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    しおり
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    しおり
    一番星に撃ち抜かれたあの夜から。【いおりく】 一織の言葉は、眠れない夜にさり気なく渡されるホットミルクみたいなものだった。舌が火傷しない程度まで冷めていて、でもあたたかいと思える温度。ゆっくりと時間をかけながら飲み干して、しばらくしたらお腹の奥にじんわりきて、ほうっと息をつく。聞いた直後は納得出来なくても、時間が経つにつれてだんだんとオレの中に染み込んで落ち着かせてくれる。
     ああ、これはオレを心配してくれているんだ。
     この言葉はオレを宥めているんだ。
     わかりにくいけど、きっとこれは甘やかしてくれている。
     甘い言葉だけじゃない、優しい言葉だけじゃない。厳しいことも言う一織の言葉が好きだった。オレが我が儘言ったあとには、必ずと言っていいほど「しませんからね」とまあ、つれなく返すのに最後は何だかんだ言いながら付き合ってくれる。そんな一織が仲間として、友達として好きだった。
     だけど一織にファンサをねだったあの夜。星空がきらきらと瞬いていた真冬の夜から、オレが抱いていた一織への気持ちが一つ追加された。
     分厚い雨雲も、ぴかっと空を照らす眩い光も、ゴロゴロと不安を煽る音も聞こえることはなかったのに、顔を上げて、と囁いた一織の姿を目に映した瞬間、きっとオレは雷に打たれてしまったんだ。


    「わあっ! すごく……恰好いい」
     本日の仕事を終え簡単に食事を済ませた陸は、自室のベッドに寝転がり昨日発売の雑誌を眺めていた。女性誌ということもあり普段よりも念入りに変装し、カモフラージュとして気になっていた小説本と一緒に購入した雑誌だった。涙ぐましい努力をした甲斐があった、と陸はしまらない顔を枕にうずめる。
     例えばこの場に一織が居たならば「埃を吸うでしょ!」とすぐさま厳しい叱咤が飛んでくるが、一織はまだ帰宅していない。というよりも現在この寮内にいるのは環と陸だけだ。ひどく疲れているのか、環は帰宅して早々に自室に引きこもった。
     メンバーと過ごす時間は以前よりも確実に減っていた。とりとめのない会話を楽しんだり、食事を一緒に取れないことに寂しさを感じることもある。だがその代わりに陸はあるもので寂しさを埋めていた。
     枕から顔を離し「よし!」と気合を入れて雑誌を見た。表紙には大きく『IDOLiSH7 和泉一織』という文字。そして紺色のスーツを着た和泉一織が優しく微笑んでいる。彼のファンであれば、この大人びた一織の姿を目に入れた瞬間、雑誌を買おうと決意するだろう。だが表紙だけではない。何とこの雑誌には十ページにも渡って和泉一織の写真が掲載されており、さらにはインタビュー記事もある。
     勿論一織だけではなく、IDOLiSH7全員に依頼されている仕事だった。次号は大和が担当する。数週間後には陸もこの雑誌のインタビューを受けることになっていた。
    「はあ……一織恰好いいよ……」
     おそるおそるページを捲れば、そこには紺色のパジャマ姿ではにかんだ和泉一織の顔がアップで写っている。きりっとした眉はやさしく弧を描き、目元が和らいでいる。チャームポイントであるストレートな髪はほんの少し跳ね上がっており、普段びしっと決まっている和泉一織の隙を、見せつけられているようでどきっとする。頬はほんの少しだけ赤く色づいていた。
    「か、かわいいっ!!」
     陸の前では絶対見せない可愛い一織の表情に、カメラマンを羨ましく思う。再び陸の心の中は一織への可愛いで、いっぱいになってしまった。
     埃を立てないように、ゆるゆるとベッドの上で転がる。和泉一織に興奮した陸は思いきり転がり、勢い余ってベッドから落ちて腰を強打したことが二度ほどあった。そのためベッドの上で雑誌を読むときは、落ちてもいいようにお気に入りのクッションを端に寄せて、ゆるく転がるようにしている。しばらく興奮冷めやらぬままころころと転がって、傍に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。
    「恰好良くない一織と似てるけど……うーん、やっぱり違うな」
     ロックを外し、一織専用アルバムから寝起きの写真を選び見る。目が開けられずふにゃふにゃとした顔の一織も可愛いが、雑誌の和泉一織の可愛さとは全然違う。まるで一番好きな人を見て笑っているような表情。今回の撮影のコンセプトが恋人と過ごす一日なのだから、間違ってはいないのだろう。
    「好きな人と過ごす一日か……」
     考えながら次のページを捲る。シンプルな紺色のエプロンを着た和泉一織が、くるりと振り返りこちらを見ていた。右手にはフライ返しを持ち、フライパンの中にはよく作ってくれる一織お手製のホットケーキ。きれいなきつね色をしている。和泉一織は困ったような、しかしどことなく愛おしげな表情をこちらに向けていた。「もう少しですから。……いい子で待っていて」なんて甘い囁きが聞こえてきそうだ。普段の一織が絶対に言いそうにない台詞に陸は一人でくふふと笑う。
     和泉一織の写真を隅々まで堪能して、ついでに気に入ったページはスマホのカメラで撮って保存する。和泉一織専用フォルダーに写真を移してから目を閉じた。
    「好きな人に向ける顔。……好きな人か」
     コンセプトとは違う好きではあるが、陸の好きな人はたくさんいる。IDOLiSH7のメンバーにマネージャー、万理に社長、家族とそれから敬愛する兄で、陸とは双子にあたる九条天。勿論兄以外のTRIGGERの二人も好きだし、尊敬する先輩であり、何かと面倒を見てくれるRe:valeの二人も。そしてトウマを筆頭にŹOOĻのメンバーも好きなのだ。
     その中でも一織への好きは仲間としての好きと、ファンの子たちが抱くような好きの二種類がある。和泉一織が載っている雑誌はすべて買いたいし、グッズも欲しい。自分のライブ映像を見返して、和泉一織が映ると思わずきゃあっと色めき立つ。IDOLiSH7のライブのDVDは共有スペースに置いてあるので、いつでも見れるが、好きな人──同メンバーである和泉一織を指す──が出ているのだから、自分用でも買うべきかと迷ってしまう。
     ありがたいことにIDOLiSH7の仕事は日々増えていくのだ。
     バラエティー番組の出演、オリジナルドラマのオファーに新しいグッズや雑誌の撮影、IDOLiSH7一人ひとりの写真集まで様々な仕事が舞い込んでくる。常に新しいものが発売され、また同じように和泉一織のグッズも増えていく。購入することはさほど問題はないが、購入したグッズをさてどこに隠すか、とこれはここ最近の陸の悩みだ。入寮時に大量のここなグッズをどこに飾ろうか、と頭を悩ませていたナギの気持ちが同じ立場になったことで理解出来るようになった。すでに過去の話ではあるが陸は胸を痛めた。
    「この雑誌なら一織に見られても、言い訳出来るから見えるところでいいけど」
     腹筋を使い起き上がって、昨日コンビニで受け取った荷物たちの保管場所について考える。
     ネットで購入した和泉一織ブロマイドは元々クッキーが入っていた缶の中へ入れるとして、和泉一織プロデュースのろっぷちゃんのぬいぐるみはどうしたものか。隣で一緒に寝ころんでいたろっぷちゃんを抱き上げて、膝の上に置いてみる。
     首元で蝶結びされた赤色のリボンの真ん中には青色の石が埋められており、リボンの端には青色の糸二色でダブルフラットの刺繍が施されている。そしてこのろっぷちゃんは他のろっぷちゃんとは違い和泉一織の『Perfection Gimmick』の衣装を着用していた。
     だからなのか、普段のろっぷちゃんよりも心なしかきりっとしているようにも思える。
    「かわいいなぁ」
     手触りにもこだわっているのか、ぎゅうっと抱きしめるととても気持ちいい。ふわふわとした柔らかな感触に、するっと指通りの良い感触。質が良い分値段は可愛いらしいものではなかったが、こうして手に取ってみると、細部までこだわっていることがわかる。
     大好きなろっぷちゃんだからこそ、和泉一織はパーフェクトな可愛さを目指したのだろうか。
    (そういえば……プロデュースの依頼が来たときから、一織そわそわしていたなあ)
     自分の好きなものをプロデュース出来るのってすごく嬉しいよね? と声をかけたら、別に仕事ですから、なんてたどたどしく返してきた一織の顔を思い出してふふっと笑う。
     埃が立つでしょ、と一織に見られたら怒られちゃうなと思いながらも、陸は可愛いうえに手触りの良いろっぷちゃんをぎゅうぎゅうと抱きしめる。小さい頃あまりぬいぐるみに触れてこなかったせいか、一度触ると手放すことが惜しくなる。
     呼吸器系の病気を患っているため、ぬいぐるみを抱きしめたり、部屋に置くことが良くないことは陸自身よくわかってはいる。とくに天や一織にばれたらこんこんとお説教されるだろう。
    (一織がいないときに、こまめに洗濯しないとなあ)
     名残惜しいが、抱きしめていた手を緩めてろっぷちゃんを膝の上に戻す。
     ファンレターを保管している缶とは別の缶を取り出す。蓋を開ければ、そこには和泉一織のグッズが、ぎっしりと詰まっていた。彼のイメージカラーが青色や藍色のため、まるでそれ自体が小さな星空のようだ。その中で一際存在を主張する、一織のモチーフであるダブルフラットのヘアピンを取り出した。
     照明の光にかざしてみれば、ダブルフラットに埋め込まれた青色の石がきらきらと輝いた。青い光。それは日没後に現れる、宵の明星に似ている。一織と同じ一番最初の星。陸にとって馴染み深い星。
     深い夜の時間に外へ出ることを許されなかった陸は、一番最初に見える星が好きだった。病室の窓を開けて身を乗り出し、星を探していると、体に障るからとやんわりと窘められ窓とカーテンを閉められた。自宅でもそれは同じで、冷たい夜風に当たることを天が許さなかった。だからこそ最初に現れる一番星が、陸の親しい星だった。
    「きらきらひかる、おそらの星よ」
     ワンフレーズだけひそやかに歌って、ダブルフラットのヘアピンを缶の中に仕舞う。赤を基調とした自分の部屋の中に、和泉一織の色が集まっている。眺めているだけでも、胸の奥がふわふわとくすぐったい気持ちになった。
    「一織でいっぱいになってきちゃったな」
     IDOLiSH7は男性アイドルグループであるため、女性ファンの方が多い。だからこそグッズも女性が好みやすいものが作られる。勿論男性ファン向けに、各メンバーのモチーフをイメージしたネクタイピンやカフス、シンプルなデザインのハンカチーフなど作られてはいるものの、圧倒的に数は少ない。そのため、陸が保有しているグッズは必然的に煌びやかで可愛らしいものばかりだ。普段使いするわけにもいかないし、持ち歩くことも難しい。こうして取り出しては時折眺めたり、触れてみたりして楽しむことが現在の陸の癒しでもあった。
     新しいグッズであるブロマイドが折れないように、缶の一番上にのせる。真面目な顔をしている一織の顔を一度だけ撫でて、静かに缶の蓋を閉めた。缶を元の場所に戻して、雑誌は他の本との間に挟む。
     明日も頑張ろう。抱き心地の良いろっぷちゃんを抱きしめて、陸は目を閉じた。


        2


     和泉一織のファンになってから、陸は初めて思い知った。ファンというのが意外と忙しいものだと。
     好きな人のSNSが更新されているか日々チェックしたり、新しいイベントやグッズの告知がないか調べたり、さらには同じものを好いている同志に好きな人の話を延々と語ってみたり、逆に聞いてみたり。
     IDOLiSH7の仕事もソロの仕事も忙しい。外を歩けばIDOLiSH7の名前を目にしない方が難しくなっている。それだけ仕事が増えて大変なのに、和泉一織のファンになってから陸の生活は一変した。
     同じメンバーなのでイベントやグッズの情報はミーティングを介して知ることが出来るが、うっかりと取りこぼしてしまうのも多い。知らなかったがために、欲しかったグッズを購入し忘れて、何度もそのグッズの通販ページを見ては再販を祈った。以前よりも時間をかけてSNSを見るようになった。
     自分のことやIDOLiSH7をエゴサーチしないように、また良くない評価や悪意ある言葉を拾わないように、気を付けながら和泉一織の呟きを見る。時折呟きに対し、直接返信しているアンチの言葉を見かけてしまい、むっとしてしまうこともあるが、概ね好意的な言葉が多いため陸の機嫌はすぐに戻る。
     ファンの言葉を見て、そうだろう、一織はすごいんだと自慢気になったり、自分のことのように嬉しくなる。今のところ持病に影響することもないので毎日チェックを続けていた。
     しかし情報を拾ったり、グッズを集めたり、満たされるものが多ければ多いほど、今度は逆にファンの子たちのように和泉一織の好きなところ、かっこいいところを誰かに話したいという気持ちが強くなってしまうのだった。


    「ナギ、お邪魔するね」
     ナギの部屋は好きで溢れている。
     まじかるここなのぬいぐるみやフィギュアは綺麗に飾られている。ここなのDVDも巻数順にきちんと並び、そこそこ物は多いはずなのに不思議とごちゃごちゃとした印象を与えない。好きなものを堂々と置き、いつでも楽しめる状態にしているナギを、この部屋に足を踏み入れるたび陸は羨ましく思っていた。
    「今夜も素敵な夜ですね」
    「あはは、オレ今映画のヒロインになった気分だ!」
    「OH! リクはヒロインのようにキュートですよ」
    「ありがとう!」
     ナギからウインクが一つ。それを受け止めた陸はお返しとばかり、下手くそなウインクを送った。
     和泉一織のモチーフ、ダブルフラットに青い石が埋め込まれたヘアピンで前髪を止めた陸の腕の中には和泉一織プロデュースのろっぷちゃん。信者の鏡ですね、とナギは心の中で感嘆する。
    「さあ、今日は冷えますから」
     掛け布団を持ち上げれば、陸はろっぷちゃんを抱いたまま慣れたようにナギのベッドに潜り込んだ。
    「いつも思うけどナギのベッドっていい匂いがする」
    「どんな香りですか?」
    「うーん、高級な感じの香り? なんか高そう!」
    「ワタシはここなの香りがいいです」
    「ここなの香りか。すごく甘そうじゃない?」
    「ここなは甘いだけじゃありませんよ。美しい花のように甘く、しかしときには夏のような爽やかさがあり、疲れてしまった人々を癒す────」
     スイッチが入ったように勢いよく話し始めたナギに、陸は笑いながら時折相槌を打つ。正直なところ彼の話していることの半分、いや三分の一もわからないのだが、目をキラキラと輝かせて語る彼を見るのは楽しい。自分が和泉一織のことを語るとこんな感じなのだろうな、と思えば少々面映ゆい気持ちにもなるが。
    「そういえば、そのヘアピンはリクのお気に入りですよね?」
     話したいことを話して満足したのだろう。前触れもなく方向転換してきたナギに陸は頷く。
    「うん、そうだよ。さすがにみんなの前ではつけないけど」
     和泉一織グッズの中でも上位に食い込むほどの陸のお気に入りである。ダブルフラットに小さな青い石が埋め込まれ、光に当たるときらきらと輝く。サンプル品を目にしたときからずっと気になっており、慣れない通販に四苦八苦しながらも購入したものだった。
     自室で寛いでいるとき、もしくはナギと過ごすときだけ陸はダブルフラットのヘアピンをつけるようにしている。他のメンバーに、特に一織にだけは絶対に知られたくないので、身に着ける機会も多くはない。そもそも陸が和泉一織のファンであることはナギ以外誰も知らない。
     何故ナギが知っているのかというと、以前自室で本を読んでいたときに突然部屋に乱入されたからだ。ヘアピンを取り外す間もなく、目ざといナギに指摘され嘘も誤魔化しも下手な陸は素直に和泉一織のファンになってしまったことを告げた。
    『愛でる対象は違えど、ワタシたちは立派なファンです! つまりワタシとリクは運命共同体ということですよ!』
    『それなんか違くない……?』
     ナギは、陸が和泉一織のファンと知っても笑ったりしなかった。嬉しそうに手を握り「私たちは同志ですよ」と微笑んだ。
    『みんなには内緒にしてくれる?』
    『勿論ですよ、リク。その代わりワタシの前では、好きなものを好きであることを隠さないでください』
    『わかった。約束する』
     などと、今振り返ってもよくわからない流れではあったが、あの日以来陸とナギはお互い好きなものを語り合う同志となったのだった。
    「イオリは喜ぶと思いますが」
    「そうかな……?」
     喜ぶ姿よりも「社会人が着けるものではないと思いますが」と、さらりと毒舌を飛ばしてくる一織の姿が思い浮かぶ。それでも一織は優しいから、気持ち悪いとは言わずただ静かに呆れた顔を向けてくるだろう。
    「んー……。でもさあ、一織に何故私のヘアピンを着けているんですか、って訊かれたらオレ上手く答えられないよ」
     オレ、一織のファンになったんだ。
     素直にそう伝えたら、一織はどんな反応を示すのか。驚きで目を丸くしてそのあとで困った顔をするのだろうか。困った顔ならまだいい。もしも、もしも陸が和泉一織のファンであることを拒絶されたら? 
     一織は完璧主義者だ。きっとファンの前では何事もなく振舞って、今まで通りに接してくる。でもそれはファンの前だけで、寮で過ごしているとき、一緒に仕事をしているときはどうなるのだろうか。


     もしも、オレの持っている『好き』が自分で制御出来ない悪いものに変わったら────?


    「リク? どうしたのですか」
    「あ……ごめん。ボーッとしちゃってた」
     ナギとの間に挟まっていたろっぷちゃんがぎゅっと押しつぶされていた。慌てて力を緩めるとぼふんと形が戻る。ろっぷちゃんにもごめんね、と垂れた耳を撫でた陸にナギはふっと優雅に笑みを浮かべた。
    「ワタシとてもいいことを思いついたのですが────」



    「……わあっ、ナギすごい!」
    「これくらいオチャヅケサイサイです」
     それを言うならお茶の子さいさいだろ、と突っ込む三月も冷静に間違いを正す一織も、残念ながらこの場にはいない。
     この部屋にいるのは、部屋の持ち主であるナギと陸だけだ。他のメンバーも自室で各々着替えていることだろう。
    「あまり触るとほどけてしまいますよ」
    「ああ、そうだよね。でも本当にすごい!」
     いつもはそのままにしている左側の長いサイドの髪を編み込みにし、耳にかけた陸は興奮した顔でナギに飛びついた。
     崩れないように、しかし目立つように留められたヘアピンは六弥ナギのモチーフであるナチュラル。様々なサイズの石が付いており、光彩を放っている。陸の赤髪に埋もれることなく輝き、星の如くその身を強く主張していた。
     そして反対にナギの美しい金の髪には、陸のモチーフであるダブルシャープのヘアピンがついている。赤い石が光を反射してこちらもきらきらと輝いていた。
    「ナギは絵本に出てくる魔法使いみたいだね!」
    「OH……本来ワタシは王子なのですが」
    「じゃあ、王子様兼魔法使いでどう? ここなちゃんも魔法少女だし」
    「ここなとお揃いならまったく問題ありません! ワタシ今日から魔法使いです!!」
     手を取り合ってきゃっきゃと戯れる二人はノックの音に気が付かない。入りますよ、と生真面目な声が聞こえゆっくりと扉が開いた。
    「六弥さんそろそろ時間が……七瀬さん!?」
     普段とは違う二人の髪に視線が向けられる。
     それから繋がっていた二人の手を見た一織はほんの一瞬だけ驚きを浮かべたが、すぐさま呆れた表情に変わった。
    「二人とも何をしてるんですか……」
    「あ、一織!」
    「イオリ、迎えに来てくださったのですね。ところでかぼちゃは用意してくれましたか?」
    「何言ってるんですか」
     突然振られた冗談に一織は眉を顰める。
     ナギの腕からするりと抜け出した陸は一織の腕にじゃれついた。顔を覗き込むと一織は驚いたように一歩後ろに体を引いた。
    「馬車を引くためのねずみも必要だよね? 一織ーぱぱっとねずみ出して?」
    「どんな無茶ぶりですか!?」
    「パーフェクト高校生だから!」
    「パーフェクトを万能と同義にしないでください!!」
    「あはは、一織が怒った」
    「怒らせないで!」
     無邪気な様子で一織にじゃれる陸をナギは微笑ましげに見つめる。
     何日か前に、彼が深く考え込んでいた姿を見かけていた。底抜けに明るい陸の表情に陰りが見られて、ナギは密かに心配していたのだが、それとは真逆の楽しそうな顔に心の中で安堵する。上手くいけば、この笑顔がずっと続いていくのだと確信を抱いたナギは二人を促す。
    「イオリは私たちを呼びに来たのでしょう?」
    「そうです。放送前の打ち合わせもあるんですから、早く行きましょう」
     先に部屋を出た一織を追いかけるように陸も部屋から飛び出す。待って一織、と追ってきた陸に走らないで、と注意する一織の声が聞こえる。だんだんと二人の声は遠くなり、騒がしかったナギの部屋は静寂に包まれた。
     ナギは一人呟いた。願うように。
    「ワタシもリクにお返しします。……どうか怖がらないで」
     


    「始まりました! 『キミと愛ドリッシュないと!』IDOLiSH7の和泉三月です! さて、みんなも知ってると思うけど念のためメンバーを紹介するぞ。右から────」
     元気な三月の司会で番組が始まった。冠番組である『キミと愛ドリッシュNight!』が始まってからは、自分たちで作っていたWEB番組『キミと愛ドリッシュないと!』の放送頻度は少なくなっていた。が、ファンからの強い要望もあり、今でも月に一回、二回程度ではあるがWEB配信をしている。
     何十回もやってきた番組ということもあり、回も増すごとに三月によるメンバー紹介は雑なものになっている。最近は寮内でのメンバーの行動を暴露され、番組内でその話を広げられることもある。陸の紹介時にはどんなドジを行ったのか、と七瀬陸ドジ報告の場になっている。今月は皿を割らなかったと報告すれば、すぐさまコメントは拍手喝采で埋まり、お祝いムードへと変わる。ちなみにおめでとうコメントが大量に流れた瞬間「これはあのアニメ最終回! エヴ───むぐぐ」と某アニメのタイトルを叫びかけたナギの口が、大和の手で塞がれるという事件が起きた。その回はピタゴラスファンによって神回と呼ばれている。
    「今夜は久々の生放送だぞ。みんなも楽しみにしてたか?」
    「はいはいっ! オレも楽しみにしてたよ!」
    「うちのセンターは楽しみすぎて眠れなかったらしいぞ。そういや、今日の陸の髪型はいつもと違うな。ナギのヘアピンもだけど、三つ編み可愛いじゃん!」
    「ミツキ! ワタシも褒めてください!!」
    「おまえは髪型一緒じゃんか」
    「でも陸くんのヘアピンつけていますね」
    「おまえら、お互いの持ち物交換する女子高生か」
    「ナギっちとりっくんだけずるい。俺もそれやりたい」
    「MEZZO”同士でしてみては?」
    「えーっ、そーちゃんとはなんかちがうっていうかー」
    「僕もちょっと……ああいうのはあまり……」
     カメラのズームに気が付いたのか、ナギと陸は肩を寄せ合ってピースを作る。続いて、見て見てと言わんばかり自分たちが見に着けているヘアピンを指した。
    「私たちのモチーフを使用したヘアピンは虹ストアで販売中です」
    「他にも素敵なグッズがたくさんあるから、チェックしてくれると嬉しいぜ!」
     話はいつも通り脱線するものの宣伝はスムーズに行われる。
     テーブルの上に置かれたノートパソコンには配信中の画面が映し出されていた。視聴者のコメントをリアルタイムで拾いながら、番組を進行していく。
    「わわっ、すごい! どうしよう、コメント追いきれないよ!!」
    「落ち着いてください七瀬さん」
    「みんなありがとうな!」
     テンパる陸を一織がフォローして、最後に三月がにっこりと笑ってまとめる。いつもの光景だ。
     ラビチューブコメントでは「可愛い」「欲しい」「今ならナギくんとお揃いできるじゃん!」「私買いました!」と盛り上がりを見せている。コメントを追っていた壮五が遠慮がちに「公式サイト、落ちてしまったらしいです」と呟いた。
    「で、何で今日は二人してヘアピン着けてんだ?」
    「よくぞ聞いてくれました! 今日は六日、つまりワタシ六弥ナギの日です!」
    「で、今日の生放送の開始時間は夜七時でオレの数字!」
     陸は言葉を切りナギと顔を見合わせて、せーのと小さめに掛け声をかける。
    「ということで、本日のキミと愛ドリッシュないと! は『六弥ナギと七瀬陸が送るキミと愛ドリッシュないと!』に変わりました!」
    「番組勝手にのっとんな!! あと声合わせててかわいいな!」
     自由すぎるナギと陸に、視聴者のコメントも笑いが増えていく。一織は概ね好感的なコメントに安堵しながら、どこでトークを止めるべきか考えていた。
    「何が、──ということで、だよ。まったく理由になってないだろ」
    「宣伝も兼ねてこれからメンバーの日には着けてみようかなって思ってるんです」
     ほら、オレが着けてたらファンの子も着けやすいかなって。
     にこにこと笑う陸につられて大和も目元を和らげる。いい考えだな、というように隣にいる陸の頭を撫でると、少し離れた席から「ちょっと、三つ編みがほどけてしまうでしょ!」と鋭い叱咤と「OH……考えたのはワタシなのですが」としょぼくれた声が届いた。
    「じゃあ俺も王様プリンの着ける!」
    「それは番組スタッフさんに確認してからにしようね。スポンサーとか大人の事情があるから」
    「そこ! 生々しい話はやめてください!」
     久々の生放送だったからなのか、それともこれが定番なのか。IDOLiSH7のWEB番組『キミと愛ドリッシュないと!』はいつものように脱線しながらスタートを切ったのだった。


        3


     無事生放送を終えた次の日から、陸は部屋の中以外でも自分たちのグッズであるヘアピンを着けるようになった。テレビ局に行くときも、買い物に出かけるときも、寮内でもだ。
     もともと『キミと愛ドリッシュないと!』の放送前に、ヘアピンを着けても大丈夫だろうかとマネージャーである紡に相談していた。放送中、放送後共にファンの反応が良かったので、仕事でもプライベートでもつけても構わないと許可が出た。ただし一か月間という限定した期間でだ。
     借りていたヘアピンはナギに返却して、ナギも陸に借りていたのをその場で返した。
     自分のヘアピンと一織のヘアピンは手元にあるが、他のメンバーのものは持っていない。どうしようかと悩んでいたのだが、察した紡が事務所の奥から全員分のヘアピンを出してきてくれた。サンプル品であり、既成のものと比べると少々石の色味が違うらしい。が、細かな違いがわからなかった陸はそれらを借りることにした。
     ただ、一織のヘアピンについては、自分が所有しているものを使いたかったので、持っていることを伝えやんわりと断った。
     不思議そうな顔で小首を傾げた紡は可愛かった。また、何も訊かないでくれたことを陸はありがたく思った。


    「今日は一織とオレの日!」
     メンバーの数字が入った日も好きだが、一織の数字の日はもっと好きだ。さらに言うならば十七日は一織と陸の日なので、堂々と二つのヘアピンを着けられることが嬉しい。
    「一か月が七十一日まで存在してたらなあ」
    「一か月が七十一日だとすれば、アニメの周期はどうなるのでしょう」
    「うーん、そうだな。倍になるからお得?」
    「アメイジング! ここなのアニメの本数も増えるということですね!」
    「いっそオレたちで作っちゃおうか!」
     陸の前髪を止めている二つのヘアピンは、夜道でもきらきらと輝いている。繁華街から漏れる七色のネオンに照らされても輝きは失われず、彼の赤い髪におさまっている。にこにこと笑う陸に、ナギは眩しいものでも見たかのように目を細めてそっと口を開いた。
    「イオリへの好きは、みなへの好きとは違いますか」
     大声で話している男性の声、それを窘める女性の声。深夜帯ならではの喧騒に、静かなナギの言葉は飲み込まれた。通行人を捉まえようと声を張り上げた若いお兄さんに、敢えてノースメイア語で断る。
     ナギの質問が聞こえていないかもしれない。聞こえていない振りをするかもしれない。
     少し前を歩いていた陸は、半分だけナギの方へ身体を向けて口を開いた。
    「そうだな……多分みんなへの好きと一織への好きは違うと思う。例えばみんなのグッズを見て素敵だなあと思っても、思わず飛び跳ねてしまったり、胸に仕舞んで隠したいという気持ちにはきっとならないかな。自分のもそうだけど。出来合いを見て素敵だなとは思う。……一織は」
     陸は一つひとつ言葉を選ぶように話していた。揺れていた赤い瞳はナギの瞳を捉えてぴたりと止まる。
     ナギはただ静かに促すことも遮ることもせず、陸の言葉を待っていた。
    「……和泉一織は今のオレにとって、すごく特別だと思う。TRIGGERを、天にぃを見てるときよりもずっとずっと胸が熱くて、どきどきする。苦しくなったり、逆に幸せに思えたり。だからさ、きっとそれはオレにとっての特別な好き、なんだろうね」
     眉を下げて困ったように陸は笑っている。それは好きを語るには、不釣り合いな表情だった。
    「想いを告げないのですか」
    「どうして、そんなことを聞くの」
    「リクがときどき寂しそうに笑うからです」
    「そっか。……心配してくれて、ありがとうナギ。オレは大丈夫だから」
     安心させるように微笑む陸は痛々しく見える。酔った人々の楽しげな会話、夜はこれからだと言わんばかりの明るい街とは対象的な陸の姿に、ナギは少し悲しくなった。
    「それにね、まだよくわからないんだ。一織への好きはどれなのか」
     わからない方がいいんだよ、きっと。
     零れ落ちた陸の言葉は、深い闇へと溶けるように消えていった。


     その後の帰り道ではお互いの好きなものについて語り合った。ここなの可愛さについて、和泉一織について。先ほどの会話はどちらも掘り下げない。ほんの一瞬見せた心の内は元々存在していなかったように、ナギも陸に合わせてくれた。
     二人が寮に辿り着いたのは日付が変わろうとした頃だった。鍵を差し込み玄関を開け、小声でただいまと告げる。靴を脱ぎ足音を立てないように気を付けながら、共有スペースに向かう。扉を開けると案の定部屋の中は真っ暗で、手探りで電気のスイッチを押した。
    「みんな寝てるのかな」
    「ヤマトは朝早いと言ってましたよ」
    「そういえばそうだったね。……最近大和さんにいってらっしゃい、って言えてない」
    「というかみんなもだけど全然会えてないなあ」とぼやくと後ろからナギにぎゅっと抱きしめられる。お互い冬の空気に当たっていたので、触れ合った肌はひんやりと冷たかった。
    「ナギ?」
    「これは今日、ワタシがヤマトを抱きしめたので、そのおすそ分けです」
     ヤマトを感じられますか? と真面目な顔でそんなことを問うナギに、陸は思わず吹き出してしまった。
    「あはは、感じたよ。ありがとう!」
    「ちなみにヤマトは五秒後に、ワタシのハグから抜け出しました」
    「大和さんらしい!」
     くるりと体の向きを変え、頬がぴったりとくっつく距離で笑い合う。肌寒さと抱いていた寂しさが少しだけ緩和された。
     綺麗な顔をしたナギと抱き合っても陸の心臓はどきどきすることはなく、やわらかな安心感を覚える。いや、ナギだけではない。大和も三月も環も壮五もだ。マネージャーの紡は同い年の女の子なので別の意味でどきどきしてしまうが、本当の意味で陸の心をざわつかせるのは一織だけだ。 
     一織、と彼の名前を呼びながら、無邪気に抱き着くことはもう出来ない。ファンになってしまったのだから仕方がない。そう自分を納得させても、晴れることのない寂しさだけが募っていた。
    「本当にリクの髪に合いますね」
    「うん? 何が?」
    「イオリのヘアピンが、ですよ」
     しなやかな長い指は陸の前髪に触れる。撫でつけるように触れてくるナギの指先が心地よくて、陸は目を閉じた。
     そっとヘアピンを外され、押さえつけられていた前髪を梳かれる。
    「みんなのヘアピン着けてみて思ったんだけど、オレにはやっぱり一織の色が一番しっくりくるんだよな」
     鏡で見るたび、青い石が赤髪に映えて綺麗だと思う。
    「そうですね、まるで……」
     珍しく言い淀んだナギに、陸はそろそろと瞼を持ち上げる。彼は何とも言えない表情を浮かべて陸を見つめていた。物憂げなその姿は、別の意味で心臓がどきっとしてしまう。短くはない時間を共に過ごしてきたが、物静かなナギは未だ慣れない。綺麗すぎる彼は、陸の知らない人に見えた。
    「何をしているんですか」
     そのとき、反対側から鋭い声が飛んできた。陸はナギに抱き着いたまま声のする方へと振り返る。
    「あ、一織。起きてたの?」
    「私が起きてたら何かまずいんですか」
     眉を寄せて不機嫌そうな一織の姿を捉えて、陸もまたむっとした顔で反論する。
    「そんなこと一言も言ってないだろ。ただ、最近すれ違ってばっかだったから……一織の顔見れて嬉しいっていうか」
     強めに言い返せば、一織は目を瞬かせた。吊り上がっていた目はやわく弧を描く。
    「……七瀬さん」
    「ただいま一織」
    「おかえりなさい、七瀬さん」
     一織からおかえりを聞いた陸は、ふにゃりと頬を緩ませる。陸の全身から伝わってきた嬉しいという気持ちは嘘偽りでも誇張でもなく、一織は目元を和らげて微笑んだ。
    「ところで、ワタシの存在忘れてませんか?」
     あ、と二人の声が揃う。
    「二人の世界とても寂しいです。ワタシにもおかえりと言ってください」とぎゅうっと陸を抱きしめる。ひっつきむしになってしまったナギの頭を撫でた陸は「ごめんナギ、えーと、おかえり?」と本日二回目のおかえりを口にした。
    「六弥さんもおかえりなさい。それから七瀬さんが窒息するので、離してください」
     言い終わらないうちから、一織は陸の腕を引っ張った。よろけた陸を支えつつ、すぐに顔、続いて胸に視線を向け、呼吸が乱れてないか確認したあとナギへと向き直る。
    「で、何故二人は抱き合っていたんですか」
    「ええっ、そこに戻っちゃうの」
    「答えるまで戻りますよ」
     何と説明すれば一織は納得するのだろうか。
     困った顔で助けを求めると、了解したと言わんばかりにナギはきれいなウインクをひとつ送り、一織の頭に手を伸ばす。驚く一織を気にすることもなく、慣れた手つきで彼の前髪にヘアピンをさして満足げに頷いた。
    「やはりイオリも似合いますね」
    「ほんとだ! 一織かわいい!」
    「はっ!? 何ですか突然」
     わけがわからないという様子で、一織はとめられた前髪に触れる。長い指先はヘアピンに埋め込まれた石に引っ掛かった。
    「待って一織!!」
     そのまま引き抜こうとした一織の右手を陸は慌てて掴んだ。ほんの一瞬、双眸に青が映り込む。
     掴んだ陸の手はそのままに、ヘアピンに触れていた自分の右手を下ろす。
     振りほどくことをしない一織の右手を、自分の手のひらの中におさめて陸は無意識に安堵の息をついた。
    「もしかして、七瀬さんのヘアピンですか」 
    「正解ですイオリ。それは先ほどまで、リクが身に着けていたものですよ」
     艶のある黒髪に飲み込まれることもなく、その身を主張するかのように赤い石は輝く。
     暖色系統の色を好まず、寒色系や落ち着いた色合いのものを身に着けている和泉一織が、七瀬陸のカラーである赤を纏っている。
     色だけではない。七瀬陸のモチーフであるダブルシャープを着けている。そして今、自分の髪には和泉一織のモチーフであるダブルフラットが、存在を主張するように煌々と輝いていた。ぶわりと陸の顔に熱が灯る。
     それはファン心理なのか、それともまったく違う心理なのか。
     その感情の名前を知らない陸の鼓動は激しく高鳴った。興奮を隠しきれず、必死に一織の腕にしがみつく。
    「いおり、外さないで……もう少しだけそのままで」
     スマートフォンを構える余裕なんてなかった。写真に残して、いつでも今日の一織を見られるようにしておきたかった。だがそれは反則だと思った。その代わり目に焼き付けるようにじいっと一織を見つめる。
     陸のモチーフを身に着けた彼の姿に、胸が震えたことを。泣きたくなるような衝動が、込み上げてきたことを。覚えていたかった。
    「……分かりました。外しませんから、少し離れてください」
    「ごめん……」
     掴んでいた腕を離し、代わりに軽く一織の袖を握ったまま一歩後ろに下がる。見られていることに照れているのか、一織の頬はうっすらと赤みを帯びていた。
     なんだか可愛いと思う。いつもは恰好いいのに可愛いだなんて、ずるい男だ。
    「ずるいな一織……」
    「何ですかいきなり。あなた、私に喧嘩売ってるんですか?」
     眉根を寄せて陸を睨む姿すら様になっている。強い光を湛えた眼差しを受け止めた陸は知る。
     一織の瞳の奥に、燃えるような真っ赤な星が瞬いている。きらきらと止むことを知らず、輝きつづける光に既視感を覚えた。

     ──ああ、そうだ。ライブで見る光景に似ている。オレたちを見て、幸せそうな顔でサイリウムを振るお客さんたち。

     好きを前面に出して、応援してくれるファンの子たち。恥じることなく、ただ一心にIDOLiSH7の名前を叫ぶファンの姿。
     大勢の好きが集まった七色の光だ。
     


    「あなたも似合いますね」
     一織の指が陸の前髪に、自分のモチーフであるダブルフラットに触れる。隠しきれていないささやかな笑みはライブの間、隣でよく見るものだった。
    「あ……」
    「七瀬さん?」
     ようやく陸は自分がどんな顔をしていたのか理解してしまった。何を言えばいいのかわからず、助けを求めるようにきょろきょろと辺りを見渡す。しかしどこにもナギの姿はない。気を利かせて一織と二人きりにしてくれたのだろうが、それは今の陸にとって、ひどい裏切りにも似た行動だった。
    「もしかして……熱でもあるんですか」
    「え」
    「赤いですよ」
     一織の顔が傾いた。驚く間もなく顔が近づいてくる。
     相手の吐息がかかる距離。睫毛の長さも、一織の瞳に映る動揺した自分の顔もはっきりと見える。急接近に心の準備をする時間はない。ぎゅっと強く目を閉じれば、額にこつんと何かがぶつかった。それはよく知った熱だった。自分よりも少し低めの、やさしい温度。
     ふっ、と一織が漏らした吐息は陸の唇を撫でて、それが変にくすぐったい。すんと鼻を鳴らせば、お風呂上がりなのだろう、清潔な石鹸のにおいがした。
     どうしよう。どうしよう。
     嬉しいのか、嫌なのか。困惑している陸には自分の気持ちすらわからない。でも突き放すことは出来ない。
     そのままぴたりとくっつけ合わさっていた。それからどのくらい時間が経ったのだろうか。心地良い温度はあっさりと離れていく。
     ゆっくりと目を開くと、やはりすぐ近くに一織の顔があった。動揺している陸とは違い、彼は真面目な顔をしている。
    「……熱はありませんね」
    「……へっ!?」
     どうやら熱を測るためだったらしい。紛らわしい、と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
    「な、なんで手で測らないの!」
    「あなたが私の袖を掴んでるからでしょ」
    「振りほどいてよ!」
    「そのままで、って言ったのはあなたの方ですけど」
    「だ、だって……」
     一織と急接近するなんて、想像すらしていなかったのだ。吐息が触れる距離で、一織の匂いに包まれる距離で。
     真夏の眩い陽光で焼かれたように頬が熱い。鏡がなくとも、自分の顔がどれだけ赤くなっているのかわかるのだから、一織にもはっきりと見えているのだろう。
     いまさら顔を隠してももう遅い。心臓がどくどくと早鐘を打っている。きっとこれは聞こえていない、はず。
     どうかこの音は、聞こえていませんように。
     恥ずかしい。早くこの場から逃げだしたいと思う。どきどきが止まらない。心臓が胸を突き破って、彼の前に姿を現しそうだ。
     苦しい。だけど、もっと近づきたい。
     ──触りたい。
    「一織……」
     ぎゅうっと一織の袖を握りこむように強めに握って、ぱっと離した。
    「オレもう寝るね! おやすみ!」
    「おやすみなさい」
     もう、一織の顔は見れなかった。
     みんな寝ているかもしれないのに。頭でわかっていても、廊下に出ているのに、逃げ足は止まらない。
     自室に逃げ込んで扉を閉めて、ずるずるとその場に崩れ落ちる。手のひらで胸を押さえると、このまま破裂するんじゃないかと思った。
    「やっぱりオレ……一織のことが、そういう意味で好きなんだ」
     それはもう誤魔化しようのない真実だった。


        4


     一織が好きだ。ようやく自分の気持ちを素直に認めたものの、陸はその恋心を一織に伝えるつもりはない。今の距離感がIDOLiSH7にとっても、自分にも一織にも最善だとわかっているからだ。
     ファンも増えて、今まで以上に仕事も増えた。代わりにメンバーと過ごす時間は少しずつ失われつつもある。しかし距離が遠い今、一織への恋心を捨てるには好都合だった。
     以前の相棒以上の好きに戻そう。ファンとして応援しながら。


    「それは喜ぶところではないでしょうか?」
    「ううっ、……いや、まあ当たるとは思わなかったから、嬉しいは嬉しいんだけどさ」
     スマートフォンのメール画面とナギを交互に見つめて、陸はへにゃりと眉を下げた。
    「どうしよう……。ナギ」
     喜びよりも不安が勝ったのか、陸の腕の中にいるろっぷちゃん(和泉一織プロデュース)がぎゅうぎゅうと潰されている。
    (OH……ろっぷちゃんが潰れて変顔しています)
     指摘すべきか。ナギは悩む。
     しかし、もしも自分の大切な、大切なここなのぬいぐるみを自分自身で押し潰していると知ったら、その場で即座に土下座するだろう。今でさえ不安でいっぱいになっているのに、これ以上彼にストレスをかけるわけにはいかない。変顔になりつつも可愛らしいつぶらな瞳から目を逸らし、不安げな陸を落ち着かせるように肩に手を置く。
    「リクはどうしたいんですか?」
    「……やっぱり行きたいかな。オレも欲しいよ、一織のサイン」


     IDOLiSH7二度目のフォトブックが発売したのはつい先日の話だ。
     今回のフォトブックはメンバーのうち一人が対象者を撮影したものになっている。つまりプロのカメラマンに撮ってもらったものでなく、自然な彼らが楽しめるようになっている。また個人の写真だけではなく、数点ではあるがメンバーと一緒に写ってるものもある。読者に向ける顔と、仲の良いメンバーに向ける顔。今回のフォトブックは『いろんなIDOLiSH7を楽しむ』をコンセプトにしていた。
     陸のフォトブックには子ども用のビニールプールに環と一緒に浸かり、水鉄砲を撃ち合って遊んでいる写真が掲載されている。元々陸が提案したのはウォーターパークでの撮影だったが、施設を貸切る費用はないので即効で却下された。予算には限りがあったのだ。
     仕方がないのでホームセンターで購入したビニールプールを寮内の中庭に置いての撮影へと決まった。IDOLiSH7随一厳しいことで有名な一織監督の元、日焼け対策と風邪対策をして撮影に挑んだ。
     これは完全に余談ではあるが、環を狙ったつもりが撮影者であった一織に水鉄砲を向け、うっかり引き金を引いてしまった。その後陸はビニールプールの中で正座し、長いことで有名な一織のお説教を聞いた。一織には秘密しているが、そのときのびしょびしょに濡れてしまい前髪をあげた一織の姿も、陸のフォトブックに入っていたりする。
     一織のフォトブックはつい一週間前に発売したのだが、都内の書店では数時間で店頭から消え、ネット通販もすぐに売り切れとなった。ちなみに陸は予約していたので、無事に手に入れることが出来た。
     SNSでは「熾烈な戦いであった」とおそらくフォトブックを手に入れたであろう人たちの投稿があった。すぐに「和泉一織」「見つからない」「熾烈な戦い」という単語がトレンド入りを果たした。
     想像していたよりも好評で、即座に完売したことも影響してか問い合わせは多数あり、紡や万理を含めた事務員は次々来る問い合わせの対応に明け暮れていた。そしてようやく追加分が書店に並び始め、少し落ち着きを見せた頃、陸の元には和泉一織フォトブック発売記念のサイン会当選メールが届いた。
    「でも行ったら騒ぎになるし。……オレが行ったら一織も迷惑するよな」
     IDOLiSH7の知名度は高く、今やテレビや広告で名前を聞かない日はまずない。交通機関を使っての移動も難しくなり、もっぱらタクシーか、紡や万理による送り迎えが多くなっていた。
     それほどIDOLiSH7は知られているのだ。当日陸がサイン会に並んだとして、もしもファンの子にバレればすぐに大きな騒ぎになるだろう。結果一織のサイン会を台無しにしてしまう。それに同じグループのアイドルが、同メンバーのサイン会に行くこと自体可笑しな話だ。
    「当日がオフかどうかもわからないし、諦めようと思う」
     ろっぷちゃんを潰していた手を緩め、陸はようやく顔を上げて笑った。どこからどう見ても空元気な笑顔だった。そんな陸を見つめたのち、目を眇めたナギはしばしの間思案する。
     ──あ、……恰好いいナギ、というより綺麗なナギだ。
     傍に置いていたスマートフォンを手に取り、カメラモードにして反射的にナギを映す。シャッター音が聞こえているのか、いないのか。それとも陸による突然の撮影に慣れてしまっているのか、ナギは動じることなく静かに考えを巡らせていた。
    「いえ、ここはワタシたちの女神に相談しましょう」
    「マネージャーに?」
    「はい、ワタシにいい考えがあります」



    「一織さんのサイン会に、ですか」
    「うん。……実はオレ当選してて」
     当選メールを開き、マネージャーである紡にスマートフォンを見せる。すぐ確認出来るようにメールは保護しており、フラグの色は勿論推しの色である青色を選んでいた。
     彼女は大きな目をぱちぱちと瞬かせて「本当ですね」と呟いた。
    「やっぱりさ、行かない方がいいよな? 一織にもマネージャーにもファンの子にも迷惑かけちゃうし」
    「そうですね。……陸さんが行かれるとなると、大きな騒ぎになりますし」
     頭ではわかってはいたものの、紡に事実を言われると多少なりともショックを受けてしまった。
    「だよね……」
    「ファンクラブ会員限定とはいえものすごい競争率での中当選されていますし、私も陸さんに来てもらいたい気持ちは断然あるのですが。……普段のように変装をしてもおそらくバレてしまいますね」
     帽子を深く被りマスクをつけ眼鏡をしていても、人との距離が近ければ近いほど変装は見破られやすい。
     ノースメイアから帰って来てから、IDOLiSH7の知名度は一気に広まってしまった。さらにサイン会などの待機列は人と人との間隔が狭い。女性ファンが多い中、男性の陸が並んでいるだけでも好奇の対象になるだろう。
    「リクでなければ、問題ないのでは?」
    「それってどういうこと?」
    「ナギさん?」
     まさか陸の代わりにナギが行くとでも言うのだろうか。二人の視線を集めたナギはウインクした。
     背が高く人の目を惹く美形のナギの方が陸よりも目立つため、すぐにバレてしまうと思うが。
     一織のサイン会に並んだ瞬間に見つかって、ファンサービスをするナギの姿が容易に想像出来てしまう。しかもファンサはウインクと投げキッスとサインで、最後に一織と三月両者に叱られるまでがセットだ。
    「リクを素敵な女性に変身させましょう」
    「……えっ」
     紡と陸の声がハモる。しかし陸は信じられないという驚きで、紡はありかもしれないという感嘆の意味が含まれている。驚きは同じだとしても、それぞれが抱いた感情はまったく別物だった。
    「ナギさん、ナイスアイデアです!」
    「ちょっと待って、マネージャー! オレ、男だよ?」
    「陸さんが男性であることは知ってますよ?」
     お互いに首を傾げているのに、何故かニュアンスが若干違う気がする。慌ててナギに視線を向けると、私はやりきりました、という顔をしていた。
    「これでもオレ、身長百七十三センチもあるんだけど」
    「大丈夫です陸さん!! 女性でもそのくらいの身長の方は普通にいらっしゃいますから」
    「ワタシは百八十センチですね」
    「……ナギの身長、ちょっとでもいいから分けて欲しいよ」
     嘆いたところで今すぐ陸の身長は伸びないし、別の手段も出てこない。紡に至っては何故か仕事時のような熱意があった。
     さてどんなふうにコーディネートしようかと陸を置いて二人は話し始めていた。
     紡に相談もせず勝手にサイン会に応募し、行きたいと言った手前「女装は嫌だ」とは口が裂けても言えなかった。


     その勢いで事務所内にある衣裳部屋に連れ込まれた陸は、二人の着せ替え人形になっていた。
    「首元にはマフラーを巻きましょう。喉仏が隠せます」
    「アウターはリクが普段着ているパーカーでもよさそうですね」
    「下はスカートにしましょう! でも絶対にミニはダメです」
    「そうですね。ワタシも膝丈から下までの長さがいいと思います」
     次々といろんな種類のスカートを押し当てられる。こうでもないああでもないと熱心に審議する二人のつむじを見下ろしながら、陸は不思議に思ったことを問う。
    「ミニスカートを履くのは絶対嫌だけど、なんでダメなの?」
     素朴な疑問だった。顔を上げた二人は真面目な顔で同時に口を開く。
    「寒いからです。それに足を出してたらイオリに怒られます」
    「一織さんに叱られてしまいます。ただでさえ今年の冬は寒いのに」
    「えええ……」
    (それって、一織にバレる前提でオレの服装考えているわけ……?)
     確かに一織にならば、似合う似合わない、気持ち悪い云々の前に目を吊り上げて「馬鹿じゃないですか! そんな薄着で風邪引きたいんですか!! 今年の冬は寒いんですよ!」と陸を叱りそうだ。そして長々と説教したあとに「なんて恰好してるんですか……」と呆れた表情を浮かべるだろう。
     冷え冷えとした眼差しを想像しただけでも、背筋に冷たいものが走る。
     絶対にバレてはいけない。その一心で陸はプライドも恥も捨てた。
    「ナギ、マネージャー! オレをものすごく可愛い女の子に変身させてください」
     頭を下げる陸に二人は笑顔で頷いた。
    「勿論です! 一織さんがうっかり見惚れてしまうくらい、可愛い陸さんに仕上げてみせます」
    「イオリのサイン会が終わったら、リクはワタシとデートしましょうね」
     え、とまたもや揃った二人の驚きの声に、ナギは悪戯っ子のように片目を瞑るだけだった。

     
    「本当にこれで大丈夫……?」
    「とてもキュートですよ」
    「すごく可愛らしいです!!」
     少し大きめのネイビーのパーカーに淡いベージュのフレアスカート。陸が動くたび足元でふわふわと裾が揺れた。くるりと回ると円を描くように広がって、裾は足元でじゃれている。今履いているスカートと、ほぼ同じくらいの長さの衣装を着用してステージに立つことはある。だが下は勿論履いているので、激しく動いても気にならない。だが現在スカートの中は下着だけで、太腿辺りがすうすうする感触は心もとない。
    「大丈夫ですよ! その長さなら風で捲れたりしませんから」
    「そう、なんだ……」
    「階段も大丈夫です! スカートの中まで見えませんから」
    「そう、なんだね……」
     女の子って大変だなと遠い目をしながら陸は思った。
     靴は履き慣れた靴を勧められ、最近買ったばかりのスニーカーにした。赤地に青いラインが入っており、ショーウインドーに飾られていたものを何気なしに見て、それが視界に入った瞬間即座に購入を決めたスニーカーだ。見た目もいいが勿論履き心地も良い。
     IDOLiSH7のグッズであり去年販売した、A4サイズのクリアファイルも楽々と入るトートバックを腕にかける。そうして鏡を覗くと、眉根を寄せた自分の姿が鏡に映っていた。トートバッグの中には和泉一織のフォトブックと青色の手帳、大事なIDOLiSH7のファンクラブ会員証が入っている。勿論発作止めの薬もだ。
    「どこからどう見ても女の子です!」
    「……ありがとう、マネージャー」
     紡からの言葉なのに、かつてないほど嬉しくない褒め言葉だった。可愛い女の子にしてください、と懇願したのは自分なので仕方ないが、紡に言われると複雑な気持ちを抱いてしまう。
     たしかに同じ髪色のウィッグを被れば女の子に見えないこともない。肩まである偽物の髪は緩く巻かれて、横髪にはお気に入りのヘアピンがついていた。
     しかしこのようなゆるっとした可愛らしい服装は、隣にいるマネージャーにこそ似合うのではないだろうか。
     ちらりと視線を向ける。紡はいつものように紺色のスーツを着用しており、髪も後ろで結んでびしっと決まっていた。彼女はサイン会で一織のサポートをするらしい。今後サイン会を実施するメンバーのためにも、会場の安全性や問題が起こらないか確認するのだと張り切っていた。
    「一織さんも私も会場にはいますが、陸さん体調は大丈夫でしょうか?」
     心配そうな紡に陸は笑顔で頷く。
    「うん! 昨日は早く寝たし、それに最近はすごく調子がいいんだ」
     女性ファンが多いので懸念すべきは香水の匂いだが、何故か現在香水の着けすぎについて社会的に取り上げられている。つける量だけではなく、以前よりも香水をつける人が減ったのだと、化粧品を取り扱う店やフレグランスやコロンなどの香水の専門店の嘆きの声もあり、社会問題にもなっていた。
    「それに香水をつける人が減ってるみたいだし、大丈夫だとは思うよ」
    「……そう、ですね」
    「ナギもいるし」
    「安心してください紡。ワタシがリクを守ります」
     振り返ったナギの髪は金ではなく黒色だ。艶のある濡羽色の髪に、ナギ本来の瞳の色である青色が合わさって、雰囲気の違う美形に変身していた。黄金色の髪に澄んだ青い瞳はナギを異国の王子だと思わせるが、黒髪だと絵本に出てくる魔法使いのようだと陸は思った。
    「ナギ恰好いい……」
    「いつもの金色の髪も素敵ですが、黒髪も似合いますね!」
    「サンクス!」
     黒髪のナギはまったく知らない人に見えていたが、笑った顔は陸がよく知るナギそのものだ。釣られて陸も笑みを浮かべる。
    「ナギが知らない人に見えて変にどきどきしちゃった」
    「OH! どんな姿でもワタシはワタシですよ。今ワタシの目の前にいるリクが、リクであるのと同じように」
    「ナギ?」
     ナギの真剣な表情に困惑してしまう。どうしたのかと問う前に「目を瞑って」と静かな声で言われ素直に目を閉じた。そっと唇に何かを押しつけられる。衣装によっては薄く化粧を施されることもあるため、何をされるのか気が付いた陸は軽く唇を突き出した。が、途中でナギの動きが止まった。
    「……ナギ?」
    「今からリクに魔法をかけます。さあ、自分の姿を思い浮かべて」
     長い指がゆっくりと、形をなぞるように唇の上を滑っていく。落ち着いたナギの声を聞きながら、女の子の恰好をした不安げな自分の姿を思い浮かべた。
    「素直になれる魔法を。これは今日一日笑顔で過ごせる魔法です」
     今日だけはただのファンとして自然に、一織の前に立てる自分でありたい。
     やがて指は止まり、そっと離れていく。前髪を撫でつけられ、額にひんやりとしたものが触れた。目を開けて、とナギの声に導かれおそるおそる瞼を持ち上げる。
     目の前に一人の女の子が映っていた。髪にはダブルフラットのヘアピンをつけ、IDOLiSH7の和泉一織に会えることを心待ちにしている女の子。七瀬陸ではない、大勢の中のたった一人だ。
    「さあ、ワタシと一緒に出掛けましょう」


     サイン会の会場は駅前通りにある大型書店だ。土曜日の昼時ということもあり人通りが多い。昨日の夜からIDOLiSH7の和泉一織と書店名がトレンド入りを果たし、SNSではお祭り状態と化している。
     一目でも和泉一織を見たい、と抽選に外れた多くのファンが書店に詰め掛けていた。
    「すごいな」
    「ワタシのときはこれ以上ですよ」
    「ノースメイアから帰ってきて、さらにナギのファン増えたもんなあ」
    「ワタシたちのファンもですよ」
     マスクをした陸はナギに耳打ちをする。すぐさま返答してきたナギの言葉は自信に満ち溢れており、陸は笑いながら頷く。背が高く目を見張るほどの美形と、朗らかに笑う可愛らしい女性の姿。良くも悪くも視線を向けられることに慣れている二人は、注目されていることに気が付かない。目立ちはしても仲睦まじい様子から、声をかけようとするものはおらず、結果的に陸の変装がバレるようなことはなかった。
     予想以上の混雑に入場規制がかかり、外で待つこと一時間。ようやく入口の自動扉をくぐることが出来た。うっかり自分のマフラーを忘れてしまい、ナギが自分の首に巻いていたマフラーを外して首に巻いてくれた。いつも使っているものよりも、ずっと軽いのにあたたかい。
     高いんだろうな、と呟くとナギは意味深な笑顔を浮かべただけだった。
     店内は一部白いパーティションで囲われていた。入口と出口をわざと蛇行するように設置しているため、横から覗き込むことは出来そうにない。一目だけでも和泉一織に会いたいファンの子たちは落胆を見せ、店を出る者もいれば、そのまま店内を物色する者もいた。
     パーティションのすぐ傍では、すでに列が出来ていた。案の定女性ばかりだ。スマートフォンとファンクラブ会員証を片手にして持ち、受付係が一人ひとり本人確認をしていた。その中に数時間前に別れた紡の姿を見つける。遠目からも彼女が忙しそうにしていることがわかり、陸とナギは顔を見合わせて小さな笑顔を浮かべた。
    「マネージャー忙しそう」
    「そうですね」
    「サイン会に並んでるファンの子たち、すごく真剣な顔してるね」
    「好きな人に会いに来たことを実感したり、イオリと何を話そうかと考えているのでしょうね」
     青い顔をして列に並んでいる子を見つけてしまい、まるで自分のことのように胸が苦しくなる。
     陸が知る限りライブの観客席で見かけるファンの子たちの表情は笑ったり、泣いていたり、顔を真っ赤にして大きな声で名前を呼んだり、それらは決して緊張で強張った顔ではない。しかし、もしかするとライブ開始直前や会場入りする前は、みんな緊張でいっぱいいっぱいになっているのかもしれない。
    「次のライブも前回のものよりも、ずっといいものにしような」
     好きな人に会いにいく。
     それは簡単なようで、本当はとても勇気のいることだ。和泉一織の隠れファンである陸には彼女たちが眩しくて、それから少しだけ羨ましかった。
     眉を下げた陸にナギはふわりと優雅に微笑んだ。陸の頬にそっと触れる。
    「リクも顔こわばってますよ。笑ってください」
    「ちょっ、にゃぎ……うひゃはは」
     マスクの上から頬を摘ままれ、そのまま軽く引っ張られる。笑顔というよりも変な顔になっていた。しばらく引っ張りつづけて満足したのか、ナギは頬から手を離し「リクもそろそろ並んだ方が良さそうですね」と後列に促した。自由すぎるナギに頷く。
    「じゃあ行ってくるね」
     摘ままれた頬を擦りながらナギと別れ、列の後ろに並ぶ。トートバッグからスマートフォンとファンクラブ会員証、それからA6サイズの手帳を取り出す。静かに待っていると、ボードを片手にした紡が陸の傍にやってきた。
    「確認いたしますね。……はい、ありがとうございました」
     ありがとう、と言葉の代わりににこっと微笑む。声を出せば誰にバレるかわからないため、筆談でのやりとりを、とアドバイスをしたのは紡だった。
     ファンクラブ会員証とスマートフォンのみバッグに仕舞う。陸が最後だったようで、誰も陸の後ろに並ぶ者はいない。良かったと陸は安堵した。
     少しずつ前に動き始めた列にぶつからないように詰めていく。前に進むほど心臓の鼓動が早くなり、緊張からか冷や汗が出てくる。
     同メンバーの一織ではなくて、和泉一織に会う。ステージ上で彼の隣に立つのではなく、少し距離が離れている、彼の真正面に立つ。
     バレないだろうか。観察眼の鋭い一織のことだ、陸の変装に気が付くのではないか。
    (……一織)
     寮ではなく、仕事場でもない。知らない環境下で、陸としてではなく一ファンとして、一織に会う。
     ぐるぐると渦巻いた不安は形となり、じわじわと陸の喉を締め付けていく。ぐっと狭まった気管に顔を歪めた。
     
     バレたらどうしよう。
     気持ち悪がられたら、拒絶されたら、どうしよう。
     今後どんな顔で彼の隣に立てばいい?

    (落ち着け……)
     手帳を握ったまま胸を押さえて短く呼吸を繰り返す。マスクをしているせいもあってか、息がしずらい。水の中ではなく陸の上にいるのに、頭の中では自分が溺れてもがいているように思えた。
     必死に息を吸っていると、陸の前に立っていた女性がくるりと振り返った。苦しげな陸を見た瞬間女性は自分の鞄の中を漁る。
    「あなた、大丈夫?」
     差し出された手には青と赤のチェック柄のハンカチが握られていた。汚してしまうのも申し訳なくて、首を横に振る。しかしハンカチを持った手は気にすることなく汗ばんだ陸の額に触れる。
     女性らしい長い爪は綺麗に整えられており、青色と赤色が陸の目に映った。そっとハンカチを押し付けるように汗を拭っていく。
    「気にしなくていいのよ。もともとこういうときのためにあるんだから」
     つり目がちの瞳を緩めて女性は笑う。張りつめていた緊張が解けたように陸もふにゃりと笑い返す。後ろの様子がおかしいことに気が付いたのか、紡は慌てた様子で駆けつけてきた。
    「大丈夫ですか?」
    「彼女、具合悪そうだったんです。……でもさっきよりも呼吸も安定してるみたいで」
     ね、大丈夫だよね、と女性の気遣うような視線に陸は頷きながら、手帳を開きペンを滑らせる。
    『だいぶ楽になりました』
     紡と心配をかけた女性に見せ、続けて『ありがとうございました』と記入する。
    「本当に休まなくても大丈夫ですか?」
    『大丈夫、です』
    「もしまた具合が悪くなったら教えてくださいね」
     それだけ言って何度も陸の方を振り返りながら、紡は元の場所へと戻っていった。そろそろ開始時間となるため、一織の傍にいなくてはいけないのだろう。
     女性にもう一度お礼を伝えるため再びペンを握ると、おそるおそるというように話しかけられた。
    「あの、もしかして耳聞こえなかったりする?」
    『いえ、声が出ないだけです』
    「そうなんだ……あの、もしよかったらもう少しだけ話をしてくれないかな?」


         5


     女性はとても緊張しており、誰かと話をして落ち着きたいのだと言った。筆談なのでスムーズに会話出来ないかもしれない、と前置きして頷くと安心したような笑顔を浮かべた。
    「ありがとう、すごく助かる。ライブは慣れているんだけど、サイン会とか握手会みたいなイベントで直接アイドルに会うのは初めてで……」
     今にも心臓が飛び出しそうだ、と苦笑いする女性に陸もこくこくと頷く。
    『お姉さんは一織、くんのファンなんですよね?』
    「そうなんだけど、IDOLiSH7みんな好きだよ。……でもまあ、実は一織くんだけじゃなくて陸くんとセットで推してるの」
     ほら見て、と女性が肩にかけている鞄には一織と陸、それぞれのイメージカラーとモチーフを使用したバックチャームがついている。差し出されたハンカチも女性が使うには珍しい青色と赤色のチェック柄だったことを思い出して、陸はほんのりと頬を赤らめた。
    「もしかして、あなたもフラウェ推しだったりする?」
    『えーと、私は一織くん推しですね。あ、でも陸、くんもかっこいいと思いますが!』
     しょぼんと落ち込んだような女性を見て、陸は慌てて文字を書き足す。自分で自分をかっこいいと言うのもどうかと思ったが、文字を見て女性の表情は嬉しそうなものに変わっていった。
    「そうなの! 陸くんはかわいくて、でも歌っているときは男の子の顔してるんだよね。普段はかわいくて、かっこよくて……そのギャップがいい! もう何だろうね、陸くん。……本当にずるいわ」
    『ありがとうございます』
     ファンレターやライブの歓声とは違う生のファンの声に照れながらも、陸はテレビの中で見せる、見たものも釣られてしまうような幸せな笑顔を浮かべた。しかし興奮収まらない状態で、推しの話をしている女性は残念ながらそれに気が付かなかった。
    「で、一織くんはひたすらにかっこいい! 環くんと同い年で最年少なのに、大人びていてスマートにそつなくこなすところが素敵ね」
    『っ、そうですよね! 一織かっこいいですよね!!』
    「かっこいいよね! あとさ番組とかライブでも一織くんが陸くんを見守っていて、陸くんが笑顔になったら、一織くんも釣られて隣で笑ってて、それ見るたび尊い!! って思うの!!」
    『そ、そうなんですね』
    「ライブでさ、楽しくなった陸くんが一織くんにじゃれて飛びついて、一織くんがさ、ちょっと七瀬さんっ! って怒ったような顔するんだけど、陸くんが客席の方に向いた瞬間、こっそり嬉しそう顔するんだよ」
    (うわああっ……! なにこれっ、なにこれ! ものすごく恥ずかしいっ!!)
     例えばこれが自分一人だけの話なら、嬉しいの一言に尽きただろう。しかしこれは一織と陸の話だった。
     女性は一織と陸のやりとりを幸せそうに語り、陸は自分の頬を押さえた。マスク越しでもわかる。頬は発熱したように熱くなっていた。
    「一度、思いっきり一織くんの背中に飛びついて、最後にはおんぶみたいになってたのもかわいかった……! 何だかんだ言いつつも、一織くんも楽しそうだったし」
     高揚感やその場の勢いでじゃれていたので、陸はあまり一織の反応について考えたことはなかった。
     毎回ライブ後には「予定になかったことをしないでください」「飛びつきすぎです、危ないでしょ」と楽屋でのお説教が恒例だった。まさか一方的にじゃれて一織が嬉しそうにしていたとは、あのくどくど長いお説教のあとで思うはずもない。
     熱く語り、置いてけぼりにしていたことに気が付いたのか、女性は照れた顔でごめんねと謝った。
    「楽しくなってしまって」
    『いえ、お、私もお話聞くの楽しかったです』
     陸の予想を大きく超えた話ではあったが、自分たちのファンの生の声を聞けて嬉しかった。
     いつの間にか列もだいぶ前に進んでいた。和泉一織に会えるまで、あと十分程というところだろうか。列の先を見つめる陸の視線に気が付いた女性は「もう少しだね」と笑う。
    「センターを交代したときは、これからIDOLiSH7は、二人はどうなるんだろうって、はらはらしたんだけど一織くんも陸くんもお互い納得する形に収まって、陸くんセンター復帰して本当によかったと思った。一織くんのセンターもクールでそつなくこなしていてすごく良かったんだけど、なんていうのかな……IDOLiSH7のセンターってやっぱり七瀬陸くんだなあって感じた。だってさ、センター復帰のときの最初のライブ、陸くんも一織くんもどっちも嬉しそうだったから」
    『お姉さん……』
    「あ、でもね、どっちがセンターでも私はどっちも好きなの! 嫌いになんて絶対にならない。それだけは絶対に言えるんだ」
     頬を赤らめながらも、想いを口にする女性の言葉の力強さに、陸はうっすらと涙ぐみながら頷いた。
    「私ね、今日一織くんに会ったら言うつもりなの。あのとき一織くんがセンターでいてくれてよかった、って。ありがとうって、ね」
     陸の発作が酷く、周りからのプレッシャーに押しつぶされて一織にセンターをお願いしたあの頃。一織にセンターを続けてほしい、と思っていたファンも少なくはなかったはずだ。
     陸に帰ってきてほしいと思うファンと、一織に継続してほしいファン。確かにどちらもいたのだ。

     ファンの子たちが、センターは一織が良いと言ったことも、売り上げが良かったことも、すべて自分が否定されているようでただただ悲しかった。だけどセンターに復帰して一織のファンになったからこそ理解出来るし、一織がセンターであって欲しかったかも、と思う気持ちは和泉一織のファンの陸にほんの少しだけある。
     だけど、IDOLiSH7の七瀬陸は和泉一織に──一織に望まれるセンターでいたい。


     ──いえ、ここにいる会場の中で私が一番、七瀬さんのボーカルが好きです。

     センターに復帰した最初のライブでの、一織の言葉が常に七瀬陸を支えている。それは和泉一織のファンになる前も、なったあとも変わらない。変わることはない。


     だからこそ、陸は一織に幻滅されたくない。常に彼が望む七瀬陸でありたい。
    『きっと一織、くんも喜ぶと思います』
     もしかしたら、彼女の言葉にぐっときて泣いてしまうかもしれない。それは一織が泣き虫だからではない。自分も彼女の熱い言葉に泣きそうになったからだ。彼女の言葉を聴き、涙ぐむ一織を想像して陸はふふっと笑った。
    「話に付き合ってくれてありがとう」
    『こちらこそありがとうございました。緊張解けましたか?』
    「うん、でもまた緊張ぶり返してきたかも」
     前に並んでいた人が紡に案内されて奥へと進む。やわらかな一織の声と女性の感極まった挨拶が微かに聞こえ、思い出したように心臓が早鐘を打ち始める。
    『私も緊張してきました』
    「そうだよね、でもライブ前の緊張感に似ていて楽しい」
    『そうですね』
     どくどくと音が聞こえてきそうなくらい、陸の心臓は激しく胸を打っている。心臓が激しいのは変わらないが、並び始めたときとはまったく違う。今はひどく心が落ち着いていて、何も考えずに和泉一織に会うことを楽しめるような気がする。
     奥から紡が出てきて女性を案内した。
    「それじゃあ、お先に」
     見えなくなる瞬間、女性は振り返って手を振った。余裕があるのか、強がりなのかはわからない。陸も手を振り返し、女性の姿が見えなくなったところで息を吐いた。
    (思ったよりも緊張してないかも)
     一織と会話するためメモ帳は白紙のページへと変えておく。すぐに文字を書けるように間にペンを挟み、メモ帳を閉じた。
     そっと目を閉じると店内の音がより鮮明に聞こえてくる。穏やかなBGMと買い回り中の人の声。程よい喧騒はかえって心地良く感じる。
     しかしある一部の会話だけがすぐ隣のパーティションをすり抜けて、陸の耳へと届いてしまった。
    『一織に会いたかった……』
    『そういや、スーツ着た可愛い女性いたよね。あれってもしかしてIDOLiSH7のマネージャーかな』
    『多分そう!! 一織君が優しい顔で見ていたもん。あの二人すっごいお似合いだった』 
    『IDOLiSH7のマネージャーってすごい可愛いね……』
    『彼女になれるとは最初から思ってないけど、隣り合う二人見るとさあ、なんかこう、いろいろと敵わないって思うよね』
    『一織に彼女出来たら、ファンやめるわ』
    『まあ、その気持ちはわかるわ』
    『でもさ、マネージャーみたいな子だったら、私許せそう。だってさ一織君に相応しいもん』
     生々しい声に、熱した鉄で胸を焼かれるような痛みを感じた。熱で皮膚が引っ張られて思いきり引きつる。
     お似合いだと言われた紡と一織の姿を想像してしまい、ぐるぐると気持ち悪いものが胃にたまっていく。いっそ口から吐き出したくて、だけど吐き出せるほど、それと向き合うことが陸には出来ない。
    (なんで、オレ……マネージャーに嫉妬しているんだ)
     自分たちのマネージャーが可愛いことはわかっている。頑張り屋でいつだって自分たちを一番に応援してくれる、とても大切な人。
     紡と隠れて何かこそこそしている一織に、面白くないと感じたことは少なくない。耳打ちして笑い合っている姿にむっとしたこともある。だが一度だって、紡を嫉妬の対象で見たことはなかった。
    (嫌だ。こんな気持ちになるなんて……)
     もうすぐ自分の番がやってくる。紡が現れる前にいつもの自分に戻らなくていけない。
     袖で額を拭って陸はにっこりと笑って見せた。マスクで隠された頬は歪に引きつっている。
     おそらく上手く笑えているはずだ。大丈夫。最初から声が出せないのだから、言葉が震えることはないし、笑顔を浮かべていれば、おかしくはないだろう。
    「お待たせしました……大丈夫ですか陸さん」
     陸の様子に慌てて駆け寄り、こっそりと陸の名前を呼ぶ紡に大丈夫と小さな声で返す。
    「大丈夫だよ……マネージャー」
     ごめんね、と呟くと紡は首を横に振った。
     やはり彼女はやさしくて、頼りになるマネージャーだ。笑ってみせれば、強張っていた紡の表情がゆっくりとほどけていく。
     
     一織とお似合い? そんなの前からわかっていたよ。

     嫉妬するだけ無意味だと思う。何故なら一織と同じ男である陸は、一織と恋人になれない。
     そもそも最初から選択肢などあるはずがないのだから。



     いつだって一番星は最初に姿を見せるのに、陸の手には絶対届かないのだ。背伸びして手を伸ばしても、つま先を蹴って必死に飛び上がっても、手に入らない。手の内に収めることが出来ないから、高いところでうつくしく輝いている。当たり前の事実を陸は小さな頃から知っている。


     足を進めると見慣れた姿が見えてきた。
     寮内で一緒に過ごす一織とは違う、アイドルの顔をしている一織。陸が知っている仏頂面やしかめっ面ではない、和泉一織は穏やかに微笑みながら陸の到着を待っていた。和泉一織から少し離れたところに、紡と厳つい警備員が立っている。
    「こんにちは。和泉一織です」
     和泉一織に椅子から立ち上がり手を差し出した。陸はその手を取ることなく、トートバックから一織のフォトブックを取り出し手渡す。続いてメモ帳を取り出し、白紙のページに文字を書き込んでいった。
    『こんにちは。私は話せないので筆談させていただきます』
    「分かりました」
    『応援し始めたのは最近ですが、いつも一織くんに元気をもらっています。ありがとうございます』
     あらかじめ考えていた言葉を書きこんでいく。急いで書いているせいで、いつも書く字と比べるとひどく歪んでいた。少し見えづらいかもしれない、と伏せていた目を上げて和泉一織の様子を伺う。
    「ありがとうございます。私もファンの皆さんに元気をいただいています」
     それは本当に嬉しいときに浮かべる顔だった。
     一織が嬉しいと陸も嬉しくなる。大人びた一織が少し幼く見える笑顔に釣られてしまう。ふにゃっと笑いかけると、和泉一織の視線が揺れて明後日の方向にずれた。
    「かっ……」
    (か? か……、もしかしてかわいいって言いかけた? ……そんなわけないよなあ)
     陸が首を傾げると和泉一織ははっとしたような顔をしたあと、わざとらしい咳払いをした。何でもありませんと言われ、陸は不思議に思いながらもこくりと頷いた。
    『これからも頑張ってください』
     最後にその言葉だけ書いて、メモ帳を仕舞う。終わりだと背を向けると、慌てたような一織の声が飛んできた。
    「ちょっと……! あなた一体何をしに来たんですか!! 目的であるサイン忘れてませんか!」
    (忘れてた!!)
     和泉一織のサインが欲しい。そんな思いから勢いで応募し、乗り気ではなかった女装までしてここに来たのに、一番大事なことを忘れていた。
     自分のうっかりに火がついたように顔が熱くなる。穴があったら入りたいと思いながら、陸は俯き再び和泉一織の前に戻った。
    「ではお名前を教えていただけますか?」
    (名前!? そういえば転売を抑止するために名前を入れるとか、言ってたかも……)
     メモ帳を取り出しながら陸は即席の名前を考える。
     自分の名が『陸』なので、そこから連想して『海』という単語を思い浮かべた。急いでペンを走らせる。名前を考えるだけで正直なところいっぱいいっぱいだった。
     人間は書き慣れたものを無意識に書いてしまう。
    『七瀬』の七を書き、続いてさんずいを書いて『束』を入れようとして、はっと気が付いた。慌てて文字を書き換える。
    『七……海です』
    「七海さん。こちらはお名前ですか?」
    『はい!』
     力いっぱい頷けば、和泉一織は困ったような顔をした。
    「すみませんが、サインはフルネームで入れますので……」
    (苗字も!? ええと、それっぽい、なにかいい苗字!!)
     その辺にある物から連想しようと思ったが、周りには和泉一織と机と彼のフォトブックしかない。紡に助けを求めたかったが、彼女に視線を向ければ絶対に一織に怪しまれるだろう。忙しなく視線を動かし、表紙に書いてある和泉一織の文字を見て、不足していた苗字をメモ帳に書き込んだ。
    『泉 七海』
    「……あなたも泉さんなのですね」
     目を合わせないようにこくこくと頷いた。もう一織の顔は見れない。陸は机の上にあるフォトブックに視線を向けていた。
     長い指がページを捲る。傍にあった黒色のマジックを手に取り、一番最初の写真の余白へと書き込んでいく。慣れた手つきでさらさらと書き、使い終わったのか蓋をする音が聞こえた。
     見慣れない架空の名前と『和泉一織』という彼の名前。几帳面な字で真っ直ぐ表記しているアイドルらしくないサイン。彼のサインを初めて見たとき、メンバーのみんなから「それは書類の署名か」「アイドルらしさがない」と口々に言われていた一織のサイン。
     それは今、陸のために書いたサインとして目の前にある。
    「はい、どうぞ」
    「…………」
     差し出されたフォトブックを受け取る手が震えてしまう。落とさないよう両手で掴んで、まるで初めて出来た宝物のように、ぎゅっと胸に抱き込んだ。

     ずっとファンの子が羨ましいと思っていた。
     元々サイン入りのグッズは簡単に手に入るものではない。雑誌の企画で色紙や写真にサインを入れることはあるが、数はとてつもなく少ない。ファングラブ限定販売のブロマイドにもサイン入りのものもあるが、それは二千枚に一枚だけという確率で、そもそもの倍率が高い。陸自身購入しているものの、サイン入りブロマイドは一枚も持っていなかった。
     フォトブックを胸に抱え込んだまま、マスクを外して自分の頬を抓った。
     ぎょっとした和泉一織が視界に入ったが、それに構うことなく陸は強く自分の頬を引っ張った。痛みにぎゅっと眉根を寄せる。
     もう一度自分の胸の中にある一織のフォトブックを見て、それから和泉一織に視線を向ける。
    『ありがとう』
     音にはせず、一言一言ゆっくりと口にする。意識せずとも笑顔は自然に零れ、ありがとう、と今自分が抱いている喜びが伝わればいいと思った。どれだけ幸福なことなのか、知ってほしい。ファンの子を、陸を、今一織が幸せにしているのだと伝えたかった。

     声を出せないから代わりに表情で。自分がファンの子に貰った喜びを、一織にも伝えたい。
     知ってほしい、わかってほしい。
     ──一織がオレを幸せにしたんだよ。
     伝われ、と祈りながらもう一度笑いかけた。

    「お時間です」
     いつの間にか隣にいた紡に声をかけられて、笑顔のまま頷いた。深く頭を下げて、紡と警備員にも会釈する。まだ冷めない興奮のまま陸は出口へと足早に向かった。


     パーティションを抜けるとすぐそこにナギが立っていた。
     陸が駆け寄ると宝石のような綺麗な目を瞬かせて、やさしい顔を浮かべる。
    「どうやら上手くいったようですね」
    「……うん」
     白い指が陸の眦をそっと撫でる。指で涙を梳くい、大事なものが濡れてしまいますよ、とすかさずハンカチを出してくるあたり彼は本当に王子様だなと陸は思った。
     手が塞がっている陸の代わりにナギがハンカチで涙を拭っていく。肌触りのいい感触に目を瞑り、未だ興奮が収まらない陸はフォトブックが傷まないように、しかし本当にそこにあるか確かめるようにぎゅっと力を入れた。
    「ナギは買い物終わったの?」
    「勿論です! 今日発売のここなが表紙の雑誌は三冊買いました!」
    「三冊も!?」
    「NO! 三冊も、ではありません。三冊が最低数です!」
     ようやく落ち着いてきたのか涙も止まった。そのまま拭われていると、唐突に喧騒が大きくなった。後ろから紡が一織の名前を何度も口にしている。焦った声色で彼女が一織を呼ぶことはそう多くない。
     もしかして一織に何かあったのだろうか。
     さあっと顔を青ざめた陸は、ナギへと縋るような視線を向ける。ナギの瞳が一瞬揺らぎ、しかしすぐににこりと微笑んだ。
    「振り返ってください」
     流暢な言葉を聞き、陸は訝しげに振り返った。
    「っ……!」
     ぐっと驚きの声を飲み込んだ。突如現れた和泉一織の姿に買い物客は歓声を上げ、カメラのシャッター音が次々と鳴り響く。
     苛立ちを隠しきれていない一織の姿に、困惑した陸はナギを見る。先に動いたのは一織だった。
    「お忘れですよ」
     差し出されたのは筆談用のメモ帳だった。ろっぷちゃん柄のボールペンと一緒に一織の手に握られている。どうやら机に置いたままにしていたらしい。
     陸が受け取ろうとするよりも先に、ナギがハンカチを握っている方とは別の手を差し出した。一織からメモ帳とボールペンを受け取る。
    「ありがとうございます」
    「……いえ」
     ナギは普段と変わらない綺麗な笑顔を浮かべていた。陸とは違ってナギは動揺を見せない。それに対し一織は口角を上げた。傍目からは穏やかに笑っているようにも見える。だが普段から一緒に過ごしている陸は気が付いてしまった。これはまったく笑っていないのだと。
     鋭く瞳を眇めてナギを、それから陸を見ている。一織が醸し出す冷ややかな迫力にたじろぎながら、陸は一織が何故怒っているのかわからない。
     ──もしかしてバレた……?
     冷やかし目的で女装までして、自分のサイン会に来たとでも思われているのだろうか。だから一織は怒っているのか。
     胸の中にあるフォトブックをさらに強く抱き込む。例え冷たく罵られたとしても、これだけは渡したくなかった。
    「一織さん!!」
     紡が一織の傍で立ち止まった。困惑と動揺からか大きな瞳がゆらゆらと揺れている。
     陸、ナギ、最後に一織へと視線を向けた紡を安心させるように、ふっと瞳を和らげて今度こそ一織は笑った。胸がじくりと痛む。一織の姿を見ていられず、陸は俯いた。
    「……私に会いに来てくださってありがとうございました」
     すみません、と紡に謝罪する一織の声が聞こえる。「驚きました」と続いた紡の声に、陸は俯いたまま胸に抱いているフォトブックを強く抱きしめることしか出来なかった。



    「──リク? 大丈夫ですか」
     自分の名前を呼ぶ声にはっと意識を戻す。目の前には見慣れない黒髪のナギ。可愛く装飾されたテーブルの上にはテレビアニメ『 魔法少女まじかる★ここな』をイメージしたカラフルな料理が並んでいる。にっこりと微笑んでいるここなと目が合い、陸は自嘲の笑みを浮かべた。
    「ため息ばかりですね」
    「せっかく誘ってくれたのに、ごめん」
    「いえ、大丈夫ですよ」
     いただきましょうとスプーンを手に取るナギに倣い、陸はかぶりを振っていただきますと声を揃えた。
     ここなのマジカルオムライスには、作中に出てくる魔法天使というマスコットキャラが、ケチャップで描かれていた。絵を崩さないように端からすくい口に運ぶ。
    「っ、おいしい!」
    「ワタシのも美味しいですよ。どうぞ」
     あーん、と差し出されたチキンドリアを身を乗り出して食べる。やさしい味わいのホワイトソースと、とろりと濃厚なチーズが絶妙だ。お返しにオムライスを一口すくいナギの口に運んだ。
    「前に来たときはドリンクだけだったけど、ご飯も美味しいんだね」
    「そうですね。店内も、まじかるここなの世界をよく表していると思います!」
     店内にはアニメのOPとED、そしてここなが歌う劇中歌が絶え間なく流れている。時折近くの席から雄叫びも聞こえてくるが、それも含めてここな好きな人のための空間に心地良さを感じる。
     誰にも否定されない好きが集まった場所。隠すことなく堂々と、好きなものを好きだと口にして、愛することを羨ましく思う。
    「……いいな」
    「? 何がです」
    「隠さなくていいことかな。みんな幸せそうで、羨ましい」
     アイドルなのに同じグループのアイドルを推していることを、ファンの子にも、他のメンバーにも、一織にも絶対に言えない。
     もしも陸が女の子で、一織は男の子だったのなら、それならばまだ理解されるかもしれないが、陸も一織も男同士だ。陸が抱いている一織のファンである気持ちが、例え恋愛感情抜きだとしても、周りはそうだとは捉えてくれないだろう。
    「一織が好きなこと自体、可笑しなことに思えてくるんだ」
    「リクが持っているイオリへの好きは決して可笑しなものではありません」
    「ナギはそうかもしれないけど、周りはそうじゃないよ」
    「その周りにイオリも入ってますか」
    「……うん、一織もきっと可笑しいですよ、って言うはずだから」
    (そもそもオレ自身が可笑しいと思うんだから)
     楽しげだった雰囲気が気まずいものへと変わっていく。湿っぽい空気を払拭するように陸は笑った。
    「変な話してごめん。冷めないうちに食べよう。あ、確かコラボドリンク頼むつもりだったよね。オレも頼もうかな」
     カラフルなメニュー表を手にして「どれもおいしそうだな」と明るい声を出した。
     コラボドリンクを頼むと一つにつき一枚、コースタがついてくる仕様となっている。ナギが狙っているシークレットのここなが出るといいな、と思いながら陸はドリンクを選んだ。メニューを閉じ、注文しようと呼び出しボタンに手をかける。しかしボタンを押す前にナギが陸の手を取った。
    「ナギ?」
    「……でしたら、ワタシを好きになりますか?」
    「……え!?」
     てっきり場を和ます冗談だと思ったが、珍しくナギは真面目な顔をしていた。澄んだ青い瞳は揺らぐことなく、真っすぐ陸を見つめている。
    「仮にオレがナギのファンになったとしても、現状は変わらないんじゃ……?」
    「いいえ。リクがワタシを愛してくれたのなら、ワタシも同じだけ陸を愛しますよ」
     どこまでも吸い込まれそうな青色は陸だけを見つめていた。
     宝石のような美しい瞳でありながら、硬質さは無く代わりにあるのは穏やかな柔らかさだ。一織とは違うやさしげな瞳。
     一織の瞳はもっと凛とした涼しげな色だ。他のメンバーよりも一歩後ろに下がり、冷静に周りを見ている。だけどその涼しげな瞳が、誰よりも熱く燃えていることがある。それはステージ上で立っているとき。陸の隣で歌い踊り、眩しすぎるライトと会場を包み込む熱気の中、汗を流しながら一織は燃えるような瞳を、願うような瞳を陸に向けている。期待と自信を浮かべて。
     陸と同じ興奮を、熱意を、幸福をきっと一織も感じている。
    「リクがワタシを愛し、ワタシがリクを愛すのなら、何も可笑しくはないと思います」
    「それは……」
     一織を好きな気持ちを捨てて、ナギを好きになる。ファンの子みたいに黄色を悲鳴を上げて、ナギかっこいいと騒いで、ナギ本人にも直接伝え「リクも素敵ですよ」と返されて照れながらもお互い褒め合う。
     毎日が楽しくて、苦しくなくて、自己嫌悪することもなくて、それはきっと穏やかな幸せの形をしているのだろう。
     胸の奥から迫りくる衝動は、きっとない。

     何故自分は和泉一織のファンになったのだろうか。
     視線を逸らせば、自分の手をそっと掴んだ長い指が目に入った。白くて優雅なナギの指は形も美しい唇にそっと触れて、上品なキスを贈ることはある。だがピストルの形を取り、陸を撃ち抜くことは絶対にない。


     オレが一織のファンになったのは────
     頭の中にあの夜の映像が浮かび上がる。

     はあと吐き出した息は白を映し出し、空を仰ぎ見れば星はきらきらと瞬いていた。だけど自分の心は苦しかった。ナギのこと、天にぃのこと。
     ファンの子に嘘をつき続ける苦しさと、天にぃが隠していた理由を知って償うことも出来ない自分の無力さ。無神経さと薄情で、年下の一織に指摘されるような甘ったれで、人の足を引っ張ってばかりの自分が嫌だった。それなのに、ファンの子はオレを応援してくれる。会いに来てくれている。
     誰かの人生が、こんなオレのために動いていて、どうやって、その気持ちに応えればいいのかわからなかった。

     ──貴方がどれだけ貴方を責めても、私は永遠に、七瀬さんの弁護をします。
      
     ああ、そうだ。あのときは苛々してしまった。冷静な一織の弁護にむかついてしまって、苛々してしまったことに落ち込んで、元気を取り戻そうと一織にファンサをねだったんだ。
     恥ずかしげにバンと打った一織の姿に、それが天にぃがライブでよくするファンサだとは思わなくて、最後の最後に「顔を上げて」言われ顔を上げた瞬間。
     あのとき、オレは一織に心ごと撃ち抜かれてしまった。


    「ナギのことは好きだよ。メンバーとしても、秘密を共有している仲間としても」
     それは一織に抱いている好きとは違う。
     あの夜に撃ち抜かれた心臓の欠片は一織が持っているから。だから改めて考えても、きっと一織以上の好きにはなれない。なることはない。
    「可笑しくてもいいんだ。オレが一織を好きな気持ちは、きっと誰にも関係ないはずだから」
     掴まれていた指をそっとほどいて、自分の手元に引き寄せる。
    「ねえナギ。オレにファンサして」
     青い目はきょとんと幼げに瞬いて、ふっと優雅な笑みを浮かべる。綺麗なウインクを一つ陸に送り、ナギはやさしい眼差しで見つめた。
    「すっきりした顔をしていますね」
    「ナギのファンサのおかげで霧が晴れたよ」
     一織が好きだ。好きでいてもいいのだと、許されたような気がした。
     これから一織にどのように接するべきかはまだ決められない。だけど好きであることを恥じる必要はないのだとわかって、心が軽くなった。
    「リクの素晴らしい笑顔が戻ってきましたね」
    「きっと魔法使いがやさしい魔法をかけてくれたからだよ」


     寮に戻った陸は他のメンバーが帰って来ないうちに、着替えと片づけを済ませた。借りたスカートやトートバックは透けない袋に詰めて、見えないところに隠す。
     お気に入りのクッションに凭れ掛かり、膝の上には和泉一織がプロデュースしたろっぷちゃんを乗せる。本日新しく増えた宝物を壊れ物を扱うようにそっと手に取って、一ページ目を開いた。
     そこには見慣れた生真面目な和泉一織のサインと『泉 七海さんへ』と架空の人物の名前。もしも陸が一織のファンを辞めたとしても、あの瞬間の幸福は、自分の命が尽きるまで、きっと覚えていることだろう。
     愛おしげに何度も一織のサインをなぞる陸は、今日一番の笑顔を浮かべていた。



        6


     和泉一織サイン会のあと、一織にバレていないかどきどきしながら過ごしていた陸だが、一織の様子はいつも通りだった。警戒しながらご飯を食べていたからか、うっかりぽろぽろとご飯粒を落としてしまい「何をやっているんですか」と小言を言う一織はいつもと変わらない。麦茶を注ごうとして勢いよくテーブルに零してしまい、すでに手にしていた布巾でさっと拭いてくれるのも普段と同じだ。
    「何であのとき一織怒ってたんだろ……?」
    「隠しきれないワタシの魅力に、怒りを覚えたのかもしれません」
     今日は週一のまじかるここな視聴日だ。放送が始まる三十分前から、テレビの前で待機するのが信者の鏡だということなので、陸はナギの部屋で寛いでいた。
     大和と三月は地方ロケに出かけているので、三月の部屋にある大きなテレビで視聴することは出来ない。次に大きいテレビはというと、共有スペースに置いてあるテレビだ。それはナギの部屋にあるものよりも、もう一回り大きい。そのため共有スペースで視聴する案も出たが、陸の体調と、陸のお供であり常に一緒に過ごしているろっぷちゃんの存在を考慮した結果、三月が不在時はナギの部屋に集合することとなった。
     ちなみに三月は陸が和泉一織のプロデュースのろっぷちゃんを大事にしていることを知っている。こまめに洗濯するという条件で所持を許されており、一織には内緒にしてもらっていた。
    「ナギに?」
     そのときの様子を思い起こせば、確かに一織の視線は陸よりもナギの方に向いていたような気がする。しかし一織がナギに怒る理由もわからない。寮内ならまだしも、あの日は二人とも変装していて一織にとっては初対面だったはずだ。
    「サイン会は無事に終わりました。今はここなに集中しましょう!」
    「そうだね。考えてもわからないし」
    「魔法少女まじかるここな、はじまるよ!!」とテレビからはお馴染みのここなの声が聞こえる。青い瞳をキラキラと輝かせたナギに倣い陸も姿勢を正して、アニメを視聴し始めた。



     本人の知らぬ間に『好き』は育っていく。
     ただ見ているだけで満足だった『好き』はいずれ、私を見てほしいに変わり、際限がない。
     自分の中で育っていく『恋心』を自分でコントロール出来るほど、陸は器用ではなく、またその自覚すら芽生えていなかった。


     最後にウィッグを被りおかしなところはないか、スマートフォンのカメラ機能を使って確認する。横髪にお気に入りのヘアピンをさした陸は、カメラに向かって笑いかけてみた。
    「うーん……これで女の子に見えるかな?」
     前回女装したときはもっと可愛い女の子という印象だったが、鏡に映る自分の姿はあまりぱっとしない。ナギと紡がいないからかな、と陸は一人首を傾げた。
     大和と三月は地方ロケ、一織と環は学校、壮五はMEZZO”が受け持っている音楽番組の打ち合わせ、ナギは雑誌の撮影が入っており、陸だけがオフとなっていた。
    「マスクはするし……買い物に行くだけだから大丈夫だよね」
     ベッドの上で座っているろっぷちゃんに話しかけた。勿論ぬいぐるみなので返答はないが、つぶらな瞳で見つめられると、どんな言葉でも肯定してくれていると思えた。
     トートバックの中には保険をかけ私服を入れている。万が一、陸の帰宅が遅くなり先に誰かが帰ってきた場合は、女装を解いて寮に入るのだ。
     最後に青色のマフラーをSNSで見た片巻きリボンにする。慣れない巻き方と布生地の厚さにより少し歪になってしまったが、和泉一織のWiSH VOYAGE衣装のリボンのように可愛く結べた。
     まずまずの出来栄えに陸は満足げに笑う。財布とスマートフォンを手に取り、扉を閉める前にもう一度ろっぷちゃんへと振り返った。
    「行ってきます」


     デビュー直後は騒がしい街中をメンバーと共に歩いても、IDOLiSH7だと気づかれることがほぼなかった。
    『キミと愛ドリッシュないと!』では大阪の街をメンバー全員で歩き、芸能人オーラで気づかれようという企画を行ったことがある。道行く人々に自分たちのことを尋ねて、さらには頭文字に「あ」が付くとヒントを出しても「アンソニー」と複数人に答えられていたくらい、IDOLiSH7の名前も顔も認知されていなかった。
     だが今では「好きなアイドルグループは?」と道行く人に尋ねれば「Re:vale」「TRIGGER」に続き「IDOLiSH7」の名前が挙がるだろう。
     地下鉄にはIDOLiSH7の新曲の告知ポスターが掲示され、自動販売機には食品メーカーとコラボした缶ココアが売られている。街中の大型ビジョンに新曲のPVが映し出され、最寄りのコンビニでは、IDOLiSH7うさみみフレンズコラボの一番くじが販売されている。
     帽子とだて眼鏡、マスクで変装をしたところで、気付かれないよう街を歩くことはもう出来ない。気軽に外に出かけることは難しくなり、メンバー全員と外食をすることも不可能なほどだ。しかしナギとともに和泉一織のサイン会に出かけたときは、一日中誰にも気づかれずに済んだ。ナギは髪色を金色から黒にして、陸は女装で外見を大きく変えていたおかげだろう。
     一度やってしまえば、二度も三度目もそう変わらない。
     そう思った陸は自ら女性ものの服を着た。ウィッグ被り、ロングスカートを履く。さすがに化粧は出来ないので、マスクをつけてマフラーで首元の骨格を隠す。
     女装ならファンの子にバレずに、さらに男だけだと入りづらい店に入ることが出来る。声は出せない態で、店員さんと会話をするために筆談用のメモ帳とお気に入りのボールペンをトートバックに入れていた。
     顔馴染みの警備員に女装した姿を見られたときはぎょっとされたが、贈り物を買うためメンバーには内緒で変装しているのだと説明すると逆に応援された。似合っていますよと言われると、もはや笑うしかなかった。
     久しぶりに混雑した地下鉄に乗り、人波に流された。うっかり乗る予定の電車よりも一本早い電車に乗り込み、降りるべき駅で降りられなくなってしまった。一駅分の距離だしまあいいか、と見知らぬ駅で降りた。
     IDOLiSH7の七瀬陸になる以前の、ただの陸だった頃のように自由な気持ちで街を歩く。聞き慣れたメロディと歓声を上げる女の子の声。「この曲好き!」と嬉しそうな声に陸も心の中で「オレも好きだよ」と返した。
     街中に溢れる様々な声や音のおかげで、陸一人での外出も寂しくはない。時折じいっと観察されているような不快な視線を感じることもあったが、人混みに紛れ込めばそれらは無くなった。
     最寄駅ならば歩いて五分、一駅分歩いたので十五分かかってしまったが、陸は無事目的の店に辿り着いた。
     外装は童話にありがちな赤レンガ造りの家で、立派な煙突が付いている。入口前にはすらりとした黒猫の飾りがあり、写真を撮ったりそこで自撮りをする人もいた。店の扉をくぐるのも出るのも女性客ばかりで、思わず尻込みしてしまいそうになる。
     しかし今の自分は七瀬陸ではない、ただの女の子だ。和泉一織に贈る物を探しに来たファンの一人だ。
    (開けた瞬間一織がにやけてしまうそうになるプレゼントを選ぶぞ!!)
     この場の誰よりも熱い野望を抱きながら、陸は可愛い店の扉をくぐった。


     店内は明るいパステルカラーで飾られていた。日用雑貨から服飾、小さな飾り物にアクセサリーや文具など、幅広く取り揃えられている。スーツを着た女性から学校帰りの学生、子ども連れの親子など大勢の人で賑わっていた。
     どうやって使うのか想像し難い雑貨たち、飾って部屋を彩るもの。目を楽しませる不思議な品々に、陸の表情もくるくると変化する。
    (あ、一織が好きそう)
     ふと目に留まったのは、ふにゃりと気の抜けた顔をした黒猫のキャラクターだった。癒される顔というよりもふにゃっとした愛嬌のある顔をしている。お弁当箱やマグカップなどの食器類からぬいぐるみまで、たくさんの種類の商品があるようだ。
     気の抜けた猫のマグカップを手にした一織を想像してみる。可愛いが、ちょっとイメージに合わないかもしれない。
    (使ってもらえそうにないかも)
     マグカップや茶碗はすでに使っているものがある。欠けたり割れたりすることがない限り、新しいものを使うことはないだろう。
     ならば、よく使うタオルはどうだろうか。柄のないシンプルな青色のタオルを一織が所有していることを陸は知っている。
     こういった可愛いキャラクターの柄は嫌いではないだろう。しかしみんなに見える場所で可愛いタオルを使う一織の姿は想像出来ない。むしろ使われずに保管される線が濃厚だ。
    (三月に聞くべきだったかな……)
     商品を見て回れば、何かしらぴんと来るものがあるかもしれないと思っていた。しかし想像以上にプレゼント選びは難航している。自分のあげたいものを贈るのもありだとは思うのだが、どうせなら喜んでもらえて、なおかつ使用してもらいたい。
    「見て見て、これ一織君が持ってそうじゃない?」
    「一織くん大人っぽいから、青色とか黒色似合うよね」
    「好きなものはクールでシャープなもの」と女の子たちが声を合わせて笑っていた。和泉一織という単語に反応した陸はくるりと振り返る。
     彼女たちが囲んでいる一角に置かれている品々は、確かに和泉一織自身が公表している好きなものだった。そそっと近づいて陸は一つひとつ見ていく。
     黒色や青色の落ち着いた色合いの文具がそこに集まっていた。ボールペンからシャープペンシルといった年齢を問わない文具から、ビジネスの場に相応しい手帳や名刺ケースなどが品良く飾られている。可愛いメモには「男性へのプレゼントにおすすめです。ラッピングなどお気軽にお申し出ください」と女の子らしい丸文字で描かれており、購買意欲が促される。
     シックなデザインの文具は、和泉一織のイメージによく合っていた。陸は細身の青いシャープペンシルを手に取る。ノックしてみたり実際に筆記するように掴み、使い心地を確かめる。クリップにはメーカーロゴが金色で彫られており、シンプルながらも目を惹くデザインだ。
     これなら学校でもプライベートでも使えるだろう。ただしこれが一織の喜ぶ贈り物かと問われると、違うと答えるしかない。少しも喜ばないわけではない。だが和泉一織にサインをしてもらったときの、陸が抱いた幸せな気持ちには程遠い。胸がいっぱいになって、言葉すら満足に紡げない状態の幸福感。
     泣くほど喜んでほしい、とまでは言わないが、あのとき感じた幸福を一織にも返したい。
    (あともう一つくらい)
     一つがシンプルなものならば、もう一つはとびっきり可愛いものがいい。もふもふしたものにするべきか、ふわふわしたものにするべきか。それとも、もこもこか。挙げた三つの言葉がほぼ同一であることに、陸は気が付かない。
     再び店内をくるくると回ってみる。自分たちの色ばかりが集まったコーナーもあり、虹のイラストとともに手書きのPOPには「あなたはどの色が好き?」と書いてあった。
     昔から陸が好きな色は赤色だ。だからこそ部屋も赤色を基調としている。しかしついつい手に取ってしまうのは、一織のイメージカラーである青色だ。一度は青色のタオルを手に取ったが、すぐさま元の場所に戻す。
     手触りも色合いもとても良かったが、陸がこのタオルを寮内で使用するのは難しい。一織の私物と混ざると大変だし、いつも赤色を選んでいる陸が青色を使っていると知られたら、即座に和泉兄弟から取り調べを受けるだろう。
     三月ならまだいいが一織はだめだ。普段のお説教の長さから考えると、取り調べもきっと長い。黙秘権を行使してもあらゆる手で陸の口を割って、陸が隠している本当の気持ちに辿り着いてしまう。
     好きでいることは楽しくて、心がくすぐったいほどの幸せを感じるのに、同時にとてつもない苦しさを感じる。胸が締め付けられるような切なさを覚える。それは陸にとって、し慣れた息の吸い方を突然忘れてしまうようなものだ。
     じわりと黒い染みのように暗い思考が広がって、陸は慌てて首を振って気持ちを切り替えた。


    (一織の好きなろっぷちゃんを探してみよう)
     陸も好きになったろっぷちゃんのグッズは、店内の一番目立つところにあった。人気があるのだろう、その周りに集まっている人の数も多い。そして置いてあるのはろっぷちゃんだけではない。おともだちのみみちゃんやぺろちゃんとセットになったものや、それぞれの個々のグッズまである。それ以外にも陸が知らない色のうさぎもいるようだ。
    (か、かわいいっ!!)
     機能性の高いものからデザインが可愛いものまで、多種多様のグッズに陸の視線は忙しなく動いている。陸の自室にあるものよりも三倍大きい、もふもふしたろっぷちゃんのぬいぐるみを見つけたときは、頭で考えるよりも先に手が動いた。連れて帰ろうとしたが──抱き上げてみたもののあまりにも大きく、見つかった一織に叱られる未来図が咄嗟に浮かんでしまい──泣く泣く元あったところに返した。
     種類が多いことは結構なことだが財布の中身には限りがあり、欲しいものをすべてを買うことは出来ない。あまり大きなものだと貰う側である一織が困るだろうし、そもそも寮に持ち帰るのも難しい。そこそこ小さくて手ごろなものに絞って探すと、不思議と目に留まり始めた。
    (あ…………!)
     ふと迷っていた陸の目を惹いたのは、可愛らしいデザインのボールペンだった。ノック部分がろっぷちゃんで、頭を押して芯を出す仕組みだ。座っているろっぷちゃんが、両手で赤色のハートを持っているのも可愛い。
     これなら一織が喜びそうだ。ろっぷちゃんのボールペンを手に取り、隣にあった赤色のうさぎのボールペンも掴んだ。こちらはろっぷちゃんとは反対に青色のハートをぎゅっと大事そうに抱きしめている。なんとなくその様子が自分みたいだと思った。
     ようやくプレゼントが決まった。軽い足取りで陸はレジへと向かった。


     深青色に赤や白で点々と色を置いた、星空を彷彿させる包装紙。さらにその上から薄いトレーシングペーパーが巻かれた長方形の箱を眺め、陸はにこにこと笑顔を浮かべる。綺麗に包装してもらえただけではなく、同系色のメッセージカードまでつけてもらい、お礼の言葉が出せない代わりに何度も頭を下げた。
    「一織びっくりするだろうな……」
     帰ったらすぐに手紙を書いて、コンビニで発送手続きをしようと即座に決める。事務所で紡にこっそり渡すことも思いついたが、ズルをせずファンの子たちと同じように贈るべきだと考え直した。
     時間を確認すると、すでに午後三時を過ぎていた。みんなが帰ってくるのは早くても夕方過ぎなので、まだ時間には余裕がある。ここから寮までは徒歩二十分といったところで、寄り道をしても問題はない。
     何か買って帰ろうかな、とスマートフォンで周辺の地図を調べようとすれば突然話しかけられた。
    「ねえねえ、キミ一人?」
     髪を明るく染めた青年だった。耳にはいくつものピアスがついており、どことなく遊んでいそうな雰囲気だ。青年の問いかけに陸が素直に頷くと、青年はひゅーと歓声を上げた。
    「じゃあさ、お茶行かない? おごるよ」
     陸はぱちぱちと目を瞬かせた。
    (もしかしてこれは、ナンパされているのかな……?)
     ナンパだろうが、ただのご飯の誘いだろうが、七瀬陸とバレるわけにはいかない。いいえのつもりで首を横に振ったが、青年は「大丈夫だって。お茶一緒にするだけだから」と聞く耳を持たない。
     慌ててスマートフォンの検索エンジンを閉じ、メモアプリで文字を打ち込む。
    『ごめんなさい。用事があるので急いで帰らないといけないんです』
    「え、なになにー、もしかしてしゃべれないの!? キミのかわいい声聞きたかったな」
     すぐ後ろの大型ビジョンから流れているのは自分たちの──IDOLiSH7の新曲だ。陸のソロパートも流れていたが、青年はまったく気にも留めなかったようだ。
     諦めない青年を改めて観察する。風貌はどこにでもいそうな今時の青年だが、メンタルが強靭だ。女の子にぐいぐいといくことが苦手な陸は思わず感心してしまう。
    「なになに? そんなに熱い視線送っちゃって、俺に興味あるの?」
     そもそもこの青年は陸のことを、可愛い女の子と認識しているのだろうか。
     ナギの魔法がかかっていない今の陸は、かろうじて女の子に見えているかもしれない。しかし可愛いなどの形容詞がつくはずがないのだ。もしかして青年の言う「お茶しよう」というのは、宗教の勧誘や壺を買わせるための隠語なのかもしれない。
     現在ドラマ撮影で演じている名探偵に心の中でなりきり、素早く文字を打ち込んだ。
    『壺買いませんよ?』
    「へ? 壺? どこから出てきたの壺」
    『これを身に着けたら、みるみるうちにお金が貯まりました、っていうブレスレット? とかも買いません』
    「いや、だからどこから出てきたの……ってかそれ雑誌に載ってる怪しい通販商品じゃん!!」
     手でバツを作り首を横に振る陸に、さすがの青年も顔を青くさせた。「お茶するだけだよ。わかる? ゴートゥドリンク!!」となりふり構わない。そして諦めない。
    (いっそ走って逃げるべき?)
     スマートフォンをトートバックに仕舞い、さようならの代わりににっこりと笑いかける。つま先に力を入れて踏み出そうとしたが、それよりも先に腕を掴まれた。
    「なんだ、やっぱり一緒にお茶したいんじゃん」
     顔を赤らめた青年に今度は陸の顔が青くなっていく。
    「いいとこ知ってるから行こ」と腕を強く引かれ、本能的に身の危険を感じた。いやいやと首を横に振るが、青年は掴んだ腕を離さない。助けを求めようにも声は上げられないし、騒ぎを大きくして七瀬陸とバレてしまえば、事務所やメンバーにも迷惑がかかってしまう。
     これはもう行くしかないのか、と抵抗するのを止めた瞬間、慣れた感触が肩から伝わってきた。
    「失礼。こちらは私の連れですが、何か粗相でも致しましたか?」
    (一織!?)
     突然出てきたスーツ姿の一織に青年は鼻白む。自分よりも年下で、しかも高校生だとは思っていないだろう。
     一織は丁寧な口調で微笑みを絶やさない。笑っているのに圧を感じるのは陸だけではないだろう。掴まれていた腕はいつの間にか離されていた。
    「いや、別に何も……」
    「そうですか。では私たちはこれで」
     行きますよ、と困惑している陸の手を掴み一織は歩き始める。
     振り返ることも、話しかけてくれる素振りすらない。一織がどんな顔をしてるのかさえ、陸にはわからない。広い背中を見つめ、ゆっくりと視線を落としていく。
    (手、繋いでたんだ)
     ごく自然に陸の手を握り、それはあまりにも慣れた感触だったからか、目にするまで気が付かなかった。
    (知らない子でも一織は繋げちゃうんだ……)
     一織の手はあたたかった。反対にずっと外を歩いていた陸の手は冷え切っていた。


     そのまま歩き続けて、人気が少なくなったところでするりと手が離される。振り返った一織は困ったような顔をしていた。
    「すみません。困っている様子でしたので、あのように対応させていただきましたが……」
     良かったのだろうか、と余計な世話を焼いたことを気にしているようだった。
     返答しようと持ち歩いていたメモ帳を取り出そうとしたが、トートバックの底の方に入り込んでいて取れない。仕方なくスマートファンを取り出した。手早くロックを解除して、メモアプリを起動後すぐに文字を打ち込む。一織に見えるように画面を向けた。
    『助かりました。ありがとうございます』
     そういえば自分が話せないことを説明していないことに気づき、慌てて文字を足そうとしたが「以前サイン会に来て下さった方ですよね。筆談でやり取りをしたことを覚えています」と言われたので陸は頷いた。
    『一織さんが助けてくれなかったらついていって、もしかしたら今頃壺を買っていたかもしれません』
    「は……壺?」
     こくこくと首を縦に振ると、一織はわけがわからないという顔をしていた。追加で文字を打ち込んでどうにか説明したものの、やはり何とも言えない顔をした。カメラの前やファンの子の前では、常にアイドルらしい表情を心掛けているのに、一織らしくない。相当疲れているのかもしれないな、と陸は会話を終わらせようと言葉を打ち込む。
    『助けてくださってありがとうございました。これで無事に帰れます』
    「あの、そのことなんですが……途中まで送らせていただいてもよろしいですか?」
    (え?)
     驚いて一織を見つめる。しかし彼が冗談を言っているようにも見えない。一織はカメラの前でよく見る温和な表情を浮かべていた。
    「あなたは声を出せないので、先ほどのようなナンパ──いえ、強引な誘いを断れないでしょう? 声を出せない女性がおひとりで帰られるのは危険だと思います」
    『一織さんはお仕事があるのでは?』
    「今日はもう終わりましたので、お気になさらず」
     一織の申し出に陸は悩む。
     今の自分は女の子の恰好をしているし、サイン会に行くほどの和泉一織のファンだ。普通ならば和泉一織の提案を受け入れることが正しい選択だと思う。だが中身は七瀬陸だ。しかも陸の帰る場所は一織と同じ寮で、一緒に帰ると即バレてしまう。陸の女装だけがバレるのならまだましだが、サイン会に来たファンだと覚えられているため誤魔化しが効かない。
    『お気持ちはありがたいのですが』
    「さすがに家までは送りませんよ。途中までです」
     穏やかに笑っているはずなのに、どこか妙な迫力がある。そこまでこの姿の陸のことを気にかけているのだろうか。
     喜ぶべきはずなのに、ずきりと胸が痛む。
    『それなら、よろしくお願いします』
     断る方法を思いつかなかった陸は、結局一織の提案を受け入れることになった。


     一織と陸は黙々と歩いていた。一織が先導し、二歩ほど距離を空けて陸がついていく。歩きながら筆談をすることは出来ないし、そのことをわかっているであろう一織が話を振ることはない。
     ファンの子だったら黙って歩くことに退屈を感じていたかもしれないが、そこは陸だ。一織と過ごす時間には何も話さない時間もあるし、無言に対しても苦痛を感じない。二人でいることが久しぶりなのもあってか、逆に新鮮に感じた。
    (そっかオレ、一織と全然話してないんだ)
     ここ最近七瀬陸として仕事以外で話した記憶がない。仕事が忙しくなったことも原因の一つだが、すれ違っている一織と会話をすることがなくなった。
     ファンとしては和泉一織と会話をした。だけど陸としては何も話せていない。ノースメイアに行く前、一織は陸の一番近くにいたはずなのに、今はメンバーの中で一番遠くにいる。
    (満たされているはずなのに)
     新しいグッズは常に売り出されて、新曲は近日リリースされる。半年もすれば都市部八か所をめぐるライブツアーが開催されて、一か月後には八か月前に行われたライブのブルーレイが発売する。
     きっとファンの子は喜んでくれるし、陸も嬉しい。IDOLiSH7の七瀬陸としても、和泉一織のファンの陸としても。
     グッズも写真集も、あの楽しかったライブの映像だって見返せる。好評だった和泉一織のファンサービスだってテレビの前で何回も受けることが出来る。見終わって興奮のままナギに「恰好よかったー!」とすぐさま感想を口にしながら彼の部屋に突撃するだろう。新しいグッズを手にして、ライブの映像を見返して、和泉一織を堪能して、忙しくても楽しい日々は続く。
     なのに、どうしてだろう。
    (一織が遠い)
     現状に満足しているはずなのに、寂しいと感じる。
     手を伸ばせば届くはずの距離なのに、陸ではないから掴めない。とりとめのないことを話して、最近あったしょうもない出来事を話して、呆れられて、怒られて、そうして仕方のない人だと笑ってほしい。
     だけど話すことが出来ない。せっかくの二人きりなのに。
     零れ落ちた小さな雫はアスファルトに黒い染みを残す。ぽつり、またぽつりと。無意識に溜め込んでいたものがゆっくりと溢れていく。

     振り返ってほしい、話しかけてほしい。だけど穏やかに微笑むIDOLiSH7の和泉一織じゃなくて、素っ気なくて、素直じゃなくて、すぐに怒って、でもオレを心配していて、オレをコントロールするって言った一織に。
     オレが一織に抱いている、同じだけの好きがほしい。だけどそれは和泉一織からの『好き』じゃない。
     

     ──オレはずっと、一織の好きがほしかったんだ。

     
     塞き止めていたものは溢れ、やがて決壊してしまった。胸の奥から迫ってくる気持ちに俯き、強く唇を噛みしめる。嗚咽が零れないように。
     話しかけられてなくてよかった。話せない女の子を演じていてよかったと思った。
     だって声が出せないから、喉まで上がった好きは絶対に言葉にならない。想いを口にしてはいけない。
     手が震えているから、一織の手を掴めない。だから、よかった。
     口の中で鉄の味がした。今が冬でよかった。
     目ざとい一織に見つかっても、乾燥してたからうっかり切れちゃった、って言い訳出来るから。



     見慣れた建物が見えてきた。自分たちが暮らす小鳥遊寮だ。寮前や通りに人気はなく、この場にいるのは一織と陸だけだった。
     人気が上昇したことで、ファンの子が寮前で出待ちをするようになってしまい、気は進まなかったが事務所と話し合った結果警備員を雇うこととなった。それと同時に出待ちに対してファンサイトや会社のホームページ、SNSなどを使用して、お願いという形を取っていた。その甲斐あってか出待ちをするファンの数は圧倒的に減り、少しずつ平穏な生活に戻りつつある。
     寮手前で遠慮がちに一織の袖を引いた。振り返った一織にあらかじめ用意していたスマートフォンを見せる。
    『ここまでで大丈夫です』
    「そうですか」
    『ありがとうございました』
     軽く微笑んでみせれば、一織も同じように微笑む。やさしい笑みはファンの子に向けたもの。それは決して陸宛てではない。わかっていても胸がじくじくと痛んだ。
    『それでは』
     一礼して、一織に背を向ける。寮を超えた先に大きめの公園がある。ここ最近は気温の低い日が続いているため公園で遊ぶ子どもも少なく、遊ぶ子どもがいなければ親もいない。公衆トイレを利用して着替え、少し時間を潰してから寮に帰ろうと思っていた。
     刺さるような視線を感じつつ早歩きで歩く。不自然にならないように気をつけながら歩き進めて、寮の門を過ぎたところで突然腕を掴まれた。
    「っ、!?」
     息を飲む。何か忘れ物でもあったのだろうか。怯えた陸の心臓を止めたのは、やはり一織の言葉だった。
    「どこへ行くんですか──七瀬さん」
    「なっ……なんで」
     おそるおそる振り返る。一織はもう笑ってなどいなかった。
    「あなたの帰るところはここでしょ。目立つから早く入りますよ」
     有無を言わせず陸の腕を引いて寮へと向かう。顔馴染みの警備員に一織がすれ違いざまに会釈するのに対し、陸は顔を上げることすら出来なかった。


     靴を脱ぐときですら一織は陸の腕を掴んだままだった。どうにか靴を脱ぎ揃えることも許されず、引きずられるように一織の後を追いかける。
    「離して」
    「逃げる気でしょ」
    「……逃げないよ」
    「嫌なら振りほどいてください」
     どうして一織は意地悪なことを言うのだろうか。陸が振りほどけないことを知っていて、試しているのか。
     顔を見合わせても一織の感情は読めない。愛想のない仏頂面で、普段通りのようではあるが一織から苛立ちを感じる。
    「何故そんな恰好をしているのですか」
    「……買い物してただけだよ」
    「女性の恰好をして?」
     早く言えばいいのに、と陸は思う。
    「サイン会に来ていたでしょ」と一言言ってくれれば、陸はその言葉に対して終わりを告げることが出来る。さっさと断罪してくれたほうがましだ。一段ずつゆっくりと絞首台への階段を登らされているようで、今からおまえは死ぬんだよって言われているみたいで、ただただ苦しい。仕留めるなら一発で仕留めてほしい。
     あの夜のように。
     
     引き金を引いてオレを落としたのが始まりなら、もう一度、一織の手で終わらせて。

    「あなたは私が好きなんですか?」
     何ともない口調で一織が聞いた。そこに照れも喜びも嫌悪もない。まるで明日の天気を問うような、何気ない口調だった。
     目の前が赤く染まった。内側で怒りが炎のように燃え上がるのを感じる。膨張した星はいつか大きな爆発を伴って破裂するように。ぐっと嗚咽に似たものが喉から迫りくる。
     苦しい。苦しくて、思わず涙が出そうだ。
    「そうだよ……っ、好きだよ!! オレは和泉一織が好きなんだよ!!」
     最悪だ。言ってしまった。これ以上にない惨めな終わりだ。
     自ら切り込んできたくせに、呆気に取られた顔をする一織にますます苛立ちが募る。抑えきれない感情をぶつけるように、思いっきり腕を振り解いた。
    「七瀬さん!」
    「来るな!!」
     声は震えている。鏡を見なくてもわかる、きっと自分は今情けない顔をしている。
     一織がしてくれると言ってくれたスーパースターには似つかわしい顔で、陸は笑った。
    「わかってるくせに……ひどいな一織」
    「七瀬さ────」
     一思いに終わらせてくれたら、よかったのに。
    「……嫌い」
     一織を押し退けてその場を立ち去る。ひしゃげたように嗚咽が溢れて、次第に視界がぼやけ始めた。
     自室に篭りトートバッグの中身を取り出す。筆談のためのメモ帳、着替え、それから綺麗に包装してもらった星空の箱。
     一織に喜んで欲しい、自分の力で喜ばせたい。その一心で女装までして購入したプレゼントを胸に抱きしめながら、陸は一人泣いた。


        7

     目を覚ますと自室のベッドの上にいた。瞼は腫れぼったく、まだ熱を帯びているようだ
     いつ着替えたのか、記憶はまったくないが着ていた女性ものの服は畳まれており、その上にウィッグが置かれている。赤い髪の毛がラグの上に散らばっているのを目にして、ちょっとしたホラーだと思った。
     時間の感覚は曖昧だ。体を起こすとシーツの上に包装された箱が転がった。抱きしめた状態で眠ってしまったせいか、箱は軽く潰れ綺麗に結ばれていたはずのリボンは解けかかっている。すでに乾いているものの涙で濡れたせいで、トレーシングペーパーには点々と皺がつき、箱はひどい状態になっていた。
     いっそ惨めな気持ちと一緒にゴミ箱に捨ててしまおうか。
     スマートフォンを掴み、ロック画面を確認するとラビチャの通知が入っていた。ナギからだ。メッセージの受信時刻は十九時過ぎだった。
    『リクを訪ねたのですが眠っていたので、ミツキにオニギリを作ってもらいました。お腹が空いたら食べてください』
    『いつでも話してください。リクの気持ちが少しでも軽くなることを願っています』
    『元気になあれ』とウインクしたここなのスタンプを、最後に送ってきたナギはいつでもブレない。思わず笑ってしまい、陸はこの状況でも笑える自分に驚いた。
     ちょうど今、日付が変わったばかりだ。おそらくナギはまだ起きているだろう。傍にあったろっぷちゃんを引き寄せ、膝にのせて文字を打つ。空いている片手で頭を撫でた。ふわふわした手触りの良いろっぷちゃんは、ささくれた陸の心をほんの少し癒してくれる。
    『ナギにはたくさん助けてもらったけどね……オレね、』
     一度そこで指を止めた。大きく息を吸って、吐き出す。
    『もう和泉一織のファンやめる。ごめんね、ナギ』
     自分で打ち込んだ文字なのに、目にした途端ぐっと胸が締め付けられる。
     嫌いだからやめるわけではない。
     一織が好きだ。今でも好きだ。苦しくて、悲しくて、それでも嫌いにはなれなくて、涙とともに消えてしまうはずだった想いは、まだ陸の心の中にある。
     前髪に撫でるとひんやりとした感触が指先に触れた。取り外して眺める。
     照明の光を反射してきらきらと輝く青い石。和泉一織のモチーフであるダブルフラットをなぞる。形を覚えるように何回も何回も指でなぞり、そっと唇を寄せた。

     ──さよなら。オレの一番星。

     通知音が聞こえ、スマートフォンを手に取る。陸が想像していた通りナギはまだ起きていたようだ。
    『リクが決めたことです。ワタシのことは気にしないでください。ですが、プレゼントはどうするつもりですか?』
     シーツの上で無造作に転がっているプレゼントに視線を向ける。綺麗に包装してもらった箱は歪み、見た目が悪い。
    『箱も潰しちゃって……もう捨ててしまおうかなって思うんだけど』
     返答に少し悩んだが送信した。すぐに返ってくると思ったが、なかなか返ってこない。寝てしまったのだろうかと陸が歪な箱を手に持った瞬間、通知が来た。
    『ワタシはイオリに渡すべきだと思います。どんな形であれリクが一生懸命考えて選んだものです』
    『渡せる相手がいるのならば、ワタシは渡す方がいいと思いました』
     立て続けにメッセージが入る。
    「……ナギ」
    『勿論決めるのはリクです。リクが後悔しない答えを選んでください』
     続いておやすみなさい、と眠っているここなのスタンプが届く。陸もよく使う眠っている王様プリンのスタンプを押す。アプリを閉じてスマートフォンを置いた。
    「オレが後悔しない答えは……」
     ベッドから降りて、棚の前でしゃがみ込む。隠すように本と本の間に挟んでいたレターセットと買ったばかりのペンを掴んだ。
     手紙の内容はすでに決まっている。言葉を書き出す前に掴んでいたペンを置き、代わりにラップに包まれた三角おにぎりを手に取った。


     潰れたプレゼントの箱に、書き上げたばかりの手紙を添えて梱包する。部屋着の上からコートを着て、帽子を深くかぶる。マフラーで口元まで覆い顔を隠した陸は部屋の明かりを消した。
     もうみんな寝静まった頃だろう。気づかれないように寮を出る。
     顔を上げればすぐそこには満天の星空があった。きらきらと陸の真上で瞬きを繰り返し、決して手元にくることはない星々。そこにあるように見えるのに、実際は何億光年と想像を絶するほど離れている。
     ファンにとっての自分たちもそうかもしれない。ふとそんな考えが浮かんだ。
     届かないから美しい。見上げればそこにあって、触れられないけど次々と流星を落とす。すっと一筋の光が流れて、その一瞬を見逃さないようにファンの子たちは大きく目を開いている。
     始まりの夜と終わりの夜が同じような満天の星空であることは、どこか皮肉めいていた。


     
     IDOLiSH7は忙しい。テレビにラジオ、様々なイベントに引っ張りだ。バラエティやニュース、本業の音楽番組に料理番組、どの番組にも誰かしら呼ばれ、彼らの姿を見ない方が難しくなった。
     新しい企画に、雑誌の撮影、ドラマの主題歌のレコーディング。メンバー全員が揃う日もあるが基本は単体での仕事が多くなり、顔を合わせない日が続く。画面に映ったメンバーの見てようやく今日初めて顔を見た、ということもあった。
     そんな忙しさは寂しさも伴うが、陸にとっては好都合だった。
     抑え込んでいた想いを本人にぶつけたことにより、妙な清々しさがあった。勿論顔を見合わせるのはまだきつい。どうにか無理やり笑顔を張り付けて一織に接していると思う。
     だけど時間が経てば元に戻れるはずだ。だって好きであることは変わらない。好きの種類が友だちとしての好きに変わるだけ。

     部屋中に隠していた和泉一織のグッズを全て引っ張り出して、大きめの段ボールに片付けていく。ブロマイド、キーホルダー類は青色の缶の中に入っているので最後の方にしようと端に避けた。結局一度も飾れなかった一番くじのタペストリーは透明の袋に入ったままだった。和泉一織が載っている雑誌は数が多いため一番底に入れる。
     一つひとつ片付けていると、購入したとき、手に取ったとき、箱を開けたときの気持ちが徐々に思い返されてくる。
     変装してコンビニの一番くじを引き、和泉一織のグッズが当たってその場でガッツポーズをしたこと。上半身裸でベッドに寝転がっている和泉一織のグラビアが女性誌に掲載されたときは、朝一から本屋に並び買うつもりのない本で挟んだこと。宅配便が来て一織が出ようとするのをどうにか阻止して、荷物を受け取ったこと。
    (こんなにたくさんあったんだ……)
     段ボール半分まで埋まり、あと残すは缶に入った小さなグッズとろっぷちゃんのぬいぐるみ、サイン入りのフォトブックとなった。缶を開けて何が入っているのか確かめる。
     ブロマイドに和泉一織の衣装をイメージしたアクセサリー。それからお気に入りの、いつも身につけていたダブルフラットのヘアピン。
     ヘアピンの金属部分はところどころ剥げてしまい、石には小さな傷がついていた。大事に扱っていても、多少なりとも傷つき汚れてしまう。それでも陸にとって愛着のある大切な宝物だった。
     もう二度とつけることはないだろう。
     蓋を閉じて段ボールに仕舞おうとすると、廊下側からばたばたと足音が聞こえてくる。ナギだろうか。
     勢いよく扉が開くのを待っていると、予想通りけたたましい音を立てて扉が開いた。
    「何かいいことでもあった? それともガチャ?」
    「七瀬さん」
     押し殺したような声で名前を呼ばれ、陸は振り返る。
    「っ……え、一織!?」
     予想外の訪問者に大量のグッズを隠すことも出来ず、陸の動揺を映したかのように缶の蓋は外れて落下した。乾いた音が部屋に響き渡る。
     一織の手には陸が送ったはずのプレゼントと、封の開いた手紙が握られている。名前は無記名にしていたはずだ。
     どうして、と衝撃を受けて固まる陸に一織は構わず部屋に入り込んだ。大股で歩き陸の前で止まる。
    「この手紙に書いてある、ずっと好きでした、ってどういう意味ですか」
    「……そのままの意味だよ。オレはもう和泉一織を好きでいることをやめたんだ」
     届かなくてもいい、読まれなくてもいいと思って書いた手紙には陸の本当の気持ちを記していた。
    「ずっと好きでした。これからも応援しています」
     一織の前で読み上げる。不思議と陸の心は落ち着いていた。もう終わりを決めたから。今なら素直に伝えられると思った。
    「オレさ、ずっと和泉一織のファンだったんだ。一織が落ち込んでいるオレのためにファンサしてくれた日から、きっと和泉一織が、そういう意味で好きだった」
     相変わらず一織を前にしているからか、心臓は早鐘を打っている。だけど苦しくはなかった。
     一織への想いは今日を持って深いところへと沈める。もう出てこないように深く深く沈めて、和泉一織のファンだった陸からIDOLiSH7の七瀬陸へと戻る。
    「でも手紙にも書いていたと思うけど、終わったんだ。だからもう安心して──」
     突然生じた浮遊感に言葉が止まる。ぐらりと地面が傾いて、気が付けば陸の身体はベッドの上に転がっていた。缶の中身も零れて周りには和泉一織のブロマイドやグッズが落ちている。真っ赤なシーツの上に和泉一織の青色がまるで星のように散らばっていた。そしてすぐ傍には目を吊り上げた一織の姿。ぎしっとベッドが軋む音に、乗り上げられていることを知った。
    「え、えっ? い、一織?」
    「終わったんだ、ってなんですか! 私のことは、もう好きではないんですか!?」
     何故一織は怒っているのだろうか。
     最初に思ったのはそんなことだった。一織へと手を伸ばして、触れる寸前ぴたりと止めた。
     陸は一織のこの顔をよく知っている。普段通りに振舞おうとして失敗した、今にも泣き出しそうに堪えている顔だ。辛いを隠そうとして隠しきれない一織の姿に切なさを覚えた。
     胸が張り裂けそうになった陸はふいっと目を逸らす。
    「好き、だったんだ。もうファンはやめたんだよ」
    「あなたが本当に好きなのは、……IDOLiSH7の和泉一織なんですか! 画面の向こうの、私だけですか」
    「違う!!」
     失敗した。力強く否定した際にうっかり一織を見てしまった。悲しそうだったはずの一織はとても嬉しそうに笑っていて、陸はもう、一織から目を逸らすことが出来ない。
    「やめて……」
     和泉一織ではなく、一織が好きだ。
     一方的な好きで満足していた。グッズを集めて、一織の出ているドラマを見て、写真集を眺めるだけで満たされていたのに、いつしか一織からの好きが欲しくなった。欲しがって、それは絶対に手に入らないから諦めた。
    「教えてください七瀬さん」
    「違う……」
     なのに、どうして今期待させるようなことを言うのか。
     やさしく髪を撫でて、私を見てと言わんばかり頬に手を添えられる。
    「こっちを向いてください」
    「やだ……」
     和泉一織がよく見せる涼しげな表情ではなく、ましてや一織がよく浮かべている仏頂面でもない。何故彼はまるで恋焦がれたような、一織らしくない表情を浮かべているのか。
    「好きって言って」
    「言わない……」
     もう終わらせたのだ。あとはこの想いを深いところへと沈めたいのに、それを一織が許さない。誤魔化しきれないところまで追いつめられて、必死に陸は抵抗する。
    「私のこと好きって、顔に書いてありますけど」
    「……書いてないもん」
     指を絡め取られて、視線が絡み合う。温度に触れて、力強さに、熱に、初めて一番星が自分の手のひらに触れていることを知る。小さく囲った薄暗い内側で、うつくしく輝いていることを理解させられる。
    「……なら今からキスをします。嫌なら避けてください」
     なんてずるい男だ。和泉一織だったら、きっとこんな卑怯な手は使わない。
     一織は陸を手に入れるために、欲しいものをちらつかせて、食いつくのを待っている。
     陸が本当に嫌ではないことも知っている。
    「ずるい、いおっ……んんっ……」
     好きなひとから与えられるものを陸が避けられずはずもなく、ゆっくりと唇が重なる。初めてしたキスはやわらかくて、やさしくて、ただただあたたかった。

     


     和泉一織のファンは忙しい。撮り溜めした和泉一織主演の連続ドラマを一気見しなくてはいけないし、最近発売したIDOLiSH7のライブDVDも見なければいけない。発売したばかりの雑誌のインタビュー記事も読まなくてはいけないし、彼がSNSに上げた呟きだって追いかけたい。見たいものが多くあり、和泉一織を推している人は大変だと陸は思う。
    「はあ……かっこいいなあ」
    「また和泉一織ですか」
     陸の膝の上には和泉一織がプロデュースしたろっぷちゃんのぬいぐるみ。本日発売の女性誌を開いた陸はふにゃりと幸せそうな笑顔を浮かべている。そしてそんな陸の隣には面白くなさそうな顔をしている、ただの一織。
    「だってさ、前髪あげてる一織大人っぽくてかっこいいんだよ」
    「……前髪あげている方がいいんですか」
     大人っぽく微笑んだ和泉一織を褒めるとすぐに雑誌の中の自分と対抗しようとする。
    「オレ、普段の一織も大好きだよ! 今の一織は可愛くて好き」
    「可愛いは余計です!」
     ふふっと笑った陸は一織の名前を呼んだ。顔を向けてきた一織の頬に唇を落として耳元で囁く。
    「嘘だよ。一織はいつでも恰好いい」
     好きだよ、と今度は陸の方から唇を重ねた。


     手に入らないと恋焦がれていた一番星は今、陸の隣にある。
    水無月ましろ(13月1話更新) Link Message Mute
    2023/10/01 0:22:14

    一番星に撃ち抜かれたあの夜から。【いおりく】

    第4部第5章第3話 「顔を上げて」のifストーリー。
    もしも陸が和泉一織のファンになったのならば。


    だいぶ前に発行した本の、本編のみの公開。
    本をお手にとってくださった皆様、本当にありがとうございました…!



    いおりく

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