SS詰め合わせ3【いおりく】いぬのきもち
一織は購入した。必ず、かの愛されセンターの気持ちを理解しなければならぬと決意した。一織は、陸の気持ちがわからぬ。一織は、パーフェクト高校生だった。勉学に勤しみ、裏ではIDOLiSH7のマネージメントを行ってきた。けれどもかわいいに対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明一織は寮を出て、電車に乗り改札を超え、七キロ超えたこの神保町へやってきた。
たまたま立ち寄った古本屋で購入したのが『犬の気持ち』という一冊の本であった。
犬が尻尾を使った行動で表す気持ち。項目を黙読した瞬間脳内七瀬陸が「オレ犬じゃないよ!」突っ込んできた。
(確かに七瀬さんは犬ではない)
動物で例えるならば犬で、犬種はハピヨンであるが決して一織が知っている七瀬陸は人間だ。圧倒的な歌唱力と一織が恋焦がれる歌声を持つ彼は脳内で「そうオレ人間だよ」と語りかけてくる。しかし大きな目で見上げてくる姿はどこからどう見ても子犬だ。大きな耳をぴくぴくと揺らしながら、一織っ、一織っと呼んでは、ふわふわした尻尾をぱたぱたと振る。
(いや……自分のことを人間と思っている子犬だな)
七瀬陸は子犬。そう思うことで不可解な行動の理由に説明がつく。
時々陸は一織のベッドで眠っていることがある。学校から帰宅して、自分のベッドでくうくうと寝息を立てている陸の寝顔を覗き込むたび、心臓から変な音がする。ぎゅんやきゅっと鳴るたびに、心不全を疑うが、調べてみてもはっきりとした答えが出ない。しばらくすると心臓が落ち着くため放置していたが、あれは寂しくなった子犬が飼い主のベッドで不貞腐れた行動なのだと考えると腑に落ちた。
スキンシップの多さや異様な距離の近さも陸が子犬であれば、決しておかしいことではない。異様に人懐っこいところも、すぐに人の体臭を嗅ぐのもすべては陸が犬だからだ。
(かわいい人だな……)
一織の頭の中では七瀬陸=子犬の図式が浮かんでおり、一織はそろりと開いた扉の音に気がつかなかった。
「いーおりっ!」
「っ、七瀬さん!?」
どんと勢いよくぶつかって、さらりと揺れた赤髪が一織の頬をくすぐった。後ろから顔を覗き込まれ、慌てて読んでいた本を閉じて裏返す。
「何読んでるの? もしかして……えっちな本?」
「違いますけど!!」
勢いよく振り返るとにまにました陸の顔がすぐそこにある。至近距離に一瞬どきっとしたが、子犬の距離感だと思い込めば何とか表情に照れが浮かぶことはない。
むしろこれは好機だと一織は思った。隅々まで観察すればもっと陸の気持ちが理解できるかもしれない。
「ええ……と、い、一織……っ?」
「少し黙っていてください」
じいっと見つめれば頬に朱が差していく。大きな瞳はゆっくりと潤んだ。薄い水の膜によって瞳の輝きは増している。きらきらではなくて、どことなく色気を帯びて、ぎこちなく開いた唇からは小さな唸りが洩れた。
「うううううっ……い、いおりぃ……?」
「威嚇……? にしては気弱だな」
「いいい、威嚇!? してないよ!」
「高い鳴き声はびっくりした時にとっさに出る声だそうです」
「一織!? オレのこと犬だと思ってる?」
「思っています」
Re:valeと初めて対面したときには三回回ってさらには無駄吠えもさせられていた。誰から見てもうちのセンターはわんこ系なのだろう。
犬=七瀬陸の公式が一織の頭の中で確実なものになった頃、ふるりと震える唇がきつく結ばれた。吊り上がっていた濡れた双眸が隠れる。
どうしたのだろうかと心配が浮かぶよりも先に何かやわらかいものが触れた。吸って、唇の隙間をぺろりと舐めて、最後に吐息が撫でていく。それは決して子犬の愛情ではなく、恋人ととするような口づけだった。愕然とする一織に目を開けた陸が顔を覗き込む。大きな瞳にはどろりとした情欲が浮かんでいた。
「犬はこんなことしないだろ」
「そう、ですね」
「わかったんなら……」
もういっかい。甘えをたっぷり含んだ鳴き声を塞いだのは一織の唇だった。
裏は相方、表は敬遠の仲現パロ。某MMOをするいおりく
色鮮やかな花畑を駆け抜けた瞬間、フィールド上を歩き回っていた敵の視線がいっせいにこちらへ向かってきた。
しまった、と思い敵の少ない場所へと逃げようとしたが、ちょうど敵が湧いたタイミングで一織が操作するキャラクターは囲まれてしまった。
二体ならまだしも五体の敵が次々に攻撃を仕掛け、防御バフをかけるもみるみるうちにヒットポイントゲージが減少していく。せめて一体でも仕留めるべきかと、捨て身で詠唱を始めたとき目の前を赤い閃光が突っ切った。
続いてぴこんと音を立て、通知が届く。
【Rikuのかばう】
「リクさん!」
ヒットポイントゲージの減少が止まった。リキャストタイムが終わり、すぐさま範囲の広い大技を打ち込む。盛大なエフェクトや光で画面が明るくなり、おさまる頃には敵の姿は自分たちの周りから消えていた。
うさぎの耳が生えた赤髪のキャラクターは納刀する。一織の操作キャラクターも同じように魔導書を仕舞った。危険がなくなったとは言え、周りでは敵がわらわらと歩き回っている。どこかにテレポするべきかと考えていれば、目の前のキャラクターからパーティに誘われる。
参加すると同時に白いチョコボが目の前に現れた。相乗りするとチョコボを地面を蹴って飛び上がる。ぐんぐんと上昇し、色鮮やかな花畑や青く透き通った湖は遠く、その代わりに雲一つない青空が間近にあった。
キーボードに指をかけ、文字を打ち込む。
『助かりました。ありがとうございます』
『いえいえ~オレもイズミさんに用事があって飛んできたんだけど、すごくいいタイミングだったなあ』
『ヒーローみたいでしたよ』
『ほんと? やった!』
『助けてもらったついでに、今日リクさんお時間ありますか?』
『あるある! ダンジョン行くのなら付き合うよ!』
『お願いします』
白いチョコボが宙を舞う。虹の輪をくぐり抜けて、敵が少ない湖のそばに降り立った。先ほどまで乗っていたチョコボがすうっと画面上から消える。陸が操作するキャラクターは勢いよく抱きしめてきた。
『なんですかいきなり』
『だってイズミさん最近インしてなかっただろ? だから充電!』
『……せめて手順とかありませんか』
『今さら手順って! エタバンまでした仲なのに!』
【Riku tachibanaはIzumi shizukaをなでた】
『かわいいよ、イズミさん』
『……どうも』
ストレートな言葉がチャットログに表示された。ゲーム内だとしても、ごく自然にスキンシップを仕掛けてくる陸に驚かされてしまう。
『かわいいって言われるの嫌?』
『嫌ではないです。自分でも自機のことをかわいいと思いますので』
一織が作ったキャラクターは黒髪ストレート、切れ長の瞳は灰色の小柄な女性だ。友人には高嶺の花っぽいと言われたが、一織個人はこのキャラメイクに満足している。
そしてその細い左の薬指には結婚指輪が嵌められていた。これは先日陸から「結婚しよう!」と軽すぎるプロポーズをされて、何だかんだ断る理由もなかったためだ。今の恰好にしっくり合うので装備しているのであって、他意は決してない。
陸がカメラを起動している間に一織もまたこっそりと陸のキャラクターを写す。にこりと笑ったときの陸のキャラクターの顔を一織は密かに好いており、相手が撮影している間に隠し撮りしていた。
『いっぱい撮れたし、行こうか』
『はい。よろしくお願いします』
今日もまた二人は夜通し遊ぶことになり、次の日一織は欠伸を必死にかみ殺すことが決まった。
***
「ええと……だめ?」
「かわいく小首を傾げてもだめです」
「……けち」
「何か言いましたか?」
「別に何も! 出直してきます! 失礼しました!!」
部署内でも恒例と言われている、営業部の七瀬陸とのやり取りを終えて一織は盛大なため息を吐いた。
「和泉君も大変ね」
「労わるくらいならいっそ変わってください」
「嫌よ。私たちはねイケメン同士のやり取りで癒されたいのよ」
「私のストレスが溜まるんですが」
総務部の女性たちは声を揃えて笑った。ただでさえ寝不足の頭に高い女性の声が響き、眉間をおさえて揉み込む。
備品をください、と現れた陸は今日も申請書を持たず一織は容赦なく追い返した。おそらくここにいる何人かは陸のおねだりに「仕方ないわね」と折れているのだろう。味を占めた彼が来るたび毅然とした態度で対応しなければ、申請書を自分たちが作らなくてはいけなくなる。
「本当にあの人は……」
同じ陸という名前でもゲーム内の頼りになる彼とは全く違う。爪の垢でも煎じて飲ませたいところだが、と考えて一織はかぶりを振った。
「どうしたの和泉君」
「いえ……なんでもないです」
ゲームの世界で仲良くしてもらっている人のことが仕事中に思い浮かんでしまったことで、妙に気恥ずかしい気持ちになった。緩んだ口元を押え、騒ぐ心を落ち着かせようとした瞬間、またもやあの明るい声が飛び込んできた。
「今度こそ、ボールペンくださいっ!」
「七瀬さん、静かに入ってきてくれませんか!!」
恋愛経験0の陸君が乙女ゲームで勉強して、一織に告白するまでの話。
恋に落ちると世界が変わる。色彩はより鮮やかに光がきらきらと反射して、想い人のことを考えるだけで胸が高鳴り、昨日までの自分とは全然違う存在になる。
ただ名前を呼ばれるだけで「好き」の二文字が目の前に浮かび、思わずそれを口にしてしまいそうになる。
『七瀬さん』
「好き」
前日放送されたバラエティ番組の録画ですら、名前を呼ばれた陸はうっかり告白してしまった。
「はーっ……好き」
素直に口に出来ることが悪いのではない。素直じゃない言葉で関係があっさりと拗れるものだから、素直は美点とも言えるだろう。
日本のトップアイドルの頂点に立っている自分たちは、たくさんの好意を受け取る。
その中には「好き」や「愛してる」の言葉が含まれており、もっと多彩な言葉たちも送られている。
つまりアイドルは不特定多数から向けられる好意に慣れてしまっている。「好き」は日常茶飯事で、日本人は不得意な「愛してる」の言葉でさえ手を伸ばせば届いてしまうだろう。
「好き、だけじゃ届かないよな」
先日収録の帰り道で一織に告白をした。その夜はスーパームーンで、いつもよりもずっと大きな満月がビルに覆われた空へ浮かび上がっていた。隣で月を眺める一織の端正な横顔を見つめながら、とある言葉を口にした。
「月が綺麗だね」
「ええ、そうですね……すごく」
遠回しの愛しているは届かず、眩しいものを見るような一織に陸は落胆と嫉妬を覚えた。
「……一織のばか」
これでも勇気を出して口にしたのに、肩が触れ合う距離にいる相手には届かない。手を伸ばしても届かない月の方を求める一織の顔はやっぱり恰好良くて、これが惚れた弱みなのだと陸は身をもって理解した。
「一織、好き!」
「……今度は何をやらかしたんですか」
ならばストレートに好きを伝えると一織は怪しんでいた。その日は皿洗い中にうっかり皿を割ってしまった日でもあった。
別の日にチャレンジしてみた。
「オレ、一織のことが好きだよ」
「ありがとうございます。照れくさいですけど、嬉しいです」
友情間の好きだと捉えられ、その代わりはにかんだ笑みを向けられた。
即座に心のシャッターを切り、好きな人のかわいい笑顔に陸は心の中で悶えたためそれ以上何も言えなかった。
「一織のことが好きなんだけど……」
「このイチゴはあげませんからね」
三月お手製のショートケーキを食べている時に告白したら、おやつをねだりに来たのだと勘違いされた。
イチゴはもらえなかったが、ショートケーキを何口か食べさせてもらった。
恋愛の意味を含んだ好きが一織に伝わらない。好意に慣れてしまっているために、好きは特別でなくなったのだろうか。
陸自身初恋が一織になっているため、正しい告白を知らない。環から借りた少女漫画を読んで勉強しているものの、そもそもシチュエーションから違っていた。
壁ドンもしてみたのだがただ単によろけたのだと思われ、その後しばらく腕を掴まれて寮内を歩くことになった。それはそれで嬉しかったので、結果オーライであった。
「よし……! これで一織を落としてみせるから!」
ほんの少し天然成分が入った愛されセンターは恋愛について勉強することにした。
ノートパソコンのドライブで読み込んで、アプリケーションを起動する。ディスプレイに表示されたのはピンク色の丸っこい女の子のような手書き文字。ハートマークがたくさんついた、かわいい映像に合わせてたくさんの男の子の立ち絵が浮かび上がった。
『どきどきメモリアル──えくすたしい』
艶めいた青年の声がゲームタイトルを読み上げる。黒髪に切れ長の瞳のキャラクターはどことなく陸の想い人に似ており、でも一織の方が恰好良いんだけど、という感想を抱きながらスタートを文字をクリックした。
陸はまだ知らなかった。
ゲームの攻略が難しくて躍起になってクリアしようとする自分の姿や、このゲームが全年齢版とR18版の二種類が発売されていること。エンディングで抱かれてしまい、それを想い人である一織に見られてしまいとてもややこしい話になることを。
「名前……七瀬陸にしよう」
そして一織に似たゲームのキャラクターからの呼ばれ方が、苗字から名前呼びになり、思わずきゅんとしてしまうことを陸はまだ知らなかった。
0.01ミリの隔たり以前いただいたお題から。
どんなに薄いものを選んだとしても、隔てりがあるのとないのとで触れる温度と粘膜の感触は全く違う。
引っ掛かりがないためするりと入ることに違和感を感じつつ、腰を押し込んだ一織はむくれた恋人の頬を撫でた。
「拗ねないでください」
「っ、ふ……拗ねてないもん」
密着した胸からはどくどくと早い心臓の鼓動が伝わってくる。ぎゅっと眉を寄せ、潤みとろんとした瞳には不服というような感情が見え隠れしていた。
どこからどう見ても今オレは怒ってますけど、の顔だ。
かわいいな、と思いながら唇を寄せるとふいっと逸らされて口の端にぶつかる。不完全な口づけに一織は陸の顔を覗き込んだ。赤らんだ頬はさらに赤みを増して、わずかに膨らんでいる。
「七瀬さん、やっぱり拗ねているじゃないですか」
「拗ねてない! 怒ってるの!」
「概ね同じでは?」
「意味が違う」
怒っていると言うわりに陸は絡めた手を離そうとはしない。腰に巻き付いた脚も同じだ。早く動けというようにこつんと踵で腰骨を叩いてくる。最後まで推し進めると、驚き交じりの嬌声が上がった。
重なった腹部が熱いもので濡れる。中がぎゅっと狭まり、一織はつめた息を吐き出した。
「……今ので?」
「っ! ばかばかばかばか、違うもん……っ、見るなあ!」
繋いだままの手が強い力で引き寄せられた。瞳を隠すように手の甲で覆い、表情はわからないが涙が頬へ伝っている。時折うーっと洩れる唸り声をかみ殺すような陸の姿に胸が痛んだ。
引き剥がすことはせず、空いている片手でそっと濡れた頬を包み込む。
「嫌でした?」
「や……だった」
「そう、ですか」
残念だが、今日はここで終わりにするしかない。少々、いやかなり辛いが、後で抜けば問題ないだろ。
上半身を起こして中に埋まっているものを引き抜こうとした瞬間繋いだ手が外れた。行かないで、と言わんばかり陸の指先は一織の広い背中にしがみつく。爪は立てず、傷を残さないよう必死に指の腹で掴む陸の姿にあまい期待が広がる。
「七瀬さん?」
「やめるのはもっとやだ……」
顔を覗き込むより先にぶつかる勢いで唇が近づいてきた。キスは何十回もしているため、歯が衝突することはない。その代わり少し強めに押し当てられ、ぬるついた舌が口腔へと差し込まれた。気持ちを伝えるように舌先をやわく舐めた陸は一織からの返しを待っている。
いじらしさにたまらなくなって、啜り上げて絡め合うと嬉しそうに動く。口腔に溜まった溢れんばかりの唾液を自ら飲み干して、唇を離す際には名残惜しそうに一度だけ舌を吸って陸はぎゅっと抱き着いてきた。顔を埋め、肩が濡れる。
「着けてするの嫌だっただけ。……綺麗に準備したのに、着けるから」
ごにょごにょと小さな呟きに、一織は自分の顔がひどく緩んでいるのだろうと思った。
「七瀬さん、顔見せて」
「だめ、そのままで……。オレだけが一織を直に感じたいって思ってるのが嫌だった」
0.01ミリの隔たりが寂しい。
我が儘でごめん、とすすり泣く声に、どうしたものかと思う。
(煽ったのは七瀬さんだ)
あまりにもかわいいのだ。この年上の恋人は。
こちらが必死に我慢しながら、身体に気を遣いながらそれでも愛したくて、時間かけて調べて選んだ避妊具なのに寂しいと泣く。
直に感じたいと、愛されたいと、訴求力で訴えれば叶うことを、目を隠して言う陸がいじらしかった。
「二回目は何も着けずに抱かせてください」
「えっ……いいの、あっ! なんで中大きくっ」
「それは聞かないで。そろそろ顔見せてください」
「やー……っ、まって、恥ずかしい……む、んんん」
塩辛いキスも舌を絡め合えば次第甘くなっていく。ゆるゆると律動を開始すれば、一織の口腔でくぐもった嬌声はやがて小さくなっていった。
愛し歪み
義親子パロ そのいち。
一織(37)×陸(18)
すうと息を吸った音が歌声に変わった瞬間、一織の中で大きな衝撃が走った。灰色に覆われ薄暗い天候なのに、少年の周りにはきらきらとした星が瞬く。
幼い子どもの言葉はたどたどしく、あちこちに脱線する話をしていた。けれども彼が紡ぐ歌は雄弁で、真っ直ぐだ。そこに苦しいや悲しいという感情はいっさい含まれていない。ただただ純粋な想いだけが存在していた。
歌が止み、閉じた瞳がゆっくりと開く。長い睫毛が震え、やがて一織を捉えた。上気した頬は熟れた林檎のようだ。
拍手をする一織ににっこりと微笑んで、ぺこりとお辞儀をした。
おそらくこの数分にも満たない邂逅で陸に心を掴まれた。
後継者を探すために訪れた児童養護施設で、生まれて初めて一織は恋に落ちてしまった。
「父さん、オレ好きな人ができたかもしれない」
珍しく真剣な顔をしていると思えば、陸の口から出てきたのは色恋のことだった。先月十八歳になったばかりの子どもは赤らんだ頬を掻いた。それでも目線を外すことなく、大きな瞳を一織に向けている。
一織は小さく息をつき、続きを促す。
「父親相手に恋バナですか」
「だって、オレが相談できる相手って父さんしかいないし」
そういうことは友人相手に話せと遠まわしに含ませた一織の言葉に陸は信頼で返す。
次第に広がっていく陸の世界でまだ自分が一番なのだと気が付き、安堵と微かな苛立ちを覚えた。
「それで、どんな方なんですか」
「えーとね……綺麗で頭が良くて、立ち振る舞いに品があって……なんて言うかな、父さんに似てる人」
「ファザコンじゃないですか」
「オレ、ファザコンの自覚あるよ?」
にこっと幼少の頃から変わらぬ、愛らしい笑みを浮かべた陸は一織の隣に腰かけた。甘えたい気分なのか腰に手を回しぎゅっと抱き着き、肩に頭を乗せてくる。
風呂上りなのだろう、陸が使っているシャンプーとシトラスの爽やかな香りと、肌に優しい牛乳石鹸のあまい香りが鼻孔をくすぐる。大きいTシャツから覗いている、うっすらと汗ばんだ肌は淡く色づき、その中でも小さな胸の尖りが目立っていた。
「はあ、父さんに相談できてなんかすっきりした」
「これ相談って次元じゃないでしょう」
「あ、確かにそうかも」
もうこれで話は終わりなのだろう。ぐいぐいと体重をかけてくる陸に素直に押し倒されてやる。仰向けに寝転がると陸は嬉しそうに乗り上げて、一織の胸に耳を寄せた。
陸はひとの心音を──特に一織の心音を聴くとリラックスできるらしく、今もこうして一織の上に乗ることがある。
瞼を閉じて、ゆっくりと心臓の音を聞き入る陸の背中をやさしく叩く。
(まだ子どもだな)
好きな人ができたと言いながらも、幼児のように甘える陸の姿に安堵を覚え一織は口元を緩める。しかし陸の口から飛び出した言葉に表情が強張った。
「オレの好きな人ね、男の人なんだ」
「は?」
ぱりんと何かが壊れる音が聞こえた。金属が擦れる音に変化し、理性という鎖が外れていくのがわかっていく。
一瞬で沸騰した激情に飲まれた一織は手を止めて、肩へと滑らせた後思いきり強く掴んだ。薄い肩から伝わる細い骨の感触は感情を抑えるのではなく、むしろ煽るだけだ。
「い、痛い!!」
「……だったら陸、お父さんと練習しないといけませんね」
「え、なに……とうさん?」
おそるおそる開いた双眸には恐怖が浮かんでいた。唇で軽薄な笑みを作り、軽い身体を反転させる。
逃げられないように股間へ膝を差し込み、わざと膨らみを擦り上げると組み敷いた身体からあまやかなにおいが放たれた。汗が頬へと伝い、潤んだ瞳を相まってまるで涙のように見える。
十四年間育てた子どもの泣き顔に情欲を覚える自分は、親として失格なのだろう。
「陸。口を開けなさい」
「あ……やっ……」
薄く開いた唇を親指でなぞる。こじ開けるのは簡単だが、陸自ら開ける必要がある。
再度促してようやく大きく口が開かれる。舌先が怯えたように縮こまっているのが、かわいかった。
「まずはキスから練習しましょうか」
「っあ……んっ、ふ……」
例え唇を塞がなくても、陸は一織に逆らえなかっただろう。
そういう風に育てたのだ。
種を植えるように。甘やかして、愛して、私があなたの一番なのだと吹き込んで、ゆっくりと愛情を注ぎ込み、反抗できないように。
あまく、あまく落とし込んでいく。もう二度と這い上がろうとできないあまい坩堝の中へと。
「よく出来ましたね」
──陸。
濡れた唇が小さな笑みを作った。
大切に育てた無垢な子どもが堕ちていく姿を見つめながら、一織は艶然と笑った。
愛しているを免罪符に義親子パロ そのに
一織(17)×陸(29)
さらりとした髪の手触りと小さな丸い頭が好きだった。子どもらしかぬ言動をしては、時々びっくりするほど甘えてくる小さな存在を確かに愛していたのだ。
『七瀬を名乗らなくていい。一織は和泉の名前を捨てなくていいんだ。同じ名前にならなくても、オレたちは家族だよ』
葬儀の間、涙一つ浮かべなかった聡明な瞳がゆらりと揺れ動いた瞬間、愛おしさがこみあげていた。
声も出さず、ぽろぽろと泣く子どもをそっと抱きしめる。小さな手はぎゅっとスーツの裾を握った。
こんな時ですら皺が目立たないところを選ぶ一織のいじらしさに、陸もつられ涙が零れた。
『なんで、七瀬さんが泣くんですか』
『だって一織が泣かないからだろ』
二十二歳の大人だって泣くのだから、十歳の一織はもっと泣いていい。
泣きながら喋ったせいで口に入った涙が塩辛かった。思わず呟くと一織は初めて声を上げて泣いていた。
あの日自分よりも小さな手を陸はしっかりと握りしめた。
けれど今は違う。一回り大きくなった一織の手は陸の手を掴み、シーツへと縫い付けている。簡単に振りほどくことはできない。
目の前に映り込んだ精悍な顔立ちの青年は眉根を寄せ、小さな唇を噛みしめている。ああ、切れてしまうと場違いなことを思った。
「い、おり……?」
「私は一度だって七瀬さんを父親と思ったことはない」
苦い顔で口にした一織の言葉に陸は不思議とショックを受けることはなかった。本心はわからない。けれどもこの七年間男手一つで一織を育ててきたからこそ、一織が好きでその言葉を口にしていないことだけはわかっていた。
「ねえ一織。オレのことは家族だと思ってる?」
「……はい、七瀬さんは大切な家族です」
「それならいいよ」
「っ! あなたはまたそうやって私を────」
甘やかす。
おそらく一織はそう言いたかったのだろう。だって、もう仕方がない。
いくつになっても、一織は可愛い存在で陸の守るべき存在だ。
泣き出さないように感情を必死に抑えた一織に陸はそっと笑いかけた。
「愛しているからね」
「……私の本当の気持ちを知ってもその言葉が言えるんですか」
「言えるよ。というか、絶対に言う」
「どうして」
小さな頃から彼は綺麗で聡明だった。陸の歌が好きで、いつも歌ってとせがんだ一織は陸の初めてのファンでもあった。大きくなっても変わらず、歌手になる夢を応援した愛おしい存在だ。
──失いたくないから。
言葉にした瞬間、灰色の瞳に怒りが浮かび上がる。そのまま距離を縮め、噛みつくように唇を塞がれた。
二度目のキスは荒々しい。幼い頃に交わした口づけの種類とは全く違っていた。息苦しくなる手前で唇が離されて、何だかんだ甘いなと思った。
ふっと鼻から洩れた呼吸によって、綺麗な額に皺が寄る。余裕がない時ほど感情を見せる一織は陸にとって、まだ可愛い子どもだった。
「……抵抗しないんですか」
「抵抗してほしいの」
「だったら私の好きにさせてもらいます」
湿った唇が首筋を這う。広くなった背中に手を回した陸はそっと瞼を下ろした。
ダンス・ダンス・ダンス
一織たちが通う七星学園の第七回学園祭は大盛況のうちに幕を終えた。ライブは勿論、すべてのイベントも問題なく進み──表には出ないアクシデントもあったが──日が落ちた後は在校生がメインの後夜祭が始まる。
人文字で「七周年」を作った広いグラウンドにはキャンプファイヤーが設置され、夕闇の中心で赤く燃え上がっている。ぱちぱちと爆ぜる音は校内スピーカーから流れる楽曲によってかき消された。
色めき合う女子生徒たちの声を尻目に一織は震えたスマートフォンを取り出す。陸から届いたメッセージが画面上に現れていた。
『一織どこ?』
即座にアプリを開き、レスポンスする。傍にいる生徒らの歓声が耳の中へと響き、煩わしさに顔を顰めた。
『グラウンドですが、七瀬さん帰ったんじゃないですか?』
『実はまだ校内にいるんだけど』
「は?」
思わず声が出てしまった。人気アイドルのセンターは自分の人気や知名度を理解しているのだろうか。
『一人でいるんですか』
『そうだよ。周りに誰もいないけど』
『どこにいるんですか』
ぴこんと鳴っていた音が止んだ。既読は付いているが、返信は返って来ない。電話に切り替えようとした瞬間画像が送信された。
開くとそれは教室内を映した写真だった。見覚えのある机に陸がどこにいるのか気が付いた一織はすぐにメッセージを打ち込む。
『そこから動かないでください』
『待ってる』
返ってきた返事に安堵の息をつきながら一織はスマートフォンを仕舞った。何故陸がそこにいるのか理由はわからないが、彼一人にするわけにはいけない。
(あの人は、アイドルの自覚を持っているのか)
ここが芸能学校であるためか、生徒たちは芸能人に対して耐性がある。許可なく写真を撮ったり、サインを求める者は少ないし、相手の邪魔にならない程度の声かけや応援の言葉をかけるくらいだろう。
だが、それでも。
(どんなものでも惹き付けてしまうから)
七瀬陸は愛される存在だ。彼の真っ直ぐで無垢な性格は誰からも好かれ、愛される。
いい意味で人を疑わず、気が付けばあっという間に人と仲良くなっている。
(アイドルにとって、それは最高の武器だ)
しかしステージの上やカメラの前ならいい。けれどもそこから降りた時、武器は仇となり彼自身に危険を及ぼすことすらあり得るのだ。
好意は必ずしも善意とは限らない。しかも陸は警戒心をというものを持ち合わせていない人間だ。純粋だからこそ、誰かが守らなければいけない。
昇降口へと向かおうとした一織の足を止めたのは、か細い女生徒の声だった。
「あの、和泉くん……ちょっといい?」
「何でしょうか?」
接客用の微笑を浮かべると女生徒はホッとした顔で口を開く。
「この後、私と一緒に踊ってくれませんか!」
勢いよく頭を下げて、差し伸べられた細い指先は震えていた。
何も塗っていない桜色の爪は清潔に整えられており、肩付近で切りそろえられた髪は黒色。真面目な子なのだろうとは思う。
もしもIDOLiSH7の和泉一織でなければ。
祭りの後の余韻に浸りながら、差し出された細い手を取るだろうか。
校舎を見上げると、じっとこちらを見つめる視線とぶつかり合った。一織たちがいる場所から校舎との距離は遠く、相手の表情すら分からないはずなのに、どういう表情を浮かべているのか気づいてしまった。
「すみません。あなたと踊ることはできません」
「あっ……ごめんなさい」
「違います。そうではなくて、私たちはステージの上で踊っているんです」
特定の相手と一対一で踊ることは許されない。最後までは口にせず顔を上げた女生徒を見遣る。悲しそうな瞳は一織の言わんところに気が付いたのだろう。
「そっか……そうだよね。ごめんね、和泉くん」
「いえ私の方こそ、すみませんでした。これからも応援よろしくお願いします」
了承ではなく、感謝の意として一織は女生徒の手を取る。軽く握手した後に会釈をして、一織は早足で校舎へと向かった。
ポケットの中にあるスマートフォンは震えない。陸は一織たちのやり取りを最後まで見ていただろうが、何のメッセージも届かない。
靴から中履きに履き替えて階段を駆け上がった。校舎内を走らない、と注意する教師はいない。
息を切らしながらようやく自分の教室に辿り着いた。扉を開くと、大きく開いた瞳が一織へと向く。
一織を捉えた陸は嬉しそうに目を細めた。
「思ったより早かったな」
「あなたが待ってるって言ったんじゃないですか」
「うん、そうだね」
扉を閉めながら後ろ手で施錠をかけた。見つかるのが面倒なのと、二人きりの空間を誰にも邪魔されたくないと思ったからだ。
開けた窓から生徒たちの歓声や喧騒が聞こえてくる。グラウンドの中心で燃え盛る火を囲むように生徒たちは輪を作っていた。実行委員の松永の声がスピーカーを通して響き渡る。
「本日最後のイベントです! 好きな人と、仲の良い友達と、知らない人同士でも、火を囲ってみんなで踊ってください」
今まで流れていた楽曲とは違った種類の音楽に切り替わった。くるりと振り向いた陸が一織の手を掴む。女性とは違う骨ばった感触に力強さを感じた。
「ねえ一織、オレと踊ってくれる?」
「……足踏まないでくださいよ」
「踏まないよ! 一織こそちゃんとリードしてね」
甘えるように指が絡められる。軽やかなステップを踏んだ陸に引っ張られ、慌てて腰を抱き引き寄せた。わあっと驚いた声を上げた陸を睨みつけると、困ったように眉が下がる。
「そういえばさ、さっき女の子に誘われてたんじゃないの?」
「誘われましたが、断りました」
「なんで? 踊ろうって言われたんだろ?」
身体を引き、陸はくるりとターンを決めた。ステージの上で魅せるダンスとは毛色が違うが、軽やかに踊りパートナーである一織を振り回している。
真正面で踊る陸の姿に新鮮さを感じながら、一織は力強くステップを踏んだ。
「あなたね……私たちが人気アイドルであることを忘れてません」
「わかってるけどさ、でもあの子、多分一織のこと……」
陸はそこで言葉を切る。繋いでいた指がぎゅっと深く絡まって、痛いと感じるほどの力がこもった。
「だからですよ」
「残酷だな」
「それをあなたが言いますか」
女生徒の手を取ったが最後、あっという間に離れていくくせに。
踊ってくれる? と言いながら一方的に手を繋いだくせに。
そして今も離したくないというように強く指を搦めている。
「ずるい人だ」
「そろそろ次の相手に変わるタイミングだけど」
どうする? と問いかけるわりに赤い双眸は離さないでと視線で訴えている。逃げられないように手を引くとくるりと回っていた陸の身体はよろけ、一織の胸の中におさまった。火照りを帯びた陸の身体に心臓が激しく鼓動する。汗とともに陸自身が持っている匂いが一織の鼻孔をくすぐった。
「……っ、一織」
頬を赤くしながら、上目で見つめてきた陸の唇を奪う。自ら薄く開いた口の中へ舌を滑り込ませ口腔をさぐれば、縋るように背中へと腕が絡みついた。流れてくる音楽に合わせステップを踏みながら壁側まで移動して、覆いかぶさるようにしてから再び唇に噛みつく。
「ふ、う……ん、んんっ」
歯列をなぞり、ぐちゅぐちゅと混ぜ合わせた唾液を噎せないように数回に分けてゆっくりと流し込む。ぎゅっと掴まれたブレザーにひどい皺ができているのだろう。
鼻音を洩らしながら、従順に唾液を飲み込む陸に愉悦を覚える。最後まで飲み干して、濡れた口の端を舐め取ると、悔しそうな顔で唇に吸い付いてきた。
「も……なんでいきなりえっちなキスするの」
「私も少し浮かれているみたいなので」
「もうっ、踊れなくなったじゃん」
キスだけで腰が抜けたのか、ひしっと身体に縋りつき口を窄めて文句を言う恋人に一織は笑う。力の抜けた陸を軽く抱き上げて窓枠に乗せ上げると、きょとんと丸くなった瞳が一織を見下ろした。
「曲が終わるまで、ずっとキスでもしましょうか」
「は、え!? ちょっ、んんんっ」
抵抗する間も与えずに唇を塞ぐと、弱々しい動きでゆるりと触れてきた。
「っは……オレたちアイドルなのにこんなことしていいの」
「今はただの和泉一織なので、あなただってそうですよ」
ここはカメラの前でもステージの上でもない。一織が通っている学校で、学生たちのための後夜祭の時間だ。
そして誰にでも愛される存在を一織が独占できる時間も多くはない。
「ものすっごい言い訳してる自覚ある?」
「ありますよ」
そろそろ黙って、受け止めて。
照れ隠しで次々に言葉を重ねていた恋人は顔を真っ赤に染め上げる。口を真っ直ぐに引き結び、触れるだけのキスを落とした。
彼氏の○○○が入らない
たくさん一織とキスをした。付き合いたての頃みたいな唇をくっつけて満足するレベルじゃない。始めます、とまるで今から手術でもするような真剣な表情なのに、余裕のない一織の唇はすごくえっちな動きをした。舌を出して吸ったり、しゃぶったり、時々噛んだりするやつ。口の中が溶ける勢いで舐められて、どっちのかわからない唾液を飲まされて、多分オレあの一瞬にちょっとだけ出たかもしれない。
一織にあらゆるところを舐められた。最初は乳首を触られてもただくすぐったかったのに、長い指で摘ままれて、ぐにぐにって捏ねられて、吸い出されて変な声が出るようになった。裏声みたいな音で、でもそれは裏声じゃない。ひゃん、って声が出て「かわいい人だな!」と何故か怒った顔をするから、顔と言葉があってないんだけど、とツッコミを入れようと思った。だけど動きが激しくなったせいで、オレの口からはものすごい恥ずかしい声しか出てこなかった。
お尻をぎゅっと掴まれた。その頃には一織も服を全部脱いでいたから、一織の一織がどうなってるのかバッチリ見えてしまい「……無理。入らない」と口にした。
「大丈夫です。入ります」
「そこ入れるところじゃないから」
「私を信じてください。コントロールするって言ったでしょう?」
こんな最低なコントロール聞きたくなかった。でも一織だから許せるし、なんかべっとり、ねっとりしたものをすごいところに塗り付けられて、勝手に息が上がった。目の前にあった一織の肩にぎゅっとしがみついて、思わず強く爪を立ててしまったのに、一織は全然怒ったりしなかった。
でもオレがはあ、って息を吐いてしまい、それが耳朶に当たったみたいで「くすぐったい」とは言っていた。
長くて綺麗な指が入ってきた。想像よりも痛みはなかったけど身体を開かれる感じにぞわぞわして、お腹の奥がきゅんとした。ときめいた時のきゅんとは違う、少し痛くて気持ちいい感じの。眉根を寄せて、慎重にオレに触れている姿はものすごく恰好良かった。「痛いところはありませんか」と聞かれて「痛くないけど、お腹がきゅんきゅんしてる」って言ったら、突然すんっというように真顔になったのはちょっと怖かった。
指が引き抜かれて、その代わり硬くて熱いものがそこに押し当てられた。一織は荒々しく呼吸をしていて、額や顔中に汗の粒が張り付いて、それらがぽたぽたと降ってきた。舐めてみるとしょっぱくて「舐めないでください」と文句を言う声はひどく弱々しかった。
「もしかして緊張してる?」
「……当たり前でしょう」
「……えへへ、そっかあ」
傷つけたくないという気持ちが伝わってきて嬉しかった。だけどオレに入れたいと必死に堪えている姿はもっと愛おしくて、たまらなくなったから両手で一織の頬を挟んだ。ひょっとこみたいになっても、一織はやっぱり恰好良いオレの彼氏で唇にキスをすると、唸るような声で「だから煽らないでって言っているでしょ」と言った。オレの笑い声は一織の口の中へ溶けていった。
お互いに息を切らし、まだ一織の唇の感触が残っている口を開く。
「大丈夫だよ、一織」
「……確証あるんですか」
「ない。でも一織だからなんか大丈夫な気がする」
だから最後までしよ? そう言いながら笑うと、一織は目を瞬かせてそれからちょっとだけ泣きそうな顔をした。ぐっと腰を押し込まれて、ゆっくりとひとつになっていくのだとオレは思った。
と思っていたのが、十七分前のこと。
「どうして入らない……」
もしも手元にスマホがあったら『男同士セックス 入らない 原因』とでも調べていそうな一織。コンドームを被せた一織の一織は準備万端だったのに、今はへにゃっとしていて可哀想だ。オレのも挿入時の痛みで萎えてしまったけど、入れる側ではないのでまあ問題ないとして。
「あれだけでは足りなかったのか」
「機が熟してなかったとか?」
「ボケるのやめてくれませんか」
和ませようと思ったら、一蹴されてしまった。いいけど。
結論から言うとオレたちはセックスできなかった。一織の一織が入らなかった。痛みによって涙を零したオレを見て一織からストップがかかったのだ。
「一織の小さくならない?」
「怖いこと言わないでください」
「だって大きいし」
オレよりも若干大きい一織をじっと見つめる。オレの視線に一織は嫌そうな表情を浮かべて、さっきまでオレたちが何しようとしてたかわかってるんだろうか、と言いたくなってしまった。
「あ、いいこと思いついた」
「では七瀬さん、どうぞ」
「オレが一織に入れる!」
「却下します」
馬鹿じゃないですか、あなた人のお尻を正常に使えなくするつもりでしょう、病院通いになるので嫌です。
ノンブレスで何倍にも返ってきたので、八乙女さんみたいに目を細めて一織を見る。抱かれたい男ナンバーワンの真似をすればきっと一織はオレに抱かれたくなるはずだ。
「っは……俄然入れたくなりました」
「なんで!?」
しかも一織の一織は元気になっている。改めて観察して多分これ今日は入らないなと思った。
「……今日はもう何もしませんよ」
だから怯えないでください。
少し傷ついた顔の一織にオレはムッとした。怯えてなんかない。ただ入らないことは分かっているから、どうしようかなと思っただけだ。
「ねえ、一織」
「何ですか」
「一織の、舐めたい」
「…………は?」
だって一織の一織は元気だし、このままだったら辛いのは同じ男だからよくわかる。
さっき口でやってもらったときすごく気持ちよかったから、オレも一織を良くしたい。
だってオレも男だもん。好きな人の気持ちいい顔見たいよ。
ねえ、だめ?
早口で告げると、一織は真っ赤になった。
「自分が何言っているのか、わかっているんですか」と低い声にぞくぞくとする。入れるのは無理だけど、またいろいろされたくなって「わかってて、一織のこと煽ってる」と抱き着くと、耳元で舌打ちが聞こえた。
「入れませんけど、覚悟してください」
「いいよ。いっぱいえっちなことしような」
入れなくてもすごいことを二人でしよう。言い終わる前に唇は塞がれ、だけど多分一織に伝わっていることがぐんと伸び上がったもので察することができた。
年下の恋人
「……あ」
毛足の長いラグについた手に上から骨ばった大きな手を重ねられて、思わず声が出た。ついさっきまで、色めいた雰囲気は二人の間に存在してなどいなかったのに、突然スイッチが切り替わってしまったかのように艶やかなものへと変化する。
「七瀬さん」
静かだがはっきりと聞こえる一織の声が今はひどく熱っぽい。けれど、陸だけが知っている低い音はどこまでもひそやかだった。
「いお……っ、ん」
声が途切れる。近づいてくる男の瞳は、真上にある照明の光を吸い込んだためか薄灰色だった。暗いところでは限りなく黒に近い瞳が、明るい場所では変化するのか。それともこれが一織の本来の色なのか。至近距離で顔を見合わせることで、初めて陸は知ってしまった。
しかしひとつ知った事柄に感動する暇もなく、小さな唇が降ってきた。言葉通り雪や雨が空から、または高いところからそっと落ちてくるように。それはまるで自然の摂理と言うようで、やさしい接触を防ぐすべは陸にない。
一織はやわらかな感触を押し付けては合わせる。ぴったりとくっついているせいで、相手の唇の動きがはっきりと伝わった。震えて、やがて開き、視覚で知覚できない分、感触と熱っぽい吐息が陸に一織との口づけを教えてくれる。
唇をかたく結んだせいで、鼻から息が洩れた。それに対してなのか、一織は微かに笑いをのせて、しかし音ではなく振動として陸の元へと届く。
途端に余裕のある一織と、余裕のない自分の差を感じて恥ずかしくなった。かっと顔全体が発熱したように、熱く、やがて額からじわじわと汗ばんできた。ラグの長い毛がじっとりとした手のひらに張り付く。安物ではない質感に不快感は感じない。
陸は恥ずかしいだけだった。
相手は年下でこちらは年上。おそらくどちらも互いに初めての恋人で、それなのに一織の方がずっと慣れているようで悔しい。
顔を引いて、口づけをとく。無意識に止めていた呼吸を吐き出すため薄く唇を開くと、その隙を狙ったように一織の舌が入り込んできた。
再び息が止まった。呼吸が再開するまでに、ぬるりとした艶かしい感触が舌先へと伝う。他人の口内の柔らかさも舌の温度も陸がまったく知らないもので、思考が追いつかない。
(こんな、えっちなんだ)
思い浮かんだのはそんな言葉だけ。何よりもストイックで理性的な年下の恋人が、自分に興奮しているのが意外だった。
ぬるぬると舌同士を合わせ、それ自体がまるで意思のある生き物だ。必死に息をしようと鼻先から漏れる自分の音がいやらしく聞こえた。一織にはしたないと思われたらどうしようと、やめられないキスに心の方が後じさりする。
そんな陸に気がついたのか、宥めるようにこわばった手の甲を撫でられる。ただただやさしい手つきなのに、じわじわと炙られている。全身で犯されているようにも思った。
「っは……」
小さな唇から洩れる吐息は男らしい。一織も喘ぐのだと知り安心したが、脚の間に熱を持ったそれを手のひらで確かめるように触れられると、うわずった声が自分の喉から飛び出た。
「ああ、っ」
「すごいですね」
キスだけでこうなってしまったことを意地悪な声で揶揄され、顔から火が出るかと思った。
誰のせいだ、と言うことも彼の名前を紡ぐことすらできず、器用に膨らみを撫でるその手に再びあえがされる。まだ着ているものは何ひとつ剥ぎ取られていないのに、直に触られてしまえばどうなってしまうのか。
「……っ、あ……」
すらりとした長い指が絡みつく場面を想像しただけで身体が勝手に震えた。首筋に微弱な電流が走り、力が入らない。はあ、と自分の口から洩れた呼気は荒い。気がつけば、目に映る景色が一織の部屋の天井のみになっていた。
ぎゅっと瞼を閉じる。熱い雫は眦から零れた。
「七瀬さん?」
訝しげに名前を呼ぶ一織に陸はかぶりを振る。怖いですか、と問う一織の声に乱れた呼吸を繰り返しているため、まだ返答ができない。
しかし撫でていた手を自ら掴まえて、指を絡めた。
「いおり……っ」
「…………」
不安な声が出た。一織も陸の変化に気が付いたのだろう。脚の間に触れていた手が背中へと回り込み、抱きしめられる。身体が深く密着することで、初めて一織の心音の激しさを知った。強く抱き合うことで脚の間でかたく張り詰めたものにも気が付く。押しつぶさないように抱擁する力強さと、時折唇をくすぐる吐息に、促されるようにそっと口を開いた。
「どうしよう、一織……」
「何がですか」
瞼を開くとすぐそこに一織の顔がある。先ほどまで浮かべていた余裕な顔ではなく、必死に何かを堪えているように見える。眉根が真ん中に寄っていて、表面上はただの仏頂面だが、陸は一織を知っている。
眩しいライトが降り注ぐステージ上で斜め後ろから感じる視線と、同じ熱量のものを真正面で受け止めながら、陸は必死に言葉を紡いだ。
「なんか、へんになりそう」
「変、ですか?」
「うん……。一織が好きで、大好きで、ここはもういっぱいいっぱいで……でももっと触ってほしくて仕様がなくて……おかしくなりそう」
「っ!」
自分でもよくわからない感情を声に出すと、すぐさま一織の頬は淡く色づいた。視線を逸らされて、その瞬間自分がとても可笑しなことを言ったのだと思った。じわりと涙が目の奥から溢れそうになり、慌てて鼻を啜る。一織に呆れられることが、怖い。突然放り出されたら、きっと息をすることすらできなくなってしまう。
多分もう、陸にとって一織は無くてならないものだから。
「いおり……っ」
「……違います。待って、見ないでください。そんな捨てられた子犬のような声を出さないで」
ため息のようなつぶやきに、小首を傾げる。どういう意味なんだろうと思っていれば、一織はまだ赤みが残った顔を陸へと向けた。
「……かわいい人だなと思っただけです」
「うん?」
「……それから、無自覚も度を過ぎればタチが悪いものだと」
「どういうこと……ん、ん、んんっ!」
予告なしに吸い上げるようなキスで、陸の疑問はすべて口腔内へと吸い込まれた。一織の舌が表面のつるりとした箇所を擦り上げる。何度か舌の上に唾液を落とされ、塗り付けられるような動きはもはやマーキングでもある。
ねばついて、ぬるぬると滑った。
「んんあっ……ぷあっ、いき、できなっ、ふあっ……」
「鼻でしてください」
キスは今日が初めて、若葉マークをつけた初心者になんて無茶を言うんだと思った。けれど一織の声はいつも以上に興奮していて、怯えかけた陸にわからせるように腰を押しつけて、揺さぶるから何も言い返せない。
混ぜ合わさったものが、口の端からほんの少しだけ垂れる。残り全て一織の舌が喉へと押し込み、数回に分けてゆっくりと嚥下した。唾液が無くなったら、しゃぶられて、啜られて、また飲まされる。何度かそれを繰り返したせいで陸の唇は腫れぼったく、口腔内は潤った。
理性的な一織の瞳は瞳孔が開き、ぎらぎら光っている。もう止められないことは、同じ男である陸も気づいていた。
「……するの」
「します」
選択権すら与えられない。あまつさえ、触ってほしいと言いましたよね? と少し前の発言を引っ張り出してくる。
「できるだけやさしくするように努力します」
「なんかずるい」
「でも嫌いじゃないでしょ」
「うん」
激しかった心音は少しだけ落ち着いている。
だけどまた再び激しくなるのだろうと思う。再び距離を縮めてきた一織に合わせて、陸はそっと目を閉じた。
カップ焼きそばの湯切りに失敗したら、プロポーズされました。
「っ、あ……」
べしゃ、と嫌な音を立てながらシンクの上に白っぽい麺が転がった。しっかりと蓋を押さえていたはずの指は容器の縁を強く掴んでいる。熱湯の重みと麺の重みで蓋があっさりと開いたのだろう。
濁った湯も零れ、乳白色ではなく若干茶色っぽい色をしている。何故だろうかと考えて、ちらりと目線を動かしてすぐさま答えに辿り着いた。
かやくはあるのにソースの小袋がない。
「最初から失敗してたんだ」
上蓋に書いてある作り方をしっかりと読み込んでいたが、うっかりかやくを入れるつもりがソースを先に入れてしまった。それから湯を入れて、きっちり五分待ち湯切りをしようとしたものの手が滑り今に至る。
「焼きそばの方々無駄にしてごめんなさい」
シンクに落としてしまったがため、もうこれを食べることは難しいだろう。手で落ちた麺をすくい空っぽになった容器へと入れていく。洗えば食べられるかと一瞬思ったが、陸の脳裏に住んでいる──しかも無断だ──一織が眉根を寄せたので即座にその考えを捨てた。
片付けてテーブルの上に乗せたままのビニール袋へと視線を向ける。あの袋の中にはもう一つだけ、先ほどお亡くなりになったものと同じカップ焼きそばが入っていた。
二個購入することで、同メンバーが密かに愛している、うさみみフレンズ──焼きそばフェスティバル──グッズの応募が可能となり陸は二つ購入したのだ。
別に興味ありませんが、と言いながらもカップ麺売り場をちらちらと見つめる一織の姿を思い出して陸は一人笑った。
ビニール袋からカップ麺を取り出す。
「よし、今度こそ完璧に作るぞ」
フィルムを剥ぎ、今度は蓋を慎重にめくっていく。さっきの焼きそばの蓋は豪快に開けてしまい、首の皮一枚と言ってもいいほどだった。
点線で止めて、かやくとソースを取り出す。
もう一度湯を沸かすため電気ケトルに水を入れ、セット後スイッチ入れた瞬間耳に馴染んだ静かな声がすぐ近くで聞こえた。
「もしかして二つ目ですか?」
「一織」
ビニール袋を擦らせながら購入した商品を一織は取り出していく。ケチャップ、玉ねぎ、インスタントのスープ。所定の位置へ片付けた一織は聞こえるように呟いた。
「……太りますよ」
「そんなに食べないから!」
湯切りに失敗した。だからまだ食べていないのだと早口で告げると、切れ長の瞳がぱちりと瞬く。少し驚いたような顔は大人びた一織を少し幼くする。
「何その顔」
「いえ、予想を裏切らない人だなと」
「一言余計!」
怒られるかと思いきや、一織は普通に失礼な言葉を述べただけだった。
ちょっとかわいいなと思った感情を撤回してしまいたい。
「七瀬さん」
「なあに?」
しゅんしゅんと音を立てて湯が沸いた。赤い電気ケトルを取って、容器の内側に記されている線まで熱湯を注ぐ。置き場に戻そうとしたらさっと一織が取り上げて、片付けてくれた。
そういうところがずるいと思う。さすが恋人にしたいアイドルランキングの上位にランクインした男だ。
「結婚しましょうか」
「うん……ん?」
時計を見て、五分後は何時何分なのか確認した直後に一織からとんでもないことを言われた気がする。
とりあえず十三時十七分になったら必ず湯切りをしようと心に誓った。
「ちょっと待って、何でオレプロポーズされたの」
「湯切り失敗したんでしょう」
「そうだけど」
「今後も七瀬さんは湯切り失敗する可能性が高いので」
「待って。オレが湯切り失敗したから、プロポーズされたってこと?」
一織の顔を見つめると真顔で、冗談やからかいでないことは分かってしまった。
けれどプロポーズとは一生の宝になるとも言われるもので、それが湯切り失敗したので結婚しましょうなんて、斬新な結婚詐欺かと思ってしまう。
それにじわじわと頬に熱が上がってくる自分とは違って一織は冷静な顔をしている。やっぱり詐欺なんだろうと思ってしまうくらいには。
IDOLiSH7のセンター詐欺に遭う、と週刊誌には書かれたくはない。
「もしかして結婚詐欺?」
「貴方、馬鹿なんですか」
「おまっ……仮にもプロポーズした相手に言う?」
「言いますよ。斜め方向どころか九十度回転されたんですから」
初めてのプロポーズでボケられたら怒りもします。
それを言うならオレだって、わけもわからない状況で初めてプロポーズされたんだけど?
同時に口を開いて、お互いの言葉はぶつかる。自分が言った言葉はわかるが相手の言葉はわからず、けれども聞き返す間抜けなこともできやしない。
「……なんで、このタイミングでプロポーズしたの」
「今が追い風かと思ったので」
──七瀬さん、いろんな言い訳を作っていたでしょう?
どきっとした。確かにそうだった。恋人の先は伴侶だ。付き合って七年目。同棲も現在進行形で行っており、あとは結婚だけだった。
もしも結婚してくださいと一織に言われたら陸は断ろうと思っていたのだ。
子供が産めないとか、身体が弱いとか、迷惑かけてしまうからとか。
そんな綺麗事を頭の中で述べては、一番の本音を隠していた。
「だって……置いていかれたらオレ多分もう生きていけない」
「置いていくと思ってるんですか」
「~っう、思ってないけど……」
一織は置いていかない。だけど、見えやしない影に怯えているのは陸の方だ。
永遠は存在しない。絶対はあり得ない。
流れ星に願っても叶わなかった願いは今も陸の心の中で小さな棘になっている。同じ体温が離れて行ったあの夜に現実はひどく手厳しいのだと知ってしまった。
「七瀬さん」
一織は何も言わない。
わかっているような、知っているような顔をしながらも黙って抱きしめて、あまつさえあやすように背中を撫でるから本当にずるいと思う。
乱れた呼吸が落ち着くまで一織は陸の背を撫でて、ときどき軽く叩いて、不意に何かに気が付いたかのように抱擁が外された。
ようやく馴染んだ体温なのに突然放り出されて、頬を膨らませると一織は困った顔でカップ麺を指す。
「湯切りします。今日だけじゃなくて、これから先も」
つまりそれは。
「……湯切り専門パーフェクト高校生ならぬ旦那様ってこと?」
「湯切りだけではなくて、陸さん専門ですね」
「そっかあ」
ドジでうっかりが得意な陸に最後まで付き合うということだ。
時計を見ると針はちょうど十七分を指している。
結婚を断るなんて選択肢はもうすでに陸の頭の中から消え去ってしまった。
それに陸だって、一織のことを愛している。こんな格好悪いプロポーズでときめいてしまうくらいには。
完璧な湯切りをして、ソースをかけて焼きそばを完成させた一織に陸は「オレのことちゃんと幸せにしてね」と囁いた。
ちなみにうっかりかやくを入れ忘れていたため、かやくは二袋余ることとなる。