13月の花嫁【にょりく】3月のやくそく
埃一つない綺麗な白い部屋の中、ぐるりとベッドの周りを囲む無機質の機械は生存維持装置。それらは七瀬陸が生きるために必要不可欠なアイテムだった。
桜が咲き始めた春の時期。閉じた窓から雲一つない晴天であることを確認する。
今日はいつもよりも調子が良かった。起き上がり、スリッパを履く。ぺたんぺたんと足音を立てて、陸は病室を出た。
慌ただしく走り回っている顔馴染みの看護師に手を振り、両親を探す。さすがにぺたんぺたんの足音が恥ずかしくなって、だったら忍び足と変えたことがすべての始まりだったのかもしれない。
陸の病室から少し離れた面会者の休憩所に二人はいた。白い頬に血色が差す。駆け寄ろうとした瞬間、悲痛な母の声が陸の耳に入ってしまった。
「陸は……私たちの娘は大人になれないということなの……」
「お医者様はそうとは言っていないし……わからないだろ」
「なれるとは言ってないわ! ねえ、どうしてあの子なの! どうして陸ばかり……っ」
泣き出した母を父が抱きしめる。陸から見えるのは二人の背中で、表情まではわからない。けれど母の泣き声が、父の弱々しい声が、真実を物語っているのだと気が付いてしまった。
(ああ、そうなんだ)
残酷な事実は幼い陸の前に落ちてきた。自分でも驚いてしまうほど冷静に、大人になれないのだと受け止めてしまった。
(ごめん……お父さん、お母さん)
涙は出なかった。胸は苦しくて、二人に気づかれないようにさっとその場から立ち去った。
うっかり知ってしまった自分の命の期限。陸は誰にも悟られないように明るく振舞った。
敬愛する双子の兄にすら隠し、笑顔の仮面をかぶり続けていた。
期限を知ったところで何も変わらない。陸の生きる場所は広々としたこの個室だ。
「陸さん、変ですね」
「変、って何?」
だけどたったひとりだけ、年下の、しかしあまり年下らしくない幼馴染は陸の変化に気が付いてしまった。
「普通に話しているようですけど、本当は元気ないんじゃないですか」
「そんなこと、ないよ」
「別に話したくないなら、それでいいです」
今日もまた学校帰りの和泉一織は陸の病室を訪れた。小さな花束を握って、重たいランドセルを背負ったまま。陸よりも少し背の低く、並んで立つと聡明な瞳が少し上目遣いになるのが可愛く思っていた。
優秀な幼馴染は毎日のように陸を訪ねてくる。学校で配られたプリントを持ってきたので、と何でもないように言いながら、本当は自ら陸の担任から受け取っていることを陸は知っていた。
「なんで、一織は」
優しいの? そこで言葉を切って、陸はかぶりを振った。
「何ですか?」
「ううん、一織は好きな子いる?」
「……いません」
「そっかあ……あのね、りくね」
大人になれないんだって。
さらりと口にするつもりが、途中喉で引っ掛かってしまった。
あ、一織も泣いてしまうかな、と慌てて一織の顔を見たが、彼の表情は変わらなかった。
「それで?」
「えっと、ええとね」
両親が話しているのを聞いてしまったこと、看護師が時々悲しい顔をしていること、天には言えなかったこと。胸の中に仕舞っていた言葉は一織を前にして次々と溢れた。だけど涙は出ない。
淡々と事実を語る自分の姿は、何だか少し恐ろしかった。
「りく、お姫様になりたかったんだ」
この間ドラマで見た結婚式のシーンで、純白のドレスを着た花嫁が幸せに笑う姿が強く心に残っている。周りに祝福されて、大好きな人に抱き上げられて幸せに微笑む花嫁になってみたい。
死ぬのは怖くないけれど、結婚式は挙げてみたかったかもと口にすると一織は立ち上がった。
「だったら……私がその願いを叶えます」
「え? でもりくは大人になれないんだよ?」
「私が十八になったら結婚できますよ。だからそれまでは頑張って生きてください」
「……無茶言うなあ」
一織の言葉に確実性はない。陸自身自分が何年生きられるのかわからない。
「約束してください。結婚するまでは私を置いていかないと」
「……努力する」
「だめです。約束して」
「わかった。結婚するまで、絶対一織を置いていかない」
仏頂面がゆるむ。珍しく一織が笑ったと思いきや、彼はベッドボードに置いた花束からたんぽぽだけ抜き取った。
「指切りしますよ」
「ええ? そこまでする?」
「わかりました。今度契約書を持ってきます」
「指切りでお願いします」
声を揃えて歌う。指切りはもう何年もしておらず途中絡めた小指を解こうとしたら、強い力で搦め取られた。華奢な一織が見せた力強さに陸の方が約束を守れるのか心配になってきたが、だけど不思議と心は軽くなった。
「婚約指輪です」
「わあ、手慣れてる……」
たんぽぽの茎を輪にし、編み込むことですぐに指輪が完成した。手際の良さに他の女の子に贈ったことがあるのだろうかと邪推してしまう。
陸の疑いの眼差しに気が付かなかったらしい一織は陸の左手を取り、薬指の指輪を嵌めた。躊躇せず、真顔でさっと嵌めこむから、何だかもう可笑しくて声を上げて笑ってしまった。
「笑うところありましたか」
「あったよ! でも一番は嬉しいから笑ってるの」
自分の余命を知って誰にも悟られないように明るく振舞ってきた。本音を語ることも、笑うことも久々だったのだ。
不安が解消されたわけではない。だけどこの一方的な約束が陸の心を前向きにさせた。
「ねえ、一織。どきっとするプロポーズ楽しみにしてる!」
「今したばかりだと思うんですけど」
「おかわり!」
「欲張りな人だな」
幸せな未来は約束されていない。だけどこの聡明な幼馴染ならば、必ず陸に純白のドレスを着せてくれるのだろう。この指に嵌めこまれた指輪の「幸せ」という花言葉通りに。
6月のはなし
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
「……宮沢賢治ですか?」
「そう、永訣の朝だよ」
命の期限を知ってしまってから一年と数ヶ月。別れと出会いの季節に婚約して一年が経った。
相変わらず陸は病院のベッドの住人で、隣に住む幼馴染は週三回訪ねてくる。小さな花と、頻度はそう多くはないが美味しそうな焼き菓子を渡されることもある。
一織の両親は洋菓子店を経営している。そんな彼が持参するものはケーキなどの日持ちしないお菓子ではなく、うさぎやねこの形のクッキーや、日持ちするチョコチップマフィンだ。可愛いそれらに赤色や青色のリボンで蝶々に結んでくれるからそのたびに陸は綺麗に解き、ベッドサイドの引き出しにはたくさんの種類のリボンが眠っている。時々読みかけの本の栞代わりにすることもある。
双子の兄に髪を結んでもらった陸は珍しく二つ結びのおさげで、青い蝶々がそれぞれにとまっていた。
「一織は宮沢賢治好き?」
「好きか嫌いかで言われると、どちらでもないです」
「わたしはね、結構好きだよ」
「唐突に変化球投げないでください」
見舞いに来た一織と特段何かをすることはない。一織は図書室で借りた本を読み、陸は家族に頼んで図書館から借りてきてもらった本を読む。まったく同一の本がこの病室で混ざり合ったとしても、借りた場所が違うのだから困ることはない。
「注文の多い料理店は去年の教科書に載ってて、すぐ読んじゃった」
「ああ、疑うことを知らない二人の紳士の話ですね」
「辛口すぎない?」
「はらはらするよりも、まず呆れました」
同じ話を読んでも出てくる感想が違いすぎる。驚いた陸は目を大きく開き、それからころころと声を上げて笑った。赤毛に止まった青い蝶々リボンが左右に揺れる。
「一織は騙されそうにないよね」
「そういう陸さんは、あっさり騙されて食べられそうです」
「ええーっ? ね、わたし……美味しいと思う?」
「……知りませんよ」
そんなこと。
小さな顔が逸らされた。背もたれのない丸椅子に座っているのに一織の背はしゃんと伸びていて、だからなのかいつの間にか目線は同じくらいになっている。
形のいい耳は少しだけ赤い。もしかしたら照れているのかもしれない。じいっとまるい横顔を見つめているとまた目線は手元の本へと戻っていった。
「うすあかく、いっさう陰惨な雲から」
──みぞれはびちょびちょふってくる。
陸の手元に本はない。もう諳んずることができるほどに永訣の朝を読み込んで、窓の外を見つめながら呟いた。
雨が蕭々と降っている。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
雨雪を取って来なくとも、陸の病室には飲み水がしっかりと備えられている。それだけではない。
体調が急変した時にはナースコールという、命を繋ぐものがある。定期的に誰かが訪ねて、陸の様子を見に来てくれる。
それに────。
ちらりとまた隣に座っている幼馴染を見た。陸の視線に気が付いたであろう、やわらかな頬を赤く染めたかわいい年下の、いずれは陸の王子様となる少年は顔を上げる。聡明な双眸に心配そうな色を浮かべていた。
「どうかしましたか?」
「ううん、何か一織のこと、好きだなあって思って」
「っ! そ、そうですか」
期限付きの命を持つ陸を花嫁にすると約束した一織は、さらに頬を赤らめて、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
雨はまだ止みそうにない。空から地上へと降りそそぐ音に耳を澄ませながらも、陸は楽しそうに声を上げて笑った。
8月のデート
蝉の鳴き声が響き渡っている。
テレビをつけるとどの番組でも熱中症というワードが出てきては、間で頻繁に冷房機器や清涼飲料水のコマーシャルが流れる。美味しそうだなあと思いながら陸は氷なしの冷たい麦茶を口に含んだ。
病室は暑すぎず、しかし寒すぎることなく快適な室温が保たれている。
珍しく調子がいいため、本日の陸の装いはサマードレスだ。夏を代表する黄色の向日葵がプリントされている。膝が見え隠れするくらいの丈で、白い足がすらりと伸びていた。
涼しげな恰好をした陸の姿に一織は目を瞠った。彼はちょうど陸の病室に足を踏み入れたばかりだった。
「どこかへ出掛けるんですか?」
「うん」
「そうですか。それではまた明日来ます」
お大事に。
お見舞い品を渡した後完璧な回れ右を見せた一織の腕を陸は慌てて掴んだ。
「違う違う! 一織とデートするの!!」
「初めて聞きましたが?」
「だって今決めたもん」
「……それで、どこに行くんですか?」
一織の腕を掴んだまま、笑みをさらに深めた陸はもう片方の手を伸ばして麦わら帽子を取った。
内緒、と内緒話にしては大きな声で告げた幼馴染の姿に、ため息ひとつ。荷物をいつもの場所に置き、掴まれた手を滑らせて繋ぐ。
少し迷ったが恋人繋ぎはまだ早いと一織は即座に判断した。
「いいの?」
「陸さんが決めたんでしょう。従うだけです」
「そっちじゃなくて……っ」
もごもごと呟く陸に、手の方か、と気が付いたがわざと力を込める。昔よりも細くなった手が解けないように、痛くない程度にそれでも強く。
小さな頭に麦わら帽子を被せる。室内にいるため違和感は強いが、真っ赤になった陸の顔を誰にも見せたくない。普段もかわいいのに、照れた顔はもっとかわいい。笑った顔はさらにだ。
「行きましょうか」
「うん? 先に歩いてくれないの?」
「……はあ、内緒ってつい先ほど言われたばかりなんですが」
「あっ! そうだった。それじゃあ、行こう!」
半歩先を歩く陸について行く。勿論手は繋いだままで、後ろから見え隠れする耳がまだ赤いことに満足を覚えつつ一織は彼女の後ろを追いかけた。
途中途中出会う顔馴染みの看護師や医師に冷やかされながら、到着したのは中庭だった。
病院の小さな植物園とも言われるほどしっかりと手入れされており、広いスペースを四分割し、春夏秋冬に分けて季節の花が植えられている。
東屋がいくつか建てられ、入院患者や見舞いに訪れた来客の憩いの場でもある。
「陸さん、少し休憩しましょう」
いつもよりもはしゃいでいる陸の体調に気を付けながら、一織は空いている東屋を指した。
八月初旬にもなると午前の時間でも陽射しが強く、ひどく暑い。
何も頓着しない陸が座ろうとするのを一度止めて、ハンカチを置く。どうぞ、と促すと陸はじっと上目で見つめてきた。陸がそこに腰かけるとサマードレスの丈から白い太腿が覗く。一織はそっと視線を外した。
「パーフェクトすぎない?」
「それ褒めているつもりなんですか」
一緒に持ってきたペットボトルのお茶を開けてから手渡すと、陸は真っ赤な頬を膨らませた。
「なんか恰好良いんだけど」
「水分補給してください」
「はあい」
傾けてゆっくりと飲み始めた陸に一織は安心する。少し歩くだけでも全身から汗が噴き出る暑さだ。外に出られない陸の身体は夏の暑さに慣れていないだろうし、熱中症にもなりやすいだろう。
もう一枚持ち歩いているハンカチを取り出して額に浮き出た汗を拭う。張り付いた細い髪の毛を指でよけて、湿った髪を手櫛で整えた。
世話を焼かれることに慣れている陸は最後まで一織にされるがままだった。
「……一織は、友達とかいないの?」
「…………」
とうとう来たか、と一織は思った。沈黙を何と勘違いしたらしく焦ったような言葉が続く。
「あ、友達いないとか、そういう意味じゃなくて……いつもわたしのところに来てくれるから、一織自身の時間はどうなるのかなって」
思ったんだよ。
だんだんと声は小さくなり、やがて俯いてしまった。麦わら帽子のつばがさらに影を作り表情を隠す。
「私は人と関わるのが苦手なんです」
「そうかな」
「その代わり、関わった人には責任を持ちます」
「責任?」
細い手を取る。そっと指を絡める形にすると、陸は顔を上げて小首を傾げた。
遠回しに告げたせいかぴんと来ていないようだ。
「私は私がしたいことをしています。だからあなたは気にしなくていいんです」
「それって、一織はりくに会いたいと思ってくれてるってことでいいの?」
「……まあ、そうです」
ストレートに返されるのは恥ずかしいが、頷くことにした。
これ以上この話題で変に拗れたり、陸が遠慮してしまうのは一織の本意ではない。
「そっか……そっかあ」
白い頬はうっすらと色づき、ふわりと大輪の花が開くように笑顔が咲く。きゅっと指は絡まって、無邪気に笑う陸の姿に心臓が跳ねた。反射的に顔を寄せ、頬へと押し当てる。一瞬だけ。一秒にも満たないのに、唇に触れた熱は離れた後もじんと痺れたように残っていた。
「えっと……ちゅーした?」
「……しました」
「……っ、ずるい」
何がだ。問う前にこつんと帽子のつばが額にぶつかり、やがて熱を持った唇にやわらかなものが触れた。一織が触れた時間よりも長く、ん、と鼻にかかったあまい声が間近で聞こえて、カッと頬が熱くなる。
「っ!」
「……勝った?」
「別に勝負じゃないですけど」
「じゃあもう一回していい?」
「だめです」
「えええ!? なんで……っ、ん……」
今度は頬ではなく、陸に奪われた唇へと口付ける。塞いでしまったことで呼吸が口ではできないので、頭の中でカウントを取った。鼻ですればいいという考えは、おそらく目の前の少女には存在しないだろう。
七秒数えて、離す。少し潤んだ双眸に嫌悪の色は浮かんでないことにホッとする。ただの接触なのに、またしたいと思ってしまう自分が不思議だった。
「っは……なんか手慣れてたりする?」
「っ、手慣れていません!」
初めてです、とうっかり口を滑らせてしまい、そっかあと嬉しそうに笑うから一織の熱はしばらく冷めそうになかった。
11月のほうよう
「昨日ね、三月から一織がそらくんと一緒に寝ている写真見せてもらったよ」
「……は?」
文字を追っていた一織は陸の言葉に顔を上げた。聡明な瞳は丸くなって、やがて苦い顔へと変わる。タブレットを取り出し、ほら、と証拠写真を見せると白い頬が赤く染まった。
「何で持ってるんですか」
「すごくかわいいよ?」
「入手経路は兄さんですね」
「あ、三月は悪くないよ! あんまりにもかわいくてわたしが欲しい、ってねだったから送ってくれたの」
「それくらいわかりますよ」
「かわいいなあ一織」
呟くと一織は複雑そうな表情を浮かべる。珍しい幼馴染の姿に陸はにんまりと笑った。
長い夏が明け、ようやく秋らしい肌寒い季節が訪れた。窓の外から見える背の高い木々の葉は鮮やかに紅葉し、見るものの目を楽しませる。
黄色や赤色の葉はアスファルト中にびっしりと敷き詰められ、院内を掃除をする女性は大変だと苦笑していた。
常に快適な温度を保っている陸の病室はあたたかく、寒さを感じることはない。しかし今日は綿のパジャマ、ではなく手触りのいい冬用の部屋着を着用していた。
真っ白なそれは触れずとも柔らかいのだろうと思わせるほどにふわふわとしている。フード部分には丸い耳がついており、被れば即白熊になれるだろう。もこもこでふわふわな部屋着を着るのは今日が初めてだった。
久しぶりの外出許可に家族で買い物に出かけたのは数週間前の話。可愛い雑貨屋に置いてあったこれを陸は一目で気に入り、兄である天がプレゼントしてくれた。
昔持っていた白いくまのぬいぐるみによく似ている。手触りも色も、耳の形すらもくまのうみちゃんと同じだと、運命的なものを感じた。
そして連鎖的に思い出したことがある。それはまだ自宅で療養していた時のことだ。
陸の持病を知らない親戚からクリスマスプレゼントとして、くまのぬいぐるみを貰った。白くてふわふわとしていて、抱っこするのもなかなかに難しい大きい子だった。
陸にとって初めてのぬいぐるみのお友達であり、一織が持っていたくまのぬいぐるみの結婚相手でもあった。
「あのね、一織。いっこだけお願いしたいことがあるんだけど……」
「本当に一つだけですか。あとからさり気なく増やしませんか?」
「……ふたつ、お願いしたいです」
「私にできる範囲であれば、構いませんよ」
十歳の子どもとは思えない言い回しで陸は一織のおねだりを聞き入れる。つまり、最初から「はい」だ。陸を甘やかしすぎだと天に苦言しつつも、一織自身陸に相当甘い。一度だって突っぱねられたことがない。
嬉しくなってベッドからぴょんと飛び降りた。収納扉を開けて、中に入っている服を取り出す。ふわっとした手触りが心地よい。
「その上からでいいから、これを着て欲しいんだ」
「これは今陸さんが着ているものと色違いですか?」
「そうだよ。それとここに座って」
手渡した後、ベッドに腰かけて隣をぽんと叩いた。毎日取り換えられているシーツから埃は出ない。それでも心配性の一織は軽く眉根を寄せていた。
「これでいいですか?」
「うん、やっぱりかわいい」
「かわいいって、褒めているつもりなんですか」
「褒めてるよ! フードも被って」
フードを被ると仏頂面は薄く隠れた。こげ茶色の丸い耳がついたそれは陸と同じ種類の部屋着だ。一織が着用することで彼が持っているくまのぬいぐるみのようで、懐かしく、同時に恋しくなった陸は勢いよく抱き着いた。一瞬だけ一織の身体はぐらついたが、倒れることなく陸を受け止める。
「うわっ!?」
「ふわふわで気持ちいい……」
「っ、くまのぬいぐるみじゃないんですけど」
「わかってる。ふわふわだけど、一織だよ」
小さい頃、互いのくまのぬいぐるみを結婚させたことがある。誓いの言葉は知らず、しかし誓いのキスは知っていた陸は手順を飛ばし、そのままキスをした。幼かったため結婚がどういう意味かも分からず、ヴェールを被り、白いドレスを纏った花嫁のことを絵本に描かれたお姫様のようだと思っていた。
「うみちゃんはそらくんとずっと一緒にいる?」
「……いますよ。夫婦ですからね」
「そっかあ。良かった」
くまのぬいぐるみと一緒にいることで、発作が悪化することに気が付いてしまった。
すぐさま取り上げようとする天に対して、陸はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて離そうとせず、さらに発作が出て酷い状態になっていた。
『いおりのおうちで預かっても良いでしょうか?』
暗いじめじめとした押入れへと仕舞われそうになったぬいぐるみを、陸を救ったのは一織だった。
それ以来、回数はそう多くないが、陸のぬいぐるみの写真が送られてくるようになった。
一織のくまのぬいぐるみと並ぶ、陸のくまのぬいぐるみ。寄り添うように、一織の部屋で二匹のくまは座っている。
うみが越してきてから、一織は一度もそらと眠ることはなくなった。
昨日三月からその話を聞いて、小さな一織から友人を奪ったことに対して罪悪感を抱いた。けれど、あの申し出があったからこそ、陸は一織にうみを預けることができた。
小さな陸の身体を心を同時に救ってくれたのだ。
「ありがとう、一織」
返事は返って来ない。だが応えるように強く抱きしめられて、陸はそっと目を閉じた。
2月のきもち
バレンタインデー間近にもなると面会に来てくれる和泉兄弟からは毎回甘い匂いが強く香る。クリスマスと同じくらいの忙しく、また仲のいい夫婦はお互いにチョコレートや手作りのお菓子を贈り合っているらしい。
「仲良いことは喜ばしいことですが、見ているこちらが恥ずかしくなりますね」
と言いながらも、両親の話をする一織の口元は緩やかな弧を描いている。あまり表情をのせない綺麗な顔立ちにやわらかな笑みが浮かび、どことなく甘さを帯びるこの瞬間が陸はとてつもなく好きだ。
「そう? 羨ましいなあと思うよ」
「陸さんのところも良好ですよね」
「そうなんだけど……わたしの病気でお父さんもお母さんも、天にぃも気を張っているから」
自身の命の期限を知ってから三年の月日が経った。儚い命を繋ぐための部屋から一歩も出られない日もある。
陸自身それについて、辛いとは思わない。
病院内なら自分の足でどこまでも行けるし、調子がいい時は外の学校に通うこともできる。
とうとう身長が並んでしまった一つ年下の幼馴染は、週三日のペースで面会に来てくれる。今日もまた甘い焼き菓子を片手に、学校で配られたプリントと一緒に。
だから決して不幸でも、辛いとも思わない。
「あ、美味しい」
「チョコレートが余っていたので、コーティングしました」
「普通のも美味しいけど、チョコがけもいいね」
食べすぎてしまうと夕食が入らなくなってしまうため、一織と半分こにする。綺麗に等分することができず、大きい方を差し出すも一織は受け取らず、結局陸が少しだけ大きい方を食べることとなった。
「ごちそうさまでした」
感謝とともに告げると、一織が身を乗り出してきた。身構える暇もなく口元をくすぐられる。拭われたのだと気が付いたのは、離れて行った一織の親指が汚れていたからだった。
「ついてましたよ」
「え……あ、りがとう」
無性に恥ずかしくなり、両手で頬を覆い隠す。ハンカチで拭い取る一織は不思議そうに陸を見つめていた。
「歯でも痛いんですか?」
「えと、歯は痛くないんだけど」
「それなら、どうして頬を押さえているんですか」
「……顔」
「顔?」
「顔思いきり赤くなってるから、隠してるの!」
「何故?」
とてつもなく察しが良いはずなのに陸の心情がわからないようだ。心の中で一織の馬鹿と呟いてから、疑問に答えた。
「年上なのに、一織に世話焼かれてるところとか、恥ずかしくなって」
「今さらだと思いますが」
「もうっ! 一織の馬鹿!」
潤んだ瞳で睨みつけると、一織は白い頬をうっすらと染める。男の子らしいすっきりとした顔立ちが照れるとまだ幼く見えるから不思議だ。一織のかわいい表情に安堵する。
とうとうこの一年で彼は陸の背を追い越してしまった。病弱である陸と同じくらい華奢だったのに。
先ほど陸の口元に触れた指先もかたくて、男の子なのだと改めて気づかされた。
「……かわいい人だな」
「何か言った?」
「いえ、何も」
二月十四日。平日でありバレンタインデーでもある。
陸は緊張した面持ちでスマートフォンを見つめていた。
「どうしよ……」
ラビチャのアプリを開き、和泉一織との個別チャットで文字を打ち込んでいるものの送信が押せない。
『今日は来てくれる?』と簡潔なメッセージを消していく。『会いたい』『来て』『一織』。どの言葉も不適切な気がしてならない。
今まで陸の方から見舞いをお願いすることがなかった。願わなくても、一織は来て欲しい時に陸のところに来てくれたからだ。
「昨日来てくれたから、今日は来ないよね……」
今日は特別な日だ。女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す。友だち同士で配ることもあるし、お世話になった人へ日頃のお礼として義理チョコを渡すこともある。
「一織、いっぱい貰うだろうなあ」
素っ気ないように見えるが彼は世話焼きで優しい人だ。義理チョコも本命チョコも、きっと多いことだろう。
ため息をつきながらベッドサイドに置いていた小さな箱を手に取る。赤いリボンのついたそれは病院内のコンビニで購入したチョコレートだった。
「もし今日一織が来たら……でも来なかったら」
「はい?」
「うわあ!?」
扉は音もなく開き、現れた一織の姿に心臓は物凄い音を立てて跳ね上がった。反射的にチョコレートを隠してしまい、同時にスマートフォンが床へと滑り落ちてしまう。
「何してるんですか」
「ありがとう」
打ち込んでいたメッセージのことを忘れており、受け取った際に指は『送信』の表示に触れてしまった。メッセージが飛んだ音に続いて、間近でメッセージを受け取った時の音が聞こえる。激しい心臓の鼓動が聞こえる。
「あああ、見ちゃだめっ!」
届いたメッセージを確かめようとポケットへと触れる一織の手を掴んだ。陸よりも低い体温、骨ばった感触、視覚と触れて知らされる自分と彼の大きさの違いに、心臓がまた一際強く跳ね上がる。
しっかりとした手の感触はまるで知らない人のように感じる。
「送信取り消すから、待って!」
「何を送ってきたんですか……」
気になるんですが、と強い力で引っ張られれば陸は一織に敵わない。抵抗しながらベッドの中に隠した小箱を取り出した。そのまま硬い手の中へと押し付ける。
どうか自分の熱でチョコレートが溶けませんように、と思いながら。
「これチョコレート! 一織にあげる!」
「ちょっと、角を押し当てないで!」
「だって、こんな風に渡すつもりじゃなかったんだもん!」
「だから、角が地味に痛いんですって」
今さら取り繕うこともできない。想像の中の可愛い女の子みたいに「好きです」と想いを伝えることもできない。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
どこにでも売っている大量生産のチョコレートだ。比べられたら悲しい。
義理扱いされたら悔しい。
「陸さん」
「……なに」
「……いえ、私も陸さんに渡すものがあるんです」
陸が押し付けた小箱を一織は大事にカバンへと仕舞う。そして仕舞った場所から取り出したのは青いリボンを結んだ箱だ。既製品でないことは包装紙を見れば一目瞭然だった。
「……チョコレート?」
「今日はバレンタインデーなので」
陸の問いかけに一織は答えない。
「……好きな子に告白する日でもあるよ」
「……そうですね」
両手で丁寧に差し出されるから、陸も両手で受け取った。一織の頬は少し赤くなっているが、完璧で恰好良いのだから嬉しくて、ちょっぴり悔しい。
「ねえ……他の子にあげた?」
「あげてません」
「三月には?」
「兄さんは味見をしてもらいました」
「……天にぃは」
「どうしてここであの人の名前が出てくるんですか」
だって、と心の中で呟く。
一人身勝手にヤキモチを妬いていたのだ。察しなくてもいいのに、こういう時ばかりは一織は陸の複雑な心に気が付いて、小さく微笑むからまた頬が熱くなった。
「一織は、告白しないの」
「……昔プロポーズしたでしょ」
「それはそれ、これはこれ」
「わがままな人だな」
陸は一織の気持ちを知っている。信じてもいる。
だけど、時折不安になってしまう陸の心を結んでほしい。箱にかけたリボンのように、ほどけてもすらりとした長い指でしっかりときつくリボン結びにして、何度も繋いでほしい。
「……一回だけですよ」
「はあい」
耳を寄せる。一織の頬がじわっと赤く染まっていることが嬉しくて、自然と笑みが零れた。
「何笑っているんですか」
「だって、告白されるのは初めてだから」
好き、と言われるのも初めてだ。一織の言葉を聞いた後には絶対自分の「好き」を告げよう。
小さな吐息が耳朶をくすぐった。いつもよりも低い声で囁かれた好きの言葉は、今まで食べたお菓子よりもずっとあまい。
「わたしも」
──一織が好きだよ。
内緒話のように返した陸の声もひどくあまいものだった。
4月の労り
結局真新しいセーラ服に袖を通すことができたのは、入学式だけだった。春風が吹くたびに、淡い薄桃色の花弁は散ってはアスファルトに張りつく。
大人になれない陸はほとんど通うことのできなかった小学校を無事卒業し、晴れて中学校へと上がった。
ランドセルを背負った一織は今日も陸の見舞いに訪れた。通う学校は違っているため、プリントや課題を届けに来たという理由は彼の口から一切出てこない。
体調はどうですか、と訊かれ陸は素直に腹部が痛いことを告げた。
「何か拾い食いでもしたんですか」
「ここ病院。そこら辺に落ちてるわけないよ」
そもそも落ちていても食べないけど。
ずきずきとした下腹部への痛みで軽口を叩く余裕もない。
腹部に手を当て時折唸る陸の姿に一織は眉を顰めた。
「看護師さん呼びましょうか」
「ううん……そういうのじゃないから大丈夫」
「顔色悪いですよ」
「もっと痛くなったら鎮痛剤飲むし……それに二日目だから」
最後の言葉はぼそりと呟いたつもりだった。聞こえていてもいいし、聞こえなくてもいい。
一織は男の子だから二日目の意味もよくわからないだろう、と思っていた。
「ああ、なるほど。それは辛いですね」
「え!? 一織……今のでわかったの?」
「はい」
「もしかして一織もその……なったりする?」
「なりませんよ!」
心配そうな顔が一瞬で怒ったような顔に変わった。真顔で頷かれるよりはずっといい。
一織とは何でも話せる間柄ではあるが、それでも性の話は妙に恥ずかしい。親や双子の兄には聞けないし、同年代の女の子と話す機会はほぼない。
「わたしの身体、赤ちゃん産めるようになったんだって」
「そうですね」
「大人になれるかさえわからないのに、身体は大人になろうとしててね……それが少しだけ」
──怖いかな。
聡明な幼馴染は悲痛な顔をしないから、痛ましい顔をしないから、だからこそ弱音が吐き出せる。
慰めてほしいのではない。励まされたいわけでもない。表情を変えない一織は陸の良き話し相手だ。
「っう、いたい……」
「薬飲みますか?」
「ううん、まだいい。それよりも話し相手してほしいかも。一織と話してると痛いのも忘れられるから」
「……わかりました。ただお腹を冷やすのはあまりよくないので、ブランケットを掛けましょう」
そう言って一織は収納スペースからふわふわしたブランケットを取り出した。お腹周りへと巻き、一緒に取り出したクッションを腰に当てる。
「どうです?」
「……ちょっと楽になったかも」
痛みが引いたということではないが、気持ち楽になったような気がする。
「うちの母が辛い時はこういう風にして過ごしているんですよ。あとカイロがあったら腰やお腹に貼るのもいいと思います」
「他にはどんなことをしてるの?」
「そうですね……生理痛が辛い時ほど父が母を甘やかします」
「甘やかす……」
家族ぐるみで仲良くしているため、二人の仲の良さは知っている。しかし人前でいちゃつく姿は見たことがなく、甘やかすの具体的方法が思い浮かばなかった陸は小首を傾げた。
「ねえ……一織?」
「完全に甘ったれの顔していますね」
「想像できないから、実施で教えて?」
「これは断られないと思っているな……」
断らないことを陸は知っていた。だめ? と畳みかけると手の甲で口元を隠して「だめじゃないです」と返ってくる。やっぱり一織は甘い、と心の中で呟き一織の手を掴んだ。
「今からしますけど、絶対セクハラと言わないでください」
「言わないけど、つまりセクハラみたいな感じなの?」
「違いますけど!!」
はあ、と大きなため息が聞こえた。
今から何をするのだろうか。わくわくしながら待っていれば、「失礼します」と一声かけた一織はベッドに上がってきた。
「え? ええっ?」
「少し寄ってください。そのくらいで、ありがとうございます」
ベッドボードに腰をぴたりと合わせて座る。ここからどうするのだろうかと、どきまぎしている陸を力強い腕が引っ張り上げた。ブランケットがふわりと浮きあがり、また陸の膝を覆い隠す。
気が付けば一織の脚に座っていた。骨っぽい成長段階の身体は硬く、座り心地はあまりよろしくない。柔らかくもなくて、痛いくらいだ。
だけど後ろから甘いお菓子の匂いと、低めの体温が服越しに伝わって不思議な安堵感に包まれた。
「こうやって、甘やかすんですよ」
「っ、一織……」
長い腕がそっと陸の細い腹部に触れて、そっと抱き込む。
何かを逃すような熱い吐息が耳朶にかかってくすぐったい。心臓は早鐘を打っている。それは後ろから聞こえるのか、それとも自分の内側から聞こえている音なのかもわからない。
だけど決して嫌ではない。むしろその逆だ。
「もっと……」
ぎゅっとして。
抱擁が強まる。壊れ物を扱うように、丁寧に抱きしめてくれるから、痛くて辛いだけの月経も悪くはないのかもしれないと思った。
12月の冬景色
ぽつり、と窓ガラスに叩く雨粒の音に、本格的に降りそうだと思った。
時刻は十七時を少し過ぎた頃。週の真ん中である水曜日、一織が訪れる曜日だ。けれど扉が開くことはない。
「……わかってはいたけど」
さみしい。
ぐっと言葉を飲み込んだ。静かな雨音を聞きながら呟いてしまっては余計寂しくなってしまう。
一織に勧められた小説を読もうと、本を開いたというのにまったく集中できない。分厚いハードカバーを閉じるとパタンと音が鳴った。一行目で止めてしまったため、後ろ側のページに挟まっているスピンは一度も動かしていない。
ベッドサイドテーブルへと置いて、代わりに充電していたスマートフォンを手に取る。電池残量七十七パーセント。あっと思ったが、ラッキーセブンが揃っているのに見せる相手がいないことに落胆した。
今までに寂しいと思ったことは何度もある。
見舞いに訪れていた家族が立ち上がった時、天が寂しげに笑いながら頭を撫でる時。一織が帰り支度をしている時。けれど、こんなにも強い孤独を感じたことはなかった。
陰鬱な気分になるのは外が暗く、しとしとと降る雨のせいかのかもしれない。
「お土産よりも、一織がいてくれる方がいいなあ……」
学校行事なのだから来られないのは仕方ないことだとわかっている。
二泊三日の修学旅行は学生が一番楽しみにしているイベントでもあり、陸が参加できなかった行事を楽しんでほしい気持ちもあった。
たくさんの土産話を聞かせて、とここから笑顔で見送ったのが昨日のこと。寂しくなったら連絡して、と言った陸の方が一織の不在に対して、こんなにも寂しくなるとは思わなかった。
ラビチャを開き、上の方に表示される和泉一織の名前をタップする。今朝二言三言メッセージのやり取りをした。いってらっしゃい、とうさぎのマスコットを手を振っているスタンプで終了している。
こんなにも気になっているのならただ一言メッセージを送ればいいのに、それすらも迷ってしまう。
楽しく過ごしているところに水を差してしまうのではないか。
他の子と過ごせる時間を邪魔してはいけない。
アプリを閉じてスマートフォンをテーブルに戻そうとした瞬間、手の中で震えた。和泉一織の名前を目にした途端心臓が騒ぎ始めて、応答ボタンに触れようとする指が震えている。
「も、もしもし」
第一声がひどく裏返ってしまった。くっ、と笑いを堪えたような音が聞こえて、恥ずかしい。初めからやり直したい。
『もしかして寝ていましたか?』
「っ、寝てないよ! 元気! 一織こそどうしたの?」
『陸さんが寂しがっているような気がしたので』
「…………っ」
さらりと言われて、目の上が熱くなった。つーんと鼻の奥が痛み始めて、泣きそうだと気が付いた。
「そう、だよ」
『ははっ』
いつも来てくれるのに、いないなんて寂しくなるに決まっている。
年上らしく振舞えず、涙声で一織は? と問いかけて続くのは小さな無言だ。
『……調子狂うな、と』
「なにそれ」
同じ言葉じゃなくてもいいから、もっと寂しがってくれたっていいのに。
そんな自分を我が儘だと思いながらも、スマートフォンを強く握りしめた。
『ところでそちらの天気は雨ですよね?』
「うん? そうだね」
今も降っているよ、と返すと突如ビデオ通話に切り替わった。綺麗な顔立ちが映る。
どくんと心臓が跳ね上がった。
「えっ!? 何いきなり!」
現在進行形で泣いているのがバレてしまう、と慌てて顔を隠したものの一織からのアクションはない。見えますか?、と聞かれ私の姿が向こうに映っていないことに気が付いた。
それでもおそるおそる手を外した。
「わあっ……すごい綺麗……」
画面の向こう側では青い光がきらきらと点滅していた。別の場所では赤、緑と色を変え、眩しくない光の粒が煌めいている。
まるで星の海の中にいるようだ。
『一緒に歩きましょう』
「え? でも私は……」
その場にはいない。ベッドの上の陸はどこにもいけない。この病室から出ることができない。
けれどわかっている一織は微笑みながら手を差し出した。
『陸さん』
「ん……」
差し出された手に自分の手を重ねるとすぐに繋がって、あのひんやりとした体温が触れたように感じた。
ゆっくりと馴染んで同じ温度になっていく。
『目を逸らさないで』
見て、と真剣な一織の言葉はささくれていた陸の中にすっと入ってきた。
きらきらと光の中を一緒に歩く。小さな歩幅で、景色を楽しめるように止まって、七色の階段を二人で降りる。
実際に歩いていないのに少しだけ息が切れた。興奮で頬が火照る。
「すごい……すごいね、一織」
『見惚れすぎて躓かないでくださいよ』
「躓かないよ! でも、躓いても一織が支えてくれるよね?」
『……まあ、そうですね。転ぶ前に対処します』
「もう、恰好良いなあ……」
ああ、好きだなあと思った。
私を寂しくさせるのに、私を喜ばせる。
空っぽだった器に注がれた想いが揺れて、やがて溢れ出した。
「好き……っ、一織が好き」
『……っ』
逸らさないで、と言われたのに視界がぼやけ光の輪郭すらあやふやになった。ぽつりと落ちた水滴がスマートフォンの画面に滴り、シーツの上に落ちていく。
「さびしい……っ」
手を繋ぎたい、抱きしめて欲しい、もっと触れて欲しい。
もっともっと恋人らしいことをしたい。
好きって言わなくていいから、好きだってことを教えて欲しい。
「お願い一織……帰ってきたら、キスしてほしいっ……」
答えは聞けなかった。終了を押して逃げた陸の心臓の鼓動は激しく、浅い呼吸を繰り返している。あ、と思った時にはもうすでに遅く、それは確実に陸を蝕んでいた。
「っは……は……ぜ……っ、ぜぇー……っ」
苦しい。息が吸えない。縋りたいのに縋れる相手はこの場にはいない。
滲んだ視界の中、慣れたようにナースコールを握った。