一織は咳払いをした。
     すでに冷めてしまったであろうホットミルクに口をつける。先ほどの火傷を踏まえて、まずはこくりと一口だけ。あたたかい、ではなくとっくにぬるくなったそれは普段よりもずっとずっと甘い。
    「なんかいつもよりも甘い気がする」
    「冷めてしまいましたので」
    「そうかなあ」
     本当に冷めてしまっただけなのだろうか。ゆっくりと嚥下しながら横目で一織を見つめる。涼しげな表情を浮かべた彼の心の裡は量り切れない。逆に一織にはわかるのだろうか、陸の心の裡が。
    (絶対わかんないよなあ)
     どれくらいの好きかなんて、一織にはわからないはずだ。隣り合うだけでもどきどきして、日常生活を送ることすらあやしくなってしまった自分の気持ちなんて、きっと。
    (わかんないから、突然すぎるんだよ)
     ちょっとやそっとのことで胸を震わせて、期待させるようなことをしたりする。こんなことばかりしていたら、いつか勘違いすると思う。和泉一織による心臓高鳴り被害者はきっと多いことだろう。被害者の会を設立したら即座に第一被害者だと名乗り出よう。
    「七瀬さん。何ですかその人を疑うような視線は」
    「一織の人たらしめ」
    「……余裕あるようですね」
     一織の言葉を耳にして、持ち手を握る力を強めた。すでに中身が空っぽになったマグカップをいつまでも握っていたい。そうすれば、彼と手を繋ぐことはできやしない。それか膝上にいるテディベアを抱きしめてしまおうか。今自分の手はいっぱいなんだよ、と言うように。だが結局どちらとも一織によってやさしく外されてしまうのだろう。
    「七瀬さん」
    「わかってる」
     促されて冷たくなったマグカップを一織に手渡す。触れてもどきどきしないように、冷静に。
     自分の机の上に置いた一織は、すぐに陸の隣に座り込んだ。きれいな手が差し出されたのを見つめながらぼやく。
    「一緒に爆発しよう」
    「不穏なこと言うのやめてもらえますか」
    「置いて行かないって言ったじゃん」
    「それ今ここで言いますか……!?」
     小指の爪の先がちょこんとだけ触れた。体温がわからない程度の接触でも、すでに陸の心臓はばくばくと音を立てている。
     強引に握ればいいのに、一織はそうしない。陸から触れるのを静かに待っている。それはまるでライブ時に自分の隣に立っていて、誇らしげな顔を向けている時の表情に似ている。
     そういう顔は本当にずるい。
     一織に期待されたら、引き返すことはできない。その期待に応えないわけにはいかないのだ。
     ふうっと息を吐き出した陸は目を閉じた。自分の小指を折り曲げて、一織の小指に絡めた。灰の瞳が大きく開いたのちにゆっくりと笑みを作る。
     触れた先から他人の温度が伝わってくる。指切りのような形のそれは決して約束のためのものではない。
    「……あれ?」
    「触れた、じゃないですか」
    「うん……。っ、待って一織! それ以上は無理だから!!」
     するりと絡んできた指から逃げて、だが繋いだ小指は離さない。痛いくらいに心臓が騒いでいて顔も熱いのに、このささやかな接触をやめたくないと思う。ひんやりとしているのに、触れた箇所から熱が生まれる。あつくて、あつくて、だけど離せない。
    「それ以上はもう、だめ」
    「……では今日はここまでですね」
     何をするわけでもない。小指だけを繋いだまま、一人分とさらに半分の距離を保つ。滞在を許されているのはあと十五分で、撤退を許されるのもあと十五分先のこと。陸の心臓は相変わらず早鐘を打っていたが、一織とともに爆発することはなさそうだった。
     ちらりと横目で一織を窺うと、スマートフォンの画面を見ていた。ただただ真剣な様子で、表情は変わることはない。余裕のある姿は面白くなくて、ぎゅっと小指に力を入れる。そうするとあやすように指の内側の撫でられて、くすぐったさに慌てて口元を押さえた。
    「何ですか? 構ってほしいんですか」
    「むうううっ」
     余裕綽々な一織の笑みですら、陸の心臓は跳ね上がる。ばかっ、と捨て台詞のような呟きに一織は目を細めるだけだった。



     成功したら次へと進む。小指が繋げたのだから次は手を。手を繋ぐことができたら、ハグを。
     ライブやドラマの撮影時であれば陸はどうにか一織に触れることができる。それなら同じ状況を作れば可能なのではないかと考えた一織によって、現在の状態に至る。
    『みてみて! 今日の一織もすごくかわいいよね?』
    『かわいくないですけど』
    『そういうところだぞ!』
     テレビの画面の中では一織と陸がじゃれていた。正しくは陸が一織にじゃれついているのだが。
     画面に映る自分はただ無邪気に一織の腕に抱き着いている。一織は少し困った顔を浮かべたものの振りほどくことはしない。ただあと三十秒もすれば、前髪を撫でつけ露わになった額にデコピンを食らう。手で押さえながら涙目の陸の顔がアップで抜かれるだけだ。
    「あの時の七瀬さん自身をお手本にしてください」
    「無理だよ!!」
     前々回のライブ、正確に言えば半年前のライブの映像だった。まだそういう意味での好きを抱いていなかったからこそできたことで、今の陸にとっては一織にぎゅっと抱き着くこと並に難しい。難易度を五段階で表示するならば、きっとこれは四番目に値する。
    「一織はさ、例えばオレが一織をぎゅっとしても冷静でいられるの!?」
    「……大丈夫だと思います」
    「今少し間があった」
    「考えていたんですよ」
     本当だろうか。じいっと見つめても一織の顔は赤くならない。陸に迫っているときでも泰然と構えていて、代わりに自分ばかりが真っ赤になっている。この熱が移ってしまえばいいのに、と思っても陸からは触れることができない。熱は内側にずっと籠って、吐き出すことすらままならない。
    「今日も頑張りましょうか」
    「……うん」


        『七瀬陸は提案する』 


     一織の長い指によって部屋の電気は消された。テレビの画面は青白く発光している。ここはステージの上でもなく、自分たちを励ます七色のサイリウムの光は存在しない。画面の向こう側にいる自分たちのように華やかなアイドル衣装を身に纏っているわけでもなく、互いにおやすみ前の恰好だ。そしてあと三十分もすれば就寝の時間となる。
     ごっこ遊びというにはリアリティがない。しかし少しでもリアリティを出すためにライブ映像をつけていた。
     画面に映る七瀬陸は笑顔で和泉一織に抱き着いている。それは恋という、いつまでも満たされない感情を抱いていない無垢な頃の姿だった。
     もしもその頃に戻れたのなら、と考えることもある。だけど陸はタイムトラベラーではないのだから、何度考えても結局どうしようもないことだった。
     七瀬さん、と名前を呼ばれてようやく触れることができた指先を軽く握られた。ささやかな接触。なのにびりびりと電流が走って、身体中にあまい痺れのようなものを感じる。陸はそれだけで手いっぱいなのに、目の前の一織はいつだって余裕がある。
    「……おいで?」
    「っ、!!」
     あまやかに笑いながら静かな声で、だがしかし含みを持たせたその言葉を耳にした瞬間、ぶわりと全身の毛が逆立った。心臓が先んじて駆け出していく。どくどくと陸の薄い胸を叩いて、これ以上は危険だと知らせる。
     一度呼吸を整えるために行った息継ぎは、どことなく艶めいていた。
    「七瀬さん」
     いつも冷静な色を浮かべている一織の瞳はテレビの光源を吸収して、爛々と輝く。彼の瞳に鋭さはないはずなのに、そこに飢えた獣の瞳を陸に連想させては、恐怖にも似た感情を引き起こす。
     ──怖いけど、触れてみたい。
     覗き込んだその中に一際明るい色を見つけた。陸の色でもある赤色だ。一織の瞳の中でゆらゆらと篝火のように揺れていた。
     だめだ。取り込まれてしまう。
     指先が震える。いつの間にか絡み合っていた一織の長い指が宥めるように、煽るように指の付け根を撫でた。
    「はあっ、いおり……?」
     薄暗い光にぞくりと肌が粟立った。一織に距離を縮められて、陸が一歩後ろに下がると一織もまた一歩と。逃げれば追いかけられてを繰り返し、壁に背中がぶつかった時、ようやく陸は逃げ場がないことを理解した。
     好きな相手によって壁際に追い込まれているだなんて、女の子が好きそうな恋愛ドラマのワンシーンだと思った。ときめきを覚えてもいいはずなのに、抱くのは緊張とほんの少しの恐怖だけ。
     真剣な眼差しの裏側には獰猛な獣のような鋭さがあった。探ってはいけない。だけど陸はうっかりその瞳の奥を覗き込み、鋭さを見つけてしまった。
    (たべられそう)
     息継ぎをするタイミングすら見逃さない。目の前にいる獣は陸という餌に対して、今か今かと待ち構えている。
     顔は一織に向けたまま陸はちらりと横に視線を流した。扉は押し付けられた陸のすぐ右側にあり、逃げ出そうと思えば陸は逃げ出せるだろう。自室か共有スペースにでも逃げ込めば、おそらく一織は追いかけてこない。何故ならここは一織のテリトリーで、彼は自室以外では絶対に陸に触れない。一織の中でそんなルールがあるようだった。
    (も、無理……逃げよう)
     息も心臓も苦しくて、顔だってずっと発熱している。このままだと最後一織に食べられるか、倒れて元凶である一織に手厚く看病されるかのどちらかだ。そして陸はそのどちらも選びたくない。
     右足を前に出そうとした瞬間、すっと腕が伸びてきた。逃げようとする陸の動きを読んだのか顔の横へ、壁に手をつけて止まる。いわゆるこれが壁ドンと呼ばれているものなのだと、何度も読み込んだ少女漫画で知った。
    「い、一織……?」
    「逃げないで」
     端正な顔立ちがぐっと近づいてきた。間近で見て一織の睫毛が長いことや、薄い唇が小さいこと、白い頬がうっすらと色づいていることがわかる。遠くから見ても間近で見ても一織は綺麗だ。だからどきどきしてしまうのだろう。
     唇が弧を描いた。しかし瞳に笑みは一切浮かんでいない。陸を揶揄っているわけではなく、一織は本気で迫ってきている。
     うっすらと開き、ささやかな吐息が陸の唇を撫でた。艶めいた表情が、男の人が見せる表情がどことなくこわい。陸さえ知らない感情をすべて引き出し、曝け出してしまいそうで、こわくてこわくてたまらない。だけど内側ではそれを期待する自分がいる。
    「……七瀬さん」
    だがこれはいけないのだと、脳が危険信号を発信した。考えるよりも先に繋いでいた手をほどいて、手のひらで一織の胸を押しやった。ようやく見えなくなった瞳に安堵を覚える。
    「もうっ……無理」
     俯き、はああっ溜め込んでいた息を吐き出す。薄暗くてよかったと思った。一織が好きで好きで、たまらないと書いたような顔など見せられない。
     見た目よりも厚みのある一織の胸からとくとくと少しだけ早い鼓動が伝わって、悔しいのやら嬉しいのやら、恥ずかしいのやらでいっぱいだ。
     テレビから自分のソロパートが聞こえてくる。そっと囁くように、伝えようと伸びやかな優しい声でハツコイリズムを歌っている。
     星空の下で歌い、七色のサイリウムはやわらかな流れ星を描く。ゆるやかに、やさしく。
     幻想的な空間で陸はまだ初恋も、恋も知らずに歌っていた。
     恋とはどきどきして、あまやかで胸がくすぐったい。鼓動は少し駆け足で、息切れしてしまいそうな、そういうものだと思っていた。
     ぎゅっと目を閉じる。
    (違う、あんなものじゃない)
     胸は痛いくらいに疼いて、苦しい。心臓は自分の身体を破ろうとするほど激しくて、息を吸うことすらままならない。逃げたくて、こわくて、だけど触れたいと思ってしまう。触れてほしいと焦がれてしまう。
     恋に恋を重ねて、心も体もコントロールを失って駄目になってしまうほど、その想いは激しい。
    「ね、いおり……」
    「はい」
    「オレたち、交換日記から始めない?」
    「はい……はい?」
     どうにか瞼を開ければ、目を丸くした一織を見つけた。先ほどの艶めいた男の人ではなく、陸が良く知る十七歳の一織だ。安堵からふにゃりと頬を緩ませると、代わりに一織の表情が厳しいものに変わった。
    「交換日記って今時小学生でもしないと思いますけど」
    「だって一織ここ最近強引だし、激しいし、それになんかさ……」
    「いかがわしい言い方しないでください。それで? なんかさ、の続きは」
    「やっぱ黙秘! 黙秘権」
    「七瀬さん、黙秘って言葉ご存じだったんですね」
    「すぐ馬鹿にする!!」
     頬を膨らませながら、今まで二人の間に流れていた雰囲気が払拭されたことにほっと息をついた。
     触れていた一織の胸からゆっくりと手のひらを外す。ようやく離すことができて安心しているのに、離れると寂しく思ってしまう自分が少しだけ可笑しかった。
    「で、交換日記をするとして何を書くつもりですか?」
    「えーと……」
     あの艶めいた雰囲気から抜け出そうと思わず口にした言葉だったため、実際のところ交換日記に何を書いていいのか、何を書くべきなのか陸にはわからない。そよそよと目を泳がせながら陸は必死に頭を回転させた。
    「……その日の体温とか食べたものとか、お仕事のこととか?」
    「連絡帳ですか」
    「だってやったことないもん!」
     小学校にはあまり通えなかったし、交換日記をするような友達はいなかった。一人で本を読んで、兄である天と話すことが多かった。好きだった物語の中で主人公たちが交換日記を書いているところを読者として、遠くから見ていただけだ。
     呆れた顔から一変し、一織はやわらかな笑みを浮かべる。では、と続く言葉は陸を驚かせるものだった。
    「一日一回、私宛に『好き』と書くなら付き合ってもいいですよ」
    「は、はあっ!?」
     突然何を言い出すのか、この男は。好きだなんて、そんな真っ直ぐな言葉が言えるわけがないだろう。
     急速に顔が火照る。両手で押さえながら元凶を睨みつけると、だんだん一織の眉根が寄っていった。何故突然不機嫌になるのか、わけがわからない。
    「直接口にするわけではないですし、本人への好意ではなくて、好きなところでもいいんですよ」
    「オレが思う一織の好きなところ?」
    「そうです。例えばお説教に愛を感じるとか」
    「うーん……。お説教する一織は、あまり好きじゃないかな」
    「例えですけど!!」
     目を吊り上げた一織の姿にはあまりどきどきしない。むしろかわいくて、ふふっと口に出して笑うと白い頬が淡く色づいた。
    「じゃあ違う例えで!」
    「欲張りですね」
    「教えて一織」
    「そう……ですね」
     理性的な瞳を眇めた一織に陸は思わず身構えた。目元が和らいで、カメラが回っているときの和泉一織のような微笑みを浮かべる。絡め取られてじわりと瞳に熱が帯びる。
    「七瀬さんのボーカルが好きです。私たちのファンよりも、あなたのファンよりも、一番あなたの歌声が好きです」
     ひゅっう、と弱々しい呼吸が陸の喉から飛び出した。
     決してそれは耳元で囁かれているわけではない。髪を、頬を愛しく撫でられながらでもない。それなのに飾らない一織の言葉は陸の心臓を真っ直ぐに撃ち抜いて、呼吸すらも奪った。
     新曲であるRESTART POiNTERを初めて披露したライブで、ファンのみんなの前で宣言した一織の本音。折り重ねた深い好きが陸を追いつめる。
     逃げるという選択肢を奪い、さらに一織の手は陸の腕を掴んでいた。灰の瞳がテレビから発光する青い光を吸い込んで、煌々と輝いている。眩しすぎて直視できないのに、逸らすことは許されない。
    「教えてください。私の好きなところを」
     絡み合った視線はもう離せない。離したくないのだと心が急く。まるで魔法にかかったように、陸の口からは素直な想いが零れた。
    「……目が好き。一織の目を見ると安心する」
     一織はじっと陸を見つめてくれている。
     初めて会ったときはひどく冷たい瞳だったのに、熱を帯びた眼差しはいつしか陸を安心させるものへと変わっていた。
     隣から、少し離れたところからやさしい視線を感じる。陸が振り返ると必ず一織は陸を見つめながら満足そうに微笑んで、視線が交わったらすぐさまそっぽを向いて。形のいい耳が赤くなっていることに気がついて、かわいいなあと嬉しくなる。じいっと見つめていると「このままでは穴が開きそうです」と陸の目を自分の手で塞ごうとする。そんなささやかなじゃれ合いも好き。
    「好きなところは目だけですか?」
    「ううん……それだけじゃなくて」
     一織が好き。
     おそろしいことにこの想いには上限というものはなく、日々日々加速していく。お説教が始まったときは少しむっとしてしまうこともあるが、一織の言葉はいつも正しくそれは陸の身体にゆっくりと浸透する。深く沈み込んで、アイドルの七瀬陸を形作る。一織の言葉は陸を励まし、陸を導く。
    「他は?」
     ああ、この目だ。愛おしさが滲んだ眼差しにあまい幸福を覚える。冷静な瞳に赤い光を湛えて、一織らしかぬやわらかな笑みで促されて、もうどうしていいのかわからない。
     すうっと息を吐き出して、溢れた好きが喉元まで上がってきた瞬間、聞き覚えのある会話が流れてきた。
    『今度は一織への質問だな。ええと、好きなタイプを教えてください、だって。そういや、オレ一織の好きなタイプ聞いたことないかも。この際だから兄ちゃんに言ってみ?』
    『からかわないでください……そうですね、自立している方でしょうか。きちんと自分のことは自分でする。自分の力でできないことがあれば、私に頼ってほしいと思います。一生懸命な方ということでもありますね』
    『うわ、いおりん真面目だわ』
    『なんか想像と違ったよな……』
    『一織なんか顔赤いよ? 大丈夫』
    『この手の質問は結構恥ずかしいものがあるよね』
    『みなさん、イオリの好きなタイプを聞きましたね。ワタシはすべての女性を愛していますよ』
    『こら、ナギ! 勝手にこの場を持っていくな!』
     甘い気持ちは突然足元から崩れ落ちた。高揚は一気に冷め、代わりにひどい羞恥を覚えた。
    (勝手に舞い上がって、馬鹿みたいだ)
     たしかこれはハツコイリズムを歌唱した後のMCだっただろうか。ファンの子から寄せられた質問に答えるコーナーだった。
     そのときは一織の答えに一織らしいと思ったが、今は違う。あのとき抱いた感情と、今抱いているものの種類は違いすぎている。自分のことは自分でする、という至極当たり前な言葉に耳が痛んだ。感情は形を成して深く刺さり、喉元まで出た言葉はもう吐き出すことができなくなった。
    「七瀬さん?」
    「ごめん一織。今日はここまでにして」
     あのあまい瞳で見つめられたら、きっと言ってはいけないことまで口にしてしまうだろう。その言葉は今の関係を確実に壊してしまう。
     もう顔も上げられない。
    「今日もありがとう、おやすみなさい」
     泣きそうな声にならないように早口で言った。一織の返答を待たず部屋を出る。自室はすぐ隣だが駆けこんで、すぐさまベッドの上に倒れ込んだ。
    「期待させないでよ……一織のばか」
     想いを語るには似つかわしくない声音で、陸は呟く。ただの八つ当たりだとわかっていても、抑え込むことはできなかった。
    (オレは一織の恋愛対象にもなれないんだ)
     一織に触れられなくなってから、陸は一織に触れる練習をしている。一織に触れられなくなったせいで、好きな人に触れる権利を得てしまった。
     手を繋ぐことも、ハグも、好きなところを口にするのも全部練習で、それ以上の意味はない。以前のような他愛無いやり取りができるように。IDOLiSH7の七瀬陸らしく振舞えるように。
    「恋は歌……なんてものじゃなかったなあ」

     ──一緒に歌ったり、うまく歌えたら、嬉しくて、笑いあって、幸せになる感じ。
     
     恋についてよくわからないままに、そんな風に答えたことがあった。
     今ならはっきりとわかる。恋は陸にとっての歌じゃない。苦しくて、痛くて、切ない感情で、だけど触れられると嬉しくて、ついうっかり期待してしまう。
     もしかしたら、なんて馬鹿みたいなことを考えてしまう。だって陸には一織の心が読めない。何を考えているのか、もうわからない。
    「はやく治らないかな」
     ぽつりと落ちた声は空虚な響きを伴っていた。

     顔を見るだけで幸せ。声をかけられたらもっと幸せになれる。
     好きなひとから送られてきた、たった一言のメッセージですらスクショして、何度も見てはにやけてしまう。好きなひとがいるだけで、心は満足する。
     想いが伝えられなくても、好きなひとがいるだけで、好きなひとが笑っているだけで、もうそれだけで充分なんだ。

    (なんて、嘘だ)
     購入して一か月も経っていないのに、何度も何度も繰り返し読んだ漫画本はぼろぼろになってしまった。開き癖が付き、何気なくそのページを開くと、片想いしている主人公が幸せそうに笑っている場面だった。
    (好きなひとがいるだけで満足だなんて……あるはずがないんだ)
     ドラマの出演オファーを聞かされたときのことを、まるで昨日のことのように覚えている。


        『七瀬陸は自覚した』 


     一織と共にユニットの撮影を終えて、小鳥遊事務所に帰社したときのことだ。自分たちのマネージャーである紡の机には少女漫画が積み上げられていた。色どりのポップな表紙のそれは少女漫画ブームの火付けとなった作品だった。本屋で平積みされているのを何度も目にしたことがあり、イラストを見て陸も少しばかり心惹かれたことがある。
    「マネージャーも気になって、大人買いしたのかな?」
    「違いますよ」
     はっきりとした物言いをする一織を不思議に思ったが、陸はそれ以上何も言わなかった。しばらくして慌てた様子の紡が現れた。
    「お待たせしてすみません。一織さん、陸さん」
    「大丈夫だよマネージャー」
    「お疲れ様です」
     いつものように紺色のスーツを着用した紡は台本を抱えていた。数は一冊。ということは一織か自分か、どちらかに関係する話なのだと陸は思った。いつでも姿勢良く立っている一織に倣い、陸も背筋を伸ばす。神妙で、しかしどことなく嬉しさが滲んだ表情を浮かべて紡は口を開いた。
    「陸さんに月9ドラマのオファーが来ました! 今女性に大人気の少女漫画が原作です」
    「え、オレ!?」
    「監督がどうしても陸さんに演じてほしいと直接うちの事務所に足を運んでくださって、熱弁されたんです。私もすぐに原作に目を通しましたが、本当に陸さんにぴったりだと思いました」
     興奮を隠せない紡の姿に、喜びよりも困惑が勝り一織を見遣る。静かに話を聞いていた彼は口元に微かな笑みを浮かべた。
    「七瀬さんが決めるんですよ」
    「でもさ、一織はいないんだろ」
    「当たり前です。今までも私がずっとついていたわけではないでしょ?」
    「そうだけど……」
     一織と一緒の現場が多いわけではないが、今撮影中のミステリードラマでは一織と陸は相方の設定だ。現実と同じ立ち位置であり、セットで撮ることが多いので常に安心感を抱いている。一織がいないのは不安でしかない。
    「一織……」
    「情けない顔しないでください」
     ぴしゃりと容赦ない一言に陸は項垂れる。だが一織は袖を掴んだ陸の手を振りほどかない。厳しいようで意外と甘い。一織のそういうところが陸は好きだった。
     二人のやり取りを静かに見守っていた紡が口を開く。
    「やっぱり嫌ですか……?」
    「嫌とかじゃなくて、少しだけ不安かな」
     IDOLiSH7の活動は順調だ。現在は目が回るほどの忙しさだが、無休ではない。毎日目まぐるしく時間は過ぎて、満たされているはずなのに、どことなく心細さを感じてしまう。
    「私は陸さんに演じてほしいと思っています。でも陸さんが嫌ならそれは断っていいんですよ」
    「マネージャー……」
     小鳥遊事務所は商品でもある自分たち、アイドルの考えを常に尊重してくれている。例え事務所の観点から良いと思える仕事を取ってきても、勝手に決めることはない。しっかりと話し合い、アイドルたちの意志を確認する。大切にされていると思う。愛されていると思う。
     紡が抱えている台本には、すでに大量の付箋が貼られていた。夜通しチェックをしたのか、紡の目の下にはうっすらとクマができている。そのうえで陸に演じてほしいと言った。
     それに信頼のおけるマネージャーが勧めているのだ。きっとこの役は陸にぴったりなのだろう。話題になればアイドルを知らない人に、七瀬陸というアイドルを知ってもらえる。IDOLiSH7の名前がさらに広く知れ渡るのだ。
     これからもIDOLiSH7で歌っていくために。IDOLiSH7を好きでいてくれる人たちのために。
     隣にいる一織を見つめると首を縦に振る。そうして覚悟が決まった。
    「一織、マネージャー。オレ、やるよ。やってみたい!」
    「ありがとうございます! 陸さんの演技すごく楽しみです」
    「本読みくらいは手伝いますよ」
     台本を陸に手渡した紡はスマートフォンを取り出した。すぐに監督に伝えてきます、と興奮した様子で離れていく細い背中を見送ってから小さな息をついた。
    「大丈夫です」
    「え?」
    「七瀬さんの不安は必ず私が解消します」
    「っ、あはは!」
     真顔で言った一織に思わず笑ってしまった。一織は陸の心にある不安の理由を知らないのに、平然と言ってのける。だけど一織ならば、本当に陸の不安を解消するのだろう。
     一織の言葉はいつだって陸を期待させる。信じさせてくれる。
    「頑張って一織!」
    「頑張るのはあなたでしょ」
    「そうだけど、一織も頑張るんだよ」
     台本をぎゅっと抱き込んだまま顔を覗き込むと、目を逸らされる。「一緒に頑張ってくれないの?」とどことなく切なげな声が出て、隣から怪しげな咳払いが聞こえた。
     


    『君のことが好きな俺の前で、泣かないで』
     今にも泣きだしそうな女の子をそっと壁に押しやって、顔の横に手を置く。周りに彼女の涙が見えないように。彼女に片想いしている男の子は困ったような顔を浮かべる。
    『抱きしめたくなっちゃうから』

     原作である少女漫画を読み進めていた陸は一人赤面した。
    (これをオレがするの)
     屋上で主人公の女の子は涙を浮かべていた。片思いの相手が別の子と仲良さげな光景を目にしてしまい、自分が嫉妬をしていることを自覚し、相手のことを信じられない悲しさから泣いてしまうのだ。主人公を見守ってきた幼なじみ──陸が演じるキャラクターが彼女を壁際に囲い、泣かないでと慰める。
     主人公にとってはただの幼馴染ではある。だがその幼馴染に壁ドンされて思わずときめいてしまいというような、少し、いや陸からすればかなり甘いシーンだった。
    「……君のことが好きなオレの前で、泣かないで」
    「別に俺泣いてないけど」
    「うわっ! 環!?」
     いつの間に戻ってきたのだろうか。制服姿の環は陸の手にある漫画をちらりと一瞥した。
    「あれ、髪くくってるんだ。珍しいな」
    「今日調理実習あったから。りっくん、それ今度やるドラマの?」
    「うん、そう。オレは主人公の幼馴染役なんだ」
    「今うちのクラスでもそれ流行ってる」
    「そうなんだ」
     おそらく環の言葉に深い意味はなかったはずだ。だがそれはプレッシャーとして、小さな棘に形を変え陸の胸に刺さった。
     自分はきちんと女の子をときめかせることができるのか。見てる人が思わず応援したくなるような、切ない恋心を表現することはできるのだろうか。
     ふとあることを思いつく。主人公の女の子はどういう気持ちになるのだろうかと。相手側の心理が理解できたのなら、演じ方もわかるはずだ。
     ぱらぱらと漫画を捲っている環を一瞥する。どうせなら現役の高校生である環に演じてもらおう。
    「環、ちょっとこれやってほしいんだけど」
     自分が読んでいたページを大きく開き見せる。渋るかと思いきや、陸の予想を超えて環はあっさりと頷いた。
    「壁じゃなくて、ソファの上でいい?」
    「いいよ。どんな感じか知りたいだけだから」
    「わかった」
     大きな身体が勢いよくソファに倒れ込んだ。手足を投げ出した環の姿は相方の壮五が目にすれば、すぐに叱るであろうだらしない恰好だ。だが不思議と色気を感じる。元々緩かったネクタイを緩めると、浮き出た鎖骨が襟元から覗いている。髪を一つに括っているため普段は隠れている長い首のラインが見えて、少しだけどきっとした。
    「りっくんきて」
     腹を見せて手招きする環はまるで日向ぼっこ中の大きな猫だ。陸は思わず安堵の息をついた。
    「待って環、そっちじゃないよ」
    「んあ?」
    「環にやってもらいたいのは、幼馴染の男の子役。オレが主人公の女の子やるから」
     漫画をテーブルに置き入れ替わりにソファへと寝転がる。その間に環は漫画を手に取り、該当のページを開いて台詞の確認をした。
    「一応覚えた」
    「じゃあ、お願いします」
     ゆっくりと大きな身体が覆いかぶさってくる。予告せずのしかかってくることはないだろうが、身動きできない体勢は少し怖いように思えた。
    「たんま」
    「どうしたの」
     ゆっくりと顔が近づいてくる。が、何故か突然ストップがかかった。ぴたりと動きを止めた環は鋭さのある淡い瞳を揺らして、バツの悪そうな子どものような顔をしている。
    「あのさ、……りっくんは泣くの?」
    「泣かないけど。あ、でも泣こうと思ったら泣けるよ!」
    「いいって! ぜったい泣くなよりっくん」
     俺りっくんが泣くの、なんかやだから。
     頬はかすかに赤みを帯びている。嬉しくなって環の頭を撫でた。やめろぉ、と唸りつつも陸の手を振り払わないところが年下らしくてかわいい。
    (一織にもこれくらい可愛げがあれば)
     そもそも陸が一織の頭を撫でる状況は存在しないのだが。せいぜい「一織かわいい」と一方的に抱き着くくらいか。
    「りっくん、いおりんのこと考えてんの?」
    「ふへっ!? な、なんで」
    「なんとなくそう思った」
    「環、エスパーみたい」
     真っ直ぐに向けられた瞳に少しだけ気恥ずかしさを覚え、冗談交じりの言葉でその場を濁す。探るようなものではないが、見透かされたくなくて敢えて明るい声で演技の始まりを告げた。
     ふっと薄い唇から吐息がこぼれ、二人を取り巻く空気が形を変えた。わずかに目を細めて切なげな色を浮かべた環は陸の瞳を覗き込む。迷うように唇が小さく開いては閉じて、ため息をつく。
    「……キミのことが好きな俺の前で、泣くなよ」
    「ないて、ないよ」
     強がると環の表情は苦しげなものを隠そうするように、笑みを重ねる。
     骨ばった指が目尻をそっと撫でた。まるで本当に零れそうな涙を掬うように。
    「抱きしめたい」
     あと少しだけ手を伸ばせば簡単にかき抱くことができるのに、環はそれをしない。ぎゅっと握りこぶしを作る左手が何だか悲しそうに見えた。
     肩口に顔が埋められる。泣いているのはこちらなのに、何故か彼の方が泣いているように見えた。
     ふとようやく相手も同じ立場なのだと気が付いた。主人公の恋は成就しているが、不安を抱えている。一方的に想っていた頃と同じだ。そして幼馴染は失恋しながらも、まだ諦めきれずに主人公を支えている。
     切なくて胸が痛い。だけどそれは甘い疼きに似た痛みではない。
     顔を上げた環の目尻は少し赤くなっていた。すん、と鼻を啜る音につられそうになる。左手の握りこぶしをほどいてまた軽く握ってはを繰り返し、その行動は戸惑いのように思えた。そうしてその手はゆっくりと陸の頬へと伸びてきて────触れる寸前に別の誰かの手が視界に入った。

    「……四葉さん」
     さらりと頬へと滑る美しい黒髪を認めたとき、ぶわりと肌が粟立った。眇めた一織の瞳は冷え冷えとしており、陸は恐怖のあまり固まった。
    「なに」
    「それはこちらの台詞ですけど」
    「今度りっくんがやるドラマの演技。これでいい?」
    「よくありません」
     こんな凍えた空気の中で会話ができるものだ。半分感心しながら半分恐怖で固まりながら、陸はそんなことを思った。
     肩を竦めて環は陸の上から退く。続けて陸も上体を起こそうと腹筋に力を入れたが、その前に一織に手を掴まれた。強い力で引っ張られて、一織の肩に顔が激突した。
     鼻筋が太い骨にぶつかってずきりと痛むのに、カッターシャツからは一織の匂いがして、凍りついた心臓はほんの少しだけ落ち着く。
    「っう~!! 鼻折れたかも……」
    「見せてください」
    「だ、大丈夫だからっ」
     ごくまれに浮かべることがあるあの冷たい目で見られるのは嫌だった。痛いところを覆うように、顔全体を手のひらで隠す。
    「本当に大丈夫なんですか?」
    「……うん」
    「ちょっと泣いてません?」
    「泣いてないよ!」
     泣いていないことを証明しようとぱっと手のひらを外せば、すぐ近くに一織の顔があった。ひえっと思わず洩れた声に一織は顔を顰める。
    「ち、近い!!」
    「四葉さんとの方が近かったでしょ」
    「そういう問題じゃないよ!」
     環も何か言ってやって。そんな気持ちで辺りを見渡したが、頼りたい相手はすでにこの場から立ち去っていた。あざやかな逃亡だった。
     身一つで宇宙空間にいきなり放り出されたような心許ない気分になる。気まずさから自室に逃げようと考えた瞬間、心を読まれたかのように一織に腕を掴まれた。
    「な、なに?」
    「演技に不安があるんですか?」
     真面目な顔で問われて、おそるおそる頷く。
    「恋愛ものって初めてだし、……まあ片想いだけど」
     まだ新人だった頃に七人で演じたドラマ『アイナナ学園』では、家庭科教師に憧れに似た感情を抱いている役を演じた。相手は三月であり、また恋愛感情に軸を置いているわけでもなかった。女優相手の演技は今回が初めてだ。
     そもそも女の子に積極的にいくことも得意ではない。不安になっても仕方がないことだった。
    「では練習しましょうか」
    「へ?」
     腕を掴まれていたのにいつの間にか一織の手は陸の手首を握っていた。直接触れる温度に気が付いてしまい、妙な心地になる。涼しげな顔立ちの通り一織の体温はひんやりとしているのに、何故か不思議と熱い。
    「言ったでしょ。あなたの不安は必ず私が解消します、と」
    「練習、って何するの」
     愚問だとわかっているのに、陸は確認するかのように訊いてしまった。ふっと表情を緩めた一織は灰色の双眸を眇める。
    「あなたが四葉さんとしていたようなことですよ」


     連れ立って共有スペースから一織の部屋に移動する。陸にとって一織は慣れた相手のはずなのに、心臓はどくどくと激しい音を立てている。顔が熱くて、掴まれた手も火傷してしまう。そんな激しい熱を感じる。
     一織の部屋に足を踏み入れ、扉の閉まる音が鼓膜内に響いた。
    「いおりっ!」
     扉に身体を押し付けられる。身長差はたった一センチ。視線が交わり合い、淡い光彩は微かに揺れていることを知る。
     さらりとした一織の前髪が陸の頬にかかった。くすぐったさに思わず目を瞑ると、すっと頬を撫でる感触。びくりと肩を跳ね上げると笑ったような吐息が聞こえた。続いてくすぐったいものが去っていく。
    「目を開けてください」
    「……っ、あ」
     身体中に小さな電撃が走った。どろどろと煮詰めた甘さが涼しげな瞳に浮かんでいた。それはまるであなたが好きです、と言われているようだった。
     ぶわりとすべての産毛が逆立つ。興奮からか胸があまく疼いた。
    「いお、り?」
     名前を呼べば形のいい眉がぐっと歪む。瞳の奥に浮かんでいた甘さは切ない色へと変えて、愛しげな顔は苦しげなものとなる。涙を堪えようとする一織に腕を伸ばして、強く抱きしめてやりたくなる。
     オレもそうなのだと言ってしまいたかった。内側に眠っていた熱がゆっくりとせり上がってくる。
     次第に熱は変化する。遅効性の毒のようにじわじわと全身に広がって陸の身体を蝕む。熱くてたまらない。だがそれが心地良いと思う。
     目頭があつい。視界が霞み、鼻の奥がつーんと傷む。これらはすべて一織の感情に引っ張られているのだろうか。それとも元来持ち合わせていた陸の感情なのか。
     一織の体温に触れた陸はのぼせ上がっていた。たった少し前の一織の言葉すら忘れてしまっていた。

    「あなたのことが好きな私の前で、泣かないでください」
     興奮は一瞬で冷めて、唐突に現実へと戻される。それは何度も頭の中で反芻した台詞だった。同時にどうして一織がこんなに近くにいるのか、わからなくなった。
    「抱きしめていいですか」
     一織の言葉に疑問符はついていない。何こちらへと伸びてくる一織の手がスローモーションで映っている。
     ──抱きしめられる。
     理解した瞬間ぶわりと皮膚が粟立つ。
    (いやだっ!)
     すぐ近くで乾いた音が聞こえた。
    「あ、れ……?」
     目の前で一織が驚いた顔をしていた。一織の手は二人の間で止まり、手のひらにじんとした痛みが走っている。ぴりぴりと肌が痺れた。
     叩き落したのか、自分の手が。
     信じられなかった。だけど手の痛みが、一織の表情が、それは事実なのだと突き付けている。
     心臓が嫌な音を立てている。気持ち悪さに襲われる。がくがくと足が震えた。
     自分は一体なんてことをしてしまったのだろうか。細い糸が首に巻き付いて、じわじわと喉を締め付けていく。それは次第に人の手へと変わり力は強められ、陸を苦しめる。
    「っ、オレ、え、? い、一織っ、ごめんっ……!」
    「落ち着いてください。ゆっくり呼吸して」
     焦った一織の声を聞きながら、意識して呼吸を繰り返す。吸って吐いて、心を落ち着かせながら、自分に触れてこない一織に苛立ってしまう。いつもなら少し大きな手は背中をさすってくれるのに、それがない。叩き落したのは自分なのに、なんて虫がいい話なんだろうか。
    (触ってほしい)
    「っは、はあっ、いおっ、ふっ」
    「喋らないで」
    「っは……せなか、なで、て」
    「……はい」
     大きな手のひらは陸の背中に触れる。たったそれだけの接触で胸が疼いた。触れたところから熱が生まれて、あやすように、宥めるように撫でる手がくすぐったくて、嬉しい。
    (一織に撫でられると、安心する)
     発作が起こりそうなとき、発作が起きたときも近くにいればすぐに一織は駆け寄ってくる。慣れたように陸の背に手を置いて、落ち着かせるようにゆっくりと声をかけてくれる。治まってもすぐに離さない、一織の手が好きだ。
     やさしく触れる手に安堵しながら、何故一織に撫でられて嬉しいのかを考えた。そうすると先ほど一織の手を叩き落した理由にも辿り着いた。
    (オレ、嫌だったんだ。演技だったことが)
     あの言葉が、あの表情が、すべて演技であったことが悲しかった。とてつもない力で感情を引っ張られて、あの瞬間一織のことが好きだと気が付いた。そして一織もまた自分を想っている。直感的にそう思ったのに、すべて演技だった。
     天国だと思っていたところから地獄へと落とされる衝撃は、気持ちは、きっとあのような苦しみなのだろう。
    (好きだから、嫌だったんだ)
     ぽろぽろと涙がこぼれた。
     覚えたての恋はただただ苦い。だけど胸の奥にわずかな甘さはある。それは今泣いている陸をあやす一織の手のやさしさに似ている。直接な熱ではなくて、間接的なあたたかさ。
     ひどく拒絶したのに、一織は陸の背を撫でてくれている。陸は一織の不器用でわかりにくい、やさしさが大好きなのだと知った。ようやく気が付いた。
    「ふふっ」
    「七瀬さん?」
     驚きと心配を混ぜ合わせた一織に覗き込まれる。先ほどまでの艶やかな大人の表情とは打って変わり、幼げな瞳の色がかわいく思えた。
     その顔も好き。仏頂面も、呆れ顔も、長々とお説教する顔も好き。陸をスーパースターにするのだと宣言したときの顔も好き。
    (一織が好き)
     一織にならコントロールされてもいいと思った。そう思ったのは決して信頼だけではない。約束を交わしたあの日から一織のすべてが好きだからこそ傲慢な願いすら許せた。
     まだ陸の瞳からは止まることのない涙が流れている。だけど自覚した苦くて甘い想いに心をくすぐられて、陸は笑った。
    「変なの」
    「何がですか?」
     手を伸ばして、一織の頬を包み込む。触れた指先は僅かに湿っているのに、一織は気にすることなく陸の瞳を見つめている。少し笑っているように見えるのは、視界がぼやけているからだろうか。
    「どうしてそんな顔するの。悲しいのはオレなのに、どうしておまえが泣きそうなんだよ」
     ドラマの台詞を口にすると灰色の双眸が瞬いた。見る見るうちに額に皺を寄せ、笑っていた一織からいつもの仏頂面の一織に戻る。
    「……それは」
    「それは?」
     ドラマであれば「君が好きだから」と続く台詞だ。一織は苦い顔を浮かべて、口を開いた。
    「言わなくてもわかるでしょ」
     一織らしい言葉に陸の唇は笑みを描く。
    「わからないって言ったら教えてくれる?」
    「練習だからです」
     冷めた顔で一織は淡々と言った。
     そう、これは練習だった。陸の不安を解消させるためのものだ。
    「……わかってるよ」
     釘を刺された。夢の時間は終わりを迎え、現実へと引き戻される。
     甘い気持ちは続かない。作り笑いを浮かべて陸は次の台詞を口にした。


    「君を好きになれたら良かったのかな」
    (好きじゃなかったら、良かったのに)


     この日を境に陸は一織に触れなくなってしまった。


     恋を自覚した日から、陸は一織に触れることができなくなった。物理的に触れられないのではなく、正しく言うならば、触れると陸が挙動不審になると言うべきか。
     和泉一織という人間に指先が触れるだけでも小さな電流が流れて、頬に熱を持つ。心臓はどきどきと早鐘を打つ。
     今までどうやって話していたんだろうか。
     自分のことだ。おそらく何も考えず喜びや興奮といった感情のまま、一織に抱き着いていたことだろう。思い出してしまい顔から火が出そうになった。
    (せめて前みたいに、触れるようにならないとダメだ)
     カメラが回っていればどうにかIDOLiSH7の七瀬陸として振舞うことが可能だ。しかしカメラがないところでは奥手になってしまう。
     陸は和泉一織にだけ奥手なのだ。
     突然おかしくなった陸に一織はあの日の演技の練習が原因だと思っているようだった。日常生活にも支障が出からと、演技の練習だけではなく、自然なやり取りができるように手伝ってくれている。
     一織はスパルタだが概ね優しい。日中皆に気づかれないように振舞って、触れるための練習は夜だけ。それはすべて一織の部屋で行われる。
    (このドラマの撮影が終わるまでには、治さないとな)
     一織が協力してくれる間に、終わらせなくてはいけない。


        『七瀬陸は拒絶する』


     スケジュールアプリを開き予定を確認した陸は大きなため息をついた。 
     今日の夜も一織と過ごす予定だ。元々は恋愛ドラマに不慣れな陸のための演技練習だったが、今では一織に触れるための練習に変わっている。
    (まだどきどきするけど……でも前みたいに触れるようになってる)
     練習の甲斐あって、少しずつではあるが以前のように接することができつつある。手を握られても真っ赤になることはなくなり──まだほんのり頬が赤くなるのは仕方ないとしても──隣に座ったときの距離も前よりも近くなった。
     抱きしめるというように密着する行為は、多分予告されれば問題ないだろう。
     それに、と自分の手を見つめる。手を繋ぐまでとはいかないが触れられての過剰反応は少しずつ減っている。ホットミルクが入ったマグカップを渡されるときや、交換日記用のノートを受け取るときのささやかな接触。むしろ最近は自ら小指を絡めて繋ぐことができるようになっていた。
    「……もっと触りたい」
     中途半端に慣れてしまったせいか、ここ最近では一織不足に陥っている。心では恋を終わらせないといけないと思っているのに、身体はもっと一織に触れたいと思う。
     ひんやりとした温度が心地良くて好き。触れているときに、やさしい顔をしているのが嬉しい。真っ赤な顔を覗き込こまれて、僅かに口角を上げている一織を見るのも実は嫌ではない。一織のことが好きだからだ。好きだから触れたくて、欲張りになってしまう。
    「嫌だな……」
     はなから期待はしてない。恋焦がれているのは自分だけで、一織は陸のことは仲間としか思っていない。優しいのも協力的なのもすべてドラマの成功のため。だから決して期待などしてはいけないのだ。
    「やさしくしないで」
     これ以上好きにさせないで。
     一織から預かったテディベアをぎゅっと抱きしめる。ふわふわと手触りのいい感触に落ち着いたかと思いきや、微かに漂う一織の匂いに胸がざわついた。



     複雑な心情は解決することなく、手掛かりすらもないままで一織と過ごす時間になった。テディベアを連れて扉の前に立つ。ノックをするか、しないかでぐるぐると迷っていたら扉が開いた。
    「どうしたんですか」
    「一織はエスパーだった……?」
    「何言っているんですか。先ほどからずっと足音が聞こえていたんですよ」
     私の部屋の前でうろうろしてたんでしょ。
     正解を突き付けられ、さらには行動を示唆するように指を左右に振られて、陸は顔を赤らめた。
    「突っ立てないで早く入ってください」
    「うん」
     促されようやく一織の自室に足を踏み入れた。
     いつもの定位置、黒いラグの上に座ると一織も陸に倣う。間に抱いていたテディベアを置くと怪訝な顔を向けられた。視線を逸らしながら、ふわふわした両手を握りゆっくりと動かす。
    「いおりくん、こんばんは。ボクはくまのそらくんだよ」
     まるでおままごとだと思う。だが陸ではなくて、テディベアのそらを介せば自然にやり取りができるような気がした。
    「いつ名前をつけたんですか」
    「初めて対面したときだよ」
     脇の下に手を入れて顔の高さまで持ち上げる。そのまま一織の顔へと近づけると、こほんとわざとらしい咳払いが聞こえた。
    「かわっ……。いえ、こんばんは。さっそくで申し訳ないのですが、七瀬さんの膝の上に座っていただけますか?」
    「ええっ……」
     かわいいもの好きの一織は決してテディベアを押しのけることはしない。代わりににっこりと笑顔を浮かべて、陸に圧をかけてくる。ふわふわの頭の上に顎を乗せて陸とそら、四つの瞳で抵抗してみれば、一織の頬が微かに淡く色づいた。
     珍しい。口元を綻ばせて、なまあたたかい視線を送っていれば、一織の手のひらがぺたりと陸の頬に張り付いた。いつもとは違うほのかにあたたかい体温に身が竦む。
    「っ!? い、いおりっ!」
    「ほら、練習しますよ」
     手が滑り落下するそらを受け止めた一織は陸の膝の上、というよりもお腹寄りに乗せた。一体のテディベア分、開いていた距離は詰められてもう逃げ場はない。もう少しだけ近づけば、肌がぴたりとくっついてしまう。すんと鼻を鳴らせば、嗅ぎ慣れているミルク石鹸のにおいがした。
    「わ、わっ、わかったから、手離して……」
     涙が出てきそうだ。よく見ればさらりとした黒髪はつやつやと輝いている。一織のことだ。乾かしてはいるのだろうけど、全体的にしっとりとしていた。
     風呂上がりの一織はきれいで変に色気があって、別人みたいに思えて怖くなる。
     顔を覗き込まれて、視界全体に一織が映った。烏の濡れ羽色に照明の光が差したところだけ緑や紫に見える。灰色の双眸は赤を吸い取ったように、奥の方で燃えていた。
     見られている。恥ずかしい顔も、みっともない顔も、泣きそうになっているのもきっとバレてしまう。このままでは、見透かされてしまう。
    「七瀬さん?」
    「も、やだぁっ」
     ぎゅっと目を瞑る。そうすればますます一織の温度が近くにあるように感じて、逆上せそうだった。いや、もう手遅れだ。頭がくらくらしている。ものすごく、あつい。
     ため息とともに名前を呼ばれて、いやいやと首を横に振る。
    「おかしくなるから、やだ」
     しっかりと呼吸はできている。どきどきと心臓は激しく胸を叩いているが、もう突き破るほどではない。だが頭は逆上せあがり、口にしていけない言葉を喉から外へと出してしまいそうだ。
     頬に触れた手を掴む。震えている手で握り、確実に真っ赤になっているであろう自分の頬から遠ざけた。
    「一織が触るの、だめ……」
    「では七瀬さん、できるんですか」
    「で、できるよ」
     緊張で湿った手を離したい、でも、一織から伝わる温度が心地よくもある。
     女性のものとは違うかたい手の感触。陸よりも数センチ長い指。季節に関係なくケアしているからか、しっとりと滑らかな皮膚。ひんやりしていないのに、むしろ熱いくらいの体温なのに、このままずっと触れていたい。掴んでいた手を解いて、手の甲からそろっと指を差し込む。強く絡ませて、指の腹が一織の手のひらに触れたと同時に閉じた瞳を開いて、緊張の息を吐き出した。
    「ほら、できたよ」
    「よくできましたね」
    「っ、ん……」
     一織の指が労わるように陸の爪をなぞる。メイクの人にマニキュアを施されるときには何も感じないのに、一織に触られるとぴりっと甘い痺れが走る。左手の薬指をやさしく撫でられ、ぞくぞくとしたものが駆け抜けた陸は一織を見た。

     縋るように切ない顔を向けていることを知らずに。

     瞳に熱がうつる。それが何なのか見極めようとすると、すっと逸らされた。
    「一織……?」
    「……時間ですね」
     蒸散したかのように、手の中にあった熱は消え失せた。絡み合った手はいつの間にか解かれて、一織の体温を残したまま陸の手は柔らかなラグに取り残されている。ほんの一瞬だけ一織は苦い顔を浮かべ、すぐに普段通りの涼しい表情を取り戻した。
    「一織?」
    「七瀬さんは明日ソロ曲の収録ですし、私は学校がありますからもう休みましょう」
     申し訳なさそうに眉を下げた一織は陸に問い詰める隙を与えない。気が付けば陸の上からころりと転がっていたであろう、そらを抱いて陸に渡す。突然の一織の態度に困惑している陸の手を掴み立ち上がらせて、扉まで誘導した。
    「おやすみなさい」
    「……おやすみ」
     言葉も表情も優しかったが、追い出されたように感じた。消化不良のようなぐるぐるとした気持ち悪さだけが陸の中に残った。
     

     自室に戻り、テーブルの上に置いていた青いノートの表紙を撫でながら陸はため息をついた。
     学習用に使うそれは見ただけでは、交換日記だとわからないだろう。しかしページを開けば、すぐ一織の綺麗な文字を目にすることができる。
     ささやかな小言から陸を励ます言葉たち。陸に宛てた言葉は一ページ丸々すべて文字で埋まっている。
     飾り気のないページの最後には一行を開けて、陸の好きなところが書かれていた。

    『七瀬さんの歌声が、おそらく世界中の誰よりも私が一番に好きです』
     センターに復帰したライブで初めて披露した新曲のRESTART POiNTER。MCで彼が口にした言葉はひどく情熱的だった。抑えきれない興奮を隣で必死に押し殺しながらも、喜びが溢れていた。
     嘘偽りない一織の思いを耳にした瞬間陸の不安は消え去った。

     一織は一体どんな顔をしてペンを握ったのだろうか。
    (口元を押さえて照れながら? こほんと咳払いして? 額に皺寄せながら? それとも真顔で書いたのかな)
     どんな表情で書いたとしても字に誠実さが現れている。嘘偽りない言葉だからこそ、目にするたび胸が熱くなる。
     一織の文字を指でなぞる。黒鉛で汚れることも厭わず、何度も何度も繰り返す。
    「好き……好きだよ一織」
     好きを重ねればさらに想いが深くなる。どうしようもなく恋焦がれて、浮かれて、やがて苦しくなる。
     それでも喉元に引っ掛かったままにはできなくて、陸は一織からの好きを受け取るたび吐き出す。不必要な言葉を、想いを宙に浮かべて、とかすために。
     そうしてとかすというのに、新しいページには一織への想いを綴るのだ。矛盾していると思う。ペンを握った自分に苦笑する。
     やっぱり書けないよ、と一織に言えばやめることもできるだろう。やめないのは、一織からの好きが欲しいから。例え一時的なものでも、好きな人からの言葉は嬉しいのだ。
     自分に言い聞かせるように思いこむ。一織からの本当の言葉が欲しいのだと、心の裡で思っていても。
    (一織がオレを好きになってくれたら……)
     叶わないとわかっていても願ってしまう。欲深い自分に呆れながら、まっさらなページを開いた。


     
     今晩もまた一織の自室を訪れれば、ごく自然に迎えられた。前回陸を追い立てるように帰したことは、気にしているように見えない。
     自ら手を繋げたのだから、今日こそは抱き着くことができるだろうか。以前のようにじゃれて飛びつけるような、気の置けない仲間同士のやりとりを身体や心は思い出せるだろうか。
     胸の前で手を握りしめて意気込む。一織をぎゅっと抱きしめるという、ものすごく高い目標を掲げて。
     

    「ううううっ……無理でした」
    「七瀬さんにしては頑張った方じゃないですか」
     とまあ意気込んだものの結果は散々で、かろうじて手を繋げたといったところか。そして年下に慰められるのもいろいろと複雑だった。
    「悔しい」
    「ドラマではきちんと演技できているでしょう? 先週のあなたの演技とても良かったですよ」
     ふわりと微笑みかけられて、陸は膨らませていた頬の空気を抜いた。
    「忙しいって言ってたのに、一織ちゃんと見てくれてたんだ」
    「後学のためです」
     ふにゃりと笑うと、目を逸らされた。いつもなら照れているんだろうなと思うのだが、この間のこともある。避けられているのではないか、と陸は疑いの眼差しを送る。
    「……なんですか」
    「別に」
    「別にという顔じゃないでしょ」
    (可笑しいのは一織の方じゃないか)
     嬉しかった気持ちは一気にしぼんでしまった。顔を逸らせば、ひくりと一織の口角が引き攣った。
    「七瀬さん、こちらを向いてください」
    「やだ。今は一織の顔見たくない」
     近づいてくる気配を感じて、一歩下がる。そうすると一織の足もまた一歩、陸の方へと踏み出される。一織の部屋は整理整頓が行き届いており、陸の部屋よりもずっと広く見えるがそれでも間取りは同じだ。数歩下がればすぐに逃げ道はなくなる。それでも一織が迫ってくるので逃げることしかできず、後ろ足で下がっていたせいで、足元にあるクッションを踵に引っ掛けてしまった。
    「え」
     平常であればやわらかいクッションを足に引っ掛けたところで、転倒することはない。だがこの時ばかりは焦りと一織への不満で心は埋め尽くされていた。反応が追い付かない。
    (落ちるっ!)
     背を庇うことはできない。せめてあまり痛くないことを祈りながら陸はぎゅっと目を閉じた。身体が床にぶつかる音が聞こえる。しかしつまで経っても痛みは訪れない。
     代わりに手触りのいいラグとは違うあたたかいものに触れている。妙に固い気がするが、その温度が心地よくて安心すら覚える。
     陸を包み込むように漂っているにおいを吸い込むと、全身に幸福が巡っていく。それは力が漲ると似ていて、本質は違う。そのにおいだけで緊張が解け、今まで感じていた負の感情が昇華される。
     生物が命を紡いでいる心臓の音は、自分の方から聞こえているのだろうか。とくとくと穏やかな音から、少しだけ生々しさを感じる強い鼓動へと変化した。
    「大丈夫ですか? 七瀬さん」
     少し低く囁かれた自分の名前を呼ぶ声は、陸がこの世で一番好きな人のものだ。陸よりも少しだけ大きな手が髪を梳く。長い指が耳に触れられて、びりっと甘く疼いた。
     指先を伸ばして、そっと触れてみる。意外と厚い胸、すっきりとした首のライン。シャープな顔の輪郭をなぞり、形すらもきれいであることを知った。骨ですらきっと完璧に組み込まれているのだろう。
     不意に一織の顔が見たくなってゆっくりと顔を上げる。冷たい印象を与える灰の双眸は煌々たる輝きを灯していた。
     小さな唇がやわらかな弧を描く。見るものによっては穏やかな笑みに見えるそれは、陸にとってはひどくあまさを感じる、愛おしいをつめた微笑みだった。
     うなじからびりびりと痺れが走る。胸が疼く。一織が浮かべた感情にたまらなくなって、首に縋りつくように腕を回した。
     ぎゅっと抱きしめて顔を埋めて鼻を鳴らすと、さらにいい匂いがした。酩酊感を味わい、くらくらとした頭で思うのは、この瞬間がとても幸福であるという事実だ。
    「一織……」
     どうしたらいいのだろうか。一織とはこういったことをする仲ではなく、仲間で相方で片想いの相手だ。むしろ元の関係性に戻れるように、協力してもらっているのに。
     離れなくてはと思う。だけど、陸の身体はいうことを聞かない。ただただ離れがたい。
    (好き、好き……一織が好き、大好きだよ)
     触れてしまえば心はいとも容易く一織への好きで埋め尽くされる。嬉しいのに泣きたくなって、自分の心をコントロールできず振り回されている。いっそこの心ごと一織にコントロールしてもらいたいけれど、そうすればこの想いがバレてしまう。正しい最善が思いつかない。
     縋るような視線を一織に向けると、甘く笑っていた一織の表情が変化した。
     緩やかな熾火から燃え上がる炎のように。力強い手で陸の身体を引っ張り上げて、胸同士がくっつき合うほど密着する。どくどくと跳ね上がる心臓が服越しに薄い胸を叩いた。甘さを煮詰めた瞳は獰猛な色を浮かび上がらせる。
    「七瀬さん」
    「っ、あ……」
     吐息が唇を掠める。ぞくりとした感触に思わず声を洩らせば、眇めた瞳が近づいてきた。その奥に見え隠れした熱に射抜かれて、小さな痺れが背筋へと駆け抜ける。身体の自由が利かない。
     原作の漫画で見たことのある光景だった。両想いになった主人公と相手が見つめ合って、ゆっくりと唇が重なっていくシーン。初めて目にしたときは妙な気恥ずかしさと、羨ましさがあった。
     一織といつかは、なんて。そんな未来は来るはずないことを陸は知っている。他の誰よりも一番近くにいるという自信はあっても、一織の恋愛対象にはならない。相棒ではあるけど、恋人ではない。甘酸っぱい夢を見る期間はとうに過ぎて、取り残されているのは切ない想いだけだ。
    (だったら、今だけでも)
     たった一度だけ。本気で好きな相手との口づけを望むのは悪いことだろうか。小さな唇の感触が知りたい。温度に触れたい。皮肉を口にする素直じゃない唇でどんなキスをするのか教えてほしい。
     たった一度のキスを忘れずに覚えて、誰にも見えないところへと大事に仕舞って、命の終わりが来るまで抱えていたい。
    (一織が好き)
     夢から覚めて現実に戻った時、一織が何か言う前に、陸は軽く笑って雰囲気に飲まれたのだと言い訳すればいい。
     このまま瞼を下ろして。あと少しだけ詰めよれば簡単に触れることができる。
     だけど──
    (でももしもこれで、一織に二度と触れることができなくなったら?)
     一織が嫌悪を覚えないなんて保証はない。

     ──仕事以外では私に近づかないでください。
     
     あの日見た冷たい眼差しを思い出す。
     陸が望んでいたとしても、一織は違うかもしれない。
     もし唇が触れて一織がそれを気持ち悪いと思ったら? 隠していた気持ちに気が付いて、拒絶されてしまったら?

     一度知ってしまったから、もう他人行儀な距離感では満足できない。一織の味を舌が覚えてしまったから、もう自分が作るホットミルクではないと一息つけない。一織の部屋に足を踏み入れない日はそわそわして一日が終わってしまう。
     一織の言葉がなければ、期待を含んだあの眼差しを向けられないと、陸はきっと歌えない。


     弱かった陸を認めてくれた、期待してくれた初めての相手をただの恋情で失っていいのか。


    「……練習ってここまでするの」
     一織はぴたりと動きを止める。自分の唇は震えているのに、飛び出した言葉は乾いていた。
    「すみません。雰囲気に飲まれてしまっていたようです」
    「大丈夫。オレもだよ」
     すっと引く熱にぐっと唇を引き締める。そうしなければこの場で泣いてしまいそうだった。
     涙は武器にもなるが、それを使って一織に縋るほど陸は強かではない。強かには生きられない。
    「オレ気にしてないから」
     一織の身体から退き、自ら手を差し出す。触れてももうびりっと痺れることはない。失った熱がさびしいだけだ。だけどそれを口にすることも許されない。
     座った状態で陸は一織に抱き着いた。わずかに震えてしまったが、いずれ震えなくなるだろう。
    「もう練習はお終いだね」
     ──ありがとう一織。
     ドラマの演技で培った、きれいな作り笑いを浮かべた陸はそう言って見せた。


     一織に自然に触れられるようになったので、あの夜を境に秘密の練習は終わった。恋愛ドラマの撮影もクランプアップに向けて慌ただしくなり、またIDOLiSH7の仕事量も一気に増えたことで忙しい。
    (疲れるけど……忙しい方が気が紛れて楽かも)
     追われる日々では一織のことを考える余裕はない。寮内でもすれ違うばかりで「おはよう」も「おやすみ」などの挨拶を交わすことすら不可能になっていた。
     しかし一織との交換日記は続いている。返信速度は下がったが、相変わらず一織の字は綺麗だ。乱れることなく、言葉だけでページすべて埋めている。最後の締めには必ず陸の好きな個所が書かれていた。

    『大きな瞳を潤ませながら縋ってくるときの表情』
    『見るものを幸せにする笑顔』
    『拗ねたらすぐに頬を膨らませるわかりやすいところ』
    『私の名前を呼ぶ声』

    「ばか一織……。勘違いしそうになるだろ……」
     その言葉たちを目にするとどうしてか脳内で甘い一織の声が響く。涼しげな瞳に熱を灯した一織の瞳が思い起こされる。足先から愉悦が駆け抜けて、身体は熱を持つ。動悸は次第に激しくなり、吐き出した息には欲情がこもっていた。じんと腰が重たくなる。
     まずいと思ったがすでに遅し。兆し始めたそこはゆったりとしたハーフパンツを押し上げていた。
    「……一織のばか」
     一織を罵ったところで生まれた熱は治まるはずもない。情けないため息を吐き出す。罪悪感とともに陸はそれに手を伸ばした。



        『奥手な七瀬陸』


    「ちょっと、陸くん表情硬いわ」
    「すみません」
     本日はIDOLiSH7全員でのフォト撮影だ。久々のグループでの仕事でもあり、現場は穏やかに進みかと思いきや難航していた。正しく言うならば一織との撮影だけだが。
     互いに背をぴたりと合わせてカメラにポーズを向ける、そう難しくないものだがどうしても陸の表情は硬くなってしまう。笑えていないわけではない。だがいつもと比べると、口角が引き攣ってしまっていた。
    「すみません。一度休憩いいですか」
    「ええ。どうぞ」
     カメラマンの女性に許可を取った一織はすぐに陸の元に戻る。腕を掴まれて、メンバーが待機しているところにではなく撮影所の扉へと向かう。何も言うこともなく、スタジオの外に連れ出された。
     一織の足はだんだん人気のない場所へと進んでいる。
     お説教だろうか。表情を曇らせた陸に一織は掴んでいた手を離して振り返る。
    「もしかして、この間のことを気にしてるんですか?」 
     直球な問いかけに陸は俯き一織から目を逸らす。
    「気になんかしてないよ」
    「ではどうして先程から私の目を見ないんですか」
    「それは、まだ気まずいだけだから」
     具体的な言葉で示す代わりに指で唇を押さえる。察しのいい一織のことだ。それだけで意味が通じるだろう。
    「では、本当にしますか」
     低い声にゆっくりと顔を上げる。無表情を張り付けたような一織に陸は震える唇をそっと開いた。
    「……なに、を」
    「キスですよ」
     ただの練習です。
     一織の言っている言葉の意味がわからなかった。冗談だよなと茶化すことは許されず、真剣な眼差しに気圧される。
    「練習でするなんて嫌だよ……」
    「このままだと辛いのはあなたの方でしょう」
     まるで陸だけが意識しているような言い方に、かっと頬が熱くなる。確かに一織の言葉は間違っていない。
     一織を意識しすぎて、仕事がまともにできなくなったことは辛い。だけど、それを提案することに対して可笑しいと思わない一織に苛立ちを感じてしまう。
    「私とセットの仕事がこなせなくなって、苦しむのは七瀬さんだ」
    「だからって、そんな理由で一織とキスするなんて嫌だ」
     始まりは演技練習だった。
     一織に近づきすぎて、自分の中に眠っていた恋心に気が付いた陸は奥手になった。そうしてようやくその奥手も解消されてきた。なのに、練習でキスしようだなんてひどい。

     仕事のためなら、冷静にキスをしようと提案する一織が恨めしい。

     だけど練習だとしても、一織に触れたいと思ってしまった自分が憎たらしかった。
     どんっと両手で一織の胸を押した。もう触れるんだよ、と伝えるように。拒絶しているのだと、示すように。
    「ちゃんとするから、だからもう言わないで……」
     一織の目を見て笑う。必死に強がってみせた陸は、一織に背を向け一人でスタジオへと戻った。



     一織に宣言したもののすぐには上手くいかず、一織とのぎくしゃくは続いていた。普通に笑いかけたり、さり気なく触れることはできるのだが、ふとした瞬間に陸が固まる。一織とのやりとりだけがぎこちないものになってしまい、他のメンバーから心配そうな視線を向けられた。そういうときほど一織は「今喧嘩をしてるんです」と真実味のある嘘をつき、メンバーは納得したように頷いていた。


     交換日記を手にした陸は一織の自室の前で立ち竦んでいた。一織と環は登校しており、不在であることを知っている。陸にはノックをせずに人の部屋を開ける癖があったが「まずはノックしてください」と一織に言われ続けたことで、ノックして入室することを覚えた。
     三回鳴らし、返事がないことに安堵しつつ扉のドアノブを掴みゆっくりと開いた。
     一織の部屋はいつでも整理整頓が行き届いている。床に物や服は置いていないし、机の上もすっきりとしている。毎日掃除をしているのか、髪の毛一本すら落ちてないのだから感心してしまう。
     行き来を許されているとは言え、不在の時に部屋の中をじろじろ見るのは失礼だろう。陸は急ぎ足で机の前に向かった。
    「え……?」
     何もないと思っていた一織の机の上には、綺麗に包装されている箱が置かれていた。青色のスプライトの包装紙に赤いリボンが十字に結ばれている。一織くんへ、と丸っこくかわいい字は女の子が書いた文字のようだ。傍にはシンプルな青色の封筒が添えられていた。
     これがファンの子からなのか、学校の子からなのかは正直なところ見分けがつかない。どういう意図で贈られたものか陸にはわからない。だけど心のこもった贈り物であることは理解できる。
     そのすぐ傍には一織が陸のために用意していたテディベア──そらがちょこんと座っている。
     プレゼントに寄り添う形で置いてあるぬいぐるみ。その組み合わせは本来であれば、思わず唇が綻んでしまうような微笑ましいものだった。
     綻ぶはずだった唇は小刻みに震えた。目の奥が熱くなり、陸はぐしゃりと顔を歪めた。


    (絶対オレの方が──)

    「好きなのに……!!」

     思わず零れた本音とともに涙の粒がノートの表紙を濡らした。ぽつりと降り始めた雨がアスファルトの色を変えるように、色濃いものとなる。
     認めてしまえば、容易く溢れ出す。しゃくり上げながら、陸は自分の顔を覆った。
    (絶対オレの方が一織を好きなのに)
     このプレゼントの相手よりも一織の近くにいるのは自分だ。なのにどうして苦しまなくてはいけないのか。
    (オレの好きなところいっぱい書いてくれているのに) 
     他の文章よりも力強い筆記で表した『好き』の文章に陸自身が目を逸らしていた。
     だって、それだけじゃ安心できなかったから。
    (好きだって言えたら、何か変わっていた?)
     この部屋で行われた練習からいつも陸は逃げていた。一織に迫られたときからずっと、後ろ足で下がっていた。
    「……や、だ……。おいて、かないで」
     ──一織。
     ふわふわした手触りのそらを手に取った。ぎゅっと強く抱きしめると一織のにおいが湿った陸の鼻孔をくすぐった。そうすると堪らなく恋しく思い、寂しくなる。
    「好き、好き……すきだよ」
     ──今度は逃げないから。好きだと伝えるから。だから、一織。
     置いて行かないで。
    「オレを、すきでいて」
     好きになって。好きって言って。
     やさしく抱きしめて。

     泣きじゃくる陸を宥めるためにあった柔らかな毛は濡れていた。熱い雫はすぐに冷め、ふわふわした感触はもう失われている。濡れた長い毛は冷たく、ひどく心地悪い。それでも今はただ一織の痕跡に縋っていたかった。


     濡らしてしまったノートは裏返しにして机に置き、べしゃりと毛が濡れたそらは元の場所に戻してから部屋を出た。泣き続けたせいで目元はひりひりと痛み、奥は鼻はまだぐずぐずと湿っている。目尻は赤いどころではなく、ひどく腫れてしまっているだろう。
     みんなが帰ってくるまでに冷やさないと。要らぬ心配をかけてしまう。
     洗面所に向かおうと早歩きで共有スペースを抜けようとすれば、そこには先客がいた。
    「……環?」
     学校帰りにしては随分早い帰宅だ。ソファに座っていた環は陸の顔を見て顔を顰めた。
    「りっくん大丈夫か」
    「あ、うん……ちょっと目が痛いだけ」
     誤魔化す言葉も思いつかず、軽く笑って見せる。そんな陸に環は何も言わず、自分の隣をぽんと叩いた。
    「何?」
    「りっくんここ座って」
     表情は至って普通だが有無を言わせぬ。みっともない顔なのに、と情けない気持ち半分、少しは気が紛れるだろう思いながら陸は環の隣に座った。
    「りっくんさ、いおりんのこと好きだろ?」
     直球どころか剛速球な切り口に固まる。どう返そうと迷っていれば「多分みんな知ってる」とこれまた予想していない言葉が飛んできた。
    「知ってる……って、一織も?」
    「いおりんが知ってるのかはいまいちわかんねーけどさ」
     陸の顔を覗き込んだ環のやわらかな水色の瞳が淡く揺れる。涙に色がつくのならば、きっとこのような美しい色なのだろう。
    「いおりんもりっくんのこと好きだろ?」
    「……そうかもだけど、そうじゃないかも」
    「なにそれ。なぞなぞ?」
     訳がわからない、と素直に眉を寄せる環の姿に陸もつい笑ってしまった。

     一織からの親愛は感じてはいるものの、それは果たして恋なのか陸にはわからない。
     陸のボーカルが一番好きだと言ったのは本当。綺麗な字で、力強く書かれた好きも本当。でもそれが、陸が抱いている好きと同一であることに対しての保証はない。

    「オレだけひとり、一織に恋をしてるんだよ」

     再びつうっと頬に涙が伝った。もうこれ以上出ないと思っていたが、どうやらまだ枯れてはいなかったようだ。手のひらで覆うよりも先に頭から何かを被せられた。見慣れた色合いに、それが環がよく制服の上に着用している上着だと気が付く。タオルでもハンカチでもなくて、自分が着ていた服を被せるぎこちない優しさは環らしい。
    「なんか今りっくんの泣き顔見たらやばい気がする」
    「なんだそれ」
     ははっと笑う陸に対して環は笑わなかった。
    「あのさ俺恋とか好きとかわかんねーけど、いおりんに言った方がいいと思う。今りっくんが俺に言ったの、ぜんぶ」
    「一織が好きって?」
    「そう」
    「……一織に振られたらどうしよう」
     一織の部屋で覚悟は決まったはずだが、やはり揺らいでしまう。情けないなあと鼻声で呟くと、服の袖を遠慮がちに掴まれた。
    「いおりんに振られたら俺がりっくんと付き合ってやんよ」
    「付き合うって、どんなふうに」
    「ゲーム一緒にするとか、遊びに行くとか」
    「……それだと現在進行形でオレと環が付き合ってることになるんだけど?」
     ほんとだ、と目を丸くした環に陸は涙を浮かべたまま笑った。
    「じゃあ安心して、いおりんに好きって言えるな」とさらりとした口調で言われた。何も解決したわけではないが、心に巣くっていた靄が薄くなっていた。
    「一織に好きって言っていいの」
    「いいよ。りっくんの好きはりっくんのものだから」
     にかっと笑った環に再びじわりと涙腺が緩んだ。
     普段ならばすらっと言えるはずの、ありがとうは喉でつっかえてしまう。代わりに環の手を握ろうと伸ばした瞬間、手を掴まれた。滲んだ視界でもその手が誰のものであるのか、陸は知っている。馴染んだ温度はごく自然に交わって、心臓が強く跳ね上がった。
    「もう、いいでしょう」
     いつぞやに見せた表情とは違う、焦燥を浮かべた一織の姿を認めて息が止まる。
    「え、なにっ? どっきり……?」
    「なわけないでしょ」
     雑に上着を剥ぎ取られたことで視野が広がる。環に突き返している一織にも驚くが、その後ろから陸と同じオフであり出掛けていた壮五が現れたことにより涙が引っ込んだ。
    「お疲れ様、環くん」
    「そーちゃんもお疲れ」
    「へ? ええっ!?」
     どういうことだろうか、二人視線を向けようとすると、一織の胸に顔を押し付けられた。右耳から入ってくる心臓の音がうるさいのは気のせいか。
    「ちょっ、いおりっ!」
    「暴れないでください」
    「だって……もう、意味わかんない」
     顔を上げることができないので、視線だけ上に向けると仏頂面の一織と目が合う。小さな唇は綻んで、見る見るうちに白い頬は赤らむ。
    「……見ないでください」
    「もうっ、なんだよ!!」
     頬を膨らませて睨んだ。少しは怖がるかと思いきや、視線を逸らされる。一織の態度にちょっと、いやかなりムッとしたので、赤らんだ頬を掴んでこちらを向かせようとした。が、壮五の遠慮がちな声が陸の手を止めた。
    「一織くん、僕たちが出ていこうか」
    「その必要はありませんが、お気遣いありがとうございます」
     何故たったそれだけの会話で伝わるのだろうか。壮五が頷く気配を感じ取った陸は、一織の胸の中で面白くない顔を浮かべた。
    「百面相してないで、行きますよ」
     動き出した一織の身体に引きずられながら歩く。共有スペースを抜ける直前で環の声が背中へと飛んでくる。
    「りっくん! いおりんに振られたら、俺が付き合ってやんよ」
    「そんな日は二度と来ませんよ!」
     三人は何かを共有していて陸だけが蚊帳の外だ。面白くはないが、冷静を欠いた一織の声がくすぐったくて、少しだけささくれた気持ちが緩和した。


     どこに向かっているの、というような野暮なことは言わない。しかしこうして二人一緒に一織の部屋の扉をくぐるのは、初めてのような気がする。
     一織が開け、足を踏み入れる。すぐに乱暴な音とともに扉は閉じられた。
     くっついていた身体はがくりと折れて、引きずられるがままに落下する。一織の身体に乗り上げて、視線が絡み合う。それはまるでいつかの日の再現だった。
     あの日と違うのは一織の手は陸の手を絡め取って離さない。もう片方の手は頬を撫でている。
    「七瀬さん」
     名前を呼ばれてぐにゅりと世界が歪む。なのに、灰の双眸は色も感情もはっきりと映り出されている。一織の瞳に真っ直ぐと射抜かれているのに恐怖はなく、あるのはただの甘い疼きだ。
    「うん……」
    「教えてください」
    「なに、を?」
     一織が求めている答えは陸が切望したものと同じものかもしれない。そう思いながらも陸は少しの誤魔化しを口にした。
    「先ほど四葉さんに言ったことです」
    「オレと環が付き合ってることになる……って、いひゃいっ!」
    「違います。それと不愉快なので二度と言わないでください」
     瞳を薄く吊り上げられると彼が演じた狼少年のようだ。冷たい迫力に押されながら、抓られた箇所を撫でる手に自ら頬を摺り寄せた。
    「一織が、好き?」
    「疑問符要りませんから」
    「本当?」
    「否定も拒絶もしませんし、あなたが教えてくれたら私も同じだけ……いえそれ以上に言いますよ」
     どこまでも素直じゃない一織に笑い声が零れた。かわいくないなあ、と言った自分の声が震えている。
    「一織が好き。好き、大好き……っ、すき、だよ。あれ……変だ……なんで、好きってようやく言えたのに……」
     どうしてまだ涙が出てしまうのだろうか。せっかく一織の顔を見て、想いを口にできるのに、なんだかものすごく勿体無い。
     部屋の窓から指す西日が、二人の姿をほのかに浮かび上がらせている。橙色の光を吸い込んだ一織の瞳が淡く輝いていた。
     素直に綺麗だなと思った。一織の好きなところがまた一つ見つかったのだと嬉しくなった。
    「好き……っ、一織が、だいすき……んうっ」
     一織の顔が近づいてきたと同時に唇にやわらかな感触が触れた。初めてのキスは想像していたものよりもずっとしょっぱくて、少女漫画のように上手くはいかないものだと陸は笑う。
    「七瀬さん」
    「すき……すき、ふ、あっ、ん」
     二度目は啄まれて、離れた瞬間に好きを口にしたらすぐに三度目がやってきた。ぺろっと下唇を舐められて陸はびくりと肩を跳ね上げた。
    「言わせてください」
    「うん」
     まだ満足していないが、一織が拗ねた顔をしているので陸は頬を緩めたまま頷く。
    「私も、七瀬さんが好きです」
    「うん……オレも好き」
     目を閉じて、と掠れた声で囁かれ瞼を下ろすと同時に性急なキスが与えられた。何度も角度を変えては合わせて、くっつけてを繰り返し、その間にも涙は絶え間なく流れている。息が苦しくなって、酸素を欲しくなるタイミングで唇が離れた。息を吸っていると一織の長い指が陸の涙を掬い取っていく。
    「泣かないでください」
    「オレが泣いてるの、一織のせいだろ」
    「あなたが泣いていると……たまらなくなる」
     耳元に唇が寄せられ、耳朶を吸われたと思いきや、あまく噛まれる。くすぐったさから漏れた嬌声を耳にした一織はふふっと笑った。
    「泣かせたくなるんです」
     ぶるりと身体が震えた。恐ろしい言葉にではなく、一織が囁くたび耳朶に吐息がかかってくすぐったい。
    「っん、あっ、やだっ」
    「それもだめですね。もっと聞きたくなる」
     どこまでも甘いのに、どこまでも意地が悪い。静かな獣のような男から逃げようとしても、陸の身体はしっかりと抱き止められている。「どこへ行くつもりですか?」とこれまた甘さがたっぷりと含まれた言葉を、直接耳の中に吹き込まれて陸は涙を浮かべた。
    「も、許して」
    「もう少しだけ頑張ってください」
    「ううううっ、心臓が爆発するっ」
     もしやいろいろと早まってしまったのだろうか。真っ赤な顔で一織のキスを受け止めながら、心臓の鼓動が速まっていくことに気が付く。濡れた唇を一織の親指で拭われ、微笑みかけれれば胸が疼いた。
    「また再発しそう……」
    「そうしたら、また触れるように練習しましょう」
     頷くと頬に唇が降ってくる。拒否の言葉を口にすれば今度は唇を塞がれて、為す術もない陸は一織が満足するまで付き合わされることとなった。




     ようやく恋人同士になったというのに、相変わらず二人は一織の部屋で触れ合う練習をしている。
     手は握ることができるし、抱き合うこともそこそこ可能。キスはまだ陸からは無理ではあるが、いずれは彼の方からできるようにさせたいと一織は考えている。
    「で、そろそろ次の段階に進みませんか」
    「何で服捲り上げるの!?」
    「直接触りたいので」
    「待って。一織そんなキャラだっけ!?」
     キャラも何も、ただ好きな人に触れたいと思うのはごく自然なことではないだろうか。説明すれば陸は頬を真っ赤に染め上げたのち、ふにゃりと笑みを浮かべかけて、はっとしたように首を横に振った。
    「待って待って!」
    「待ちません」
    「だって、交換日記も全部埋まっていないのに!」
     ああ、と一織はロフトベッドから自分の机を見下ろした。必要最低限の筆記道具だけを置いた机には青い表紙のノートを置いている。そこには長い言葉で、或いは可愛いイラストで、たった二文字の単語で、一織に宛てたたくさんの想いが綴られていた。
    「そうですね……。では今から口で言うので、それで手を打ってください」
    「ば、ばか一織!」
     良いとも悪いとも言わず、尖った陸の唇に触れて一織は笑った。
    「好きですよ、七瀬さん」



    『ホットミルク作ってくれる一織が好き』『起きたばかりの恰好良くない一織が好き』『一織のさらさらした髪の毛が好き……触ると気持ちいいから』『一織がオレに期待する目が好き』『オレを支えてくれる一織の手が好き』
    『ちょっと意地悪なところも好き』『一織とするキスが好き』『オレを好きだと言う一織が好き』

    『どんな一織だって、大好き!』

    水無月ましろ(13月1話更新) Link Message Mute
    2023/09/30 10:10:20

    奥手な七瀬さん【いおりく】

    いおりく


    恋を自覚してしまったが故に、同メンバーの和泉一織に触れられなくなった七瀬陸の話。

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